2014年07月18日

島原の乱への道筋・消されたキリシタン迫害史(27)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(27)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

裁かれるキリシタン村山一族
村山等安、徳安処刑される

東洋医学史研究会
宇田明男




●裁かれるキリシタン村山一族


1618年、末次平蔵に訴追された村山等安は将軍秀忠によって長崎代官職を罷免された。


代官職罷免に至る経緯は劇的であるのだが、同時に非常に複雑な展開があるのでここでは割愛する。







結局、村山等安は陰謀絡みの告発によって、長崎の代官職から引き釣り下ろされたのだった。


1618年10月末、この訴追の合間に新たに長崎代官に就任して長崎に舞い戻った末次平蔵と盟友長崎奉行・長谷川権六は、早速その強権を行使して厳しいキリシタン取締を実施していった。


ここより等安後の長崎におけるキリシタン弾圧の様相を少し紹介したい。


まず大きな変化として、長崎周辺に潜伏していた宣教師が次々と捕縛されだしたことであった。

ここでも真の狙いは、村山等安一族の徹底した身辺探索であった。


ここで宣教師一人を密告した者には、銀の棒30本を褒賞として与えるという布告が出された。


長谷川権六は、それまで緩めていた網を手元へたぐり寄せるようにしていよいよ獲物の絞り込みに掛かったのだった。
長崎に隠れ潜んでいた神父が幾人も捕まっていった。


そこでは捕縛した神父の日本人付き人に拷問を加えて情報を得たし、必要なら度々買収も行われた。


ついに1619年3月15日、奉行所の捕り方は等安の長男アンドレス徳安の屋敷に匿われていたドミニコ会のモラーレス神父を発見し、その場で捕縛する。


(注:1)モラーレス神父(1567〜1622)は1602年にマニラからドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来し京泊(薩摩)周辺で布教に従事していたが、1609年、迫害によって長崎に逃れてきていた。1614年11月、幕府によって他の宣教師と共に日本を追放されたが、あらかじめ待機していた小舟で再び長崎に舞い戻ると、長崎代官:村山等安の長男・徳安の屋敷内にそのままかくまわれていたのだ。
徳安の家で逮捕され多直後は長崎牢に入牢、8月8日には大村の鈴田牢に移送された。 翌年3月25日には壱岐島の牢に移送されたが、牢内からも手紙や使いの者を介して神父として使徒職を遂行した。 1622年9月10日、長崎の西坂の丘で弱い火で火炙りとなる。
1867年7月7日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。



このとき当主の徳安は不在であったが、妻マリーアは直ちに夫に急を知らせて呼び戻した。


神父を匿っていた徳安もそのまま拘束され奉行所に連行された。(この時点では、徳安の妻マリーアはまだ捕縛はされなかった。)


この結果、村山等安同様、禁令を犯した長男の徳安一家も厳しく罪を問われることとなる。






●村山・アンドレス徳安、ついに処刑される


末次平蔵の訴えと申し出によって、等安自身は将軍秀忠から長崎代官職を罷免されすでに甲斐へ追放されていたのであるが、さらに幕府の天領下でのこれらの法令違反は重罪であるとして、元和5年(1619年)11月16日ついに等安らに厳しい死罪の裁断が下された。


11月19日、はじめに長男の徳安が長崎で火刑に処せられ、三男の長安一家は京都で斬首、12月1日には村山等安本人が江戸で斬首されてしまう。


このように処罰が進められた一方、長崎でも等安の妻や一族が次々と捕縛され、村山等安の屋敷と財産は役人によってすべて没収された。


その結果、一族13人が連座して罪を問われ、下はわずか2、3歳の幼子(等安の孫)までもが刑場に引き出されて処刑されるという痛ましい悲劇が起こる。


ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、等安の家族について次のように書き残している。


「等安は誠実な妻ジュスタと結婚して先ず次郎八(徳安)という名の息子をもうけた。次に現在サン・アントニオ天主堂ミサ司祭主任代行司祭をしているフランシスコ(仲安)をもうけ、やがて長安という三男が生まれ、今はこの妻との間に息子が八人か九人、娘が二人いる。成人した子供達はみな誠実で善良なキリシタンであり、年少の子供達は美しく愛らしい」


また、サント・ドミンゴ教会の修道師の記録には次のようにある。
「これらの徳の高い兄弟が最も心を配っていたことは、長崎の教会を増大することでありました。教会のあった時代にはたびたび教会に行ったし、教えの組ロザリオの組に顔を出して、総ての人々に立派な模範を示しました。迫害の時に当たっては常に諸パードレを何処に如何に匿うか、過酷な迫害に対して、如何にすればキリシタンが耐えていくことが出来るかということを、彼ら兄弟の間で相談し努力していました。また数多くの問題について父親に協議しましたが、代官としてまた父親として説得に努めたのでしょう。子供達は父親の援助と努力によって数多くの問題、特に聖行列や前述の教えの組の諸事を立派に果たしました」


捕らえられていた等安の長男アンドレス徳安の処刑が決定した直後、11月14日に長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵らは江戸から長崎に意気揚々と到着した。


16日には捕らえられている者たちに刑が申し渡され、19日に火炙りの刑に処せられた。


このとき処刑されたのはアンドレス徳安だけでなく、パジェス「日本切支丹宗門史」には、「長崎代官長谷川権六は四人の宿主、すなわちドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主村山徳安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主吉田秋雲、オルスッシ神父とヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父の宿主コスメ武谷、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主、ポルトガル人でサン・ドミニコの第三会のドミニコ・ジョルジを犠牲者として選んだ。」
とある。

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元和5年(1619年)の長崎でのこの火刑による大殉教の様子が油彩画で描かれて残されている。


このときの処刑は、当時としてはもっとも厳しい火刑であって、村山徳安を含めて5人の殉教者を出している。


この400年近く以前の事件は長崎中のキリシタン宗徒にとっては衝撃的なものであり、当時の火炙りによる処刑の様子が歴史絵画として記録されている。


ここでははっきりと特定できないが、画像に描かれている5人の殉教者のうちもっとも左側の人物がアンドレス村山徳安なのかもしれない。(画像は元和5年の大殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)


当時すでに捕縛され入牢していたパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレス徳安が役人の取り調べにおいて、「私はキリシタンであり、私自身および人々の霊の救済に努力してきた。それだから人々を救済に導くことを仕事としているパードレを私の家に置いたのである」、と答えたということが記されている。


アンドレス徳安の言葉には、最後まで命を賭して神父を護ろうとする決意がいかに強固なものであったかが示されている。


さらに彼は処刑当日に、モラーレス神父に対して次のような手紙を書き送った。
「尊師のことが原因で、いま私が神への奉仕を終わることを深く尊師に感謝致します。マリーア(妻)とパプロ(長男)を尊師(の祈り)におまかせします。神のお恵みにより天国に於いて、尊師のためにキリストと聖母およびドミンゴに祈りましょう。 十月十二日(1619年11月18日) 村山アンドレス・トクアン」


処刑される当日、彼は白装束を身につけ妻のマリーアや兄弟、親族に別れを告げた。


徳安と妻マリーアの間には、この年に生まれた長男パプロがいたが、マリーアは幼いパプロを抱いたまま刑場まで付いて行った。 (注:2)村山家文書によると、パプロは母マリーア・村山の殉教した後、病死したという。



パードレ・モラーレスのアンドレス・徳安の処刑に関する書翰の最後には、次のように書き遺されている。
「彼の霊は焔によって清められ永遠に神の御恵みを受けるために天国へ昇りました。時に1619年11月18日。
直ちに人々が遺体を引き取りに行きましたが、それが出来ないように、完全に焼かれて灰のみが残っていました。キリシタンはそれを集め、著名な殉教者の聖遺品のようにこれを尊敬の念を以って保存しました。彼の妻マリーアは息子のパプロを抱えて、この聖なる光景の場にずっといましたが、神が見守り給うが如くに聖なる死を夫が遂げるのを見つめていました。心に神の御恵の深きことを喜び、大きな幸を得る希望を抱いてそこを去りました。それから間もなく、彼女は俗世を棄てるため髪を切りました」










削除されなければ、この稿続く。




参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学







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    posted by モモちゃん at 18:33| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする