2014年07月11日

島原騒擾・不都合過ぎる文化遺産なら捨て去ればよい

不都合すぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(20)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

長崎代官村山等安の忘れられた足跡とは
不都合過ぎる文化遺産とは何か


東洋医学史研究会
宇田明男






●キリシタン村山等安一族の足跡

島原半島は、当時北目地区、南目地区、西目地区の三地区に分けられていたが、島原半島の島原湾岸を二分して島原の水無川より北を北目、水無川より南を南目と呼称していた。

sima1 西目は、千々石・小浜・北串山・南串山・加津佐・口之津・南有馬の7村があった。

南目と西目地区には反乱の主体であったイエズス会系のキリシタン集落群が多かったという。

北目地区は、後から布教活動を始めた「托鉢修道会」といわれるドミニコ会とイエズス会とが布教活動でもっとも激しく競合した地区でもあった。

現在の島原市周辺の北部地域を含むことになる。

ドミニコ会は、1602年、薩摩の甑島で最初の宣教活動を行っていた。

彼らは薩摩本国へも渡り、甑島と川内の京泊で宣教し布教の足がかりを固めていった。

1606年には京泊に「ロザリオの聖母聖堂」を建立したが、1609年にはいると深刻なキリシタン迫害が発生し宣教師は薩摩から追放された。



1609年、鹿児島から逃れて長崎で布教し始めたドミニコ会のモラーレス神父らは、当初より長崎代官村山等安による手厚い支援を受けることが出来た。

まずその活動拠点となる教会(サント・ドミンゴ教会)の建設用地を長崎勝山(現崎市勝山町30-1・桜町小学校内)に提供されたのであった。(注)サント・ドミンゴ教会は、日本における江戸時代初期の教会遺跡として評価され、世界遺産暫定リストに掲載された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の文化財の1つとなっている。

これはドミニコ会にとって最大の恩恵であった。

サント・ドミンゴ教会建設当初の様子をモラーレス神父は次のように書き残している。

「よい土地を手に入れ、直ちにそこで薩摩から持ってきた教会を組み立てました。これは日本ではたびたび行われることで、家が組み立て式になっていますから、大きくはあるけれどもこれを取り壊してどこへでも運び、それを再び極めて容易に組み立てます。わずかの間に一つの修道院が出来上がり、小さいけれども都合よく、すべて事務室・寝室・中庭があり、その中庭で修道院と同じように祈りの行列が行われました」。(MORALES, El principio, fol.89v.)


ドミニコ会は、迫害され追放された直後ということもあって、当時は経済的にも困窮していた。

長崎の地で宣教事業に取り組むにもそれ相応の活動資金が必要であったが、彼らにはそうした余裕はまったくなかった。

経済的にも困難を極めた状況で長崎周辺の強固なイエズス会教区で新たに布教していくにしても、始めての土地ということもあってまず宗教的摩擦や妨害が大いに懸念されるところであった。

だが幸運なことにここにきてドミニコ会は村山一族の全面的な庇護と多くの経済的支援とを得られることとなった。

これには長崎代官村山等安の妻でキリシタンであったジェスタ・村山や息子達の働きかけが大きかったのだという。

おそらくそれは事前に千々石ミゲルによってドミニコ会に関しての何らかの宗教上の情報がもたらされていたからではないだろうか。

後から宣教活動を始めたドミニコ会はイエズス会とは異なり平民階層や貧民の間に彼らの教義を広めていくのと同時に慈善的事業にも積極的に力をいれていった。
これを妻ジェスタ・村山が全面的に協力した。

長崎代官村山等安の長男のアンドレス(徳安)・村山は新しいサント・ドミンゴ教会に対して多くのことを気遣い、「教会にぜひご聖体を置いていただきたい。なぜなら長崎には数多の教会があるけれども、そのうちのひとつ(イエズス会の教会)を除いてはご聖体がない」(MORALES, De Andres Toquan...)として、それらを喜んで用意したという。

村山一族によるドミニコ会に対する援助そのものはそれほどに周到に準備されていたし、他と比較しても破格のものであった。

記録によるとこのとき教会に必要な立派な聖具(聖櫃と銀製の聖体顕示器、ランプ)、燈火を燃やし続けるための費用や教会番人の手当てに至るまで、その費用一切を等安がことごとく負担したとある。

長崎代官村山等安がこれほど熱心にドミニコ会の教会を支援した理由はジェスタ・村山からの要望に応えたということもあるが、布教活動においてドミニコ会がイエズス会とは激しく敵対していたことも無関係ではなかった。

等安は常に宗教的な迫害を嫌ったし、行政官としても当初より慈善活動には関心があった。
当時の長崎には孤児や食い詰めた浪人や多くの難民が流入してきていた。
それにも行政官の等安は目を向けていたということになる。

彼とてかっては浪人の身でこの長崎に流れ込んできていたのだから、彼らの境涯は十分知り尽くしていたはずである。

それだけにキリシタン信徒として村山一族は、こうした清貧な托鉢修道会の活動姿勢と教義に深い共感と信仰の拠り所を得たということになる。

その一方で等安は従来より近隣のキリシタン勢力の武装化を懸念していただけでなく、そうした不穏な動きの背後にイエズス会が深く関わっていることを知っていた。

そこにはイエズス会のアジア戦略ともいうべき日本侵略の野望が隠されていることをも等安は目敏く見抜いていた。

等安は1600年代初頭には、イエズス会そのものを戦略的な一種の軍事組織と見なしていた。

そうしたイエズス会勢力の影響力を削ぐためにも、彼らに対抗する別会派の托鉢修道会のドミニコ会やフランシスコ会の存在は重要であったのだ。


oyayubi村山一族による経済的支援もあって瞬く間にドミニコ会は本格的な布教活動が展開できる体制が整っていった。

長崎における有力者村山等安の絶大なる人気と財力が背後にあったことはドミニコ会の布教上の力となったことは言うまでもないが、こうした等安の熱心な支援活動が顕著になるにしたがってイエズス会側の反感が徐々に大きくなっていく状況は避けようがなかった。(右は東京国立博物館蔵品:長崎奉行所由来のヨハン・シドッチ神父所持品・「親指のマリア」)

当然のことであるが、イエズス会の宣教事業を正面から妨害する長崎代官村山等安は彼らから見れば極悪人であって早急に排除すべき宗教的反逆者であり続けていた。

ここからイエズス会による長崎代官村山等安排除の陰謀が密かに画策されることとなる。


対する村山等安の狙いはこれらの地から旧来の戦闘的なイエズス会勢力を一掃して穏健志向のドミニコ会の教区に刷新することであり、一族の力を結集してますます支援を強めていった。

天草や島原では南蛮人渡来とともに戦争捕虜や異教徒狩りの奴隷取引が行われるようになっていたが、これらの取引の中には貧民の口減らしによる人身売買も少なくなかった。

長崎代官村山等安は宗教間の派閥争い以前の問題としてこの地域に染み付いたそうした悪習そのものをどうにかして排除したいと考えていた。

だがこの問題には多くの人買商人や貿易商も関わる取引が絡んでいるだけに彼一人の力で容易に解消できるものではなかった。

あえてここでは犠牲となった奴隷の海外での処遇をキリシタン信徒に知らせていく必要があった。

たとえキリシタンが迫害を避けてこの地から海外渡航しても決して自由が保障されるようなものではなかった。


このとき等安にとって最大の懸念は長崎周辺でのキリシタンによる騒擾の勃発そのものであった。

そのために等安はかねてより騒乱や内乱の火種をこの地から取り除こうと、事前に二重、三重の対策を講じて防ごうとしていたのである。

長崎代官村山等安が見る限り長崎やかっての大村や有馬のキリシタンが浸透していた領内には不穏な空気がそこここに漂っていた。

すでに幕府による幾度ものキリシタンへの禁令や弾圧が繰り返されており、新領主による苛政でも多くの領民が追い詰められていた。

ここでもしもキリシタン勢力が荷担した騒擾が一旦発生してしまえば、すべてのキリシタン信徒は幕府によってたちまちのうちに抹殺排除されることは火を見るよりも明らかであった。

何としてでもそれだけは避けたいと等安は一心に考え続けていたことであろう。

長崎の街中に溢れる浪人や武装集団を一気に削減する手立てとしてそれも行政上の方便としての台湾遠征計画を持ち出したのは苦肉の策であったかもしれないが、長崎周辺の治安を守る上ではまずは成功したというべきであろう。

多くのキリシタンが集まる長崎周辺を戦乱に巻き込むことは極力避けなくてはならなかった。

だがその危険性は、すべて払拭されるようなものではなかったのだ。

等安ははっきりと人前でイエズス会やパードレを手厳しく批判した。

長崎代官としての立場からまたキリシタンとしての最後の方向付けを試みたのであろうが、イエズス会との確執から等安自身はやがて悲劇的な最後をとげることとなる。




この稿続く



参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
















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    ラベル:長崎代官
    posted by モモちゃん at 10:04| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする