2014年02月15日

古代の巨大地震と古地図の謎

幻の古地図と巨大地震伝説


少年時代、父親の故郷(大分市)に行ったとき、海に沈んだ島の話を聞かされたことがあった。
それはずっと昔、別府湾にあった瓜生島という大きな島が、地震と津波によって一夜にして海に沈没してしまったと いう伝説であった。


これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後にまとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。
実は二十年ほど以前より水中考古学が日本でも注目されるようになっ て、海中や水中の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。


こうした動きの中で瓜生島伝説が注目され、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も日の目をみるようになったわけである。  写真は別府湾
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驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。
これは本当に驚きであった。

単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたのである。


瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の慶長元年(一五九 六)といわれる。

瓜生島は府中(大分市)の西北三・三キロのところにあったといい、東西三・九キロ、南北二・三キロ、周囲十二キロの島で あったという。(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)
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戸数は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町があり、多くの船が各地から出入りして活気があったという。
島には恵比寿神社や威徳寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮かぶ風光明媚な島の風景が広がっていたのではいかと想像される。


この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって一夜にして海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後と記録されている。
島の住人の大多数が犠牲となったわけである。


このとき由布岳や対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府 湾に降り注いだともいう。
対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。


このとき山が二つに裂けたともいい、もしかしたらそれは山頂が2つある由布岳のことかも知れない。
写真は由布岳
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火山活動を伴った直下型の大地震と津波とが瓜生島周辺を直撃したということになるのだが、これと同時期に京都や近畿でも大地震が発生している。

こちらでは余震が数カ月間も続き、豊臣秀吉の居城であった伏見城でも建物が倒壊し六百余人、堺でも六百余人 の圧死者が出ているから、西日本全体に及ぶ大災害の時期であったことになる。


当時の有名な話として、朝鮮出兵で石田三成らの讒言で秀吉の怒りを買って謹慎中の加藤清正がこのときいの一番に駆けつけ腰の抜けた秀吉を助け起こして大いに面目を施したということである。


古地図をみると瓜生島のすぐ北に、久米島という島があるが、この島 も同じ地震によって前後して壊滅したといわれている。
現在の別府湾の様子からは、想像しがたい巨大な自然災害に襲われたことになる。

ところが瓜生島沈没の経緯は伝聞がいくつも錯綜していて、しかも明確な文献資料が乏しいこともあって、正確な歴史情報とはいえない部分もあるという。

驚くべき天変地異だけに、当然周辺諸国や正史にも詳しい記録があってもいいと思うのであるが、地元にだけにしか瓜生島の伝聞が残されていないというのは不自然というべきかもしれない。


災害直後に為政者による何らかの作為があったかもしれない。
事実、それまでの領主であった大友家は秀吉によって咎められ潰されてしまう。

二十年程以前郷土史の資料を調べていたとき、偶然同じ九州の地で一夜で陸地が海に沈んだという謎の巨大地震伝説に遭遇した。

これも瓜生島同様、突発的な地震によって引き起こされた九州地方の大災害であったのであるが、これは時代的にはさらに古く千三百年も以前の出来事ということになる。


この地震自体はわが国最古の地震記録として「日本書紀」や「豊後國風土記」にも、わずかではあるが記されている。
「是の月に、筑紫國、大きに地動く。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動く夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家即に全くして、破壊るること無し。家の人、岡の崩れて家の避れることを知らず。但し會明の後に、知りて大きに驚く。」『日本書紀』天武七年十二月是月条


「飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」                                 『豊後國風土記』日田郡五馬山条


「日本書紀」の天武七年(六七九)十二月の条によると、この月筑紫 の国に大地震があり、幅六メートル、長さ九キロメートルにわたり地割 れが発生し、山崩れにより多くの家屋が倒壊したと記述されている。
ここでいう筑紫とは古代九州の筑前・筑後をさすものである。


大地震そのものはわが国の正史に上記のように確かに記述はあるが、実はこのときの地震情報はこれだけではなかった。

当時の筑後の国には、当初十二郡があったといわれている。

ところが、このうちの二郡がこの天変地異ともいうべき大地震によって、一夜にして大地が広範囲に壊滅しそのまま海に没してしまったという驚くべき記録が地元には残されていたのだ。 (鷹尾神社古文書など)


それらの古文書によると、九州最大の川である筑後川の河口のすぐ南 に、河南郡、河北郡の二郡が沖端川を挟むようにして広がっていたといい、それぞれ八百三十町余、四百三十九町余の田地面積があったと伝えられている。

現在の久留米市や大川市、柳川市、三瀦郡、山門郡の一帯が該当することになる。(地図参照)
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災害の状況は史料の記述によると、長雨によって筑紫一帯の地盤がゆ るんだところに直下型の大地震が発生して陸地が陥没し、そこへ有明海 の海水が一気に流れ込んだものと考えられる。


この河北郡・河南郡の沈没については「日本書紀」以降の正史にもまったく触れられていないが、地元のいくつかの古文書には、二郡を含む広大な陸地が海没した大事件として地震災害の実体が、そのように記述されていたわけである。


有明海に面した地域はいわゆる土砂が長年堆積してできた陸地である。
地面を掘るといきなり砂の層があって、やがて粘土や水分を含んだ泥土層が出てくるところが多い。

大正4年当時筑後地方で出版された渡邊村男著「邪馬台国探見記」(柳河新報社刊)という希コウ本には、この河北郡・河南郡の位置が折り込まれていた筑後の地図上にはっきりと明示されていた。
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ところが不思議なことに、肝心の河北郡・河南郡の歴史や由来についてはまったく書中では触れられてはいなかった。
当地の重大事件でありながら、どうしたことかそれこそ一行も記述がなかった。


当地を歴史探索していく過程で、著者の渡邊村男は河北郡・河南郡の沈没事件を知り、しかも当地の関連史料も目にしたであろうにまったくこれに触れないで済ませるということがむしろ尋常でないことのように思えてならない。


おそらくは編集過程で削除せざるを得ない検閲などの事態に遭遇したのではないか。
だとするとこの河北郡・河南郡の名称と位置とを地図上に記載することだけで済ませたのではないか。


これにはなんとも言い難い、当時の抑圧された歴史的背景がそれとなく覗えるものであった。
まさに、これは秘すべき歴史であり、タブーともいうべき歴史の領域なのである。

そういうこともあっていまでは、この伝説の存在を地元でも知る人は皆無に等しい。
郷土史の研究 によって、史料が発掘整理されてきたのはここ数十年の間ではないかと思う。


瓜生島と筑後二郡の海没事件は奇しくも、「別府天草地溝帯」という特異な地形地質の上で発生したものである。

このことは、最近の雲仙・普賢岳の災害状況や久重系・硫黄山の火山 活動と比較しても、この地溝帯の存在は今後も無視できないものがある。


近年の発掘調査の過程で古代の地震による噴砂現象や液状化現象が確 認され、「日本書紀」に記述されている筑紫の大地震の実態が明らかになってきている。
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    posted by モモちゃん at 08:33| Comment(0) | 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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