2014年02月15日

日本では徐福伝説はおとぎ話なんですよ


謎の徐福渡来伝説の核心部分に迫る


徐福研究会,邪馬台国 『肥前州古跡縁起』によると、秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老不死の薬を求めて童男童女七百人をつれ、海流に乗って九州北部の筑後川の河口、現在の佐賀県諸富町寺井の津に漂着したという。

中国の「史記」にも、徐福が童男童女各五百人づつ連れて出航したことが記されている。(「史記」・准南・衡山列伝より)
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いまから2千百年ほど以前の出来事であるから、日本の弥生時代が始まる以前の縄文の時代ということになる。

徐福は大陸の最先端技術と技術者、それに年若い男女を連れて渡来してきたという。

さしずめ移民開拓団というところであろうか。

筑後川の河口といえば地理的に有明海沿岸であるが、九州渡来説の多くがここを中心に集中している。
あたかも徐福の大船団が続々と有明海に入り込み、次々と上陸していったというような連想を抱くのに充分な迫力がある伝承記録の一つである。

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たとえば同じ佐賀の早津江川の河口にも同様の上陸伝説が残されている。

ここでは徐福一行が盃を浮かべて上陸地点を占ったというので、「浮盃」の地名があり、さらに上陸して佐賀市の北方にある金立山を目指して進む途中、潟地(ガタ)に足を取られるため千反の布を敷いてその上を歩いたというので、そこを「千布」というようになったという地名伝説が残っている。

さらに、その上陸地点からそう遠くない佐賀市北方の「金立山神社」では徐福がそこの縁起としても祭られている。

上陸に際して易を立てたり占うということは、当時の神仙思想の影響の下にあった徐福らの置かれた状況を考え合わせると、至極妥当な古代中国の方士の行動様式であったと思われる。

しかも上陸して進むのにわざわざ千反の布を敷いたということは、当時の地質学的資料からみても十分に頷ける話でもある。

先史時代、現在の佐賀市周辺は満潮時には海面下となり、干潮時でも有明海沿岸特有の潟地であったといわれており、そのまま歩いて進むなどということはまずもって不可能な状況であったろう。

有明海沿岸の潟地を知らない人は、海岸ということでおそらく白砂青松の砂浜をイメージするであろうが、有明海沿岸のガタ地というものはいわゆるヘドロ状の泥濘の湿地帯のことである。

足で踏みしめることの出来る砂地とはまったく異なるものである。(写真は筑後地方の神社に奉納されている海人一族の像)
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船から上陸するにも、そのままでは足腰がガタにぬかり込んでしまうわけで、どうしても板状のものをガタの上に敷いて踏み渡って行かざるをえなかったはずである。

有明海沿岸部のガタ地の多くは、古代からの継続的干拓工事で相当な地域が広範囲に陸地化されてきたものである。

表面は陸地に見えても地下に岩盤がないために、基礎工事用の杭などを打ち込むとそのままズブズブと沈み込む様子をよく見かける。地下数メートル下には、いまでも泥濘状態の地層部分が残っているというわけだ。


佐賀県金立山から有明海沿岸に沿って福岡県側に入ると、県南部の八女市山内というところに徐福渡来伝説の地として知られる「童男山の古墳」という史跡がある。

ここには、徐福の渡来船団が難破して漂着した際に一行の童男童女を助け出したという伝説が残っていることで有名である。

「童男山の古墳」では、焚き火をして、難にあった彼らをふすべて蘇生させたという伝承に由来する興味深い伝承行事も、毎年1月に地元の小学生らが中心になって行われている。

ここは地理的には、海岸から20km以上内陸に入った地点に位置する。地図参照

そこより北方に位置する筑紫野市天山の山腹には「童男童女の岩」と呼ばれるものがある。

これは徐福が渡来したとき一行の船を、その大岩につなぎ止めたという伝説に由来する。
ここも有明海沿岸からは内陸に50km程はいった地点になる。地図参照


このように伝説にいう上陸地点や伝承遺跡の位置関係を一つづつあげてくると、天山や八女の山内という地点というのはどうしにも不可解であるといわざるを得ない。

それらに共通していることは、伝説の上陸地点が余りにも海岸から内陸部に入り込み過ぎていることである。
それも山間部に近いのである。

どうして徐福の船団が山の麓までたどり着けるのか。
たとえ嵐で打ち上げられたとしても、そこまで船が上ってくるということは考えられない。

つまり、もっと海に近いところに上陸ポイントがあってもいいのではないかということである。

それらが上陸地点といわれても明らかにこれらの地点は海岸部から離れすぎている。

現在の九州地図に重ねてみると、これは歴然としてくる。

上陸地点そのものが、20km〜50kmも海岸から船を引き上げてきたというような矛盾はどうにも否めない。

ここに所詮伝説は伝説に過ぎないという、安直な結論付けがなされてきたことの理由がある。

何故に、徐福の上陸地点はこうまでも内陸部でなくてはならないのか。

伝説を評価しようにも、これでは渡来地点の地理的位置関係そのものに大きな疑問点が出てくる。

かって、江戸期の儒学者の貝原益軒も徐福の渡来地伝説を調査したのであるが、その際この不可解とも思える上陸ポイントの矛盾に遭遇し、徐福伝説は虚説であると断じたのも無理はない。

事実、この謎ともいうべ徐福渡来の矛盾点が解明できなければ、渡来伝説の謎解きそのものは一歩も前には進むことは出来ないことになる。

たしかに徐福渡来伝説には大きなロマンがあるが、それを伝説のままに事実として押し通すには無理があるというべきであろう。

そのようなこともあって、個人的には徐福伝説への関心は次第に薄れていったのも事実である。


ところが、渡来伝説を再び思い出させるような謎ときのヒントが偶然もたらされた。

それは昭和五十五年四月二十七日付けの「読売新聞」紙上に発表された「九州古代地図復元」の記事と、昭和五十七年五月二十日付けの「三千五百年前の九州北部」の二つの記事であった。

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これらの記事は当時の九州大学工学部真鍋大覚助教授が発表されたもので、各地のボ−リングでのハイガイ化石調査による放射性炭素年代測定よって解明、作成された古代九州の詳細な地形図であった。

「三千五百年前の九州北部」という詳細なデータは、いろいろな意味で九州の古代史を再検討させるのに十分な画期的な新説であった。


その内容は
1.博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた。
2.福岡平野,筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった。
3.島原半島は雲仙岳をいただく大きな島だった。

──という調査内容は、私にとって非常にショッキングな情報であった。(右の地図参照。黒い部分が陸地)
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私はすぐに徐福渡来の上陸地点とこの地形図を対比してみた。 
現在とは大きく異なるこれらの複雑な地形と海岸線に、上陸地点を重ねてみると意外な結果が出てくる。
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博多湾と有明海がつながっていたことと、海岸線が現在よりずっと内陸部にあったことなどを考えれば、伝承されているすべての上陸地点は古代の九州北部の地形図にみごとに符合するではないか。

徐福渡来の2千2百年前なら、侵食によって平野部がさらに広がり海岸線は移動していたはずである。
有明海特有の5,6メートルを超える大きな干満の差を考えると、平野部の大半はまさに「クラゲナス、タダヨエルクニ」であったであろう。

徐福渡来の約百年後に編纂された中国の「史記」にも、その渡来先が湿地帯の平原であったことを明確に指摘している。

童の男女三千人を遣わし、之に五穀の種子と百工をおくりて行かしむ。 徐福、平原廣澤を得て止まりて、王となりて帰たらざりき 」(「史記」・准南・衡山列伝)


これで渡来伝説の上陸地点についての当初の地理的矛盾そのものは、まずは解明されたことになる。

このことについてさらに考えれば、たとえ後世において徐福渡来時の上陸地点が創作されたものであったとしても、このような古代の複雑な地形の変動データまでも考慮した上で都合よく渡来伝承を用意するということは到底考えられないことではないだろうか。

何らかの意図があって後世のために古人がそれほどひねくった謎解きを周到に用意するはずもなく、むしろ九州人が古代の伝承情報をしっかりと守り続けてきていたことの証になるはずである。

このことから、九州徐福渡来伝説の信憑性は格段に高まったと確信している。


リンク:徐福研究会

『参考文献』












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    posted by モモちゃん at 08:43| Comment(0) | 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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