2014年02月15日

侍医・掛かりつけではなく、江戸のお抱え医師の話

侍医( お抱え医師)って知っていますか
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侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師をいう。

昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にその時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味するものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人はこのような掛かり付けというより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。

と、堅苦しい感じで紹介すると息苦しくなるが、庶民にはまったく関係のないことだけに何と言うこともない。

話は単純である。王室直属の専属医師団のことである。

チャングムやホジュンのテレビドラマを観ておられたら、その辺りはご存知であろうと思う。

日本の天皇家の侍医団の場合は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる(体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっていた。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高かった。

現代の皇室の医師団も同様である。


侍医ということでまず思い出すのは曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門である。

初代道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療して効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられた。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我 が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。

曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。

文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害を命ぜられたが、このとき玄朔は秀次の侍医として側に仕えていたということで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くことになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日で治癒された。

このとき玄朔は天皇に灸治療を勧めたが、その先例がなくついに許可されなかったという経緯があった。


戦国の大名で、侍医集団の充実にもっとも力を入れたのが徳川家康であった。

彼は多少太り気味ではあったが、日ごろから養生に努め健康管理には殊のほか注意を払っていた。

家康自身が医術・本草学に詳しかったことは当時のいくつかの記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師までも召し抱えていた。

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さらに天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一流の京の医師を揃えていたし、他に武田家に仕えていた板坂卜斉、片山宗哲などの名だたる名医が侍医として傍近くに控えていた。

家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの医師に対しては常に新しい医学知識の習得に努めさせていた。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研究するといった家康の積極的な対応にみることができる。

たとえば朝鮮の『東医宝鑑』を入手すると直ちに、侍医らに読ませていることでも分かる。
そうした海外の医学情報にも敏感であったわけである。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで医家として仕えることを命じた。

ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出るわけがない。

なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子弟が目立ちはじめたのである。

事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事である。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった思い切った対応策を講じた。

奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕するという決まりであった。

毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであるが、実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いということで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、頭を低く垂れて前傾したままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。

このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の伝統的診察法であったが、実際のところどれほど機能したか疑わしい。

これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持っていたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。

奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあって幕府の医療行政を統括した。

これを医家の名門半井・今大路両家が世襲したのである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられてい たし、アルバイト料が莫大であった。

慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも千両が届けられ、つごう二千両が薬礼となった。
これが先例となって、これ以降奥医師の薬礼としては千両が通例となった。

千両とは莫大な金額である。

当時の1両の価値はというと、一両あれば普通の一家がゆったりと生活できたということから考えればいかに莫大な金子であるかが分かるはずである。


このように侍医の待遇がよいのは、その責任の重大さと無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の眼疾の治療に失敗してしまいそのときの医師団は即刻処刑されたのだという。

まさに命懸けの職責であったのである。










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    posted by モモちゃん at 08:48| Comment(0) | 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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