2020年08月16日

戦国最強の女城主妙林尼とは何者か?

女城主妙林尼の墓石発見!?

戦国時代に九州の豊後(大分県)に妙林尼と呼ばれる女性がいた。

彼女は始めから尼僧であったのではなく、大友氏の支城である鶴崎城主吉岡鑑興の正室であったが、妙林尼の出自がはっきりしないこともあって、出家する前の名前も不明である。

九州戦国時代真っ只中の天正14年(1586年)当時の年齢は不詳であるが、出家したときはすでに元服した男子が居たことを考えれば当時すでに三十代は越えていたであろうと思われる。

妙林尼は地元では古くから妙林さまと呼ばれて親しまれていたが、舞踊や音曲の芸にも秀でていたとされ、それに相応しく容姿が端麗でもあったという。


妙林尼が嫁いだ吉岡家は豊後大友氏の一族であると同時に、生え抜きの重臣の一人でもあったが、島津との耳川の合戦において日向国・高城の激戦で吉岡鑑興はあえなく戦場で討ち死にしてしまった。


夫鑑興の戦死によって妙林尼は、その直後にその菩提を弔うため出家して尼となったのである。

当時は夫か戦死すれば妻は仏門に入るのが武家の習いであった。

しかしながら彼女の人生はそのままでは終わらなかった。

何しろ妙林尼は女性でありながら島津軍に奪われた城を奪還すると共に、撤退する島津軍を追撃し大きな戦果を挙げた女城主として地元では広く知られている戦国時代の女性(にょしょう)なのである。

これには次のような背景と経緯とがあった。

当時、豊後をはじめ九州の6カ国を掌握した戦国大名の大友宗麟は自らキリシタン信徒となり、新たにキリシタン王国建設の野望に燃えて九州での版図をさらに広げようとしていたが、図らずも耳川の合戦(天正6年・1578年)で島津氏に大敗してからは次第にその勢力は衰退しつつあった。

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吉岡家では当主の鑑興亡き後は嫡子の吉岡統増がすぐさま跡を継いで鶴崎城主となっていたが、敵対する島津氏は勢力を拡大させて、天正14年(1586年)12月には大友氏の領内に侵入すると支城鶴賀城まで北上し、ついには城を包囲した。

このとき島津家当主義久の弟の島津義弘は肥後口から三万七百余りの兵で攻め寄せ、さらに弟の島津家久は一万余りで日向から大友氏領内へと侵攻してきていた。


当初より豊臣秀吉の九州攻めに加わっていた四国勢の長宗我部元親、信親、仙石秀久、十河存保、依岡左京らが大友勢に援軍として味方して合流してきていた。

ところが島津の侵攻を前にして、大友、四国連合軍六千の兵は大野川を渡り戸次川の河原で島津軍一万八千と真っ向から激突したが、圧倒的な島津軍の大軍に打ち砕かれ連合軍は出鼻を挫かれ大敗を喫した。(1586年)

大友氏にとって、その後の島津軍との戦局は厳しい局面を迎えていた。

しかしながらこの直後には、大友家の家督を継いでいた大友義統は島津軍の勢いに恐れおののき、豊後の府内を放棄して豊前の龍王城に逃走するという無様な有様であった。

戸次川の合戦に勝利した島津軍はここで軍勢を二手に分けると、大友屋敷のある府内(大分市顕徳町)と府内の東方に位置する鶴崎城(現在の大分市鶴崎小学校・鶴崎高校周辺地域)に向かって進軍してきた。


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さらに府内をめざす島津家久は、2千の軍勢を大友宗麟が籠城する臼杵城(臼杵市)にも侵攻してくる。

この事態に鶴崎城主吉岡統増は、急遽軍勢をまとめると宗麟を助勢するため臼杵城へと駆けつけていた。

後に残された鶴崎城は老兵と女子供達だけであって、この時点で大友氏の支城である鶴崎城は見捨てられたも同然であったが、とにもかくにも後は自力で留守居の者達のみでその場を耐え凌ぐしかなかったのである。

島津の軍勢は鶴崎城を攻撃目標としてすぐそこまで迫りつつあった。

このとき城主吉岡統増不在の鶴崎城には、その母堂である妙林尼が城を守る留守居として残っていた。

それでも島津軍の侵攻を知った近隣の領民らは城主不在の鶴崎城に次々と逃げ込んでくる状況であったし、この間は実質的に妙林尼が城主の代理として鶴崎城を守らざるを得なくなっていた。

押し寄せてくる領民に城内は大混乱したが、残っていた老臣らも妙林尼の下に下知を求めて続々と集まってきていた。

人々は妙林尼に城内での采配を求めたのである。

もはや城を出ての戦いに臨めるような戦力は吉岡家には残ってはいなかったが、結果的には留守居の妙林尼を城主として領民らは島津軍と戦うことに皆が賛同した。

たとえ留守居が女であろうとも、ここでは名目上の城主として妙林尼に立ってもらわないことには島津との籠城戦は戦えないと皆が考えたのである。

妙林尼らは直ちに籠城戦への備えを固め始めたのであるが、ここから女性である妙林尼は思いもよらぬ行動を起こす。

妙林尼は城内に籠もる老兵や農民に自ら次々と防御策を授けると、籠城戦に耐えるべく城の周りに竹矢来や逆茂木、土塁や空堀、さらには薬研堀や巧妙な落とし穴まで幾十にも造らせた。

その配置から大きさまで細部にわたって妙林尼が指示していった。

切羽詰まった苦肉の策どころか、籠城戦に備えて妙林尼は周囲の者が驚くような軍師さながらの働きを示し始たのである。

もとより鶴崎城は海の傍に築かれた水城であり、それも大野川と乙津川の扇状地に立地していたため干潮時にしか城には出入りできなかった。

妙林尼は鶴崎城の陸地側の防御を固めれば、水城である鶴崎城は容易には攻め落とされないと考えた。

ここで女性である妙林尼がこのように軍法に通じていることが、とにかく不思議でならない。

周りの家臣らが補佐していたとしても、妙林尼のこのような独創的な防御策は戦国の九州でも希ではあるまいか。

しかも妙林尼は攻城戦の戦いをここでは誰よりも熟知していたということである。

そうこうしているうちに鶴崎城へ逃げ込む領民を追いかけるようにして、たちまち島津軍三千の軍勢が姿を現し、城を包囲するなり攻撃を次々と仕掛けてきた。

城内の兵はわずかである。それも老兵ばかりであるし、まともに戦ってもとうてい勝ち目はないと思われた。

しかし妙林尼が頼りにしたのは籠城してきた農民達であり、逞しい女達であった。

幸いなことに城内には相当数の鉄砲の装備が残されており、妙林尼自らがそうした鉄砲の操作も事前に農民や女達に教えていた。

実際に妙林尼は城内からの鉄砲攻撃を巧みに采配して見せた。

島津軍の吶喊攻撃に対しては、その都度指示通りに鉄砲が火を噴いた。

しかも妙林尼の防御策は島津軍の猛攻によく耐えきった。

寄せ来る島津軍に対して、妙林尼が造らせた防御策が見事に効果を発揮しただけではなく、籠城する者達は誰もが戦いに死に物狂いであった。

島津軍に攻め込まれれば、味方の男らが命を失うだけではない。

女子供は島津軍の捕虜となって拉致されれば、そのまま人買い商人に売られてしまうのである。

戦国とはいえ、家畜のように売られた者の命運とその悲惨さは例えようがなかった。

海港が近いだけに皆がそうした過酷な現実を目にしてきていた。

海外からの奴隷船はすでに鶴崎や沖の浜の港近くに続々と集り始めていることも城内から覗えるわけで、その理由を領民の誰しもが知っていた。

畢竟、領民達はそうした恐怖がすぐ目の前にあるからこそ、ここで戦うことに必死にならざるを得なかった。

このとき妙林尼の手掛けた防御策は見事であった。

それらの防御を前にしても島津軍は幾度となく攻撃を仕掛け、そして退却を繰り返しながら迫りつつあったが、その度失敗して多くの犠牲者を出すばかりであった。

結果島津軍は鶴崎城に十六度も執拗に攻め寄せたが、どうしても城を攻略できずに攻めあぐねたのであった。

勇猛な島津兵はそれでも決して怯むことはなかったし、彼らは大将の攻撃命令には命を惜しまず忠実に従うのである。

それだけに島津軍にとって鶴崎城攻城戦そのものは、手痛い犠牲を払うだけの消耗戦でしかなかった。これの繰り返しであった。

そうなると指揮官である武将は思案せざるを得ない。

ここにきて島津軍は和睦を求めてきたのであるが、妙林尼側もすでに戦いに疲労困憊して籠城線に限界が来ていた。

この機を逃さず、籠城戦に疲弊していた妙林尼側も和睦をすんなりと受け入れることに決した。

妙林尼は家臣や領民の安全が確約されると、それこそ潔く鶴崎城を島津軍に明け渡した。

島津軍側は武人としての面目が立ったのである。

島津側は名目上とは云え激しい戦を交えた相手が、女の妙林尼であることに少なからず驚いたのはたしかである。

島津軍は敵ながら、妙林尼のその戦ぶりを賞賛した。

ここで両者の間に勝敗が決したのは確かであった。

妙林尼は城を出るとそのまま近隣の民家に移り住んだのであるが、意外なことに妙林尼はその直後から薩摩の武将らと親しく交流し始めた。

何かが変わったのである。

そうこうするうちに敵味方に分かれて戦っていた兵士らもそこここで次第に交流するようになり、城内でも両者が親しく飲み交わし互いに武勇を称え合ったのである。

酒宴を開けば、双方とも根は純朴な者同士であるから瞬く間に親しくなっていった。

これはただ事ではなかった。

この成り行きに妙林尼は一体何を考えていたのか。

妙林尼からみれば鶴崎城は敵の島津軍に奪い取られたことに違いはなかったし、彼女自身ここは何としてでも城を取り戻したいと内心考えていたはずである。

彼女とて夫鑑興を討ち取られ、そのうえ居城までも奪われてしまっては武家の面目は立たないのだ。

戦国の世に生きる女性でありながら、これはいかにも気丈夫過ぎる考えと云うことになるが、妙林尼自身はどうしてもこのままで済ませることは出来なかった。

妙林尼は表向きそうした素振りはまったく出さなかったが、このとき胸の内では非情な決意をしていたのである。

その後も妙林尼は自ら侍女を従えて鶴崎城を訪れると、酒肴でもって薩摩の武将らを懇ろにもてなしてみせた。

しかも無骨千万な武将らの前で妙林尼は着飾った侍女らと共に艶然と笑みを浮かべつつ見事な舞いを踊ってもみせた。

妙林尼の饗応は至れり尽くせりであった。

たびたび妙林尼らは鶴崎城を訪れると、賑やかな酒宴を催して薩摩の武将らを歓待してみせた。

妙林尼らのこうした趣向や歓待に薩摩の武将らは大喜びすると共に、それまでの警戒心もすっかり解けてしまって双方に打ち解けた雰囲気が次第に出来上がっていった。

若い男女間にもそうした親しみが生じるまでになっていた。

早い話、薩摩側の武将らは思わずここで気が緩んだのであるが、これはむしろ妙林尼の思惑に気を許したと云うべきであろうか。

それから三月ほど過ぎた天正15年3月、太閤秀吉が二十万もの大軍を従えていよいよ島津討伐のため九州へ進軍してくると云う知らせが鶴崎城にもたらされた。

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豊後領内に留まっていた薩摩軍はこの情報に驚くと共に、一斉に退却命令が出され鶴崎城を守備していた薩摩軍もあたふたと撤退の準備に取りかかった。

薩摩軍の武将の一人である野村文綱(備中守)が、妙林尼の下を訪れたのは撤退する前日のことであった。(逆に妙林尼自身が野村文綱の下を訪ねたともいう説もある)

我々は明朝、薩摩へ帰郷いたす。妙林殿は今後如何なされますか」と問うたという。

これに対して妙林尼は、「私は自ら大友家に背き、皆様と深く厚誼を交わしました。もはや大友家には残れませんから家臣共々一緒に薩摩に連れて行って下さい」と真剣に頼み込んだ。

妙林尼に思いを寄せていた野村文綱はこれを大いに悦び、さらに妙林尼は祝賀と称して鶴崎城で島津軍将兵に最後の酒肴を振る舞った。

翌早朝出立する島津軍を「後始末を済ませたら、すぐに合流いたします」と妙林尼は伝えると、この後すぐさま家臣に反撃の手筈を密かに指示した。

思いがけない展開である。

妙林尼一行を待ちながら酔って千鳥足でゆっくり鶴崎城から撤退する島津軍に乙津川辺りで五十名ほどの兵で奇襲攻撃を仕掛けさせた。

逃げ惑う島津軍に対して、さらに寺司浜の松林には鉄砲隊が待ち構えており一斉に打ちかけた。

妙林尼はこの間に島津軍に抵抗する国人衆を手引きしていたのである。

この襲撃で薩摩軍が三百ほどが無残にも討ち取られたといわれるが、このとき武将野村文綱は流れ矢を胸に受け負傷しながらも日向国・高城まで逃げ延びたが傷が元で命を落としたとされる。

この高城の地は、奇しくも妙林尼の夫鑑興がかって討ち死にした土地でもあったのだ。

鶴崎城を奪還した妙林尼は、翌日薩摩軍の主立った武将の首級六十三を臼杵城の大友宗麟の下へ届けた。

これには大友宗麟は腰が抜けんばかりに驚いたことであろう。

その後の妙林尼の消息は不明である。

不運にも主家の大友家が滅び、妙林尼の子の吉岡統増も浪人となってしまう。

妙林尼が必死に守った鶴崎城もその後廃城となってしまうのであるから、何やら空しい成り行きである。

妙林尼は鶴崎城下の領民の命を守った恩人としていまでも地元では尊敬を集めているのだが、ここで撤退する島津軍を追撃するという彼女の所業はいささか過酷だったようにも思える。

和睦して城下の領民の命が保証されただけでも由とすべきではなかったのか。

敵対する相手と一旦和気藹々とした交流を持ちながら、一方で相手の裏をかくとは仏門に帰依する者としては余りにも非情過ぎるのではないかとも思う。

一方でそうせざるを得ないような状況そのものがあったのかも知れないし、まさに壮絶な殺し合いが当たり前の戦国という時代のおぞましさが現れている展開という気さえもする。

何故に妙林尼はそこまで非情になったのか。

この背景には、豊後に侵攻してきた島津軍の戦争捕虜に対する扱いが関わっていた可能性が大いにある。

そのことが特に豊後の戦場では島津軍優位の状況が続いたことで、侵略された側には重くのし掛かってきていた。

鶴崎城の攻防戦は特異な事例に過ぎない。

この間にも島津軍の人狩りが豊後領内では執拗に続いていた。

九州各地では早くから海外との奴隷取引がされていたことで、当然のようにこうした侵略された土地では奴隷確保の人狩りや異教徒狩りといった過酷な侵略行為が多発していた。

それが戦国時代の戦争経済の実態であり、九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした略奪と侵攻とを続けていた。

豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

当時の豊後地方での人狩りによる戦争捕虜の扱いについて、宣教師ルイス・フロイスが詳細に記録している。


「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、味方勢力として大友に合力した連合軍でさえも豊後領民を人狩りしていたことになる。

もとはと云えば豊後の大友氏も同様に他国(宗像)の捕虜を交易港で奴隷として売っていた。

そのため豊後周辺の交易港には、海外からも人買い商人が集まってきていた。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

妙林尼は己の目の前の戦いが終息したとしても、最後まで豊後領民が拉致されていくことに我慢できなかったはずである。

薩摩軍への抵抗そのものはそうしたところから出たと云うことにもなる。

後日妙林尼の武勇を耳にした天下人豊臣秀吉は妙林尼に是非会いたいと伝えたが、妙林尼はそれをあえて辞退したという。

このとき妙林尼は、豊後の地より薩摩軍の人狩りによって連れ去られた領民が元の土地に戻されるよう申し添えたとも云う。

そしてこれは薩摩が秀吉に降伏した際に、あらためて豊後の領民を戻すよう薩摩に秀吉から命令書が出された。


妙林尼のその後の消息は不明であるとした。
またどこでその最後を遂げたのかも不明である。

しかしながら妙林尼の消息について奇遇とも思える個人的な出来事があった。

戦国時代、当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する別府湾に面したまさにこの鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(初代宇田国宗)として知られていたが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後のこの地に移り棲んできていた。

現在も現地には国宗という地名と国宗天満神社だけが唯一残こされている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、天正14年(1586年)12月の鶴崎城攻防戦がすぐ目の前で勃発したのであった。


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まさに目と鼻の先である。

先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも鶴崎城に至る直前の道筋にあったため島津軍との最初の戦場になった。

おそらく鍛冶場は一瞬にして戦場と化し、すべては灰燼に帰す被害を受けたはずである。

昭和50年当時まで当方の先祖の墓地は鶴崎にあったのだが、突然新しい幹線道路建設によって立ち退きをせざるを得なくなった。

そこですべての墓石の移転が必要になり、一つずつ市役所の方と墓碑銘を調べていったのであるが、古い墓石になるとまったく判読できないものもあって、どうにか江戸と明治のものは読めるがそれ以前の何基かは判読不明のものが出てきていた。

それらの墓石で気になるものがあった。
年代のわからない古い墓石に「釈尼妙林」と記されているものがあった。

「釈尼妙林」とはあの妙林様と何らかの関係があるのだろうかと、あれこれ考えてみたのだが手元に何の記録も残っていないので事実関係は一切わからない。

「釈尼妙林」とは浄土真宗のいわゆる法名であるから、当地のお寺があの妙林様と同じ法名の複製をむやみに造り出すわけはないわけで、ここらはまったくの謎である。

「釈尼妙林」が実際に妙林尼の法名なのかどうなのか、そしてそのような墓石が何故に当家の墓地内にあるのかまったく謎であり不思議でもある。





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ラベル:奴隷貿易
posted by モモちゃん at 07:30| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする