2014年07月23日

島原キリシタン弾圧・長崎代官末次平蔵の登場(29)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(29)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


村山一族の斬首、殉教者
陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代




東洋医学史研究会
宇田明男




●村山一族の斬首、殉教者


村山マリーアの処刑で、その一族が長崎の地から悉く排除されたかたちとなった。
この処刑に対して敵対するイエズス会は当然冷ややかであったが、長崎の多くの人々はこの尊敬を集めていた家族の刑死に対して歎き悲しんだという。


名前の判明している村山一族の斬首、殉教者と捕縛された者は、以下の通りである。


元長崎代官:村山等安・アントニオ(58歳 1562〜1619)(江戸にて斬首
妻 ジェスタ・村山(旧姓:西)(53歳?・西次郎平衛重友の娘・捕縛)
   長男 徳安・アンドレス(日本名・二郎八・37歳・長崎にて火炙り・殉教)
       徳安 妻 マリーア・村山(旧姓:木村:34歳・末次平蔵の姪・長崎にて斬首・殉死)
   次男 仲安・フランシスコ・アントニオ(35歳・大坂城にて戦死・
   三男 長安(32歳・京都にて斬首・
       長安 妻 カタリーナ(捕縛・娘二人と共に実家に幽閉)
       長安 長男 アントニオ(8歳・京都にて斬首・殉死)
       長安 長女 マリア(2歳・長崎にて斬首・殉死)
       長安 次女 ジュスタ(1歳・長崎にて斬首・殉死)
   長女 長崎・町年寄高木家に嫁いでいた。高木助左右衛門の生母
   次女 アントーニア(捕縛・助命後結婚)
   四男 久四郎・マルエル(24歳・長崎にて斬首・殉教)
   五男 パブロ(21歳・京都にて斬首・殉教)
   六男 ペドロ(18歳・京都にて斬首・殉教)
   七男 ディエゴ(12歳・長崎にて斬首・殉教)
   孫(あるいは八男) ミゲル(11歳・長崎にて斬首・殉死)




村山等安の一族の内、男子はすべて処刑を免れなかった。


だが捕縛され入牢していた等安の妻のジェスタと娘二人(長女と次女)は、処刑されずこの後解放されたという。

このとき村山等安の長女はすでに他家へ嫁いでいた。
次女は助命後に結婚したとされる。



これはジェスタ・村山の実家である西家が、等安の訴追事件直後にその財力と政治力とで幕府に働きかけていたもので、結果的にはジェスタをはじめ村山家の女子2名の助命に成功したのだとされる。


ジェスタは、肥前出身の有力な貿易商であった西類子(にし・ルイス)の家と血縁関係があったと思われるが、詳細は不明である。


西類子も豊臣秀吉治世のころからルソンと長崎の間を渡航し、朱印船による海外交易で財を成したことで知られる。
彼は大村喜前の家臣であったが、南蛮の言葉に通じていたこともあって1607年(慶長12年)、藩主の推挙で徳川家康に謁見し海外経済事情を説明して大いに信任を得たという。


それ以降、西類子はルソン渡航と国内すべての港に出入りする自由を家康より許され、1616年(元和2年)前後に堺に居を構えたとされるが、貿易商というだけでなく当時としては相当な権力も兼ね備えた人物であったようである。
後年にはキリシタンから法華教に改宗したとされる。





●陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代


代官職より村山等安を引き摺り下ろし一族を抹殺する陰謀工作に成功して、その座を一気に奪い取った末次平蔵らはイエズス会や仲間の町年寄(乙名)らと共に祝杯を上げたであろうが、平蔵が手にした長崎代官職の支配権そのものは予想に反してまったく期待はずれのものであった。


支配権には相当の役得(余得収入)があるとみていたところ、実際には村山等安が差配し工面したほどに平蔵は年貢を集めることができなかったのだ。

末次平蔵にとって、これは予想外のことであった。


実は村山等安は幕府に収める年貢の不足分を、自分の家政から工面して毎年多額の補填を行っていた。
貧しい領民のために自腹を切っていたのである。





キリシタンの窮地を救うために、何としてでも活路を見出そうと奮闘し続けた村山一族は、同じキリシタンであった末次平蔵らによって訴追され終には失脚させられた。


逆に末次平蔵らにしてみれば、背教者一族を自らの手で粛清したという確かな手応えがあったことであろう。
戦国時代の気風が色濃く残るこの時代にあっては、力ある者の下克上は当たり前であり、権謀術策を弄して強かに台頭するのは武家一般の習いでもあった。


そのような意味では、いまだ力がすべてを支配する時代でもあったということになろう。
結果的に長崎の領民らは、等安による長崎支配を嫌う平蔵らの勢力がこのように暗躍して彼を抹殺することに反対することもなく、幕府や長崎奉行所の権力を前にして成されるがまま看過してしまったも同然であった。



幕府という強権の前では何の手立ても打てなかったのである。
しかも等安一族に対する幕府の厳しい仕置きを目にすると、たちまち長崎住民のあいだではそれまでのキリシタンとしての彼らへの評価が一変してしまった。


悲劇的結末に終わってしまった等安についてさえも、彼にはもとより人徳がなかったのだとか教会事業に不用意に深入りしを過ぎたからだとかいった風評が巷には流された。


もはやこのとき長崎にはキリシタンを庇護してくれるような権力者は一人としていなかった。


末次平蔵らの策略はそれほどに迅速且つ用意周到なものであって、瞬く間に長崎代官の地位と権勢とは等安から反キリシタンの平蔵へと取って代わってしまっていた。


村山等安の抹殺はイエズス会が裏では巧妙に加担していたものであり彼との長年にわたる確執には勝利したかに見えたが、この事件の影響によってそれまで多くのキリシタン信徒や商人によって活気のあった長崎は一気に衰退していくこととなった。


村山等安が代官職にあったときは彼の尽力によって、長崎のキリシタン信徒への迫害は極力抑えられ殉教者は一人も出なかった。
そこには等安による確かな庇護と政治的根回しとがあったのだ。


だが一旦末次平蔵が代官に就くと、今まで以上に幕府の反キリシタンの意向が強く反映されただけでなく、長崎奉行の長谷川権六らと結託して有馬や大村の地方、それに長崎の町一帯では多くの殉教者が出るほどの峻烈極まる迫害が行われるようになる。


一気にキリシタンを取り巻く状況が激変していったのであった。
今回の江戸での訴追の場で幕府側からキリシタンであるかどうかを問われた村山等安は、自分はキリシタンであると答えた。


同様に問われた末次平蔵は、自分はキリシタンではないと答えた。
結果的にはここではっきりと宣言したことが、両者のその後の命運を分けたということになる。


ついにここにきて村山等安は、長崎代官職を罷免され排除されたのであった。


そしてあらためて長崎代官・末次平蔵と長崎奉行・長谷川権六の両者には、徹底したキリシタンの取り締まりが幕府から課せられることになった。


幕府の意向が働いて各地でキリシタンは捕縛されただけでなく、容赦なく次々と処刑されていった。


それまでキリシタンの末次平蔵と結託し彼を支援してきたイエズス会は、この平蔵の反キリシタンへの豹変振りに驚愕したのは言うまでもなかった。


末次平蔵を背後から上手に操ってきたと考えていたイエズス会は、結果的には平蔵に見事に裏切られたのであった。
それは過酷なキリシタン弾圧として、いままさに火事場の火の粉のように彼らの上に次々と災禍として降りかかってきていた。


この間にも長崎奉行の長谷川権六は、信徒が神父をかくまったり、会合を開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることをすべて厳しく禁じた。


元和6年(1620年)1月以降、長崎を中心にキリスト教関係の施設の取り壊しが次々と始まった。hou


ミゼリコルディア(慈悲の兄弟会)の天主堂や、長崎の教会所属の7つの病院を破却すると共に、キリシタンの墓地を暴き、信徒の遺骨を海や市外に投棄させるなどして彼らを弾圧し続けた。(右は長崎・放虎原斬罪所の碑)


村山等安が援助して建てられた長崎・勝山のサント・ドミンゴ教会はすべて破壊され、その跡地に新たに長崎代官・末次平蔵の広大な屋敷が建てられた。


末次家はこれ以降、4代に渡ってここに居住してその栄華を極めることとなる。


初代末次平蔵は背教者、キリシタン迫害者として、そして代官として長崎に君臨して後世にまでその名を残すこととなる。


そして長崎の過酷なキリシタン迫害、弾圧のすべてに末次平蔵が関わったといわれるほどの反キリシタンに徹した姿勢をしっかりと人々に見せ付けた。


それでも貿易商末次平蔵は、イエズス会と関係が深いポルトガル商人との交易を絶つことだけはしなかった。
むしろマカオとの生糸貿易を主導する貿易商としての優位な立場を終生維持し続けた。


どこまでも利に聡い末次平蔵は、宿敵村山等安と同様に、そして等安をはるかに凌駕する巨富を蓄財して、ついには「西国一の金貸し」とまで揶揄されるほどの裕福な貿易商にのし上っていった。










削除されなければ、この稿続く。




参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学






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    posted by モモちゃん at 15:55| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする