2014年07月06日

原城攻撃にオランダ船がついに参戦(18)

原城攻撃にオランダ船の勇姿(18)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

早々と幕府方の弾薬が不足してしまい、ついには原城の反乱勢攻撃にオランダ艦船の力を借りる事態となる


東洋医学史研究会
宇田明男

●ついにはオランダ艦船の手を借りる

kanon幕府方は原城攻撃において弾薬が早くも不足し始めていた。

反乱勢の猛攻に対抗するには大量の弾薬が必要であったのだが、意外にも幕府方に参加している諸藩にさえそれだけの十分な備蓄がなかった。

手を拱いた幕府方は1月11日、平戸のオランダ商館に大量の火薬を発注したのであるが、これだけでは足らず、続いて2月15日には破壊力のある大砲の搬送を急遽要請したのだった。

ついにはここで大型の火器を投入する事態となったわけである。

幕府からの急な要請に対してオランダ商館側は陸戦に対応する大砲は用意できなかったので、仕方なく手元にある艦載砲を搬送することとなった。

このときオランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルは、「私たちが所有する最も大きい大砲を与えた」とその対応状況を報告している。

2月19日、巨大な船砲五門(ゴーテリング砲)は2隻のオランダ船で平戸より搬送され、ようやく島原の海岸に陸揚げされた。
(右の画像は、当時のカノン砲とゴーテリング砲)

このときクーケルバッケルの指揮するオランダ船デ・ライプ号とベッテン号の2隻の艦船は、討伐軍から反乱勢が篭る原城への艦載砲による砲撃を要請された。

ここにきて貧農集団の内乱に対して、わざわざ外国の手を借りての攻撃まで決断せざるを得ない事態となったということである。


「十日、海上より鉄砲を具へて賊城を撃たしむといえども、舟小さく城高くし て、意の如くならざるなり。ここの於て大船を探求せしめ、幸い阿蘭陀 大船平戸沖に在り。阿蘭陀人に課して其の船を漕送せしめ、賊城に向い 石火矢を放たしむ」(『嶋原天草日記』)と記録されている。

この要請が松平伊豆守信綱のとっさの判断であったのかどうかは不明だが、この決断には相当な覚悟がいったことであろう。

どちらにしてもこの辺りは幕府側の切羽詰った焦りが窺えるところである。

オランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルはどこまでも沈着冷静な人物であって、彼はこの攻防戦を注意深く観戦してその都度適切な助言を幕府方に示していた。

彼はこの幕府側の攻撃要請を了解すると、その直後の2月24日から3月12日まで15日間に渡って洋上のデ・ライプ号から砲撃し続けた。

そしてこのときデ・ライプ号に装備された全16門の積載砲からは、426発の砲弾が凄まじい轟音と共に次々と反乱勢が篭る原城に向かって打ち込まれたのであった。
(注:5)全15門、全弾425発という説もある。


このときの積載砲(船砲)はすべて海戦用のカノン砲であり、今回のような攻城戦には不向きであった。

幕府に対してクーケバッケル艦長は、陸戦用の臼砲ならば効果的な攻撃は可能だが、艦砲だけでは不可であり、また分厚い土塁に対して実体弾での艦砲射撃は効果が少ないということを当初より伝えていたという。

当時のカノン砲はオランダ製であり、ゴーテリング砲といわれる大砲はイギリス製であった。



オランダ商館の艦船がここで攻撃を請け負ったのは当時のオランダ独立戦争(1568〜1648年)と無関係ではなかった。

この時期ヨーロッパではネーデルラントのプロテスタント勢力が、カトリック国スペインの支配から脱するため反乱を起こしていたからである。

松平伊豆守信綱はこの海外情報を幕府重臣としてすでに耳に入れていたわけである。

それこそクーケルバッケルからみれば、彼ら反乱軍はイエズス会の傭兵部隊の反乱そのものにみえたはずである。

篭城している反乱軍がカトリック系のキリシタン信徒であれば、ここは一矢報いるべきとオランダ人クーケルバッケル艦長も判断したことは確かであろう。

oran当初より島原の反乱勢とローマ教皇(もしくはイエズス会)との間には内乱が起こればカトリック教国(ポルトガル)から援軍を送るとの密約があったという説があり、すでに松平信綱にもこの情報は伝わっていた。

このことが当初より反乱勢は知らされているからこそ篭城戦に持ち込んで激しく抵抗し続けているとして、幕府側は苦肉の策としてオランダ艦船による攻撃を要請したのだともいう。 (注:6)後日、オランダ商館長ニコラス・クーケルバッケルは江戸幕府より原城攻撃を賞賛された。

ヨーロッパでのオランダ独立戦争の影響がなかったなら、カトリック教国からの援軍も実際にやって来たかもしれないところである。

しかしながら、ちょうどオランダ独立戦争の最中であったことから、オランダからみれば航海中のポルトガル船は格好の攻撃目標でもあった。

結局のところたとえ反乱勢からの援軍要請が事前にあったとしても、この時期にカトリック教国から軍船を派遣できる状況ではなかった。 (注:7)島原の乱と同時期に、インドのゴア沖でポルトガル船とオランダ船の間で激しい海戦があったとされる。

反乱勢の当初の目論見は失敗したことになる。

オランダ艦船による原城攻撃は、そうした援軍が来ないことを篭城し続ける反乱勢にはっきりと見せ付ける意味もあった。



この稿続く


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著




















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    タグ:原城攻撃
    posted by モモちゃん at 15:20| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする