2015年10月30日

幕府のキリシタンの処刑が火刑であった理由

元和の大殉教へ至る序章はまず火刑で始まる

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

末次平蔵とキリシタン村山一族

村山等安の長男、徳安の処刑

東洋医学史研究会
宇田明男






●裁かれるキリシタン村山一族


1618年、末次平蔵に訴追された長崎代官・村山等安は将軍秀忠によってその職を罷免された。



等安を敵視するイエズス会教区司祭であった荒木トマスの証言によって留めを刺されたのであった。


代官職罷免に至る経緯は劇的であるのだが、同時に非常に複雑な展開があるのでここでは割愛する。







結局、村山等安は彼に敵対する勢力による陰謀絡みの告発によって、代官職から引き釣り下ろされたのだった。


1618年10月末、この訴追の合間に新たに長崎代官に就任して長崎に意気揚々と舞い戻った末次平蔵と盟友長崎奉行・長谷川権六は、早速その強権を行使して厳しいキリシタン取締を次々と実施していった。




ここより等安罷免後の長崎におけるキリシタン弾圧の様相はすっかり様変わりしたわけで、ここで当時の様子を少し紹介したい。


まず大きな変化として挙げられることは、長崎周辺にそれまで信徒によって匿われ潜伏していた宣教師が次々と長崎奉行所によって捕縛されだしたことであった。


ここでも真の狙いは、村山等安一族の徹底した身辺探索であった。


潜伏する宣教師一人を密告した者には、銀の棒30本を褒賞として与えるという布告が奉行所から出された。


長崎奉行・長谷川権六は、それまで緩めていた網を手元へたぐり寄せるようにしていよいよ獲物の絞り込みに掛かったのだった。


これによって長崎に隠れ潜んでいた神父が幾人も捕まっていった。


そこでは捕縛した神父の日本人付き人に拷問を加えて情報を得ただけでなく、必要なら度々買収も行われた。


長崎でもキリシタンに対する拷問が日常化したのもこの時期である。




ついに1619年3月15日、奉行所の捕り方は等安の長男アンドレス徳安の屋敷に匿われていたドミニコ会のモラーレス神父を発見し、その場で捕縛したのであった。


モラーレス神父(1567〜1622)は1602年にマニラからドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来し京泊(薩摩)周辺で布教に従事していたが、1609年、迫害によって長崎に逃れてきていた。



長崎では村山等安とその一族によって経済的支援と、同時に教会建設などの宣教事業時の庇護を受けたのであった。


このことはサント・ドミンゴ教会の修道師の当時の記録にも残されている。


「私たちが長崎に入りそこに居ることが出来るようになったのは彼に負うところが大きいのであります。何故ならば、私達は新来者であり大きな反対を受けていましたから、彼の庇護がなかったならば、迫害の始まった後も前も私達は大変な苦労をしたでありましょう」


モラーレス神父は
1614年11月、幕府によって他の宣教師と共に日本を追放されたが、あらかじめ待機していた小舟で再び長崎に舞い戻ると、長崎代官:村山等安の長男・徳安の屋敷内にそのままかくまわれていたのだ。
 

注:徳安の家で逮捕され多直後は長崎牢に入牢、8月8日には大村の鈴田牢に移送された。 翌年3月25日には壱岐島の牢に移送されたが、牢内からも手紙や使いの者を介して神父として使徒職を遂行した。 1622年9月10日、長崎の西坂の丘で弱い火で火炙りとなる。
1867年7月7日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。



このとき当主の徳安は不在であったが、妻マリーアは直ちに夫に急を知らせて呼び戻した。


神父を匿っていた徳安もそのまま拘束され奉行所に連行されたが、この時点では徳安の妻マリーアはまだ捕縛はされなかった。


この結果、村山等安同様、禁令を犯した長男の徳安一家も厳しく罪を問われることとなる。






●村山・アンドレス徳安、ついに処刑される


末次平蔵の訴えと申し出によって、等安自身は将軍秀忠から長崎代官職を罷免されすでに甲斐へ追放されていたのであるが、さらに荒木トマスの証言が明らかになると、幕府は天領下での法令違反は重罪であるとして、元和5年(1619年)11月16日ついに等安らに厳しい死罪の裁断が下された。


11月19日、はじめに長男の徳安が長崎で火刑に処せられ、三男の長安一家は京都で斬首、12月1日には村山等安本人が江戸で斬首されてしまう。


このように処罰が進められた一方、長崎でも等安の妻や一族が次々と捕縛され、村山等安の屋敷と財産は長崎奉行所によってすべて没収された。


その結果、一族13人が連座して罪を問われ、下はわずか2、3歳の幼子(等安の孫)までもが刑場に引き出されて処刑されるという痛ましい悲劇が起こる。


ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、等安の家族について次のように書き残している。


「等安は誠実な妻ジュスタと結婚して先ず次郎八(徳安)という名の息子をもうけた。次に現在サン・アントニオ天主堂ミサ司祭主任代行司祭をしているフランシスコ(仲安)をもうけ、やがて長安という三男が生まれ、今はこの妻との間に息子が八人か九人、娘が二人いる。成人した子供達はみな誠実で善良なキリシタンであり、年少の子供達は美しく愛らしい」


また、サント・ドミンゴ教会の修道師の記録には次のようにある。
「これらの徳の高い兄弟が最も心を配っていたことは、長崎の教会を増大することでありました。教会のあった時代にはたびたび教会に行ったし、教えの組ロザリオの組に顔を出して、総ての人々に立派な模範を示しました。迫害の時に当たっては常に諸パードレを何処に如何に匿うか、過酷な迫害に対して、如何にすればキリシタンが耐えていくことが出来るかということを、彼ら兄弟の間で相談し努力していました。また数多くの問題について父親に協議しましたが、代官としてまた父親として説得に努めたのでしょう。子供達は父親の援助と努力によって数多くの問題、特に聖行列や前述の教えの組の諸事を立派に果たしました」




捕らえられていた等安の長男アンドレス徳安の処刑が決定した直後、11月14日に長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵らは訴訟に勝利して江戸から長崎に意気揚々と凱旋した。


16日には捕らえられているキリシタン信徒たちに刑が申し渡され、19日に火炙りの刑に処せられた。


このとき処刑されたのはアンドレス徳安だけでなく、パジェス「日本切支丹宗門史」によると、
「長崎奉行長谷川権六は四人の宿主、すなわちドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主村山徳安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主吉田秋雲、オルスッシ神父とヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父の宿主コスメ武谷、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主、ポルトガル人でサン・ドミニコの第三会のドミニコ・ジョルジを犠牲者として選んだ。」と記述されている。



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元和5年(1619年)の長崎でのこの火刑による殉教の様子が油彩画で描かれて残されている。


このときの処刑は、当時としてはもっとも厳しい火刑であって、村山徳安を含めて5人の殉教者を出している。


400年近く以前のこの迫害事件は長崎中のキリシタン宗徒にとっては衝撃的なものであり、当時の火炙りによる処刑の様子がこのように歴史絵画として記録されていることになる。


ここでははっきりと特定できないが、画像に描かれている5人の殉教者のうちもっとも左側の白装束の人物がおそらくアンドレス村山徳安である。(画像は元和5年の殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)


当時すでに捕縛され入牢していたパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレス徳安が役人の取り調べにおいて、「私はキリシタンであり、私自身および人々の霊の救済に努力してきた。それだから人々を救済に導くことを仕事としているパードレを私の家に置いたのである」、と答えたということが記されている。


アンドレス徳安の言葉には、最後まで命を賭してモラーレス神父を護ろうとする決意がいかに強固なものであったかが示されている。


さらに彼は処刑当日に、モラーレス神父に対して次のような手紙を書き送った。


「尊師のことが原因で、いま私が神への奉仕を終わることを深く尊師に感謝致します。マリーア(妻)とパプロ(長男)を尊師(の祈り)におまかせします。神のお恵みにより天国に於いて、尊師のためにキリストと聖母およびドミンゴに祈りましょう。 十月十二日(1619年11月18日) 村山アンドレス・トクアン」


処刑される当日、彼は白装束を身につけ妻のマリーアや兄弟、親族に別れを告げた。


徳安と妻マリーアの間には、この年に生まれた長男パプロがいたが、マリーアは幼いパプロを抱いたまま刑場まで付いて行った。 (注)村山家文書によると、パプロは母マリーア・村山が殉教した後、病死したという。



パードレ・モラーレスのアンドレス・徳安の処刑に関する書翰の最後には、次のように書き遺されている。


「彼の霊は焔によって清められ永遠に神の御恵みを受けるために天国へ昇りました。時に1619年11月18日。
直ちに人々が遺体を引き取りに行きましたが、それが出来ないように、完全に焼かれて灰のみが残っていました。キリシタンはそれを集め、著名な殉教者の聖遺品のようにこれを尊敬の念を以って保存しました。彼の妻マリーアは息子のパプロを抱えて、この聖なる光景の場にずっといましたが、神が見守り給うが如くに聖なる死を夫が遂げるのを見つめていました。心に神の御恵の深きことを喜び、大きな幸を得る希望を抱いてそこを去りました。それから間もなく、彼女は俗世を棄てるため髪を切りました」





当時のキリスト教背教者の火刑の様子





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削除されなければ、この稿続く。




参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学









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ラベル:村山徳安
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2015年10月29日

島原動乱の歴史隠蔽事情の背景を考察する(1)

隠蔽された島原大乱

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ

いまさら歴史認識がどうした?

貧農一揆集団と討伐精鋭軍団との最初の激闘
最強の傭兵軍団が幕府軍を迎え撃つ!?
幕府軍側に4000名の犠牲者が出るという不都合


東洋医学史研究会
宇田明男





●反乱勢の鉄砲二千丁による抵抗とは

島原の原城に籠城した貧農一揆勢に対して、幕府からは乱鎮圧のためまず上使として御書院番頭の板倉重昌(三河・深溝藩主)が派遣されていた。

ところが幕府の討伐軍は原城を包囲しただけで、篭城した反乱勢と対峙したままで容易に攻略することが出来ず1ヶ月以上経過していた。

この間にも九州諸藩からは続々と精鋭の軍兵が送られてきており、原城を囲むようにして布陣し板倉の指示に従って多方面から攻撃を仕掛けていた。

だが何度かの総攻撃も反乱勢の巧みな鉄砲攻撃にその都度撃退され、幕府側は攻めあぐねていたのである。

意外なことに反乱勢側は予想外にしたたかであった。

これに号を煮やした幕府側は、ついには第二陣として老中・松平伊豆守信綱を援軍として派遣する事態となる。

まさしくこれでは幕府の初動時における差配そのものが失敗であって、ここにきて幕府の威信にも拘わる様相を呈してきたのであった。

幕府上使役の板倉重昌は京都所司代であった板倉勝重の次男であるが、父親の勝重はかって長崎代官村山等安の息子、ジョアン・パブロおよびペドロを京都で処刑しているわけで、役目柄とはいえここでも反キリシタン側としての因縁が絡んでくることになる。

新たに老中・松平伊豆守信綱が派遣されたとの知らせに板倉重昌は驚くと同時に苦しい立場に立たされることとなる。

まさしく武士としての面目が立たない状況である。

松平信綱が到着する直前の1638年1月1日、立場上窮地に追い込まれた上使板倉重昌は手勢の兵を率いて、ついに決死の覚悟で城突入作戦を敢行する。

これに呼応して諸藩も追随して次々と籠城する反乱勢に攻撃を仕掛けた。

板倉重昌が自ら先頭に立った壮絶な吶喊攻撃であったが、反乱勢の激しい反撃で忽ち額を打ち抜かれてあえなくその場で討ち死にしてしまい、ここでまたしても幕府方は敗退してしまうのである。

 (注:)この戦闘で、板倉重昌は乳下を射抜かれて戦死したという説、反乱側が投げ落とした大石に潰されて即死したという説がある。このときの辞世の歌「新玉の 年の始めに 散る花の 名のみ残らば 先駆と知れ」が残されている。

これは「百姓一揆」を殲滅すべく果敢に攻撃を仕掛けたところ、意外や意外幕府側総大将がいの一番に敵の銃弾に打ち抜かれてあえ無く討ち死にしてしまったということである。

幕府軍総大将が討ち死にするなど、この時代にあっては不名誉この上ないことであろう。

これは前例のない、それこそ前代未聞の椿事であった。

それもここでの戦闘は、討伐軍は闇雲に槍、刀で力ずくで攻め寄せて行き、それを相手の反乱軍が新式鉄砲で果敢に応戦するというおかしな戦闘図式である。

貧農による反乱で、討伐側が鎮圧するどころか逆にその戦闘で致命的な反撃を被るのである。

この戦闘での幕府側の戦死者は4000人、対する反乱勢側の死者はわずか90人ほどであったとされる。

その事実が幕府側の「徳川実記」に記述があると言うので、わざわざその部分を探し出して確認してみた。

出典を確かめてみるとやはりそれが事実であったことが分かる。




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この戦闘力の差をどう見るかである。

短期的な戦闘状態でありながら、一方的にこれだけの兵を一度に失うような戦いはそうざらにあるものではない。

まさしく、こういうのを無謀な万歳攻撃というのである。

敵に勝る兵力で攻め寄せながら逆に壊滅的打撃を蒙ったということは、そこに何らかの圧倒的な戦力の差、もしくは攻める側に作戦指揮上の重大な欠陥があったということになる。

こうして見るとそれまでの強引なだけの討伐軍側の攻撃は、ことごとく反乱勢の猛烈な火力の前に蹴散らされてしまっていたのである。

幕府はここにきて反乱勢の巧みな西洋式戦法と2千丁の圧倒的な鉄砲の火力とを見せつけられたことで、ようやく事の重大さに気付かされたのである。

明らかに幕府討伐勢よりも、反乱勢の方が鉄砲戦術に長けていたのである。

こうなると誰もこの戦いを「百姓一揆」を相手にしているなどとは口にしなくなるのである。

それこそ幕府精鋭軍団が「百姓一揆」を相手にして無様に惨敗したとは言えたものではあるまい。

この事実を見ても、幕府方が対戦している相手がただの百姓一揆勢などではないことは誰の目にも明白であったろう。

相手が討伐軍さえもはるかに凌駕する強力な戦闘力を持っているわけだから、どうみてもこれは未曾有の大乱そのものであって、彼らが対峙しているのは手ごわい反乱軍勢力という認識に立つべき状況であったと言わざるを得ないはずである。

ましてやここで天草・島原の乱を百姓一揆などと決め付けるのは、それこそ姑息な歴史的欺瞞でしかない。


ようやくここに至って、幕府も慌てて九州諸藩より急遽さらに増援兵力を集めて一気に総勢12万5千もの軍容に拡大した。

貧農の反乱に12万5千の討伐軍とは、にわかには信じられないところである。

そうした中で討伐軍側は1月近くの戦闘によって、すでに手持ちの弾薬が不足するという予想外の事態も発生してくるのである。

幕府側の弾薬が底をついて攻撃にそのもの支障が出てきたというわけである。

この討伐に大量に投入されたはずの弾薬が不足しだすとは可笑しな展開である。

何故に想定以上の弾薬がここで必要となるのか?

結局のところ、次々と兵站を大量投入するなどこの戦に費やされた軍事的エネルギーそのものの規模は、かっての関が原の合戦や大坂の陣どころの話ではなくなってくることになる。

籠城する一揆勢に対抗するには、鉄砲弾薬が必要であった。

これは幕府側にとってまったく想定外であったのだ。

それまでの国内で繰り広げられてきた戦闘様式とは異なる、まさに西洋式の異国のキリシタン勢力を相手にしているという認識に立つべき戦闘であった。

十数万の軍兵が衝突した大規模な戦闘といってもその戦死者の数だけを単純に比較するなら先年の関が原合戦は短時間で終結して、その犠牲者数も7000人ほどのものであったはずである。

根底からしその戦闘規模が異なるわけである。

篭城した原城内の反乱勢の士気はたかく、その中心となる戦闘要員そのものは実質8千人規模であったといい、これに対して実に15倍近い幕府方兵力が原城周辺に続々と攻め寄せていた。

反乱勢は僅か8000人余りの戦闘員でありながら、幕府側討伐軍を迎え撃っだけの装備と戦闘力を養っていたということになる。

4000人の犠牲者を出す戦闘形態とは一体何であろうか?

迎え撃つ反乱勢の戦闘力の実態とはどう捉えればよいのか?

20世紀のランチェスター戦略の戦闘シュミレーションモデルや軍事理論を持ち出して逐一検証したとしても、兵員数の差からしてこれは予想をはるかに凌駕する驚くべき戦闘能力である。

まさしく最強のキリシタン傭兵部隊そのものが、幕府討伐軍と対峙していたのである。

ここらは歴史認識としては正面から論じられることはない部分でもある。

弾圧される天草島原の貧農キリシタン信徒らが大量の鉄砲弾薬を装備していることは歴史教科書で表記するには不都合でしかない。

肝心のそうした大量の鉄砲弾薬の備蓄がこの地にあったこと自体が不都合なのだ。

しかも一揆勢が並はずれた戦闘能力を保持していたとなると、不都合どころかここから先はどうにかして隠蔽せざるを得ないことにもなる。

結局、これだけの軍事的衝突ないしは戦闘を無理に百姓一揆の範疇に留めておこうとする欧米歴史観そのものが、歴史隠蔽もいいところであって、ここらはあまりにも姑息過ぎると言わざるを得ない。

幕府側はこの大乱鎮圧に対して、最終的には16万を超える討伐軍を送り込んでいる。

その間の戦費そのものは四十万両であった。

とにかく反乱鎮圧にこれだけの大規模な軍勢を投入した合戦記録がありながら、歴史上はそこらの一揆扱いとはまったくもって笑える話である。

幕府の討伐軍の要員として近郊の農民も多数駆り出されていたわけで、それこそここでは農民が農民一揆を攻め立てる側に付いていたのかというおかしな展開も出てくる。

少なくとも地元九州人の感覚としては、天草島原の乱が単なる百姓一揆であったなどとは到底思えないわけで、そこらは歴史認識以前の話である。





削除されなければこの稿続く









参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著







































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    ラベル:島原の乱
    posted by モモちゃん at 09:11| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年10月27日

    明智光秀が織田信長の野望を打ち砕いた理由

    「九州から戦国・本能寺の変を考える」

    いよいよ佳境に迫る!?



    光秀は、何故僅かな手勢で戦略なき無謀な負け戦に手を掛けたのか?

    戦国時代に引き起こされた本能寺の変は、まさに突発的な大事件であった。

    その首謀者である明智光秀についてもこれまで数多くの説が立てられ論じられてきたが、九州から遠く離れた京の都において展開されたこの事件の本質と謎について今回新たな挑戦を試みてみた。

    光秀の戦略の狙いはどこにあったのか?

    本能寺の変は、意外にも信長の覇権をめぐって九州の豪商の思惑が少なからず絡んでいた。

    それが、この事件とどう繋がっていたのか?

    このとき信長は、奇しくも盟友家康の暗殺を本当に企んでいたのか?







    本能寺の変を真横から考える(1)

    何故に光秀の戦略は潰えたのか (2)

    信長は家康の暗殺を企んでいたのか(3)

    イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは(4)

    何故光秀は信長に反逆したのか(5)

    明智光秀の謀反の真相とは(6)

    徳川家康は謀反の光秀主従をどう評価したのか(7)


    光秀の戦略と大きな誤算とは何か(8)


    細川家の対処から見えてくるものとは何か(9)










    denden 











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    posted by モモちゃん at 15:31| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年10月24日

    アニメの世界から現実に創り出される物がある

    空を自在に駆けるタケコプター

    空を飛ぶというのはロマンがあります。

    そしてそれがアニメの世界を現実化させるとなると、そこには新たな夢世界が次々と広がっていきます。

    そうした夢の飛行物体を集めてみました。



    VF-1 Valkyrie(バルキリー)を飛ばしたい、感動の初フライト

     







    【ナウシカの飛行機『メーヴェ』を本当に作った日本人】海外の反応は大賞賛の嵐「感動で泣きそう…」Japanese made a real 'Mowe' of anime the Nausica.

     







    フラップター:Flaptter19-8 of Castle in the sky Flight with New wing

     






    タケコプター

     











    denden














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      ラベル:タケコプター
      posted by モモちゃん at 09:00| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2015年10月21日

      人類の最初に移住する惑星は火星である

      人類火星移住計画は絵空事なのか?

      遥か彼方の宇宙空間にある太陽系の惑星である火星の探索活動が続けられていますが、頻繁に異様な物体や生命体に類似した形状物が地表面で発見されてきているようです。

      いまのところ画像が不鮮明なまま公開されているようで、はっきりと特定はできませんが、それでもどうやら火星には何らかの生物の痕跡があるようです。

      おそらくここらは大きなプロジェクトを計画している国の戦略に関わる機密であろうと思われます。

      むやみと、一般人に知らされることはないということです。

      人類の火星移住計画もあるようで、生存に必要な水の確保や食物の生産活動のための研究が進められています。




      NASA撮影、火星に生息する謎の生物に世界が震撼A

       






      火星で撮影された有りえない画像 Image which can not be there taken by Mars

       






      【都市伝説】 NASAが火星に生命体を発見していた?








      火星でUFOが見つかる

       






      衝撃!火星探査機キュリオシティがとらえた火星人?のUFO!

       






      2014年火星上最佳發現 !!

       











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        posted by モモちゃん at 11:03| 歴史を先取り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

        2015年10月20日

        高速道路の渋滞原因は出口のETCか信号機か?

        本日のニュースによると、「ETC、バーがなければ渋滞緩和? 効果大なら撤去も

         高速道路の渋滞の一因ともいわれる料金所のETC(自動料金収受システム)のバーをなくすと、どれぐらい渋滞が減るのか、全国で初めての実験を国土交通省が始めました。」とさ。

        バーではなくて、出口部分直前の信号機が原因だろうが。


        高速を降りた後のことまで知ったことか?


        高速道路を走っていると突然出口付近で渋滞に突入して、しばらく渋滞が解消しないことがあります。

        車両事故が発生したのかと、急いでいるときなどは慌てることがあります。

        特に普段はそれほど車両が多くない場合は目立たないのですが、高速道路の構造というか設計ミスが原因で行楽時の観光地近くは決まって渋滞を発生し易くなっているケースがあります。

        ここらは高速道路を管理する公団と一般道との位置関係などはあまり考慮されていないようなシステムになっているのではないかとも思われます。

        多くの場合、高速のインター出口で渋滞が発生しているわけです。

        これが縦割り行政というやつで、それぞれに権益や権限が分割されて管理がされているため起こる弊害だと思われます。

        たとえば素人目でもこれは設計ミスだろうが、という状況にも度々遭遇するわけです。

        近年は料金所でのETCのシステムが整備されてきているわけですが、たとえばそのETC効果を台無しにしてしまうような状況もあるわけです。

        高速道路の出口で渋滞が発生する場合など、一見ETCが故障したのかと思えるような可笑しな現象が発生します。

        それは高速道路の出口の真前に十字路があって、そこには当然のごとく信号機が設置されているからです。

        高速道路の出口を出た途端、その信号機が赤であれば当然車両はそこで一旦停車します。

        前の車両が止まれば後の車両も次々と停車するわけです。

        ETCシステムがあろうとも前方の信号で停車させられれば、そこで交通の流れが止まって高速出口で車列の渋滞が発生します。

        これだと二重に検問が並んでいるのと同じわけで、何のためのETCなのかと言いたくなります。




        画像は観光地大分県湯布院インター出口前の信号機

        高速出入り口真ん前に信号機が設置されている。
        RIMG3002


























        denden















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          ラベル:ETC
          posted by モモちゃん at 21:26| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

          2015年10月17日

          戦国の日本人傭兵は消耗品扱いであった(7)

          戦国の拉致被害者はまさに消耗品

          学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
          いまさら歴史認識がどうした?

          アジアに奴隷貿易はなかったはず?
          原爆の悲劇とて、400年も経てばきれいに忘れ去られるって本当?
          新聞も教科書も絶対書かない戦国の性奴隷(sex slaves)の実態!!

          東洋医学史研究会
          宇田明男



           


          ●アジアにおける日本人奴隷の実態




          当時、ポルトガル商人は争って日本人の女奴隷をアジアで買い漁っていたという事実がある。


          商人にの下僕や使用人、輸送船の水夫までが、そうした日本人奴隷を安価でたやすく手に入れることができた。


          ポルトガル人などの南蛮諸国の白人の間では、日本人の女奴隷は特に珍重されていて、中国マカオなどの奴隷の集散地や市場でもアジアの女性の需要が特に多かった。






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          (注:)「葡萄牙(ポルトガル)の商人は勿論、其の水夫、厨奴(ちゅうど)等の賤しき者迄も、日本人を奴隷として買収し、携へ去つた。而(しか)して其の奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼等を無闇に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に篭居せしめ、而して其の持主等が、一たび病に罹るや――持主の中には、葡萄牙(ポルトガル)人に使役せらるる黒奴も少なくなかつた――此等の奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食料さへも、與(あた)へざることがしばしばあつた爲である。此の水夫等は、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にて其の醜悪の行ひを逞(たくま)しうして、敢て憚(はば)かる所なく、其の澳門(マカオ)歸航(帰航)の船中には、少女等を自個の船室に連れ込む者さへあつた。(徳富蘇峰『近世日本國民史』より再引)


          前述したように、中国人や日本人の女性だけを満載した大型のガレオン船がマカオやマニラを拠点として、そこからアカプルコ、ゴアを経由する定期航路を経てヨーロッパ市場へと続々と輸送され売られていった。


          中国人奴隷がもっとも早い時期から売買され始め、1555年当時からそれ以降、九州各地から人買い商人によって奴隷要員は集められるようになり、通商航路の中継地である中国のマカオがそもっとも大きな集散地となっていた。


          (注:)中国マカオのアジア最大の奴隷市場は明治維新直後、佐賀藩出身の副島種臣外務卿(外務大臣)が奴隷を解放させたが、国際裁判に訴えられるまで事実上存続し続けていた。





          日本人にとっては奴隷という概念はきわめて希薄である。


          奴隷制度というもの自体過去のものとして捉えてしまうことも確かであるが、一般的な社会通念として意識されることは無いに等しい。



          第一、南蛮との交易で奴隷が売買され商品として扱われていたという事実さえ理解できない場合が少なくない。



          戦後の教科書はもちろんのこと、巷の書籍にさえほとんど記述が無いわけだから、そうした理解の及ぶ範疇には置かれていないということであろう。


          (注:)「ポルトガルの東洋貿易の根拠地はインドのゴアで、ポルトガル商人はゴアからマカオにきて、銀貨、油、ぶどう酒などを日本向けの商品である生糸、絹織物、砂糖などに積みかえ、季節風に乗って、6月、7月ころ日本をおとずれた。かれらはこれらの商品を、日本の銀や奴隷と交換し、秋から冬にかけて明に向かい、明で商品を購入してインドからヨーロッパに帰った」 (玉川百科大辞典 / 玉川大学出版部編 ; 第13)日本歴史 / 玉川治三編 P244 誠文堂新光社, 1960)




          少なくとも、ここでいう奴隷とは人間扱いされない意味での奴隷であって、家畜売買のそれと同等の意味ということであることをここでははっきりと確認しておかなくてはならない。



          この時代の奴隷とは消耗品と同等であった。


          そうした奴隷は、最終的には買い入れられた価格の10倍以上の値で転売されていて商品としての利幅が大きかったが、輸送時に熱病などで死亡すればゴミ同然に海中に放棄された。


          そうした劣悪な環境での輸送では奴隷の死亡率はきわめて高く、航海が長い場合は3分の1から4分の1が死亡しそのまま廃棄された。



          bai


          悲惨な状況は、こうした事実だけではない。


          当時ヨーロッパ諸国では、イタリア戦争(1521〜1544)以降、性病である梅毒が都市部で猛烈な勢いで蔓延してきていた。


          それまで知られていなかった病ということで、予防法も治療法もなかったため、王侯貴族や僧侶などあらゆる階層にまで瞬く間に広がっていった。


          当初、ヨーロッパでは梅毒はナポリ病といわれ、また日本では瘡毒、黴瘡、楊梅瘡、唐瘡、琉球瘡と呼ばれて海外からもたらされた伝染病として恐れられていた。


          コロンブスが新大陸からその病原をもたらしたとする説があるが、アジアでも南蛮貿易航路の各中継港を経由してすでに16世紀初頭には日本の長崎や琉球にまで伝播してきていたのである。




          日本の種子島に鉄砲が伝来したのが天文12年(1543)であったが、コロンブスが新大陸より持ちかえった梅毒そのものはその鉄砲弾よりずっと早くに大陸経由で日本上陸をすでに貫徹していたことになる。



          「黴瘡軍談」(天保9年・船越敬祐)に記されているように、この日本への伝染経路については異国よりまず長崎の遊里に侵入したとされる。



          別の説では1512年、それは関西地方にまず発現したともいわれ、性的奴隷であった女性たちはこれに次々と冒されていった。


          事実こうした奴隷貿易では、鉄砲と火薬、それと性病である梅毒とがセットになって移入されてきていたというべき状況であった。



          奴隷貿易が盛んになると同時に奴隷船の寄港地の港やその周辺で売春宿が増え続け、感染力の強い梅毒が広がり続けた。


          ここで注目されなくてはならないことは、当然のごとくそうした非人間的扱いを受けた女性たちの多くがこうした性病に罹患したこともあって、きわめて短命であったことである。


          当時はまだ医療も未発達であったことは勿論のこと、そうした悲惨な奴隷の身上で性病や結核、マラリアといった風土病に感染してしまえば到底生き長らえることなどできなかった。


          大抵若くして歯も抜け落ち、その平均寿命も25歳にも達しない年齢でほとんどが病死するのである。


          よく耳にすることであるが、このように多くの日本人奴隷が実際に海外に送られていったのであれば、現地に相当数の子孫が残っていたのではないか、一体彼らはどこへ消えてしまったのかといった悠長な議論などはこうした事実の前ではまったく見当外れということになる。


          こうしたアジア地域の奴隷はどこまでも家畜同様の消耗品としての扱いであって、運よく子孫が残ったケースなどは稀であったということなのだ。


          それは女性に限らず、日本人の男性奴隷の場合も同様に過酷な扱ということでは何の変わりもなかった。







          ●使い捨ての日本人傭兵の様相
           
          一方では日本人男子も当時の東南アジアのバタビアやインドなどの植民地での戦闘員、少年兵、傭兵としての需要が少なからずあった。



          そうした需要に応えるようにして、戦国の日本からは相当数の戦闘要員が海外に進出してきていた。



          本人の意思で海外に渡航した者もいれば、奴隷として売られてきた者もいたわけで、彼らは勇敢な戦闘要員として需要が集まった。


          当時のポルトガルの植民地政策によって、それらの重要な拠点には城砦などの軍事施設があり、相当数の兵士が常駐していたのである。


          日本人傭兵がそうした地域の戦闘や争乱に、頻繁に戦闘要員として駆り出されていたことが記録に残されている。


          ポルトガルによって占領されたインドのゴアの要塞では、特に勇敢で好戦的ということで、度々襲ってくる原住民と戦う庸兵としても多くの日本人奴隷が使われていた。







          goa



          ここでも傭兵はまったくの消耗品であり、いくらでも市場から供給できる状況にあったので、ゴアでは一時期白人より日本人が多く居住するような状況であったという(右はゴアの要塞古地図)


          しかも当時のゴアは火薬の原料となる硝石の一大産地であったから、採掘労働者としても日本人の奴隷が従事させられていた可能性も否定できないところである。


          日本人の傭兵は勇敢であったが、敵に対して果敢に攻撃を仕掛けるなどして戦死者数が多数出ることで、戦闘ではもっとも消耗が激しかった。



          そのため各地に進出していった日本人の武士団は、多くの戦闘によって短期間のうちに消滅していった。


          奴隷商人はそうした需要にも十分応えたことになる。


          それに関連した当時の記録文書が残されている。


          「今までに行われた売却は、日本司教の書面による同意を得て行われた。(中略)彼ら(日本人)は非常に好戦的な国民で、戦争のためや、攻囲にあるいは必要に際して奉仕をする。少し前に、オランダ人たちのためにその必要が生じた際に見られた通りである。ゴア市から1 人の妻帯者 が、鉄砲と槍を持ったこれら従者7、8 人を従えて出征した。というのはインディアにおいては、兵役を果たすことの出来る奴隷は日本人奴隷だけだからである。ゴアの如き大都市では、その城壁の守りのために必要な兵士に不足することがしばしばあるのだ。 (1605 年、ポルトガル公文書148・「大航海時代の日本」高瀬弘一郎訳註)


          こうした日本人の奴隷(建前は傭兵)は、ヨーロッパ市場より格段に安く買い取ることが出来たため、(それこそ牛馬以下の安値で取引されていたので)ポルトガル人はアジア地域の奴隷貿易でも莫大な転売益を上げることができた。




          しかも奴隷売買に必要な輸出許可書(同意書)は、仲介業務に携わるイエズス会がすべて発行するわけである。


          日本人の中には自らの自由意思で海外に渡航していった者も少なくはなかったが、もしそうであったにしても一旦外国船に乗れば輸出許可書(同意書)が彼らの体に添付されたも同然であった。


          渡航費用が工面できない者も、後先も考えずに自らを奴隷として売ってまでして海外に進出していった。


          南蛮人がいう渡航時の同意書、契約書の類いとは、彼らの輸送管理下に置かれる以上はもとより日本人は奴隷同然の扱いであって、大抵が形式的なものであった。



          黒人奴隷の場合は、アメリカやカリブ海域に運ばれてそこで売却され、その転売益で現地で砂糖や綿花、香料、鉱石などの原材料を購入してヨーロッパに持ち帰るのであるが、この時の奴隷交換レートは通常、男の場合はラム酒100ガロン(1ガロンは4.5リットル)、女だと80ガロン、子供は100人が一つの単位となり、銃5丁、あるいはナイフ7振り、鉄の地金21個などに交換された。


          少なくとも日本人男子の交換レートそのものは、女性よりもはるかに安価で取引されたはずである。








          <削除されなければこの稿続く>




          参考資料:
          「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
           1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
           2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
           3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
           4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
           5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
           6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
           7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
           8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
           9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
          10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
          11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
          12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
          「豊臣秀吉と南蛮人」朝文社 松田毅一著
          「夢のまた夢」 文芸春秋社 津本 陽著
          「大分の歴史(4)キリシタン大名大友宗麟」(渡辺澄夫編著、大分合同新聞社)
          「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
          「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
          「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
          「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
          岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)
          「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店










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          ラベル:日本人奴隷
          posted by モモちゃん at 08:38| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

          2015年10月16日

          南蛮に買い叩かれた戦国日本人奴隷(6)

          西洋のビジネスモデルがアジアをも席巻した

          学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
          いまさら歴史認識がどうした?

          当時は、アジアの奴隷取引が当たり前だった
          西洋の奴隷供給の時代背景
          戦国日本でも新たな奴隷種が発見されていた


          東洋医学史研究会
          宇田明男




          ●奴隷取引を容認した当時のローマ教会


          ポルトガル商人はアジア地域を始めとして、日本などの綿密な市場調査(マーケティング)を行った結果、鉄砲や火薬といった軍需物資の輸入や日本人奴隷を扱った人身売買で大きな転売益を獲得するようになっていった。


           ヨーロッパ諸国の商取引ではすでに人身売買が大々的に行われていたわけで、西洋人の参入によってアジア地域全体にも奴隷流通ルートと市場(マーケット)とが瞬く間に形成されていった。


          これによってアジア地域にもいままでにない規模の奴隷需要が生まれ、それまで放置されていた戦争難民や捕虜に特別な価値が付加され頻繁に取引されだしたのである。


          それらの奴隷は中国大陸沿岸の各地から海上ルートを使って移送されることもあって、それには多くの倭寇(海賊集団)が取引に参入してきた。


          マカオの奴隷市場でも、多くの場合男性奴隷より女性の奴隷の需要が高く取引にも反映されていた。





          そうした女奴隷は日本人だけでなく中国や朝鮮半島からも買い集められてきたもので、その多くは東アジアの集積地であるマカオの奴隷市場に一旦集められると、そこからガレー船で東南アジアのマニラやアカプルコ、インドのゴアなどの南蛮の植民地を経由して遠くはポルトガルなどのヨーロッパ市場にまで海路で次々と移送転売されていった。





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          奴隷貿易ルートそのものは、このようにして一気にアジア地域のマカオからヨーロッパのリスボンまで続く通商航路上に出来上がった。(右画像は、17世紀初頭の奴隷貿易の拠点マカオ)


          当時はイエズス会の神父たちもそうした奴隷を自ら買い取り下僕として所有していたので、商品としても扱いなれていたのは事実である。


          織田信長は日本に渡来してきたイタリア人のイエズス会宣教師から黒人の奴隷を譲り受け、弥助(ヤスケ)と名付けて武士の身分を与え家来にしていたことはよく知られている。


          その詳細は太田牛一がまとめた「信長公記」に記述があるが、それによると巡察師ヴァリニャーノが1581年上洛して信長のもとを訪れたとき、従者として若い黒人奴隷を連れていたのだ。


          「きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢26,27と見えたり。その身の黒きこと、牛の如し。かの男、健やかに、器量なり。しかも強力十の人に優れたり」と、そこには記されている。


          奴隷であった弥助は武士として信長に仕えて本能寺の変に遭遇したが、そこで負傷した彼は明智光秀によってその後京都の教会に預けられたという。



          キリスト教の教会がこのように奴隷取引を仲介することを怪訝に思われるであろうが、これは当時聖俗の支配権を持っていたローマ教皇が正式に承認した当たり前の世界的規模の商取引(人身売買)でもあった。


          現代風にいえば、西洋様式のスタンダードなビジネスモデルということになる。


          奴隷取引は、1455年、ローマ教皇ニコラウス5世が勅書によって認めた教皇の代理人(国王やイエズス会教会)らの特権でもあった。


          その特権の具体的内容とは、ローマ教皇の代理人として征服した土地の所有を宣教師に認めるだけでなく、そこで法律を作り、税金を課し「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」、「非キリスト教徒・異教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することをローマ教皇の権威によって正当化したものであった。


          これによってキリスト教国ポルトガルは宣教師を介在させた宣教事業として、軍隊や奴隷商人を海外へ送り出し戦略的植民地政策を独占的に推し進めていくことができるようになった。
           
          さらに俗悪さで知られたボルジア家出身の教皇アレキサンドル6世らがこれに追随して、神学的に奴隷制度を正当化し容認したこともあって、イエズス会はこれを足掛かりにして海外に布教戦略を展開していった。


          1455年にポルトガルに授与された勅書に続いて、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493年)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布した。


          その内容を「カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)」−西山俊彦)より引用。


          (引用開始)「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」(引用終わり)





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          いち早くポルトガルのリスボンには政府機関として奴隷局が創設され、奴隷商人に対して貿易許可書が発行されるとともに奴隷市場が出現した。(右画像は、教皇アレキサンドル6世(1431〜1503))


          人間を奴隷化したり奴隷として扱うことは、西洋社会の古くからの文化であり宗教的にも普遍的なものと考えられていた。


          聖書にも 「男女の奴隷が周辺の国々から得たものである場合、あなたはそれを奴隷として買うことができる。(中略)財産として受け継がせ、永久に奴隷として働かせることも出来る」(レビ記・25・44〜46)とあるだけに、当時の南蛮諸国の人間には奴隷売買には何の抵抗もなかった。


          西洋世界では、戦争に付随して奴隷取引そのものは古代より征服者と被征服者の間で当たり前に行われていたものである。


          戦場で捕虜が確保されれば、すべて勝者の戦利品として扱われていた。


          「そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。 ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。」(旧約聖書・20章)


          これがいわゆるキリスト教圏の基本的な考え方であって、この思想が連綿と続いていたということに他ならない。


          敵や異教徒に対する戦争、侵略そのものはキリスト教徒にとっては一つの正当な愛の行為として普遍的なものであった。



          「このような戦争に於いては、敵を征服するまで、安んじて戦争の慣わし通りに殺戮し強奪し放火しあらゆる災害を敵に加えることが、キリスト教的であり、愛の行為なのである」(マルティン・ルター『現世の主権について 他二篇』吉村善夫訳 77頁参照)








          ●奴隷化される人間、対象となる人種が存在していた


          征服した土地、あるいは渡航先で奴隷売買が行われる際には、宣教師らはその仲介取引を行い莫大な転売益が得られることで、教会の宣教事業を資金的にも支えることができると考えた。


          強力な保護権によって、宣教師にはそうした売買に参画し主導する特権があったのである。


          もとより売買される奴隷は、人としての自由が拘束され虐げられるわけだが、日本人の考える奴隷と西洋人が考える奴隷とはまったく異なる扱いがされていた。





          日本での人身売買は年季奉公的ニュアンスが強いのであるが、西洋では一生涯にわたって家畜同様かもしくはそれ以下の扱いを受けることになる。


          それこそ、奴隷そのものはまったくの個人の私有物として扱われ家族間では財産として相続されるものであった。


          当時は奴隷化される人間、またその対象となる人種が存在していた。


          キリスト教徒からみれば異民族や異教徒は家畜同然の存在であり、彼らの絶対唯一の創造神を信じない者はすべて駆逐されるべき邪悪な者たちであって、奴隷として彼らの罪を労働で償うのは当たり前のこととされたわけである。



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          当然、キリスト教徒のあいだでは異教徒の人間を奴隷(家畜)扱いすることに何の罪悪感も持たれなかった。


          奴隷たちは、優れた人びとであるスペイン人や白人に支配されるべき存在だと唱えられた。


          いうならばキリスト教徒にとって異教徒を大量虐殺することも、奴隷にして売買することも神の意志に叶った正当な行為とみなされていたし、実際に征服された新大陸では原住民の熾烈な虐殺が日常的に行われていた。


          当然のことであるが異教徒の殺戮と一掃、そして大量虐殺そのものが奨励されていた。



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          新大陸の野蛮な原住民は黒人同様に奴隷か人間かで真面目に裁判の場で議論されたし、極東アジアの異教徒の日本人もインディオと同じく奴隷種と見なされていたのである。


          事実、当時のキリスト教圏や他の植民地と同様に日本にやって来たイエズス会宣教師も商人たちも九州各地を足掛かりにして、積極的にそうした日本人奴隷の商取引にも関わっていった。


          しかも当時の日本国内は戦国時代であったことで、奴隷売買には好都合な状況が生じていた。


          戦国時代では捕らえられた敵兵や捕虜の扱いは、多くの場合なで斬り(皆殺し)が通例であった。


          捕虜に与える食料がそれによって手っ取り早く省かれたわけである。


          当時の捕虜の過酷な扱いについて1例を挙げれば、天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧した際、捕らわれた一揆方の男女1万2250人余りは信長のもとに送られすべて斬殺された。


          「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」、「生捕りと誅(殺された)させられたる分、合わせて3,4万に及ぶべく候か」
          (信長公記)というような大量殺戮の状況が出現していたのであった。


          いわゆるこれが、戦国時代の捕虜処遇の実態である。


          ここでそうした戦争捕虜に何らかの取引上の商品価値が生じるのであれば、たちまち状況は一変する。


          海外から渡来した伴天連がわざわざ捕虜を買い取ってくれるのであれば、戦争捕虜を扱う人買い商人にとってはそれこそ渡りに船であったはずである。


          捕虜に今まで以上の価値が生じたことで、またたく間に各地の大名もこうした息のかかった人買い商人を送り込んで奴隷取引に参加し出したのである。


          それというのも、こうした南蛮との取引で大名らが南蛮人が扱う軍事物資を入手する上で非常に好都合な展開が出てきたことが大きく関係していた。


          ポルトガル商人と同様に、そうした国内の人買い商人はいわゆる奴隷商人であり、またもう一方では武器を仲介売買する武器商人でもあり得た。



          彼らが当時の戦時経済をしたたかに牛耳っていたといっても過言ではなかった。


          何よりも彼らは自在に移動できる自分たちの専用の物資輸送船を持っていたし、他の船主から物資の移送に必要な船を借りることも可能であった。



          各港へ軍事物資を移送しつつ、回送時には仕入れた奴隷を積み込んで博多や平戸、長崎、口之津などの九州の海外との取引港へと集積していたのである。


          多く戦争捕虜が奴隷として売られることで命が助かるのであれば、当時としては、奴隷売買も一つの温情的処遇とでも考えられたことであろう。


          海外での奴隷の処遇など知らない多くの日本人は、そのように安易に考えていたのである。










          削除されなければこの稿続く






          参考文献
          「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
           1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
           2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
           3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
           4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
           5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
           6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
           7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
           8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
           9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
          10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
          11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
          12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
          「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
          「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
          「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
          「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
          「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
          「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
          「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
          「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
          「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
          12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
          2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
          4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
          「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
          「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
          「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
          「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
          「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
          「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
          「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
          岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)











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          posted by モモちゃん at 16:12| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

          2015年10月15日

          戦国村山等安が挑んだ南蛮勢力との戦い(5)

          日本でのイエズス会が採った見事な軍事戦略

          学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
          いまさら歴史認識がどうした?


          日本人は海軍力が弱い
          九州には、キリシタンによる内乱の火種が作られた!
          長崎代官村山等安が掴んだ南蛮勢力の野望とは?


          東洋医学史研 究会
          宇田明男




          ●日本でのイエズス会が採った軍事戦略


          近年解読されたイエズス会文書館所蔵の夥しい書簡などの史料から、当時のイエズス会が密かに推進していた日本の植民地化戦略の全貌がようやく浮かび上がってきた。


          これらの衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。


          もちろん歴史教科書にも決して紹介されることはない貴重な史料ということになる。


          日本において宣教活動を行っていたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような書簡を出している。


          「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
          尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
          しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。」




          文中にある「征服事業を企てる対象としては不向きである」とはどういうことなのか?そして、「シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために」とは、一体何のことなのか?





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          翌年の1583年、マニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)では次のような展開になってくる。


          「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由になると云う事を、陛下に知らせる為である。(中略)そしてこのことを一層容易に 運ぶには、シナの直ぐ近くにいる日本人がジナ人の仇敵であつて、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されるとよい。 そしてこれが効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起すように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせる事である。」



          陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由」という展開から、これらはイエズス会側の軍事的侵攻を示唆したものであることが分かる。


          さらにイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡には次のようにある。


          「私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、ンンとしてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう」



          ここらは一貫して具体的記述になってきていることが見て取れる。


          イエズス会日本準管区長コエリョが1585年3月3日付けでイエズス会布教長アントニオ・セデェーニョに宛てた手紙の抜粋には次のようにある。


          「陛下の義務、及び陛下がシナを征服するために望んでいる日本貿易に大いに関係することだからである。・・・・総督閣下に兵隊・弾薬・大砲、及び兵隊のための必要な食料、1、2年食料を買うためのかねを充分搭載した3,4隻のフラガータフ船を日本のこの地に派遣していただきたい。・・・・他の異教徒に大いに悩まされている何人かのキリスト教徒の領主を支援出来るようにするためである。・・・・ただ安全に渡来するためには大艦隊が必要である。・・・・
          当地のキリスト教徒の領主の支援を得て、この海岸全体を支配し、服従しようとしない敵に脅威を与えることが出来るのは疑いない。この陛下の援軍が派遣されることにより、・・・・第一に、これらキリスト教徒の諸侯とその家来は、・・・陛下の援助が得られ・・・・・一層信仰を強固なものにする。第二に、異教徒とは・・・脅威と驚きを抱き、・・・・改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。第三に、異教徒はキリスト教徒が陛下から援助を受けるのを見て、・・・・改宗するであろう。 もしも国王陛下の援助で日本66カ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ゚国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、一層容易にシナを征服することが出来るであろう。」



          いよいよイエズス会のアジア戦略の最終目標は極東の中国の征服であったことが次第に明確になってくる。





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          日本に派遣された宣教師らはその基本戦略を遂行すべく、忠実に軍事的観点から報告書を作成し度々マニラやスペイン本国の上部組織に送っていたわけである。


          日本に15年滞在したペドロ・デ・ラ・クルスが1599年2月25日付けでイエズス会総会長へ出した書簡には次のように書かれている。


          「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち九州又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・
          このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・
          (日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・
          多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・
          スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」



          日本の国内事情を知悉したペドロ・デ・ラ・クルスが、ここではっきりとその軍事的侵略の手順を明示しているだけでなく、その有力な拠点を九州の天草島、志岐を候補として挙げていることに注目しなければならない。



          これは単なる机上の空論ではなくて、九州天草周辺では実際にこの戦略に沿って重点的に宣教事業が押し進められていった。


          同時にこの地方への軍事物資の補給と備蓄、密かにキリシタン信徒らの傭兵訓練、練兵とが巧妙に行われていった。


          その結果は後年の天草・島原の大乱として一気に噴出することとなる。


          このように、時代を追ってイエズス会の中でやり取りされたいくつかの書簡を見ていくと、これは聖職者というよりはまるで軍人か軍事顧問の諜報活動と錯覚しそうである。


          まさに法衣をまとった戦士であるイエズス会の宣教師の姿が垣間見える部分といえよう。


          そしてこれこそは、長崎代官村山等安がイエズス会を「この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」として厳しく糾弾したように、彼らは始めから侵略計画を持って渡来してきていた事実が浮かび上がってくる。


          渡欧した千々石ミゲルとて少年使節としての長い航海のあいだに、中継地であった占領された植民地の様子は自分の目で確認していたことであり、行く先々で日本や中国、朝鮮から送られてきた多くの奴隷の境涯に落とされた人々の悲惨きわまる姿にも度々遭遇していた。


          当時のミゲル自身はイエズス会が主導する宣教事業というものの実態を知って、少なからず驚愕し打ちのめされた想いであったであろう。


          長崎代官村山等安に、日本人奴隷の実態とキリスト教国の日本侵略の野望についてはっきりと伝えたのは棄教した千々石ミゲルであった。


          等安自身は、長崎周辺で拡大していくイエズス会のコンフラリヤ(Confraria de Misericordia:信徒集団組織)勢力に強い警戒感を持っていて、それに対抗すべくスペイン系の別会派托鉢修道会の布教活動を熱心に支援し続けていた。


          これに対して後にローマ留学から帰国した長崎の教区司祭トマス荒木は、むしろ托鉢修道会(フランシスコ会)こそが日本侵略を画策していると異なる意見を等安の息子徳安らに表明して憚らなかった。


          もとよりポルトガル船と共に渡来してきたキリスト教宣教師の狙いは、宣教事業の推進と異教徒の駆逐、ないしは奴隷化であったが、彼らはまさしく侵略の尖兵としてアジア地域に送り込まれてきたというべきであろう。


          異教徒の奴隷化は彼らの教義に基づくものであり、当時は家畜同様の扱いが当たり前であった。


          それ以外にも、彼らにはヨーロッパでは入手できない香辛料や絹織物、生糸、鉱物資源などの貴重産品の調達仲介業や占領地の傭兵要員の確保も課せられていた。


          海外遠征が成功して新航路が発見され新しい領土(植民地)を獲得するごとに彼らは、そこでの収奪や奴隷を扱う仲介貿易によって莫大な利益を上げることができた。


          宣教師が関わる仲介取引による直接の利益はもとより、貿易商からの寄付によって宣教活動の多額の経費そのものは維持されていた。


          特に日本や中国、朝鮮の奴隷の買い取り値は、西洋地域との価格差が5倍以上もの開きがあり、商人らは各地の奴隷市場においての転売で巨額の差益を得ることができたのである。



          削除されなければ、この稿続く


          参考資料:引用文献
          「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
          「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
          「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
          「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院、1995
          「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
          「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
          「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
           1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
           2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
           3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
           4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
           5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
           6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
           7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
           8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
           9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
          10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
          11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
          12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

          「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
          「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
          「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
          「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
          「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
          「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
          「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
          「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
          「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
          「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要  朝日新聞社
          「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
          「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
          「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006









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            ラベル:植民地
            posted by モモちゃん at 11:01| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

            2015年10月14日

            戦国村山等安と西洋ビジネスとの激突(4)

            戦国キリシタン村山等安とその時代(4)

            学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
            いまさら歴史認識がどうした?


            西洋史観の拡大拡散で歪められる大航海時代と侵略の歴史

            偉大な探検家コロンブスが奴隷商人の仲間入りとは?



            東洋医学史研究会
            宇田明男




            ●先住民を滅ぼしたエイリアン?



            「エイリアンが襲来し人類を滅ぼす?!」、英紙デーリー・メール(電子版)など欧米メディアが次々とショッキングな記事を報じた。


            車いすの天才宇宙物理学者で知られる、スティーブン・ホーキング博士が「エイリアンが地球に来た場合、コロンブスの米大陸上陸時のように、先住民族のことをよく知らないために起きた結果(大虐殺)になる」と述べ、エイリアンが人類を滅ぼす可能性を強く警告した。


            エイリアンが地球など別の惑星に侵攻する理由として、博士は「高度な文明を持つエイリアンは、自分たちが征服して植民地にする惑星を探すため、さながら宇宙を徘徊する遊牧民のようになるからだ」と指摘する。



            西欧でそうした発想がメディアで持て囃されるとは皮肉な話である。


            さしずめエイリアンは偉大な探検家そのものであって、かっての西洋人が称賛した新天地をコンキスタドール (Conquistador・スペイン語で「征服者」のこと)として侵略征服したことを自ら揶揄しただけのことであろう。



            人類が滅ぼされたとしても、それこそエイリアンの勝手だろう。


            戦後日本に刷り込まれたいわゆる西洋史観に追随する教科書というもの中には、イエズス会に代表されるキリシタン宣教師達は、あたかも未開の民に科学と道徳を教え、教会や病院を建設して社会事業を押し進める「人道的救済者」であったかのように書かれているが、これなどはまさに噴飯ものであろう。


            日本では、当時のキリシタン勢力の活動がすべて正当なものであって、それを時の為政者が弾圧排除したことは許しがたい犯罪行為であったとするのが西洋史観であるわけである。


            もとより日本の戦後教育としての敗者の歴史がそう解釈させたのである。



            敗戦国日本の歴史観そのものがGHQの統治に屈服し、「西洋冒涜」とされる著作物の類はすべて排除されそこへ新たに敗残者史観が巧妙に歴史教科書として刷り込まれたのである。

            注:GHQ焚書の詳細については、現在you tubeでも西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封』講義が公開されている。




            戦後各地にはキリスト教伝道者フランシスコ・ザビエルや天草四郎の宗教的記念碑としてあるいはその偉業を讃える像が次々と建てられていった。

            戦後の復興資金絡みのものである。


            こうした国内での機運の表われ方自体は背後にスポンサーがいるわけだから、決して観光振興目的の狙いがあっての事業や計画などではなかったはずである。


            いまでさえこれに異論を挟むことは、まさしく世界の常識からは大きく外れていることになりかねない。




            (注:)(日本経済新聞記事より引用)キリシタン大名の功績語る 九州の研究者がサミット :2012/6/3
            「九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が2日、長崎県南島原市で開かれ、各大名の果たした歴史的役割について議論した。戦国時代に同県の島原半島を治め、天正遣欧少年使節の派遣などキリシタン文化の発展に貢献した有馬晴信の没後400年を記念し、同市が主催した。議論では「キリスト教を受け入れて貿易や政治を有利に運び、戦乱の世を生き抜いた」などと各大名を評価。同市は「大名の偉業を情報発信し、キリスト教関連遺跡の世界文化遺産登録につなげたい」としている。〔共同〕」(引用終わり)




            その外れ具合にもいろいろあるわけで、そこには宗教的観点、あるいは地域的観点、郷土史的観点というように多方面への評価の広がりがあることは否定しがたいことである。


            それこそ一方に不都合な情報は抹消されたり隠蔽、改竄がまかり通るのが当たり前の厳然たるパワーバランスの世界に他ならない。


            特にこうした歴史評価においては敗戦国日本には多面性があるのかもしれぬが、少なくとも九州先住民人としてはそれなりに自由な発想もここでは許されるべきではないかと思う。


            日本や欧米で人気のある探検家コロンブスにしても、南米での評価は許し難い侵略者であり、極悪の殺人者扱いであることは興味深いことである。
            coron_convert_20130624091817
            そこにははっきりと征服者と被征服者の立場の違いが如実に表れている。


            事実コロンブスによって最初の大西洋奴隷貿易は華々しく開始され、南米の原住民は奴隷としてスペインのセビリア奴隷市場へと次々と送られていった歴史がある。



            コロンブスは探検家であると同時に、奴隷商人でもあった。


            上陸し占拠した島をサン・サルバドル島と名付け略奪したコロンブスは、そこの原住民について次のように記録している。


            「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」


            2回目の略奪を目的とした航海についてのコロンブスの記録。
            「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」

            ラス・カサス 著「インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫) 」より引用



            ───コロンブスの「インディアス発見」後、侵入したスペイン人キリスト教徒は残虐きわまりない手口でひたすらインディオを切り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破壊へと追いやった。その結果、300万人のインディオが暮らしていたエスパニョーラ島(いまのハイチ、ドミニカ)にはたった200人しかいない。豊かですばらしかったキューバ島、プエルトリコ、バハマ諸島は人がいなくなり、荒廃し、見る影もない。


             この40年間。キリスト教徒の暴虐的で極悪無惨な所業のために1200万人以上が殺害されたのはたしかである。いや1500万人以上が犠牲になったといっても間違いではない。キリスト教徒たちの目的はただただ黄金を手に入れるためであった。手っ取り早く財を築き、身分不相応な高い地位に就こうとしたのである。インディア矢は無抵抗で、それどころかキリスト教徒を天から来た人たちと考えていたが、キリスト教徒は彼らを広場に落ちている糞か、それ以下のものとしか考えていなかった。


             キリスト教徒たちは女や子供を奪って使役し、虐待し、なけなしの食糧を強奪した。ある司令官はエスパニョーラ島で最大の権勢を誇る王の妃を強姦した。子羊の群れを追うように村人たちをことごとく捕らえ、腹を引き裂き、乳飲み子の頭を岩にたたきつけ、川に突き落とした。キリストと十二使徒を称えるためだと称して、13人ずつ絞首台につるし、生きたまま火あぶりにした。山へ逃げ込んだインディオは犬に追わせ、食い殺させた。先住民が反抗し、キリスト教徒を殺害すれば、その仕返しは百倍になって返ってきた。



            kasasu_convert_20130607184801


            (中略) 「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。
            キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(引用終わり)


            コロンブスは大軍団を組織して大規模な略奪と殺戮の船旅に何度も挑戦してみせたわけで、以後10年間、スペイン人が繰り返したインディアン殺戮の恰好のモデルとなった。



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            南米諸国の国民はこのことをいまだに忘れていないし、まさに歴史評価自体がここでは英雄と犯罪者の両極端に二分されている事実も厳然として存在している。


            (注:中米ホンジュラスの首都テグシガルパでは、国会前広場に約千人の先住民が集まってコロンブスを被告とする模擬裁判を開き、虐殺や略奪などの罪状で死刑を宣告したあと、コロンブスの肖像に矢を突き刺し、「処刑」した。)「侵略の世界史」清水馨八郎氏著より


            西洋史観でいうところの大航海時代は、いわゆるキリスト教国であったポルトガルやスペインがその海軍力をもって海外に進出していった時代でもあった。


            文字通りそこから多くのコンキスタドール (Conquistador)を排出することとなった。右はクリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、英: Christopher Columbus)の肖像画




            アジアや新大陸は収奪すべき豊富な香辛料や金や銀などの産物が満ち溢れていただけに、彼らにとって巨大な利権をもたらす新世界への船出でもあった。


            その中心勢力として活躍したのがローマ教皇の精鋭組織イエズス会であった。


            イエズス会は当初の構成メンバーが元軍人であって、その先鋭的な思想はテンプル騎士団に源流を持っていた。


            (注:)1540年 9月27日に、ローマ教皇パウロ 3世から正式に 「イエズス会」創設の認可を受けて発足した修道会。 元軍人であったイグナチウス・ロヨラ(初代会長)によって成立したイエズス会は、現代まで30代の総会長を連綿と継承してきている。イエズス会の組織自体は、イエズス会総会長―総会長顧問―巡察師―管区長―準管区長―布教長というように、軍隊式の命令系統が構築されていて、軍務に等しい服従規律を基に教皇や組織の上長に対しても絶対的服従を誓わなければならなかった。


            新大陸発見大航海時代の幕開けということであれば、それはまず海外の新発見地にいたる航路とそれに付随する貿易権を独占することと、新発見地の現地住民(異教徒)を奴隷化する権利を得ることが最大の関心事であった。


            そうした彼らの要求が通ると、さらにはそれらの新発見地でのキリスト教宣教事業を独占的に展開する権利をも公認する勅書を、イエズス会はローマ教皇庁から獲得した。


            これは1455年にローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって認められた特権であった。


            彼らはこれによってローマ教皇の代理人として征服した土地の所有を認められただけでなく、そこで法律を作り、税金を課し「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒・異教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威によって正当化されるとしたものであった。


            これによって海外進出に関わるすべての侵略的、軍事的行為の「正当性」をローマ法王の合法的な代理人として認められ、国王や貿易商に対して強力な布教保護権(正式には王室布教保護権)をイエズス会は主張できる展開となった。


            イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラの言葉を借りれば、これはまさしく「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」ということの実践に他ならなかった。


            右画像は、サンサルバドル島に上陸したコロンブス:テオドール・ド・プライの版画)







            削除されなければ、この稿続く







            参考資料:引用文献
            「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
            「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
            「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
            「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院、1995
            「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
            「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
            「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
             1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
             2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
             3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
             4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
             5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
             6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
             7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
             8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
             9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
            10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
            11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
            12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

            「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
            「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
            「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
            「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
            「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
            「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
            「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
            「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
            「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
            「霊操」 イグナチオ・デ・ロヨラ 門脇 佳吉 岩波文庫 1995
            「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
            「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史著 基督教学 = Studium Christianitatis, 2006
            「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
            「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要  朝日新聞社
            「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
            「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
            「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか










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