2016年12月31日

雨の御堂筋から京都慕情まで・昭和のポップス

ジャパンポップスの夕べ


いまも活躍するザ・ベンチャーズが作曲したジャパンポップスの数々を紹介します。

ザ・ベンチャーズが日本のポップス歌謡曲を数多く作曲しているのはとても意外なことなのですが、思い出の名曲がそろっています。





「雨の御堂筋」 欧陽菲菲









「北国の青い空」 奥村チヨ









和泉雅子、山内賢さん=二人の銀座=









渚ゆう子 - 京都の恋









【Live!】 京都慕情 渚ゆう子 オン・ステージ Ventures - Reflections in a Palace Lake













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posted by モモちゃん at 06:00| 昭和という時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

最近の歴史関連ブログインデックス

最近のインデックス

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タグ:歴史問題
posted by モモちゃん at 09:39| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

映画にみる武士の面目と意地について

武士の意地が描かれている作品

森鴎外の短編小説に『阿部一族』という作品がある。

江戸時代初期に肥後藩で起きた殉死に関わる事件を題材にしもので、家中の重職であった阿部一族が上意討ちに至る経緯が歴史小説として、大正2年(1913年)1月に『中央公論』誌上に発表された。

その事件の発端は、寛永18年(1641年)肥後藩主細川忠利の病状が悪化し、側近たちは次々と殉死を願い出て許されたのであるが、老臣の阿部弥一右衛門も同様に殉死の許可を乞うが、主君忠利は「生きて新藩主を助けよ」と遺言し、忠利は死去する。

主君の許可なく腹を切ったのでは犬死だと、弥一右衛門は考えていた。

旧臣たちが次々と殉死していく中で弥一右衛門は、殉死できぬまま従来どおり勤務していたが、周囲からは彼が命を惜しんでいるという陰口を耳にしたことで、息子ら一族を集め彼らの面前で切腹を遂げる。

しかし主君の遺命に背いたことが問題となり、阿部家は藩から殉死者の遺族として扱われず、逆に家格を落とす処分を受けることとなる。

鬱憤をつのらせた弥一右衛門の嫡子・権兵衛は、忠利の一周忌法要の場で髻を切ったことで非礼を咎められ、捕縛され罪人同様に縛り首となる。

藩から一族への度重なる恥辱によって彼ら一族は家中での武士としての面目を失い、追い詰められたことで、次男の弥五兵衛はじめ兄弟は覚悟を決して屋敷に立てこもる。

そしてついには藩のさし向けた討手を相手に壮絶な死闘を展開し、阿部一族は全滅する。

阿部一族の武士としての意地が鮮烈に描かれている作品である。


ここで初めて熊谷久虎監督の映画作品「阿部一族(1938)」を観た。

この作品は、森鴎外の作品を忠実に描き切っているように思えた。




阿部一族(1938)/熊谷久虎










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タグ:肥後藩
posted by モモちゃん at 23:23| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

一世を風靡した思い出の映画と音楽

セルジオ・レオーネ監督の映画

1960年代から1970年初頭あたりにセルジオ・レオーネ監督らによって製作されたマカロニ・ウェスタンは当時世界的な人気を博した。

そのマカロニ・ウェスタン映画音楽といえば、セルジオ・レオーネ監督とコンビを組んだエンリオ・モリコーネによる独特のエレキサウンドが同時にヒットした。

映画を観るまではそのあまりにも斬新な音楽には多少違和感を感じたのであるが、実際に映画作品を鑑賞するとぴったりマッチしたメリハリの利いた曲想だと感心した記憶がある。


エンリオ・モリコーネはいまでも健在で創作活動を続けていて、欧米では人気のある作曲家、演奏指揮者でもある。


当時のマカロニ・ウェスタンで使われた彼の代表的な作品


荒野の用心棒 A Fistful of Dollars (1964)
夕陽のガンマン Per qualche dollaro in piu (1965)
夕陽の用心棒 Una Pistola per Ringo (1965)
続・荒野の1ドル銀貨 Il ritorno di Ringo (1965)
さすらいのガンマン Navajo Joe (1966)
続・夕陽のガンマン Il Buono, il brutto, il cattivo (1966)
復讐のガンマン La resa dei conti (1967)





Ennio Morricone - Best of Dollars Music .









Ennio Morricone: The Good, The Bad And The Ugly (Orchestral)










For a Few Dollars More - Final Duel (1965 HD)









For A Few Dollars More - Final Duel - CSUN Studio Enemble Concert 05/04/2009



















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タグ:ガンマン
posted by モモちゃん at 09:35| 昭和という時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

爆発というアクシデントの決定的瞬間

とにかく爆発したら凄まじい!

今月の20日、メキシコの首都メキシコ市に近いトゥルテペックの花火市場で爆発が発生し、少なくとも31人が死亡、72人が負傷したという。

下の映像は、大きな爆発の直後の様子。

お祭りや行事でも大量の花火が市場に出回り、一か所に集められることもあり、大きな事故につながる危険性がある。

工場設備もあって、これが爆発炎上することもある。

こうした花火の爆発事故は世界各地で起こっていて、そのたびに住民や市民を巻き込んで大惨事となっている。





【メキシコ大爆発】花火市場で大爆発 29人死亡 70人以上負傷









花火工場で大爆発 カメラマン吹き飛ばされる









アメリカ人、2万発の花火を間違えて「15秒」で全て打ち上げる!









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花火工場の大爆發














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タグ:大惨事
posted by モモちゃん at 21:24| 歴史的瞬間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月24日

幕府を震撼させた島原貧農軍団興亡史

島原鉄砲軍団の装備と練兵の核心に迫る

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

貧農が何故にかくも見事に鉄砲を操れるのか
傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態とは
何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか


東洋医学史研究会
宇田明男





●何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか

反乱勢の中心勢力には、それと分かる戦慣れした武士たちが頭として名を連ねていた。

反乱勢に実戦経験豊富な浪人集団がいたことやその戦闘員が鉄砲の扱いに手馴れていたことは確かであるが、それにしても何故にこれほどまでに貧農集団の彼らが圧倒的戦力を保持していたのであろうか。

まずその軍勢の規模と装備を考えただけでも不思議ではあるまいか。

しかもこの後に続く城攻めの緒戦だけでなく、海岸沿いの廃城に篭って3ヶ月以上にもわたって幕府討伐軍12万5千との間で激しい戦闘を続けるられる弾薬の備蓄量そのものを考えたとき、それが半端ではないことが容易に察せられるはずである。

明らかに反乱勢の弾薬量そのものが討伐軍のそれをはるかに凌駕していたのである。

そもそも何故に貧農集団にそれだけの夥しい数の鉄砲と大量の弾薬が用意できたのだろうか?

反乱勢は数千丁もの鉄砲を装備していた。

蜂起と同時に反乱勢は目敏く藩内の武器倉も襲撃し500丁の鉄砲弾薬を強奪していたのはたしかであるが、これとて全体の数からいえばほんの一部に過ぎない。

九州の小大名の武器倉に500丁という鉄砲が備蓄されていたといっても、これは必ずしも少ない数というわけではない。

では何故に田舎大名に500丁もの鉄砲があったのだろうか。

さらには反乱勢側の戦闘員の多くは鉄砲射撃に習熟しており、戦闘に置いて城塞から狙いを外さずに驚くべき正確さで敵兵を次々と狙撃していった。

一体、誰がこのような戦闘力の高い武装集団を練兵してきていたのだろうか。

これについては多くの学者たちが口を噤んでいる。

これこそ島原・天草の乱の大きな謎ともいえるだろうが、実はこれらの装備の多くはイエズス会が日本を離れるときに残していった遺産ともいうべき戦略物資であり、数万丁の鉄砲弾薬などの大量の軍事物資が各地に秘匿温存されていたからに他ならない。

これらは隠蔽しがたい事実である。

イエズス会のガスパール・コエリョは九州に侵攻してきた秀吉に対抗すべく九州のキリシタン大名の大友宗麟や有馬晴信に対して軍事的糾合を勧め、さらにそのための武器弾薬を準備していたがこの計画は実現しなかった。

コエリョはフィリピンへも援軍を求めたが、結果この計画は上層部にも賛同が得られず逆に中止命令が下された。

このとき集めた武器弾薬はすぐさま片づけられ、各地に隠蔽されたのである。

すでにこのときイエズス会の日本本部がある長崎には3万丁の鉄砲が装備されていた。

長崎の傭兵はすでに鉄砲を主力にして練兵されていたことになる。

イエズス会の報告書には、占領統治下当時の長崎の軍備については次のように記録されている。

引用開始:
「イエズス会のパードレたちはこの町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.225-226) 引用終わり:


長崎一円には鉄砲鍛冶も多く、さらには領内で火薬の原材料となる硫黄も豊富であったので、この地でははやくから火薬の生成も盛んであった。

まずは豊富な鉄砲の備蓄、火薬の生成、領民の火縄銃兵練兵といった地政学的条件が揃っていた。

イエズス会領であった長崎が秀吉によって取り上げられる直前には、この地の鉄砲弾薬はすぐさま大村や有馬の領内各地に拡散隠蔽された。

このような背景から、そのごの反乱勢の鉄砲弾薬の入手そのものはきわめて容易であった。

しかも篭城した原城自体が火薬の生成に関連した施設を有しており、反乱勢は火薬生成技術にもひろく精通していた。

何故にこうした施設が存在し得たのかを考えると、ここにも南蛮との関係が浮かび上がってくる。


天草や島原の土地では早くにキリスト教の布教が始まったこともあって、宣教師やポルトガルの商船が頻繁に島原の口之津や天草の港に渡来してきていた。

この地は総じて肥沃ではなかったが、大村や有馬の大名は南蛮との交易によって莫大な物品輸入税を手にして財政が潤った時期があった。

こうしたこともあってキリシタン大名の領内では南蛮の支援もあって、過剰なほどの軍事投資が行われていた。

さらに歴史的事実として長崎周辺は、秀吉の九州遠征時までイエズス会に領有され占領統治下に置かれていた。

イエズス会は長崎統治時代にこの地の要塞化と同時に領民の鉄砲による練兵が計画されていた。

いわゆる南蛮勢力の下での日本人の傭兵化に着手していたのである

しかも長崎周辺地域は、秀吉の九州遠征時まで南蛮イエズス会によって領有され占領統治されその要塞化が進められていたが、同時にそうした領内のキリシタン信徒の傭兵化が実施され鉄砲による練兵訓練がなされていた。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその南蛮上層部からのそうした指令内容が明確に示されている。


引用開始:
「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)引用終わり:



占有した長崎領をはっきりと要塞化することを指示していたことが分かる記述内容である。


これによって南蛮勢力が長崎において著しい戦略的成果を上げたことが分かる。


さらにここへ、マニラから彼らの正規兵を招聘する計画までが直前まで進んでいた。


これこそ大砲や鉄砲で武装した、我が国初の画期的な日本人傭兵部隊の誕生の経緯である。

そしてこの時点ですでに「三万名の火縄銃兵」が整備されていたというわけである。


しかも領内では新兵器である鉄砲や火薬の製造も独自に進められていた。

海外から火薬の原料である硝石さえ入手できれば、他の硫黄などの原料は近くの雲仙岳周辺からそれこそ無尽蔵に確保できたことから、領内では武器としての鉄砲は身近にあったことになる。

島原の口之津港近くの硝石の集積地では火薬の生成作業も行われており、早い時期から領内に実質的な火薬供給の拠点も持っていた。

まさにこの土地特有の地政学的背景として、そうした最新の鉄砲技術と軍事物資として必須の弾薬の生成蓄積がされていた。

また島原の領内には領主であった有馬氏の転封の際に改宗して異教徒となった主君に従わず、地元にそのまま浪人として残ったキリシタンの旧家臣団も各地に点在していたのである。

彼らは土着化しただけではなく、宗教的互助会とも言えるコンフラリア組織の実質的な組親となっていった。

戦国時代を生き残った彼らの中には、反乱軍の森宗意軒のように当時の西洋に留学した者もいて南蛮の兵法や軍制にも通じていた。


この地は九州の僻地というより、逸早く海外に、それも南蛮キリスト教諸国に目を向けていたことも認識しておかなくてはならない。

この土地の土豪や農民らは、慣例として日頃から集団で緊密に連携しながら田畑を荒らすイノシシや猿、鹿などの害獣を巧みに鉄砲で討ち獲っていた。

田畑を害獣から守るという名目で、領内の農民には藩から鉄砲までが貸し出されていたというから驚きである。

それこそ村々には鉄砲を扱い慣れた射撃名人がぞろぞろいたわけである。

もとより南蛮の傭兵部隊を編成していた彼らが、ここでも日々鉄砲による訓練を重ねていた。

そうした領民らを旧家臣団が支援する形で組織的に活動していたのであるが、その規模と機動力のある戦闘能力から見れば彼らは鉄砲を装備した当時日本最強の武装集団の様相を呈していたといえる状況にあったことになる。

この事実については、司馬遼太郎がその著書でも触れている。

(注:)(司馬遼太郎「街道をゆく十七」朝日新聞社・より引用――「なにしろ島原という土地は戦国の強豪有馬氏の旧領だけに、百姓でも鉄砲をよくする者が多かった。なかでも三会村(みえむら)の猟師で懸針(さげばり)金作という射撃の名手も籠城していた。さらにいえば鉄砲鍛冶の数も多く、また火薬や火縄をつくることに多くの者が長じていた。その点、戦闘力からいって、江戸期の他の農民一揆とはくらべものにならない。」――引用終わり)

反乱勢の農民や領民が、独自の戦闘力について自らそうした認識を持っていたかどうかは分からないが、彼らの背後にいる浪人らの狙いはそこにあった。

彼らの周囲には長崎で訓練された傭兵部隊のかっての構成員がぞろぞろいたわけである。

しかも南蛮勢力が残していった鉄砲弾薬という軍事物資がそこここに温存されたままであった。

この事実を知っている当時の浪人集団が看過するはずはあるまい。

当時もこの事実はほとんど外部には知られていなかったであろうし、現代でもこの九州の一地方あって、日本でも最強の鉄砲集団が存在していたという歴史的評価を下す人もまず皆無であろう。

興味深いことは、反乱勢そのものが国人衆や土豪、地侍たちの結合した集団ということで、これは従来の紀州の根来衆や雑賀衆といった鉄砲集団と似ている部分があるわけで、特に集団による鉄砲を駆使した戦闘法を得意とする点ではまったく同じであった。

そうした連携はコンフラリアの掟を厳守し結束を図った徒門集団が核となって軍事組織化されていたわけで、そこにも行動形態としての類似点があることになる。

 (注:3)コンフラリアの掟とは:「拷問や侮辱などあらゆる苦難に耐え、強固な信仰を示せば救済される」(ジェロニモ・ロドリゲス作成「組ないしコンフラリアに関する覚書」より引用)

しかもこの地では宣教事業として、当初よりキリシタン信徒による傭兵軍団の組織化が練られていたのも事実であるから、十分に下地は造られていたということにはなろう。


これは近代に見られるヨーロッパの軍隊組織に近いものか、あるいは傭兵団組織の原型ともいえるものであって、当時の日本でも特異な武装形態であったであろう。

結局のところたとえ身近に大量の鉄砲弾薬があったとしても、それを縦横に駆使して戦うだけの技量を持った戦闘員そのものが揃っていなければ、組織化された反乱蜂起にまでには繋がらなかったはずである。

幕府による宗教的迫害そのものは当時日本全国で同様に広がっていたわけで、武力的反抗そのものは極力抑えられてもいた。

もとより反乱を主導した鉄砲軍団そのものがこの地において短時日に形成されていたとはどうしても思えないわけで、そうした用意周到な反乱計画そのものが綿密に練られていたことは想像に難くないところである。

天草島原には、そうしたことに繋がる火種そのものが確かにあったということになる。

領内に組織的な戦闘体勢が備わっていなければ、貧農とはいえこれだけの規模の反乱計画を企てることも、広範囲に連携した一斉蜂起も出来なかったことは確かであろう。

その核となったものが新兵器鉄砲であり、備蓄された大量の火薬そのものの存在であったのである。


この稿続く









参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著















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posted by モモちゃん at 20:59| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

間もなく火星探検隊が編成されます?!

火星改造!テラフォーミング?

遥か彼方の宇宙空間にある太陽系の第4惑星である火星の探索活動が続けられていますが、画像を見ていると頻繁に異様な物体や生命体に類似した形状物が地表面で発見されてきているようです。

いまのところ画像が不鮮明なまま公開されているようで、はっきりと特定はできませんが、それでもどうやら火星には何らかの生物の痕跡があるようです。

NASAでは火星探索隊員が募集されています。

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おそらくここらは大きなプロジェクトを計画している国の戦略に関わる機密であろうと思われます。

むやみと、一般人に知らされることはないということです。

すでに火星の地下には大量の水が存在することも分かっているようです。

人類の火星移住計画もあるようで、生存に必要な水の確保や食物の生産活動のためのテラフォーミングの研究が進められています。




火星考古学 2: 火星の遺跡群でなかったら、何だ?言ってくれ!

 






【極秘】ソ連 有人火星周回飛行フィルム

 







第3の選択〜バランタインsテープ火星映像 Alternative3

 



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2016年12月23日

冬の催し物クリスマスとは何でしょうか?

クリスマスってどこの祭り?

クリスマスというのが日本に入ってきたのはいつのことでしょうか?

いまのように定着しだしたのは、ディズニーなどの米国のアニメが国内に入ってきてからだと思います。


ディズニー映画が観られるようになって、とても楽し気な催し物に思えたのではないでしょうか。

サンタが子供たちにおもちゃなどを配る様子が、よく雑誌の挿絵などにも載っていました。

昭和30年代、物心がついたころにはすでにクリスマスというのがありました。





Santa's Surprise (1947) - Christmas cartoon (Classic Funny Santa Claus Cartoon in HD!)










Santa & Dji

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2016年12月22日

お江戸の町には若い男が溢れかえっていた?!

気ままでも厳しいお江戸での暮らし

江戸時代の庶民の暮らしはとても慎ましやかなものでした。

当時は若い男性が多い割には市内には女性は少なく、思うように結婚できない若者が多かったのです。

家族を養うにはそれ相応の稼ぎが必要でしたから、経済力のない男は独身を通すしか手立てはなかったわけです。

大きく稼ぐこともなければ、大きな出費も出来ないというわけで巷では賭け事や飲酒で憂さ晴らしをしていたことになります。

栄養とか食事のバランスとかはまったく関心がもたれてはいなかったので、栄養失調や胃腸の疾患も少なくありませんでした。

医者に掛かれる世帯も限られていました。

驚くことに、江戸時代の庶民の平均寿命三十代でした。

これは衛生状態に問題があって、出産時の妊婦や新生児の死亡率が非常に高かったからです。






長屋のくらし








江戸の食事情









江戸の銭湯










モテた職業 TOP3










お江戸のお花見事情



























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タグ:平均寿命
posted by モモちゃん at 14:38| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月20日

秀吉が伴天連勢力に激怒した理由

かくもキリシタン大名は偉かった

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

抹消された長崎イエズス会占領統治下の悲劇

秀吉は、何故キリシタンに対して激怒したのか?
秀吉は、何故バテレンを嫌悪したのか?
秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか?
何故にキリシタンは、弾圧されたのか?


東洋医学史研究会
宇田明男



・戦国九州のキリシタン大名と歴史認識問題
いま再評価されるキリシタン大名の輝かしい業績
キリシタン大名の果たした輝かしい歴史的功績とは一体何か ?

この戦国時代にあって、奴隷貿易を止めさせようとした人間が何人かいた。

その筆頭が豊臣秀吉である。

西洋歴史観の視点からは、秀吉のバテレン追放令はいかにも悪法のように見られがちだが本当にそうであったのであろうか。

地下人から一代にして天下人までに這い上がった秀吉は、こうした南蛮人による奴隷貿易を許さなかった。

秀吉が海外との奴隷取引を嫌ったのは、もちろん農民層の人口減少を懸念したこともあったが、それ以上にそうした過酷な差配が自分のうかがい知らぬところで勝手に行われていることが許せなかった。

そこにはポルトガルなど海外から渡来者に対して、日本全域をほぼ掌握しつつある秀吉には日本の覇者、日本国の王という対外的プライドが働いていたともいえるかもしれない。

当初、秀吉は宣教師によるキリスト教の布教活動に対して寛大さを示していたが、九州に進攻して彼の考えは一変した。

抵抗していた島津は天正15年5月8日に降伏し、6月7日に秀吉は箱崎(博多)に無事凱旋したが、九州各地を転戦するうちに、夥しい寺社が焼かれて破壊されている状況を実際に眼にするとともに、奴隷取引の実態もすでに秀吉の耳には入ってきていた。

寺社の破却はキリシタン大名の高山右近が高槻や明石で行っている異教徒弾圧と同じものであり、九州遠征でもキリシタン勢力に追われた仏教徒らが次々と秀吉の陣営に救済を求めてきていた。

キリシタンを保護したという戦国のキリシタン大名を取り上げると、それはいかにも彼らが善政を敷いたかのように聞こえがちであるが実際はそうではない。

キリシタンを特別に保護するということは、他方で仏教や神道の異教徒を武力で弾圧排除する事を意味する。

戦国大名が南蛮との交易を有利に進め軍事物資を入手するには、それを仲介する宣教師らの要求を飲まなくてはならない。

そうでなくては重要な戦略物資である火薬や鉛玉が思うように手に入らないのだ。

まさしく、宗教界においても生存を掛けた熾烈な戦略的駆け引きがそこにはあったということになる。

戦国九州のキリシタン大名の大村純忠は、領民を強制的にキリスト教に改宗させたり領内の寺社仏閣をことごとく破壊した。

大村の兵は寺院を破却するキリシタン信徒らを護衛するとともに抵抗する仏僧はすべて追放、もしくはその場で殺害していった。

領主の差配に従わない者は、投獄されるか殺傷されるのが当たり前の時代であった。

さらには領内一円でキリシタンに改宗しない者は異教徒として弾圧され、容赦なくそのまま奴隷として海外に売られていった。

当時はキリシタン信徒の確保人数に応じて弾薬や鉄砲も南蛮からその都度供給されたのである。

熾烈な戦国の世にあっては、弱小な田舎大名でさえ最新兵器である鉄砲に群がった。

背に腹は代えられないのだ。当然そこにはキリシタン大名が、九州の地で続々と登場していった背景が隠されていた。

大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進までしていたのである。

現代ではこれが記念すべき当地の歴史的美談として持て囃されているものである。

当時の大村領の長崎周辺は小さな漁村が点在する土地であったが、隣接する肥前の竜造寺隆信に狙われ度々軍事的侵略の危機に晒されていた土地でもあった。

だが、その一方で長崎は南蛮の大型船が入れる天然の良港であることから、渡来してきた南蛮人はこの土地を当初より高く評価していた。

領主の大村純忠はそのことを宣教師からも聞いていた。

大村純忠はその長崎に軍事的障壁をイエズス会に作らせることを考え、日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノに直接寄進を持ちかけたのであった。

これは大村純忠のしたたかな戦略でもあったが、実はこれには表には出せない裏の事情が隠されていた。

それは村純忠と南蛮側との間でこじれていた債務処理としての苦肉の対応策でもあったのだ。

表の名目では、長崎の土地をイエズス会への寄進するということであったが、これはかって大村が戦費としてイエズス会から銀100貫目(3000両=約9億円相当)の戦費を借りたときの担保として設定されたものであって、その債務処理として結果的には領地の一部を占有されてしまったのである。

肥前の竜造寺に攻め込まれた時、大村はイエズス会から多額の軍事物資を支援されていたのであるが、もとよりこの銀100貫目という額は弱小大名が後々工面して返済できる金額ではなかったはずで、この辺りはイエズス会側の巧妙な計略でしかなかった。

大村はその危急存亡の折、イエズス会に背後から大いに助けられていたことは確かであるが、結果的に大村純忠は1580年にイエズス会との間に次のような4項目からなる契約を交わしてしまった。(寄進状は(天正8年4月27日付。)


1.イエズス会に長崎・茂木を永久に無償贈与する。
2.パードレ(司祭)が選んだ者に死刑を含む裁判権を与える。(治外法権)
3.入港する船舶の入港税、停泊税を永久に与える。
4.ただし、ポルトガル船などこの港に入港する船からの物品輸入税は予に留保する。


寄進状の末尾には純忠・喜前父子の洗礼名「ドン・バルトロメウ」と「ドン・サンチョ」の連署がある。 (画像は長崎寄進状・ローマのイエズス会文書館所蔵)

同様に、キリシタン大名有馬晴信も領地の"浦上"(現:長崎市浦上)をイエズス会に寄進していた。

こうしたキリシタン大名による領地の寄進そのものは、南蛮貿易による巨額の負債を相殺した結果でしかなかった。

もちろん交渉の主導権は債権者であるイエズス会側がしっかりと握っていただけでなく、結果として長崎の土地を相手に譲り渡したことになる。

これは従来日本でもよく行われていた、特定の寺社に土地を寄付するという習慣とはまったく異なった契約内容のものである。

事実これ以降、長崎の地はイエズス会知行所となり政教の実権はイエズス会のものとなった。

これが日本史上、始めて外国勢力にその国土が譲渡され占有された記念すべき事例である。

結局のところ、こうした経緯はイエズス会側の巧妙な戦略的手法であって、まんまと長崎の地を外国勢力に領有されてしまったのであった。

こうした事態を招いてしまったキリシタン大名の行為を現代では革新的かつ歴史的功績として再評価するという事業が進められているわけである。

そのことは新聞にも紹介された。

 (以下、日本経済新聞記事より引用)
キリシタン大名の功績語る 九州の研究者がサミット :2012/6/3  
「九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が2日、長崎県南島原市で開かれ、各大名の果たした歴史的役割について議論した。戦国時代に同県の島原半島を治め、天正遣欧少年使節の派遣などキリシタン文化の発展に貢献した有馬晴信の没後400年を記念し、同市が主催した。議論では「キリスト教を受け入れて貿易や政治を有利に運び、戦乱の世を生き抜いた」などと各大名を評価。同市は「大名の偉業を情報発信し、キリスト教関連遺跡の世界文化遺産登録につなげたい」としている。〔共同〕」(引用終わり)


いまさら領土返還など眼中にはないといったレベルの歴史認識そのものであって、まったくもって噴飯ものであろう。

その結果長崎の地がどういうことになったのかというと、南蛮人等はたちまち長崎から異教徒らのカミ、ホトケの類は悪魔として追い出し、布教の障害となるすべての寺社を破壊するなどその弾圧は横暴を極めた。

それと同時に長崎と平戸では奴隷売買の取引も盛んに行われる事態となったが、これを押し止めるような力のある主権者はもはや長崎にはおらず住民らはどうすることもできなかった。

長崎の地の先住の領民は、ここで南蛮人による占領統治下に置かれたのである。

長崎統治はどのようなイエズス会上層部の意図の下で遂行されたのであろうか?


高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその占領当時の内容が明確に示されている。


「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

占有した領土を要塞化を指示したことが、ここでも分かる記述内容である。


それによって南蛮勢力は長崎において著しい戦略的成果を上げたことを次のように誇らしげに報告している。


「イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.225-226)


かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有され、他国勢力によって軍事訓練まで行われていたとは驚きであって、とてもではないがここらはいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。

当地のポルトガル商人は強引に日本人の人妻を奪い妾とし児童を拐して奴隷にするなどして、多数の領民が死を選び自決するという悲惨な事件も発生していた。


妻子を奪われた領民は悲憤とともに死をもって抵抗を示す以外に蛮行に抗議する手立てがなかったのである。

かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有されていたとは驚きであって、とてもではないがいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。

これが当時の長崎領の治外法権の実態であり、ポルトガル商人らはそれこそ占有した土地で何をしようと勝手次第であった。

これらは現在の西洋史観では一切なかったことにしなくては、後々評価する上でのつじつまが合わなくなってくる。

だからこそここではお抱え研究者による禊ともいうべきイベントによって、九州のキリシタン大名らの歴史上の再評価サミットやイベントが是が非でも必要になってくるわけである。



(注:)記事引用:開始
「宗麟を全国にPR 大分市が提案事業募集 最大100万円を補助
宗麟の知名度を全国区に―。大分市ゆかりの戦国大名大友宗麟をPRしようと、
市は市内で活動する団体からの提案事業を募集している。1事業につき最大10
0万円を補助する。

 ことし3月に完成したJR大分駅府内中央口側の広場には宗麟像を中心としたモニュメントができ、南蛮文化を街づくりに生かす機運が高まっている。市は「宗麟の名を全国に広める面白いアイデアがあればぜひ応募して」と呼び掛けている。
 有識者やまちおこしグループの関係者らでつくる「大友宗麟プロモーション検討委員会」は2012年度、宗麟を市の顔として発信するための報告書を市に提出。民間活動に対する行政支援も盛り込まれており、市は13年度から提案事業への補助を始めた。
 募集する事業の内容は史実に基づき、宗麟について分かりやすく身近に感じさせるもの。これまでに「おおいた大友宗麟たかもん・いろはカルタ」や市中心部での武者行列などに補助金を交付した。市観光課は「駅前広場を利用し、宗麟にちなんだ祭りを10月に計画している。一緒に盛り上げてくれるイベント案があれば応募してほしい」としている。
 補助額は人件費や食料費を除いた必要経費の5分の4以内。選考委員会で採択事業を決める。希望者は申請書(市のホームページでダウンロード可能)を29日までに同課(TEL097・537・5717)に提出する。
※この記事は、5月12日大分合同新聞朝刊12ページに掲載されています。 」引用終わり
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2015/05/12/212041423


同じくキリシタン大名大友宗麟はイエズス会の宣教師に煽動されて、永禄4年(1561年)に宇佐八幡宮を焼き払い、天正9年(1581年)には豊前彦山の三千坊といわれる多数の坊舎を焼き払って仏教徒を追い出した。

宗麟は領内の寺社にさえ鉄砲を撃ち掛け破壊した。

天正6年(1578年)に宗麟はキリシタンに改宗していたが、それにともなう家臣の集団改宗が進められて領内の信者数も1万人を超える勢いであった。

同年大友宗麟は、キリシタン大名として九州における第一次キリシタン王国建設計画として戦端を開いたが、その野望は薩摩の島津との耳川の戦いで大敗し打ち砕かれた。

キリシタン王国建設には大きなロマンがあるとして、現代でも一部では持て囃されているのであるが、その後第二次キリシタン王国建設の機運は島原の乱として半世紀後に再び復活してくるのである。

九州戦国史ではキリスト教伝来とともに戦闘は激化し、新兵器の鉄砲が戦場で縦横に駆使されるようになっていった。

何故なら鉄砲弾薬そのものは、常にキリスト教を信仰するキリシタン側に優先的に供給され続けていたからである。

当然九州ではキリシタン大名が次第にその版図を広げ勢力を拡大していった。

天正10年(1582年)当時の九州北部のキリスト教信徒数は、大友宗麟の治める豊後で1万2千人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村で7万人、天草島原は2万人、長崎に1万5千人ほどであった。

これ以降も猛烈な勢いで九州各地でキリシタン宗徒は増えていったわけで、旧来の仏教徒らは逆に弾圧され排斥されていった。

こうした勢いに、仏教徒は命からがら逃げ惑うばかりであった。

まさにこのとき秀吉の九州遠征が始まった。

それまでにもキリシタン大名高山右近の領内でも同じように仏僧らからの訴えがあっても秀吉はまったく感知しなかったのであるが(ルイス・フロイス「日本史」4の第10章)、それに比べると九州の状況は看過できないほどに深刻な状況に陥っていた。

そうしたなかで秀吉側近中の側近であった侍医の施薬院全宗は、キリシタン大名による領内上げての奴隷取引や宣教活動の拡大に対して相当な危機感をもって秀吉にキリシタン対策を度々進言していた。

施薬院全宗は比叡山薬樹院の住持であったが、信長の叡山攻め後に還俗して名医曲直瀬道三の下で中国医学を学び秀吉の筆頭侍医となった人物である。

この辺りの事情は「九州御動座記」に詳しく記されている。


「今度伴天連(宣教師)等能き時分と思候(おもひさう らひ)て、種々様々の寶(たから)物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百、男女によらず黒舟へ買いとり、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追いいれ、地獄の荷責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買いとり、生きながら皮をはぎ、坊主も弟子も手ずからこれを食い、親子兄弟も礼儀なく、ただ今生より畜生道の有様、目前のようにあい聞こえ候。
見るを見まねにその近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り妻女を売り候由、つくづく聞きし召し及ばれ、右の一宗、もし御許容あらばたちまち日本は外道の法になるべきこと、案のうちなるべく候。
しからば仏法も王法もあい捨てるべきことを歎き思しめされ、かたじけなくも大慈大悲の思慮をめぐらされて候て、すべて伴天連の坊主本朝追い払いの由お仰せいだされ候」



少なくともこの時点で、南蛮人による日本人奴隷の取引と海外移送を止めさせるだけの強権を保持している人物が日本にいるとすれば、この豊臣秀吉以外にはいなかったのは事実である。


●秀吉が慄いた九州キリシタン勢力の動向


秀吉がキリシタン勢力を排除しようとしたことやその理由については、戦後の歴史教科書ではほとんど教えられない。

そこにはいろいろと不都合があるからである。
むしろ秀吉や徳川幕府がキリスト教徒を迫害したことを理不尽な暴挙として捉える見方が一般的であろう。

戦後日本に刷り込まれたいわゆる西洋史観に追随する教科書というもの中には、イエズス会に代表されるキリシタン宣教師達は、あたかも未開の民に科学と道徳を教え、教会や病院を建設して社会事業を押し進める「人道的救済者」であったかのように書かれているが、これなどはまさに噴飯ものであろう。

日本では、当時のキリシタン勢力の活動がすべて正当なものであって、それを時の為政者が弾圧排除したことは許しがたい犯罪行為であったとするのが西洋史観である。

もとより日本の戦後教育としての敗者の歴史がそう解釈させたのである。

敗戦国日本の歴史観そのものがGHQの統治に屈服し、「西洋冒涜」とされる著作物の類はすべて排除されそこへ新たに敗残者史観が巧妙に歴史教科書として刷り込まれたのである。

日本全土を制圧しつつあった当時の秀吉にも為政者としての強かな戦略があった。

秀吉は博多に凱旋すると、謁見を求めてきたイエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョに、宣教師が関わる奴隷貿易について次々と詰問した。

「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」

「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」


秀吉はポルトガル人が関与した奴隷取引について、事前に調べ上げていた。

「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも解放しろ。そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリュが、平然と答えて言う。

「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。自分たちの罪ではなく、問題なのは、外国船を迎える港の領主など売る日本人がいるからであり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。彼らも厳罰にしてくれれば問題は解決する」、と。
これに秀吉は激怒する。

1587年6月18日(天正15年)、秀吉のもとより、次のような朱印状が出される。

「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」

キリシタンになるかどうかは、その者の心次第である、キリシタンになることは何ら強制されるものではないという意味である。

これは当時のキリシタン大名の多くが、自国の領民に対して強制的に改宗を迫ることが多かったので、それを止めさせるために出されたものである。

さらに、翌6月19日の夜半、キリシタン教徒の悪行を知って激怒した秀吉は、すぐさまガスパ ル・コエリョに5ヶ条の詰問状を出す。

第1条、教会の布教師はなぜ日本人を強いてキリスト教に従わせたのであるか。
第2条、何のために神社仏閣を破壊したのであるか。
第3条、何故に仏僧と不和をおこして苦しめたのか。
第4条、いかにして布教師たちは民衆の必要とする牛を食用としたのか。
第5条、ポルトガル人に日本人を買わせ、これをインドに輸送したのは、何人の許可を得てしたのか。(「クラッセ日本西教史」)


それでもコエリョからは辻褄合わせの曖昧な答弁書が返って来ただけであった。

6月19日のその日の昼間、博多湾でスペインの武装南蛮船に乗った秀吉は、船上で大提督のような格好をしたコエリョに出迎えられ少なからず驚かされている。

このときコエリョは船上に装備された大砲などの武器を見せ、いかにもスペイン艦隊が自分の指揮下にあるかのごとく意図的に秀吉に対して武力を誇示して威嚇したのであるが、明らかにこれが武人としての秀吉の逆鱗に触れるのである。

秀吉はこの時点でキリスト教の拡大の背後に従来の一向宗や国人一揆のような武力、軍事的な勢力への変貌の脅威をはっきりと見てとった。

まさにバテレンの法衣の下に鎧を見たのである。

むしろこのとき秀吉の目に映った危険性そのものは、かっての一向宗や国人一揆さえも大きく超えるものであった。

九州に自ら遠征した秀吉は、イエズス会によって作られていた特異な宗教的組織体でコンフラリヤ(Confraria de Misericordia:信徒集団組織)というものの存在に気付いていたのである。

しかもそれには九州の有力大名が背後で関与していた。

かれらがキリシタンとして連携して刃向かってくればまさししく脅威であった。

この事実に対峙した秀吉の立場は明確であった。
奴らは一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が広まったのは百姓や下賎の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主として主君として迎えた。(顕如)は、予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。だがいっぽう奴ら伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも強固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためのものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう」(「完訳フロイス日本史」4・16章)

●秀吉のバテレン(伴天連)追放令とは

これに先立つ2年前の1585年(天正13年)、イエズス会のコエリョは豊臣秀吉に拝謁した際、その席で九州平定を勧めている。

しかもその時、九州の有力な大名である大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させると約束して軍事面にも自ら積極的に介入するような言動があった。

秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、すかさず、その際には2艘の船を提供しようと申し出ていた。

イエズス会の背後に世界最強のスペイン艦隊が控えていることをコエリョは、このとき秀吉にそれとなく誇示してみせたのだ。

当時のイスパニア(スペイン)艦隊は、スペイン語で Armada invencible(アルマダ インビンシブル) といわれ、16世紀末、大航海時代最盛期の艦隊規模は艦船数130隻、総兵数3万人で世界最強を誇ったが、日本でコエリョが秀吉を威嚇した翌年、1588年、イングランド上陸作戦のためにドーバー海峡へ派遣された際、ドレイクが指揮するイングランド艦隊の攻撃をうけて壊滅した。

このような経緯もあってそれまでの微かな猜疑心は、確信に取って代わった瞬間であった。

秀吉の決断は速かった。

夜間とはいえ、その日のうちにポルトガル側通商責任者やコエリョに対して宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡して、キリスト教宣教活動の制限を申し渡した。

(注 )「松浦家文書」に残る6月19日付の追放令の原文、以下引用。
「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事 一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印」

一、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ以て然るべからず候事
一、その国、郡の者を近づけ、(キリシタン宗)門徒になし、神社仏閣を打ち破る由、前代未聞に候。国郡在所知行等、給人(領主)に下され候儀は、当座の事に候、天下よりの御法度(ごはっと)を相守り、諸事その意を得べきところ、下々として猥(みだ)りなる儀、曲事(くせごと)の事

一、伴天連の知恵の法を以て、心ざし次第に檀那を持ち候と思(おぼ)し召され候えば、右のごとく日域(じちいき=日本国内)の仏法を相破る事、曲事の条、伴天連の儀、日本の地にはおかせられまじき候間、今日より二十日間に用意つかまつり、帰国すべく候、その中に下々伴天連にいわれざる族(やから)申しかくるものこれあらば、曲事たるべき事

一、黒船の儀は、商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事

一、今より以後、仏法のさまたげをなさざる輩(やから)は、商人の儀は申すに及ばず、いづれにても、きりしたん国より往還くるしからず候条、その意なるべき事

具体的には宣教活動で領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの破壊を止めさせ、宣教師の国外退去を命じたわけであるが、明らかに秀吉にはキリスト教布教と南蛮貿易とをこれによって切り離してしまおうという狙いがあった。

さらに国内に向けたバテレン追放令では寺社の破壊や日本人の奴隷売買を禁止した。

これに前後して秀吉は最も熱心なキリシタン大名の高山右近に棄教を強く迫ったが、右近はこれをかたくなに拒み続けついには改易となり大名の地位を失うこととなった。

秀吉の九州征伐にあたっては高山右近は秀吉を警護しその先頭を進軍してきていた。

秀吉にも信頼されていた右近に向けられたこのときの厳しい処断そのものは、いかに九州のキリシタン勢力が強大化していたかの証左でもある。

ここに至って、秀吉はキリシタンを軍事的脅威と見なしたのであった。

このときの経緯についてルイス・フロイスの「日本史」には次のように書かれている。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においてもひろまっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすことが案ぜられるからである。
同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」(「完訳フロイス日本史」4・17章)

秀吉は、勢力を拡大しつつあるキリシタンの脅威を敏感に感知し、この機を捉えてその禍根を一気に取り除こうとした。

しかし、ここでのキリシタンへの制限は緩やかなものでり、莫大な利益を生み出す南蛮貿易自体にはその後もなお宣教師の仲介が不可欠であったのだ。

秀吉自身、かっては信長の下で商業都市堺を管理下に置いたことがあった。

もとよりそれによって、軍事物資として重要さを増していた硝石の流通を戦略的に押さえたのであった。

さらに経済的に潤っていた堺からは多額の矢銭(地子銭)が獲得できた。

海外との交易が、いかに多くの利益と繋がっているかを秀吉は為政者として知り尽くしていたともいえる。

南蛮貿易自体をここで中断してしまえば、当然軍事物資としての硝石の入手が出来なくなるから、秀吉もそれ以上の制裁は取りにくい状況であったわけである。

結局、信仰そのものは禁じられておらず、表立った布教だけが制限されていたということでその実効性に問題はあったが、バテレン追放令はポルトガル人宣教師と、それらと深い関係を持つ国内のキリシタン大名らに向けた最初の政略的な警告そのものであることに違いはなかった。

人身売買に対しては、国内向けに出された朱印状や十一ヵ条の伴天連追放令の中に明確にそれを即停止すべきとして記されている。

「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

この時期すでに長崎は、イエズス会による城砦構築工事が計画通り進められ、要衝は大砲や鉄砲によって守られており、後はマニラから精鋭のスペイン兵を400人ほど招聘し駐屯させる予定であった。

そこまで長崎の情勢は逼迫していたことになる。

これに対して豊臣秀吉は、各方面に命令を下し迅速に対応することを忘れなかった。

バテレン追放令を出すと同時に側近の浅野長政や藤堂高虎らを直ちに長崎に派遣させると、イエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上のイエズス会の城塞を取り壊し領地を没収するとともに、領有されていた土地のすべてを秀吉の直轄地とし、天正16(1588)年4月21日、鍋島直茂を代官として長崎を預ける処置を取った。

また、1592年(天正20年)、有馬や大村領内の教会や十字架も破壊され、慶長元年(1597年)には、9人の宣教師をふくむ26人のキリシタンが京都から長崎西坂に移送されて見せしめとしてこの地で処刑されることとなる。



削除されなければこの稿続く












参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)


















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posted by モモちゃん at 15:07| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする