2016年02月26日

富士山大噴火、やはり首都圏は壊滅する

富士山噴火とは?

内閣府が公表している予測によると、富士山の噴火が起これば周辺で1万3600人が噴石の直撃に命を脅かされ、その経済的損失は2兆5000億円にも達するとするという驚くべき危機管理に関する報告がある。

噴煙は首都圏にまで到達し、火山灰によって電気設備がショート、大規模な停電が起こるほか、公共交通機関も停止してしまう。

間接的であってもそのときの噴煙被害によって、広範囲に首都機能は壊滅的な打撃を受けるというものである。


巨大地震や富士山噴火についての著作物にも警鐘するものがある。

ただの予想ではなく多くの地質学的データを踏まえたものである。

御嶽山噴火を的中させた地震学者、木村政昭・琉球大学名誉教授は、すでに「富士山は『5年以内』に必ず噴火する」という予想を公表されている。

御嶽山噴火について予測を的中された書籍の中で、富士山噴火について、2014年±5年、という分析結果が掲載されている。





富士山噴火の可能性。

  









富士山噴火 シミュレーション 首都圏被害編











HD Mr.サンデー 富士山は何時噴火するのか? 箱根の噴火は?











denden 














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posted by モモちゃん at 15:50| 歴史を先取り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

戦場に行けばUFOに出会えるってか?

未知のUFOもついに参戦か?

世界の戦闘地域や激しい戦場では、頻繁にUFOに遭遇するといわれる。

ベトナム戦争時もそうであった。

UFOはいわゆる新兵器なのかもしないのであるが、それが動画で観る限り積極的に戦闘に参加しているようにも見える。

爆発の規模が半端ではない。




US HELICOPTER FIGHTING UFO IN AFGHANISTAN 2013

 








Real UFO Attack Caught on Camera Over New Guinea | UFO Sightings 2015 | Real UFO Footage

  







UFO Sightings 2015 | Real UFO Attack Caught on Camera | Real UFO Footage

 








REAL UFOs And The Syria War 2013 HD YouTube

 








TRIANGULAR UFO attacks TALIBAN CAMP AFGHANISTAN 2014

 







Breaking - UFO Attacks, Destroys Taliban Camp in Afghanistan | UFO Attack Caught On Camera

 
















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    posted by モモちゃん at 18:12| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2016年02月24日

    蒸気機関で稼働する古風な製材所が残されている

    製材所の作業風景を眺めてみる

    日曜大工や木工が好きなのですが、ちょっと気になる動画が目に付きました。


    ただの古い製材所の作業風景なのですが、黙々と仕事が続けられるところを観ていると何だか癒される感じがします。

    蒸気で動いている機械の音、製材作業中の音。そこには大きな大木が製材されて板になって行く過程が映し出されていて、黙々と作業が続けられていく様子がとてもいい感じです。




    Sawing A Ponderosa Pine


















      denden 














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      posted by モモちゃん at 22:19| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      戦国の美女はしたたかな賢母でもあったのです(2)

      慶ァ尼は美し過ぎる女傑であった!

      龍造寺隆信が娘婿一族を滅ぼすとは、戦国の世とはいえあまりにも理不尽な所業であった。

      そして今回紹介するのが、その龍造寺隆信の母・慶ァ尼(1509〜1600)である。

      慶ァ尼は本家村中龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ嫡子隆信を産んだ。

      九州も戦国真っただ中にあり、隆信は幼年期は寺に預けられたため一時期僧籍に身を置いていた。

      天文14年(1545年)に夫であった周家が殺されたため慶ァ尼は出家した。

      その間に龍造寺本家一族が謀略により殺されてしまうという悲劇が襲い、結果的には慶ァ尼の息子隆信が龍造寺本家を継ぐこととなる。

      本家を継いだとはいえ信隆の下では本家家臣団のまとまりも覚束ない状況にあったため、慶ァ尼は献身的に息子信隆を背後から補佐し続けた。

      慶ァ尼は隆信の冷徹な性格や粗暴な一連の所業を母として憂慮していたこともあり、はやくから優秀な補佐役となる人物を陪臣の中から探していた。

      中でも、隆信の従兄弟筋に当たる年下の鍋島直茂が14歳当時から隆信の近習の一人として仕えていたのが慶ァ尼の目にとまった。

      乱暴者の信隆にも機転のきく直茂はよく仕えたし、信隆とも馬が合って可愛がられてもいた。

      しかも直茂は武勇にも秀でていて、戦場でも殊のほか戦上手でその都度連戦連勝の武勲をあげていた。

      もとより鍋島家は龍造寺の陪臣として仕え、龍造寺家が存亡の危機にあった時代も支え続けた忠臣であり、直茂の父・鍋島清房は若い信隆の後見役でもあった。

      龍造寺に鍋島父子が味方し続ける限り、他の陪臣も国人らも離れることはないはずであった。

      慶ァ尼はこのとき信隆が継いだ龍造寺家の支配を盤石のものにするには、この鍋島父子の助力が是が非でも必要であることを確信した。

      そこで慶ァ尼は一計を案じた。


      tatami








      (画像は佐賀城内)


      直茂の父・鍋島清房が登城した折、慶ァ尼が自ら出向いて彼を呼び止めたのである。

      「清房殿は先年つれあいを亡くされたと聞いておりますが、まだ幼子もいてさぞや男所帯で難儀されておられることでしょう。そうそうここは私がよい後添えを捜して進ぜましょうぞ」といった。

      慶ァ尼は、龍造寺家の重臣として父子共々支えてくれている鍋島家のことを気にかけていたのであった。

      慶ァ尼は龍造寺後家といわれていたが、当時47歳でありながらその容色はいまだ衰えはいなかった。

      このとき艶然と優雅に微笑みかける慶ァ尼に、清房自身は恐れ入って心中戸惑うばかりであった。

      44歳の男盛りの鍋島清房にとって、主家の後家とはいえ慶ァ尼はまぶしく見えて仕方なかった。

      従来より総じて龍造寺家の女性は美形であるといわれ、遠国にまでその噂は広まっていたほどであった。

      そのように主君の母堂から新しい妻を迎えた方が良いと諄々と説き伏せられ、清房は一方的にその気にさせられてしまっていた。

      その勢いに押された清房は、ここは相手がいることだとして顔合わせ(見合い)だけでも応じるという約束を慶ァ尼としてしまった。

      それから数日後、鍋島清房の屋敷の前に前触れもなく花嫁行列の籠がとまった。

      このとき清房が在宅中であったのかどうかは分からない。

      花嫁は奥の座敷まで進んでいって清房と顔合わせしたはずであるが、すでに花嫁衣装で屋敷に入ったことは婚儀が成ったものと受け取らざるを得ない。

      こうした展開に清房はすべて慶ァ尼の指図との認識があったであろうが、とにかくこのいきなりの展開には驚いたはずである。

      さらにその花嫁が、後添えを真剣に勧めた慶ァ尼本人であったから二度びっくりである。

      清房は恐れ入ってここは必死に辞退したであろうが、慶ァ尼の決意は固くそのまま婚儀は成立してしまったのである。

      慶ァ尼という女性は常に胸に懐剣を忍ばせていることでも知られていたが、恐らくはこの婚儀が思い通りに成らなければ恥辱であるからここで命を絶つと言い切って清房の前でごり押ししたのではないかとも想像する。

      このときの慶ァ尼はそれほどに必死であったといえる。

      これによって正式に慶ァ尼は直茂の継母となり、主君龍造寺信隆とは義兄弟となったのである。

      後年隆信が島津との戦に敗れた時、直茂を肥前統治の後継者に推したのもこの慶ァ尼であった。

      この慶ァ尼の話は後世つくられたものだという説もあるが、この経緯を伝え聞いた徳川家康が慶ァ尼の思い切った行動を機会あるごとに称賛したとされるから、あながち作り話ではないといえよう。

























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      ラベル:慶ァ尼
      posted by モモちゃん at 13:01| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2016年02月23日

      芸のためとはいえ辛いことですね

      映画音楽をカバーする

      半世紀以上前の1959年に公開された映画「黒いオルフェ」を覚えておられるであろうか?

      映画でなくてその主題歌である名曲は、意外と耳にされているのではないだろうか。

      映画「黒いオルフェ」は、マルセル・カミュ監督のフランス・ブラジル・イタリア合作映画であって、同年の第12回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを、さらにアカデミー賞では外国語映画賞を受賞している。


      映画はギリシア神話のオルペウスとエウリュディケの物語を下敷きにして、その撮影舞台をカーニバルで盛り上がるブラジル、リオデジャネイロに設定されている。


      片田舎から出てきた若い娘ユーリディスは、カーニバル見物のため市電に乗って大都市リオ・デ・ジャネイロに到着する。

      そのとき市電の運転手である若者オルフェに始めて遭遇するのである。

      オルフェは子供たちからも慕われる好青年であり、歌とギターの名手でもあった。

      オルフェは従姉妹のセラフィナのもとを訪れたとき偶然にもユーリディスと再会するのであるが、オルフェは次第に魅力的なユーリディスにひかれていきミラという恋人がいるにも関わらず彼女と恋に落ちてしまう。

      嫉妬深い恋人ミラとの確執もあって、そこから悲恋物語が展開していく。

      映画も名作ですが、映画音楽も曲想がぴったりくる感じで名曲です。

      是非、「黒いオルフェ」を聴き比べてみてください。

      映画は字幕は出ませんが、雰囲気とかは十分に鑑賞できます。



      Dave Hinz Flute - Black Orpheus

       







      Black Orpheus / Manha de Carnaval - Anna Salleh and friends

       








      Black orpheus
       









      Orfeu Negro (黒いオルフェ)/Black Orpheus−Manha De Carnaval

       











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      ラベル:二股交際
      posted by モモちゃん at 12:48| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      ムーミン一家の身上書を作成いたしました

      あかりが灯る手造りムーミンハウス

      ムーミン一家が住んでいる屋敷を作ってみました。



      RIMG0163






















      中のランプが点灯するとムーミンハウスが輝くスタンドになります。

      淡い光が窓辺に灯ります。









      RIMG0166





















      ムーミン一家についてはトーベ・ヤンソンの原作を読めばそこそこ分かるのですが、創作過程においていろいろと情報が加味されていって、そのストーリーラインではいくつかの違いが出てきてるようです。

      もちろんムーミンは人間ではなく、トロールというフィンランドの妖精なんだそうです。

      ムーミンパパは孤児という出自ですが、収容されていた孤児院の院長と対立して脱走したといい、若い時は自称冒険家だったということになっています。

      要するにムーミンパパは、風貌に似合わずそれなりに血気盛んな若者だったということでしょう。

      ムーミンママとの出会いもその辺りがきっかけでした。

      ムーミンママが海岸沿いで遭難したとき、近くを航行していたムーミンパパに救助されたのがなれ初めなんです。

      二人の間に生まれたのがもちろんムーミントロールですが、彼ら一家は妖精たちが住むムーミン谷に居住しています。

      ムーミン一家が住んでいるからムーミン谷になったのかどうかはわかりません。

      ムーミンパパは大変な愛煙家でいつもパイプタバコをくわえていますが、実は自分専用のタバコ畑も持っていてこだわりのタバコ葉を栽培しています。

      タバコが体に有害なことを教えたいところですが、相手が妖精なので勝手にしてくれというところですね。


      ムーミンママはいつも不思議な黒いハンドバックを携行していますし、自宅の地下室には彼女専用の調剤室を持っています。

      ここらは何だか秘密めいています。

      実はママは、おばあさんから伝統的な薬草の使い方をしっかりと教わったようです。

      どうやら妖精も病気になることがあるということなのでしょう。

      だからムーミンママは料理や編み物も得意なのですが、家族皆の健康を保つ薬草も調合できるとても賢いママでもあります。










      RIMG2871





















      ムーミンの仲間にはリトルミーという女の子がいますが、彼女も同じ妖精です。

      リトルミーには長女にミムラねえさんがいるのですが、何とリトルミー姉妹には他に33人の兄弟姉妹がいることになっています。

      彼女らの母であるミムラ夫人は再婚をしていて大変な子沢山なんです。

      ミムラ夫人は格別美人ではないようですが、おっとりとした女性のようです。

      その彼女の20番目の子が、リトルミーになるわけです。

      ミムラ夫人の子供は35人という説もあって、姉妹が18人、兄弟が17人なんだとか。

      その姉妹18人の画像を確認すると、ミムラ姉さん以外の子たちは総じてどこかリトルミーの容姿に似ています。

      ミムラ夫人の子育ては大変だったということになりそうですが、そこは快活そうなミムラ姉さんが重要な役割を果たしていたのではないかと想像できます。

      意外なことにスナフキンはリトルミー姉妹の弟であって、戸籍上は異父弟になるようです。

      異父弟ではなく甥になるのだという異説もあります。

      やはりここらはちょっと複雑な家庭環境が窺えるところです。

      ムーミン家とミムラ家の関係でいうと、ムーミンパパとリトルミーのパパとはかっての冒険仲間であり親友であったようです。

      風貌は若々しくてスナフキンにそっくりなんです。

      きっとミムラ夫人よりもずっと年下なんだと思います。

      ムーミンの家では、ムーミンとスナフキンの居住スペースが一緒のようですが、孤独と自由を愛するスナフキンはときどき独りテント暮らしをしています。


      ムーミン一家は冬は冬眠するので、冬が来る直前にスナフキンは南の国へ旅に出ます。

      春になると再びムーミン谷に戻ってくるわけです。

      リトルミーが冬眠するのであれば、同じ種族としてスナフキンも冬眠するのが自然なような気がします。

      ただ物語の中では、スナフキンも一緒に冬眠する場面もあったようです。

      冬眠するかしないかの選択はわりと自由なのかもしれません。

      さらにリトルミーはムーミン一家の養子ということであり、ここらはとても複雑な関係が窺えます。

      ミムラ夫人の再婚とリトルミーの養子縁組とに何か関係があるのかもしれませんが、そこらの詳しい事情は分かりません。

      ミムラ姉さんがリトルミーの世話をしているようにもみえるのですが、ここらは大人の事情ということなのでしょう。

      ミムラ姉さんは夢見る恋多き娘ということなので、やはりここらはミムラ夫人と多少似ているのではないかと密かに思っています。

      ミムラ姉さんは色白でオレンジ色の髪ということでとても魅力的に描かれています。

      ダンスが好きでとても優しそうなミムラ姉さんは家事もよく出来て、ムーミンママとも気が合ってとても仲良しみたいです。

      本当は内緒なんですけど、ミムラ姉さんとムーミン谷の署長さんとは以前から親しく付き合っているのだそうです。

      これは知りませんでした。








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      ラベル:ミムラ姉さん
      posted by モモちゃん at 12:44| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2016年02月19日

      戦国時代、九州には美女がようけおりましたそうな

      戦国龍造寺家の美女伝説(1)

      通常戦国の美女といえばまずは織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘細川ガラシャ、さらには絶世の美女と言われた秀吉の側室松の丸殿こと京極竜子らがその筆頭に挙げられるであろう。

      これらの定説として登場する美女は主に近畿圏が中心であって、残念なことに当時の西国や九州地方まで網羅した評価ではなかった。

      つまりは現代一般に定説となっている部分は、いわゆる戦国の相対的な評価ということになる。

      当然のことであるが、むしろ全国的にみれば日本各地、それも都から遠く離れた地方にも多くの美女が居たはずである。

      たとえば松山城主であった三村家親の娘鶴姫(常山城主、上野隆徳の妻)が特に有名だし、九州にも多々美女として注目された女性たちが数多く居たのである。

      秀吉も九州に遠征した際には九州の美女には相当に驚いた様子で、あらためて九州での美女狩りを命じたと言われるほどである。

      戦国九州であれば、美女としてまずその筆頭に必ず登場してくるのがこの肥前龍造寺家の女性たちである。

      今回はシリーズで紹介していきたい。


      かって戦国九州の肥前に龍造寺隆信という武将が居た。

      豊後の大友や薩摩の島津と勢力争いを繰り返していたが、自からは五州二島の太守と自負していただけに、周りからは肥前の熊と恐れられていた。

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      風貌が威風堂々とした巨体であり、見る者に黒クマのような印象を与えたのである。

      隆信は幼少期には僧籍にあったが、戦国の例にもれず後年還俗して滅亡寸前の家督を継ぐことになった。

      当初、なかなか家臣団が一つに纏まらず苦汁を舐めるような時期もあったとされる。

      隆信は体格、膂力が人並み以上に優れていただけではなく、博覧強記の頭脳と調略面でもあれこれと智謀が働いただけに、次第にその勢力を急拡大させていった。


      だが、生来の猜疑心の強い性格と残忍さがあって、従属していた国人もたびたび離反した。

      その非道な振る舞いや傲慢さは戦国武将の筆頭織田信長にどこかしら似ていなくもないのだが、いまひとつ人気がない悲運な武将ではあるのだ。

      意外にもそうした戦国の龍造寺家には、他国にも知れ渡るような美女が3人いたといわれる。

      しかもその3人ともみな龍造寺隆信とのかかわりがあった。


      @龍造寺隆信の娘、玉鶴姫といわれる女性。

      A龍造寺隆信の娘、安の方(於安・秀の前)。

      Bそして隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)の3人である。

      肥前の黒熊のような隆信の下で二人の姫様はすくすくと美しく育ったのは確かである。

      龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたが、実はそのうちの一人安の方は隆信の娘といっても実子ではなかった。

      本家筋である龍造寺胤栄が若くして亡くなったため、隆信がその後を養子として継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘が隆信の下に引き取られたわけである。

      安の方は当時3歳であったという。

      後に二人の娘たち、玉鶴姫と安の方は隆信の手によって有力な国人との政略結婚の道具とされた。

      戦国時代の決まり事ではあったが、これが彼女らの悲劇の始まりであった。

      それまで龍造寺家は二代に渡り滅亡寸前まで追い詰められたが、その度に柳川の蒲池鑑盛の庇護により家が存続出来たという経緯もあって、隆信は娘の玉鶴姫をその大恩ある蒲池鑑盛の嫡子鎮漣に嫁がせており、当然そこには実質的にも両家が親戚関係にあったことは確かである。

      ところが隆信は戦略的にも要害の地である柳川を我がものにせんと企み、一方的に2万の兵をもって攻めよせた。

      鎮漣は柳川城の籠城戦で巧みにこれを防戦し龍造寺を一旦は撃退したが、終には親族の仲介で隆信と講和せざるを得なかった。

      龍造寺隆信はその後も執拗に策を弄して鎮漣を欺き、肥前に誘い出して騙まし討ちにしたのである。

      鎮漣は当初隆信の誘いを警戒していたし妻の玉鶴姫も父隆信の企みを予感して夫を必死に引きとめたが、義理がたい鎮漣自身は終には覚悟して義父隆信の元へと出立したのであった。

      隆信は訪れた鎮漣一行を囲い込み殺害した後、すぐさま柳川に軍勢を差し向け一気に蒲池鎮漣一族を殲滅してしまった。

      このとき蒲池鎮漣の妻だった玉鶴姫は、父隆信の元へ帰ることを拒否しただけでなく蒲池の支城であった塩塚城の近くまで逃れて夫鎮漣の後を追って自害した。

      鎮漣と玉鶴姫との間には娘が居たというが、非情にも隆信に殺されたという。

      天正8年(1580年)、こうして戦国の美女玉鶴姫は、その運命を翻弄されて無残な最期を遂げてしまったのである。












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      ラベル:龍造寺隆信
      posted by モモちゃん at 21:25| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2016年02月17日

      16世紀の戦時経済を裏で支えたビジネスモデルとは

      アフリカ方式の奴隷狩りが最新ビジネスモデル?

      学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
      いまさら歴史認識がどうした?

      戦国の奴隷取引は当たり前だったのか?
      戦国のキリシタン大名は輸出入税収入で潤ったのか?
      何故に九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていたのか?


      東洋医学史研究会
      宇田明男




      ●奴隷供給とアフリカ方式の導入の経緯

      宣教事業の手始めとして、まず周辺諸国でもっとも力のある戦国大名に近づきその信任を得るという手法がとられた。

      そのためにはまず南蛮の珍しい貢物を贈って為政者の関心を引く。

      領主に宣教活動の許可と支援を事あるごとに陳情する。

      南蛮との交易によってその都度独占的利益がもたらされることを示す。

      最も重要なポイントは、戦国大名が関心を示す鉄砲火薬の供給を宣教師を介して提供できることをそれとなく表明する。

      これらは明らかな交換条件である。

      大名から彼らの布教に対して積極的な協力が得られれば、さらにその見返りとして戦略に必要な鉄砲弾薬の供給を優先的に手助けするという有利な条件を提示してみせる。

      このようにして、南蛮勢力と友好的な大名は新兵器鉄砲を装備することによって、その勢力はますます強大になっていった。

      さらには熾烈な鉄砲による戦闘が各地に拡散し、いよいよ戦国の様相が強まっていく。

      彼らは多くの諸大名の中から、まず織田信長に白羽の矢を立てた。

      信長の勢力が拡大すれば、一気に邪魔な異教徒を抹殺排除していくことも可能になるわけで、イエズス会は頻繁に信長に接触して高価な南蛮渡来の贈物を贈った。

      軍事物資の硝石が搬入される堺の港を逸早く戦略的に掌握できたのも、当時彼らともっとも友好的であった信長の勢力であったことはただの偶然ではなかった。

      背後には、イエズス会の周到な戦略があったからである。


      dorei3このように、もっとも優位にある王族に接近して宣教上の庇護を請うたり、多くの奴隷を狩り集める側に積極的に、且つ戦略的に鉄砲弾薬を供給していく手法はアフリカ方式とまったく同じであって、これこそがポルトガル商人の巧妙な奴隷確保のやり口であった。

      いったいアフリカ方式とはどのような手法なのか?

      南北アメリカ大陸には19世紀までに1000万人以上の黒人がアフリカから奴隷として奴隷船で移送された歴史的事実がある。

      しかも移送された黒人奴隷のうち何割かは劣悪な環境の奴隷船内で死亡したため、死体は海中に遺棄されたのである。

      奴隷数が1000万というはにわかには信じがたいところであるが、これには奴隷確保と奴隷船に特化した独自の移送マニュアルがあった。

      奴隷商人は商品としての奴隷の輸送コストを抑えそこからの儲けにきわめて敏感であったが、奴隷の確保にも大いに知恵を絞った。

      それがアフリカ方式といわれる奴隷確保の独特の手立てであり、ヨーロッパの奴隷商人たちはアフリカでの奴隷狩りの効率を上げるための狡猾な手法として導入していった。

      アフリカでも奴隷狩りが進むうちに沿岸部周辺では黒人が激減して次第に奴隷の確保がしにくくなっていったのであるが、そこでこのアフリカ方式が考えだされた。

      奴隷を狩る側の有力な黒人部族側に新兵器の鉄砲を売り付け、一方に圧倒的な戦力を持たせることでさらに奴隷となる捕虜確保をよりやり易くさせていったのである。

      これによって奴隷市場はアフリカの内陸部まで急速に拡大していったし、同時に鉄砲に必要な火薬の供給も彼らの独占的利益が確保されるという好都合な展開が達成できたのであった。

      この結果アフリカから南北日本に渡来した際もこのアフリカ方式のマニュアルが最大限に活用されたわけで、信長はもちろんのこと当初より好戦的な九州地方の戦国大名らにもこの手法が使われていった。

      特に九州ではアフリカ方式が最も効果を発揮して、結果的には奴隷売買の取引そのものが広範囲に拡大していくこととなった。

      九州地方は海上輸送に適した地政学的条件さえもが揃っていた。

      沿岸部の小さな港には奴隷移送用の舟さえも用意されていたし、これによって各地で転売された奴隷は次々とより大きな交易港へと集積されていったのである。

      ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

      有馬や大村、大友の九州の有力なキリシタン大名がまさにそれである。

      事実、有馬や大村、大友のキリシタン大名は、イエズス会の軍事的支援があったからこそ敵対する竜造寺や島津の軍事的侵攻にどうにか耐えられたのである。

      九州の戦乱拡大によって鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させることを可能にした。

      さらにポルトガル商人らは利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

      その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートとを戦国の日本でも見事に確保したわけである。



      ●戦国九州の奴隷取引の実態

      九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった戦国の諸大名も、奴隷貿易には当然関与していた。

      鉄砲に必要な火薬や鉛玉を入手するためには戦略上直接、あるいは間接的に関与せざるを得なかった。

      戦国大名である彼らに共通することは、軍団の中に鉄砲隊を早くにその戦力として装備していたことであり、それによって熾烈な戦国時代を生き延びていたという事実である。

      戦場で殺戮を繰り返す戦国大名らが、奴隷取引には一切関与しなかったというような都合のよい詭弁はここではまったく通用しまい。

      それこそ、彼らが生き残っていくには鉄砲や弾薬は必須の最新の軍事物資であったのだ。

      まさに新兵器鉄砲が戦国大名の軍事バランスを短時日で一変させてしまったのである。

      しかし鉄砲も弾薬も当時はきわめて値のはる軍需品であった。

      しかもそれを手に入れるには宣教師を介してでなければ、肝心の取引が一切出来なかったのである。

      ここでも宣教事業優先の条件が南蛮貿易の鉄則であった。

      交易の利潤の中から、教会には一定の取引仲介料が支払われたのである。

      たとえ南蛮との交易の場に彼らが参加できたとしても、そこで大量の金銀や対価として交換できる交易商品が用意できなければ取引そのものは成り立たない。

      とりわけ九州の大名は弱小であった。

      ここで取引を仲介する宣教師が打開策を探るべくそれとなく両者に耳打ちする。

      大名が交易上の対価として現物商品の奴隷を差し出せば、ポルトガル商人はその取引に渋々応じて見せたわけである。

      ここからはいわゆる奴隷取引に移行していくわけで、日本人が同胞を家畜同様に海外の奴隷商人に転売していった当時の南蛮貿易の様相がここでははっきりと見えてくることになる。

      後は相互間の需要と供給の問題である。

      戦乱が続けば続くほどに、奴隷取引そのものは増加し規模も拡大していく。

      戦乱に巻き込まれ収奪された土地や村は無人状態になるほどに当時の人狩り(奴隷狩り)は過酷なものであった。

      戦のたびにそこからは夥しい数の戦争難民が捕虜として奴隷狩りされていった。

      キリシタン大名に売られた捕虜が、奴隷としてスペインや遥か南米アルゼンチンまで通商航路を経て転売されていった記録もいまでも残されているが、こうした奴隷貿易なしには大名といえども戦国時代を強かに生き延びていくことは不可能であったということになろう。

      (注)ニッケイ新聞(2009年4月9日付け)ブラジル国サンパロ州サンパウロ市発行
      「日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人」より以下、引用。
      「博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。  驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。」(引用、終わり)


      戦国時代に取引された奴隷の人数については諸説があるが、日本人だけでも戦国時代を通じて数十万人はその被害者となったのではないかと考えられる。

      黒人奴隷1000万に対して数十万では少な過ぎるだろうか。

      九州で奴隷貿易が行われていたのは数年間のことではない。

      奴隷取引が顕著になり始めた1550年以降から日本が鎖国体制(1639年・寛永16年)に至るまでの期間を考えると、この約100年間に奴隷もしくは自主的な渡航者(傭兵、商人、労働者)の人数なども含めれば海外渡航者数そのものは相当な数にのぼるはずである。

      中には自ら奴隷として契約して渡航する者や海外で生きていくうちに奴隷になった者も少なからずいた。

      武士であれば、南蛮の使い捨ての戦闘員、傭兵として需要があり、彼らも買われたのである。

      それには九州から買い取った奴隷を南蛮船が直接移送することもあったが、日本や中国、東南アジアの多くの貿易商人の輸送船が朝鮮半島を経由して奴隷集積地の中国マカオまで輸送していったわけであるから、奴隷の需要拡大とともに相当数の船が頻繁に行き来していたことになる。

      活況を呈していたマカオの奴隷市場では、それぞれの需要に応じて転売先を振り分けられ各地に移送されていった。

      現実にはマカオの市場がアジアの拠点として20世紀まで存続していた事実を考えれば、日本人の渡航や帰国が幕府によって禁止された1635年(寛永12年)直前まで日本人奴隷取引は続いていたということになる。


      こうした戦争捕虜に対する扱いは九州でも変わりはなかったが、早くから海外との奴隷取引がされていたことでその様相は大きく違っていた。

      当然のように、戦闘に晒された土地では奴隷狩り目的の人狩りや異教徒狩りといった侵略行為が多発していた。

      九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした侵攻を続けていた。

      豊後の大友氏の軍勢は筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の奴隷狩りを行ったし(「宗像市史・史料編中世」参照)、豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

      九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

      戦場ではそうした奴隷狩りが当たり前のことであった。

      九州遠征時には、まだ秀吉の奴隷取引禁止令は出されてはいなかったのである。

      当時の天草や島原半島での実際の奴隷狩りや戦争捕虜の海外移送については、ルイス・フロイスが詳細に記録している。

      「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

      ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、このときすでに九州諸国では相当数の人買い商人や海賊が横行していた事実が窺える。

      「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

      「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

      これらは1588年から1589年当時の奴隷に関わる様相が具体的に記されているわけであるが、実際には南蛮人が渡来して以降数十年間にわたって継続的に行われていた人身売買の実情そのものであったことに注目しなくてはなるまい。

      皮肉なことに九州の奴隷売買の事実を示すものとしては、このフロイスの記録がもっとも明確なものであろう。

      実際にはキリシタンであろうと奴隷になれば海外にさえ転売される運命であったし、すでに九州から中国マカオへの奴隷移送のルートもその交易と積み出しの拠点もこの地にはすっかり出来上がっていたのである。

      転売されたそれらの奴隷は九州各地の港から天草や口之津、長崎、平戸、博多へと集積転売された後さらに海外の市場(マカオ)へと奴隷船で移送されていった。

      ここでの奴隷輸送船は南蛮船だけではなく、多くの輸送船が中国や東南アジア方面からも続々と押し掛け積み出し港は活況を呈していた。

      「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった」フロイス『日本史』8-268」

      「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった」(フロイス『日本史』8-314」)

      買い取られたこれらの夥しい奴隷は、最終的には九州からの輸出品として次々と中国のマカオの奴隷市場へと送り込まれていった。





      削除されなければこの稿続く




      参考文献
      「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
       1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
       2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
       3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
       4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
      5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
       6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
       7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
       8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
       9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
      10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
      11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
      12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
      「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
      「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
      「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
      「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
      「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
      「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
      「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
      「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
      「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
      12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
      2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
      4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
      「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
      「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
      「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
      「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
      「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
      「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
      「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
      岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)








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      posted by モモちゃん at 09:46| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2016年02月16日

      人工天体の月面には直線状の繋ぎ目がある!?

      月の内部には巨大な空洞がある?

      もう随分と以前の話なのだが、知り合いに不思議なお爺さんが居た。

      若い時にどのような職業に就いていたのかは知らないのだが、晩年近くにはさかんに四柱推命などの占いを仕事にされていた。

      何やら山に籠って厳しい修行もされたということであったが、あるとき不思議な事を口にされた。

      お爺さんが言うには、修行をすると木々の間で囀っている小鳥たちの会話が分かるようになるというのである。

      小鳥はただ鳴き合っているのではなく、人間のように互いに会話が出来るというのだ。

      行を重ねていくと、そうした特殊な能力が身に就いてくるのだという。

      これには驚いてしまった。

      さらにお爺さんが言うには、「誰も気付いてはいなだろうが、あの地球を回っている月の内部には巨大な空洞部分がある」というのである。

      驚きである。

      これもにわかには信じがたいことではあるが、月はただの衛星ではなくどうやら人工物であるかのようなニュアンスで話されたのには、当時の私は狐に鼻を摘ままれたような気分になった。

      このことを今振り返ってみると、本当は誰かによってこのことはすでに調査確認されているのかもしれないとも思うのである。

      ただそうした情報が隠されているだけなのかもしれない。




      宇宙飛行士が月面上で目撃遭遇した戦慄の恐怖の正体! UFO Alien Apollo surface of the moon










      月 UFO 謎の人工物 GoogleEarth unidentified flying object Artifact of the moon

       








      月UFO,月面都市

       








      661B+660再検証(月面のエイリアン基地)Aliens Base on

       









      590 月面上の謎の線+UFO(Strange Lines and UFOS on the Moon

       







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      ラベル:月面探査
      posted by モモちゃん at 12:16| 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2016年02月15日

      日本占領統治下GHQは武道を禁じたのであります

      武道の神業を観る

      武道はスポーツではないということで、先の大戦直後はGHQ占領下では武道家の一切の活動が厳しく禁止された歴史がある。

      武道は単に肉体を鍛えて、その腕力だけを競うものではなかった。

      もとより強靭な精神を養い、心身を鍛練していく過程そのものはどこまでも孤独である。

      GHQは、日本占領統治下において武道の秘めているそうした不とう不屈の精神性をもっとも危険であるとみていた。




      【柔道】はっはっは。これが爺の動きか。。。。まるで勝てる気がしねえorz[神業]








      【合気道】怪物・塩田剛三の神業と合気道VS空手の貴重映像まとめ【Aikido】

       







      【神技動画】2回目どうやって抜いたwww黒田鉄山による居合術演武 これは神動画!

       







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      posted by モモちゃん at 12:21| 歴史再発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする