2020年05月04日

戦国時代に出現したシンクロ現象とは!

奪われた領土は戦争で取り返す!

九州戦国時代、奇しくも九州の桶狭間とも云われる戦いがあった。

それが肥前の龍造寺隆信と有馬・島津連合軍との戦い「沖田畷の戦い」である。

戦国の天正12年(1584年)当時、九州のキリシタン大名有馬晴信は勢力を拡大していた隣国肥前の龍造寺隆信の下から離反しつつあった。

肥前の覇者龍造寺は九州全域の覇権を賭けて、薩摩の島津とも対峙していた時期でもあった。

有馬はすでにこのとき龍造寺とは縁戚関係を結んで臣従していたが、それでも龍造寺の版図拡大の戦略的野心はどうにも防ぎようがなかった。

しかも隆信は殊の外キリシタン宗団を嫌っており、有馬領からも排除することを狙っていたのである。

豊後の大友氏に勝利し筑前・筑後・肥後に勢力を急速に拡大していく隆信はまさに「肥前の熊」であり、その戦略的暴虐さと冷酷で残忍な性格からみても弱小大名の有馬の命運は風前の灯火という状況であった。

そうした中で有馬晴信は、かねてより薩摩の島津に極秘裏によしみを通じて活路を得ようとしていた。

この情報はたちまち龍造寺側に漏れた。

有馬の背信を知って激怒した隆信は龍王崎から出陣すると、同年3月20日には島原半島北部の神代に上陸し有馬領に本格的な侵略を開始してきた。

有馬晴信は直ちに肥後八代にいた島津義久に援軍要請したが、肥後平定中であった島津には有馬方に大軍を送るだけの余裕がなかった。

だが島津としても戦略上有馬をここで見捨てることは出来なかった。

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苦慮した結果、義久は自軍から末弟の家久と副将格の重臣と共に3000程の兵をさいて急遽島原へ援軍として送くることを決断したのである。

家久は薩摩でも希に見る戦上手の武将として知られていただけに、このときの義久の判断そのものは的確であったといえる。

しかしながら、龍造寺隆信はこのとき数万(一説では5万、6万規模とも伝わる)の兵力で有馬に侵攻しつつあったから、この時点でもその軍事力には大差があり過ぎた。

有馬が領内で掻き集めた兵が3000余り、援軍の島津勢と合わせてもその総勢は6000の戦力でしかなかった。

龍造寺方の兵力は有馬・島津連合軍の優にその四五倍以上はあったことになるから、どうみても圧倒的に龍造寺方の戦闘力の方が勝っていたことになる。

その鉄砲にしても龍造寺方はこのとき一千挺以上装備しており、鉄砲隊も圧倒的に多かったのである。

まともにぶつかれば勝ち目はないとみた島津家久は、島原に上陸すると地形を配慮した綿密な作戦を有馬方と共に迎撃策を立てていったが、紆余曲折の末最後には家久の作戦に有馬方も同意した。

家久は、主戦場を島原の北方にある湿地帯を縦貫する通路のある沖田畷にすることで大軍の侵攻が制御迎撃できると考えていた。

当時の島原周辺は山の裾野から海岸線に掛けて広大な湿原と深田が広がっていて、通路そのものの道幅が狭かったので、その一帯は沖田畷と呼ばれていた。

この沖田畷の地形を利用して敵側の戦端を細く伸ばし、頃合いを観て横合いから伏兵をもって攻撃を仕掛けるという島津得意の戦法を採れば、たとえ相手が大軍であろうとも敵の陣形を突き崩すことが出来るというしたたかな作戦であった。

敵軍を泥濘の沖田畷の一本道に誘い込むことで、少ない兵力でも有利に迎撃態勢が取れると家久は見切ったのである。

有馬と薩摩の連合軍の総大将を晴信として森岳城に本陣が置かれ、海岸線には薩摩勢の伊集院忠棟ら1000、内陸側に設けた防御用の大木戸にも薩摩の赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に布陣すると共に、薩摩の新納忠元ら残りの1000は前山の山裾に伏兵として身を隠した。

いうなればこの作戦には積極的に薩摩勢が前面(先陣)に出て、敵勢を迎え撃つ体勢をとっていたことになる。


侵攻してきた龍造寺方は当初より有馬・島津の主力軍は日野江城に籠もっているものと予想しており、兵力を山沿い、沖田畷の中道、海岸沿いの三軍に分けて、主力の隆信は自ら沖田畷の中道へ向かって軍勢を意気揚々と押し進めていった。

龍造寺方には、すでに島津軍が応援部隊を送り込んできていることも、その兵力が僅かであることも伝わっていた。

このときの隆信は己の大軍を持って攻め立てれば、寡兵の有馬・島津連合軍などは一撃で撃破できると傲慢にもそう豪語し自らも確信しきっていた。

事実圧倒的な兵力を誇る龍造寺軍は辺り一帯を埋め尽くす規模であり、有馬・島津連合軍の陣を包囲する形で続々と迫ってきていた。

たちまち沖田畷付近で龍造寺方の先鋒部隊が島津軍と遭遇し始めるのだが、龍造寺方は相手が小勢なのを侮り事前に物見も出さずに勢いのままに真正面から攻め掛かっていった。

まさに相手を蹴散らかさんばかりの勢いを初戦から示してきたのである。

島津軍はその勢いに押されてたちまち敗走するかにみせて、龍造寺の先鋒部隊を沖田畷の湿地帯の方へと巧く引き込んでいった。

これが島津軍得意の戦法(御家芸の釣り野伏せ)であり、たいした抵抗も見せずに相手との間合いを巧みに取りながら後退していったのである。

勢い付いた龍造寺軍はそのまま一気に攻め立てて、ついには沖田畷の狭い一本道の畦道に誘い込まれていった。

泥濘の上に縄を付けた戸板を引き回し、敏捷に退路を飛び渡りながら後退したであろうが、島津軍にとってはこれは命懸けの犠牲をも伴う決死の捨て身の戦法でもあった。

龍造寺軍は見事に島津の戦法、釣り野伏せに引っ掛かってしまったのである。

家久は龍造寺軍が沖田畷に入り込み十分鉄砲の射程に入ったのを見定めると、一斉に弓鉄砲で打ちかけさせた。

この突然の鉄砲攻撃に龍造寺軍の先陣が一気に崩れだした。

龍造寺軍はその場から退避しようとしたが後続部隊が続々と押し合いへし合いで押しかけてくる状態であったから、まったくどうにも動きがとれないまま狭い畦道で大混乱が発生してしまった。

龍造寺軍の先陣の多くは一本道の狭い畦道から滑り落ちてしまい、そのまま深い泥濘に足を取られてしまっていた。

泥濘の湿原に迂闊に踏み込めば、足はもとより腰や胸の辺りまで抜かり込む有様であったから、一旦泥濘に滑り落ちれば命を失ったも同然であった。

そうした先陣の混乱は後方の総大将隆信の下へは伝わらないまま、隆信自身は一向に前に進まない兵団の様子に苛立ち、すぐさま伝令を発した。

しかも自らが前線に立ち、手早く指揮を取ろうするほどの焦り様であった。


こうした隆信の苛立ちもあって、前線の諸将に対して命を惜しまず攻めるようにとの伝令が行くと将兵は尚更いきり立ち、しゃにむに無謀な猛攻を後続部隊が仕掛けていった。

これが戦場で云うところの、無理押しに攻め立てる「我攻め」である。

先陣は背後から後続部隊に力尽くで押し出される形で、次から次へと狭い一本道に押し出されていくわけで、戦闘態勢が取れぬままに泥濘に滑り落ちていったのである。

ここにきて、泥濘に足を取られ身動きが取れなくなった夥しい龍造寺軍をそれまで潜んでいた島津方の伏兵が弓、鉄砲を猛烈に射掛けたのである。

島津軍は次々と狙い撃ちしていったので、瞬く間に龍造寺軍の夥しい兵が重なるようにしてその場に倒されていった。

この有利な戦況を観て、島津軍は一斉に抜刀すると龍造寺軍の先鋒部隊に襲いかかった。


龍造寺軍と有馬・島津連合軍の戦いの経緯は、こうした沖田畷での戦いが主戦場として記録されているのであるが、一方で海外の史料によるとこの戦いでは有明海海上からの有馬方の軍船からの砲撃が大きな戦果を上げたことが記されている。

ルイス・フロイス『日本史』によれば、この戦いの直前に有馬晴信の下にイエズス会副管区長コエリュが訪れており、キリシタン宗団組織の存亡に関わる緊急事態として強い危機感を示している。

イエズス会の副管区長コエリュは聖職者であると同時に、大名と南蛮商人との仲介者でもある。

火薬や鉄砲の供給はもちろん、龍蔵寺軍の侵略を前にしてこのとき有馬晴信は必死に軍事支援を副管区長コエリュに要請したことであろう。

危急存亡の事態に晴信はコエリュに泣きついた感じであったであろう。

それに応えて、ここでイエズス会は有馬晴信に対して最大限の軍事支援を行った。

それが二門の最新兵器の大砲を装備した軍船として登場してくる。

ルイス・フロイス『日本史』第五三章(第二部五二章)「野戦が行なわれ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第」には、次のように記されている。[引用開始]

「戦闘は栄光の福音史家聖マルコスの祝日の前日にあたる四月二十四日の朝、金曜日の八時に開始され、正午すぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行なわれた。

 双方とも渾身の力をもって勇戦したが、隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまつさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じこめてしまった。

 浜辺の戦列の端からは、隆信の二人の息子が他の武将たちとともに近づきつつあったが、その率いる兵はさらに豪華、かつ清潔で、見事な隊列を組んでいた。

その折、既述のように高来における最優秀のキリシタンの一人である有馬の家老の船には二門の半筒砲が積まれており、他の身分のある貴人たちが乗りこんでいた。ところでその場には砲手がいなかったので、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火していた。そうした厄介な操作にもかかわらず砲は見事な協力のもとに発射を始めた。

なにぶんにも敵兵は大群であったから弾丸が当り損ねることがなく、敵の一群が木端微塵に粉砕されると、(味方)一同は船内で敬虔にひざまずき、両手を合わせ、「パアテル・ノステル・クイ・エース・イン・チェリス・サンクチフィチェル、ノーメン、ツウム」の祈りを声高々に唱えた。そしてふたたび立ち上がると、またもや半筒砲にかなりの弾丸を込めた。

 人々が語るところによれば、一発で十人を倒した砲弾もあったという。敵の兜が断片となって空中に舞い上がるのが見え、味方の者はふたたび敬虔にひざまずいて「パアテル・ノステル」を続けるのであった。

これら二門の砲は敵をさんざんに痛めつけ、のちほど中務やドン・プロタジオ(有馬晴信)、およびその他の殿たちの証言によれば、千人の兵を有しているよりもそれらはより効果的に役立ったという。
というのも、かの海岸の戦列の端の一隊は、それら二門の砲によって甚大な損害を被り、列を乱し出し、その一部は退却し遁走し始め、他の一部は中央から進んできた部隊に合流した。」
[引用終わり]

ここで登場する優秀な砲手のカフル人とはエジプト北東部のカフル・アッシャイフから、またもう一人のマラバル人はインド半島南西部の海岸地方から南蛮人と共に渡来してきた艦船の乗員であり、訓練を受けた軍事戦闘要員達である。

しかも彼らは南蛮船にかならず搭乗している大砲の砲手であり、少なくとも彼らもイエズス会の影響下にあるということになる。

このとき有馬の二門の新兵器大砲は船に装備されてはいても有馬の兵ではまったく操作できず、実際の砲撃は彼らの助勢でようやく射撃できたのである。

おそらくこれが実戦でみられた日本における最初の大砲による艦砲射撃であり、実体弾による戦果であったのではないかと思われる。

この戦で日本人が始めて艦載砲の威力を目にしたわけで、その強大な破壊力と殺傷力に驚愕したことであろう。

浜辺の戦列の端からは、隆信の二人の息子が他の武将たちとともに近づきつつあったが、その率いる兵はさらに豪華、かつ清潔で、見事な隊列を組んでいた。」であろう龍造寺軍が、艦砲射撃によって一瞬にして「一群が木端微塵に粉砕される」様子は、この戦に連なっていた龍造寺の将兵に対して、始めて目にする大砲の威力そのものは相当な恐怖心を与えたはずである。

当初沖田畷の戦いは、どうみても強大な勢力を誇る龍造寺が敗退するような戦ではなかった。

山裾から海岸沿いにかけて龍造寺軍の夥しい将兵で埋め尽くされていた状況を考えれば、この戦いはどこまでも対峙する有馬・島津連合軍にとっては不利な状況であった。

ましてや寡兵である以上、大軍である龍造寺軍の戦意を失わせるような迎撃などは、ほぼ不可能な状況にあったといわざるを得ないのである。

有馬・島津連合軍の沖田畷での猛反撃が大きな戦果に繋がったことに違いはないが、そもそものきっかけを作ったのがこの新兵器大砲による海上からの艦砲射撃であったように思えてならない。

これはただの偶然でもあるまい。

イエズス会副管区長コエリュが、二門の大砲と訓練された砲手を素早く手配してくれていたからである。

ここでこのように軍事支援が行われていたのは、イエズス会副管区長コエリュのキリシタン大名有馬晴信へ対する特別な配慮に他ならないのである。


有馬が戦で敗れれば、有馬領内のキリシタン宗団も壊滅の危機に遭遇するわけであるから、ここでのイエズス会の軍事支援は当然のことであった。

しかしながらこのときの二門の大砲そのものは、イエズス会から有馬方に無償供与されたわけではなく、優先的な緊急の商得取引として引き渡されていたものである。

これも南蛮の鉄砲火薬取引同様に、有馬方が戦時の軍事物資として購入したも同然なのである。

現物が納品された以上有馬方には当然支払い義務が発生するわけで、これが後々キリシタン大名の南蛮、あるいはイエズス会への戦時負債ということになってくる。

たしかに外国人砲手の活躍で有馬方の大砲による艦砲射撃は、海岸沿いを進攻していた龍造寺軍精鋭を次々と吹き飛ばし予想以上の大きな戦果を上げていた。

日本の歴史書には、こうした外国人砲手が戦闘で大活躍していた事実は記録されてはいない。

当の勝者側もこうした事実には触れたくはなかったのであろう。

逆に云えば、外国勢力の介入によって、当初の予想に反して戦局が大きく変えられてしまったということだけはここでは云えるであろう。

さらにおかしなことは、この沖田畷の戦いについてのフロイスの記録には湿地帯を利用した特筆すべき有馬・島津連合軍の迎撃作戦そのものについては一切触れられてはいない。

沖田畷に湿地帯が本当に広がっていたのかもどうかもよく判らない。

龍造寺軍に包囲され鉄砲による猛射撃を受けている有馬・島津連合軍の描写があるところをみると、有馬・島津連合軍の陣営は攻め込まれて龍造寺軍の鉄砲隊の射程内に置かれてしまっていることになる。

とうてい反撃どころではないのだ。

しかしここで有馬・島津連合軍に反撃の機会が一気に出現する。

フロイスの記述を見れば、それははっきりしてくる。

戦闘は栄光の福音史家聖マルコスの祝日の前日にあたる四月二十四日の朝、金曜日の八時に開始され、正午すぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行なわれた。

 双方とも渾身の力をもって勇戦したが、隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまつさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じこめてしまった。」と、そこにはあるではないか。

敵軍に陣地を包囲され矢来の中に閉じこめられてしまった防戦ともいえる状況から、ここからどう挽回できたのか不可解なところである。

戦局は流動的であるが、ここらの記述では明らかに龍造寺軍が有利に展開している様子が見て取れる。

やはりこの危機的状況を覆したのが、有馬方の軍船からの新兵器大砲による艦砲射撃ではなかったかということになる。

この砲撃によって龍造寺軍は混乱し、たちまち陣形を崩したのではないか。

そしてこの隙を見て有馬・島津連合軍は一気に反撃に出て、最初の勝機を掴んだのではあるまいか。

結果的には、有馬・島津連合軍の反撃で龍造寺軍の先鋒部隊の出鼻がくじかれただけでなく、一方的に艦砲射撃の直撃を受け続けるうちに龍造寺軍の一翼であった海岸沿いの兵団の混乱がさらに広がって、大軍団の指揮系統や進攻する隊列の統制が崩されていったわけで、そうした戦局の混乱がついには敗走を招いたということになる。

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そうした混乱を押さえようとして龍造寺隆信は、輿に担がれたまま前線近くにまで乗り出してきていた。

その輿は6人の兵によって担がれていた。

隆信は戦場を駆け回るには肥り過ぎていたのである。

軍船からの砲撃による龍造寺軍の混乱に乗じて、このときすでに島津・有馬の連合軍の果敢な反撃が一斉に始まっていた。

龍造寺軍の陣形が乱れ、双方の将兵が入り乱れて戦ってもいた。

しかもこうした状況下で追い打ちを掛けるように、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が総大将龍造寺隆信に命中した。

そのまま隆信はあっけなく討ち取られてしまう。

隆信の突然の討ち死にでたちまち龍造寺軍にさらなる動揺が拡散し、いわゆる全軍総崩れとなった。

有馬・島津の両軍は、戦場から敗走し退却する龍造寺軍を執拗に追撃し討ち取った。

この戦いで龍造寺隆信の弟康房、さらには龍造寺の四天王であった武将までもが討ち取られてしまうのである。

野戦ともいえる合戦で首級を取られた戦国大名は、この龍造寺隆信と今川義元だけであろう。

こうして島津・有馬の連合軍は、劇的な展開を見せて龍造寺軍を有馬領内から排撃することに成功した。

そこには南蛮渡来の新兵器大砲がたしかに威力を発揮していたのである。










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ラベル:外国勢力
posted by モモちゃん at 08:47| 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする