2016年07月30日

自然毒がもたらした人間との忌まわしい歴史劇

自然毒ほど怖いものはない!?

夫の酒に毒 別居妻を殺人未遂容疑で逮捕 宇都宮

産経新聞 2015年12月1日

夫を毒殺疑い、67歳女逮捕=直前に結婚、遺体から「青酸」―他にも不審死・京都:2014年11月19日




似たような毒による中毒死や自然毒を使った事件というのがある。

随分昔のことであるが、山菜と間違えてトリカブトの葉を味噌汁の具にして一家が中毒死するという事件があった。

近年にも東京の中華料理店の店主が、送られてきたトリカブト入り「葛餅」を食って中毒死するという事件があったし、保険金目的に妻をトリカブトで毒殺したとか、京都では結婚直後に夫に青酸カリを飲ませていたというような忌まわしい事件もあった。

青酸毒は人体の呼吸中枢を麻痺させるらしい。

青酸毒を盛られれば速やかに窒息死することになる。

自然界の毒物として知られるトリカブトという植物の根は、加工されて「附子」として漢方薬の処方や毒矢にも使われる。

アルカロイド系(アコニチン)の猛毒が含まれるだけに当然取扱には注意がいるわけである。

自然界にはこうした猛毒が存在する。

テレビかなんぞのサスペンス物か推理ドラマを彷彿させる毒殺事件ではあるが、これもテレビドラマの「警部コロンボ」を見ていたら、河豚毒(テトロドトキシン)をワインに混入させている場面があり、これもひそかに毒殺を謀ったものであった。

自然界にある毒物を使っての殺人は有史以前から随分あったわけで、中国では古来よりもっぱら鴆毒が使われた。

前漢時代、高祖(前漢の創始者・在位前202‐前195)の妻である呂后が、高祖と威婦人との間にできた趙王を殺すのに鴆毒が使われたという。

霊帝(在位167‐189)の后である何皇后が、帝の愛妾を鴆毒を使って殺させた。

鴆毒は中国の歴史書にも度々登場する有名な毒物であるが、日本人にはあまり知られてはいないようだ。

鴆毒自体は投与されると微量であっても命を落とすのだという。

通常鴆毒といえば暗殺に使われるわけで、その際には鴆酒として登場する。

鴆酒の作り方はしごく簡単である。

これは毒鳥といわれる鴆という鳥の羽を酒に浸して数回掻き回すだけで簡単に出来上がるという。

これを飲んだ者は、当初黄疸のように体が黄色くなるということからみれば、まず肝機能が冒され、さらに五臓六腑のすべてが爛れて終には死に至るとされる。

服毒すれば確実に多臓器が機能しなくなる。

何でも鴆にはそれほどの猛毒があるということで古来から恐れられていた。

古い記録では『養老律令』(757年(天平宝字元年)に記述があることからみれば、日本にも大陸から持ち込まれた可能性は極めて高いと思われる。

事例としては『太平記』に、足利直義が恒良親王に鴆毒を薬と偽って飲ませ暗殺したとある。

おそらく戦国時代まで使われていたであろう形跡がある。


これだけ有名な毒物であるのだが、この鴆という毒鳥の実態は古代よりその存在が曖昧であったのだ。

鴆という固有名詞や漢字があるのだから実際に生息していたのであろうが、どんな鳥なのか残念ながら小生は見たことはない。

中国の『三才図絵』や『本草綱目』あたりにその絵図は紹介されていると思うが、何でも広東省や江西省に生息しているキジ科の鳥で、形は鷹に似ていて首の長さは七〜八寸、くちばしは赤く首は黒いということである。

肉にも猛毒があるといい、その食性は蛇を好物にしていて、獲物の蛇が石垣の間などに逃げ込むと、それを引き出すのに石垣に糞を引っ掛けて石を砕くという。

本当にそのような鳥が生息しているのか疑問であろう。

蛇食い鳥の一種であろうか、そう聞くだけで何とも恐ろしげな怪鳥にみえてくるではないか。

実は鴆という鳥は中国の古い史書や文献には随所に登場するが、本当に実在していたのか疑問視されてきた毒鳥なのである。



それまでこの恐ろしい毒鳥は人々に忌み嫌われ、見つかり次第殺されてきたということで、中国大陸では相当早い時期に絶滅したとされていたわけである。

今でいう絶滅種であり、貴重動物ということになる。

おいおい、毒鳥が貴重な絶滅種とは何だということになってくる。

そうなると、いよいよ架空の鳥だろうということになってくる。

ところが、羽に毒がある鳥は架空の生き物ではなく20世紀末になってニューギニアの森林地帯で偶然発見されたのだ。

それも権威ある科学誌「サイエンス」に大きく取り上げられた(写真参照)。



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つまりこうした事例が出てきたことによって、古代中国大陸にこの種の鴆なる毒鳥が実在していたことの信憑性は一気に高まったというわけである。

歴史上の毒薬として再認識されるに至ったわけである。


歴史上有名な暗殺目的の毒薬ということでは、「ボルジア家の毒薬」というのが西洋ではことのほか高名である。

確かそういう題名の西洋映画が随分前にあった。

チェーザレ・ボルジアが登場し、彼が手にする毒薬は確か「カンタレラ」という名前であった。

名前から察するに恐らくカンタレルスが含まれているハンミョウという昆虫毒が使われていたか、もしくは猛毒の砒素が主成分だったのかもしれない。

とにかく、この毒薬が権勢欲の渦巻くルネッサンス時代の暗黒の世界で度々暗殺に使われた。

自然界の昆虫毒といえばまずハンミョウであるが、これは江戸時代薬種商が薬剤として扱っていて砒石(ヒ素を含む)などと同様に劇薬として販売先をいちいち確認していた。(これらは漢方薬としてもっぱら水腫の治療に使われていた)

当時、本当にハンミョウの毒などを使って夫の毒殺をたくらむ女房もいたらしく、そうした逸話も残っているし、巷では密かに財産を狙っての毒殺事件も少なくなかったようである。

一例をあげると、江戸時代に書かれた『道徳塗説』に出てくる話がそれにあてまるようだ。


下谷の源助店の長助という独り者は、ある日深川八幡の富籤を一枚買った。

現代の自治宝くじと思ってもらえばいい。これがなんと一等百両に当たった。

百両がどれほどの価値があったか気になるところであるが、当時1両あれば家族4人が1ヶ月間裕福に暮らせるだけの貨幣価値があった。

現代で言うなら1両が4,50万円ほどなのかもしれない。

いや2,30万もあれば田舎なら結構やっていけるかなとなる。

これが百両であるから、現代なら数千万の貨幣価値は十分あったことになる。

当時であれば、一般庶民が絶対に目にすることのできない金額である。

ということで、生まれてはじめて百両もの大金を手にした長助は飛び上がって喜んだ。

長助は百両のうちまず二十両をしきたりどうり神社に奉納した。

二日目、六十両を町役の大家に預けて、やっとどうにか落ち着くことができた。

三日目、残りの二十両を持って出掛け、仲間内の借銭、義理もすませた。そしてこの日浅草まで足をのばして、日ごろ口にしたこともないような御馳走を鱈腹食って長屋に帰ってきた。

残りの三両を神棚に上げてその晩はぐっすり眠ったのであるが、夜中にいきなり叩き起こされた。

「百両、そっくり出してもらおうか」と、押し入った三人の賊に長助は短刀を突きつけられたのである。

実はこれこれしかじか、残りの三両は神棚に、と長助は震えながら答えた。

たったの三両ときいて賊たちは拍子抜けしたが、土間近くに置かれていた祝い札の付いた上等の角樽が目に入った。

三両を仲良く山分けしたあとで賊たちは祝杯を上げることにし、その酒を残らず飲み干してしまった。 

翌朝、大騒ぎになった。

長助の長屋近くの路上で風体人相のよくない男達が、三人冷たくなって転がっていたからである。

間もなく長助は助け出された。

そして肝心の角樽の酒が毒入りであったことも判明した。

この角樽は源助店の大家からの到来物であった。

この結果調べが進み、長助から預かった六十両を着服しようとくわだてた大家のたくらみと知れたわけである。

直ちに大家は補縛され入牢、長助は町内預かりとなったという。



一般庶民でもこんな具合であったから、大名家や古代の王宮では毒殺を恐れて常時お毒味役が傍に控えていたらしい。

これもキムタク主演の時代劇があった。

それでもときには巧妙な方法で毒殺される危険性はあった。
ローマ皇帝ネロが暗殺した異母兄弟のブリタニクスの場合などがその好例である。



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豪華な食事の席でブリタニクスが好きなスープが出された。

傍に控えていた毒味役の奴隷が試食した後に、その湯気の立つスープ状の飲物をブリタニクスに差し出すと(猫舌の彼は)まだ熱かったので、顔をしかめて再び奴隷の手に戻した。

この一瞬に素早く毒物が混入されたのである。

少し間を置いてそのスープ皿はブリタニクスに渡されて、彼はそのまま口にした。

しばらくしてから、ブリタニクスは食事中にいきなり持病の癲癇発作に紛らわしい倒れ方をしてその場で悶死したという。

ネロは、素知らぬ顔でそれを傍観していたのである。

日ごろから用心深く対応している者でも一瞬の隙を衝かれれば、ブリタニクスのようにあっけなく命を落とすことになる。


フランスのブルボン王朝の祖となったアンリ四世は毒殺を恐れて、いつも自分でセーヌ川に水を汲みに行き自炊で卵をゆでていたという。

王様が自炊するとは何事か。


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というのはアンリ四世は毒殺未遂事件も含めて生涯に十七回も暗殺の危険にさらされたというから、安易に毒味役を置くなどという悠長なことはしておられなかったのである。

とにかく身の安全を考えると、まず自分が口にする食べ物の安全性を充分に確かめなくてはならず、細心の注意を払いながら自前で不慣れな調理もやっていたということである。


こうみてくると、まず食いしん坊やグルメ嗜好の美食家は王座に長く座り続けることは無理というものである。

権力者は、そうした権力の座にながく居続けることは実に大変なことである。

あの有名な英雄ナポレオンもセント・ヘレナ島で、最後は毒殺されてあえ無く終わったのである。

有名なイギリスの科学雑誌『ネイチ ャー』に発表されたところによると、残されていたナポレオンの頭髪には常人の十三倍の砒素が含まれていたことが確認されたということであった。

だが、20世紀後半になって次々と新説が現れて最近の歴史学者の研究によると、ナポレオン毒殺はそれまでの定説とは異なり政治的なものではなく、意外にもナポレオンの人妻との不倫が背後に絡んでいたという異説も出てきて、ここらは最後まで英雄的?であったというわけだ。──



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昔から中国では猛毒の砒素を医療分野で使って、難病の白血病の治療を行っていた。

これに注目したアメリカの癌センターが砒素をベースにした薬剤を急性前骨髄性白血病に投与したところ非常な好成績を上げたということで、現在米国では白血病の治療薬として承認されている。

これと繋がるのかどうか分からないが学生時代、症候概論担当の教授(医学博士)から、微量の砒素の投与は小児期の虚弱体質を改善し免疫力を強化する働きがあるということを聞いたことがある。

やはりトリカブト,ハンミョウ同様、毒も使いようということであろうか。






















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posted by モモちゃん at 07:43| 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月29日

戦国長崎は南蛮勢力の占領統治下に置かれた?!

長崎教会群の世界遺産登録延期
イコモスが不備指摘 政府推薦見直し
 http://news.yahoo.co.jp/pickup/6190035

政府が今年夏の世界文化遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(長崎、熊本県)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)から不備を指摘されていることが4日、分かった。政府は教会群の推薦をいったん取り下げて構成資産を再検討する方向で調整しており、登録は延期される見通しになった。 (2016/02/04)


売国奴でもキリシタン大名は偉かった?


教科書では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

忘れ去られた400年前の日本人拉致被害
抹消された長崎イエズス会占領統治下の悲劇
世界遺産登録延期とは、悔しいのう

東洋医学史研究会
宇田明男




それでも夜は明けるってか?

ちょうど1年前のことであった。
長崎市に原爆が投下されてから70年目を迎えた昨年の8月9日、ディズニー・ジャパンの公式Twitterが「なんでもない日おめでとう」とツイートしたことが物議をかもしているというニュースが流された。

原爆投下の日がすっかり忘れられていれたということらしい。

過去の悲惨な歴史が忘れられたことで、どうやらそのことが非難されたということである。

これは過去の歴史に何らかのこだわりを持てという、いわゆる歴史認識に関わる問題なのであろうか。

ところで、負の歴史を全面に取り上げて扱った洋画『それでも夜は明ける
(原題“12 Years a Slave”)』は、先の第86回アカデミー賞で作品賞を受賞したが、日本国内ではそれほど関心はもたれなかったようである。

この映画については、知らない人は少なくはないであろう。

米国では多くの観客の目に触れることが期待されていて、学校教育の場でもこの作品が歴史教育で活用されたとしている。

全米学区教育委員会協議会は、公開直後にこの映画を公立高校での推薦教材に加えることを決めたらしい。


映画『それでも夜は明ける』予告編






こうした映画が作られたということは一つの歴史認識の新しい姿であり、同時にそこから過去の民族的災禍は忘れなくてはならないことをも示唆しているかのようである?

逆にこうした映画作品は、日本ではあまり関心をもたれない題材であろう。

えてしていまの日本国内の歴史認識というものには、これといった民族的な拘りやそうした考えに核になるものは特別ないのではないかとも思えてくる。

歴史認識など、一般庶民にとってはどうでもいいことなのかもしれない。

それこそ大衆娯楽大河ドラマとて美男美女が揃っておれば、史実はどうであれ脚色されて面白ければ事足りるのだ。


先般気になるブログを見つけたのだが、そこには次のように書かれていた。

<ここより引用> 「2013年8月21日 (水) 続・「山田、高柳、松下が長崎原爆資料館で惨禍を学ぶ」
山田副部長の続きです。
分散会終了後は高柳くんと松下くんと長崎歴史文化博物館を見学。長崎開港やキリスト教文化の流入などについて勉強、学芸員の方の説明が頭に残る。「天正少年使節の伊藤マンショや千々石ミゲルらが訪問先でたくさんの日本人が奴隷として売買されているのを見て衝撃を受けたエピソードを現在は授業で教えません。なぜならば長崎市は大量の教会群を世界遺産登録することを目指し市民、特に子供たちからキリスト教やイエズス会が侵略前提の布教活動を行ってきた負の歴史を遠ざけ文化的発展の良い一面だけを学習してもらうためです」<引用終わり>
 
http://doken-s.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-4704.html


負の歴史を遠ざけ文化的発展の良い一面だけを学習してもらうためです」というのは、実にすばらしい発想である。

負の歴史はそれとなく忘れてもらう、不都合な真実は徐々に削除していく。

いわゆる歴史資料館というものは、そうした歴史観を恣意的に相対化していくための政治的、かつ行政的な市民教育施設でしかないということだ。

こういう発想がなければ、当然地方都市の観光事業も経済発展もいずれは失速してしまう。

いつまでも過去の歴史や戦争の災禍を振り返り、恨みがましく訴えていても何の進展もないのである。

未来のため過去の民族的災禍は恩讐を超えて忘れてしまわなくてはならない。
 
国とてそうである。先の敗戦国、日本がまさにそうであったのだ。

戦後の歴史教科書もそうした観点に立っている。


ところで、2012年6月2日、九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が長崎県で開かれた。

そのことは新聞にも紹介された。

 
(以下、日本経済新聞記事より引用)
キリシタン大名の功績語る 九州の研究者がサミット :2012/6/3  
「九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が2日、長崎県南島原市で開かれ、各大名の果たした歴史的役割について議論した。戦国時代に同県の島原半島を治め、天正遣欧少年使節の派遣などキリシタン文化の発展に貢献した有馬晴信の没後400年を記念し、同市が主催した。議論では「キリスト教を受け入れて貿易や政治を有利に運び、戦乱の世を生き抜いた」などと各大名を評価。同市は「大名の偉業を情報発信し、キリスト教関連遺跡の世界文化遺産登録につなげたい」としている。〔共同〕」(引用終わり)

これなどもその好例である。

かってのキリシタン大名の業績というものの再評価である。

あえて歴史的恥部を隠して、好都合な部分に学問的な評価を新たに下すという試みであって、いまやこれが地方の大きな流れとなりつつある。

過去の汚れた看板の塗り替え作業、あるいは書き換え作業というわけだ。

観光事業の客商売絡みという事であれば、ここは表現も変えて綺麗にした看板を掛け替えて見せればよそ目にもいくらか見栄えもよくなる。

かってアジア地域最大の奴隷の集散地であった中国のマカオでさえ、その歴史的建造物がユネスコの世界遺産に登録され観光事業化に成功しているではないか。

観光推進の前ではこういう手立てが当然必要であろう。

世界遺産登録ということで、とにかく見栄えのいいものだけを全面に出してひけらかす。

なるほどこうした努力なしには観光事業は進められないわけだし、地方の経済的発展とて望めないのである。


いま再評価されるキリシタン大名の果たした輝かしい歴史的功績とは一体何か ?



戦国九州のキリシタン大名の大村純忠は領民を強制的にキリスト教に改宗させたり領内の寺社仏閣をすべて破壊しつくした。


領主の差配に従わない者は殺傷されるのは当たり前の時代であった。


大村の兵は寺院を破却するキリシタン信徒らを護衛するとともに抵抗する仏僧はすべて追放、もしくはその場で殺害していった。



さらには領内一円でキリシタンに改宗しない者は異教徒として弾圧され、そのまま奴隷として海外に売られていった。


当時はキリシタン信徒の獲得数に応じて弾薬や鉄砲も南蛮側から供給されたのである。



大名自らが率先して洗礼を受けてみせたのである。


熾烈な戦国の世にあっては、弱小な田舎大名でさえ最新兵器である鉄砲に群がった。



背に腹は代えられないのだ。


当然そこにはキリシタン大名が続々と登場していった理由が隠されていた。


大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進までしていたのである。



当初この寄進の話が出た時、イエズス会は積極的ではなく歓迎してはいなかったともいわれる。


一部ではこれが美談のように持て囃されるのであるが、実はこれにはこれで公に出来ない裏取引があった。


当時の大村領の長崎周辺は小さな漁村が点在する土地であったが、隣接する肥前の竜造寺隆信に狙われ度々軍事的侵略の危機に晒されていた土地であった。


だが、その一方で長崎は南蛮の大型船が入れる天然の良港であることから、渡来してきた南蛮人はこの土地を当初より高く評価していた。



大村純忠はそのことを宣教師からも聞いていた。


大村純忠はその長崎に軍事的障壁をイエズス会に作らせることを考え、日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノに直接寄進を持ちかけたのであった。



これは大村純忠のしたたかな戦略にも思えるのだが、これには表には出せない大村側の裏の事情が隠されていた。



大村は度重なる戦乱で相当に財政が苦しかったのだ。


それだけに、今回の寄進の案件は大村純忠と南蛮側との間でこじれていた債務処理としての苦肉の策でもあった。



最終的にはいくつかの条件が並べられて、長崎の領地の寄進が両者の間で成ったのである。


表向きの名目は、長崎の土地をイエズス会への寄進するということであったが、これは大村が戦費としてイエズス会から銀100貫目(3000両=約9億円相当)の戦費を借りたときの担保として設定された同然のものであって、結果的には領地の一部を南蛮側に占有されてしまったのである。


もとよりこの銀100貫目という額は弱小大名が後々工面して返済できる金額ではなかったはずで、この辺りはイエズス会側の宣教がらみの巧妙な計略でしかない。



肥前の竜造寺に攻め込まれた時、大村はイエズス会から多額の軍事物資を支援されていたのである。



竜造寺との戦において大村はその危急存亡の折、イエズス会には大いに助けられていたのだ。


最終的には大村純忠は1580年にイエズス会との間に次のような4項目からなる契約を交わしてしまった。(寄進状は(天正8年4月27日付。)


1.イエズス会に長崎・茂木を永久に無償贈与する。
2.パードレ(司祭)が選んだ者に死刑を含む裁判権を与える。(治外法権)
3.入港する船舶の入港税、停泊税を永久に与える。
4.ただし、ポルトガル船などこの港に入港する船からの物品輸入税は予に留保する。



末尾には純忠・喜前父子の洗礼名「ドン・バルトロメウ」と「ドン・サンチョ」の連署がある。 (画像は長崎寄進状・ローマのイエズス会文書館所蔵)


同様に、キリシタン大名有馬晴信も領地の"浦上"(現:長崎市浦上)をイエズス会に寄進していた。


こうしたキリシタン大名による領地の寄進は、南蛮貿易による巨額の負債を相殺した結果でしかなかった。





もちろん交渉の主導権は債権者であるイエズス会側がしっかりと握っていただけでなく、結果として長崎の土地を南蛮側に譲り渡したことになる。



これは従来日本でもよく行われていた、特定の寺社に土地を寄付するという習慣とはまったく異なった契約内容のものである。


事実これ以降、長崎の地はイエズス会知行所となり政教の実権はイエズス会が掌握したのである。



これが日本史上、始めて外国勢力にその国土が譲渡され占有された記念すべき事例である。


結局のところ、こうした経緯はイエズス会側の巧妙な戦略的手法であって、まんまと長崎の地を領有されてしまった。



こうした事態を招いてしまったキリシタン大名の行為を現代では革新的かつ歴史的功績として再評価しようというわけである。



戦後の歴史教科書基準の考え方であろうが、ここらはまったくもって革新的評価とでもいえようか。




この結果どういうことになったのかというと、南蛮人等はたちまち長崎から異教徒らのカミ、ホトケの類は悪魔として追い出し、布教の障害となる領内のすべての寺社を破壊するなどその弾圧は横暴を極めたのである。


それと同時に長崎と平戸では奴隷売買の取引も盛んに行われる事態となったが、これを押し止めるような力のある主権者はもはや長崎にはおらず住民らはどうすることもできなかった。



統治権も主権も南蛮勢力が抑えて、彼らの法律が施行されたわけである。


長崎の地の先住の領民は、ここで南蛮人によるまったくの占領統治下に置かれたのである。



当地のポルトガル商人は強引に日本人の人妻を奪い妾とし児童を拐して奴隷にするなどして、多数の領民が死を選び自決するという悲惨な事件も発生した。



それらの妻子を奪われた領民は悲憤とともに死をもって抵抗を示す以外に南蛮側の蛮行に抗議する手立てがなかったのである。



長崎統治は一体どのようなイエズス会上層部の意図の下で遂行されたのであろうか?


高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその指令内容が明確に示されている。


「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

占有した領土の要塞化を指示したことが、ここでも明確に分かる記述内容である。



さらにこれによって南蛮勢力は、当の長崎において著しい戦略的成果を上げたことを次のように誇らしげに報告している。


「イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.225-226)




これこそ大砲や鉄砲で武装した、我が国初の画期的な日本人傭兵部隊の誕生の経緯である。


かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有され、他国勢力によって軍事訓練まで行われていたとは驚きであって、とてもではないがここらはいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。



これが当時の長崎領の南蛮勢力による治外法権の実態であり、教会勢力やポルトガル商人らはそれこそ占有した土地で何をしようと勝手次第であった。



これらは現在の西洋史観では一切なかったことにしておかなくては、歴史的評価を下す上でのつじつまが合わなくなってくることになる。



もとより不都合過ぎる真実は、すべて隠蔽削除しておかなくてはなるまい。


だからこそここではお抱え研究者による禊ともいうべきイベントによって、キリシタン大名らの歴史上の再評価サミット開催が是が非でも必要になってくるわけである。







(注:)記事引用:開始
「宗麟を全国にPR 大分市が提案事業募集 最大100万円を補助
宗麟の知名度を全国区に―。大分市ゆかりの戦国大名大友宗麟をPRしようと、市は市内で活動する団体からの提案事業を募集している。1事業につき最大100万円を補助する。




 ことし3月に完成したJR大分駅府内中央口側の広場には宗麟像を中心としたモニュメントができ、南蛮文化を街づくりに生かす機運が高まっている。市は「宗麟の名を全国に広める面白いアイデアがあればぜひ応募して」と呼び掛けている。
 有識者やまちおこしグループの関係者らでつくる「大友宗麟プロモーション検討委員会」は2012年度、宗麟を市の顔として発信するための報告書を市に提出。民間活動に対する行政支援も盛り込まれており、市は13年度から提案事業への補助を始めた。
 募集する事業の内容は史実に基づき、宗麟について分かりやすく身近に感じさせるもの。これまでに「おおいた大友宗麟たかもん・いろはカルタ」や市中心部での武者行列などに補助金を交付した。市観光課は「駅前広場を利用し、宗麟にちなんだ祭りを10月に計画している。一緒に盛り上げてくれるイベント案があれば応募してほしい」としている。
 補助額は人件費や食料費を除いた必要経費の5分の4以内。選考委員会で採択事業を決める。希望者は申請書(市のホームページでダウンロード可能)を29日までに同課(TEL097・537・5717)に提出する。
※この記事は、5月12日大分合同新聞朝刊12ページに掲載されています。 」引用終わり

https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2015/05/12/212041423



同じくキリシタン大名大友宗麟はイエズス会の宣教師に煽動されて、永禄4年(1561年)に宇佐八幡宮を焼き払い、天正9年(1581年)には豊前彦山の三千坊といわれる多数の坊舎を焼き払って仏教徒を領内から追い出した。


宗麟は領内の寺社にさえ果敢に鉄砲を撃ち掛け破壊した。


すでに天正6年(1578年)に宗麟はキリシタンに改宗していたが、それにともなう家臣の集団改宗が進められて領内の信者数も1万人を超える勢いであった。


同年大友宗麟は、キリシタン大名として九州における第一次キリシタン王国建設計画として戦端を開いたが、その野望は薩摩の島津との耳川の戦いで大敗し打ち砕かれた。



キリシタン王国建設には大きなロマンがあるとして、現代でも一部では持て囃されているのであるが、その後第二次キリシタン王国建設の機運は島原の乱として半世紀後に再び復活してくるのである。



九州戦国史ではキリスト教伝来とともに戦闘はますます激化し、新兵器の鉄砲が戦場で縦横に駆使されるようになっていった。



何故なら鉄砲弾薬そのものは、常にキリスト教を信仰するキリシタン側に優先的に供給されていたからである。



当然九州ではキリシタン大名が次第にその版図を広げ勢力圏を拡大していった。


天正10年(1582年)当時の九州北部のキリスト教信徒数は、大友宗麟の治める豊後で1万2千人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村で7万人、天草島原は2万人、長崎に1万5千人ほどであった。


これ以降も猛烈な勢いで九州各地でキリシタン宗徒は増えていったわけで、旧来の仏教徒らは逆に弾圧されキリシタン大名の領内からは排斥されていった。



こうした勢いに、九州諸国の仏教徒は命からがら逃げ惑うばかりであった。



まさにこのとき秀吉の九州遠征が始まった。



仏教徒はその窮状と、キリシタン勢力の侵略の凄まじさを秀吉に訴え出たのである。


それまでにもキリシタン大名高山右近の領内でも同じように仏僧らからの訴えがあっても秀吉はまったく感知しなかったのであるが(ルイス・フロイス「日本史」4の第10章)、それに比べると九州の状況は看過できないほどに深刻な状況に陥っていた。


そうしたなかで側近中の側近であった侍医の施薬院全宗は、キリシタン大名による領内上げての奴隷取引や宣教活動の拡大に対して相当な危機感をもって秀吉にキリシタン対策を度々進言していた。


この辺りの事情は「九州御動座記」に詳しく記されている。


「今度伴天連(宣教師)等能き時分と思候(おもひさう らひ)て、種々様々の寶(たから)物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百、男女によらず黒舟へ買いとり、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追いいれ、地獄の荷責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買いとり、生きながら皮をはぎ、坊主も弟子も手ずからこれを食い、親子兄弟も礼儀なく、ただ今生より畜生道の有様、目前のようにあい聞こえ候。
見るを見まねにその近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り妻女を売り候由、つくづく聞きし召し及ばれ、右の一宗、もし御許容あらばたちまち日本は外道の法になるべきこと、案のうちなるべく候。
しからば仏法も王法もあい捨てるべきことを歎き思しめされ、かたじけなくも大慈大悲の思慮をめぐらされて候て、すべて伴天連の坊主本朝追い払いの由お仰せいだされ候」



少なくともこの時点で、南蛮人による日本人奴隷の取引と海外移送を止めさせるだけの強権を保持している人物が日本にいるとすれば、この豊臣秀吉以外にはいなかったのは事実である。



このときの秀吉の決断は早かった。













この稿削除されなければ続く



















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2016年07月28日

今宵は映画カサブランカを鑑賞してみませんか?

イングリッド・バーグマンは20世紀の女優です

イングリッド・バーグマン( Ingrid Bergman、1915年8月29日〜1982年8月29日)は、ヨーロッパとアメリカで活躍したスウェーデン出身の女優である。

出演した映画作品でアカデミー賞を3回、エミー賞を2回、トニー賞の演劇主演女優賞の受賞経験がある。

イングリッド・バーグマンが出演した映画作品はいくつもあるが、残念なことにこれまでに観たことのある作品は10本に満たない。



ジキル博士とハイド氏(1941年)
カサブランカ(1942年)
誰が為に鐘は鳴る(1943年)
ガス燈(1944年)
白い恐怖(1945年)

聖メリーの鐘(1945年)
サラトガ本線(1946年)
汚名(1946年)
凱旋門(1948年)
ジャンヌ・ダーク(1948年)
ストロンボリ 神の土地(1950年)
ヨーロッパ一九五一年(1952年)
われら女性(1952年)
イタリア旅行(1953年)
不安(1954年)
恋多き女(1956年)
追想(1956年)
無分別(1958年)
六番目の幸福(1958年)
さよならをもう一度(1961年)
訪れ(1964年)
黄色いロールスロイス(1965年)
サボテンの花(1969年)
春の雨の中を(1970年)
オリエント急行殺人事件(1974年)
秋のソナタ(1978年)
ゴルダと呼ばれた女(1982年、テレビドラマ)






 Casablanca (1942): Play it Sam, Play As Time Goes By. Ingrid Bergman, Humphrey Bogart, Sinatra sings

  








カサブランカ・最後の場面/ Casablanca Final  









Ingrid Bergman - Anastasia / 追想 1956












Ingrid Bergman - Can't take my eyes off of you

 












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夏の夜のクラッシックギター演奏会へのご招待

表現力豊かなギターの演奏

ギターは身近にある楽器です。
ギターは古い歴史のある楽器ということもあって音楽分野で幅広く使われているのですが、それはいわゆるクラシック音楽に限らず、フラメンコのほか、ジャズ、ロック、フォルクローレ、ボサノバ、ポピュラー音楽などのジャンルでもそれぞれ用いられています。

今回はクラッシックギターを中心に、最近ネットで遭遇した見事な演奏動画をいくつか紹介します。





 Moonlight Sonata Classical Guitar Eric Henderson

 







Ave Maria - Schubert (Michael Lucarelli, Classical guitar)

 







Tatyana Ryzhkova presents Libertango by Tatyana's Guitar Quartet

 







Canon in D (Pachelbel) played by Per-Olov Kindgren

 











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2016年07月27日

日本人が知ってはいけない戦国史がある!?

南蛮勢力が日本で採った見事な軍事戦略とは

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


日本人はめちゃ海軍力が弱いねん!
九州には、キリシタンによる内乱の火種が作られた!
長崎代官村山等安が掴んだ南蛮勢力の飽くなき野望とは?


東洋医学史研究会
宇田明男




●日本でのイエズス会が採った軍事戦略


近年解読されたイエズス会文書館所蔵の夥しい書簡などの史料から、当時のイエズス会が密かに推進していた日本の植民地化戦略の全貌がようやく浮かび上がってきた。


これらの衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。


もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。



戦後のGHQによる70年前の焚書作業では、こうした類の西洋冒涜の歴史書は事実が書かれていようともすべて公から排除され破棄されたのである。



当然これらは日本人が知ってはいけない歴史情報ということになる。




かって戦国時代の日本において宣教活動を行っていたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような書簡を出している。


「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。」




文中にある「征服事業を企てる対象としては不向きである」とはどういうことなのか?そして、「シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために」とは、一体何のことなのか?





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翌年の1583年、マニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)では次のような展開になってくる。


「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由になると云う事を、陛下に知らせる為である。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナの直ぐ近くにいる日本人がジナ人の仇敵であつて、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されるとよい。そしてこれが効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起すように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせる事である。」



書簡の記述にある様に「陛下が武装してかの王国を攻め入る事の出来る正当な理由」という展開からみてとれることは、明らかにこれらはイエズス会側の中国や東アジアへの軍事的侵攻を示唆したものであることが分かる。


さらにイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡には次のようにある。


「私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、ンンとしてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう」



ここらは一貫して具体的記述になってきていることが見て取れる。



どうやら彼らからみて勇敢な戦闘員である日本人は、中国を植民地化する事業に際して彼らが必要とする傭兵部隊としての要件が揃っていることをここではことさら強調しているようである。


イエズス会日本準管区長コエリョが1585年3月3日付けでイエズス会布教長アントニオ・セデェーニョに宛てた手紙の抜粋には次のようにある。


「陛下の義務、及び陛下がシナを征服するために望んでいる日本貿易に大いに関係することだからである。・・・・総督閣下に兵隊・弾薬・大砲、及び兵隊のための必要な食料、1、2年食料を買うためのかねを充分搭載した3,4隻のフラガータフ船を日本のこの地に派遣していただきたい。・・・・他の異教徒に大いに悩まされている何人かのキリスト教徒の領主を支援出来るようにするためである。・・・・ただ安全に渡来するためには大艦隊が必要である。・・・・
当地のキリスト教徒の領主の支援を得て、この海岸全体を支配し、服従しようとしない敵に脅威を与えることが出来るのは疑いない。この陛下の援軍が派遣されることにより、・・・・第一に、これらキリスト教徒の諸侯とその家来は、・・・陛下の援助が得られ・・・・・一層信仰を強固なものにする。第二に、異教徒とは・・・脅威と驚きを抱き、・・・・改宗を望む者に対する妨害をしようとはしなくなるであろう。第三に、異教徒はキリスト教徒が陛下から援助を受けるのを見て、・・・・改宗するであろう。もしも国王陛下の援助で日本66カ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ゚国王は日本人のように好戦的で怜悧な兵隊をえて、一層容易にシナを征服することが出来るであろう。」



いよいよイエズス会のアジア戦略の最終目標は極東の中国の征服であったことが次第に明確になってくる。





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宣教事業と植民地化とは、まさに車の両輪のように推し進められていったことになる。




日本に派遣された宣教師らはその基本戦略を遂行すべく、忠実に軍事的観点から報告書を作成し度々マニラやスペイン本国の上部組織に送っていた。


日本に15年滞在したペドロ・デ・ラ・クルスが1599年2月25日付けでイエズス会総会長へ出した書簡には次のように報告されている。


「日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち九州又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・
多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る」



日本の国内事情を知悉したペドロ・デ・ラ・クルスが、はっきりとその軍事的侵略の具体的手順を明示しているだけでなく、ここではその有力な軍事拠点を九州の天草島、志岐を候補として挙げていることに最も注目しなければならない。



これは単なる机上の空論ではなくて、九州天草周辺では実際にこの戦略に沿って重点的に宣教事業が押し進められ強固な組織づくりが成されていった事実がある。


同時にこの地方への軍事物資の補給と備蓄、密かにキリシタン信徒らの傭兵訓練、練兵とが秘密裏に、且つ巧妙に行われていった。



キリシタン信徒によるコンフラリヤ(ConfrariadeMisericordia:信徒集団組織)組織作りが村々に網の目のように根を張っていった。


その結果は後年の天草・島原の大乱として一気に噴出することとなる。


このように、時代を追ってイエズス会の中でやり取りされたいくつかの書簡を見ていくと、これは聖職者というよりはまるで軍人か軍事顧問団の諜報活動と錯覚しそうである。


まさに法衣をまとった戦士であるイエズス会の宣教師の姿が垣間見える部分といえよう。


そしてこれこそは、長崎代官村山等安がイエズス会を「この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」として厳しく糾弾していたように、彼らは始めから侵略計画を持って日本へ渡来してきていた事実が浮かび上がってくる。


渡欧した千々石ミゲルとて少年使節としての長い航海のあいだに、中継地であった占領された植民地の様子は自分の目で確認していたことであり、行く先々で日本や中国、朝鮮各地から送られてきた多くの奴隷の境涯に落とされた人々の悲惨きわまる姿にも度々遭遇していた。


当時のミゲル自身はイエズス会が主導する宣教事業というものの実態を知って、少なからず驚愕し打ちのめされた想いであったであろう。


長崎代官村山等安に、日本人奴隷の実態とキリスト教国の日本侵略の野望についてはっきりと伝えたのは棄教した千々石ミゲルであった。


等安自身は、長崎周辺で拡大していくイエズス会のコンフラリヤ:信徒集団組織)勢力に強い警戒感を持っていて、それに対抗すべく穏健な別会派のスペイン系托鉢修道会の布教活動を熱心に支援し続けていた。


これに対して後にローマ留学から帰国した長崎の教区司祭トマス荒木は、むしろ托鉢修道会(フランシスコ会)こそが日本侵略を画策していると異なる意見を等安の息子徳安らに表明して憚らなかった。


もとよりポルトガル船と共に渡来してきたキリスト教宣教師の狙いは、宣教事業の推進と異教徒の駆逐、ないしは奴隷化であったが、彼らはまさしく侵略の尖兵としてアジア地域に送り込まれてきたというべきであろう。


異教徒の奴隷化は彼らの教義に基づくものであり、当時は家畜同様の扱いが当たり前であった。


それ以外にも、彼らにはヨーロッパでは入手できない香辛料や絹織物、生糸、鉱物資源などの貴重産品の調達仲介業や占領地の傭兵要員の確保も同時に課せられていた。


海外遠征が成功して新航路が発見され新しい領土(植民地)を獲得するごとに彼らは、そこでの収奪や奴隷を扱う仲介貿易によってアジア市場でも莫大な利益を上げることができた。



宣教師が関わる仲介取引による直接の利益はもとより、貿易商からの寄付によって宣教活動の多額の経費そのものは維持されていたが、これらには常にローマ教皇の権威と強力な国王の保護権とが行使されていた。


特に日本や中国、朝鮮の奴隷の買い取り値は、西洋地域との価格差が5倍以上もの開きがあり、商人らは各地の奴隷市場においての転売で巨額の差益を得ることができたのである。
宣教事業の拠点として、またアジア最大の奴隷市場がマカオに作られた。






削除されなければ、この稿続く


参考資料:引用文献
「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院、1995
「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳)全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀」高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3号 2005 狹間芳樹著
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架」中川洋一郎著 学文社 2003
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要  朝日新聞社
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006



















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2016年07月26日

当ブログで一番読まれた記事を紹介します

当方のブログでもっとも読まれた記事とは?

「死相」とは死期が迫った顔色のことであります。

西洋医学では、ヒポクラテス顔貌(hippocratic face )瀕死顔貌ともいわれますが、それは「鼻はとがり、眼やこめかみはくぼみ、耳は冷たく、収縮し、耳たぶは突き出ている。額の皮膚は硬くてつやがなく、顔色は黄色か黒ずんでいるか、あるいは青白いく鉛色になっている」というもので、中国医学で表現される「死相」というのとものは少しニュアンスが違います。

普通は観相術といった占いの世界で使われる特殊な言葉であって、それ相応の経験がなければそうした顔に表れる変化には気付くことはできないものだとされています。

ということで、昔は易者や医者といった専門的技量をもった者が「死相」を見極めていたということになります。

今回はそうした部類の奇談であります。



戦国の名医曲直瀬道三外伝

戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物に、曲直瀬道三(まなせどうさん)という名医がいた。

幼い時に両親を亡くし姉の下で育てられたこともあり、当初は僧籍に身を置いていたようである。

漢学などの学問に秀でていただけでなく、若いころより医術の道を志すようになっていたが、幸いにも足利学校でさらに専門的な勉学を続けることができた。

当時明国から帰国したばかりの足利学校の教授田代三喜について、最新の李朱・中国医学を学びそれを完璧なまでに習得した。

道三は、「医学は身分・性別・年齢を問わぬ。誰であっても平等に治療せねばならぬ」という、師田代三喜の教えを終生守り医学の研鑽を怠らなかった。

その後、京都を中心に医療活動を始めたが、その卓抜した診断治療によって一躍名医として知られるようになった。

信長や秀吉といった当時の名だたる大名家に重用されただけでなく、格式高い宮中にまで出入りが許されるまでになった。

さらにはその名声を聞いて、曲直瀬道三のもとには入門を希望する俊才が全国から続々と集まってきた。

道三自身はそうした若い門弟を育てることにも力を注ぎ、医学を教習する啓迪塾という私塾も自ら建てるとともに、寸暇を惜しんで後進のために多くの医学書を著述した。

ここで医学を学んだ弟子の数は優に数百人にも及ぶといわれ、我が国の医学中興の祖として大きな足跡を残したことでも知られる。

下の写真は、曲直瀬道三が著した医書『察証辨治啓迪集(外題:啓迪集)』の写本・出典 東京大学附属図書館所蔵 )


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この名医曲直瀬道三には、その診断の巧みさで一度に多くの人命を救ったという逸話が残されている。

それは道三が数人の弟子を連れて諸国を遍歴していたときのことである。
中国地方の大名毛利家での病気治療を無事に終えて、京都に帰還する道中であったともいう。

道三一行がある海岸沿いの小さな漁村に差しかかったとき、一人の少年に出会った。

その少年の顔を見て、道三ははっとした。

その少年の顔色に、はっきりと死相が現れていたからである。

少年の顔色は青白くくすんでいた。
たち振る舞いには特別変わったところはなかったが、道三の目から見ればそれはまさに死期の迫った病人の(証)顔色であった。

道三は不思議に思いつつ、その少年に近づくと親しげに声をかけた。
「この当たりに宿を貸してくれる家はないかのお?」

道三一行は皆剃髪していたので旅の僧侶によく見間違えられる。
老僧然とした道三の顔をしげしげと見つめていたその少年は、微笑みながら答えた。

「それなら、おれのうちに泊まればいいよ」

少年は道三一行を自分の家に案内するという。すかさず弟子の一人が、困惑した表情で道三に近づくと耳元でささやいた。

「先生、きょうの宿は次の宿場町に泊まる手筈にいたしておりましたが」

「いや、今宵はこの子の家にどうしても泊まらなければならぬのじゃ」

道三以外は、だれもこの少年の異変に気づいてはいなかった。

道三は医学書の上だけでなく、常に実際の診療を大事にして弟子を養成していただけに、このような時も医師としての立場を寸刻も忘れなかったのである。

村中に足を踏み入れると、道三は周囲に漂う異様な気を感じとった。

どうしたことか、すれ違う村人の中には少年と同じように顔に死相が現れている者が幾人もみうけられたのである。

道三は、案内された村中の少年の家でも異様な光景を目にした。

人の良さそうなその漁師の父親は、道三一行を家の中へ快く招き入れてくれた。

道三がそれとなく少年の両親や幼い兄弟達の様子をみると、皆その顔に死相が現れていた。

このように人の顔色の変化をみて診断(望診)することは中国から渡来した医術の奥義であって、まさに名医のもっとも優れた技量を示す診断法の一つであった。

当時は、直接脈を診て病状を知る精緻な脈診さえも、そうした高度な診断法には及ばない技量であるとされていた。

道三はいよいよ不審に思って、その少年と家族全員の脈を弟子たちに診(み)させたがいずれも精気が失われようとする死脈そのものであった。

弟子たちはここで始めて道三からこの場の異変を知らされて、驚くと同時に一様に戸惑うばかりであった。

「先生これは一体いかなるわけでございましょう?」

「うむ」

何人もの者が一様に死脈というのは、異様なことで通常は有り得ないことである。

近隣に疫病が流行っている様子はない。

しかも死相、死脈が出ていながら、命いくばくもない重病人のように床に伏せっているわけでもない。

これには道三も考え込んでしまった。

道三はそのまま屋外に出ると、浜辺へとゆっくりと足を進めた。

絶え間なく浜辺にうち寄せる波を一心に見つめていたが、一瞬その道三の心に閃くものがあった。

「もはや猶予はあるまい!」

道三は、眼前の碧い海の彼方を見つめていた。

・・・・・・この場所、この土地の風水そのものに恐ろしい災禍が隠されているようだ。−−−

それは、この異変が天変地異の前触れかもしれぬという、不安とも予感ともつかぬ思いであった。

「身近に予期せぬ危機が迫ってきておる。一刻も早くこの場所を離れなさい」

道三は意を決すると漁師の家族はもとより、村中の者に近くの山へ避難するようにすすめた。

道三の弟子たちは、一斉に外へと走り出すと近隣の村人に危機を知らせて回った。

村中はたちまち騒然となった。

旅医者の狂言として嘲笑する者、怯えてそのまま座り込んでしまう者と、上へ下への大騒ぎとなった。

それでも村人の半数近くは、道三の言葉に従って足早に近くの山へ避難しはじめた。

少年とその家族も半信半疑で道三の言葉に従った。

海辺の村から退避した村人たちは、一様に不安げな面持ちで山の上から真下に見える村の様子を窺っていたが、穏やかな海面や村の眺望には何の変化もなかった。

「あれぇ、波が、波がやってくるよー!」

突然の子供の叫び声に一同は海の彼方に目をやった。

遥か彼方に水平線に黒々とした巨大な波の壁が見えた。

「あれは津波じゃ。大津波じゃ」

悲鳴に近い村人達の声があがった。




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巨大な波柱は恐ろしい早さで真っ直ぐこちらへ近づいてくる。

果たして不気味な海鳴りがしてきたかと思う間もなく、泡立つ大波が周辺の海岸に襲いかかってきた。

海岸沿いの小さな村は一瞬のうちに大波の渦に飲み込まれ一たまりもない。

波頭はさらに山に向かって這いあがりながら、轟音とともに木々を次々となぎ倒していく。

海全体が大きく膨れ上がり、ごうごうと唸りながらいまにも山上にまで襲いかかってきそうな勢いであった。

山上から、道三らは一部始終を見ていた。

津波の到来も一瞬なら、去っていくのも一瞬であった。

破壊された海岸沿いには先ほどまでの村の面影はまったくなかった。

瞬く間に大波がすべてを押し流し、抉り取るように村中の家屋を飲み込んでいった。

道三の足下で震えている少年の顔には、もはや死相はなかった。

津波から逃れた村人達の顔からも、おぞましい死相がすべて嘘のように消え去っていた。

このときの大津波は大地震によるもので、京都や近畿周辺にも甚大な被害を及ぼしたものであったという。


その後名医道三は、戦国の世を悠々と生き延びて文禄四年(一五九五)に逝去したが、八十八歳の長寿であった。















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ラベル:名医伝
posted by モモちゃん at 12:57| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月23日

女性問題は選挙の論点になり得るのか?!文化史的考察

選挙でもやはり注目が集まる!

女性問題は政治家や校長先生だけではない、精力絶倫を深く考察する


日本教育界注目!
據日本朝日電視台和時事通訊社4月8日報道,日本警方近日逮捕了一名涉嫌違反《兒童色情禁止法》的男子。該男子現年64歲,曾經是濱市立初中的校長。警方稱,
他在過去的20多年間曾對1.2萬名女性實施嫖娼。(2015.04)


「精力」という言葉があるが、これは如何にも東洋医学的意味相が強い。

さらに武道の世界では「精力善用」という、己の行動哲学ともいうべき明確な教えがある。

精力を発散するにも心して善用しなければ、欲望のままではそれこそあらぬ方向に突っ走ってしまうことになる。

その結果、身を損じ、大恥をかき、世間を騒がせ顔向けできぬ事態をも招きかねないわけだ。

ならば、いったいその精力の実体とは何なのか?

「精力善用」とて、根底には東洋的な思想としての節度ある君子の道が示されているわけであるが、それはむしろ表面的な事象に過ぎないのだ。

というのは健康面でみたときの相対的な体力というか、それこそ全体的観点から評価される精神的肉体的活力を指しているからである。

さらにそのなかには当然のことであるが、性的能力に繋がる意味も含まれていることを忘れてはならない。


今回は固い話をより固くして、私見を述べてみたいと思う。

これに関しては意外にも古代中国の竹簡に書かれた古典籍に詳細な記録がある。驚きである。

2千年以上前の古代中国では正統な医学と隣合わせに房中術(玄・素の術)が幅を効かせていた。

現代風にたとえれば、通常の医療とは別に健康増進の筋トレ体操コースがあったとでもいえようか。

これなどは、体の特定の部分ということではなしにト−タルな身体論で人間の生理を認識し、その上で集約された技術的な方術理論を展開していくという、いかにも東洋的発想が全編に横溢して非常に興味深いものである。

しかもそのベ−スとなる古代中国の陰陽五行説や随所に混在する医学知識のその多くが、 古代の内経医学からの借り物か、こじつけである事実も見逃せないのである。

具体的に言うと、この陰陽五行説にしても房中術に必ず出てくる「七損八益 」にしても、これらは『黄帝内経素問』の「陰陽応象大論」を下敷きにしているわけである。

いうまでもなく「陰陽応象大論」では人体と天地自然の陰陽理論を展開し、 その調和のもとに人間自身ができるだけ陽気を温存し、天寿を全うしていくことを教えているものである。

要するに体に無理な負担は掛けるなということである。

ところが房中術はその背後にある神仙思想にからめて、ここから飛躍した理論を持ち出してくる。

人体の陽気を養い、堅持して天寿を全うするという中国医学の根幹になる内経医学の理念に対してあらゆる病が自ら癒え、しかもその術を鍛錬して極めることにより不老不死の道が開けるという、いわゆる秘伝の養生法というものがあるという。

もともと房中術というのは神仙思想から出てきたものであって、医術とは似て非なるものであるが、ここのところの発想が実に紛らわしい。

そこに伝説上の有名な黄帝や神仙の彭祖を引き出してくるところがまた面白い。

彭祖は一夜に四十八人の女を御したとか、四十九人の妻を持ったとか言われる神仙であり、黄帝などは房中術を極め一千二百人の女を御して白日昇天し、仙人の列に入ったというのであるが、これらに続けとばかり理論展開するわけである。

『漢書芸文志』の記述によると、方技類を整理して、それぞれ医経・経方・房中・神僊の四種に分 けているが、房中術は保健養生術の類として扱われている。

というのは、この『芸文志 』の解説部分に次のようにあるからである。

「房中、情性の極にして、至道の際なり。是を以て聖王外の楽みを制して、 以て内の情を禁じ、而してこれが節文を為す。伝に曰く、「先王の楽みを作すは、百事 を節する所以なり」と。楽んでは、節有れば、即ち和平寿考なり。迷者顧みざるに及んでは、以て疾を生じて性命を隕す。」

ここが房中術の最も面白いところである。


日本で編纂された医学全書『医心方』房内にあるように房中術を正しく行なわなければ「夭折の慚有り」、そして正しく「陰陽の術を得ば、即ち不死の道なり」というのである。

しかも伝統的な医学の存在する一方で、このような神仙思想が信じられていたというところがまた愉快でもある。

事実古代中国の王侯貴族たちは、医師とは別にこうした房中術の専門家(方 術士)を側に置いて指導を受けていた。

私がここで最も関心を持つのはやはり医術との関わりである。

たとえば精力減退、 性的不能という症候を一例にとってみよう。

現代的にインポテンツ(ED: Erectile Dysfunction; ED)の一語で片付けられてしまうといかにも部分的機能 低下、失調に聞こえるが、この場合などはむしろ東洋医学的に、房労(房事過多)によって腎水を渇かし腎虚、房労傷、房室損傷となり、その結果としての性的不能と言った方が辻褄が合うように思う。

『医心方』房内に、「玉房秘決に云う。冲和子曰く、夫れ情を極め欲をほしいままにすれば、必ず損傷の病あり。斯れすなわち交験の著明しきものなり」とある。

だから「夭折の慚有り」なのであるが、房中術の中ではこのように房労の認識が極めて明確なのは注目すべき特徴である。

この影響で唐の時代になると、かえって『諸病源候論』などの医学書では虚労損傷(腎気衰弱,腎気虚損,腎虚)がことさら重要視されてきている。

まさしく房労による虚労損傷に警鐘を鳴らしているのである。

「腎は精を蔵す。今腎虚し精を制すること能はず」、「腎気虚損。精を蔵すること能はず」と、『諸病源候論』虚労病諸候の下にあり、そこには多くの関連する病症が書かれている。

『備急千金要方』を著した孫思貌にしても、養生の中で積極的に房中術を取り上げて解説をしているところをみると、彼なりに相当な認識があったと考えられる。

こうした流れは丹波康頼の『医心方』に受け継がれ、さらに後世の朝鮮医学の集大成であるところの『東医宝鑑』にも少なからず影響を与えている。

この許浚(ホジュン)の『東医宝鑑』内景篇では「精は人身の至宝なり」といい、さらに 雑病篇・虚労でも男子の病はまず房労を疑えと教えていることでも分かる。

精こそが生命エネルギーの源泉であるとの見方である。

また許浚の記述によると、精の質量自体は身体中に通常一升六合あるとされ、この精の蔵制が極度に充満すれば成人の場合3升ぐらいにまでなるという。

3升もあるというのは、結局体内の血液成分ということなのだろうか?

そうなると結局精力そのものは相対的な数量認識が可能ということになってくる。

ここに精力の相対量に自ずと個人差が生じる理由があるとされ、同時に養生の必要性が出てくるということになる。

それは精力の温存ということであり、相対的比較でいうならばいわゆる個体差から認識されるところの精力絶倫ということになる。

巷で言うところの精力絶倫とは一体どういうものなのか?

そこでこの精力の個人差について具体的に資料を上げてみようと思う。

とはいっても、こうしたものに関して科学的、また医学的なデ−タの存在を残念ながら私は知らない。

基準値以上のイレギュラーなデータはばらつきがあるだけに学問的評価の対象とはならないということだろう。

どうやらこうした身体機能を総合的に評価統合していく見方は、現代医科学には得てして馴染まないということのようである。


しかしながら巷にはこの精力絶倫なる評価は存在することは確かなことである。

精力絶倫なるがゆえの不祥事や不都合なニュース記事が溢れかえっているではないか。

そうした情報からいけば、情報自体は有り余るほどにあることになる。

中には歴史的な記録にさえなっている。

必要であればいままで書物の中で散見した歴史的記録として明記されているものをここでも列挙できるというわけである。

たとえばフランス文学で有名なヴィクトル・ユゴ−は精力絶倫ということでも知られていた。


彼自身の告白によると、新婚の夜彼は新妻を九回愛撫したという。(『ヴィ クトル・ユゴ−の生涯』アンドレ・モロウ,『新編・フランス文壇史』河盛好蔵)

また歴史書『チェ−ザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(塩野七生著)の記述 によると、チェ−ザレはフランス国王ルイ十二世によって初夜の絶倫ぶりを証言されている。

そこには次のように書かれている。 「ヴァレンティ−ノ公爵(チェ−ザレ)は、私の時よりも、四本も多く槍を 折った。二回と、夜食を取った後、さらに六回もである。」とある。

十六世紀のイタリアのプラント−ムの作品として知られる『艶婦伝』による と、かってロ−マ人が一夜に十二回という最多記録を残していることが書かれてあった。

この書物は以前は新潮文庫の外国文学に含まれていたが、残念なことに現在絶版になっている。

十八世紀ロココの時代に活躍したカサノバの実録回顧録によると十回という記録がある。

『カサノバ回顧録』も以前はしっかりした全集が出でいたが、現在はこれまた絶版となっている。

日本でもこの種の有名な記録はいくつかあって、古いところでは『日本書紀 雄略天皇元年三月是月条』 に「七度」云々という具体的記述があったように記憶する。

近代では小林一茶の日記、さらに戦後の文献ではディック・ミネの『すりこぎ随筆』(光文社刊)等でもしっかりと確認できる。      


































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ラベル:都知事選
posted by モモちゃん at 07:54| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月22日

紙芝居墓場の鬼太郎の原作はおどろおどしい!

原作とは違う鬼太郎

水木しげる原作の漫画「ゲゲゲの鬼太郎」はつとに有名であるが、昭和30年代の紙芝居の世界では「墓場の鬼太郎」という題名で子供たちに知られていた。

おどろおどろしい妖怪の世界が展開していたのであるが、当時のストーリーにはアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違った生々しい恐怖感が描き出されていた。

それは本当の意味での不気味さであり、おぞましい様な恐怖感というものを感じさせてもいた。

幽霊人間、鬼太郎であって、決していい子の鬼太郎というイメージではなかった。

描かれている絵のタッチそのものがそうした奇怪な雰囲気を醸し出していた。

今思えば、とても懐かしい幻想の世界でもあった。


紙芝居の「墓場の鬼太郎」はとても面白い作品に思えていたのだが、どうしたことか途中で中断してしまって続編には遭遇しなかった。

ずっと後年になってから、「ゲゲゲの鬼太郎」が少年漫画雑誌に連載が始まった。

それをみて、子供心にも「墓場の鬼太郎」の続きなんだと思った。


Hakaba Kitarou 墓場鬼太郎 1









墓場鬼太郎OP - 原画MAD

 















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ラベル:水木しげる
posted by モモちゃん at 09:17| 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月21日

半端ではない見事な演奏のおじさんバンド!

カッコいい、おじさんバンド発見!

ネット上ですごいテクニック揃いのおじさんバンドを見つけました。

アマチュアなのかプロなのかわかりませんが、音の切れは最高にいいです。

そして年齢を感じさせないパワーがあります。

和気藹々としたバンドの仲間意識が感じられて、とても恰好いいおじさんバンドだと思いました。



そんなヒロシに騙されて CHERRY30530

 










二人の銀座 CHERRY1978 鶴岡アートフォーラム 9-5

 









朝日のあたる家 CHERRY30530

 








秘密諜報員 CHERRY30530

 








夜霧のしのび逢い CHERRY1978 鶴岡アートフォーラム 9-4

 















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ラベル:エレキギター
posted by モモちゃん at 08:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

西洋冒涜の歴史書を焼き捨てたGHQ焚書の背景!?

GHQ焚書とコロンブスを称賛する歴史教科書

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


西洋史観の拡大拡散で歪められる大航海時代と侵略の歴史

偉大な探検家コロンブスは奴隷商人だったのか?



東洋医学史研究会
宇田明男




●歴史改竄協賛ビジネスの薦め


戦後日本に刷り込まれたいわゆる西洋史観に追随する教科書というもの中には、イエズス会に代表されるキリシタン宣教師達は、あたかも未開の民に科学と道徳を教え、教会や病院を建設して社会事業を押し進める「人道的救済者」であったかのように書かれているが、これなどはまさに噴飯ものであろう。


日本では、当時のキリシタン勢力の活動がすべて正当なものであって、それを時の為政者が弾圧排除したことは許しがたい犯罪行為であったとするのが西洋史観であるわけである。


もとより日本の戦後教育としての敗者の歴史がそう解釈させたのである。



敗戦国日本の歴史観そのものがGHQの統治に屈服し、「西洋冒涜」とされる著作物の類はすべて排除されそこへ新たに敗残者史観が巧妙に歴史教科書として刷り込まれたのである。

(注:GHQ焚書の詳細については、現在you tubeでも西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封』講義が公開されている。)



戦後大量の1500人もの宣教師が日本各地に一斉に送り込まれてきた。


さらには戦後各地にはキリスト教伝道者フランシスコ・ザビエルや天草四郎の宗教的記念碑としてあるいはその偉業を讃える像が次々と建てられていった。


それらは戦後の復興資金絡みのものである。


こうした国内での機運の表われ方自体は背後にスポンサーがいるわけだから、自治体主導とはいえ決して観光振興目的の狙いがあっての事業や計画などではなかったはずである。


いまでさえこれに異論を挟むことは、まさしく世界の常識からは大きく外れていることになりかねない。




(注:)(日本経済新聞記事より引用)キリシタン大名の功績語る 九州の研究者がサミット :2012/6/3
「九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が2日、長崎県南島原市で開かれ、各大名の果たした歴史的役割について議論した。戦国時代に同県の島原半島を治め、天正遣欧少年使節の派遣などキリシタン文化の発展に貢献した有馬晴信の没後400年を記念し、同市が主催した。議論では「キリスト教を受け入れて貿易や政治を有利に運び、戦乱の世を生き抜いた」などと各大名を評価。同市は「大名の偉業を情報発信し、キリスト教関連遺跡の世界文化遺産登録につなげたい」としている。〔共同〕」(引用終わり)




その外れ具合にもいろいろあるわけで、そこには宗教的観点、あるいは地域的観点、郷土史的観点というように多方面への評価の広がりがあることは否定しがたいことである。


それこそ一方に不都合な情報は抹消されたり隠蔽、改竄がまかり通るのが当たり前の厳然たるパワーバランスの世界に他ならない。


特にこうした歴史評価においては敗戦国日本には多面性があるのかもしれぬが、少なくとも九州先住民人としてはそれなりに自由な発想もここでは許されるべきではないかと思う。



北米大陸に原住していたインディアン1億人がいかに虐殺され彼らの土地が奪われていったのか。



オーストラリア大陸原住のアボリジニ: Aborigine)が西洋人のスポーツハンティングの獲物として虐殺され続け、ついにはタスマニアン・アボリジニは19世紀末には絶滅させられた。



面白いことにこうした人類虐殺史はそこらの歴史教科書には一切記述がない。


何故に西洋文化圏では人種差別や大量虐殺が行われるのであろうか?



どこからそうした発想が出てくるのであろうか?


日本や欧米で人気のある探検家コロンブスにしても、南米での評価は許し難い侵略者であり、極悪の殺人者扱いであることは興味深いことである。
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そこにははっきりと征服者と被征服者の立場の違いが如実に表れている。


事実コロンブスによって最初の大西洋奴隷貿易は華々しく開始され、南米の原住民は奴隷としてスペインのセビリア奴隷市場へと次々と送られていった歴史がある。(注:右画像は、サンサルバドル島に上陸したコロンブス:テオドール・ド・プライの版画)





コロンブスは探検家であると同時に、奴隷商人でもあった。


上陸し占拠した島をサン・サルバドル島と名付け略奪したコロンブスは、そこの原住民について次のように記録している。


「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」


2回目の略奪を目的とした航海についてのコロンブスの記録。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」



これは偉人伝に登場する冒険家の記述というよりは、むしろ薄汚い奴隷商人のものというべきはなかろうか。




ラス・カサス 著「インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫) 」より引用



───コロンブスの「インディアス発見」後、侵入したスペイン人キリスト教徒は残虐きわまりない手口でひたすらインディオを切り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破壊へと追いやった。その結果、300万人のインディオが暮らしていたエスパニョーラ島(いまのハイチ、ドミニカ)にはたった200人しかいない。豊かですばらしかったキューバ島、プエルトリコ、バハマ諸島は人がいなくなり、荒廃し、見る影もない。


 この40年間。キリスト教徒の暴虐的で極悪無惨な所業のために1200万人以上が殺害されたのはたしかである。いや1500万人以上が犠牲になったといっても間違いではない。キリスト教徒たちの目的はただただ黄金を手に入れるためであった。手っ取り早く財を築き、身分不相応な高い地位に就こうとしたのである。インディオは無抵抗で、それどころかキリスト教徒を天から来た人たちと考えていたが、キリスト教徒は彼らを広場に落ちている糞か、それ以下のものとしか考えていなかった。


 キリスト教徒たちは女や子供を奪って使役し、虐待し、なけなしの食糧を強奪した。ある司令官はエスパニョーラ島で最大の権勢を誇る王の妃を強姦した。子羊の群れを追うように村人たちをことごとく捕らえ、腹を引き裂き、乳飲み子の頭を岩にたたきつけ、川に突き落とした。キリストと十二使徒を称えるためだと称して、13人ずつ絞首台につるし、生きたまま火あぶりにした。山へ逃げ込んだインディオは犬に追わせ、食い殺させた。先住民が反抗し、キリスト教徒を殺害すれば、その仕返しは百倍になって返ってきた。



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(中略) 「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。
キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(引用終わり)


コロンブスは大軍団を組織して大規模な略奪と殺戮の船旅に何度も挑戦してみせたわけで、以後10年間、スペイン人が繰り返したインディアン殺戮の恰好のモデルとなった。



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南米諸国の国民はこのことをいまだに忘れていないし、まさに歴史評価自体がここでは英雄と犯罪者の両極端に二分されている事実も厳然として存在している。


(注:中米ホンジュラスの首都テグシガルパでは、国会前広場に約千人の先住民が集まってコロンブスを被告とする模擬裁判を開き、虐殺や略奪などの罪状で死刑を宣告したあと、コロンブスの肖像に矢を突き刺し、「処刑」した。)「侵略の世界史」清水馨八郎氏著記述より )


西洋史観でいうところの大航海時代は、いわゆるキリスト教国であったポルトガルやスペインがその海軍力をもって海外に進出していった時代でもあった。


文字通りそこから多くのコンキスタドール (Conquistador・スペイン語で「征服者」のこと)を排出することとなった。(右はクリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo、英: Christopher Columbus)の肖像画)




アジアや新大陸は収奪すべき豊富な香辛料や金や銀などの産物が満ち溢れていただけに、彼らにとって巨大な利権をもたらす新世界への船出でもあった。


その中心勢力として活躍したのがローマ教皇の精鋭組織イエズス会であった。


イエズス会は当初の構成メンバーが元軍人であって、その先鋭的な思想はテンプル騎士団に源流を持っていた。


イエズス会は元軍人であったイグナチウス・ロヨラ(初代会長)によって成立した修道会であるが、1540年 9月27日に、ローマ教皇パウロ 3世から正式に 「イエズス会」創設の認可を受けて発足した。


イエズス会は、現代まで30代の総会長を連綿と継承してきている。イエズス会の組織自体は、イエズス会総会長―総会長顧問―巡察師―管区長―準管区長―布教長というように、軍隊式の命令系統が構築されていて、軍務に等しい服従規律を基に教皇や組織の上長に対しても絶対的服従を誓わなければならなかった。


大航海時代の幕開けということであれば、さらなるキリスト教圏の拡大を目指すイエズス会の活動においてもそれはまず海外の新発見地にいたる航路とそれに付随する貿易権を独占することと、新発見地の現地住民(異教徒)を奴隷化する権利を得ることが最大の関心事であった。


そうした彼らの要求が通ると、さらにはそれらの新発見地でのキリスト教宣教事業を独占的に展開する権利をも公認する勅書を、イエズス会はローマ教皇庁から獲得した。


これは1455年にローマ教皇ニコラウス5世の勅書によって正式に認められていた特権であった。


彼らはこれによってローマ教皇の代理人として征服した土地の所有を認められただけでなく、そこで法律を作り、税金を課し「修道院、教会などの宗教施設を建てることができ」「非キリスト教徒・異教徒を永久に奴隷状態におくことができる」として、植民地支配することを教皇の権威によって正当化された。


これによって海外進出に関わるすべての侵略的、軍事的行為の「正当性」をローマ法王の合法的な代理人として認められ、国王や貿易商に対して強力な布教保護権(正式には王室布教保護権)をイエズス会は主張できる展開となった。


イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラの言葉を借りれば、これはまさしく「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」ということの実践に他ならなかった。








削除されなければ、この稿続く







参考資料:引用文献
「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院、1995
「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「霊操」 イグナチオ・デ・ロヨラ 門脇 佳吉 岩波文庫 1995
「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史著 基督教学 = Studium Christianitatis, 2006
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要  朝日新聞社
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか








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posted by モモちゃん at 11:35| 歴史再発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする