2014年07月15日

島原騒乱・長崎での前哨戦マードレ・デ・デウス号事件(23)

削除したいキリスト教関連文化遺産とは何か(23)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

長崎マードレ・デ・デウス号事件とは何か
カピタン・モール(船隊司令官)のアンドレ・ペッソアの長崎来航

東洋医学史研究会
宇田明男



●長崎・マードレ・デ・デウス号事件の発端




南蛮と日本側との間ではこうした水面下での対立が繰り返されていたのだが、これに追い討ちを掛けるような大事件が長崎の湾内で発生した。


この事件によって両者の確執は決定的なものとなった。


その発端は1608(慶長13年)、元キリシタン大名の有馬晴信の朱印船がポルトガル領マカオ(阿媽・あま)に寄港した際に、酒場でマードレ・デ・デウス号(別名ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号)の船員と乱闘事件を起こしたことにあった。


このとき60名近くの日本人水夫が殺害されその積荷まで奪われるという大事件に発展していたのである。
この海外での屈辱的事件の知らせを朱印船の生き残った乗組員から聞いた有馬晴信は激怒し証人を伴って幕府にも訴え出ていた。


もとはといえば有馬の朱印船は、将軍家康が香木の伽羅を求めたのに応えて占城(チャンパ=今のベトナム・ホーチミン)方面へ派遣されていたものであった。


有馬は、このとき家康から銀子六十貫目(1800両相当)を託され、高価な伽羅の買い付けを依頼されていたのである。


このことが絡んでいたこともあって、この事件発生以降マカオを拠点としたポルトガルとの対外交易の情況はより複雑な局面を迎えていた。


事件の顛末が重臣本多上野介正純を通じて家康へ報告されると、家康は激怒してその南蛮船を討つよう有馬晴信に命じた。

有馬晴信はマカオやルソン方面の南蛮の動向と情報とをしきりに探り始めていた。


そのような経緯があった翌年の慶長14年2月、突如としてこの殺害事件の当事者であったカピタン・モール(船隊司令官)のアンドレ・ペッソアが、大型船のマードレ・デ・デウス号(九百トン)で商取引のため長崎に来航したのである。


忌まわしい事件があったこともあって同様のポルトガル船は1607年、1608年と日本への渡航はなく、三年目にしてようやく長崎に入港したのであった。




このときアンドレ・ペッソアはマカオの最高責任者である総督も兼務していたのであるが、彼は従来より中国の生糸貿易をポルトガルが独占し続ける立場を主張して日本人がマカオに寄港することを禁止しようとしていた。


それまでにもマカオの商人は交易による利益を独占しており、日本への生糸輸出量を一定量以下に制限して商品価格を故意に吊り上げていたのである。


幕府や日本人貿易商は、そうした独善的処置に以前より強い反感を抱いていたのは言うまでもない。


長崎の港湾内を監視していた長崎代官:村山等安は、遣手で知られる長崎奉行:長谷川左兵衛と共に直ちに有馬にデウス号入港を知らせた。


季節風を待ってのデウス号の出航までには相当期間あったのであるが、この間に幕府との綿密な遣り取りが繰り返され対応が協議されたのであった。



galleon


来航当初アンドレ・ペッソアは幕府に対して有馬の朱印船に関わる事件の申し開きを望んでいたようであるが、直接の交渉の場にあった長崎奉行:長谷川左兵衛がそれを故意に引き延ばし妨害し続けていた。


結局幕府側のペッソアへの対応は強硬姿勢のままであって、事態の推移は深刻度を増していくばかりであった。(右図は当時の大型のガレオン船)


おそらく長谷川左兵衛と村山等安とはこの船が拿捕されることにでもなれば、ポルトガル商人やイエズス会に相当な経済的ダメージが及ぶことも事前に予測していた。


彼らの元へは今回のアンドレ・ペッソア来航についての多くの情報がもたらされていた。

マカオでの事件のこともあって有馬晴信は、アンドレ・ペッソア来航を聞いてすぐさま兵を集め始めていた。


何故ならば、幕府側は相手との交渉の場で最終的にはデウス号の積荷の引き渡しを要求する手はずであったからである。


これまでの強硬な態度からみてカピタン・モール(船隊司令官)のアンドレ・ペッソアが交渉の場で譲歩するはずがなかった。


積荷引渡しなど、到底相手が呑める条件ではないことは最初から分かりきったことであった。


船隊司令官ペッソアが武人である以上、幕府側の要求に対しては武力をもってしてでも抵抗するであろうと交渉の席にいる長崎奉行も村山等安も考えていた。



すでにきな臭い情報がやり取りされていたのである。


むしろそうした方向へ事が進むように彼らはしきりに動き回っていたというべきであった。


幕府側からみればこのときの状況そのものはポルトガル商人やイエズス会勢力を抑え込む絶好の機会と捉えていたであろうし、外交を司る長崎奉行もそのような意図で動いていたとしても何ら不思議ではなかった。


当時の長崎奉行は老中に直属する遠国奉行の一つであって、幕府直轄領長崎の支配のほかに長崎での外交交渉、貿易による幕府上納を含む財政運用、西国全域のキリシタン禁圧の施策、さらには長崎警備、抜荷取り締まり、海警の指揮および銅、海産物などの集荷流通管理などにまでおよび、その管掌は多岐にわたっていた。


当初は城持ち大名がこの役職に就いていた。
天領長崎での軍事行動の差配そのものは長崎奉行が掌握していたから、今回の事件の前面に交渉相手として長谷川左兵衛が出てくることは当然のことであった。


長谷川左兵衛と長崎代官の村山等安とはここではまったく利害関係が共通していたし、ペッソアへの対応策も意見が終始一致していた。


奉行ならびに代官までが同じ立場を採るとなると、これより先の流れはすべてが確定したも同然であった。


利害関係ということでさらに詳しく言えば、マカオ事件に遭遇した有馬の朱印船には奉行である長谷川左兵衛も多額の出資をしていたのである。


結局のところ長谷川左兵衛自身も多大な経済的損失を直接被っていたということになるわけで、心情的にも有馬同様の強硬策に同調していたことは容易に察せられるとことろである。


そういう経緯もあって有馬と長崎奉行との協議の場でも始めからペッソアに対して武力による強硬策が持ち出されていて、密かに戦闘の準備が着々と進められていた。


しかもその裏では奉行とペッソア双方が腹の探り合いが続いていて肝心の荷揚げや貿易交渉といった通常の商取引は一切進展しないまま放置されていた。


幕府は有馬晴信を通じてペッソアに幾度か江戸への召喚命令を出したが、彼は警戒してこれにはまったく応じようとしなかった。


ペッソアも目の前の交渉相手がデウス号の積荷を狙っていることにようやく感付いたのである。

ペッソアの表情は終始こわばったままであった。



幕府側とペッソアとの交渉は何度か繰り返された。

そしてついにペッソアが動いた。


ここにきてペッソアはいきなり逃走を図ったのである。


次第に緊迫してくる港湾内の状況から自分らに危機が迫って来ていることを察したペッソアは、デウス号の出航を命じるとそのまま帆を揚げて逃げるようにして港外に漕ぎ出し始めたのである。



ペッソアは不利な状況をみて長崎港からの脱出を決行したのであるが、このときのペッソアには決死の思いで長崎港から脱出しなければならない隠された理由があった。


だがここで港外に向かって出航するにしてもデウス号のような大型帆船は風がなければ自由に航行できない。
ペッソアにとって状況は最悪のままであった。






この稿続く。


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著











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    posted by モモちゃん at 16:22| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする