2014年07月07日

島原大乱・原城陥落に至る90日間の攻防(19)

地獄絵図と化した原城総攻撃(19)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

悲劇の主役は、一体誰だったのか
何故に、ここにきて兵糧攻めなのか
生き残っていた3千人の女と子供もすべて皆殺し



東洋医学史研究会
宇田明男




●悲劇の主役は、一体誰だったのか?
デ・ライプ号とベッテン号は原城に向かって全弾を打ち尽くすと平戸へと意気揚々と帰還していったが、反乱勢はこのオランダ艦船による連日の砲撃にもよく耐え抜いた。


篭城している反乱勢から「日本国中にしかるべき武夫の何ほども候わんに、和蘭人の加勢を乞うこと、如何なることに候や」と揶揄した矢文が、幕府側に放たれたのもこの時のことであった。
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 このように反乱鎮圧に外国艦船の応援を求めること自体恥であったが、対する幕府方はそれほどに無様な戦闘体勢しか取れなかった。(右は毎日新聞・服部英雄氏記事)
それほどまでに反乱勢との圧倒的な火力の差を見せ付けられたわけである。


一説によるとこのときすでに幕府方の兵力は総勢16万にも達していたという。


初戦時の主な兵力数は、板倉重昌300、松平信綱900、松平長頼10、鍋島光茂35000、細川忠利23500、黒田忠之27000、小笠原長次6000、有馬頼錦7500、島津1500、水野勝成8000、立花6000となっている。
最終的な幕府側の軍容は以下の通りである。

幕府派遣軍 上使 - 板倉重昌 800人 (従軍者:柳生清厳)
上使 - 松平信綱 1,500人
副使 - 戸田氏鉄 2,500人
諸大名 備後福山藩 - 水野勝成・水野勝俊・水野勝貞 5,600人(九州以外からの唯一の参陣)
筑前福岡藩 - 黒田忠之 18,000人
筑後久留米藩 - 有馬豊氏 8,300人
同柳河藩 - 立花宗茂・立花忠茂 5,500人(従軍者:立花政俊、安東省菴)
肥前島原藩 - 松倉勝家 2,500人
同唐津藩 - 寺沢堅高 7,570人
同佐賀藩 - 鍋島勝茂 35,000人
肥後熊本藩 - 細川忠利 23,500人
日向延岡藩 - 有馬直純(有馬晴信の子) 3,300人
豊前小倉藩 - 小笠原忠真 6,000人 (従軍者:宮本伊織、高田吉次)
同中津藩 - 小笠原長次 2,500人 (従軍者:宮本武蔵)
豊後高田藩 - 松平重直 1,500人
薩摩鹿児島藩 - 山田有栄(島津家家臣) 1,000人
そのほか - 800人
総計 125,800人(「オランダ商館日記」によると士卒80,000)



動員した兵の数は揃ってはいたが、こうした内乱に人海戦術だけで臨まざるを得なかった幕府の威信は惨憺たるものであった。


幕府方はそれだけ多くの兵力を投入しても反乱勢側の鉄砲による猛攻にはどうしても正攻法では落とすことが出来ず、攻めあぐねて結局ここに至って兵糧攻めという戦法を取らざるを得なかった。


幕府としてもこれ以上の犠牲を諸大名に強いることはできない状況にまで追い詰められていたというべきかも知れない。


それにしてもこの間の戦闘に反乱勢が90日も持ちこたえたということは、それだけ彼らの装備する鉄砲の威力が当初から凄まじかったということに他ならない。


何故にこれほどまでにキリシタン反乱勢が多くの鉄砲を装備しているのか、何故にこれほどまでに鉄砲による戦に手慣れているのかといった疑問を幕府は持ったことであろう。


討伐軍の陣営は反乱勢の手強さというものをこの攻防戦では幾度となく思い知らされていた。
幕府だけでなく討伐軍の間には執拗に抵抗し続ける反乱勢に言い知れぬ恐怖感さえ抱き始めていた。


この島原での大乱の攻防の様子は遠く京、大坂にも逐一伝わっていて、篭城戦とはいえ反乱勢の巧みな銃撃戦と次々と狙撃され撃ち取られていく幕府方の攻城戦をわざわざ見物に訪れた者も少なくなかったという。


見物人が押し寄せるほどの未曾有の激戦としても当時の人々の関心を集めたのである。


しかし原城に篭城した反乱勢には限界が来ていた。
反乱勢は兵糧を食いつくし飢餓状態に陥っていることを探知した幕府方寄せ手は、2月28日に満を持して最後の総攻撃を掛け城内に次々と斬り込んでいった。


討伐の上使、松平伊豆守の息子であった甲斐守輝綱(当時18歳)の『島原天草日記』:「続々群書類従」)には次のように記述されている。
「廿七日、(中略)既に廿六日攻城の計謀に合わす。然れども廿五六両日相続 きて雨降る。この故議して廿八日に限定す。諸手の竹柵は敵城に近く、 其の間僅か五間計り。(中略)伊豆守直ちに戸田左門の仮屋に至り、列 陣の御譜代衆を集め、暫く閑談有り。然る処、鍋嶋信濃守の備より城を 攻めしむ。他備の士卒これを見て各自相進む。此の時に当り紛□々と雖も、約束既に明らかなるを以て、諸部渾々沌々として錯乱を垂れる。未 剋、出丸並びに二三丸を責取り、酉剋、本丸海手の方を乗取る。
 廿八日、諸手本城に登り入る。悉く火を放つ。賊徒一人として殺害せざるはなし。午上剋、凱歌を唱え、即ち各々仮屋に帰る。


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篭城していた総大将天草四郎もついに討ち取られた。
この最後の激戦での幕府側の戦死者は1100人、負傷者は7000人にものぼったという。


ここで忘れてならないことは、反乱勢と共に篭城していたために巻き添えになって殺戮された犠牲者の中には多くの女子供がいたことである。


輝綱の日記には「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也(訓読:「剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」)」(意訳:女子供までもが、斬殺されるにもかかわらず喜んで死んでいった。これは普通の人間の心境ではあり得ず、いかに宗門が彼らのうちに浸透していたかが分かろうというものだ)とある。(「島原天草日記」:「続々群書類従」)


さらにここで注目しておきたいことは、篭城した反乱勢は飢餓状態で落城した最後の日まで女子供を戦闘員、非戦闘員の区別なく遇していたから落城したとき彼らの多くが城内で餓死せずにどうにか生存していたということである。


厳しい餓死状態の状況の中で最後まで非戦闘員が生存できていたというのは驚きである。


幕府側の総攻撃直前に非戦闘員はその多くが脱出したともいわれるが、ゲリラ的夜討ちをもっとも警戒しているはずの包囲網を潜り抜けて逃れられるほど守りが手薄なはずもなく、まずそこからの脱出は不可能であったと思われる。
戦場であるだけにそこで発見されれば容赦なく斬殺されるだけである。


最終的には天草・島原の乱によって反乱勢の戦闘員はすべて戦死したが、このとき生き残っていた3千人の女と子供もすべて皆殺しということで落城の翌日から三日間にわたって次々と斬首されていった。


まさに凄惨な地獄絵図である。
(注:1)反乱勢側戦闘員 - 14,000人以上(推定)、非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)。総計 37,000人。幕府軍総勢 13万人、戦死者は8000人以上(諸藩集計分)


原城の石垣の多くは破壊され累々と横たわる反乱勢の屍の上に落とし掛けられそのまま押し潰したという。
討ち取られた四郎と反乱勢の首は原城の大手門前で晒された後四郎と首謀者の首は長崎の出島に運ばれ、南蛮人らに対しての見せしめとして7日間晒された。


このときの幕府の処置は事の外厳しく戦場となった原城では散乱した反乱勢の屍は野ざらしのままこの地に10年間放置されたという。


幕府は天草島原の内乱に呼応して引き起こされる同様のキリシタン信徒による反乱をこれ以降も日本全土で警戒した。
それと同時にキリスト教国が内乱に乗じて侵略してくることをもっとも恐れた。


それだけにこのときキリシタン信徒へ向けられた幕府側の憎悪そのものには熾烈なものがあった。
九州での未曾有の反乱を鎮圧はしたが幕府の受けた財政的痛手は大きく反乱鎮圧に要した戦費は約40万両にも及んだ。


これは当時の幕府年間歳入の3分の1が投入されたことになる。
まさしく動員された兵員や軍事的規模からしても国内最大の大乱であったことが認識されよう。




この稿続く










参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著




















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    ラベル:天草島原の乱
    posted by モモちゃん at 10:53| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする