2015年11月30日

色褪せないおどろおろどしい水木マンガの世界

おどろおどろしい鬼太郎がよかった

「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる漫画家の水木しげる(みずき・しげる、本名武良茂=むら・しげる)さんが30日午前7時18分、多臓器不全で東京都内の病院で死去した。93歳だった。鳥取県出身。(スポニチアネックス)

あの有名な高齢の漫画家水木しげる先生がついに亡くなった。


水木しげる原作の漫画「ゲゲゲの鬼太郎」はつとに有名であるが、昭和30年代の紙芝居の世界では「墓場の鬼太郎」という題名で子供たちに知られていた作品であった。

そこには始めて目にするおどろおどろしい妖怪の世界が展開していたのであるが、当時のストーリーにはアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違った生々しい恐怖感が漂っていたように思う。

それだけに子供心にもこの感覚はとても新鮮に思えた。

しかも幽霊族の鬼太郎であって、決してアニメで観られるようないい子の鬼太郎というイメージではなかった。

描かれている絵のタッチそのものが、そうしたおどろいい雰囲気を醸し出していた。

今思えば、とても懐かしい空想の世界であった。


紙芝居の「墓場の鬼太郎」はとても面白い作品に思えていたのだが、どうしたことか途中で中断してしまって続編には遭遇しなかった。

ずっと後年になってから、「ゲゲゲの鬼太郎」が少年漫画雑誌に登場し連載が始まった。

それをみて、子供心にも「墓場の鬼太郎」の続きなんだと思った。

懐かしい思い出である。




Hakaba Kitarou episode 1 [English Sub HD]








denden














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    posted by モモちゃん at 21:23| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年11月29日

    年末のプリンターヘッド掃除で年賀状準備万端

    使い慣れたプリンターの手入れ方法


    いよいよ年末ということで、さっそく年賀状書きのシーズンということになりました。

    毎年プリンターで印刷するのですが、いつもはレザープリンターを使うことが多いのでほぼ1年近くインクジェットプリンターの方はまったく使用していませんでした。

    テスト印字してみると、やはりインク切れ状態になってしまっていました。

    長期間放置していたこともあって、インクが自然乾燥してしまったようです。

    インクを補充してみましたが、かすれた状態でうまく印字できません。

    ここで新しいインクと交換したとしても、印刷出来ないのは同じなのです。

    故障と考えてしまえばそれまでですが、ここで諦めてはいけません。

    まだまだ十分使えるプリンターです。

    手っ取り早く新型のプリンターを購入するという手もありますが、長期間放置する使い方だとまた同様の現象が起きてしまいます。

    ここで一工夫が必要になるということです。


    長く放置していたことで、プリンターの印字ヘッド部分でインクが乾燥して固まり、インクの吹き出し口が詰まってしまったんだろうと考え直接ヘッドをクリーニングすることにしました。



    RIMG2635



















    まず手順にパソコンのコントロールパネルから、使用しているプリンターを選びそのプロパティーを開きます。

    この中のユーティリティを使ってテスト印字やクリーニングを繰り返してみました。

    何度か繰り返してみましたがどうしても印字状態が改善せず、かすれたままでした。

    プリンターのユーティリティを使ってもこれ以上の改善は無理と考え、ここでついにプリンターのヘッド部分をアルコールで直接洗浄することにしました。

    当方では、これが毎年の慣例のようになってしまっています。

    手慣れたものです。

    プリンターによってはヘッドを取り出して全体をアルコールに浸すこともあります。

    これで汚れなどが綺麗に洗い落とせます。

    今回はプリンター本体からヘッドを取り出して、アルコールに浸した綿棒でヘッドを直接クリーニングしました。

    プリンターのインクはアルコールによく溶けます。





    RIMG2631



















    これが本体から取り出したヘッド部分です。

    やはり乾燥して汚れています。





    RIMG2632



















    インクがヘッド部分ですっかり乾燥して固くなっています。

    これだと通常のユーティリティによるクリーニング操作だけでは綺麗になりません。







    RIMG2634



















    アルコールに浸した綿棒でヘッド部分をクリーニングしました。

    固まっていたインクがすぐに溶けて拭い落せます。







    RIMG2633




















    インクも補充完了です。

    これで通常通りに印刷できるようになりました。













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      posted by モモちゃん at 10:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2015年11月28日

      九州王朝にインド仏教伝来という伝承あり

      五百羅漢像を訪ねる



      福岡県糸島市雷山にある千如寺大悲王院に行ってきました。

      ここは成務天皇(第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)の時代ということで、古代の4世紀辺りに想定できる歴史があるということになります。

      この時代の九州は歴史教科書には記載されない「九州王朝」が支配していた時代ということになりますので、成務天皇の事跡そのものは日本書紀などの正史に詳しい記録はありません。

      その縁起はというと、成務天皇の四十八年、雷山の地主神である雷大権現の招きで渡来した天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)の僧清賀上人によって開創されたと伝えられています。

      霊鷲山とはインドのビハール州にある山で、別名では耆闍崛山、鷲峰山、霊頭山、鷲頭山、鷲台としても知られていますが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定したことで有名です。

      ここはかって釈迦が無量寿経や法華経を説いた霊山ということになります。

      その所縁のある地からインド人の清賀上人が仏教と共に古代日本に渡来してきたということですから、ここでも従来の定説や歴史観がひっくり返ってしまいます。

      その後、千如寺は聖武天皇の時代には勅願道場となり、国司により七堂伽藍が建立されたということです。

      鎌倉時代には三百もの坊舎があったといわれます。



      参詣する人たちが次々とバスで訪れていました。




      RIMG0273


















      千如寺は立派な樹齢400年といわれる楓の大木があることでも近隣に知られています。






      RIMG0288
















      中庭に大きな楓があります。






      RIMG0276
















      伽藍の裏は山が迫っていて、そこには五百羅漢像がありました。





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      杉の大木の間に羅漢像が整然と並べられています。





      RIMG0280



















      やはりこれだけ羅漢像があると壮観です。






      RIMG0284



































      denden















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        posted by モモちゃん at 12:51| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

        2015年11月26日

        江戸時代には驚きの高貴薬があった

        「お父っあんのための高貴薬ってなあに?」

        約30年前に観たテレビの番組で中国の漢方薬が紹介されていたのだが、そのなかで天然の二十年ものの薬用人参が展示販売されているところが映しだされていた。


        この一本の立派な人参の販売価格が、なんと70万円だという。


        一瞬唖然としたが天然資源が枯渇している現状を考えれば、その稀少価値は計り知れないとも感じた。


        人参といえば朝鮮人参が有名であるが、江戸時代の吉宗の代になって初めて国産化さ れたといい、それまではすべて輸入品に頼っていたのである。


        たとえば正倉院御物のなかに人参は含まれていたし、後に光明皇后の施薬院のためにそこから五十斤(三十キログラム)もの人参が流用されたというが、すべて貴重な渡来薬物であった。


        時代劇にも人参は高貴薬としてよく登場する。


        親の病気に薬代が嵩み娘が泣く泣く身売りするという、よくある話がそれである。


        当時、それほど人参は高かったかどうか、どうしても当時の事情が知りたくなって図書館に行って調べてみた。


        江戸時代の天保七年に人参一斤(六百グラム〕銀三十八貫という高値があったというが、大抵は一斤が銀十六貫辺りが平均的相場だったらしい。


        当時の専門技術者であった京都の大工の日当が銀三匁(江戸は五匁)、これで銀十六貫を割ると五三三三日分に当たる計算である。
        平成元年三月二十四日の銀の相場でこれを計算してみたところ、大工の日当は三百十八円、人参六百グラムは百六十九万七千八百九十四円にあたる。



        現在平成27年11月26日の銀の相場ではどうか。



        銀が倍以上に値上がりしていて、大工の日当は720円になる。(江戸だと1200円)。





        ほかの物価と換算した場合は、江戸時代は現在より銀の価値が二〜三倍になるのでさらに人参の薬価は高くなる。


        たとえば通説に従って一両を現代の三万円と換算すると、大工の日当は千五百円、人参一斤は八百万という感覚であろうか。


        とにかく現在の経済感覚で単純に計算したところで正確な数値が出てきはしないが、 それでもこの驚くべき価格には現代人でもおおよそ察しが付くというものである。


        物価が上がるのは需要と供給に関係があることぐらい、経済オンチの私にも分かる。


        円安だと、今も昔も舶来品は当然高くなる。


        それに当時の人参は供給量が特に少ない薬物ときている。


        だがこの高値には、もう一つ理由があるようである。


        「寛文・延宝(一六六一〜一六八〇)の頃、数原通玄という良医、朝鮮人参の効能を 考へ──衆人の命を助くる事限り知らず。──これより大効ある事をいよいよ知る」と、 『近代世事談』にあるとおり、この時代人参の薬効に人気が集まったらしい。


        昔から人参湯は起死回生の薬として知られていた。


        この薬湯は『金匱要略』に登場するし、『傷寒論』には理中丸として出てくる。 


        いまでいう特別な新薬というわけではないのである。


        しかしながら、通常処方される人参湯には三両(十二匁)、つまり四十五グラム(現代では十五日分)の人参が必要となるが、とても一般庶民が買える薬ではない。


        円に換算するとこれだけで六十万以上する高貴薬である。


        天文(一五三二〜一五五四)の頃の名医永田徳本は薬一服十八文以上取らなかった。


        患者が二代将軍秀忠のときも治療代は十八文だけしか取らなかったというが、これは例外中の例外であろう。


        江戸時代医家,売薬で巨富を成すものが多かったのは、各種の史料をみれば分かることであるが、ここに人参が絡んでいる。


        安政度で診察料が銀十五匁から三十匁(約一万五千円)、往診料は初度に二十二匁五分、その後は一度毎に十五匁ということで、別に一里内外は三十匁、二里は六十匁、二里半は二両、三里以上は五両(約十五万円)、おまけに二里以上は駕籠の往来であれば、 駕籠賃、弁当代は病家が出すというものであった。


        薬代はというと、七日分が銀三十匁、三日分が十五匁であるが、宵越しの金など持たない庶民はそう簡単に医者に掛かれなかったのである。


        そうなると自然と鍼灸療法ということになる。灸は京阪とも二十四文(約144円) ですえられた。


        按摩代は子供の按摩の揉み代、上下揉んで二十四文。大人の按摩は上下揉みは四十八文であった。



        現代でいえば、お手軽整体というところである。


        もちろんこれが相場であるから、世間にはこれより高い料金を取った者もいたであろうし、割り引いた場合もあったろう。



        これを酒の価格と比較すると実感としてよく分かる。


        安政の時代では、上酒一升が三百四十文から四百文(約二千四百円)のあいだであったという。『守貞漫稿』



        ただし当時は酒に割高な税金は掛けられてはいなかった。











        denden 











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        posted by モモちゃん at 12:39| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

        2015年11月14日

        長崎代官村山等安死後400年にわたる戦い

        学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
        長崎代官村山等安の矜持(7-2)

        台湾遠征計画に驚愕したイエズス会
        村山等安の台湾遠征は無駄だったのか?
        中国(明)が支配海域をはっきりと明言した

        東洋医学史研究会
        宇田明男




        南蛮に妨害された等安の台湾遠征

        実はこの村山等安の台湾遠征の計画にもっとも敏感に危機感を持って反応したのは、かねてより生糸の転売で大きな利益を上げていたポルトガル商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。

        ここにきてイエズス会と敵対する長崎の等安勢力が台湾へ遠征するという情報は、彼らに少なからぬ驚きをもって受け取られた。

        もしもこの等安による遠征計画が成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになるわけで、彼らがこれまで独占してきた仲介貿易事業も宣教活動も一気に破たんすることになる。

        これに対して南蛮勢力は結束して直ちに遠征の妨害工作に出た。

        実はこうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非でも阻止するように、彼らには教会上層部から特別に指示が出されていた。

        それは日本の為政者である将軍が、明(中国)との直接の交易を強く望んでいることを察知していたからであった。

        1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスーン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」p173ー175 : 高瀬弘一郎著

        「台湾を獲得して中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害するよう命令」(1610年、文書13)より引用。
         「現在日本全土を統治している国王(=徳川秀忠)は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている、と。其処は泉州の沿岸の近くである。彼の意図は、それ〔フォルモザ島〕を獲得して其処とシナとの間の貿易を手に入れることである。(中略)日本人たちにそれ〔狙い〕を遂げることなど出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼する。」引用終わり

        南蛮がこうした対抗策に出る直前の慶長十三年(1608年)、家康は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見していた。

        幕府はここで台湾で勢力を持つ高砂族との関係を改善して明国や東南アジアとの交易の際の中継となる拠点造りを強く望んだわけだが、いまだにそれは果たせないまま推移していた。

        翌年の慶長十四年(1609年)、九州の大名有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すため渡海したが、台湾の原住民との交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。

        これは、事前に講じた南蛮勢力側の妨害工作が成功した結果であった。

        こうした中であらためて長崎代官・村山等安が、台湾遠征計画に名乗りを上げたわけである。

        そのような建白書が、等安から幕府へ奉じられたのかも知れないところである。

        幕府主導によってすべてここで台湾遠征の事業が考えられたとしても、それを実施すること自体大変な企てであることには違いはなかった。

        この間にも徳川と豊臣との戦いが大坂では続いていた。

        そうした状況の中で、台湾遠征と長崎代官である村山等安と結びついたことは意外な展開であったはずである。

        幕府にしてみれば、あるいはこの時期村山等安の勢力をここで削ぐために無理難題が一方的に押し付けられたということも当然考えられよう。

        双方に腹の探り合いがあったはずである。

        少なくとも台湾遠征ということであれば、村山等安自身には貿易商としての独自の見聞もあったはずであり、ここで代官としてそれ相応の手立てを幕府に建白して忠誠心をみせたのかもしれない。

        このときそうした駆け引きが、長崎のキリシタンを守ろうとする等安には是が非でも必要であった。

        台湾遠征を企てるだけの力量なら、彼なら戦略を練る一かどの武人として、また貿易商として十分に備わってもいた。

        長年代官職にあって、等安は同時に長崎の貿易商としても活躍していたわけで、この間に多くの対外的交渉の場に関わってきていた。

        朝鮮や中国明国の海商はもとより、倭寇とも呼ばれた海賊とも少なからず交渉があった。

        少なくとも彼には日本の国益を守ろうとする、武人としての意気込みがあった。

        等安の頭の中には、交易上の航路に関連する領海線や海洋上に点在する島々の領有権というものの重要性が強く意識されてきていた。

        それはこれまでの南蛮との多くの商取引や貿易で培われた等安独自の外交感覚でもあった。

        すでに南蛮人らは東南アジア(マニラ)や中国(マカオ)などに交易上の拠点を確保してきており、強固な要塞を設けるなどしてその勢力を拡大しつつあった。

        新たに交易に参入してきたオランダなどの西欧の重商主義的動向を密かに窺っていた等安自身は、西洋人がじわじわと東アジア海域や日本近海に拠点を設けて迫って来ていることを忸怩たる思いで眺めていた。

        それだけに海上の通商路をしっかりと確保することと、日本の交易船が何の制約もなく自由に航行できる環境が必要と考えていた。

        当初より等安は交易に付随して、台湾遠征計画に置いてもこの辺りの外交的な問題を明確にさせることを意図していた。 


        台湾遠征が後世にもたらしたもの

        もしも等安の台湾遠征が成功すれば、南蛮人商人は大きな打撃を受けることになる。

        南蛮貿易の利権が一気に失われればイエズス会の日本での宣教事業も経済的に破綻して頓挫してしまうことになる。

        明らかに等安の狙いはそこにもあったはずである。

        当然等安と敵対する彼らは、常にこうした日本側の動きには敏感に対応していたわけで、そうした南蛮商人やイエズス会勢力側から何らかの妨害工作があることをこのときの等安自身はどこまで予想していたのであろうか。

        皮肉なことに村山等安とイエズス会勢力とは立ち位置や利害関係の確執から、ここでも互いに対立する状況が続くわけである。

        国内だけではなく、すでに対立するそうした国外勢力も等安を抹殺するために背後で密かに画策し始めていた。

        さらには当時の南蛮勢力は、中国沿岸の海賊集団である倭寇とも緊密に連携して実効性のある妨害工作を前もって講じていたのである。

        政略に長けた者同士、おそらくそうした水面下の熾烈な情報操作の戦いは当事者同士であれば十分に感知していたはずである。

        等安の台湾遠征そのものの国内情報が少ないのは、ほとんど外部に対して秘密裏に進められたという事情が背景としてあったからであろう。

        だが先に上げたように、等安の台湾遠征の情報そのものは早い段階で南蛮人や明国だけでなく、すでに周辺海域の倭寇らにまで瞬く間に知れ渡っていた。

        言うなればそうした等安の画策に抵抗する多くの勢力がひしめく状況下にあって、あえて台湾遠征隊は送り出されたということになる。

        急遽長崎港周辺から結集した十三艘の遠征船団は、元和2年(1616年)5月4日に出航したが、時期的に早過ぎたこともあって直後に琉球近海で激しい暴風に遭遇する。

        遠征隊の総大将である等安の息子長安(三男)の船を含む三艘は交阯(ベトナム)に漂着した後、翌年の元和3年7月に何の成果も得られずそのまま帰国を強いられた。

        明石道友の船を含む別の三艘は台湾北部に漂着し内一艘の部隊はどうにか上陸して要塞を構築したが、周辺の原住民やその地を拠点としている倭寇の執拗な攻撃に晒され、さらに兵糧の補給不足で戦闘不能となり全員が自害してしまったためそれ以上の攻略を断念せざるを得なかった。

        残りの七艘も暴風で遭難し船体に大きな損害を受けたが、琉球で船を修理した後に金門島、澎湖島を経て再度台湾の竹塹に上陸を果たした。

        その後七艘は大陸沿岸部にまで進行して明国に交易を求めているが、何ら成果は得られず結果的には遠征自体はここで失敗に終わってしまったとされている。

        日本と明国の関係がこれまで同様に改善されないということは、逆からみるとポルトガル側と倭寇との間に共通する海上交易の権益が従来通り維持されるということを意味した。

        結局彼らによって準備された妨害工作が功を奏して、もっとも恐れていた明国と日本側の直接交易という計画は阻止されてしまい、今回の等安の遠征計画は完全に失敗に終わってしまったのだった。

        遠征したこれら船団の一部は周辺海域の倭寇とも果敢に交戦していたが、排撃の姿勢で待ち構えていた金門島の明国軍司令官・沈有容の軍船と激しい戦闘を交えうち1艘の船を失っている。(沈有容はこの戦功により福建水師提督に任命された。)

        遠征船団はこのとき東湧島で漁民に紛れこんでいた明国の偵倭官・董伯起を捕えて一旦日本に帰国した。

        翌年村山等安は明国との交易を求めるために拉致してきた董伯起を鄭重に送還することとし、その交渉のすべてを明石道友に任せた。

        だが遠征時に日本側と武力衝突があったことで相手の警戒心は殊のほか強く、等安による明国側との通商交渉は進展せずに事実上行き詰ってしまう。

        長崎代官村山等安の使者明石道友は、このとき明国側に逮捕され役人(海道副使)に尋問を受けたのである。

        その時の経緯が最近ようやく日の目を観たのである。

        「引用開始」
        「尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に」
        【2013年1月21日 読売新聞】

         中国の明王朝の公式日誌「皇明実録」の中に、明の地方長官が日本の使者との間で、明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言し、その外側の海は自由に航行できるとした記述を、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。

         中国は現在、尖閣諸島を約600年前の明の時代から支配してきたと主張しているが、石井氏は記者会見で、「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、この史料からわかる」と語った。

         石井氏が見つけたのは、江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。沿岸を守る長官だった「海道副使」(海防監察長官)が、長崎からの使者・明石道友を逮捕・尋問した際の記録で、皇帝への上奏文として納められていた。

         それによると、この海道副使は明石に対し、沿岸から約40キロ・メートルの「東湧島」(現在の馬祖列島東端・東引島)などの島々を明示したうえで、この外側の海を「華夷の共にする所なり」とし、中国でも他国でも自由に使える海域だと指摘したという。魚釣島などからなる尖閣諸島は、中国大陸から約330キロ・メートル離れている。

         中国は、明王朝の1530年代に琉球に派遣された使者の記録をもとに、琉球の支配海域の境界は尖閣諸島の東側にある久米島と同諸島の大正島の間にあり、魚釣島などは明の領土だったと主張している。だが、今回の記述により、明の支配海域は沿岸から約40キロ・メートルまでで、尖閣諸島はどこの国にも属さない「無主地」だったことが明らかになった、と石井氏は指摘している。日本政府は、尖閣諸島が「無主地」であることを調査・確認したうえで、1895年に日本に編入したとしている。
        「引用終了」



        この稿、削除されなければ続く







        参考資料:
        読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
        「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
        「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
         1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
         2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
         3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
         4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
         5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
         6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
         7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
         8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
         9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
        10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
        11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
        12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

        「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
        「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

        「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
        「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
        「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
        「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
        「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
        「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
        「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号















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          posted by モモちゃん at 16:50| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

          2015年11月12日

          明国との境界線を正した長崎代官・村山等安

          学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
          長崎代官村山等安の矜持(7-1)

          幕府の思惑と村山等安の台湾遠征計画
          幕府が恐れた村山等安の存在
          村山等安の台湾遠征の目的とは?
          中国(明)との国境線を確認する

          東洋医学史研究会
          宇田明男




          ●幕府の思惑と村山等安の台湾遠征計画
          慶長19年(1614)12月、長谷川左兵衛の後任として甥である長谷川権六が長崎奉行に就任する。


          その翌年の元和元年(1615年)、幕府は村山等安の長崎での勢力の削減を狙って、新任の長崎奉行を通じて彼に朱印船による台湾遠征をいきなり命じてきたという。


          この動きはきわめて迅速であった。


          このときの等安の勢力とは、一体何を意味していたのであろうか。



          徳川幕府と大坂方との間では戦闘(冬の陣)が激化していた時期だっただけに、明らかにキリシタンとしての村山等安の存在は放置できなかったということになる。



          touan等安が長崎代官という役職にあるにもかかわらず、幕府が警戒するほどの大きな勢力を保持していたのかどうかが、ここでは一つの問題となるであろう。



          他の遠国奉行とは違って、天領長崎の代官職が強大な兵力を備えていたとは考えられないことである。


          むしろ職掌としては軍事にはまったく関与してはいなかったわけであるから、まずここで軍事的理由が問われてくること自体不可解というべきである。


          村山等安が幕府に警戒される部分があるとすれば、それはキリシタン信徒としての彼の行動そのものに絞られてくるであろう。


          台湾遠征・村山等安このときの台湾遠征計画については幕府側の正式な記録には残されておらず、どのような経緯で持ち出されてきたものなのかはまったく手掛かりがない。







          taiwan奇しくも等安の遠征計画が具体的に浮上してきた時期は徳川と豊臣との対立が激化するとともに、すでに戦闘は始まってしまっていたのである。



          憶測でいえば、この台湾遠征計画そのものは等安自身がその保身を図るために自ら長崎奉行を通じて幕府に申し出たものともされるのだが、その辺りの真相はいまだもって不明である。


          村山等安は大名と同様の格式を有していたが家臣団や武士団を抱えてはいなかったわけだから、ここでいきなり遠征という大規模な軍事的行動を取らせるような命令(上意)が幕府側から出されてくること自体、いささか辻褄の合わない展開ということになろう。


          むしろここでは等安が自ら遠征計画を幕府に建白して、その許諾を経て渡航朱印状を幕府(厳密には将軍)から受けたという流れが順当といえよう。


          あるいは長崎奉行から幕府の意向という形で、何らかの賦役としての働きをここでは暗に求められていたのかも知れない。


          どちらにしてもこの当時途絶えていた中国(明)との直接交易をどうにかして回復させようと幕府が模索していたのは確かであるから、長崎での外交面を統括する奉行が最初に動いてこうした遠征計画が持ち出された可能性も十分考えられる。


          このあたりの事情は記録がないだけにはっきりしない。






          ●村山等安の台湾遠征の目的とは・決死の行動計画・そのB
          遠征といっても等安がすべて私財を投じて行う軍事的台湾征討であり、これには常に背後から監視役の長崎奉行・長谷川権六が目を光らせてただけに準備に時間を掛けるような特別な余裕はなかった。

          慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばしいよいよ戦争準備に着手した。

          一方の家康は10月11日、軍勢を率いて駿府を出発し、11月19日、最初の戦闘は木津川口の砦でその戦端を開いた。

          こうした情勢の下では、大坂周辺だけでなく日本中に不穏な空気が流れてきていた。

          そして元和元年5月8日の戦闘でついに大坂城は落城した。

          この間にも長崎の村山等安のもとでは大掛かりな台湾遠征の準備が進められていたことになる。

          等安自身が長崎を離れることが役目柄できなかったこともあり、ここでは全権を預けた息子の長安(三男)を総大将として、 元和2年(1616年)5月4日に13隻の船団に4千余の兵を乗せて季節風を求めて急遽台湾方面に遠征隊を派遣したのである。

          サント・ドミンゴ教会の修道士の記録文書には、次のように書かれている。


          「等安はこれを引き受け自分の費用で実現(台湾遠征を)することを申し出ました。このため多数の船を準備し、等安は朱印状の下付を願い出て同年9月9日を以てこれを受領しました。そして兵船十三隻を率いて渡航、乗組員三,四千人程であったといいます」


          等安が朱印状の下付を願い出たとき、徳川方と豊臣方の間ではまさに戦端が開かれようとしていた。

          浮雲急を告げる状況下であっただけに、双方の間では多くの駆け引きや策略が盛んになされていた。

          徳川幕府とっては九州のキリシタン勢力の動向がもっとも懸念されているときであったが、結果的にはここでそれらの勢力を村山等安を使って体よく海外に向かわせたようと画策したことになる。

          これは明らかに為政者がよく使う「棄兵の策」というものに違いなかった。

          棄兵策とは、使いようのない兵員、無用もしくは謀反の懸念がある兵員、軍団を敵地、もしくは外地に送り出して意図的に無駄死にさせてその戦力を削ぐこという、いわゆる為政者の戦略手法である。

          このときの幕府は、このまま多くのキリシタン勢力を国内に放置しておくことは危険だと考えたはずである。

          その存在が脅威である勢力そのものをここで台湾遠征に立ち向かわせることは、当時の幕府にとっても好都合であったのである。

          幕府は、これで村山等安の財力をも同時に削いだのである。

          大規模な遠征のための装備や人員を揃えるだけでも一国の領主並みの費用が必要であったであろうが、この遠征の経費はすべて村山等安が負担した。

          ところがその規模が大きさにもかかわらず、その計画の全貌と真の目的についてはほとんど外部には漏らされてはいなかったし、肝心の記録が失われていることもあってこの遠征計画には多くの謎が隠されている。

          しかしながら、どうみてもこのときの対外遠征がどこまでも幕府主導であったとは思えないのである。

          ただ「大日本史料」によると、遠征の直前の1616年(元和2年)に長崎代官村山等安らの台湾出兵の動静を、当時明国と交渉のあった琉球が尚寧通事を介して明国に事前に通報していた。

          早い話が、情報漏洩である。

          台湾遠征自体は対外的に観れば機密情報であったはずであるが、きわめて早い時期に遠征計画が漏れていたことになる。

          かって明国は、秀吉の文禄・慶長の役で日本軍と戦っていたし、日本の沿岸海域からの倭寇の襲来にも終始悩まされていた。

          当時も倭寇には相当数の日本人の武装集団が含まれていた。

          そうした両国の外交を阻害するいくつもの悪条件が重なっている状況からみれば、こうした武力による台湾遠征の企てに対して明国が相当な警戒心をもっていたことは否めないところである。

          当時の東アジア周辺の海域には倭寇が暴れまわっており、海上だけでなく沿岸部も頻繁に襲撃されるなどして明国もその対応に苦慮していた。

          当時の明国の支配海域は沿岸部に限られたもので隣接する台湾や尖閣列島にまでは及んでいなかった。

          一部の凶暴な倭寇集団は台湾島を根拠地にしていたこともあって、明国との直接交易を望む日本側はこうした海賊の征伐にも関心を持たざるを得なかった。


          wa




          交易船の航行の安全を確保する上でも等安の遠征はこの倭寇制圧を一つの目的としていたし、交易に関わる海洋上の権益や領海域についても明国と直接交渉する目論見があった。

          貿易商として等安からみたとき、これらの問題は早急に解決しておくべき重要な課題であると考えられていた。 右図は明国の兵と戦う倭寇・「倭寇図巻」(東京大史料編纂所所蔵)

          村山等安が派遣した船団は、このとき明国との外交交渉において画期的な成果を成し遂げていたのであるが、当時の幕府も後世の為政者もこの事実を黙殺したのである。

          現在日中間で揉めている尖閣列島に関わる問題も、すでに村山等安側は明国との外交の場で明確に仕切って見せていたのである。

          それが明国史研究のもっとも重要な基本史料である『明実録』(皇明実録)に記述されている事実である。

          このことを日本政府も外務省もまったく知らないのだから驚きである。





          削除されなければ、この稿続く






          参考資料:
          読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
          「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
          「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
           1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
           2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
           3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
           4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
           5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
           6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
           7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
           8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
           9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
          10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
          11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
          12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

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          「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
          「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
          「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
          「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
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            タグ:支配海域
            posted by モモちゃん at 22:45| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

            2015年11月11日

            ギター演奏による映画音楽『ひまわり』

            映画『ひまわり』(原題: I Girasoli )

            洋画の名作『ひまわり』は、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演したイタリア・フランス・ソ連の合作映画で監督ヴィットリオ・デ・シーカ作品として1970年に公開されました。

            この作品の映画音楽をヘンリー・マンシーニが担当したことで、主題曲は世界中で大ヒットしました。

            今回は、ギター演奏による映画音楽『ひまわり』を集めてみました。



            I Girasoli (ひまわり/Sunflower) −Loss of Love by Henry Mancini

             






            Henry MANCINI ~ I Girasoli (Sunflower) ♪ Takashi IWAGAMI

             






            Henry Mancini - Sunflower ,arr.Ken-Ichi Ebe (Olga Papsheva)








            ひまわり(クラシックギター〜演奏Mr.N)

             









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              posted by モモちゃん at 14:05| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

              封鎖され続けた驚愕の歴史「アガルタ伝説」

              ミステリアスな話が現実になる

              古代より地底には別の王国があるといわれてきた。
              それがアガルタ伝説である。

              SF小説でもジュール・ヴェルヌが 1864年に「地底探検」を発表したし、1959年にはそういう映画が作られた。

              アガルタとは、地球の中心に別世界あるという説であり、それは人々があこがれる理想世界を意味し、同時に地底に存在するという都市の名称でもあるという。

              20世紀にはナチスドイツがアガルタに強い関心をもっていて、探検隊を世界各地に派遣したとかいわれるが、それ以外にも実際に古今東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めてきた。

              最近ではCIA元職員エドワード・スノーデンが、極秘情報として地底人の存在を示唆したことが知られる。

              地底人は、地上の人類世界よりもはるかに文明が発達していているとされるだけにここらはにわかには信じがたい話ではあるが、宇宙旅行以上にスリリングな世界が足元にあるとなると愉快この上ない。





              ムー編集部 世界の不思議3位 巨人がいた 証拠が露わに

               





              ムー編集部 世界の不思議2位 小人がいた 証拠が露わに

               






              ムー編集部 世界の不思議1位 地底人がいた 証拠が露わに

               






              ロシア 巨大隕石落下 (CIA元職員スノーデンの極秘情報 地底人)

               






              極秘映像(ソビエトの宇宙船ミールから撮影された地球内部の入り口の映像) アガルタ - 地球内部の入り口 Top secret"AGARTHA - INNER EARTH ENTRANCE"














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                posted by モモちゃん at 11:34| 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

                2015年11月10日

                華麗なる歌姫たちの饗宴「空港」

                テレサ・テン(ケ麗君)が歌った「空港」

                1974年(昭和49年)7月1日に発売されたテレサ・テンの楽曲で、2枚目のシングル。

                中国語でのタイトルは、「情人的關懷」である。



                テレサテンの生まれ変わり メイ「空港」 PATIO IKAUIIプロデュースpatioikauii

                 






                空港  石川さゆり

                 






                空港 - 坂本冬美 HD1080i








                陳佳 ~ 空港 Airport (ケ麗君紀念音樂會 廣州大劇院) HD 1080p

                 






                ケ麗君 - 情人的關懷 (空港) Teresa Teng 1985 Live Concert Japan HD

                 












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                  2015年11月04日

                  最先端の軍事転用技術の漏らし方教えます


                  軍事転用可能な技術や情報を不用意に他国に漏らすような国の杜撰なシステムが放置されままというのはきわめて異常なことである。

                  軍事転用技術をだだ漏れ状態で漏らすぐらいなら、早々に特許使用契約か製品輸出事業に国策を転換したらどうか。


                  ウラン濃縮韓国に技術流出 2015年11月4日

                  <ウラン濃縮>日本の技術流出 04年IAEA韓国で初確認 国際原子力機関(IAEA)が2004年夏に韓国の極秘ウラン濃縮実験施設を査察した際、日本が開発した濃縮技術の特許に関する資料を押収していたことが毎日新聞の取材で分かった。IAEAで核査察部門の責任者を務めていたオリ・ハイノネン元事務次長が明らかにした。査察では、この特許に基づいた機器も見つかった。・・・・欧米主要国では、核兵器開発につながる技術は情報公開を限定する措置が取られているが、日本では、特許出願で詳細な技術情報が公開される。特許制度の不備により、軍事転用可能な核技術が他国で利用されていることが初めて明らかになった。(毎日新聞)

                   http://news.yahoo.co.jp/pickup/6179731



                  日本の防衛技術AIPエンジンが狙われている


                  戦前、日本海軍は世界最高水準の潜水艦製造技術を保有していました。

                  また、圧縮空気で推進器を稼働させる魚雷も当時世界最高水準レベルの革新的技術でした。

                  若い時、その軍需工場で働いていた技術者だったという方に話を伺ったことがあります。

                  戦後米軍は日本の潜水艦製造技術の水準に驚愕します。

                  米軍は日本からこれらの大型潜水艦や魚雷のハイテク技術をすべて接収したわけです。

                  いまでも日本のこれらの潜水艦関連の高度の防衛技術であるAIPエンジン情報などが注目されていて、外交交渉によって国外に持ち出されようとしています。

                  それはまず今回オーストラリアに技術供与されることになりました。

                  これこそ、かねてより親中国のオーストラリアが喉から手が出る程欲しかった日本の最先端軍事技術だったというわけです。




                  日本軍の極秘潜水艦伊401

                   






                  日本の潜水艦技術は「王冠の宝石」

                   








                  【日豪軍事同盟】青山繁晴「日本の潜水艦技術がオーストラリアから中国へ漏れるぞ!」

                   









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                    タグ:軍事技術
                    posted by モモちゃん at 12:14| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする