2016年06月30日

昨日から不審メールが続々と届く異状事態!

ヤマト運輸を装った不審メール出回る 

添付ファイルを開かせようという魂胆ありありの不振なメールが続々と届いています。

不審メールには必ずZIP形式のファイルが添付されています。

「宅急便お届けのお知らせ」などの件名で、ヤマト運輸の「お届け予定eメール」を装ったものですが、当然添付ファイルを開くと不正プログラムがダウンロードされ仕組みになっています。

内容はお粗末な偽装なので、すぐに不審メールと判別できるものです。

その他には日本郵政や三菱○○銀行などの名前をかたった不審メールが届きますし、送金案内や請求書もどきの内容が多いようです。

それらすべてに怪しいZIP形式のファイルが添付されているというわけです。

有名企業の名前であっても取引が無いのにこちらを特定してメールが送られてくること自体不審なわけで、すぐさま不審メールであることが分かるというわけです。

不審メールは必ずZIP形式ファイルを添付して送られてきます。

内容はいろいろとバラエティに富んでいますが、どれも一様に添付したファイルを開かせようとしつこく送付してくるわけです。

本日付で送られてきた不審メールの中身をいくつか紹介します。

文中の(※添付ファイルあり)は当方で記入したものです。



≪☆無料☆個人情報保護機構(日本支部)≫さんより新 着 メ ー ル★(※添付ファイルあり)
『一言』
☆無料☆昨日のこちらからのメールはご確認頂けていないでしょうか?急ぎご対応頂かねばならないレベルの案件になります

◆◇初 回 購 入 PT.2倍!!◇◆
※キ ャ ン ペ ー ン詳細例↓
3000円 ⇒『6000円分』
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※3000円以上から対象(後払いは対象外)

何の販売なのかはまったく分かりませんが、詳細は添付ファイルをみてくれということなのかもしれません。

≪☆無料☆マネージャー日下≫さんより新 着 メ ー ル★(※添付ファイルあり)
『一言』
☆無料☆タレントとお話相手になってはもらえないのでしょうか…?もちろん無理にお願いはしませんが

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入金案内のようですが、気前よくどこかの誰かが1億5千万も振り込んでくれるみたいです。
これも詳細は添付ファイルを開いてみてくれということなのでしょう。


インターネットBANK(※添付ファイルあり)
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必ずご確認下さい

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※本メールは、セキュリティ強化のため、電子署名をつけてお送りしています。
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2016年6月16日にお振り込みを受け付けいたしましたので、ご連絡いたします
(受付番号 20160616-001)。

本メールは、お取引の受付確認のために送信しております。
送信を中止することはできませんので、あらかじめご了承ください。

なお、お取引につきましては【入出金明細照会】等でもご確認ください。


──■□────────────────────────────────────□■──

■お問い合わせ先<br>
  <インターネットバンキングヘルプデスク>

■本メールの送信アドレスは送信専用となっております。返信メールでのお問
 い合わせは承りかねますので、あらかじめご了承願います。

毎回振込金額が1億5千万になっています。
どうせならここは20億ぐらいに提示してほしいなあ、という感じです。



いつも大変お世話になっております。(※添付ファイルあり)
添付ファイルをご確認ください。

既に報道されておりますが、オンラインサービスを提供している他社において

数千万件規模でID、パスワードやクレジット情報などの会員情報が不正アクセスの影響により 流失したとの情報を確認いたしました。

◆本人確認のための認証メールを送信いたします。 メールを受信して、記載されているURLをクリックしてください。 :

◆メンテナンス中の場合、会員登録手続きを行うことはできません。メンテナンス終了までお待ちください。
 ◆このメールアドレスは配信専用ですので、メッセージを返信しないようお願いいたします。
◆本メール内容に身に覚えが無い場合には、恐れ入りますが当メールを破棄してください。

これには怪しげなアドレスも記入してありました。


ヤマト運輸からのメールとして、ついに当方にも送られてきました。
宅配ということですと、意外と騙され易いかもしれませんね。

でも宅配便のお知らせに、わざわざZIP形式ファイルを添付してまでして知らせることはしないですよね。

偽って、すぐ分かっちゃうよ。



■お届け予定日時(※添付ファイルあり)
6月30日  時間帯希望なし

※お届け予定日時につきましては、ゴルフ・スキー・空港宅急便(施設宛)の場合、プレー日(搭乗日)を表示しております。

■品名:****************
■商品名:宅急便
■ご依頼主:
■伝票番号:5068-3554-0529

ヤマト運輸株式会社

1件目 伝票番号 5068-3554-0529 
 
伝票番号がわざわざ記入してあるので試しにヤマト運輸のサイトでこの伝票番号を確認すると、以下の情報が出ました。

 「伝票番号誤り 伝票番号に誤りがあります。 再度ご確認の上、もう一度お問い合わせ下さい。」ということでした。

何のことはありません。

社内出荷でお願いします。(※添付ファイルあり)
住所は、先日会社宛にメールもらってるのでそちらに記載されていると思います。

が来ましたので添付します。

iPhoneから送信

出金取引をお知らせします。

利用日  :平成28年6月29日
利用内容 :契約者貸付
利用金額 :160,000円
うち手数料:0円
利用先  :インターネット
(送信番号721702T1034N000947)

◇ご連絡◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
?03-5287?5820
Fax03-5967?0669

 
今までと違って、今回は金額が少額になって、再登場のようです。

なんと10万円台です。

ZIP形式ファイルももちろん添付されています。



A0HQ1MTCMMQG7VHU0J.ZIP  A0HQ1MTCMMQG7VHU0J.ZIP(※添付ファイルあり)
 189 KB  表示  ダウンロード 

支払は2月29日に3月〜5月分を支払い済み
1台1か月分15,000円
7月1台分を6月末に支払うつまり
15,000を6月末に支払ってください。


まるで日本語になっていないところをみると、どうやらその出所が分かってきます。

全国的に相当数の不審メールが発信されているところをみると、これらは組織的なものだと思われます。


また次回7月末から毎月末に次月分15,000円を駐車料の前払いで払ってください。(※添付ファイルあり)
出金取引をお知らせします。

利用日  :平成28年6月29日
利用内容 :契約者貸付
利用金額 :140,000円
うち手数料:0円
利用先  :インターネット
(送信番号163812T5612N000370)

◇ご連絡◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

























denden 








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posted by モモちゃん at 19:18| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本の伝統的発酵食品なら味噌ですね

毎日食べるものは自家製がいい


健康食を考える上でその中心に置いて考えるべき日常の食べ物は味噌だと思う。

日本人の食生活に不可欠な食材ということで味噌に特別な拘りを持ておられる方も少なくないであろう。

まず味噌は日本人の健康食としてその筆頭に位置する存在に違いない。

味噌に拘りを持てば必然的に手作り手前味噌ということになる。


味噌づくりには、大豆と米こうじ、塩を用意する。





RIMG0547

















今回は、教えてもらった分量は、大豆900グラム、塩600グラム、米こうじ3キログラムであった。

我が家も何年か前から自前で味噌を仕込むようになったが、実際に手伝うのは今回が初めて。






RIMG0549





















大豆を柔らかく煮てすり潰したものに細かくほぐした米こうじを混ぜ合わせる。

さらにこれに塩を加えて丁寧に混ぜる。

使用する容器や道具は、カビや雑菌が繁殖しないように事前に消毒しておく。






RIMG0553




















さらに混ぜ合わせて出来たものを小分けしてボールのように丸めていく。

仕上げは空気が入らないようにボール状にしたものを少しづつ押し固めながら容器に入れていく。

上からラップを密着させて味噌の表面をきれいに覆う。







RIMG0550




















手作り味噌を食べ始めると市販の味噌とは比較にならない美味しさに遭遇することになる。

味の芳醇さはもちろんその風味や香りに格段の違いがある。

自家製味噌は熟成に少なくとも半年は必要である。

市販の促成物とは違った本物の美味しさがある。

仕込んだ直後は味噌は黄色っぽい大豆の色である。

これが半年経つと次第に発酵して味噌全体の熟成が進んでくる。







RIMG1724


















熟成した味噌壷を開けると味噌特有の芳香が広がってくる。

味噌の色も茶褐色になっていて、時間の経過と共にその色が濃くなっていく感じで熟成が進んでいく。





RIMG1723

















始めて体験したが、味噌作りは意外と面白い。

しかもこれは何やら男性向きの作業のように思える。























denden 








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ラベル:発酵食品
posted by モモちゃん at 08:22| 現場を見る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

日本に本物のフリーメーソンが集団で渡来していた事実がある!?

河童は太古日本に渡来してきた職能集団であった!

古代職能集団の秘密を解き明かす


河童は古来より不思議な発想の世界に誘ってくれる妖怪である。

河童伝説の存在は古代史はもとより地方文化史や民族学の分野でも、古代水陸信仰の貴重な伝承として注目されている。

しかも水神の眷属とされる河童は水中だけの妖怪ではなく、川(海)に半年、山に半年の水陸両方を住み分けているという変遷移動する伝承もあるからその実体はまさしく複雑怪奇である。

画像説明:「写真は福岡県筑後地方の古い河童神像であるが、頭に帽子か皿を被ったような装飾物があり、腰ミノを付けほぼ裸の姿である。全体に南方系の習俗を想わせる雰囲気がある。」

kappa.jpg

そこで今回は河童の実態を解明するために、古代史関連の愉快な話をしたいと思う。

ここで改まって言うまでもなく、古代史と医学史には密接な関連性がある。

かっての日本においては西洋の医学との交流よりは明らかに中国を中心に東洋系の医学との関係の方が、歴史的にははるかに長かった。

当初、わが国における東洋医学の萌芽というものは、鍼医徐福の渡来を一つの例として捉えてみることも出来る。

しかし医学史に関連付けてみられるれる古代史の興味ある事跡というものは徐福渡来だけではない。

戦後間もない昭和二十三年(一九四八)に江上波夫東大名誉教授によって「騎馬民族征服説」なるものが発表された。

それ以来その学説のスケールの大きさと発想のユニークさ、さらには現在もなお論戦が続いているということを聞けば、古代史ファンでなくても少しは関心が持てようと言うものである。


実はこれもまた医学史の視点から見ると実に面白い学説の一つなのである。

「騎馬民族征服説」というのは、東北アジアの夫余系騎馬民族が朝鮮半島を南下し辰王国となり、さらに北九州に渡って建国、その後機内に移動して大和朝廷を建てたというものであった。

もちろんこの学説には賛否両論がある。
そこらの展開が非常に興味深いのである。たとえば、その反論としてよく出てくるのが、まず

1)天皇家の祭祀というものは農耕民族の儀礼であって、騎馬民族特有の動物の犠牲を伝統的に欠いているではないか。
2)騎馬民族の去勢技術が古代日本に伝播していないのは本質的に矛盾するのではないか。 
3)大和ことばには食肉や内蔵を言い表す語彙が非常に少ないのは、騎馬民族の狩猟性より農耕性が強いことの一つの特徴ではないか。等々−−。


ここから先はそれぞれ古代史研究家、考古学者の専門領域であって、今後も熱い論戦が続けられるというわけである。

「騎馬民族征服説」を古代九州の歴史的背景からどう見るかであるが、はっきり言って騎馬民族はやはり古代日本に渡来していたのではないかと考えている。

しかしそれと同時にいえることは、本来日本の国土は森林や湿地が多く、広大な平原で最大に機能する騎馬は渡来直後においてはそれほど戦闘力としての威力を発揮できなかったのではないか。

平野部が少なく、山岳地域や河川で寸断される地形では、馬が駆け回るには障害物が多すぎる。

映画「七人の侍」ではないが、侵略される側は地の利を生かした城塞と弓矢でそれを防御できたのではないか。

騎馬による戦闘はやはり平原である。治水が悪い湿地帯ではない。

だから騎馬民族はその独自の祭祀性を日本の風土に馴染ませ、さらに最後まで実質的主導権を維持することができずに終わったのではないかとも考えるわけである。


では何故、騎馬民族が渡来していたという考えに立つかといえば、古代日本には早くに大陸系の整骨医術が伝播していた形跡があると考えたからである。

医学史的にみていくと、我が国の伝統的整骨術というものは、古くは治水土木技術や築城技術に付随して発達した特殊な医療技術(術式)としての整骨術と、戦闘武術として発達した拳法・柔術に付随派生した救急の医療技術という二つの異なった源流があるのではないかと考えている。

この特殊な医療の伝播の背景には古代の騎馬民族の影響があるように思えてならない。(写真は筑後地方の神社に奉納されている勇壮な渡来系豪族像)


kappasin1.jpg


ここでわざわざ古い整骨術の源流を二つに区分するのは、それぞれが類似した伝統性を保持していながら明らかに歴史的に違った派生と伝播の違いがそれぞれにあったと考えられるからである。

わが国における武術系の整復術自体は、その体系が戦国時代末期に明国より渡来した陳元鬢(一五九五〜一六七一)がもたらしたもので、中国正骨術と中国武術とを日本人に直接伝えたことに始まったという歴史的事実がある。

さらに後世、これに一八世紀に完成した清代の医学書である『医宗金鑑』の整骨技術やその後の西洋医学の伝播が大きな影響を与えてきている。

もう一方の治水土木技術や築城技術に付随して伝播した整骨医術というのは一体何かということであるが、これこそが河童渡来伝承に付随する整骨術そのものの伝播の実体ということになる。

よく知られている河童伝説そのものは、実は日本固有のものではなく古代中国大陸からの渡来した水神系の伝承遺物の一つである。

いわゆる九州地方のの河童伝説によると、河童一族という集団は遠く大陸よりはるばる渡来してきた種族であり、それも内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下って海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したと伝えられている。




siruku.jpg 




つまりカッパなるものは中国の中原平野部を横断して海を渡り、太古の時代に遥か彼方の日本の地までやって来たといういうことになる。

ここらは古代の民族移動史や技術伝播のルートとしてみても、興味深いところである。

古代における集団的民族移動は特別なことではなくて、他民族の侵略から逃れたり急激な気候変動による食糧難などの理由でたびたび大移動が実施されたものである。

そうした移動の過程で個々の文化の伝播と融合が繰り返されていった。

その伝承記録の一つが、この河童渡来伝説といわれるものである。

古代中国で創られた「沈」という漢字は、もともと水神への供物として牛を水に沈める形からできているというが、その犠牲にみる祭祀性には中東のパール神の影響があったのではないかと思う。

河童の原型そのものは中国古代の神話や古典籍にも残されているわけで、その古い起源についてもここでは考えてみたいと思う。

古代中国では、河童は河伯といわれていた。

日本でいう河童は古代中国の神話に出てくる河伯そのものに近い存在である。

河伯とは個人ではなくて、一族といった集団かもしくは部族の名称であり神格でもある。

また河伯集団は「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」(山海経・海内北経)と古典籍に記述があるように、古代中国では水神信仰は治水技術、それも土木工事ときわめて深い関係があったことが古代の神話からも窺える。

「史記」にあるように、黄河の大洪水を治めた禹が禅譲されて夏王朝の王に就けたのは、この「河伯」の大きな助けがあったからである。

その河伯集団が古代の大洪水を治水するのに大きな働きをしたということは、彼らが治水工事のエキスパート集団であったことがわかる。

何故に、そのようなエキスパート集団が古代に存在していたのか不思議に思えるのではないだろうか。

同じように日本でも、古代の治水築城工事に河童集団が関わったとする伝説が各地に残されているし、実際に水神への供物として人身御供が行われた。

人柱伝説がそれである。

九州は水神への人柱伝説が少なくない。(写真は筑後地方の河童祭り)


suijin.jpg


困難を伴う治水工事には、水神祭祀としてそうした犠牲がたびたび必要とされたのだ。

そうした祭祀性をみていくと、やはり大陸からの河伯祭祀そのものの伝播が当然みえてくるはずである。

河童に代表される水神や海神などの水陸信仰自体は、仏教伝来よりずっと以前に沿岸部の海洋民族同士の交流を通して日本の風土にもしっかりと定着していたと考えられる。

河童伝説に象徴されるように、夥しい文化的伝承遺物をみる限り水上生活を通して水神信仰が古代九州にも広まっていたことは確かである。

しかしながら、その後の仏教伝来によってそれまでの伝統的な土着の古代神は次々と弾圧されるようになったのであるが、水神信仰もその例外ではなかった。

仏教圏の拡大によってその権威が高まっていったことによって、根強く残っていた従来の土俗的祭祀性が次第に衰えていったことになる。

結局、水神の河童も終いには異形の醜悪な姿にかえられ、水中の妖怪に成り下がってしまったということである。

それは河童神の形にも大きな変化を及ぼすこととなり、外見的には背中に水生動物の亀同様の甲羅を背負わされ、頭には皿まで被せられた姿となった。

そこに古代の河伯信仰の変貌がうかがえる。

何故にそうした変遷が分かるかというと、河童神の古い遺物が残されている筑後地方の古い神社を訪ねてみると、その社殿の梁を支える河童神には甲羅も皿もない太古の原型をそのまま見ることが出来るからだ。

その姿はまさに逞しい力士像である。

筋肉隆々の裸体には、河童特有のあの甲羅はみられない。

これが本来の河童の姿である。


kappa3.jpg


そうした伝承河童の裸の姿は九州の風土にしっかりとなじんでいる。

いまでも河童は身近な存在であり、素朴な親しみを感じる存在なのだ。

この風土性は、ここではいまだに守られているといえる。


kappa4.jpg


河童は中世以降、異形の妖怪といいながらもときたま人前に姿を現すようになる。

これが後世の変貌した河童伝説の登場である。

河童は子供のようにいたずらや相撲が好きで、人間に遭遇するとすぐ相撲で挑み掛かってくる。

河童は小柄だが腕力が強く、何故か相撲という格闘技が得意で大好きである。

しかも面白いことに河童は、格闘技で腕の関節が脱臼しても、腕が切断されても容易に元にもどせる卓越した治療技術を持っている。

格闘技とそれに対応した特殊な治療技術という組み合わせである。

関節の損傷、骨折の接骨・整復術というように、その治療技術の範疇が外科的でいかにも恣意的、象徴的でさえある。

この接骨・整骨術と相撲の関係、いったいそれは何を意味しているのだろうか?

河童の万能薬にしても、ほねつぎ(接骨術)に関わる薬が必ずそれらの伝説には登場してくる。

不思議なことに、彼らは古来より接骨、骨傷、打撲治療の特殊な治療技術をもつ整骨名人なのである。

これは何故であろうか?

しかも河童伝説には治水土木技術や築城技術に関わったとする伝承がすこぶる多い。

どう考えても、河童は昔話に出てくるようなただのありふれた水辺の妖怪とはいえないのである。

折口信夫の「河童の話」に、次のような一節がある。

河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。」

sekkotu.jpg


ここにも河童と彼らの特殊な接骨・整骨術との関連性が見て取れる。

河童伝説を調べていくと、河童集団は定住することなく広範囲に移動しながら築城・治水・架橋に対して集団で活動していたということになっている。

やはり河童と土木工事とは特別な関係にあるわけだ。

そうした土木工事では力仕事ということもあって、危険な作業に伴う筋肉や関節の損傷、骨折怪我が日常的に頻発したはずである。

接骨・整骨術はそこから必然的に派生してきていることになる。

つまり土木技術という職能に付随した特殊な治療技術そのものは、経験的に蓄積されながら部族内で共有されていったと考えられるわけである。

だから河童は接骨の名人なのである。

この文化史的な特殊性を考えると、いよいよ渡来した河童一族なるものがある種の土木建築技術に特化した職能集団であったことが判明してくる。

しかしここで、もう一つの謎というか疑問点が浮上してくる。

それは河童一族とまったく同様に、大陸の北方内陸部にいた騎馬民族も独自の接骨・骨傷治療(整骨術)と格闘技(モンゴル相撲)を古くから持っていた。

これまた、どういうことであろうか?

やはり職能に関連して格闘技や力自慢が、彼らの間ではもてはやされたのか?

ここにもあらためて解明しなければならないところである。

古代において河童は水神系の眷属としてその祭祀に深く関わっていたが、それとは別に内陸部の騎馬民族との関連性もそれとなく窺える部分がある。

馬と河童は、民族学的伝承分野では相互に関連性が濃厚である。

乗馬ということでいうならもとより騎馬民族は巧みなその乗馬技術を誇ったわけであるが、それこそ落馬による怪我や骨折脱臼は日常茶飯事であったことは容易に納得できることである。

実際に、現在のモンゴルを中心にして広範な領域で古来よりこの伝統的整骨医術が最も発達したことが知られている。(「モンゴル医学史」参照)

とにかくモンゴルの伝統医学といえば、まずこの整骨医術がその筆頭に上げられる。

しかもこの地にも格闘技として、有名なモンゴル相撲がある。

しかしながら中国の北方に位置する遊牧民族(匈奴)のそうした骨折や関節周囲の軟部組織の損傷に対する治療法そのものが、中国王朝内でも実際に医療技術として認められだしたのは随分と後世のことであった。

それだけに、大陸からの医術の伝播がそうした北方地域の接骨・整骨術が通常のルートで古代日本にそのまま伝わったとするのには多少無理がある。

たとえば清代の西太后がギックリ腰になったとき、当時もいろいろな治療法が試みられたがまったく効果がなく、はじめてこの北方より伝わった整骨医術の徒手療法が施されて回復したという話がそれを如実に物語っている。

当時でさえ北方の整骨術それ自体は、主流の治療技術として中原ではそれまで重要視されてはいなかった。

もちろん中国の整骨術といえば、まず少林寺に代表される武術系の骨傷治療技術がもっとも発達していたことを考慮すればなおさらである。

古代中国でさえもも、伝統的医療技術としての整骨術の派生の様相をみてもこのように明確に異なるわけである。

そうなると、河童一族と騎馬民族との間には古代において何らかの関連性があったのではないかという発想が出てこよう。

たしかにそのままでは、整骨術の派生を考える上では類似した特殊な背景を持っていることは頷けるがその先がはっきりしてこない。

彼ら河童一族が、北方域の騎馬民族と同族でなければ一体何者なのか、いよいよ謎は謎を呼ぶということになろう。


私は40年以前から、河童一族というのは神殿建設を専門とする古代の特殊な土木技術職能集団のことではないかと考えてきた。

中央アジアのカッパドキア辺りからやって来たのが「カッパ一族」というのが従来からの持論である。

実際に熊本県八代地方には、河童一族はペルシャからやって来たという伝承がある。

九州出身の作家火野葦平も生前この説に賛同し、大いに巷で喧伝していた。

ここに職能集団という視点を加えると、さらに分かり易くなってくる。

それも大規模な巨石を使った神殿、城壁、霊廟、墳墓などを専門的に構築する土木技術者が定住することなく集団で移動していたのではないかという、特殊性も加味されてくる。

古代では、そうした神殿、城壁の構築が盛んであり、特異な職能集団が個別に存在していたことが知られていた。

西欧で言うところのフリーメーソンの原型、石工集団がこれである。

古代よりこうした神殿建築技術者には国境を自由に通行できる特殊ともいえる通行権が与えられていた。

彼らは神殿建設が完成すると、神殿を守るライオン像や獅子像、狛犬を設置して次の仕事を求めて移動していった。


koma.jpg


その結果、石材を使った各地の神殿の構造や様式においても、多くの類似性を残していったと考えてもおかしくはないわけである。


前述したように、大陸内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下って海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したという伝承が事実であるとすれば、河童集団はその移動中に騎馬民族集団と接触し直接文化的交流を持った可能性が当然出てくる。

河童集団は大陸内陸北部に一部残る者たちと、さらに移動を続けた集団とに分かれていった可能性もある。

そこではもちろん整骨術や格闘技・相撲が民族間で接触交流したことによって、同じように文化的にも影響し合った可能性も出てくるであろう。

単なる偶然ではなく、彼らに必要な技術が文化的に共通していた格闘技や特殊な治療技術の分野ということで、河童集団と騎馬民族との間で深い情報交換がなされたとするならば、これまで気になっていた謎も一気に氷解してくる。

しかも伝説の九州渡来コースが示すように、太古において河童一族と騎馬民族とは一時期中国内陸北部で接触交流があったことの確証にも繋がる。

そのような経緯を経て、彼ら河童技術者集団がエジプトやオリエントから中央アジアを経由して、はるばる日本まで渡来してきたなどと考えるだけでもロマンがある話である。

河童が大好きな胡瓜も、もともとはエジプトなど中東地域の作物であった。
これなど明らかに古代シルクロード経由の伝播が考えられるものである。


ここに紹介している力士像の写真は、北部九州の筑後地方にある神社の屋根の梁を両手で支える伝統的な古代の河童(河伯)神像の姿である。

頭の皿や背中の甲羅などなく、筋骨隆々としてまるで力士の姿そのものである。

下の写真は中国湖南省の省都、長沙市で1972年に馬王堆漢墓から出土した2100年前の布には古代神話の世界が色彩豊かに描かれている。

これに注目していただきたい。


gazou1.jpg


そこには力士のように両手で力強く大地を支える水神(河伯)の姿が描かれている。

足元には巨大魚(兩龍)がいて、その上に乗っている構図である。


kappa1.jpg 


この構図はまさしく「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」と表現されている古代中国神話の河伯神の姿そのものである。

実に明白である。

古代の遺物としてみたとき、古代中国の構図と筑後の河童神像は奇しくも両者共その姿、ポーズにおいて驚くべき類似性を示しているではないか。

これこそ二千年以上以前に、大陸から河童神の原型がそのまま古代日本の地に確実に伝わっていた証左でもある。

少なくとも、河童一族は騎馬民族よりも遥かに先に古代日本に渡来してきていたということである。

こうみてくると、古代北部九州には接骨・整骨術渡来も含めて興味深い文化人類学的展開があるということになる。  























denden 








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2016年06月27日

地球の衛星月はいつどこから来たのか?

月はどこから来たのか?

地球の衛星である月はどのようにして生まれたのだろうか。

地球と同時期に月は生まれたのか?

はるか太古の時代に太陽系の外から飛来した天体が、地球の引力圏で引き留められたのか?

あるいは、宇宙の彼方から来た宇宙人によって人工的に造られた天体物なのか?

ここらの謎は尽きない。


月面に知的生命体の物体と掘削された跡を発見








【UFO映像】NASAがコメントを拒否!!謎の物体の正体は…!?

 







シュメール文明の謎 Zecharia Sitchin ?umeru

 








地球の3倍の大きさの巨大宇宙船が土星の輪の中に

 






denden 








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2016年06月26日

背教者不干斎ハビアンさえも村山等安の姿勢を評価した(15)

背教者ハビアンは何故村山等安を弁護したのか?

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


長崎代官:村山等安を弁護した不干斎ハビアンとは何者か?
背教者ハビアンは誰に殺されたのか!?
ここから、「長崎不干斎ハビアン暗殺事件」の謎を追跡する



東洋医学史研究会
宇田明男





●村山等安を評価していた不干斎ハビアン




かって幕府の要職:長崎代官の地位にあった村山等安とその一族が、幕府禁令に背いて最後までキリシタン擁護の立場をとったことによって、彼らはその熾烈な弾圧によって一族が処刑された。



この歴史の流れ自体は誰にも押しとどめることは出来なかった。



幕府からみて村山等安がいかに優れた行政官であったとしても、キリシタン禁制は一歩も譲れなかったわけだし、等安にしても幕府主導の苛酷なキリシタン迫害だけには逆らわざるを得なかった。



それまで村山等安とその一族にとっては、自ら先頭に立ち命懸けで長崎の多数のキリシタンの同胞を守ろうと決意して行動してきた結果でしかなかった。



それこそ彼らは、幕府の手厳しい裁可も処刑も当初より覚悟の上であった。



もとよりこのことが誰に評価される理由があろうか。



長崎の多くのキリシタン信徒らは、彼らの処刑を目にして涙した。



キリシタンではなくとも、村山等安との交流があった諸大名らもその最後に悲嘆したことであろう。



何故なら九州の諸大名の多くは、逼迫した家中の財政を等安による資金の融通によって経済的にも度々助けられていた。



秀吉の朝鮮出兵やそれに続く関ヶ原の戦い、大坂の陣と、諸大名は戦時の度に大きな負担を強いられ続けていた。


後に旧領柳河藩主として復帰を果たす猛将立花宗茂とて同様である。



関ヶ原以降の彼の不遇時代を経済的に陰で支え続けたのも村山等安であった。




ただ当時彼ら一族の処刑に至る一連の行動を宗教的意味合いから高く評価し得た人物がいたとすれば、それは長崎に居住していた棄教者千々石ミゲルと元イエズス会の日本人修道士であった不干斎ハビアンの僅か二人だけであった。


当時のハビアンはすでにキリスト教を棄教しており、反キリシタンとして長崎奉行所の下で信徒を迫害する側に立って活動していた。




この不干斎ハビアンとは一体何者であろうか。



それこそ歴史教科書にも絶対に登場しない人物名である。



不干斎ハビアン(巴鼻庵 Fabian、1565年 - 1621年)は、かっては北陸出身の臨済宗大徳寺の禅僧であったが、1583年にキリスト教に入信して大坂・高槻の神学校で学んだという変わった経歴を持つ。


当初はキリシタンの説教師として京都を中心に活躍していたが、後年棄教して反キリシタンに転向してしまった人物である。


彼の存在が今なお注目されるのは、キリシタン信仰に関連したまったく評価や立場が相反する2点の著作物が残されているからに他ならない。



fukan01_convert_20130623102636それらの書物は当時の国内の既存宗教とキリスト教を相互に取り上げて比較論説したもので、それぞれの教義に対して鋭い洞察と批判とを加えてみせる宗教比較論の先駆けともいえる内容の本格的な刊行物であった。



戦国末期とはいえ、よくぞこうした著作物が国内で刊行できたというべきであろう。


不干斎ハビアンこそ、戦国時代に活躍した最大の宗教学者と言い切っても過言ではあるまい。



それでいて彼自身は行動の人であり、市中に出て説教師として精力的に活動し続けた。


ハビアンは仏教諸派、神道、儒教、道教はもとより、キリスト教そのものの教義にも深く精通しており、宗教問答においては抜群の才知を発揮しながら百戦錬磨の説法師として京坂を中心にその名をひろく知られていった。


市中での説法師としての人気は高く、幾多の宗教問答から次々と展開される論旨と舌鋒そのものは他の追随を許さぬほどに研ぎ澄まされていて、彼の市中での説法には終始凄烈なものがあった。


キリスト教優位の立場から既存宗教を切り崩していくだけではなく、ハビアンは説法の手法として巧みに問答や論争を独自に組み込んでいった。


それには既成宗教の根幹をなす教義そのものを分かりやすく解釈し比較解体してみせるという彼の狙いがあったなのだが、そこからさらなる反論を次々と展開してみせるといった説法が得意であった。



ハビアンの説法には多くの民衆が群がった。


これが彼独特の説法として確立すると、市中で次第に説教師として台頭していった。


その圧倒的な説法の下では、俎上に上がった宗教を次々と並べ立てて相対化していくというハビアンの独創的な解析手法が生かされていたし、常に大衆の目線で語られていた。


しかもそこには同時に当時の宗教人にも独自の穿った論理的思考が示されたわけで、より一層当時の人々の知的関心をも集めたのである。



それは聖職者というより宗教哲学者に相応しいハビアンの自由な発想と才智とが、十分に窺えるものであった。



ハビアンのそうした卓越した教理解析からは、最初に日本の仏教や神道、儒教や道教といった既存宗教が絶対唯一の神としての創造主を捉え切れていない不完全さが鋭い論法で指摘されたのである。


ハビアンは既成宗教的の教義と対峙して、鋭く矛盾を突いて見せた。


さらには仏教の教義が、無や空に拘泥する有様を痛烈に批判してみせた。


そしてそこからは、人間が根本的に救済される為の教理そのものが不完全なままいまだ構築出来ていないと言い切った上で、さらに手厳しい問答形式の宗教論を展開していったのである。


まさにこの辺りの論法は斬新と言わざるを得ない。



この時代、日本にもディベート的発想があったということである。


何故にこれほど多くの日本人が外来のキリスト教に入信していくのか。
そこには根源的に何が求められているのか。


彼から見た地団駄踏むばかりの既存宗教の物足りなさ、曖昧さを容赦なく正面から突いてみせた。


それでいて決してその説法の内容は衒学的ではなく、説教者としての大衆へ向けられた平易な論調で分かりやすく解き詰めていく手法そのものは実に巧みであった。



それだけに彼の説法は、どこでも大いに大衆受けした。



大衆に対して多少奇を衒う部分があったとしても宗教論をそこまで深めたことは画期的であって、当時を代表する知識人としてのハビアンの懐の深さを充分に見せ付けるものであった。



現代の者にも相通じるであろう痛快さが感じられる辺りは、まさしく彼の実際の宗教問答の経験が見事に生かされている部分であるといえるであろう。


たしかにハビアンはそうした既存の宗教や古典に対する該博な知識を買われていただけでなく、キリシタン説教師として京都の教会内でも特別に高い評価を得ていたはずであった。


そして彼に敵対する既存宗教側さえも、論争の場では彼に一目置いていたのである。


ハビアンは1586年に正式にイエズス会修道士となっていたが、秀吉の伴天連追放令を逃れて九州に渡り、大分(臼杵)や山口、長崎、加津佐、天草へと移動しながら有能な説教師として各地で活躍し続けていた。


当時の九州は京大坂以上にキリシタンが地域に深く浸透していただけに、彼の活躍の範囲はさらに広がり、『天草本平家物語』やイソップ物語などの編纂事業にも積極的に携わることとなる。


1603年(慶長8年)にハビアンは一旦京都に戻ると、1605年(慶長10年)にキリスト教の護教論書として『妙貞問答』を著した。



これはハビアンがこれまでキリスト教の宣教活動として行ってきていた説教での多くの経験が随所に反映されたものであった。



ところが各地で宗教的実情に触れていくうちに、その後の彼の説教師としての考えや行動はこれ以降何故か急激に一変してしまう。



おそらく『妙貞問答』が刊行された時点で、すでに彼は大きく己の視点を変えていたはずである。


1608年(慶長13年)、ハビアンは京において突如キリシタン修道女と駆け落ちしイエズス会を脱会するとそのまま九州の博多や天草にまで逃れて、ついにはキリスト教を棄教してしまったのである。



ここらの彼の行動力には驚かざるを得ない。


当時は唯一京都に女性のための修道会があり、ハビアンはそこで教鞭をとっていた。


ハビアンはそこでの教え子である若い修道女の一人と突如出奔したのであった。



相手の女性はかっては細川ガラシャが幽閉されたとき側近く侍女として仕えていたキリシタンであって、しかもその容姿がガラシャ夫人に非常に似ていたとされる。



女性は細川ガラシャ夫人と縁戚関係があったともいう。


これだけでも破天荒な驚きの展開と言わざるを得ない。



そのハビアンが、突如として多くのキリシタン信徒が集まる長崎に現れたのである。



彼はそこでキリシタンである村山等安とも交流しつつ、その一方で意外にも反キリシタンの長崎奉行長谷川権六や末次平蔵とも深い親交を持ったのである。



長谷川権六や末次平蔵に近付いたということは、このときすでに彼がキリスト教を棄教したことを明確に意味している。



ハビアンは棄教しただけでなく、反キリシタンに自ら肩入れしたのである。


それこそ彼の破天荒で激烈な思考と行動力とは、長崎の地においても多くの足跡を残し得たというべきである。


さらにここからは、長崎でのハビアンの波乱万丈の生涯が待ち構えていた。











削除されなければ、この稿続く




参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」釈 徹宗著 新潮社 2009
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学





















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2016年06月25日

人間は薬物汚染からはもはや抜け出せないのか!?

知らないでいることは恐ろしい薬物情報

一般にはあまり知られていませんが、日本国内には違法な薬物が沢山出回っています。

さすがに薬物だけにそれなりによく効くようです。

世界一薬好きの日本人から見るとしごく当たり前の現象のようにも思えます。

殆どの薬物は、化学製剤として石油から作られるのです。

巷には沢山のドラッグが溢れ返っていて、手軽に入手できます。

ただし薬物は量を間違えると中毒症状などの重篤な薬害を招きます。

しかも学校でもこうした重要な情報は教えませんから、残念なことですが深刻化することはあっても今後も改善されることはないのだと思います。

まず大人が正確な情報(インテリジェンス)を持たなくてはなりません。

最悪の場合、薬物依存で社会や家庭が次第に崩壊していきます。

タバコ喫煙同様、薬物依存の場合は自己防衛としての個人レベルの認識の問題だけでは済まなくなってきています。

社会全体が薬物一般に対する認識を新たにする必要があります。


2016年06月19日(日) 週刊現代

「うつ病」は薬を売るための病名だった!? 実は投薬のほとんどが無意味だと医者は知っている
「薬漬け社会」のタブーを斬る
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48911





薬物に溺れる若者に密着







薬物中毒者の告白











ドラッグ使用者の衝撃的映像。見るも無残な姿に【ドキュメント】








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posted by モモちゃん at 21:09| 歴史の盲点 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人工知能AIロボットが市民生活に溶け込む時

自由意思で脱走したAIロボ!?

ロシアのロボット工学の研究所で制作された自律学習型のAIロボットが、自由意思で作動していて、ついに研究所を脱出してしまったという驚きのニュースがある。

研究所を脱出した後このロボットは市内を走り回りまわっていたらしく、道路を横断しようとした際にバッテリーが切れて動けなくなりそこで交通渋滞を引き起こしてしまったという。

この最先端のAIロボットは以前にも研究所屋外に脱出しているところを発見されたことがあって、明らかに自由意思が働いて学習しながら作動していたらしい。

ほほえましくもあり、同時になにやら空恐ろしい感じもしないでもないが、本当にすごいロボットが出現したものである。


このニュースをみた時、まずうちの愛猫ボンのことを思い出してしまった。

ボンは、一応家猫なので外には出さないようにしているのだが、しきりに外に出たがりときたま脱走することがある。

一度、二度となりの屋根の上に登っているのを発見して、驚いたことがある。






Robot Stages Great Escape And Ends Up Causing Traffic Jam















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夏の水難事故から子供の命を守る着衣水泳は必須です!

水辺での自己救助法


梅雨時から夏場になると河川の水位が上がってきます。

水辺の事故も増えてきます。

着衣のまま落水すると、思うように泳げずパニック状態に陥りやすいのです。

慌てずに水面に浮いて呼吸を保ち、救援を待つのがベストです。




落水時の対処

 







着衣泳講習の動画です

 







着衣水泳

 







小学生が着衣泳を体験

 













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2016年06月22日

天下騒乱を予感した高山右近と村山等安(14)

死を覚悟していた高山右近と村山等安

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


逃れようのない命運の下、
誇り高き同志、キリシタン高山右近との長崎での最後の別れ

このとき村山等安も死を覚悟する



東洋医学史研究会
宇田明男




●キリシタン高山右近との別れ



戦国の武将で摂津高槻城主であった高山右近をご存知であろうか。


右近は秀吉の支配下で大名の座を捨てた後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住んでいたが、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれそこで1万5千石の扶持を受けていた。


徳川時代になると全国的にもキリシタン弾圧の動きが顕在化しつつあったが、この時も高山右近は加賀前田家の客人として遇されており、そこでは一介の武将として留まっていた。


しかしながら、徳川幕府はかってのキリシタン大名であった高山右近のことを忘れてはいなかった。


国内のキリシタンの動向に目を光らせていた幕府は、その弾圧の矛先を彼にも向けてきたのであった。



それは徳川と豊臣との間で高まりつつあった戦乱の気配とともに、国内のキリシタン勢力が豊臣方に近づきつつあったからである。



徳川幕府は、高山右近らのキリシタン勢力が豊臣方に加担して一斉蜂起することを最も恐れていた。


幕府の手前、そのまま前田家に留まっておれない状況にかねてより苦慮していた右近は、幕府の禁教令を受けてついに意を決して一つの行動を起こした。


人々の引きとめる中加賀を自ら退去すると、他の追放されるキリシタン信徒や修道女300人余りの列に加わったのだった。


京都を経由して一族とも合流し、彼らと共に遠く九州の長崎の地までそのまま移送されていった。


高山右近ら一行は慶長19年(1614年)の4月20日に長崎に到着し、その後の幕府の処置が伝えられるまで市内の教会に全員収容されることとなった。



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右近が長崎に移送されてきたとき、長崎代官としてまた同じキリシタン信徒として村山等安は複雑な想いで収容先のトドス・オス・サントス教会(現在の長崎・春徳寺)に駆けつけてきた。


右近は家族とともに追放された内藤如安(元丹波守護代)らとも合流したあと、長崎からマニラに送られる船に乗ることになっていたが、このとき村山等安は経済的援助だけでなく渡航に必要な2隻の船を彼らに提供した。



ただこのとき等安は独自の台湾遠征計画を練っていた時期であり、不本意ながら右近一行に対して古い船しか用意できなかった。


秀吉の下で大名の地位にあった右近は、長崎の等安とも以前から茶道を通じて交流があった。


しかも右近が長崎まで伴ってきた妻はジェスタという洗礼名であったが、これは等安の妻の洗礼名とまったく同じであっこともあって二人の武人は肝胆相照らす仲でもあった。


戦国時代にあって高山右近は人一倍猜疑心の強い織田信長や豊臣秀吉の下でも信任を得ていただけでなく、武将として多くの大名からも絶大な信頼を寄せられていた稀有な人物であった。



当時、右近の説得によってキリシタンになった武将も少なくなかった。


慶長19年(1614年)9月24日、ついに長崎の高山右近らに対して国外追放の命令が幕府より出された。


その直後に、(陰暦9月10日という)最後の別れの挨拶に村山等安の屋敷を訪れた右近は、そこで彼の盟友で茶友でもあった豊前藩主の細川忠興への礼状として「日本訣別の書簡」をしたためそれを等安に事づけたという逸話がある。


出航を待つこのつかの間に等安と右近とは、そのとき共に何を語らったであろうか。


今回の右近らの国外追放には、等安の次男の仲安フランシスコ・アントニオ・村山神父も含まれていた。



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すでにこのとき、ある事件を契機にして長崎代官村山等安の身辺にも幕府の厳しい監視の目が張り巡らされていた。



彼とてもう後戻りはできない状況に置かれていた。



次第にキリシタン迫害が苛烈化する状況にあって、二人はここで始めて心に秘めていた国内での迫り来る騒乱の懸念について互いに触れたはずである。


等安も高山右近ももはや豊臣方と徳川方の衝突が避けられないことと、さらにはそこにキリシタン勢力を巻き込んだ大乱勃発の危険性とをはっきりと認識していたのだ。



当初幕府は右近の処刑も考えていたが、それによるキリシタン勢力の反発を危惧して最終的には国外追放の方針に傾いたという経緯があった。


そうした中、直後の慶長19年(1614年)10月2日、ついに豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、徳川方との戦争準備に着手した。


これは予想されていた展開であった。




それまでにも徳川と対立を深めていた大坂方から、金沢の右近の元へは参戦の誘いが度々あった。


キリシタン大名として高名であった高山右近がここで豊臣方の加勢として味方して立てば、全国のキリシタン宗徒が彼の元へ参集することは明らかであった。


だが右近はそのような形で彼のキリシタンとしての立場が利用され、多くの犠牲を伴う大乱に加担させられることを極度に嫌っていた。


ここで右近が動けば大きな大乱を招き、結果的には多くのキリシタン信徒や彼を慕う遺臣らを戦乱に誘い込むことになるとして、まずそれを回避しなくてはならないと考えていた。


もとより右近は、キリシタン宗徒が犠牲になる騒擾や戦乱を望んではいなかった。


そのようなこともあって、右近はこの時を選んで自らこうした海外追放を選択し潔く受け入れていたのだった。



右近も等安も、もはや戦国の武将としての自分本位の功名心はまったく持ち合わせてはいなかった。


彼らの前にはそうした野心とは無関係に、命を賭して守らなくてはならない弱者としての多くのキリシタン同胞が周囲にいたのである。



そしていま高山右近は、幕府監視の下にマニラ行きの船に乗船することとなる。


かって高山右近がキリシタン大名として奴隷貿易に直接関与したかどうかは不明であるが、このとき彼ら一族が長崎の港から奴隷船とまったく同じ航路を通ってマニラへ渡航することになったのは事実である。


彼ら一行はキリシタンとしての自由の地を求めていたのであろうが、奴隷と同じように遠く祖国を離れていかざるを得なかったことは何とも言えず皮肉な展開ではあったであろう。



右近との最後の別れに際して、このとき村山等安は己の驚くべき胸中を打ち明けてみせた。












削除されなければこの稿続く








参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」釈 徹宗著 新潮社 2009
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学











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2016年06月21日

思い出のアメリカ映画「慕情」とその主題曲

アメリカ映画『慕情』とその名曲

1955年に公開されたアメリカ映画『慕情』(原題: Love Is a Many-Splendored Thing)は、ベルギー人と中国人の血を引くハン・スーインの自伝をもとに映画化されたものであった。

特にサミー・フェインが作曲した主題歌は、第28回アカデミー­賞歌唱賞を受賞した映画音楽史上の名曲として知られている。



映画のストーリーは、第二次大戦終了後のイギリスの植民地香港で、ヒロインのハン・スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)は勤務医をしており、彼女の夫は軍人であったが中国の内戦ですでに戦死していた。

アメリカ人の新聞特派員マーク・エリオット(ウィリアム・ホールデン)と知り合うと、たちまち二人は恋に落ちてしまう。

エリオットには別居中の妻がシンガポールにおり、離婚の話し合いのためシンガポールへ赴くが話し合いは決着しないままであって、この間二人の関係は香港ですっかり噂になってしまう。

そうした二人のもとには時代の波が押し寄せてきていて、中国共産党が率いる中華人民共和国が中国本土を支配するようになるとともに、ハン・スーインは中国大陸へ戻るよう説得される一方で、エリオットは朝鮮戦争勃発によって徴兵されてしまうのであるが、彼はそこで不運にも戦死してしまう。

最後のシーンは、ハン・スーインがかって二人で過ご­した丘を訪れ想い出に浸るという悲恋の設定であった。



慕情 [日本語訳付き]  マット・モンロー

 






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posted by モモちゃん at 10:02| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする