2014年07月04日

島原の乱・反乱勢の鉄砲二千丁による最後の抵抗(17)

幕府側12万5千の猛攻(17)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

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何故に日本最強の鉄砲軍団といえるのか


東洋医学史研究会
宇田明男





●反乱勢の鉄砲二千丁による抵抗

幕府からは乱鎮圧のためまず上使として御書院番頭の板倉重昌(三河・深溝藩主)を派遣したが、篭城した反乱勢と対峙したまま容易には攻略することが出来ずに1ヶ月以上経過していた。

この間にも九州諸藩からは続々と精鋭の軍兵が送られてきており、原城を囲むようにして布陣し板倉の指示に従って攻撃を仕掛けていた。

だが何度かの総攻撃も反乱勢の巧みな鉄砲攻撃にその都度撃退され、幕府側は攻めあぐねていたのである。

これに号を煮やした幕府側はついには第二陣として老中・松平伊豆守信綱を援軍として派遣する事態となる。

まさしくこれでは幕府の初動時における差配そのものの失敗であり、幕府の権威丸潰れの様相を呈したのであった。

幕府上使役の板倉重昌は京都所司代であった板倉勝重の次男であるが、父親の勝重はかって村山等安の息子、ジョアン・パブロおよびペドロを京都で処刑しているわけで、役目柄とはいえここでも反キリシタン側としての因縁が絡んでくることになる。

松平信綱が到着する直前の1638年1月1日、立場上窮地に追い込まれた上使板倉重昌は手勢の兵を率いて決死の城突入作戦を敢行する。

これに呼応して諸藩も追随して次々と攻撃を仕掛けた。
板倉重昌は死を覚悟し自ら先頭に立った壮絶な吶喊攻撃であったが、反乱勢の激しい反撃で忽ち額を打ち抜かれてあえなくその場で討ち死にして幕府方は敗退してしまう。

 (注:4)乳下を射抜かれて戦死したという説、反乱側が投げ落とした大石に潰されて即死したという説がある。このときの辞世の歌「新玉の 年の始めに 散る花の 名のみ残らば 先駆と知れ」が残されている。

これは「百姓一揆」を殲滅すべく果敢に攻撃を仕掛けたところ、意外や意外幕府側総大将がいの一番に敵の銃弾に打ち抜かれて敢無く討ち死にしてしまったということである。

これは前例のない、それこそ前代未聞の椿事であった。


それも討伐軍は闇雲に槍、刀で力ずくで攻め寄せ、それを相手の反乱軍が新式鉄砲で果敢に応戦するというおかしな戦闘図式である。

この戦闘での幕府側の戦死者は4000人、対する反乱勢側の死者はわずか90人ほどであったとされる。(「徳川実記」)

短期決戦状態であって、一方的にこれだけの兵を一度に失うような戦いはそうざらにあるものではない。

敵に勝る兵力で攻め寄せながら逆に壊滅的打撃を蒙ったということは、そこに何らかの圧倒的な戦力の差、もしくは攻める側に作戦指揮上の重大な欠陥があったということになる。

こうして見るとそれまでの強引なだけの討伐軍側の攻撃は、ことごとく反乱勢の火力に蹴散らされてしまったのである。

幕府はここにきて反乱勢の巧みな西洋式戦法と2千丁の圧倒的な鉄砲の火力とを見せつけられたことで、ようやく事の重大さに気付いたのである。

こうなると誰もこの戦いを「百姓一揆」を相手にしているなどとは口にしなくなるのである。

それこそ幕府精鋭軍団が「百姓一揆」を相手にして無様に惨敗したとは言えたものではあるまい。

この事実を見ても、幕府方が対戦している相手がただの百姓一揆勢などではないことは明白であろう。

相手が討伐軍さえもはるかに凌駕する強力な戦闘力を持っているわけだから、どうみてもこれは未曾有の大乱であって、彼らが対峙しているのは反乱軍勢力という認識に立つべき状況であったと言わざるを得ないはずである。

ましてや天草・島原の乱を百姓一揆などと決め付けるのは、それこそ姑息な歴史的欺瞞でしかない。


ようやくここに至って、幕府も慌てて九州諸藩より急遽さらに増援兵力を集めて一気に総勢12万5千もの軍容に拡大した。

次々と兵站を大量投入するなどこの戦に費やされた軍事的エネルギーそのものの規模は、かっての関が原の合戦や大坂の陣どころの話ではなくなってくることになる。

それまでの国内で繰り広げられてきた戦闘様式とは異なる、まさに西洋式の異国のキリシタン勢力を相手にしているという認識に立つべき戦闘であった。

十数万の軍兵が衝突した大規模な戦闘といってもその戦死者の数だけを単純に比較するなら先年の関が原合戦は短時間で終結して、その犠牲者数も7000人ほどのものであったはずである。

根底からしその戦闘規模が異なるわけである。

篭城した原城内の反乱勢の士気はたかく、その中心となる戦闘要員そのものは実質8千人規模であったといい、これに対して実に15倍近い幕府方兵力が原城周辺に続々と攻め寄せていた。

反乱勢は僅か8000人余りの戦闘員でありながら、幕府側討伐軍を迎え撃っだけの力を養っていたということになる。

20世紀のランチェスター戦略の戦闘シュミレーションモデルや軍事理論を持ち出して逐一検証したとしても、これはそれをはるかに凌駕する驚くべき戦闘能力である。

とにかく反乱鎮圧にこれだけの大規模な軍勢を投入した合戦記録がありながら、歴史上はそこらの一揆扱いとはまったくもって笑える話である。

鎮圧軍には要員として近郊の農民も多数駆り出されていたわけで、それこそここでは農民が農民一揆を攻め立てる側に付いていたのかというおかしな展開も出てくる。

少なくとも地元九州人の感覚としては、天草島原の乱が単なる百姓一揆であったなどとは到底思えないところではある。

この稿続く









参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著




















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    ラベル:島原の乱
    posted by モモちゃん at 08:29| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする