2014年07月19日

島原動乱劇・キリシタン村山マリアの公開処刑の衝撃

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(28)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

キリシタン弾圧の時代と元和大殉教
キリシタン村山マリーアの殉教


東洋医学史研究会
宇田明男






●忘れられた長崎「元和の大殉教」


村山一族の事件に続いて、この直後の元和8年(1622年)8月5日に長崎においてカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された、いわゆる「元和の大殉教」が起こる。


長崎奉行所、長谷川権六によって捕縛された神父や修道士、老若男女の信徒キリシタンであったが、禁令を犯して聖職者らを匿った者たちが処刑の対象であった。


これは日本のキリシタン迫害の歴史の中でも、一度に最も多くの信徒が同時に処刑された事件として知られている。
この大殉教に至る背景そのものには、背教者トマス荒木の働きが深く関わっていた。


この事件の直前にトマス荒木は、宣教師の日本への潜入を果敢に阻止して捕縛に成功していた。


これに対してキリシタン信徒らは、捕らえられた宣教師を密かに脱獄させようと企んで牢内に潜入するという事件が発生する。


この救出劇は結果的には失敗して捕まってしまうのであるが、その際に計画の首謀者であったドミニコ会のコリアド神父の国外脱出を手助するなどして彼らは幕府に対抗姿勢をみせていた。


長崎だけでなく各地からのこうしたキリシタン組織の動きは細大漏らさず幕府の三浦按針(ウィリアム・アダムス)の耳に入っており、さらには将軍秀忠にも逐一報告されていた。


このような大殉教にまで発展してしまったのは、執拗に禁令を犯し続けるキリシタン宗徒や宣教師の活動がついには将軍秀忠の逆鱗に触れたからであった。


このときの秀忠のキリシタン信徒に対する処置は特に厳しく、牢に捕らえられている禁令を犯した宗徒や宣教師全員を即刻処刑するように命じたのである。


9月始めに長崎のキリシタン宗徒の入牢者たちに処刑命令が幕府から下された。
処刑当日は土曜であったので、死を覚悟した殉教者等は前日の金曜に大斉して共に聖歌を歌って最後の準備をした。


9月9日宮崎牢を出た一行22名(大村組)は大村湾を船で渡って長与に上陸し、長崎の浦上で一泊し翌10日早朝、刑場のある西坂の丘(現・長崎市西崎公園)に向かって整然と並んで歩いていった。


西坂の丘は戦国末期の秀吉の時代から幾たびも処刑場として使われ、キリシタン信徒が罪人として処刑されてきていた場所であった。


同様に長崎の桜町牢(現・長崎市水道局)からも、処刑されるキリシタンたち33名(長崎組)が西坂に向かっていた。
彼らの移送中は特に厳重な警戒体勢がとられ、周囲には護送の武装した刑吏が約400人ほどが手配されていて物々しい雰囲気であった。


しかも受刑者の各々に一人ずつ刑吏付き添い、頸にかけらた縄をしっかりと保持したまま移送していった。
沿道では早朝にもかかわらず多くの長崎の住民が移送される彼らに祈りを捧げ、刑場まで後から付き従ってきた。


多くのキリシタン信徒らが処刑されるということで人々の関心が西崎の丘に集まったのであるが、当日は長崎周辺の住民が3万人も詰めかけ刑場周囲の高台の山々にまで人が満ち溢れたという。


刑場となった当時の西坂の丘は海際であったので、夥しい小舟が海側から張り付くように丘の周りにこぎ寄せられ様子を見守ったのである。
処刑は、まず手始めに斬刑の者たちから開始された。




●キリシタン村山マリーアの殉教


このときの処刑では、すでに刑死した等安の長男・村山徳安アンドレスの妻であった村山マリーアが神父を匿った罪で刑場に引き出されていた。


村山マリーアの夫もこの同じ刑場で3年前に元和年間の最初の殉教者として火刑に処せられていたし、舅(等安)をはじめ義弟や幼い甥や姪たちもすでに処刑されており、彼女が村山一族の最後の殉教者としてこの刑場に立っていたことになる。



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もとより長崎の住人で、敬虔なキリシタンである村山マリーアのことを知らぬ者はいなかった。


マリーア・村山は、現長崎代官末次平蔵の姪であり養女でもあったが、いうまでもなく彼女も長崎ではもっと古いキリシタンの家系である木村家から出ていた。


マリーアは末次家とも交流のあった、かっての長崎奉行・長谷川左兵衛や後任の権六からも幾度となくキリスト教を棄教するように説得されたことがあったが、それでも彼女自身は最後まで信仰を捨てることはなかった。


マリーアは多くの人々から信頼され愛されていたので、彼女を見知っている幕府の役人までもがどうにかして助命しようとして再三棄教するように説得していたのであった。


この日のマリーアは唯一手元に残しておいた晴れ着を着ており、今日は天国への門出を自らも祝うという心の気高さをみせてしっかりした足取りで牢から刑場までの道を歩いてきていた。


この日、村山徳安アンドレスの屋敷に長期間匿われていたドミニコ会のモラーレス神父もこの同じ刑場に引き出され処刑されることになっていた。


そこではすでに火刑に掛けられる者と斬首される者とが二つの集団に分けられていた。
刑場内で久しぶりに遭遇した者同士がそれぞれに挨拶を交わす様子があったという。


マリーアは、この場で関わりのあったモラーレス神父に最後の別れの挨拶をすることを特別に許されたかもしれない。
処刑直前に書き残したモラーレス神父の書翰には、そのマリーア・村山について次のように賞賛の言葉が記述されている。


「長崎代官(村山当安)の息子(徳安)の妻であり現代官(末次平蔵)の姪であって、あれほどの名誉と栄華の中で生活していたのに、いま彼女が夫のいない甚だしい貧困に満足していること、ただ神の御恵みによってこの苦しみを容易に耐えていることは確かに人々の大きな驚きとなっています」


元和8年8月5日(1622年9月10日)のこの日、長崎の西坂で他のキリシタン信徒とともに彼女は処刑された。
このときマリーア・村山の処刑は、火炙りではなく斬首であった。


同じように斬首された者の中には、カルロ・スピノラ神父を匿って逮捕され、後に処刑されたポルトガル人:ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である幼い4歳のイグナシオや、同じく朝鮮人信徒アントニオの婦人マリアと息子のペトロ3歳も含まれていた。


キリシタンの処刑としては火刑がもっとも厳しい処刑法であったが、ここで火刑になったのは神父、修道者といった聖職者や修道会の主立った指導者たちであった。



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火刑に処されたのは25人で、その中には村山徳安アンドレスが匿っていたモラーレス神父を始めドミニコ会の神父5人、修道士2人、ロザリオ会員3人、イエズス会の神父2人、修道士6人、フランシスコ会の神父2人、指導的信徒3人と、さらに長崎の「修道会の母」と敬われた80歳の日本人女性キリシタン、ルシア・デ・フレイタスが含まれていた。


(上図は元和の大殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)


「元和の大殉教図」を見ると壮絶な処刑の当時の様子がつぶさに見て取れる。


他の史料と付き合わせても刑場の情景が細部まで正確に描写されていて、実際に現場を見た者が描いていることが頷けるものである。


描かれている刑場全体は竹矢来の組まれた囲みで隔てられていて、その周りを警護の役人が厳重に取り巻いている。
それを長崎の領民が刑場全体を囲むように遠巻きに取り囲んでいる様子がわかる。


地形は現在の様子とは大いに異なり、当時は西坂の刑場の側まで海が迫っていた。
周りの丘の上や海上に浮かべた小船からも、沢山の人々が刑場を注視している。


画像の左上の刑場の奥まった一角に、あれこれ指図している人物が描かれていているが、おそらくこれが刑の執行を差配する長崎奉行長谷川権六の姿である。


画像中央部分に20数名の聖職者と思しき人物が両手を前で縛られて柱に括り付けられている様子が見て取れる。
周囲の大量の薪の一部に火が付けられていることに注目しなくてはならない。


画像でも分るように、当時の火刑の遣り方は罪人をゆっくりと時間をかけて苦しめるために、焙るように距離をとって焼き始める。


同時に画像の手前では、火刑より先に始められた凄惨な斬首刑が次々と執行されている様子が描かれている。
罪人はみな座らされていて、それを4人の首切り役人がそれぞれに刀を振り上げていままさに振り落とさんとしている様子である。


すでに首を打ち落とされた犠牲者の屍が地面には転がっていて、後ろの晒し台の上にはいくつかの首が並べられているし大地は赤く血に染まっている。


この絵の中には、確かに村山マリーアとモラーレス神父の姿もあるはずであるが、画面上では特定出来ない。
この凄惨な油彩画を描いたのはセミナリヨで南蛮絵画を学んだ日本人修道士である。


彼はこの長崎での元和の大殉教を目にしてその情景をスケッチした後、マカオに逃れてこの絵画を描いたのだという。
このように400年前の大殉教の様子を克明に描いた絵画が現存することも、またそれを目にすることが出来ることも感慨深いことである。


この絵画は宗教画であると同時に、貴重な歴史記録画でもある。


奉行の長谷川権六は、キリシタン信徒が何を尊び、何を大事に扱うかということを知り尽くしていた。
処刑後、他のキリシタン宗徒らが殉教者の遺骨や遺物などを持ち去らぬように刑場を厳重に管理し、三日三晩番卒を置いて守らせたという。


さらに殉教者から剥ぎ取った聖具や、斬首された屍を大きな穴に投げ入れて灰になるまで悉く焼き尽くし、跡形なくその灰までも海中に投げ捨てさせたのだった。


村山一族は何故にこのような大きな犠牲を払ってまでして、長崎の教会やキリシタン信徒を守ろうとしたのであろうか。
そして当時のキリシタンは、どのような信仰心と心情とを抱いていたのだろうか。


彼らの生きた時代は戦国時代がようやく終焉した時期ではあったが、それまで同様人の死は日常的に転がっていたともいえる。


その非情ともいえる過酷な戦国時代を生きながら得てきた彼らの死生観そのものには、現代の感覚とはまったく異なった精神世界が求められていたことは確かであろう。


迫害が酷くなる中でも、村山一族は托鉢修道会のドミニコ会やフランシスコ会の信徒らを最後まで支援し続けた。
そうした信徒たちのほとんどが貧困や病で苦しむ社会的弱者であったし、そこには等安の妻ジェスタや一族が救い出した朝鮮人奴隷や迫害から逃れてきた難民も多数含まれていた。


その多くは一族がキリシタン信仰へと導いていった人々もいたわけで、一族から見れば信仰に帰依する人々を同胞としてそのまま放置することも見捨てることもできなかったということになる。


一族の身の安全を考える手立てということであれば、大きな権勢を持つ彼らなら如何様にも逃れる方策は取れたであろうが、彼ら一族は身を挺して長崎の多くのキリシタン信徒を護ろうと最後まで力を尽くしていたことになる。


村山等安を始め彼ら一族はそのことを信仰の上の試練として、身に降りかかった刑罰をそのまま神の恩寵として受け止めたことであろう。


こうした逼迫した長崎のキリシタン信徒の信仰の様相について、当時の宣教師による年報には次のように記されている。


「多くの信徒はパーデレに宿を貸す事が身の破滅を招くものだと知りながら、このような正しい理由の為に命も財産も投げ捨てるのは、何よりの名誉であると思うほどの勇気をデウスから恵まれた」
これはまさに殉教した彼らのことであった。




削除されなければ、この稿続く。




参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学







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    ラベル:村山マリア
    posted by モモちゃん at 08:55| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする