2016年05月31日

地球人最初の移住先は火星と決められている

人類火星移住計画は絵空事なのか?

遥か彼方の宇宙空間にある太陽系の第4惑星である火星の探索活動が続けられていますが、頻繁に異様な物体や生命体に類似した形状物が地表面で発見されてきているようです。

いまのところ画像が不鮮明なまま公開されているようで、はっきりと特定はできませんが、それでもどうやら火星には何らかの生物の痕跡があるようです。

おそらくここらは大きなプロジェクトを計画している国の戦略に関わる機密であろうと思われます。

むやみと、一般人に知らされることはないということです。

人類の火星移住計画もあるようで、生存に必要な水の確保や食物の生産活動のためのテラフォーミングの研究が進められています。




火星考古学 2: 火星の遺跡群でなかったら、何だ?言ってくれ!

 






【極秘】ソ連 有人火星周回飛行フィルム

 







第3の選択〜バランタインsテープ火星映像 Alternative3

 







サイエンスZERO 「驚異の大宇宙 火星改造!テラフォーミング最前線」

 






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2016年05月30日

東大の日本史入試問題にも挑戦してみませんか?

東大の日本史”の入試問題が巷で注目されている

それほどいい出題であれば、いっそのこと国会議員全員にも同様の模試でも受けさせて歴史を勉強させたらいいと思う。


東大の日本史”【問題】
1882〜1883(明治15〜16)年、伊藤博文らは、ドイツをはじめヨーロッパ諸国において、憲法や立憲的諸制度の調査にあたった。その際、彼等はしばしばドイツの政治家や学者などから、明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり、日本がいま立憲制度を取り入れようとするのは、必ずしも賢明なこととはいえない、とする忠告を受けたといわれる。
そこで、諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し、上述のようなドイツ側の忠告に対して、日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明する文章を8行(記者注:240字)以内で記せ。(1989年度・第4問)
http://toyokeizai.net/articles/-/118992

何やら奇を衒ったような問題ではないか。

重箱の隅をつつくような知識を問うよりは、より今日的、かつグローバルな日本史問題に若い頭脳を試したらどうかとも思う。

東大の現代社会の問題などはどのような内容が出題されているのか興味ぶかいところである。



現行平和憲法で平和は守られるのか?

「シビリアンコントロールの致命的なところを500字以内で記せ」とか出されたら面白いと思う。


憲法でいう戦争放棄とは、即自衛権の放棄には繋がらないらしい。
実際に自衛隊があるわけだから、現状ではそう解釈せざるを得ないだろう。

戦争放棄とは、「戦争をしない」という国家的意思表示とともに「こちらから戦争を仕掛けない」という2つの意味が含まれるはずである。

ここが重要である。

われわれは他国の憲法の条文にはまったく関心がないのだが、本来日本国憲法は国家としての自衛権をも放棄しようという指向性を内在しているともいえよう。

そう解釈したいとする向きもある。

憲法は自国の行動原理であると同時に国家的都合をある意味表明している。

だから国民総意の下に制定されたとされる憲法の機能目的の範囲は、あくまでも「国家の都合」に限定されるはずである。

だからその範囲で戦争放棄しようとあれこれ議論しようとその国の勝手である。

当然そこで「国家的都合」で設定できる憲法上の「平和」自体も限定されるであろう。

なぜなら対外的な戦争は対戦国が存在するからだ。

もとより他国の「国家的都合」である戦闘行為を制限規定する力は「日本国憲法」にはない。

平和を守るということでは、ここにもう一つのファクターがあることになる。

「戦争をしない」「こちらから戦争を仕掛けない」という国家的理念と同時に、平和維持には「戦争を仕掛けられない態勢」という、いわゆる防衛という戦争抑止力にも対処する必要があることになる。

ここから専守防衛という考え方が出てくる。

侵略行為は他国の「国家的都合」である。

他国から「戦争を仕掛けられる」という他国の「国家的都合」に対しては、いかに平和憲法の権現であるところの日本国憲法といえどもまったく制御はできないということである。

日本国内の日本人の頭の中でしか平和の花は咲かないということである。

となると自称平和憲法だけで日本の平和が守られるとするのは、ある種の思い込みにも似た信仰心にも思えてくる。






My Cat Saved My Son

 



「My Cat Saved My Son」の場合は飼い猫であるから、これはさしずめ有事の自衛隊出動というところであろうが、だがこれにはシビリアンコントロールが効いていたようにはまったく思えない。

第一、自衛隊にはこうした攻撃に対して俊敏な対抗処置は取れないのであるから、たとえ話であるとしても犬の突然の攻撃に即猫の自衛隊が出動したなどとはここで表現するのには所詮無理があることになる。

犬の攻撃に対して、猫はその最初の一撃(足に一噛み)に素早く反応している。
早期警戒システムが実質働いたわけで、間髪入れない迅速な反撃行動に出ているのである。

どうみても猫の反撃の素早さが最大の抑止力となっていて、それによって犬は撤退している。

猫からみれば自分が攻撃されたわけではなく、飼い主の(無抵抗な)子供が犬に一方的に攻撃されたのであるからある意味集団的自衛権を行使したのだとも考えられる。

飼い主側と猫との間にはそれなりの信頼関係があったことは確かであろうが、シビリアンコントロールどころか明確な相互扶助、集団的自衛権に関しての契約がされていたのかどうかは分からない。

毎日餌という報酬を得たということであれば、猫はある種の傭兵かボディガード的存在であった可能性はある。





自衛権の放棄はどうよ?

「個別的自衛権だって必要ない。万が一他国が攻めてきたら国民は無抵抗で降伏し、すぐに首相や政治家が和平交渉に出るんです」

(引用元)
http://i.imgur.com/tKavxVy.jpg


↑これは平和憲法の条文冒頭に、他国との交戦状態に遭遇した場合直前に自衛権を放棄し即無条件降伏を宣言することを条文に入れるということか?



無抵抗主義の村-日本

 






「無抵抗主義の村-日本」の無抵抗主義ということはきわめて悠長な話であって、無抵抗そのものが武器になる、あるいは平和への最善の方策などという手前勝手な主張そのものが端から安直に侵略側に受け入れられる余地などあるわけがないのであって、唯一ここで言えることは、結局のところ相手の武力に屈して自らの手で奴隷売買の契約書(条約)にしたり顔で署名したも同然ということであろう。

白紙委任状を渡しておきながら、後から予想外の展開に地団太踏んでも遅かろう。

無抵抗主義とは最初からそのように、人間としての権利も尊厳も放棄することを自ら宣言しているに他ならない。

危険この上ないことである。

侵略に対してあえて武力による抵抗はしない。
食料や財産を奪われてもいい、命さえ助かればいいということである。


一見尊い人命至上主義の体を成しているかにみえて、その裏に見え隠れする姑息さは否めない。

まずもって侵略側の都合の下で自国民の命の保障がとれるかどうかの確証とてないわけで、今後少数民族・日本村としての形を成すかどうかも不明確な事態ではあろう。


歴史を振り返れば明白である。

無抵抗主義の下では極端な話し、常に国家は非情であって国民はかってのシベリア抑留者同様、国そのものに見捨てられ僻地開発の労働力として集団移送される奴隷化条項もそこには加味されるであろうが、将来そこから開放され生きて故国に還られるかどうかは分からない。








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タグ:無条件降伏
posted by モモちゃん at 09:43| 歴史再発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月29日

江戸無血開城の談判に至る歴史的ダイナミズムとは

奇縁の話(江戸開城談判:カエルの煮込み)

東京の聖徳記念絵画館に結城素明画伯の筆になる「江戸開城談判」という教科書にも載る有名な絵画がある。
dan これはいわゆる歴史画であって、幕末の慶応四年(1868)の無血の江戸城明け渡しに至る勝海舟と西郷隆盛との有名な会談場面を題材にしたものである。
この絵を目にしていると、次々といろいろな感慨がわき起こってくる。


勝海舟と西郷隆盛がこの場(薩摩藩邸)でこのように厳粛な形で対侍していることの不思議とも思える、ある特別な奇縁というものを感じないわけにはいかない。
二人のこのような出会いの仕方というものもそうであるが、ここに至るまでにはそれこそ数多くの人々の善意の働きかけがあったということも事実であって、やはりそこにはその時代の確かなダイナミズムが背後に働いていたことに気付かされる。


ここでこの話の続きとして、彼ら二人の共通の知人であり幕末に凶刃に倒れた土佐の坂本竜馬を登場させてもいいであろうし、あるいはここは大河ラマで有名なあの薩摩の篤姫や両者の会談を陰で支えた高名な漢方医浅田宗白先生の活躍を題材にしても新たな話しの展開とはなるであろう。


しかし私の持ち出すここでの奇縁というのはいささか風変りというか、そうした部類に該当するかどうかは分からないし、格別次元の高い題材ではないことだけは先に断っておかなくてはならない。


歴史小説ならそういう畏まった形式もあるとは思うが、ここは奇縁ということであるから奇縁は奇縁として明確にその独自性を提示してなんら憚ることはないわけである。そういう気楽な部類の話だと思っていただきたい。


政治的立場を異にする二人であるからこそ、このときの出会いそのものが特筆すべき事件であり、その合意に至るこの場の歴史的意義もとりわけ大きなものとなったことは確かである。
まさにこのとき勝海舟は旧幕府陸軍総裁であり、一方の西郷隆盛は新政府軍の東征総督府参議という要職にあって、それぞれの命運を担う重い立場にあった。


さて前置きはこのくらいにしておいて、ここでいう肝心の奇縁の話しであるが実はこのようになっている。

海舟の父小吉が書き残した「夢酔独言」によると、海舟(麟太郎)は九歳のとき犬に股間を咬まれ陰嚢を損傷するという災難に遭遇したという。
それには「病犬に出合いてきん玉をくわれた」といい、金創医に陰嚢の傷口を縫われるというほどの重傷であった。

一時は一命を落とすかと危ぶまれたが、父小吉の献身的看護によってやっとへ快方へと向かう。

それでも治癒するまでに七十日を要したということであるから、海舟にとっては屈辱的事件であったことは容易に察せられる。


一方西郷隆盛は、藩主の逆鱗に触れ幽閉されるという悲運に見舞われた。
過酷な環境を強いられたまま奄美大島、徳之島さらには沖永良部島へと流された。いわゆる島流しの隔離である。


吹きさらしの狭い牢屋の中に閉じこめられた西郷は、このような不衛生な状況で悪性のフィラリア症(糸状虫症)に冒されて、陰嚢水腫を煩うのである。

病原体である糸状虫がリンパ管系に寄生し陰嚢は大きく腫れ上がり、置物のたぬきのそれのようになる悪性の疾患である。
フィラリア症は熱帯地方に多発する風土病であり蚊によって媒介されるが、このやっかいな病気を抱えたまま、西郷はその後も各地を精力的に転戦していく。

これが西郷にとってやっかいな災難でなくて何であったろうか。


奇しくもこの二人が対面したとき、それぞれの相手の過去の屈辱的境涯については当時の海舟も西郷も何も知らなかったはずである。
たとえそのようなことを両者が知ったところで何の意味もないことであったろであろうし、もはやここで個人レベルの境遇を云々する時でも、場所でもなかったはずなのだから。



だがこのことが、部外者でありながら何故か気になるのである。
しかも私のような凡人の目からみると、これにも何かの歴史的蓋然性がどこかに隠されているのではないかと考えたくなるわけである。


妙な好奇心とでもいおうか、一つの出会いに人間智を越えた何らかの力が働いているのではないか。

こうした考えに取り付かれると、次々にいろいろな発想が飛び出てくる。
急所に受けた致命的ともいえるそれぞれの過去の傷は、奇しくも二人の英雄を数奇な運命ともいえる出会いに導くというような、背後で何者かが凝りに凝った運命的演出を操っているかのようである。
このようなことは何も特別な歴史的人物同士でなくても日常的にも起こり得ることではあろう。

しごく他愛ないことである。
ただし偶然とも思える両者の出会いが、意外にも何やら必然の可能性がそこには隠されているのではないのか?と思うのである。
 
ここらは下世話で下らないといえば下らないであろうし、面白いといえば多少は面白味もあるかもしれないという程度のたわいのない逸話なのかも知れない。
その点は否定しがたいところであるが、ただ何となく感じられることは、この世知辛く猥雑な人間世界には人の目には触れ得ないような不可思議な糸が張り巡らされているのではないかと思うようなことが少なからずあるだ。
これは、類は類を呼ぶというような、いまでいう共時性の時空世界の事象である。

結局この一点において、何やら際立って面白く感じられるということにどうやら行き着く。


西郷隆盛という人物名でふと子供時代の記憶を思い出したのだが、確か親戚の床の間に西郷南州の銘の入った大きな掛け軸が下げてあった。
いまどきそれが本物ならば凄いお宝なのだが、いつの間にか見なくなったような気がする。


そこに何と書かれていたのか、とんと記憶にないのであるが、あるときその親戚がわが家に来ていきなり作家檀一雄の話をし始めた。
檀一雄といえば当地福岡県出身の作家である。
話の内容は、亡くなった作家檀一雄の文学記念碑を建てることになったということであったが、その石材はその親戚の庭にあった大きな庭石を使うことになったという。
このことは後日地方紙にも紹介されていた。

「ほら、お前がこまかとき日向ぼっこばしょったあの庭石たい。檀一雄もあの石によう腰掛けて考え事ばしよった。機嫌の悪かとき息子の太郎ちゃんば泉水(池)に投げ込んだことのあったばい」と、笑顔で伯父がいう。
たしかにその大きな庭石なら私にも記憶があった。
親戚の広い庭には古風な泉水もあって、その池の側に囲むように庭石が二つか三つ配置されていた。


池には五,六羽のアヒルがいたし、夏には従兄弟達が赤い兵児帯姿でよく水に潜ったり蛙取りをして遊んでいたのを、はるか五十数年前の記憶であるのだがいまでも鮮明に覚えている。
今回その庭石の一つが記念碑になって、「檀一雄逍遥の地」 と彫り込まれて当時逗留していた寺(善光寺)の敷地内に立派に建立されたということであった。

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昭和21年当時、檀一雄は最愛の妻リツ子を腸結核で亡くし失意のどん底にあったが、その直後郷里に近い福岡県山門郡に幼い長男と共に逗留していた。
「つくづくと櫨の葉朱く染みゆけど 下照る妹の有りと云はなく」
という悲歌が詠まれたのもこの時期であり、そのときの経緯は小説「リツ子その愛」に続く「リツ子その死」に詳しい。
筑後地方の平野部に点在する櫨(はぜ)の木は、晩秋近くなると細身の葉一枚一枚が見事な朱色に染まる。



その鮮烈な色彩を見知っている者には、この悲歌を詠んだ者の痛ましいほどの哀切さがより一層心に強く迫ってくるようである。


檀一雄のことをこのように紹介しても、残念なことに私個人としては何の面識もない。
ただこれまで郷土出身の作家ということでいくらか文学的関心があった程度である。
また前述した義理の伯父と檀一雄とは縁戚関係であったから、ときには親戚では話題になることが度々あった。
檀一雄がしばらくの間この地に逗留するということで、伯父は近くの東山村の小田平田の山間にある善光寺を間借り先として紹介した。
檀一雄は、山の中の静寂さが気に入り善光寺の庫裏の二階部屋を間借りすることとなり、ここを拠点として幼い長男と共に生活しながら創作活動を始めた。
ときたま濁り酒や鰯を買いに山裾の瀬高町や船小屋辺りまで山道を下ったということだが、片田舎だけに往復するのに4,5キロは歩いたであろうと思う。


その当時は戦後の食糧難ということもあって、伯父は檀一雄と共に近くの田圃に行ってトノサマガエルを捕獲してきて食べたこともあったと懐かしそうに話してくれた。
料理が得意な檀は、西洋では蛙を食用にするらしいという話をどこからか聞き込んできて一度カエルを試しに食ってみようということになり、実際に二人で鍋で煮て食ってみたら酷く不味かったということであった。

この話を始めて聞いたときは思わず大笑いしてしまった。
そこらの田圃に生息している青臭いトノサマガエルと食用蛙とでは、それこそ似ても似つかないものであったろう。・・・



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結局のところ、今回の伯父の話によるとどうやら私にもなじみのある庭石が後世に残る文学記念碑になったということである。

妙な感じである。幼少時のこととはいえ、かって尻にしたことのある庭石を前にして今度はあらたまった顔をして対侍するということになるのだから。
話を聞いただけで尻がむず痒くなってくる。

これは庭石を介して檀一雄と何らかの些細な縁があったというだけの話で格別何ということもないのであるが、実はこれだけで話しは終わらなかった。


小説「リツ子その愛」を読んでいると、福岡県西北部の糸島郡地方の地名が沢山出てくるのであるが、私も青年期に三年近くこの地で仕事をしていたこともあって玄海の海に囲まれた糸島地方は特別に懐かしい土地なのである。
 
その小説に出てくる地名の中に糸島半島の「小田」というところがあるが、戦争直後に檀一雄は妻律子と長男との三人で、結核に冒された妻の療養の為にこの地に移り住んでいた経緯があった。

私には糸島地方の「小田」という地名に記憶はなかった。
糸島半島のどの辺りなのかを糸島出身の家内に尋ねると、実家のすぐ近くの海岸よりの地名だという。
さらに檀一雄や彼の小説の話をすると、卒論は檀一雄について書いたというではないか。



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おいおい、それはどういうことだ?!

少し驚いて、どうして檀一雄を卒論に選んだのかと家内に問い直すと意外なことを話しだした。


檀一雄の小説「リツ子その愛」に登場する、妻律子の療養する糸島半島(当時:糸島郡北崎村小田、現:福岡市西区小田)の海辺の二階家というのが、家内の父方の叔母の家だったというのである。
小田浜(こたのはま)海岸と呼ばれ、いまでもきれいな砂浜が広がっている風光明媚なところである。
その海岸からは檀一雄が愛した能古島が望める。
家内は幼いときから海沿いの小田浜のその大好きな叔母の家に度々泊まりにいっていて、その度に叔母から檀一雄の当時の生活の様子などを詳しく聞いていたのだという。


とうに家屋自体は建て変わってしまっていて当時の面影はまったく残ってはいないのであるが、道路を挟んですぐ目の前に浜辺が広がっているから潮騒だけは昔と同じように聞こえてくるような場所である。

ito2 叔母さんはとても優しい人で、当時の檀一家の苦しい状況をみて親身になって世話をしていたということであった。
これには驚いた。
小説に登場するあの親切な人情味のある大家のオバさん(文中では下のオバさん)というのが、家内の叔母だったとは意外であった。
当時は結核は不治の病であったから、よほど懇意な関係でなければ間借りなど引き受けることはなかったわけで、家内の叔母さんの立場は村内でも非常に苦しい立場に立たされていたという。
そいう苦労話も聴いていたという。




糸島半島(当時・糸島郡北崎村小田の浜からは能古島がよく見えるのであるが、ここでのリツ子との最後の記憶が重なって檀一雄は後年この能古島に家を建てたのかもしれない。
能古島は福岡市に近いこともあって、市民の憩いの場としても知られている。
その能古島は年間を通じて多くの花が咲き乱れる美しい島であって、フェリーを使えば15分ほどで島に渡ることができる。
もちろん能古島にも檀一雄の文学碑が建てられている。


実は檀一雄と能古島ということではさらに奇縁に繋がる話がある。
県内とはいえ、この遠く離れた能古島から当方の元へ治療にみえた老婦人がおられた。
近くの福岡市内でも治療ができるだろうに、わざわざ県南部の久留米市まで時間をかけて来院されたのであるが、これまた不思議な邂逅であった。
当方へ何度か通われているうちに、ふと能古島の様子や暮らしぶりを伺っていたら突然「檀一雄」という作家の名前が飛び出したのである。
きっかけは「能古島だったら、たしか檀一雄の住まいがありましたよね」ということだったと思う。
するとご婦人は懐かしそうに話を始められて、檀一雄とは島の生活で親交があったといわれたのである。
その方のご主人と檀一雄とは気が合って、檀一雄が能古島に家を建てるきっかけや過程でも度々便宜を図るなどして特別に深い付き合いをされていたということであった。
これにも少なからず驚いてしまった。

個人的な交際の話を直接うかがうとは、ここらも何やら不思議である。


こうした経緯を個々に聞いていくと、檀一雄の周りには多くの善意の関わりがあって、彼自身が何者にか見守られ続けていたというような不思議な想いが湧いてくる。これも奇縁なのか?




取り留めのない話ではあるが、私の周辺ではそれぞれの親族の世代は代わってしまっても法事などで従兄弟たちが集まると檀一雄の話題が飛び出してしめやかな場でもいつの間にか賑やかになる。
これはどのような偶然というべきか。
やはり世間は広いようで狭いというべきか。
当人がまったく伺い知らぬところで、何らかの縁(えにし)でつながっているのではないかという、不可思議な感慨にあらためて浸る今日このごろである。
       

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右の写真は糸島の海岸の砂浜















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タグ:西郷隆盛
posted by モモちゃん at 12:38| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月28日

カステラ献上で長崎代官に抜擢された村山等安(7)

あの長崎銘菓カステラ創製記

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


長崎銘菓カステラを食べると思い出す事がある
隠され続けた村山等安の事跡
長崎のキリシタン信徒を身を挺して守った村山等安

東洋医学史研究会
宇田明男








●銘菓カステラには意外な秘密がある


長崎の銘菓といえばカステラがよく知られている。


南蛮渡来の菓子ということで、現在では長崎のイメージの一つとしてもすっかり定着しているのではあるまいか。


この南蛮渡来のありふれた菓子を風味豊かな日本人好みのカステラ菓子として改良し創製したのは、かっての長崎代官であった村山等安その人であった。


菓子箱の中に添えられている解説書にも村山等安の名が紹介されているものもあるようである。


しかしそれ以上の村山等安という人物の情報は見かけない。


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キリシタン迫害が当たり前の時代、村山等安が長崎代官として統治した長崎では一人の殉教者も出さなかった。


それは村山等安を始め一族がキリシタンであり、彼らが命懸けで長崎の多くのキリシタン信徒を庇護したからであった。


しかしこのことによって後に咎を受け、村山等安一族は幕府によって処刑されたのである。


キリシタン禁令を犯したということでの、いわゆる見せしめの一族皆殺しであった。


この辺りの不都合な歴史にはあえて触れないで置こうというところが、いわゆる歴史認識上の賢い対応であろう。


いまさら過去の忌まわしい歴史はいらない、だけど美味しいカステラ菓子は捨て難いという姑息さである。


名を捨て実を盗ったのだとも言えよう。



村山等安が長崎に広めたカステラ菓子そのものは、一つの食文化として定着して400年以上経た今日でも人々に愛され続けているのであるが、皮肉なことに彼や一族の業績に関心を寄せる人は少ない。


長崎の銘菓カステラ創製に関係深い村山等安という人物について、カステラ菓子屋が無関心なのか、触れたくないのか知らないがそれ以上の情報は意外なことに長崎市民も知らないのである。


これこそ歴史あるカステラ創製のいいとこ取りであって、肝心の先人への恩義も礼節のへったくれもないというところであろう。




戦国期に活躍した村山等安は商人の出ではなく、武家の出自をもつ人物であった。


等安は武家に持て囃された茶道や料理にも精通していただけでなく、長崎に於ける南蛮料理・菓子(カステラ・加寿天以羅)の創意工夫で天下人秀吉や諸大名にも喜ばれていたということでもわかるように、ひろく武家好みの風流にも通じた才人としても知られていた。



等安は当時、ポルトガルの商船で伝来していたいわゆるスペインのビスコッチョ(BISCOCHO・カスティーリャのパンもしくは菓子、パステル・デ・マンテキージャのようなケーキ菓子)を手本にしただけでなく、交流のあった南蛮人から直接調理法を伝授された。


長崎の教会でも礼拝の後でもこうした質素な駄菓子の類が度々振る舞われていた。


南蛮の菓子はぼそぼそしてやや固めであったが、等安はこれに貴重な輸入品であった砂糖を加えさらに蜂蜜や水飴で味を調えるなどして独自の工夫をして、より口当たりのよい日本人好みのカステラ菓子に仕上げてみせた。


当時の長崎でも京大坂同様に茶道は盛んであったし、当時の武人にとっては自ら料理して茶席で客をもてなし馳走するのが当たり前の作法であったのだ。


この時代、茶菓子といっても麩菓子のような簡単なものしか一般には知られてはいなかっただけに、長崎での等安の茶会ではこのカステラ菓子が出されて好評を博した。


彼がもてなす茶席には、肥前名護屋に布陣していた多くの大名諸侯も頻繁に訪れていたからこの趣向は彼らの間でも大変な評判を呼んだ。



さらにはこのカステラ菓子が天下人秀吉に献上されたことがきっかけで、長崎の貿易商村山等安は秀吉との謁見が叶うのである。



秀吉は二日間にわたって等安から長崎周辺の情勢や交易内容、地理について詳しく話を聞き、多くの情報を得た。



等安の父親はかって織田家に仕えてもいたこともあって、これに秀吉は大いに親しみを感じた。


人たらしで知られた秀吉はその場で等安の行政官としての才覚を見抜き、彼に長崎の代官職を与えたのである。



それは周囲も驚くような破格の抜擢であった。



一介の貿易商に過ぎない等安が天下人秀吉の代官として長崎の地を統治することになるわけで、このような形で新たな権力者が出現したことに長崎の既成勢力の間には大きな衝撃が走った。








削除されなければ、この稿続く。


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著









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タグ:天下人秀吉
posted by モモちゃん at 10:35| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月27日

黒澤映画で再現された驚異の抜刀術とは

弧刀影裡流居合術を再現した黒澤明の映画『椿三十郎』

少年の頃始めて本物の刀を触らせてもらった時、そのずしりとした重量感には驚いた。

本当に真剣は重いのだと思った。

昔の武士はそうした重い刀剣を自在に操っていたわけだから、それ相応の膂力を身に付けるべく日々鍛錬していたことになる。

それも一瞬のうちに抜き打ちする抜刀術となるとこれは想像を絶する。

そういうこともあって、以前から黒澤明の映画『椿三十郎』で主演した三船敏郎が最後の場面で繰り出した抜刀はどのような技なのか気になっていたが、ウィキペディアに解説があった。

どうやらこれは弧刀影裡流の技ということである。

弧刀影裡流居合術(ことえりりゅういあいじゅつ)は、九州出身の野瀬庄五郎が西南戦争に従軍した経験から編み出した居合術。

車返し、風切りなど9本の形があったという。

黒澤明の映画『椿三十郎』のラストで主演の三船敏郎が最後の場面で繰り出した技は、この流派の形(抜き手、切りかかる手に切りつけるもの)を参照して殺陣師の久世浩(久世龍)が編み出したものだとされる。 『「映画を愛した二人」黒沢明 三船敏郎』によると「逆抜き不意打ち斬り」という名で、心臓を切る技とされる。 映画では相手の室戸半兵衛役の仲代達矢が抜刀するより早く帯刀の刀を左手で逆手に抜き(元になった弧刀影裡流の技では順手に抜く)、刀の峰に右手を添えて刀を押し出して仲代達矢の右腕の下付近を切ったように見える。三船敏郎は早く抜くために普通の刀より5寸(15cm)ほど短い刀を使用したという。」

まさしく映画でも薩摩示現流に対峙した抜刀術として描かれている。

どちらも一撃必殺の剣法ということになる。













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タグ:三船敏郎
posted by モモちゃん at 08:26| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月26日

ATM詐欺にみる国際犯罪への日本の及び腰

ATM管理甘い日本狙う、不正引き出しで専門家が分析

ロイター 5月25日

[シンガポール/東京 24日 ロイター] - 全国17都府県にあるコンビニの現金自動預け払い機(ATM)で南アフリカのスタンダード銀行<SBKJ.J>の偽造クレジットカードが使われ、現金で推定3億ランド(1900万ドル)が不正に引き出された問題で、専門家はATMのネットワーク管理が甘い日本が引き出し場所として狙われたとみている。

パナマ文書も漏れちゃいました!?

ニューヨーク連銀にあるバングラデシュ中央銀行の口座から8100万ドル(約88億円)が盗み出された事件の調査で、同中銀のネットワーク内にパキスタンと北朝鮮を含む3つのハッカー集団の痕跡が見つかったが、実際に資金を盗み出したのはそのうちの3番目の集団であることが判明した。2016年5月11日 12:43 JST
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-05-11/O6ZP7C6S972I01

先般日本年金機構がサイバー攻撃されウィルスにやられて、個人情報約125万件が流出するという不祥事が発生しました。

どうやら何者かが大量の個人情報を入手して、名前寄せなどの基本となるデータベースを構築する意図があるようです。

日本人そのものが集団で狙われているようで不気味です。

日本の政府機関からしてこの体たらくというわけで、実際の被害は現段階では推測不能なのだと思います。

で、このような悪質なハッキングは技術的に防御できるのかということが今日的問題になってきます。

最近になってパナマの法律事務所、モサック・フォンセカ (Mossack Fonseca) によって作成された一連の機密文書、いわゆるパナマ文書が漏れ出たことで世界に注目されています。

実際にハッキングされたのかどうかは明確にはされていませんが、法律事務所内の大量の機密情報が外部に持ち出された時点でネット回線を通じてそれらが遣り取りされたことは確かなことです。

文書には1150万件のオフショア金融センターを利用する21万4千社の企業株主や多くの著名な政治家や富裕層の人々の詳細な情報があるとされ、実際には電子データとして合計2.6テラバイト (TB) にも及ぶ膨大な情報量があるとのことです。

とにかく、これまでにない大規模なハッキングだと言えます。

2016年4月3日にこのパナマ文書についての新聞社経由で報道がされましたが、その関連企業・個人リストの完全版は今月になってネット上に公開されました。

パナマの法律事務所であれば、普通の企業レベルのセキュリティーであったろうと予想されますが、やはりここらは情報管理の脆弱さが突かれてしまったのだと思います。

今の時代どこでも起こりうることで、情報を秘守することはほとんど不可能な状況だと言えそうです。

はっきり言って、これが日本であっても現在のセキュリティーレベルではほぼ防御することは不可能です。

日本では、国民総番号制(national identification number、 共通番号制度)の実施が進められています。

これによって全ての国民に固有の番号を振り別け、いよいよコンピュータネットワークによる行政事務の効率化を進めて個人を迅速に特定し識別管理していくという夢のような制度が導入されるわけです。

個人情報としては氏名、登録出生地、住所、性別、生年月日、婚姻関係といった戸籍情報をベースとし、そこに付随して管理対象となる社会保障制度納付状況、収入と納税履歴、資産情報、公共料金納付履歴、学歴や職歴、各種取得免許、医療病歴、犯罪履歴、各種保険加入状況、金融口座クレジット情報、渡航履歴などが、いずれ次々と枝葉のように付け加えられていくはずです。

ここらは法的な手数の問題であり、それこそ時間の問題だと思います。

実際には医療関連情報も健康保険証と一体化させていく行政側の狙いもあって、各自治体でもいずれこれらは具体化する方向に進んでいきます。

ただ、ここで挙げた付帯される情報もほんの一部に過ぎません。

個人のクレジット情報で書籍購入歴や嗜好品目、旅行先といった項目さえも調べようとすれば容易に確認できます。

思想信条や交友関係など本人さえ気付かなかった情報が集積されデータベース化されるというより、システムが稼働し始めれば自動的に作り上げられていきます。

個人の病歴や服薬履歴、それらもずるずる引き出せるはずです。

システムを運用する場合もその端末自体は、そこらに無数にあることになります。

これはとても怖いことです。

あれこれ言われても、結局情報の集積、情報の一元化とは結果的にはそういうことです。



たとえば、あなたは身近な親しい友人の個人情報をいくつ特定できますか?

おそらく10項目、20項目、30項目程度ではないでしょうか。

これが200,500項目となればどうですか?

そこには同居する家族でも気付いていない情報が出てくるはずです。

今流行りのフェイスブックでさえ60項目の個人情報が流出すると言われていますが、国民総番号制によっていわゆる個人情報の総勘定元帳そのものが個別に用意されるわけで、これらの情報を閲覧すればいわゆるプロファイリングなど簡単にできます。

最新のWindows10セットアップにしても導入時に安易に「簡単設定」を選択クリックして作業を進めると個人のネット閲覧履歴や位置情報、メール情報、検索項目といったいくつかの個人情報が自動的にMSに送信されてしまう設定になっています。

いわゆるライセンス契約内容を細部まで確認したかの問題です。

気付かなければ電子データとしての個人情報が、知らないところで不用意に外部に漏れ出てしまいます。


多くの情報を国民総番号制によって管理すればそれだけ行政遂行コストが下がり、国民にとっても自己の情報を確認や訂正がしやすいメリットがあるといわれています。

一方では、国民の基本的人権が制限されたり、行政機関による違法な監視、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性があること、さらには公平の名のもとに国民のすべての資産を把握し、巨額に膨れ上がった政府債務の解消のために実施されるとする預金封鎖を容易にすることを懸念する意見が巷にはあるようです。

そういうこともあって、いまだに国民総
番号制を推進するのに反対する意見も各方面からも出てきているわけです。

要は政府機関が国民の国民総
番号制の下で集積した情報をどこまでしっかりと管理保全できるのかということです。

現状ではこれらの個人情報が不用意に漏洩する危険性はきわめて高いわけです。

何故そう言えるのか。

それには明確な理由があります。

先の大戦では日本軍やナチスドイツの最高機密であった暗号でさえも、連合国側が解読して筒抜け状態でした。

絶対に破られないとされていたものが、ついには崩壊したのです。

現代の世界の趨勢からみれば国家レベルの情報管理などセキュリティーの壁を越えられてしまい、容易に外部から侵入されハッキングされてしまう状況下にあります。

こうしたハッキングは悪意のある個人ではなく、大抵組織的なものです。

いまのネットシステムは米国が軍事的に開発したものであって、本来これに対抗する独自の力が日本にはないということなのです。

それを認識せずしてシステムを早々に稼働させるというのは、危険この上ありません。



最近は個人のパソコンを標的にした新種のゾンビウイルスが、国内でもいよいよ本格化してきたようです。

インターネットバンキングの利用者を狙ったもので、通常のウイルス駆除作業後もパソコンを再起動すると再び再生してくる消えないゾンビウイルスによるサイバー攻撃です。

一旦しっかりと手順どおりに駆除されたかにみえて、実際はパソコン内にウイルスが生き残っていることになります。

いわゆるこれなどは単に画面上で偽装駆除されているだけなのです。

国内で4月までに666件、被害が確認されていると報道されていいます。

これに侵入されてしまうと金融機関を装った偽サイトに誘導されてしまいます。

ロシアのコンピューター・セキュリティー大手「カスペルスキー・ラボ」は今年2月興味深いニュースを公表しました。

2013年末から現在までに、全世界30カ国の銀行約100社が極めて高度なサイバー強盗に遭い、総額10億ドル(日本円で1185億円相当)が不正送金される被害に遭っていたとのリポートを発表したのです。

これだけ明確に巨額の被害額が特定されたのは始めてではないでしょうか。

それらの被害の大半はロシア国内や日本、米国、そしてオランダやスイスといった欧州の金融機関に被害が集中していて、それらの金融機関から数百万ドル(数億円)単位で不正送金されていたというのです。

インターポール(国際刑事警察機構)はロシアやウクライナ、中国のハッカー集団による犯行の可能性が高いとみているようですが、どうやらこうしたネット犯罪の実態は追跡し難いようです。

被害額は総額10億ドルということですが、これはおそらく氷山の一角であろうと思われます。

実際はこれの何倍かの被害が発生しているはずです。

それを公表したら巷の金融機関への信頼は大きく損なわれるに違いありません。

ハッカーが駆使する巧妙なハッキングやスキミングの高度なテクニックは、後からそれと気付いても遅過ぎるのです。

気付いた時は相当な被害を被った後だからです。

慌てて追跡しても途中で侵入時の足あとが途絶えてしまえば、なす術はありません。


これらは一般のユーザには関係ないような事件に思われがちですが、ネットで繋がっている個人のパソコン勝手に乗っ取られて最悪の場合には誤認逮捕となる場合もあります。

個人のパソコンがネット回線での中継ポイントの踏み台として勝手に使われてしまうわけです。

そうした意図で、日常的ネット回線を介して知らない間に悪質なウィルスに感染させられる危険性があるわけです。

ネット上の入手し易いフリーソフトなどは手軽に使えて便利なのですが、最近はこれには注意しないと思わぬトラブルが発生します。

フリーソフトをダウンロードした際に犯罪に絡む悪質なマルウェアまでもを咥えこまされてします。

いわゆるスパイウェア系統の悪質なプログラムもフリーソフトと同時にインストールされてしまい、不用意にパソコン内に侵入されてしまうわけです。

これが意外と厄介なのです。

そうしたアドウェアやスパイウェアの類がインストールされるだけで、予期しない動作が発生し
ブラウザ表示がやたら重くなってしまう場合もあります。


ユーザー自身がまったく気付かなければそれまでです。

ユーザが個別に閲覧したWebページの履歴や実行した操作の内容、金融取引のパスワードやメールアドレスなどの情報を収集するスパイウェアが、知らないうちに組み込まれてしまうこともあります。

勝手に
メールアドレスと個人情報を抜き盗っていくわけです。(これ自体どこまで違法なのかは知りません。)

先般ある企業から名指しでメードアドレスが特定された形で、メールが一方的に送られてきて驚いたことがあります。

勝手にどこかで個人情報を入手してしまっているわけです。

さらに言えば、個人のパソコンや民間企業のセキュリティなどは高が知れています。

鍵の掛かっていないような、セキュリティの甘い部屋には勝手に侵入されてしまうのと同様の状況なわけです。

貧弱な防御だけに、悪意を持って侵入されれば防ぎようがありません。

インターネットの世界でもっともセキュリティが高いレベルにあるはずの米国の軍事関連企業や国防省さえも頻繁に侵入され、機密情報がハッキングされ続けているのです。

意外にも米国の銀行は、これらの機関より1ランク下のセキュリティレベルに置かれています。

米国の銀行の役員には必ず軍事的要職にあった人物が名を連ねています。

というのは、米国の金融機関は常に最新の軍事的システムと同レベルの
セキュリティシステムにもっとも強い関心を示しているからなのです。

当然のことですが、世界ではそれほど頻繁に金融機関を狙った悪質なネット攻撃が発生し続けています。

ネット上にはいわゆる完璧な
セキュリティというものはありません。

ネット社会では、いわばそうした脆弱さが常に存在し続けているわけです。

始めからそうした欠陥部分を内蔵しているところがネット社会の面白さだともいえます。

結局のところそうした欠陥を補ったり、脆弱さを防御するためのシステムを工夫したりするといったリスクを伴ったビジネスチャンスを限りなく創出していくネット空間というものが、当初から巧妙に用意されていたということになります。

ハッカーたちから見れば、意外なことに米国以外の銀行や日本の金融機関のセキュリティはさらにその下のレベルにあります。

だから日本の金融機関が攻撃の対象となるわけです。

一般企業やオフショア関連の法律事務所であれ、これよりもさらにレベル自体は格段に低いわけです。

狙われたら最後、大抵の機密情報は抜き取られてしまいます。

だからまともに外部からネット攻撃を食らったらぽしゃるような企業は、そこらにぞろぞろあるだろうということになります。

日本などはサイバー攻撃はやり放題ですから、それこそサイバー犯罪の温床はどこにでも転がっているというわけです。

国内金融機関の公表されない被害などは、それこそ相当な額に登るだろうと予想されます。

毎年その被害額は増加しているのも確かです。

ネット犯罪はそれだけ高度にビジネス化しているのだともいえます。

一日部屋にこもってPCに向かって座っているだけで事足りる亜空間犯罪の世界が現実には存在し得るというでことになります。

これを組織的に人海戦術でやられると堪りません。

ネットは物理的集団攻撃に対してきわめて脆弱なのです。

現在は国外からネット回線を使って侵入するというよりは、相当数の訓練された要員を直接送り込んで国内のインターネット接続を中継するプロキシ(代理)サーバーを使って水面下で活動しているようです。

日本国内では、ネット上の規制がそれほど厳しくないからです。

それこそやり放題です。

面白いことに平和大国ほどすべて渡って危機感が欠落しているようで、おおむね日本のネット社会全般は
セキュリティレベルが格段に低いのです。

たしかにここらは居たしかたない状況ではあります。

要するに国民が自由をより志向する以上、それ相応のリスクも覚悟すべき状況にあるというわけです。

サイバー犯罪ということでは、個人のデータを取り込んで金銭を搾取することから企業の機密情報を盗み取る産業スパイ行為までいくらでもあるわけですが、今後ともこうした犯罪は深刻度を増していくはずです。

確かに産業界でも最先端の技術情報も多額の開発費を直接投入するよりは、必要に応じて競争相手から掠め盗る方がはるかに効率がいいはずです。


そこにはペーパー企業を隠れ蓑にした大がかりな組織的サイバー犯罪さえもが存在します。

そうした犯罪行為が拡散していく背景には国際的な対立や軍事戦略が絡んでいるわけで、すでにネット上では熾烈な国家間の
情報戦日々
繰り返されていることになります。

それだけに、情報漏洩といえども多分に計算された政略的駆け引きが裏に隠されているのだともいえます。

その結果、成り行きによってはこれが突然の政変にも繋がるかもしれないのです。

当然ながら非合法なネット犯罪の背後には、数千数万の人員を投入した組織規模のそうした動きがあるということになります。

今回冒頭で紹介した
コンビニの現金自動預け払い機(ATM)での巧妙な手口にしても、少なくとも短時間に100人単位の出し子要員( 振り込め詐欺などの犯罪に利用された預金口座から現金を引き出す役をいう隠語)が一気に投入されてたようです。

そこにはプロ集団としての徹底した作戦が周到に練られていたわけで、多国籍を跨いだ企てとしてはとうてい一朝一夕では成しえない(?)ものだといえます。

日本のセキュリティ対策は貧弱ですし、法的にも面倒な規制も掛かりませんので日本を足掛かりにすれば
どこよりも活動し易いということは確かです。

だから狙われた側は国であれ、金融機関であれ、被害者というだけでなく予想だにしない無様なセキュリティ事情も世間に晒されてしまうわけです。

国や金融機関は大した損害でもないのかもしれませんが、
こうした詐欺被害はそのままリスクとして国民が被ることになるわけで、その対策に掛かる経費も含めた分のコスト自体も結局のところ国民がすべて負担することになります。

腹立たしい話ではあります。


















denden 








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posted by モモちゃん at 11:17| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

戦国時代に大活躍した南蛮武器商人とは(6)

儲けは山分け、戦国九州ビジネスモデル

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

奴隷貿易が軍事費を支えた戦国九州
戦国のキリシタン大名は奴隷売買で潤った
九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていた


東洋医学史研究会
宇田明男


●キリシタン大名の大量の軍事物資はどう購われたのか

当時天草に隣接する島原・口之津の港には、急速に需要が高まった火薬の原料である硝石が南蛮船によって集積されていたことで、火薬(煙硝)を求めて西日本各地から多くの交易船が集まってきていた。

軍需品である火薬の需要からいえば、戦国時代ということもあって島原・口之津の港へは日本各地から交易を求めて続々と武器商人らが集まってくることになる。

港周辺はこうした軍事物資の取引で活況を呈していたことで、武器商人はもとより南蛮の奴隷商人らが数多く参集していた。

南蛮との交易上の対価の基本はここでも良質の銀であったが、奴隷での実物取引も少なくなかった。

奴隷が取引の対価として金銀の代わりとして扱われたわけで、当然ここでは軍需品の硝石と捕虜(奴隷)との取引が頻繁に行われ次々と海外へと転売されていった。

その多くはキリシタン大名の手によって集められた異教徒や戦場で捕虜となった若い男女であり、各地で攫われた子供らであった。

商取引として奴隷の売買も取引されたわけで、その都度輸出入税がキリシタン大名には支払われる仕組みであって、もっぱらそれらの収益は彼らの戦費に投入されることとなった。

ここで転売された奴隷はさらに船で移送され長崎や平戸で集積された後、中国のアジア地域最大の奴隷市場があるマカオへと運ばれていった。

奴隷を搬送する船は南蛮船だけではなく、九州の奴隷積み出し港には海外からも多くの船舶や人買い商人、さらには沿岸部の海賊までが出入りして活況を呈していた。

その様子はルイス・フロイスの『日本史』にもはっきりと記録されている。


「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

また戦国時代のそうした奴隷取引の転売ルートの存在が新聞にも紹介された。

(注)「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代(2013年5月13日 読売新聞記事)
(引用始め)安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。(引用終わり)

このような事実は、戦後の歴史からはすべて削除されていたものである。

結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。

それでも、そのような奴隷貿易は一切なかったという反論もある。

戦国の日本人の奴隷など稀な出来事だともいう。

はたしてそうなのか?

戦国に戦争難民や人狩り、人攫い(ひとさらい)はなかったということなのか?

たしかに戦国を扱った大河ドラマにも登場したような記憶はない。

しかしながら面白いことに九州地方では、時代を経てもこの子供の人攫いという生活感覚にはいまでも特別な響きが残っているように思えてならない。

逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬などの最新の軍需物資をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。

新兵器であった鉄砲、弾薬は高価な武器であっただけに、入手するには潤沢な資金を必要とした。

高価なそれらの輸入軍事物資が無尽蔵に、南蛮側から無償で提供されていたわけではない。

この時代、南蛮商人そのものは富を求めて渡来し、戦国大名の需要に営利目的で群がったのである。

九州の大名は取引のカギを握るイエズス会の宣教師に言われるがままに、彼らから洗礼を受けキリシタンとなっていった。

南蛮との取引での仲介者として、宣教師の立場は絶対的であった。

九州の諸大名は裕福ではなかったわけで、キリシタンということでのその取引での優先順位は確保できても資金力(矢銭)そのものは限られたものでしかなかった。

それらの取引で支払われる高額の対価は一体どのようにして賄われたというのだろうか?

考えるほどにここらは不可解な話である。

それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせが用意できるというのであろうか。

furanki 一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要であった。

戦乱と共に軍事物資の需要も一気に高まることになる。

薩摩の島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、キリシタン大名大友宗麟が国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)をポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な代価では到底賄えなかったはずである。

九州の戦国大名が、何故にそれほど裕福であったのだろうか?

どうやら過去の歴史を綺麗事でうまく飾っていくことが、いまの歴史認識の流れになりつつある。

事の真相などはどうでもいいわけで、結局のところ華々しい歴史的業績をもたらしたという事でその名を歴史に留めたということにしておけばいいのである。

輝かしいキリシタン大名は、いまやそう評価されるべきであろう。

ここでいうキリシタン大名という称号そのものは、過酷な異教徒弾圧と奴隷売買とに自ら参画したという戦国大名の矢銭調達法やそうした戦闘形態をも明確に象徴していることになる。

要するに、ここでは現実の事象から目を逸らした建前だけの歴史認識など一切無用のものであるともいえるのである。










削除されなければこの稿続く




参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)















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2016年05月23日

マードレ・デ・デウス号事件で南蛮と決別した村山等安の真意(5)

長崎代官村山等安の矜持・その1

学校で教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


不都合な歴史はなかったことにすればいい?
アジアや日本では奴隷取引はなかった?
いずれ拉致事件も原爆の悲劇も人々から忘れ去られる?


東洋医学史研究会
宇田明男





●長崎代官は何故イエズス会と対立したのか





長崎代官:村山等安(1562−1619)は熱心なキリシタンでありながら、何故にイエズス会を敵視し始めたのであろうか。



彼の妻ジェスタも敬虔なキリシタン信徒であり、二人の間に生まれた息子たちもセミナリヨで学んで教区司祭となっていた。



しかしある時期より村山等安は、それまで交流のあったイエズス会勢力を長崎一帯から排除するという行動をとる。


この事実によって結果的には、彼はもとより彼の一族は大きな悲劇に見舞われるのである。


長崎の地に浪人同然のよそ者として流れて来ていた若い等安の才覚とキリシタン信徒としての姿勢とを高く評価し、当初背後から支援したのは他ならぬイエズス会そのものであった。



その後等安が貿易商として台頭していく過程では、両者の利害関係は持ちつ持たれつの親密なものであった。



等安は、イエズス会の司祭が仲介する商取引では積極的に会計責任者(プロクラドール)の地位にあった有能なジョアン・ロドリゲス神父にも近づき、いわゆる、家族ぐるみの友情を育んだ時期さえもあった。



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そのように等安とイエズス会とは、当初緊密な関係を保っていたのは確かであったが、長崎が幕府直轄領に移行した時期辺りから両者間には決定的な対立が生まれてくる。



そこには盛んになりつつあった貿易においてみられる南蛮側の独占的な取引が不満を募らせていたし、長崎の統治においても彼らが干渉していたことも少なからず影響していた。


従来よりイエズス会のそうした関わり方があまりにも政略的であったこともあったが、根底には日本人を奴隷種として見下すポルトガル人のいわゆる人種差別的言動に村山等安は次第に不満と怒りとを覚えるようになっていった。



等安自身は商人とはいえ旧織田家家臣の出自を持つだけに、もとより武人としての気概と矜持を忘れてはいなかった。


この時代、教会の宣教事業でも内部では日本人の司祭叙階に対しては明らかな差別があったし、彼らの言語を日本人が習得するのにもポルトガル人らは非協力的であった。



それは交渉の場でポルトガル人同士の取引上の、それも内輪だけの会話を相手の日本人に聞かれることを嫌ったからであった。



しかしそうした状況にあったにもかかわらず、村山等安は言語習得においてその特別な才能をいかんなく発揮した。


村山等安はポルトガル商人との交渉も通詞無しにポルトガル語を自在にこなし、海外経由の多くの情報にも接したこともあって南蛮人の日本における戦略をいち早く察知した数少ない日本人の一人でもあった。



奇しくも天下人秀吉の信任の下で長崎代官となった等安は、南蛮人の背後には日本侵略の企てがあることを察知していた。



察知しても等安はそのことを外部には黙していた。



口外すれば当然イエズス会とのそれまでの親密な関係が崩れてしまうことは明白であった。



貿易商としてもそこには厳しい状況が生じるはずであった。


ところが1606年以降、徳川幕府の治世になると突然彼は公然とイエズス会を批判するようになる。



等安は彼の一族と共に教会から離反したのである。


村山等安は徳川の時代になっても大きな権勢を持つ長崎外町の代官職に留まり続けただけに、長崎での有力者としての影響力は無視しがたいものがあった。


その等安が公然とイエズス会や教会の宣教活動を批判するようになったことで、以降イエズス会とは決裂し対立するようになる。



貿易商として己の財力を肥やすのであれば、その取引相手の南蛮商人やイエズス会と親交を保つのがどこまでも得策であったはずである。



だが等安はイエズス会から離れ、あえて真正面から対立する立場をとったのだ。



イエズス会は等安をあの手この手で懐柔しようとしたが、対立の溝は埋まらなかった。


結局のところ等安という男は、有利な取引や金銭でもってしても籠絡できない彼らにとってもっとも厄介な背教者となったのである。


イエズス会からみればそれまで最も友好的な人物と目されていた等安が、一転してあからさまにイエズス会に敵対し始めたのである。



イエズス会内部には大きな驚きと衝撃が走った。


彼らはそのような等安の動静をみて、ついには等安を背教者、悪人として非難し長崎から排除しようと画策し始める。



ここから両者の命がけの熾烈な戦いが始まるのである。






村山等安は当初よりポルトガル商人の奴隷取引に強い嫌悪感を抱いていた。


同胞である日本人が奴隷として海外に売られていくことに忸怩たる想いを募らせていた。


しかし南蛮交易上の取引や決済として奴隷売買は、等安自身が生誕する以前の1555年以降すでに日本国内それも九州ではビジネスモデルとしてすっかり定着してしまっていたのである。



等安は長崎の地に流れてきて、始めて奴隷貿易の実態を目にした。


長崎代官という立場であっても、この地で慣習化し根付いた忌まわしい状況そのものはもはや等安にも変え難いものであった。


奴隷売買自体は、ここ長崎だけの慣習化した商取引ではなかったのだ。


いわゆる奴隷を取引きする大きな市場そのものが、九州に隣接するアジア圏(中国マカオを中心に)にしっかりと形成されていた。


しかもこの商取引の裏には、従来より南蛮商人やイエズス会の教会が仲介者として深く関与していた。




こうした状況は朝鮮半島や中国沿岸部でも同様であった。


これらの地域では従来より海賊の倭寇が跳梁跋扈しており、略奪や奴隷狩り、放火、殺戮を繰り返していた。


倭寇は奴隷狩りで集めた男女を中国マカオの奴隷市場に持ち込み、南蛮の奴隷商人に次々と転売していたのである。


この当時、自国民が奴隷として売られていく悲惨な状況を知った中国広東の役人とキリスト教司教との遣り取りが記録された文書も残されている。


「広東の長官は、朕の家臣たちが略奪された大勢の男女の若者を不正取引で買い入れて、シナからマニラに送るのを嘆き、(中略)聴訴官は、其処〔マカオ〕から〔マニラに〕軍需品を齎す船舶で〔奴隷を〕一人も送ることのないよう尽力し、それを禁じた。これに対し同司教は、言葉と懲戒罪によって彼〔聴訴官〕の邪魔をした。」(「モンスーン文書と日本―十七世紀ポルトガル公文書集」― 高瀬弘一郎訳註「ポルトガル人による中国人奴隷輸出の現実」1614年、文書33、p.276-291」より引用)


ここにあるように、奴隷取引を禁じようとする明国の役人を教会の司祭は何故に邪魔したのであろうか。


奴隷取引はポルトガル商人にとって特に収益の大きな商取引であり、その都度仲介料が教会側に支払われていた。


教会は宣教事業に必要な資金的援助をそうした奴隷取引からも得ていたのである。


それ自体が慣習化し、奴隷売買がアジア地域にヨーロッパと繋がるスタンダードな一つのビジネススタイルとして定着していた。


こうした取引にイエズス会が深く関わり、奴隷の輸出ということで許可書発行(同意書)に関与していたことにキリスト教を棄教した千々石ミゲルや村山等安は以前より疑念と反発とを抱き続けていた。


人身売買するにしても、その根幹の所有権はローマ教皇にあるのであって、さらに教皇文書によってキリスト教国の王はその代理人として、関与する一切の権限をイエズス会と商人とに委ねていたわけである。






そこではたとえポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁じようとも、遠く離れたアジアの端でそれが厳しく守られるはずもなかった。

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ポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁じようとしたのは、奴隷取引そのものが日本での宣教事業の妨げになると考えられたからである。


確かにポルトガルの国王ドン・セバスチャン1世は1571年3月12日付の勅令で、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布し日本人奴隷の売買を禁止していた。



この勅令が出されたことを現場のイエズス会教会もポルトガル商人も知らぬはずはなかった。


だが実際には、そこにいままで同様の奴隷の需要と供給の二つの流れがあることははもとより、奴隷を商品として扱う市場が整備され現地にそのまま用意されているわけであるから、人間の欲望のままにこうした商取引自体は無くなるはずもなかった。



たちまち勅令に対してポルトガル人商人からは猛烈な反発が沸き起こった。



奴隷取引そのものはローマ教皇が許可したものであって、国王に何らかの権限があるとしてもそれは教皇の代理人の勝手な意向でしかなかった。



「時には奴隷貿易を止めようとする動きもあったが、ポルトガル人商人たちは抗議を行った。「我々は奴隷を買い入れるために100万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている……従って国王がこの事実[イエズス会の奴隷貿易認可]を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪うことを受け入れることはできない」(『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』北原 惇著)というものであった。




こうした反発はイエズス会もまったく立場は同様であったわけで、むしろ教会側はここでは狡猾とも思えるしたたかな対応策を講じてみせた。


教会は、さっそく日本人奴隷を仲介取引することについて好都合な解釈を用意していただけでなく、
イエズス会修道士らは実際の取引の現場を踏まえた上で次のような理由付けでそれを巧妙に正当化してみせたのである。


「ポルトガル国王陛下がそれを命じている以上、われわれは何人をも購入することはないであろう。しかし、日本国民は彼ら自身の子供たちを売却するのを常とするのだ。しかも日本人は彼らと同じ非信徒たちに売却する。つまり、日本国民は日本国民を異教徒たちに売却するのだ。したがってキリスト教徒たちへの売却は、正当であるように思われる。というのは、キリスト教徒は購入した者たちを皆、キリスト教徒にするからである。(1605 年、文書 148)」(大航海時代の日本―ポルトガル公文書に見る―. 高瀬弘一郎訳註)




ポルトガル人たちの奴隷取引に対する認識は、これ以上でもなければこれ以下でもなかった。



奴隷取引なしには済まされない状況そのものが存続していたのである。


そこにはいわゆる普遍的な倫理観などが介在するような余地はなかったし、こうしたレベルの独善的解釈が奴隷取引には常にとられ続けていた。


かってキリシタン大名であった有馬晴信は、宣教師の要求に応じて領民から百名あまりの少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った事実があった。


それが政庁での使用人なのか、衛兵要員なのか、そこにはどのような名目が立てられたのかはわからないが、このとき送られた少年少女はキリシタンであったのではないか。


ここにある宣教師とは、有馬を軍事面で度々支援していたイエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノのことである。


そしてこれをヴァリニャーノから直接指示され、実務面で秘密裏に遂行したのがイエズス会の出世頭で実力者でもあった長崎のジョアン・ロドリゲス神父であった。


彼が教会の会計責任者(プロクラドール)の地位に着いた理由も、こうした実務能力を
ヴァリニャーノから評価されたからであった。


ロドリゲス神父はそうした輸出業務全般に関わっていたが、そこでは実質イエズス会がローマ教皇の代理人として輸出許可証を発行することによって修道会の財政調達を助けていたことによる。


この背景には、イエズス会内部の急速な財政の悪化があり、経済的にも逼迫した状況に陥っていたことも関係していた。


それは日本国内の宣教事業だけでなく、長崎に集まってくる各地の迫害されたキリシタン信徒の救済のための出費など、教会はここでも相当な経費負担を強いられてきていたからである。


そのため長崎のイエズス会(日本本部)はマカオやゴアの上部組織からも多額の事業資金を借りなくてはならず、その負債が相当に積み上がっていたのである。


その一方で、有馬や大村との交易では取り立てるべき多額の債権が残ったままであった。



有馬や大村といった小大名にとっては、それは大き過ぎる債務であった。



もとはといえばそれらの債務はキリシタン大名の多額の戦費であって、緊急時にイエズス会の
アレッサンドロ・ヴァリニャーノが巧妙に肩代わりしてやったものであった。


キリシタン大名の彼らにその支払い能力がないのであれば、ここは現物商品を受け取るかたちで、有馬やゴアともどうにかして貸借関係を決済しようとしたであろうことが窺えるわけである。



ここでイエズス会教会の会計責任者(プロクラドール)
ロドリゲス神父の登場である。


教会の財政を立て直すためにヴァリニャーノは相当な危機感を持っており、日本語に長けたロドリゲス神父に有馬との負債に関わる決済実務の交渉もすべて任せていたということになる。



ロドリゲス神父は
ヴァリニャーノの意向を受けて忠実にその職務を果たしたことになる。




こうした両者間の裏取引とも言える機密情報を密かに探り出そうとして、いわゆる背教者千々石ミゲルは動いていたのだ。


そのために彼は、教会やキリシタン
からは危険人物として執拗に命を狙われたのである。



彼らから見れば、千々石ミゲルや等安といった背教者、異端者は粛清されて当たり前と考えられた時代であった。





当時のイエズス会の方針では、大衆受けするような宗教的清貧さを表に出すことを避けていたこともあって、宣教事業では特定の大名や貴人との交流に多額の経費を要する状況にあった。



教会は宣教事業や教会のそうした資金繰りに窮していた。


教会内部では、宣教師が商行為である貿易に関与し過ぎることは問題があると考え批判する者もいたが、そうした意見は教会上層部にはまったく受け入れられなかった。



日本布教長をも務めた準管区長フランシスコ・カブラルはその少数派の一人であったが、イエズス会総会長あての書簡で次のように自分の考えを述べている。


「日本の改宗事業のために必要であるとの口実の下にわれわれが少しずつ足を踏み出し、純粋に必要あって、極めて慎重かつ細心に始めたことが、必要というより、無知と貪欲さから行われるようになること、つまり修道士にふさわしい程度をこえて恣に行われるようになるのを非常に恐れる。というのは、すでに今年何人かのバードレが個人でもって、貧者のためとか教会を修繕するためとか言って20ピコ、10ピコと生糸を入手した。この生糸は直ちにその地で転売されたが、このようなことも非常に悪いことだと思われた。また何人かのバードレは、これと同じ口実で、少額ながらこの地で投資するために 金を送ってきた。もしも初期のうちに防いでおかないと、これが嵩じて非常な悪事を働く者も出てこよう。」


カブラルは聖職者が俗事の商取引に深く関わることで、悪事を働く者が出てくることを強く懸念していたが、実際にはあらゆる場でポルトガル商人と共に多くの商取引に宣教師は従来通り関わり続けていた。


カブラルは、なおもイエズス会総会長あての書簡に続けて記している。



「教会の門をくぐつて人々はミサにあずかるが、同時にその傍らの門から生糸や棉放物の梱が運び込まれ、良心問題やその他の霊的な事柄のために来た人々が、中国の財貨や商品が、プロタラドール立会いの下に欄にされているのを目撃するというようなことがたびたび起っているからである。このようなことは、現在の管区長(ヴァリニヤーノ)から多くの許可と権能を得て行われているので、カーザ内に慎みを欠く空気を作り出し、その上少なからず非教化の原因にもなっている」


プロタラドールの神父を操るヴアリニヤーノのそうした貿易推進の姿勢さえもここでは痛烈に批判してみせている。


カブラルとイエズス会東インド管区の巡察師ヴアリニヤーノとは日本での宣教事業でも意見が合わず、遂にカブラルは布教責任者の立場を解任され1582年に日本から退去させてしまった。



これは事実上の左遷であった。












削除されなければ、この稿続く













参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号














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    posted by モモちゃん at 15:54| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2016年05月20日

    古代にもあった高額医療費の核心部分に迫る!

    医療費にまつわる面白話し

    昔の一両小判の価値とは、一体どのくらいのものであったのであろうか?

    江戸時代は幕府によって米一石が一両と一応決められていたが、相場による変動があった。

    この米の価格から一両を現代の円に換算すると幾らに相当するかということが、よく話題になる。

    これには諸説があって三万円代から四万、六万、八万、高いところでは十六万というのがある。

    しかし当時一両もあれば、4人家族は1ヶ月間ゆったりと暮らせる貨幣価値があったとも言う。

    ゆったりと暮らせるとは、果たして1月の生活費はいくらあればいいのだろうか?


    武士の生活で考えてみよう。

    百石取りの武士の場合、四公六民で四十石がその取り分となる。

    俸禄が百石といっても、まるまる百石分もらえるわけではないのだ。

    米を白米にするのに五石のつき減りがあり、実質三十五石が手取りということになる。

    現代のサラリーマンが、源泉徴収であれこれその給料から差し引かれるのと同じである。 

    このうち自家用に消費するのが十一石あまり、 残り二十四石をどうにか換金することができる。

    一石=一両=八万円で計算すると一九二万円、 これが百石取りの一年間のその他の生活費となるわけで、当時の消費生活がいくらか窺えるというものである。

    これがエリートである奥医師となると二百石の知行であっても、年間四千両(約三億二千万円)の副収入があったという。

    しかも自分の家があっても、別に役宅として立派な屋敷も用意されるわけだから、住居費は掛からない。

    ここらは歴史教科書では一言も触れられないことであるが、将軍の御脈をとる御匙医師ともなると大変な格式があって、大名が診てもらうと盆暮に千両箱が届けられるのが通例であった。

    このように奥医師の場合は知行に加えて足高やアルバイト収入に税金はかからず、裕福この上なかったわけである。

    医者の中には巨富を元手に高利貸でさらに資産を増やし、金融業で名を成した者もいたという次第であった。


    二千年前のハムラビ法典には骨折を治癒させた医師には銀貨を支払う規定があったように、医療に対する報酬は昔から明確に保証されていた。

    それに値する特殊技能として認知されていたことになる。

    古代中国の戦国時代には疽(悪性の腫れ物)は血膿を口で吸い出すのが常法であり、信じられないかもしれないが痔の治療では医師が舌で嘗めて治していた。

    このことを知った時は、我ながら大変に驚いたものである。

    秦王は腫れ物を吸う医師には車一台、痔を嘗めれば五台を与えるという具合に汚い病ほど報酬を多くしていたことが古典籍の『荘子』にしっかりと記録されている。

    とにかく古代の治療代はべらぼうに高額であった。

    確か大夫簡子を診た名医扁鵲はその報酬として四万畝の広大な田地を賜ったということが『 史記』に書かれているが、貧乏人には到底まねのできないところである。(周代の一畝 は1.82アール)

    何でこのような事を書きだしたかというと、医療に対する報酬について歴史的事実に基づいて突っ込んでみ たかったからである。

    実は意外なことであるが、洋の東西を問わず古来医者を卑しむことが多かった。

    『論語』に「人にして恆なくんば以て巫医をも作すべからず」とあるし、『列子』には「乞児・馬医と雖も敢えて侮らず」とある。

    古代において、医者は卑しい職業と見られていたということは意外であろう。

    二千年前のインドのマヌの法典には「高利貸しの食物は糞のように忌まわしい。医者の食物は血膿のように汚らしい」と、その報酬に対する貪欲さを卑しめて揶揄している。

    ようするに昔の医者は巫、乞食、高利貸しと並称される存在であったというわけである。

    医術は君子が個々に身に付ける一種の素養と考えられた時代があって、それは身過ぎのための職業とするのではなくて、自分の両親や一族に病人が出た時に適宜対応する手段として必要視されたのであった。

    身分の高いものから見れば、そこには医療行為によって専ら報酬を得るという職業的概念がなかったともとれる。

    逆にいえば、巷には医療行為を行って多額の報酬を得る医者も当然いたということである。

    ただし、概して医者の身分はどこまでも工人(職人)扱いであって、報酬を得る以上卑しい行為とみられていた。

    江戸時代の『近世風俗見聞集』に具体的に紹介されている当時の医師や医療の記述をみると、ここらの事情や背景はおおよその見当がつく。

    「官医以下、町医者・国々の医師も驕慢に構へ、療治の道に鍛練を尽くさず、只形姿 を立派にのみ拵え、利欲を稼ぐに精根を尽くすなり」、「本人はもとより家従までも不 行跡を尽くし、医道の玄妙至らざる故、親切の情さらになく、表向きのみ飾りさも良医の体に見せて人をだますなり」、「人を助くる心を失ひ、いささかも病人の為を弁えず、 兎角療治の功を争ひ──或いは売薬を競ひ、その上、山医者などいえるもの出来て、後々病者の身の害となる事も厭はず、眼前即効の奇薬を与え、或いは禁穴をも構はずして 灸を点じ、一時の験気を発せしめて人を服さしめ──当世は山医者・売薬人多く出来て、世を費やし、また天命を縮むるもの多し」等々、当時の医者や医療に対する憤懣がうんざりするほど書き連ねてある。

    だから、概して廉潔の士は医業に就かなかった。

    もともと本来が医を業とする者は金 銭に執着して汚く、金ずくめだからこそ血膿をすすったり尻を嘗めるのだといった侮蔑の意識の方が強かった。

    しかも貧乏人からもなけなしの金銭を容赦なく取り立てていくそうした根性を嫌ったのであり、そのいかがわしさ、貪欲さを当時の文化人は許容できなかったのである。

    それは医術の暗黒時代であったともいえるし、医道の確立される淘汰の時代とも言えるわけである。

    しかし医道というものがそれまで蔑ろにされていたということではない。

    西洋ではヒポクラテスの時代にも、医道についてすでに言及され医学の根幹として認識されていた。

    Hippocrates_rubens.jpg


    そうした倫理観については、古代中国の医学書『黄帝内径』にも張仲景の『傷寒論』自序にも、さらには孫思邈の医学書においても医道に関しては明確な姿勢を示している。

    我が国においては丹波康頼の『医心方』の冒頭に「太医病を治するに無欲無求、大慈惻隠の心に発すべし」と、唐時代の孫思邈の仁術の教えを忠実に伝えようとしている。

    こうみると結局、医道と医術、仁術と医学とはそれぞれ分離した存在、あるいは分離されやすい存在であったということであろうか。

    早い話、医術に対して仁術が正道としても、他に算術、忍術、魔術といった諸々の選択肢があったということになる。

    ここで報酬に執着しなかった中国唐時代の名医孫思邈の仁術について書いてみよう。

    孫思邈は唐時代の非凡な医師であるが、「人の命は千金に代えがたい」として、中国 に古代から伝わる医薬、鍼灸を実験と経験によって集大成し、『備急千金要方』三十巻三十三冊を撰したことで知られている。

    現代でも歴史上の名医を問われれば、名医として孫思邈の名前が必ず出てくる。

    彼は仁術を身を以て実践したというが、貧乏な者からは治療代を取らず、遠くの病人でもロバに薬袋をぶら下げて自ら往診し、深夜といえども親切に診療し重病人は自宅で丁寧に看護した。

    彼の名声は巷に広がり、彼の医療の恩恵を受けた貧しい人々は、彼の家の周りに杏の種を治療のお礼に埋めていった。

    長年の間にこれらの杏の木が育ち見事な杏林となったという。

    何故、貧しい患者は杏の種を植えていくのか、これには前例となる有名な出典があったからである。

    中国の古典籍『神仙伝』にあるが、董奉が人の病を治しても報酬を受け取らず、治った者には杏を記念に植えさせたので何年か後には立派な林を成したという故事に孫思邈の患者も同じようにならったのである。

    つまり「杏林」とは、仁術を施す名医にふさわしい異称だったのである。

    しかしながら、この事実に対して当時の文化人は意外にも冷やかな目で見ていたのである。

    孫思邈自身も文章博士であり第一級の文化人であったが、日常的に医を業としたので、いわゆる身分上は方技を行う職人(工)としてしか周囲からはみられなかったのである。

    それほどに古代の身分制度は厳しいものであった。

    これらすべては昔のことであるから、世情や価値観がいくら違っていても少しもおかしくはないわけであるが、時代の流れと平行した一つの歴史的変遷として医療に対する報酬を考えてみるのも、ここでは文化的・史料的価値はあろうというものである。

    まあ現在の日本の世情からいけばなるべく高価な薬がいかにも効きそうに思えるし、高い治療費を請求された方がより良い医療サービスを受けているように錯覚してしまうときもあるわけである。

    やはり医療サービスの多くは、すべて経済的価値観そのものが実質的に支えていることに違いはあるまい。
















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    2016年05月19日

    伝統的錬金術の手法とその奥義について

    最高裁判所 の裁判長かて「そら払わなアカン!」ていいまっせ


    舛添都知事に“政党交付金400万円”ネコババ疑惑が発覚!2016.05.18 16:00
     http://shukan.bunshun.jp/articles/-/6156




    一般庶民が銀行からおカネを借りるというのは大変なことである。

    それこそ借金(融資)ということで手続きがすごく面倒である。

    こうしたいろいろなハードルを越えてやっとどうにか融資が受けられるとなるとそこでは当然、正式な金銭貸借契約書が交わされる。

    厳然と借用書が存在するわけである。


    契約書も何枚ページもあっていちいち署名捺印しなくてはならない。

    しかも連帯保証人や担保物件もしっかりと押さえられる。

    いわゆる銀行というのは、個人に対しての融資にはまったくリスクを負わないのである。

    これが世間一般の人間が借金するときの手順である。

    「倍返し」といわれるが、これは実質借金、融資の返済額のことである。


    もともと融資自体はただで借りるわけではない。

    元本には金利が付くわけで、毎月返済していく結果がそのものが倍返しである。

    返済開始時は金利部分が多くを占めているわけで、肝心な元本部分は一向に減っていかないのも特徴である。

    何十年も掛かって返済していくといっても、元本と金利分を合わせれば借金もいつの間にか倍返しになるというわけだ。





    同じ融資でも政治献金やそれに絡んだ資金にはこのような面倒くさい手順は要らない。

    要らないらしいとしかいえない。

    どうやら政治という世界では、お金は自然に湧き出てくるもののようである。

    いわゆる自然発生的にお金が近寄って来る、流れ込んでくるということである。

    どうやらその集まって来るお金をどのように自分の懐に取り込むかの巧妙な手法そのものが政治力、手腕というとことであり錬金術の所以なのであろう。

    政治の世界では借金時に必要なはずの金銭貸借契約書や領収書は、やり方によっては不要らしい。

    事務的に形だけでも領収書もどきが揃っていればいいわけである。

    政治に関わる借金でも借用書を作れば問題はあるまい。

    収賄などは愚かしいことである。

    貸借関係でもただ返済義務を問われない形で済ませるようにしておれば、そのままでもいいではないか、とも思う。

    こっそりと自分の懐にため込むからこそ、発覚して問題になる。

    借金である以上隠す必要があるのかと問いたい。

    そうなると借金まみれでいながら、やたら金回りがいい政治家がもっとも利口であろう。

    相互の信頼関係による貸借関係であれば、税法上もどこまでも正当な行為としてみるしかあるまい。

    しかしながら、この「相互の信頼関係」が何やら利権絡みで胡散臭いものだから、こうした当たり前の形が取れないのである。

    どちらにしてもこの場合は、カネの受け渡しが当事者同士でしっかりと認識できさえすれば貸す側も借りる側も阿吽の呼吸で結託できる伝統的手法らしきものがある。

    ここらは、連綿と上から下へと体験的に継承されてきている政治世界の深遠な慣習といえるものである。

    それでも貸す側は多額の金銭を融通するわけだから、見返りそのものは当然のごとく要求される。

    ここらの流れは間違いあるまい。

    利権をいくばくかの金銭で買い取るのわけだから、相当なリスクはあるはずだがここらは大方先行投資ということになるはずである。

    近い将来借りる側が利権を操作できる有利な立場に立てるのであれば、前もってその利権を頭金を払ってまずは買っておこうというしたたかな考え方である。

    先物買いの相場師的発想である。

    値上がりしそうな商品や物件を前もって仕込んでおくという遣り方である。
    そう考えるとここらは納得がいく。]

    当然政治には利権と共に金銭が絡んでくる。選挙運動もしかり。

    きれい事を並べたところで、利権と何らかの報酬に繋がらないことには支援は得られないし人間は動かせない。

    だから政治にはカネがいる。

    ここから先は、実際に政治的人間になってみなくては分からない。

    権力必腐、権腐三年ともいうらしい。

    権力は必ず腐敗する、三年ほども権力の座に座ると人は変わっていくということだ。


    この辺りは一般庶民には遠く理解の及ばないところである。

    闇献金の使い道などはどうでもいいわけである。

    生活費に回そうと、女性に貢ごうと受け取った側の自由である。

    金権と利権が渦巻く世界には、申し合わせたように同類がぞくぞくと集うのである。

    世間に不祥事が発覚すれば、同じような代わり映えのしないカネ絡みの事件ばかりということになる。


    兎にも角にも、糞面白くもないお粗末なものばかりであることに違いはない。




    ウルフルズ 借金大王
     
















    denden 








    hal2







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    タグ:政治資金
    posted by モモちゃん at 11:30| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする