2016年03月30日

先進のテンセグリティの発想が期待される

テンセグリティは何だか癒し系

テンセグリティ (Tensegrity) は、tensional と integrity の造語で、引っ張る力と圧縮する力によって均衡を保たれるバランス構造(体)のことです。

建築や造形での構造のバランスを考える時や、さらには最近では整体分野でも人体の筋肉と関節の動きを考慮する時の検討材料としても注目されているものです。

簡単な材料でテンセグリティが造れるというので、今回挑戦してみました。

細い木材と輪ゴムがあれば誰でも簡単に作れます。

さっそく材料を切り揃えました。

直径8ミリの円柱形の材料を12センチ幅に切り揃えたスティックが6本。
輪ゴムが6本。

これに、なくてもいいのですが、スティックの両側を固定する工作用の球状の材料を別に用意しました。




RIMG0731
















このスティックの両端に輪ゴムを引っ掛ける溝、切り込みを付けます。




RIMG0732
















スティックの太さが8ミリ程度のでないと切り込みするのに作業がやりにくくなります。

端にドリルで穴を開けてから斬り込みを入れました。





RIMG0733

















材料がそろった時点で、スティックの両端に輪ゴムを引っ掛けます。

材料を組み合わせるのに、釘や接着剤は一切使用しません。

スティックと輪ゴムだけの簡単な構造体です。



RIMG0734

















簡単な構造体なのですが、これがなかなかうまくいかず手間取りました。

組み合わせる途中で輪ゴムが飛んだり、スティックがはじき飛んだりと一人で作業をやると結構大変です。

輪ゴムの張力を利用してスティックをバランスよく組み合わせていく作業ですので、これがなかなかうまくきません。



RIMG0735


















途中までやりかけてまた最初からやり直しの連続で、ここらは何度も試行錯誤します。

まるで知恵の輪のような状態です。



RIMG0736
















うん?ようやくバランスが取れたようです。

このままで構造体が保持できれば、ようやく完成です。

これが自作第1号のテンセグリティ作品です。



RIMG0737
















それぞれのスティック6本が接することなく保持されています。

輪ゴムの張力だけで保持されていますので、揺らすとプルプル揺れ動きます。

輪ゴムが筋肉、スティック部分が骨格という感じです。

一か所の張力バランスが崩れると全体の構造が歪みます。

張力バランスが均等に保てていると構造体は弾力のある動きで、外からの外力に揺れながらたわんでもとの形に戻ります。

押しつぶしても瞬時に元の構造体に戻ります。

玩具と言えば玩具なんですが、とても不思議なバランス構造をした造形物ということになります。

テンセグリティ自体はアマゾンでも簡単に購入できるのですが、これは1から造ってみなくては理解できないだろうと考えて今回思い切って挑戦してみた次第です。


















denden 














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2016年03月26日

不倫と精力絶倫との文化史的相関関係を考察する

精力絶倫が悪いわけではない

「精力」という言葉があるが、これは如何にも東洋医学的意味相が強い。

さらに武道の世界では「精力善用」という、己の行動哲学ともいうべき明確な教えがある。

精力を発散するにも心して善用しなければ、欲望のままではそれこそあらぬ方向に突っ走ってしまうことになる。

その結果、身を損じ、大恥をかき、世間を騒がせ顔向けできぬ事態をも招きかねないわけだ。

ならば、いったいその精力の実体とは何なのか?

「精力善用」とて、根底には東洋的な思想としての節度ある君子の道が示されているわけであるが、それはむしろ表面的な事象に過ぎないのだ。

というのは健康面でみたときの相対的な体力というか、それこそ全体的観点から評価される精神的肉体的活力を指しているからである。

さらにそのなかには当然のことであるが、性的能力に繋がる意味も含まれていることを忘れてはならない。


今回は固い話をより固くして、私見を述べてみたいと思う。

2千年以上前の古代中国では正統な医学と隣合わせに房中術(玄・素の術)が幅を効かせていた。

これなどは、部分ではなしにト−タルな身体論で人間の生理を認識し、その上で集約された方術理論を展開していくという、いかにも東洋的発想が全編に横溢して非常に興味深いものである。

これは東洋独自の考え方である。

しかもそのベ−スとなる古代中国の陰陽五行説や随所に混在する医学知識のその多くが、 古代の内経医学からの借り物か、こじつけである事実も見逃せないのである。

具体的に言うと、この陰陽五行説にしても房中術に必ず出てくる「七損八益 」にしても、これらは『黄帝内経素問』の「陰陽応象大論」を下敷きにしているわけである。

いうまでもなく「陰陽応象大論」では人体と天地自然の陰陽理論を展開し、 その調和のもとに人間自身ができるだけ陽気を温存し、天寿を全うしていくことを教えているものである。

ところが房中術はその背後にある神仙思想にからめて、ここから飛躍した理論を持ち出してくる。

人体の陽気を養い、堅持して天寿を全うするという中国医学の根幹になる内経医学の理念に対してあらゆる病が自ら癒え、しかもその術を極めることにより、不老不死の道が開ける秘伝の養生法があるというわけである。

もともと房中術というのは神仙思想から出てきたものであって、医術とは似て非なるものであるが、ここのところの発想が実に紛らわしいのである。

そこに伝説上の有名な黄帝や神仙の彭祖を引き出してくるところがまた面白い。

彭祖は一夜に四十八人の女を御したとか、四十九人の妻を持ったとか言われる神仙であり、黄帝などは房中術を極め一千二百人の女を御して白日昇天し、仙人の列に入ったというのであるが、これらに続けとばかり理論展開するわけである。(1万2千人なら、仙人の列に十分に入れるはず)

『漢書芸文志』では方技類を整理して、医経・経方・房中・神僊の四種に分 けているが、房中術は保健養生術の類として扱われている。

というのは、この『芸文志 』の解説部分に次のようにあるからである。

「房中、情性の極にして、至道の際なり。是を以て聖王外の楽みを制して、 以て内の情を禁じ、而してこれが節文を為す。伝に曰く、「先王の楽みを作すは、百事 を節する所以なり」と。楽んでは、節有れば、即ち和平寿考なり。迷者顧みざるに及んでは、以て疾を生じて性命を隕す。」

ここが房中術の最も面白いところである。

日本で編纂された医学全書『医心方』房内にあるように房中術を正しく行なわなければ「夭折の慚有り」、そして正しく「陰陽の術を得ば、即ち不死の道なり」というのである。

しかも伝統的な医学の存在する一方で、このような神仙思想が信じられていたというところがまた愉快でもある。

事実古代中国の王侯貴族たちは、医師とは別にこうした房中術の専門家(方 術士)を側に置いて指導を受けていた。

私がここで最も関心を持つのはやはり医術との関わりである。

たとえば精力減退、 性的不能という症候を一例にとってみよう。

現代的にインポテンツ(ED: Erectile Dysfunction; ED)の一語で片付けられてしまうといかにも部分的機能 低下、失調に聞こえるが、この場合などはむしろ東洋医学的に、房労(房事過多)によって腎水を渇かし腎虚、房労傷、房室損傷となり、その結果としての性的不能と言った方が辻褄が合うように思う。

『医心方』房内に、「玉房秘決に云う。冲和子曰く、夫れ情を極め欲をほしいままにすれば、必ず損傷の病あり。斯れすなわち交験の著明しきものなり」とある。

だから「夭折の慚有り」なのであるが、房中術の中ではこのように房労の認識が極めて明確なのは注目すべき特徴である。

この影響で唐の時代になると、かえって『諸病源候論』などの医学書では虚労損傷(腎気衰弱,腎気虚損,腎虚)がことさら重要視されている。

「腎は精を蔵す。今腎虚し精を制すること能はず」、「腎気虚損。精を蔵すること能はず」と、『諸病源候論』虚労病諸候の下にあり、そこには多くの病症が書かれている。

『備急千金要方』を著した孫思貌にしても、養生の中で積極的に房中術を取り上げて解説をしているところをみると、彼なりに相当な認識があったと考えられる。

こうした流れは丹波康頼の『医心方』に受け継がれ、さらに後世の朝鮮医学の集大成であるところの『東医宝鑑』にも少なからず影響を与えている。

この許浚(ホジュン)の『東医宝鑑』内景篇では「精は人身の至宝なり」といい、さらに 雑病篇・虚労でも男子の病はまず房労を疑えと教えていることでも分かる。

精こそが生命エネルギーの源泉であるとの見方である。

また許浚の記述によると、精の質量自体は身体中に通常一升六合あるとされ、この精の蔵制が極度に充満すれば成人の場合3升ぐらいにまでなるという。

3升もあるというのは、結局体内の血液成分ということなのだろうか?

そうなると結局精力そのものは相対的な数量認識が可能ということになってくる。

ここに精力の相対量に自ずと個人差が生じる理由があるとされ、同時に養生の必要性が出てくると いうことになる。

それは精力の温存ということであり、相対的比較でいうならばいわゆる精力絶倫ということになる。

巷で言うところの精力絶倫とは一体どういうものなのか?

そこでこの精力の個人差について具体的に資料を上げてみようと思う。

とはいっても、こうしたものに関して科学的、また医学的なデ−タの存在を残念ながら私は知らない。

どうやらこうした身体機能を総合的に評価統合していく見方は、現代医科学には得てして馴染まないようである。


ただ、いままで書物の中で散見した歴史的記録として明記されているものをここではいくつか記憶のままに上げられるだけである。

たとえばフランス文学で有名なヴィクトル・ユゴ−は精力絶倫ということでも知られていた。

彼自身の告白によると、新婚の夜彼は新妻を九回愛撫したという。(『ヴィ クトル・ユゴ−の生涯』アンドレ・モロウ,『新編・フランス文壇史』河盛好蔵)

また歴史書『チェ−ザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(塩野七生著)の記述 によると、チェ−ザレはフランス国王ルイ十二世によって初夜の絶倫ぶりを証言されている。

そこには次のように書かれている。 「ヴァレンティ−ノ公爵(チェ−ザレ)は、私の時よりも、四本も多く槍を 折った。二回と、夜食を取った後、さらに六回もである。」とある。

十六世紀のイタリアのプラント−ムの作品として知られる『艶婦伝』による と、かってロ−マ人が一夜に十二回という最多記録を残していることが書かれてあった。

この書物は以前は新潮文庫の外国文学に含まれていたが、残念なことに現在絶版になっている。

十八世紀ロココの時代に活躍したカサノバの実録回顧録によると十回という記録がある。

『カサノバ回顧録』も以前はしっかりした全集が出でいたが、現在はこれまた絶版となっている。

日本でもこの種の有名な記録はいくつかあって、古いところでは『日本書紀 雄略天皇元年三月是月条』 に「七度」云々という具体的記述があったように記憶する。

近代では小林一茶の日記、さらに戦後の文献ではディック・ミネの『すりこぎ随筆』(光文社刊)等で確認できる。      




















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タグ:東洋医学
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2016年03月25日

日本人だけが知らない軍事医科学の世界

嫌がらせ・悪意のある電磁波攻撃に対応策はあるのか

いきなり「電磁波攻撃」というと何だかSFの世界のことのように思われがちですが、戦前日本でも電磁波による兵器開発が試みられていました。


当時の技術力では実現は出来なかったのですが、初歩的な原理は電子レンジに似たような発想だったようです。


その存在が現実に具体性を帯びてきたのは、かっての米ソの冷戦時代にモスクワの米国大使館が密かに電磁波攻撃を受けていたという海外情報に接したときでした。


外交上の見えない嫌がらせ、陰湿な攻撃として出てきたもので、大使館職員の体調不良が続いたことで調査されて発覚したといいます。


これにはとても驚いた記憶があります。 このときはただ単純に、電磁波を使って何らかの嫌がらせや身体攻撃が出来るということにまず驚いたというわけです。


【電磁波の種類】
[低周波 → → → → → → → → → → → → → → → →高周波]

超長波 長波 中波 短波 マイクロ波 ミリ波 赤外線 可視光線  紫外線 X線 ガンマ線
[→・・ ・・・・・電波」・・・・・・・・← →・・・・・・・・「光」・・・・・ ←  → ・・「放射線」・・←]


光や電波、音波、放射線は物理学でいえばすべて電磁波であって、電磁場を伝わる波動の振動数によっては放射線のように生命を脅かすような高エネルギーの電磁波も存在することになります。


しかもその電磁波の種類によっては目に見えませんから、たとえ被曝してもまったく気付かないわけです。


医療用に使われるマイクロウェーブ治療器などですと、体の深部まで電磁波が浸透して細胞が振動するのである種の温かみを感じます。


調理に使われる電子レンジは高出力で食品を短時間で温めることが可能ですし、温めるということでは原理は同じです。


人体内や食品などに含まれている水分子が、電磁波照射されることによって激しく振動し熱が発生するというものです。


現在では工業用のレーザー加工機や医療用のレーザー、さらに欧米ではすでに本格的なレーザー兵器などが開発されていますが、これらは物理的に光(電磁波エネルギー)を増幅し収束させて周波数を一定に保ちながら指向性を高めたものです。

これらはある程度振動エネルギーが高い波動が使われているのですが、一般には同じ原理でレーザーポインターなどが市販されています。


商品としては安全基準に適応した物が売られているのですが、それでも使用する際にはいくつかの注意点が挙げられています。


それには、
・レーザーポインターを人体に向けては照射しないこと。
・本来の目的外の用途では使用しないこと。
・鏡やガラス等の正反射するものに向けて照射しないこと。
・レーザー光線は直接目に入ると網膜に障害を起こす危険性があるので、レーザー光線を絶対に直視したりのぞいたりしないこと。
・レーザー光線は性質上かなり遠くまで光の出力が減衰せずに直進し到達するので屋外では使用しないこと。
・レーザー光線が目に入った場合は、直ちに専門医の診察を受けること。
・レーザーポインターを子どもに使わせないこと。
といった項目があります。


ご存知のようにレーザーポインターの光線はとても指向性の強い光線です。


最近ニュースにもなりましたが、はるか上空を飛行する航空機のパロットの目にまで届くような指向性があるのです。


低出力のレーザーポインターでさえも使い方によっては、人体の感覚器である目に障害を与える危険性があるということなのです。


同じように強烈な音(電磁波)は人体の感覚器である耳の聴覚を傷めることがあります。


皮膚も熱線(電磁波)や紫外線(電磁波)が強く働くと火傷や水泡が出来てしまいます。


つまり光線や音波という電磁波は、人体の感受性のある器官、受容器に対して度を超すと悪い影響を与える物理的エネルギーなのです。


現段階ではこうした物理的な電磁波が、人体のもっとも敏感な感覚受容体である目や耳、皮膚などに影響するということなのですが、それ以上の身体的精神的に影響はないといえるのかどうかまでは分かりません。


音や光という物理的波動は人体の感覚器官でそれぞれ感知できるわけですが、実はこうした電磁波により過敏に反応する人が少なからずおられます。


その場合も強い電磁波エネルギーがあるから、そこによりはっきりした身体的悪影響が出現しているのだとは一概にはいえないのです。


たとえば実例を上げますと、人によっては蛍光灯の真下だと気分が悪くなるとか、ヒゲ剃り機器を使うと調子が悪いとか、あるいは自動ドアの傍に近づくだけで体がビリビリすると訴えてくる方がおられます。


ここらの反応には個人差、個体差というものがあります。
こうした場合一般には電磁波過敏症だといわれていますが、意外なことにこれは正式な病名ではありません。


電磁波過敏症とは、医学事典にも一切記述がない仮の傷病名に過ぎません。 医療機関に行っても電磁波過敏症ということでは保険治療も一切受けられませんし、それに対応するような治療法とてありません。


電磁波過敏症は日本では医科学的に認知されてはいないのです。


ですので、ここで電磁波攻撃といっても一般社会ではまったく認知されていませんので、たとえそのような事態が出来していたとしても現状では加害者が摘発されたり処罰されたといった展開にはならないと思われます。


現代社会では大量の電磁波が充満していますから、仮にそうした嫌がらせの手段がとられたとしてもその電磁波を特定することはまず不可能ということになります。


さらにいえば、一般論として今現在電磁波による身体への障害が認定されていない以上、実際には特定の電磁波で何らかの身体的被害を被ったとする証拠立てが出来ない可能性が非常に高いということになります。


しかしながら巷には個別に電磁波攻撃の被害を受けているとか、電磁波照射用の機器などもネット上には多くの情報として存在しています。


現代社会の世相を反映してそうした悪意を持った嫌がらせ攻撃を想定したり機器類を使用したりということは、当然考えられるわけでまったく無関心ではいられないことになります。


ここでいえることは、出来るだけ不必要な電磁波は意識して身体に被曝しなようにして、電磁波環境を出来るだけ少なくする生活空間を造ることが重要だと考えます。


それが個人レベルで出来る対応策であり、最良の防御策だと思います。


暴徒を鎮圧するシステムも欧米や中国では非殺傷レベルの電磁波が使われようとしています。


暴徒をその場から速やかに退去させることのできる米軍の新しい非殺傷兵器「アクティブ・ディナイアル・システム(Active Denial System、ADS)」などがすでに登場してきています。


有効射程距離1キロの電磁波照射システムを標的に向かって作動させるもので、照射された暴徒は耐え難い「熱感」を全身に感じることになります。



このように電磁波照射だけで暴徒は簡単に制圧できるのです。


電磁盤は、どんな場合に活用できるのか?


「電磁盤」は、 1個づつの手造り製品で大量生産品ではありません。外観も黒いゴム面で被覆されていて、見た目には決してかっこよくはありません。でもすごい機能を秘めています。(※電磁波過敏症の不安のある方、すでに過敏症や不眠で苦痛のある方にご利用いただくことを主対象といたしております)



室内のパソコンや身近な電気製品、タップからの過剰な電磁波、電磁誘導が気になる方 日常生活レベルでの「電磁波過敏症」、「電磁波ハザード」「原因が特定されないアトピー症状」で困っておられる方 店舗入り口の自動ドアの電磁波や照明器具の電磁波に不快感を感じて困っておられる方 パソコン操作中の不快な頭痛やもやもや感、肩凝り、首のこわばりや痛み、しびれ、まぶたの腫れ、目の疲れ、耳鳴り、慢性的な不眠症が気になる方車を長時間運転すると、目の周りが腫れたり顔がむくんでしまう方老年期でもないのに白内障傾向が指摘されている方 自動車運転中や通勤電車内で頭痛や肩・首筋の引きつるような筋肉痛や不快感、吐き気、めまい、疲労感に悩まされる方 自宅周辺もしくは隣接する工場、電柱トランス、送電線・変電所施設からの電磁波が気になる方 マンションなど壁越しに隣接する部屋からの変動電磁波が気になる方外部からの悪質な電磁波照射にさらされている方



店内設置の盗難防止装置の電磁波レーダーに不快感を感じる方 電磁波調理器具、ガス器具点火プラグの電磁波や静電気による皮膚のピリピリ感や掻痒感(カユミ)、目の不快感が気になる方 携帯電話やテレビゲームを頻繁に使用していて心配な方 職場でのレジスター、事務機器、モーター類の周辺でのもやもやした不快感を解消したい方 ドライブ中のペットの車酔いを解消したい方 寝室や居室内のジオパシック・ストレス(住居環境・風水)を改善したい方 その他、原因が特定できない頭痛や疲労感、慢性的不眠症、皮膚のほてりや痒みに悩まされる方強い電磁波をあびるとめまいや、ふらつき、発作などが頻発される方


「でんじ・ばん」のさらに詳しい使用方法につきましては、 「電磁盤」を使用されているお客様の声 をご覧ください。


これ以外にも苦痛を伴う電磁波障害の症状自体は多種多様ありますが、効果的な対処法は電磁盤による防御法を検討されることです。

当初より電磁波過敏症の不安のある方、すでに過敏症で苦痛や障害のある方にご利用いただくことを主対象といたしております。

電磁波過敏症等の症状が 発現していないいわゆる健常者の方には、本器具による直接の効果は何ら自覚いただけないと存じます。

ちょうどメガネなどの補助具が日常の生活にどうしても必要な場合とそうでない場合とがあるのと同様です。

本体が光ったり、振動したりして警報を発するものでもありませんので、何の情報もなく手にされただけでは、 いわゆる(なんじゃ、こりゃ?)ということになります。(ただし電磁波被曝防止効果ということでは、 健常者にもそのまま健康器具としてご利用いただけます)

これまでにも、当方の電磁盤をご使用いただき電磁波の悪影響から開放された事例が実際に幾例もあります。

当初は半信半疑でお使いになった結果、いままでの日常的な不快感から開放されたとして大変喜ばれております。

できましたら始めに1個だけ購入していただき、電磁盤の実際の防御効果を確認して十分に納得いただく手順をお勧めいたします。

磁盤電はすべて手造り製品で通常の装飾品や量産品ではありませんので一般には市販はされていません。

少数の、それも必要とされる方だけに使っていただければというポリシーのこだわりの製品です。

炭素成分を 多く含んだ黒いゴム面で被覆しており決して見栄えのよい外観ではありませが、 機能構造上のどうしても換えがたくありますのでこの点は何卒ご了承ください。

また手作りの製品ということで在庫が少なく、一度にたくさんのご注文には対応できない場合があります。



電磁盤使用時の注意事項
★「電磁盤」は、周囲のマイナス波動の電磁波を干渉中和放電するため、DVDショップや電気店の盗難防止システムのセンサー(レーダー)の電磁波にも敏感に反応し有害電波の波形を変換してしまいます。
電磁波過敏症
そのため「でんじ・ばん」を携帯したまま入店されますと、警報システムによっては電磁波シールドの変化で出店時に店内の警報機が作動してしまう場合があります。
店内持ち込みによる警報機誤作動トラブルには十分ご注意下さい。

★「電磁盤」は、治療器具ではありません。電磁波被曝対策器具です。


「でんじ・ばん」を被覆するゴムの臭いが気になる場合は、本体をラップ類で包んでいただければ機能に支障なく使っていただけます。




「でんじ・ばん」の効果について、最初にお伝えしたいこと

当初はいろいろな苦痛を訴えてこられますが、「でんじ・ばん」を身近にセットしていただきますと、多くの場合それまでの不快感がそれこそ嘘のように払拭されてしまうことがあります。

使っていただいた皆様は、効果を確認されると一様に「不思議だ!」とおっしゃいます。


電磁波中和放電装置・電磁波過敏症対策 いままでの苦痛は一体何だったのだろうという感じで、あらためて戸惑われる方もおられます。

電磁波過敏症の苦痛自体は錯覚ではありません。そのおぞましい感覚が取り除かれるまでは、それこそ通常の生活がおくれないほどに苦しまれるのです。

電磁波による過敏症や不快感に苦しまれている場合でも、それらの症状がずっと継続して続くものではありません。

適切に対応すれば不快感は軽減していきますし、健康な日常の生活がおくれる状態にもどることができます。

中には過敏症のために不自由な生活を強いられたり、お仕事まで制限されるまで追い込まれるというようなきびしい状況に置かれている方も少なくありません。

電気を一切使わない生活、あるいはわざわざ田舎に住居を変えてしまわれるなど、それまでの生活環境をすべて変えざるを得なくなるケースさえあるのです。
しかし一旦それらの苦痛から開放されると、狐につままれたような感覚を覚えられるのです。

それまでの苦痛が強ければ強いほど、そうした不思議な感覚に包まれます。
原因となる電磁波が目に見えないだけに、それは自然な反応なのです。



















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2016年03月24日

半世紀前の情景がいま鮮やかに蘇る

ばさろあるけん、バサロたい!

福岡県朝倉市にある道の駅!「原鶴 ファームステーション バサロ」というところに行ってきました。

「バサロ」とは、当地の方言で「たくさん(ある)」という意味です。

道の駅を訪れた目的は新鮮な農産物が揃っているということもですが、毎年この時期になると道の駅の傍の田圃に沢山の菜の花が咲き乱れているのを見学するためです。

それこそ子供のころは野山だけでなく、平地の田圃には菜の花が一面に咲いていました。

当時は菜の花とは言わず、農家では「カラシナ」と言っていたように思います。

菜種油の原料になるようですし、田圃の肥料にもなっていたようです。

その菜の花が咲き誇ると、まるで黄色い絨毯を敷き詰めたように見渡す限り菜の花畠が広がっていました。


RIMG0684
まさに、あの唱歌の「朧月夜」の世界でした。






ちょうど桜の満開の時期とも重なっていて、色彩的にはとても豪華な一時期を目にしたものでした。

それが当たり前の自然環境でしたが、次第にカラシナの栽培は下火になっていって現在ではほんの一部でしか目に出来なくなりました。

田圃の片隅や畦道に一群咲いているのを目にするだけです。


RIMG0672
















田圃の中はむせかえるような菜の花の香りが漂っています。



RIMG0675広いといっても限られた範囲の田圃ですので、かってのようなそれこそ平野部全体に及ぶような規模というわけにはいきません。





それでも当時の雰囲気を少しは思い出せるわけで、ぼんやりと田圃の畦道に立っているといつの間にかタイムスリップしたみたいで懐かしい雰囲気に浸ることが出来ました。







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朧月夜 倍賞千恵子

 




















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2016年03月23日

幕府キリシタン討伐軍精鋭はかく戦えり

反乱勢かく戦えり

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ

いまさら歴史認識がどうした?

貧農一揆集団と討伐精鋭軍団との最初の激闘
最強の傭兵軍団が幕府軍を迎え撃つ!?
幕府軍側に4000名の犠牲者が出るという不都合


東洋医学史研究会
宇田明男





●反乱勢の鉄砲二千丁による抵抗とは

島原の原城に籠城した貧農一揆勢3万7千に対して、幕府からは乱鎮圧のための上使として御書院番頭の板倉重昌(三河・深溝藩主)がまず派遣された。

幕府の討伐軍は海に面した原城の周囲を包囲し、篭城した反乱勢と対峙し散発的な攻撃を仕掛けたがその度に巧みな鉄砲攻撃で排撃されていた。

籠城した反乱勢を容易に攻略することが出来ずに1ヶ月以上経過することとなる。

この間にも九州諸藩からは続々と精鋭の軍兵が送られてきており、原城を囲むようにして布陣し板倉の指示に従って多方面から攻城戦を仕掛けていた。

だが何度かの総攻撃も反乱勢の巧みな鉄砲攻撃にその都度撃退され、幕府側は終始攻めあぐねていたのである。

意外なことに反乱勢側は予想以上にしたたかであった。

高が九州の貧農一揆であるとして、幕府首脳も短時日で鎮圧できるものと考えていた。

しかし幕府の予想に反して一揆勢鎮圧はようとして進展しなかった。

これに号を煮やした幕府側は、ついには第二陣として老中・松平伊豆守信綱を援軍として島原に派遣する事態となる。

まさしくこれでは幕府の初動時における差配そのものが失敗であったわけで、ここにきて幕府の威信にも拘わる様相をも呈してきたのであった。

当然、幕府側にもいささかの焦りが出てきたといえる事態である。

幕府上使役の板倉重昌は京都所司代であった板倉勝重の次男であったが、父親の勝重はかって長崎代官村山等安の息子、ジョアン・パブロおよびペドロを京都で処刑しているわけで、役目柄とはいえここでも反キリシタン側としての因縁が深く絡んでくることになる。

板倉重昌は、ここで老中・松平伊豆守信綱が新たな討伐軍指揮官として派遣されたとの知らせに驚くと同時に苦しい立場に立たされることとなる。

事は幕府の威信に関わることであるだけに、まさしく板倉重昌は武士としての面目が立たない状況下に追い込まれたのである。

立場上窮地に追い込まれた上使板倉重昌は、松平信綱が到着する直前の1638年1月1日、手勢の兵を率いてついに決死の覚悟で城突入作戦を敢行する。

これに呼応して、布陣していた諸藩の軍勢も追随して次々と籠城する反乱勢に向かって攻撃を仕掛けた。

板倉重昌が自ら先頭に立った壮絶な吶喊攻撃であったが、反乱勢の激しい反撃で一斉射撃の下、忽ち額を打ち抜かれてあえなくその場で討ち死にしてしまい、ここでまたしても幕府方は敗退してしまうのである。

 (注:)この戦闘で、板倉重昌は乳下を射抜かれて戦死したという説、反乱側が投げ落とした大石に潰されて即死したという説がある。このときの辞世の歌「新玉の 年の始めに 散る花の 名のみ残らば 先駆と知れ」が残されている。

これは「百姓一揆」を殲滅すべく果敢に攻撃を仕掛けたところ、意外や意外幕府側総大将がいの一番に敵の銃弾に打ち抜かれてあえ無く討ち死してしまったということである。

このような形で幕府軍総大将が討ち死にするなど、それこそこの時代にあっては不名誉この上ないことであろう。

これは前例のない、それこそ前代未聞の椿事であった。

それもここでの戦闘そのものは、討伐軍は闇雲に槍、刀で力ずくで攻め寄せて行き、それを相手の反乱軍が新式鉄砲で果敢に応戦するというおかしな戦闘図式である。

貧農集団がその装備、戦闘方法において幕府討伐軍をはるかに超えていたということである。

農民一揆ともいわれる貧農による反乱で、対する討伐側が鎮圧するどころか逆にその戦闘で致命的な打撃を被るのである。

この戦闘での幕府側の戦死傷者は4000人、対する反乱勢側の死者はわずか90人ほどであったとされる。

当初この数字を目にした時に、思わず疑念を抱いた。

このような開きのある数字があること自体疑わしいと考えた。

もとより戦闘集団であるはずの幕府討伐軍が対戦したのである。

当然のことであるが、完全武装した正規兵が貧農勢力に簡単に撃破されるはずがないではないか。

そこで根本史料として幕府側の「徳川実記」にその事実が記録されているというので、国会図書館のアーカイブでその記述部分を探し出し確認してみた。

出典を確かめてみるとやはりそれが事実であったことが分かる。




simabara






























この戦闘力の差をどう見るかである。

短時間的な戦闘でありながら、一方的にこれだけの兵を一度に失うような戦いはそうざらにあるものではない。

まさしく、こういうのを旧日本軍的な万歳攻撃というのである。

敵に勝る兵力で攻め寄せながら逆に反撃され壊滅的打撃を蒙ったということは、そこに何らかの圧倒的な戦力の差、もしくは攻める側に作戦指揮上の重大な欠陥があったということになる。

こうして見るとそれまでの強引なだけの幕府討伐軍側の攻撃は、ことごとく反乱勢の猛烈な火力の前に蹴散らされてしまっていたのである。

貧農集団の鉄砲攻撃にまったく歯が立たなかったのだ。

幕府はここにきて反乱勢の巧みな西洋式戦法と2千丁の圧倒的な鉄砲の火力とを見せつけられたことで、ようやく事の重大さに気付かされたのである。

籠城している貧農集団はただの農民ではなかった。

キリシタン信徒であると同時に、彼らはそれまでにキリシタン宗徒の傭兵としての練兵されてきた戦闘員であり、最強の鉄砲軍団でもあった。

明らかにここでは、押し寄せた幕府討伐軍に比較しても反乱勢の方が圧倒的に鉄砲戦術に長けていたのである。

こうなると誰もこの戦いを「百姓一揆」を相手にしているなどとは口にしなくなるのである。

それこそ幕府精鋭軍団が「百姓一揆」を相手にして無様に惨敗したとは言えたものではあるまい。

この事実を見ても、幕府方が対戦している相手がただの百姓一揆勢などではないことは誰の目にも明白であったであろう。

しかしここでも歴史は改竄、隠蔽は繰り返されるのである。

あくまでもこれは弾圧され続けたキリシタン貧農一揆であると。

キリシタン信徒が何故これほどまでの戦闘力を保持していたのか?

農民でありながら、何故に大量の鉄砲火器による重装備が出来たのか?

全国的なキリシタン弾圧下において、何故にこの九州天草:島原の土地だけに貧農による武装内乱が勃発し得たのか?

ただの偶然だと断定し得るのか?

この反乱がキリシタン一揆ではないとするのであれば、何故に籠城した非戦闘員である女子供までもがすべて皆殺しにされたのか?

定説でいう歴史観の多くが島原の大乱を内乱ではない、宗教戦争でもない、ただの貧農一揆だとするのは何故なのか?


相手が討伐軍さえもはるかに凌駕する強力な戦闘力を持っているわけだから、どうみてもこれは未曾有の大乱そのものであって、彼らが対峙しているのは手ごわい武装した反乱軍勢力という認識に立つべき状況であったと言わざるを得ないはずである。

ましてやここで天草・島原の乱を端から百姓一揆などと決め付けるのは、それこそ姑息な歴史的欺瞞でしかない。


ようやくここに至って、幕府も慌てて九州諸藩より急遽さらに増援兵力を集めて一気に総勢12万5千もの軍容に拡大した。

(ただの)貧農の反乱に12万5千の討伐軍とは、にわかには信じられないところである。

そうした中で討伐軍側は1か月近くの戦闘によって、すでに手持ちの弾薬が不足するという予想外の事態も発生してくるのである。

弾薬とは、鉄砲に使われる火薬であり鉛玉、火縄のことである。

もとよりこれらの弾薬、硝薬がすべて揃わなければ、最新兵器鉄砲とて使い物にはならない。

幕府側の弾薬が底をついて、戦闘そのものに支障が出てきたというわけである。

本来逆に籠城している反乱軍側の弾薬が不足するという展開があって当然の話ではないのか。

この討伐戦に大量投入されたはずの討伐軍の弾薬が不足しだすとは可笑しな展開である。

何故に想定以上の弾薬がここで必要となるのか?

結局のところ、次々と兵站を大量投入するなどこの戦に費やされた軍事的エネルギーそのものの規模は、かっての関が原の合戦や大坂の陣どころの話ではなくなってくることになる。

幕府側の予測はここでも大きく外れていたということである。

籠城する一揆勢に対抗するには、当然鉄砲弾薬が必要であった。

だが必要とされる弾薬量は桁が違っていたのだ。

これは幕府側にとってまったく想定外であったのだ。

それまでの国内で繰り広げられてきた戦闘様式とは異なる、まさに西洋式の異国のキリシタン武装勢力を相手にしているという認識に立つべき戦闘であったはずなのだ。

十数万の軍兵が衝突した大規模な戦闘といってもその戦死者の数だけを単純に比較するなら先年の関が原合戦は短時間で終結して、その犠牲者数も7000人ほどのものであったはずである。

根底からしその戦闘規模、様相が異なるわけである。

篭城した原城内の反乱勢のきわめて士気はたかく、その中心となる戦闘要員そのものは実質8千人規模であったといい、これに対して実に15倍近い数の幕府方兵力が原城周辺に続々と攻め寄せていた。

いわゆる人海戦術である。

反乱勢は僅か8000人余りの戦闘員でありながら、彼らは幕府側討伐軍を迎え撃っだけの鉄砲装備と戦闘力を養っていたということになる。

ここで4000人の犠牲者を出す戦闘形態とは一体何であろうか?

迎え撃つ反乱勢の戦闘力の実態とはどう捉えればよいのか?

20世紀のランチェスター戦略の戦闘シュミレーションモデルや軍事理論を持ち出して逐一検証したとしても、ここでの兵員数の差からしてこれは予想をはるかに凌駕する驚くべき反乱勢側の戦闘能力ということが出来る。

まさしく最強のキリシタン傭兵精鋭部隊そのものが、幕府討伐軍と対峙していたのである。

ここらは歴史認識としては決して正面から論じられることはない部分でもある。

弾圧される天草島原の貧農キリシタン信徒らが大量の鉄砲弾薬を装備していることは歴史教科書で表記するにはどこまでも不都合でしかない。

肝心のそうした大量の鉄砲弾薬の備蓄がこの地にあったこと自体が不都合なのだ。

しかも一揆勢が並はずれた戦闘能力を保持していたとなると、不都合どころかここから先はどうにかしてその事実をも隠蔽せざるを得ないことにもなる。

結局、これだけの軍事的衝突ないしは戦闘を無理に百姓一揆の範疇に留めておこうとする欧米歴史観そのものが、歴史隠蔽もいいところであって、考え方としてはここらは余りにも姑息過ぎると言わざるを得ない。

幕府側はこの大乱鎮圧に対して、最終的には16万を超える討伐軍を送り込んでいる。

大量の武器弾薬、兵糧といった兵站の発注や輸送にも多額の費用を要したのである。

その間の戦費そのものは四十万両であった。

この四十万両という金額は、当時の幕府の歳入額の三分の一を占める額であった。

大変な出費である。


とにかく反乱鎮圧にこれだけの大規模な討伐軍を投入した合戦記録がありながら、歴史上はそこらの百姓一揆扱いとはまったくもって笑える話である。

幕府の討伐軍の要員として近郊の農民も多数駆り出されていたわけで、それこそここでは農民が農民一揆を攻め立てる側に付いていたのかというおかしな展開も出てくる。

少なくとも地元九州人の感覚としては、天草島原の乱が単なる百姓一揆であったなどとは到底思えないわけで、そこらは歴史認識以前の話である。





削除されなければこの稿続く









参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著





















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2016年03月22日

戦国時代に災害救助隊が出動したとは思えない

軍旅のあとには必ず凶年あり(老子)

戦国時代、飛騨国白川郷に帰雲城という城があり、その城主は内ヶ島氏理であったという。

ここで戦国武将といっても白川郷周辺は峻険な地域が広がっていたこともあって、華々しく外征という形では当時の戦国史には登場してはこない人物ということになる。

内ヶ島といっても全国的にはほとんど耳にしない武将であるのだが、別の意味でその名が知られるようになった。

それは戦国真っただ中の天正年間に、内ヶ島は忽然とその痕跡を留めることなく一夜にしてその居城である帰雲城はもとより一族郎党共々この世から消え去ったのである。

天正13年11月29日(1586年閏1月18日)、その日帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が開かれ、その大広間には城主氏理をはじめ、娘婿の東常堯や嫡子氏行ら一族と重臣らがうち揃っていた。

ところがその当日の深夜に至って、突然この地を大地震が襲った。

帰雲山の下に位置していた帰雲城は、その山崩れに巻き込まれ大量の土砂によって完全に埋没してしまった。

日本の中部で発生したこの巨大地震は当地方で白山大地震とも呼ばれ、この地震災害によって帰雲城の内ヶ島氏は滅亡してしまった。

驚くべき歴史秘話である。

戦国時代ということもあって、広範囲に被害をもたらした当時の大地震についてはおそらく後世までその被害の全貌は掴みにくかったであろうと想像されるところである。

この天正大地震によって帰雲城が埋没しただけではなく、若狭湾では津波が発生し、周辺の木舟城、長島城、長浜城、大垣城も大破したとされる。

戦国期の地震としては大きな地震災害であったことになる。


それから10年ほど経った文禄年間にも巨大な地震が立て続けに西日本を襲った。

まず慶長伊予地震といわれる地震が、1596年9月2日(文禄5年閏7月9日)伊予(愛媛)を震源として発生した。

閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊したという記録がある。

また3日後の9月4日には、現在の豊後(大分)の別府湾口付近で慶長豊後地震が襲った。

さらに翌日の9月5日の子の刻には、現在の京都・伏見付近で慶長伏見地震が連続して発生した。

閏7月12日から13日、畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった被害が出たとされる。

なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に 慶長に改元した。


これらの大地震は400年以上以前の地震災害ではあるのだが、個人的理由もあって以前から関心があった。

それは少年時代に父親の故郷(大分市)に行ったとき、巨大地震によって海に沈んだ島の話を聞かされたことがあったからである。

それはずっと昔、別府湾に瓜生島という大きな島があったが、巨大地震と津波とによって海にまたたく間に沈没してしまったという伝説であった。

これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後日まとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)



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実は四十年ほど以前より水中考古学という分野が日本でも注目されるようになってきていて、海中や水中の古代の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。

実際に別府湾でも調査が行われた。

この戦国時代の地震記録については、中世のイエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」にもこの九州豊後地方の大地震について記録している。

それには次のように記述されている。

引用開始:
「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)引用終わり:

文中冒頭の府内とあるのは、現在の大分市周辺のことである。




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水中考古学の研究の分野で大分豊後府内地方の瓜生島伝説が注目されだしたこともあって、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も紹介されて過去の地震記録が日の目をみるようになった。

驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。

これは本当に驚きであった。

単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたというわけである。

瓜生島伝説とは一体どのようなものであったのか。

瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)7月12日であったという。

その瓜生島は府内(大分市)の西北3.3キロ沖の湾内にあったといい、東西3.9キロ、南北2.3キロ、周囲12キロの島であったという。
(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)

島内の人家は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町といった町名があり、船着き場には多くの船が各地から出入りして活気があったという。

島には恵比寿神社や威徳寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮かぶ風光明媚な島の景観が広がっていたのではいかと想像される。



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この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後であったと記録されている。

それでも島の住人の大多数が犠牲となったわけである。

瓜生島の北側に久光島という島があったが、これも瓜生島と同時に海中に沈没したとされる。


実は当方のご先祖様もこの大地震の被害をもろに被っていたという予想外の事実があった。

当時当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(宇田国宗)であったが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後に移ってきたのだった。

現在も現地に国宗という地名と国宗天満神社だけが残っている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、1596年に発生したこの豊後の巨大地震と瓜生島沈没に目の前で遭遇してしまったことになる。

先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも別府湾に注ぐ河口に近かったこともありこのとき相当な地震被害を受けたものと思われる。

瓜生島が沈んだのは大地震による津波が原因ともいわれるだけに、このとき別府湾の海岸一体には大波が襲ったことであろう。

対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。

同時にこのとき対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府湾に降り注いだともいう。

このことは正史に一切記録されていないので、ここらは想像の域を出ない。






















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タグ:白川郷
posted by モモちゃん at 17:30| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月21日

幕府に逆らった最強の鉄砲軍団が凄い!

日本最強の鉄砲軍団が原城に籠城した

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

貧農が何故に鉄砲を操れるのか
傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態とは
何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか


東洋医学史研究会
宇田明男





●何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか

反乱勢の中心勢力は、それと分かる戦慣れした武士たちが頭として名を連ねていた。

反乱勢に実戦経験豊富な浪人集団がいたことやその戦闘員が鉄砲の扱いに手馴れていたことは確かであるが、それにしても何故にこれほどまでに貧農集団の彼らが圧倒的戦力を保持していたのであろうか。

まずその軍勢の規模と装備を考えただけでも不思議ではあるまいか。

しかもこの後に続く城攻めの緒戦だけでなく、海岸沿いの廃城に篭って3ヶ月以上も激しい戦闘を続けるられる弾薬の備蓄量そのものを考えたとき、それが半端ではないことが容易に理解できるはずである。

明らかに弾薬量が討伐軍のそれをはるかに凌駕していたのだ。

何故に貧農集団に大量の鉄砲弾薬が用意できたのか。

さらに反乱勢は目敏く藩内の武器倉も襲撃し500丁の鉄砲弾薬を強奪していた。
何故に九州の小大名の武器倉に大量の鉄砲があったのか。

さらには反乱勢側の戦闘員の多くは鉄砲射撃に習熟しており、戦闘に置いて城塞から狙いを外さずに驚くべき正確さで敵兵を次々と狙撃していった。

一体、誰がこのような戦闘力の高い武装集団を練兵してきていたのか。

これについては多くの学者たちが口を噤んでいる。

これこそ島原・天草の乱の大きな謎ともいえるだろうが、実はこれらの装備の多くはイエズス会が日本を離れるときに残していった遺産ともいうべき戦略物資であり、数千丁の鉄砲弾薬などの大量の軍事物資が各地に秘匿温存されていたからに他ならない。

これらは隠蔽しがたい事実である。

篭城した原城自体が火薬の生成に関連した施設を有していたともいわれ、もとより反乱勢は火薬生成技術にも精通していた。

何故にこうした施設が存在しえたのかを考えると不可思議なことばかりである。


天草や島原の土地では早くにキリスト教の布教が始まったこともあって、宣教師やポルトガルの商船が頻繁に島原の口之津や天草の港に渡来してきていた。

この地は総じて肥沃ではなかったが、大村や有馬の大名は南蛮との交易によって莫大な物品輸入税を手にして財政が潤った時期があった。

こうしたこともあってキリシタン大名の領内では南蛮の支援もあって、過剰なほどの軍事投資が行われていた。

さらに歴史的事実として長崎周辺は、秀吉の九州遠征時までイエズス会に領有され占領統治下に置かれていた。

イエズス会は長崎統治時代にこの地の要塞化と同時に領内での鉄砲による練兵を実施していた。

いわゆる南蛮勢力の計画の下で日本人の傭兵化に着手していたのである

しかも長崎周辺地域は、秀吉の九州遠征時まで南蛮イエズス会によって領有され占領統治されその要塞化が進められていたが、同時にそうした領内のキリシタン信徒の傭兵化が実施され鉄砲による練兵訓練がなされていた。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその南蛮上層部からのそうした指令内容が明確に示されている。


引用開始:
「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)引用終わり:



占有した領土をはっきりと要塞化することを指示していたことが分かる記述内容である。


これによって南蛮勢力が長崎において著しい戦略的成果を上げたことを次のように誇らしげに報告している。


引用開始:
「イエズス会のパードレたちはこの町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.225-226) 引用終わり:

さらにここへ、マニラから彼らの正規兵を招聘する計画までが直前まで進んでいた。


これこそ大砲や鉄砲で武装した、我が国初の画期的な日本人傭兵部隊の誕生の経緯である。

そしてこの時点ですでに「三万名の火縄銃兵」が整備されていたというわけである。


かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有され、他国勢力によって軍事訓練まで行われていたとは驚きであって、とてもではないがここらはいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。


当然そこでは南蛮統治下の長崎ではキリシタン勢力による奴隷を対価にした取引も行われており、その結果として皮肉な展開であるがそうした海外交易によって領内での鉄砲の普及も急速に進んでいった。

しかも領内では新兵器である鉄砲や火薬の製造も独自に進められていた。

海外から火薬の原料である硝石さえ入手できれば、他の硫黄などの原料は近くの雲仙岳周辺からそれこそ無尽蔵に確保できたことから、領内では武器としての鉄砲は身近にあったことになる。

島原の口之津港近くの硝石の集積地では火薬の生成作業も行われており、早い時期から領内に実質的な火薬供給の拠点も持っていた。

まさにこの土地特有の地政学的背景として、少なからずそうした最新の鉄砲技術と軍事物資として必須の弾薬の生成蓄積がされていた。

また島原の領内には領主であった有馬氏の転封の際に改宗して異教徒となった主君に従わず、地元にそのまま浪人として残ったキリシタンの旧家臣団も各地に点在していたのである。

彼らは土着化しただけではなく、宗教的互助会とも言えるコンフラリア組織の実質的な組親となっていった。

戦国時代を生き残った彼らの中には、反乱軍の森宗意軒のように当時の西洋に留学した者もいて南蛮の兵法や軍制にも通じていた。


(注:1)森宗意軒:天草島原の乱の軍事的指導者の一人であるが、かって小西行長に仕え貨物船の宰領になったが舟が難波。南蛮船に助けられオランダに渡航し外科療治や軍事を学んだ。帰国後は高野山のふもとに隠棲したが大坂の乱で真田幸村の作戦にも従い天草に落ちのびて森宗意軒と名乗るようになった。


この地は九州の僻地というより、逸早く海外に、それも南蛮キリスト教諸国に目を向けていたこともあらためて認識しておかなくてはならない。

この土地の土豪や農民らは、慣例として日頃から集団で緊密に連携しながら田畑を荒らすイノシシや猿、鹿などの害獣を巧みに鉄砲で討ち獲っていた。

田畑を害獣から守るという名目で、領内の農民には藩から鉄砲が貸し出されていたというから驚きである。

それこそ村々には鉄砲を扱い慣れた射撃名人がぞろぞろいたわけである。

もとより南蛮の傭兵部隊を編成していた彼らが、ここでも日々鉄砲による訓練を重ねていた。

そうした領民らを旧家臣団が支援する形で組織的に活動していたのであるが、その規模と機動力のある戦闘能力から見れば彼らは鉄砲を装備した当時日本最強の武装集団の様相を呈していたといえる状況にあったことになる。

この事実については、司馬遼太郎がその著書でも触れている。

(注:2)(司馬遼太郎「街道をゆく十七」朝日新聞社・より引用――「なにしろ島原という土地は戦国の強豪有馬氏の旧領だけに、百姓でも鉄砲をよくする者が多かった。なかでも三会村(みえむら)の猟師で懸針(さげばり)金作という射撃の名手も籠城していた。さらにいえば鉄砲鍛冶の数も多く、また火薬や火縄をつくることに多くの者が長じていた。その点、戦闘力からいって、江戸期の他の農民一揆とはくらべものにならない。」――引用終わり)

反乱勢の農民や領民が、戦闘力について自らそうした認識を持っていたかどうかは分からないが、彼らの背後にいる浪人らの狙いはそこにあった。

彼らの周囲には訓練された傭兵部隊のかっての構成員がぞろぞろいたわけである。

しかも南蛮勢力が残していった鉄砲弾薬という軍事物資が温存されたままであった。

この事実を知っている当時の浪人集団が看過するはずはあるまい。

当時もこの事実はほとんど外部には知られていなかったであろうし、現代でもこの九州の一地方に、日本でも最強の鉄砲集団が存在していたという歴史的評価を下す人もまず皆無であろう。

興味深いことは、反乱勢そのものが国人衆や土豪、地侍たちの結合した集団ということで、これは従来の紀州の根来衆や雑賀衆といった鉄砲集団と似ている部分があるわけで、特に集団による鉄砲を駆使した戦闘法を得意とする点ではまったく同じであった。

そうした連携はコンフラリアの掟を厳守する徒門集団が核となって組織化されていたわけで、そこにも行動形態としての類似点があることになる。

 (注:3)コンフラリアの掟:「拷問や侮辱などあらゆる苦難に耐え、強固な信仰を示せば救済される」(ジェロニモ・ロドリゲス作成「組ないしコンフラリアに関する覚書」より引用)

しかもこの地では宣教事業として、当初よりキリシタン信徒による傭兵軍団の組織化が練られていたのも事実であるから、十分に下地は造られていたということにはなろう。


これは近代に見られるヨーロッパの軍隊組織に近いものか、あるいは傭兵団組織の原型ともいえるものであって、当時の日本でも特異な武装形態であったであろう。

結局のところたとえ身近に大量の鉄砲弾薬があったとしても、それを縦横に駆使して戦うだけの技量を持った戦闘員そのものが揃っていなければ、組織化された反乱行動にまでには繋がらなかったはずである。

幕府による宗教的迫害そのものは日本全国で同様に広がっていたわけで、武力的反抗は極力抑えられてもいた。

もとより反乱を主導した鉄砲軍団そのものがこの地において短時日に形成されていたとはどうしても思えないわけで、そうした用意周到な反乱計画そのものが綿密に練られていたことは想像に難くないところである。

天草島原には、そうしたことに繋がる火種が確かにあったということになる。

領内に組織的な戦闘体勢が備わっていなければ、貧農とはいえこれだけの規模の反乱を企てることも、広範囲に連携した一斉蜂起も出来なかったことは確かであろう。

その核となったものが新兵器鉄砲であり、備蓄された大量の-火薬そのものの存在であったのである。


この稿続く









参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著























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タグ:森宗意軒
posted by モモちゃん at 13:18| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

今世紀戦略物資食料が枯渇するとの予想

今世紀も飢餓が続いている

いつものことであるが米国の学者たちは、近いうちにも全世界で食料不足になるとの予測を発表した。

学者たちによると、30年後にも世界中が食料不足に陥る恐れがあるのだという。

現在でも、世界ではおよそ8億人が飢餓に苦しんでいる一方で、先進国では無駄に大量の食料が廃棄されている。

日本でも売れ残りの賞味期限切れの食品は大量に廃棄処分されている。

食料の大半を輸入に頼っている日本もいずれ飢餓国になる可能性があるわけだし、合成ホルモン入りの牛肉も食らうことになろう。






世界同時食糧危機 第1回 アメリカ頼みの"食"が破綻する

 







中国【自滅へまっしぐら!】中国経済が招いた食糧危機!

  
     






【禁聞】中国 食糧危機はすでに目前?

  
   







究極の秘密を暴露: FOOD [Part1 of 2]





posted by モモちゃん at 12:03| 歴史を先取り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

大江戸にムーラン・ルージュの風情あり

愉快な屁ふり虫を知っていますか? 

今から三十数年以前の小学生のときのことであったが、朝礼での校長訓話の最中に突然バウンという物凄い轟音が講堂内に響きわたった。

その音の元は私の右横二、三メートルのところに立っていた若い女の先生であったが、すぐには一体何の音なのか分からなかった。

とにかく瞬時に音源が特定できるような音質ではなかったのだ。

後で思い出してみても、俄かにあの轟音は識別できるものではなかったとしか言い様がない。

そのときの女の先生のいくぶん紅潮して強張ったような表情を見て、やっとそれが何の音なのか気付いたという次第であった。

その轟音に驚いたまわりの生徒や先生たちに一瞬ざわめきがあったのだが、その余りの音の大きさに度胆を抜かれたのと、女の先生の気丈夫な憮然とした表情に周囲は気圧されて笑い声ひとつ立たなかった。

まさにその轟音の迫力そのものが、笑いを抑え込んだのであった。
軽やかな音であったなら、このときの状況はまったく違っていたであろうことは想像に難くない。

とにかく私自身、後にも先にもこれほどの豪快な放屁音は聞いたことがないということだけは事実である。

後日、昔話の「屁こき女房」を読んだとき、まさにこれだと体験的に捉えたのを覚えている。

こういう放屁の話題に関しては江戸時代の大博物学者の平賀原内先生が、心血を注いで書き上げた有名な『放屁論』が詳しい。

自由自在に放屁できる放屁男が出てくるその後編のさわりの一部を少し紹介しよう。

「漢にては放屁といひ、上方にては屁をこくといひ、関東にてはひるといひ、女中は都ておならといふ。
其語は異なれども、鳴ると臭きは同じことなり。
その音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にして其形圓く、ブウと鳴るもの中品にして其形いびつなり。
スーとすかすもの下品にして細長くして少しひらたし。

是等は皆素人も常にひる所なり。
彼放屁男のごとく、奇奇妙妙に至りては、放ざる音なく、備らざる形なし。

抑いかなる故ぞと聞けば、彼ケ母常に芋を好みけるが、或る夜の夢に、火吹き竹を呑むとみて懐胎し、鳳屁元年へのえ鼬鼠の歳、春邉と梅匂ふ頃誕生せしが、成人に随ひて、段々功を屁ひり男、今江戸中の大評判、屁は身を助けるとは是ならん云々──。
」と、おかしな話が続く。 

A_PORT~1 


放屁の芸で世渡りができるとは愉快であるが、かって十九世紀末のフランスのパリの劇場(ムーラン・ルージュという)あたりで自由自在に屁を放ち、しかも音程も調節できてフランス国歌の「ラ・マルセエイズ」などを奏してやんやの喝采を浴びた男が実際にいたそうである。

なんだ馬鹿馬鹿しい、屁を題材にして下らぬ話を書きなぐってと思われる向きも恐らくあると思うが、たかが屁されど屁なのである。

屁ひとつで人生が変わってしまうこととてあるのである。
屁ひとつで不幸になる、あるいは幸運が舞い込む。

そういうこととて長い人の一生では突然出てくるはずである。
そうは思いませんか?

江戸時代の話で、一発の放屁が争い事の原因となったことが記録として残されている。
町名は書いてないが話が話だけにここではかりに、あさくさ(浅草)の近くにあった長屋としておく。

その長屋に独り者の男と夫婦ものが隣合わせに住んでいたのであるが、あるとき夫の留守中に女房が思わず大きな放屁をした。

薄い壁一枚、これを隣の独り者が聞いて、「女のくせに人間離れした放屁じゃねえか」といって嘲り笑った。

女房はこれに腹を立て血相変えて男の家に駆け込むと、「自分の家で屁をひるのが何がおかしい。余計なお世話だよ」とこれまた罵った。

二人が声高に争うのを近所の長屋の連中が集まって引き分けたので、このときはどうにか騒動はおさまった。 

ところがこの女房が銭湯に行っているあいだに夫が仕事から帰ってきたのであるが、七八歳の娘が「留守のあいだにおかしなことがあって、とてもまわりが騒がしかった」と口を滑らせてしまったのである。

「何があったんだ」と怪訝顔で父親が尋ねると、「隣のおじさんと母さんのあいだで言い争いがあったのだけど、父さんには絶対にいっちゃあ駄目といわれてるの」と娘がぺらぺらと喋ってしまったから大変である。

これを聞いて夫は、さては隣の男と女房は密かに通じておったなと思い込み心中おだやかでなく、近くの銭湯から帰ってきた女房をつかまえて激しい口論となった。

しまいには夫が出刃包丁を持ち出して、いきなり女房の頭に切り付けてしまった。

女房の悲鳴に近所の者たちが再び駆けつけて夫を取り押さえたが、このときの騒ぎで加勢にきていた隣の男までも巻き込まれて傷つけられてしまった。

公になりそうな事件であったが、訳知りの人が間に立って内々で済んだのであるが、これは放屁一発がとんだ事件に発展したという貴重な事例の記録なのである。(『耳袋』巻の七)


学名はゴミムシ科、ミイデラゴミムシというすごい昆虫がいるのをご存知だろうか。
あだ名は「屁ふり虫」とか「ヘッピリ虫、屁こき虫」とかいうやつである。

miidera.jpg


子供のころこれでよく遊んだのであるが、実に愉快な昆虫であった。

掘り返された直後の畑や田圃にいるのだが、地中から茶褐色の2.5センチぐらいの大きさのぼてっとした体型の昆虫がもそもそ這い出てくる。

これを棒の先でちょっと押さえてやるとブッといって、勢いよくお尻から噴霧器みたいに白煙を吹き出す。

押さえる度にブッ、ブッといって放屁音とともに白煙が続けて出るのであるが、次第にその量が少なくなって終いには出なくなってしまう。つまりガス切れ状態になるわけだ。

犬や鶏の放屁音ならたまに聞くことはあるが、虫ケラとなると予想外の可笑しさが伴う。
小さくとも放屁音そのものには、違いないのだから。

この白煙はおそらく自己防衛のものと思われ、指の爪にかかると黄色くなるところからこれは成分に亜硫酸成分が含まれているのかも知れない。

強い酸とたんぱく質が反応するということで、これは化学でいうキサントプロテイン反応というやつではないかと思っていたのであるが、あとで調べたら当たらずとも遠からずであった。









このガスを噴出すメカニズムが本当に凄いのである。

ゴミムシノの体内には2つの隔離されたタンクがあり、1つには原料の過酸化水素とヒドロキノンを蓄えていて、これがもう一方のカタラーゼ酵素で囲まれた反応タンクに送り込まれると一気に酸化反応が引き起こされ勢いよくガスを噴出すという仕組みなのである。

この一瞬の化学反応で噴出されるガス自体は100度以上にもなり、まともに吹きかけられると皮膚に火傷による水泡ができるらしい。

白いガス状のものは、高温の水蒸気が含まれているのかもしれない。
ゴミムシ自身は、それこそ固いキチン質の装甲で包まれているので大丈夫なわけである。

まあ、子供の頃はこういう少し危ない昆虫を相手にして遊ぶのも大層愉快なものであった。

昆虫といえどもこうした防衛力を持っていれば、そう簡単に鳥などに補食されはしないであろう。

昔は屁のことを「転失気」や「失気」といったのであるが、漢方医学では屁のことを格調をもってそう呼んだ。
屁は、屁だろうがと私などは思う。

以前宮崎の友人が、「蛇が出た」というのを自分たちのところでは「へっが出た」というと言っていたのだが、逆に「屁が出た」は何と言うのか聞き忘れた。












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posted by モモちゃん at 20:37| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

創作短編時代小説風ブログ:

創作短編時代小説劇場:その5

為吉はことし二十三になる彫り物師である。

早くに両親とも死に別れたこともあって、十歳のときから親方に弟子入りし十八で独り立ちした。

辛い修行時代は格別嬉しい事とてなかったが、独立と同時に幼馴染のおはると所帯を持っことができた。

為吉はおはると一緒になれたことが、唯一自分にとって幸運な出来事だったのだといままでも心底思っていた。

そして1年後には息子の源太が生まれた。

為吉は職人としての腕はあっても、当座は長屋住まいということもあって稼ぎの方は思わしくなかった。

同門の職人仲間から仕事をまわしてもらうこともあったが、親子三人が暮らしていくには渇渇の生活を余儀なくされた。

米櫃に米がない日もあって、おからでどうにか腹を満たしたことも度々あった。

そうした貧乏生活にあっても女房のおはるは一言も愚痴をこぼさなかったし、いくつかの内職もこなして健気に為吉を支えてくれていた。

為吉は修行時代の兄弟子であった仙蔵からまわしてもらた仕事を仕上げた翌日、息子の源太を連れてその品を届けることにした。

「ほう、もう四歳になるのか」

「子供の五年、十年と育つのは瞬く間だからね」と、仙蔵は笑顔で源太を見つめていた。

仙蔵夫婦にも可愛い盛りの娘が、たしか二人いたはずであった。

「おまえもそろそろ店を構えてもいいころだ。店を持ってこそ一人前だ。目ぼしいところは見つけてるのかい」

「いやまだそこまでは・・・」と、思わず為吉は口ごもってしまった。

「来月も十日前に仕事を頼むから来ておくれ。少しは身入りのいい仕事をまわせるはずだ」

仙蔵からわずかな手間賃を貰って、為吉は礼を言って仙蔵の家を出た。
こうやって源太の手を引いて父子二人で歩くのは久しぶりのことである。


寺町の角を曲がったところで、源太が小便をしたいと言い出した。

為吉は源太を道脇の雑木林の中に連れて行って、そこで用を足すようにいった。
「おとっつあん、あれなあに?」

用を足していた源太が左斜め前の方を指差して声を上げた。

為吉が源太の指し示す方に目をやると、たしかにそこには地面から何やらのっぺりした陶器のようなものが一部分顔を出していた。

「壷だろうなあ、すっかり埋まっちまってて尻だけが出てるようだ。ちょいと掘ってみるか」

為吉は近くに転がっていた木っ端を拾い、さっそくその壷のような物を掘り出し始めた。

少しづつ脇を掘っていくとそれはやはり壷そのもので違いなかった。

土くれに覆われた壷が大方姿を現すと、為吉は地中からそれをおもむろに引き抜いた。

一尺ほどの高さの壺であった。
「こりゃあ、どうやら花瓶だな」

為吉はどこも欠けたところのないことを確かめると源太の顔を見て嬉しそうにいった。
「おっかあにいい土産ができたぞ」

女房のおはるは無性に花が好きである。
いつも花を飾りたがる。

長屋住まいに花なんぞ似合わないと為吉は思うのであるが、おはるは竹筒にそこらの野花を生けて喜んでいる。

為吉自身は花には関心はないのだが、おはるのそうした天真爛漫さがいとおしく思えていた。

為吉は泥だらけのその壷を途中で見つけた小川で丁寧に洗った。

表面の汚れを洗い落とすと、どうにか壷らしい光沢を取り戻したようにみえる。

貧乏所帯もこの壷を飾ればいくらか華やいで見えるに違いなかった。


拾った壺をぶら下げたまま弁天橋を渡って大通りを歩いていると茶店が目に入った。
現太の目線は、しきりにそこで団子をほうばっている客の方に向いている。

「現太、団子が食いてえだろう」
為吉の問い掛けに源太は大きく頷いた。

為吉は通りに面した板台に座るとさっそく源太に団子を注文してやった。
うれしそうに団子をほうばる源太をみながら為吉は隣でお茶を啜っていた。

「ちょいとお尋ねしますが、もしやその壺は売り物ではありませんか?ご都合がよければ是非手前に売っていただきとうございますが」
突然の声に為吉は驚いて顔を上げた。

目の前には荷を担いだ大柄な商人風の中年の男が立っていた。
「いや手前、骨董には目がありませんもので、通りすがりに拝見したところいい壺だなあとついつい惹かれてしまいまして」

そういいながら為吉から壺を丁寧に押し頂く様にして受け取ると、舐めるようにその壺を丹念に観察し始めた。

「やはりいいですなあ、この壺の形といい艶といい落ち着いた優雅さがある」
男はぶつぶつと何やら独りごちしながらしばらくその壺を眺めていた。

「ちょいと、私にもその壺を見せてくださいな」
為吉の右隣に座っていた客の一人がいきなり声を掛けてきた。

客は初老の夫婦であったのだが、男の身なりはどこぞの大店の旦那とでもいうような雰囲気であった。

その旦那は壺を手にすると、いきなり大きくため息をついた。
「いやいや、これは私も欲しいですな」

ここから先のことは、一体何が起こったのか為吉にはよく分からなかった。

とにかく通り面した茶店の前で客同士の骨董談義がいきなり始まってしまったわけで、この成り行きに為吉は面喰ってしまった。

物に執着する人の執念は凄まじいということを為吉はこのとき始めて目の前で見せつけられた思いであった。
骨董の世界がまさにそれであった。


為吉が拾って手にしていた壺はここで結局、大店の旦那に15両という大金で買い取られることになったのである。

15両もの大金をいきなり手にしたということは、さしずめ為吉親子が今後二、三年は楽に遊んで暮らせる金数が懐に入ったということである。

これだけの大金を手にするのは為吉にとっても始めてのことである。手が震えた。

いやこうして15両もの大金が手元にあるということは、為吉が夢にまで願っていた自分の店が出せるということでもあった。

そう思うと手だけではなく、為吉の足は思わず震えていた。しばらく震えが止まらなかった。

これは現実のことなのか、白日夢ではないのかと頬を何度も抓ってみた。

為吉と源太とは、手をつないだまま家路に向かっていた。
「ねえ、おっかさんの土産がなくなっちゃったね」

突然源太が残念そうに為吉に向かって話し掛けてきた。

「せっかくおいらが見つけたのに、壺をよそのおじさんに取られちゃったもんね」
為吉は思わず苦笑した。

「源太が心配しなくともいい、おっかさんにはでかい土産が別に用意してあるからな」
そういって為吉は源太の小さな顔をみながら微笑んだ。













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posted by モモちゃん at 20:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする