2014年07月23日

背教者不干斎ハビアンは、何故長崎で暗殺されたのか?!(30)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(30)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


村山等安を評価していた背教者不干斎ハビアン
ハビアンは誰に殺されたのか!?
ここで、長崎「不干斎ハビアン暗殺事件」を追跡する



東洋医学史研究会
宇田明男




●村山等安を評価していた背教者不干斎ハビアン


このとき村山等安とその一族の一連の行動を評価し得た人物がいたとすれば、それは長崎に居住していた千々石ミゲルと元イエズス会の日本人修道士であった不干斎ハビアンの僅か二人だけであった。


当時のハビアンはすでに棄教しており、反キリシタンとして長崎奉行所の下で迫害する側に立って活動していた。
不干斎ハビアンとは一体何者であろうか。



それこそ歴史教科書にも絶対に登場しない人物である。


(注:1)イエズス会の修道士となった後、禅僧としての経験により『仏法』を著し、キリスト教を擁護し仏教を批判する論陣を張った。さらに1605年(慶長10年)、護教論書『妙貞問答』を著す。1606年(慶長11年)には林羅山と論争し、当時支持されつつあった地球球体説と地動説を主張した。晩年の1620年(元和6年)にはキリスト教批判書『破提宇子』(は・だいうす:デウスを破却する意)を著した。




不干斎ハビアン(巴鼻庵 Fabian、1565年 - 1621年)は北陸出身の臨済宗大徳寺の禅僧であったが、1583年にキリスト教に入信して大阪・高槻の神学校で学んだ。

当初キリシタンの説教師として活躍していたが、後年棄教して反キリシタンに転向した経歴を持つ。


彼の存在が今なお注目されるのは、キリシタン信仰に関連したまったく評価や立場が相反する2点の彼の著作物が残されているからに他ならない。



fukan01_convert_20130623102636それらの書物は当時の国内の既存宗教とキリスト教を相互に取り上げて比較しつつ、鋭い洞察と批判とを加えてみせるいわゆる宗教比較論の先駆けともいえる本格的な刊行物であった。


戦国末期とはいえ、よくぞこうした著作物が国内で刊行できたというべきであろう。


ハビアンは、仏教諸派、神道、儒教、道教はもとよりキリスト教そのものの教義にも精通しており、宗教問答には抜群の才知を発揮し百戦錬磨の説法師として京坂を中心にその名を知られていた。


幾多の宗教問答から次々と展開される論旨と舌鋒そのものは、他の追随を許さぬほどに研ぎ澄まされ凄烈なものであったという。


当初は既存宗教を切り崩していくキリスト教優位の立場からの問答や論争を独自に組み立てていたが、それぞれの宗教の根幹をなす教義そのものを解釈した上で巧みな論法で比較解体し、そこからさらなる反論を次々と展開してみせるようになる。


圧倒的な論法の下で俎上に上がった宗教を次々と並べ立てて相対化していくというハビアンの独創的な解析手法自体はいずれも明快であり、そこには論理的思考が縦横に際立っていて、それこそ聖職者というよりは宗教哲学者に相応しいハビアンの自由な発想と才智が窺えるものであった。


多少奇を衒う部分があったとしても宗教論をそこまで深めたことは画期的であって、当時を代表する知識人としてのハビアンの懐の深さを充分に見せ付けるものであった。


ハビアンのそうした卓越した教理解析からは、最初に日本の仏教や神道、儒教や道教といった既存宗教が絶対唯一の神としての創造主を捉え切れていない不完全さが鋭い論法で指摘されいく。


さらには仏教の教義が無や空に拘泥する有様を痛烈に批判する。
そしてそこからは、人間が根本的に救済される為の教理そのものが不完全なまま構築出来ていないと決め付ける手厳しい問答形式の宗教論を次々と展開していく。


何故にこれほど多くの日本人が外来のキリスト教に入信していくのか。
そこには根源的に何が求められているのか。


彼から見た地団駄踏むばかりの既存宗教の物足りなさ、曖昧さを容赦なく正面から突いてみせる。


それでいて決して内容は衒学的ではなく、説教者としての大衆へ向けられた平易な論調で分かりやすく解き詰めていく手法そのものは実に巧みとしかいいようがない。


現代の者にも通じる痛快さが感じられるあたりは、まさしく彼の宗教問答の経験が見事に生かされている部分であるといえるであろう。


ハビアンは事実そうした既存の宗教や古典に対する該博な知識を買われていただけでなく、キリシタン説教師として京都の教会内でも特別に高い評価を得ていたはずであった。


そして彼に敵対する既存宗教側さえも、論争の場では彼に一目置いていたのである。


ハビアンは1586年に正式にイエズス会修道士となっていたが、秀吉の伴天連追放令を逃れて九州に渡り大分・臼杵や山口、長崎、加津佐、天草へと移動しながら有能な説教師として活躍していた。


九州は京大坂以上にキリシタンが地域に深く浸透していただけに、彼の活躍の範囲は広がり『天草本平家物語』やイソップ物語などの編纂にも携わる。


1603年(慶長8年)に一旦京都に戻ると1605年(慶長10年)に護教論書として『妙貞問答』を著した。


ところが各地で宗教的実情に触れていくうちに、その後の彼の説教師としての考えや行動は何故か一変する。
1608年(慶長13年)、ハビアンは突如修道女と駆け落ちしイエズス会を脱会するとそのまま九州の博多や天草にまで逃れて、ついにはキリスト教を棄教してしまった。


相手の女性はかっては細川ガラシャが幽閉されたとき側近く侍女として仕えていたキリシタンで、しかもその容姿がガラシャ夫人に非常に似ていたのだという。


これだけでも驚きの展開である。


ここからもハビアンの波乱万丈の生涯が続くこととなる。












参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」釈 徹宗著 新潮社 2009
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学

















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    posted by モモちゃん at 17:53| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする