2014年08月04日

島原大乱・高山右近と村山等安との長崎での最後の別れ(31)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(31)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

誇り高き同志、キリシタン高山右近との最後の別れ
このとき村山等安も死を覚悟する



東洋医学史研究会
宇田明男




●誇り高き同志、キリシタン高山右近との別れ


全国的にもキリシタン弾圧の動きが顕在化しつつあったこの時、高山右近はそれまで加賀前田家の客人として遇されており、そこでは一介の武将として留まっていた。


幕府はかってのキリシタン大名であった高山右近のことを忘れてはいなかった。
国内のキリシタンの動向に目を光らせていた幕府は、その弾圧の矛先を彼にも向けてきたのであった。


そのまま前田家に留まっておれない状況にかねてより苦慮していた右近は、幕府の禁教令を受けてついに意を決して一つの行動を起こした。


人々の引きとめる中、加賀を自ら退去すると他の追放されるキリシタン信徒や修道女300人余りの列に加わったのだった。


京都を経由して一族とも合流し、彼らと共に九州の長崎の地まで移送されてきたのである。


高山右近ら一行は、慶長19年(1614年)の4月20日に長崎に到着し、その後の幕府の処置が伝えられるまで市内の教会に全員収容されることになる。 ukon_convert_20130613085229


かって高山右近がキリシタン大名として奴隷貿易に直接関与したかどうかは不明であるが、このとき彼ら一族が長崎の港から奴隷船とまったく同じ航路を通ってマニラへ渡航することになったのは事実である。


彼ら一行はキリシタンとしての自由の地を求めていたのであろうが、奴隷と同じように遠く祖国を離れていかざるを得なかったことは何とも言えず皮肉な展開ではあったであろう。


右近が長崎に移送されてきたとき、長崎代官としてまた同じキリシタン信徒として村山等安は複雑な想いで収容先のトドス・オス・サントス教会(現在の長崎・春徳寺)に駆けつけたことであろう。


右近は家族とともに追放された内藤如安(丹波守護代)らとも合流したあと、長崎からマニラに送られる船に乗ることになっていたが、このとき村山等安は経済的援助だけでなく渡航に必要な2隻の船を彼らに提供している。


秀吉の下で大名の地位にあった右近は等安とも以前から茶道を通じて交流があった。
右近が長崎まで伴ってきた妻はジェスタという洗礼名であったが、これは等安の妻の洗礼名とまったく同じであっこともあって二人は肝胆相照らす仲であった。


戦国時代にあって高山右近は人一倍猜疑心の強い織田信長や豊臣秀吉の下でも信任を得ていただけでなく、武将として多くの大名からも絶大な信頼を寄せられていた稀有な人物であった。


慶長19年(1614年)9月24日、高山右近らに対して急遽国外追放の命令が幕府より出された。


その直後に、(陰暦9月10日という)最後の別れの挨拶に村山等安の屋敷を訪れた右近は、そこで彼の盟友で茶友でもあった豊前藩主の細川忠興への礼状として「日本訣別の書簡」をしたためたという逸話がある。


出航を待つこのつかの間に等安と右近とは、そのとき共に何を語らったであろうか。


今回の右近らの国外追放には、等安の次男の仲安フランシスコ・アントニオ・村山神父も含まれていた。



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次第にキリシタン迫害が苛烈化する状況にあって、二人はここで始めて心に秘めていた国内での迫り来る騒乱の懸念について触れたはずである。


等安も高山右近ももはや豊臣方と徳川方の衝突が避けられないことと、さらにはそこにキリシタン勢力を巻き込んだ大乱勃発の危険性とをはっきりと認識していたことであろう。


徳川幕府は、かねてより高山右近らのキリシタン勢力が豊臣方に加担して一斉蜂起することを最も恐れていた。


当初は幕府による右近の処刑も考えられていたというが、それに対するキリシタン勢力の反発を危惧して最終的には国外追放の方針に傾いた経緯があった。


直後の慶長19年(1614年)10月2日、ついに豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、徳川方との戦争準備に着手した。


事前に金沢の右近の元へ参戦の誘いは、徳川と対立を深めていた大坂方からも度々あったことなのだ。
高山右近がここで立てば、全国のキリシタンが彼の元へ参集することは明らかであった。


だが右近はそのような形で彼のキリシタンとしての立場が利用され、多くの犠牲を伴う大乱に加担させられることを極度に嫌っていた。


ここで右近が動けば、結果的には多くのキリシタン信徒や彼を慕う遺臣らを戦乱に誘い込むことになるとして、まずそれを回避しなくてはならなと考えていた。


もとより右近はキリシタン宗徒が犠牲になるような騒擾や戦乱を望んではいなかった。
そのようなこともあって、右近は自らこの時を選んでこうした海外追放を選択し潔く受け入れていたのだ。



右近も等安も、もはや戦国の武将としての功名心はまったく持ち合わせてはいなかった。


彼らの前にはそうした野心とは無関係に、命を賭して守らなくてはならない多くのキリシタンの同胞がいたのである。






削除されなければこの稿続く








参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」釈 徹宗著 新潮社 2009
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学

















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    posted by モモちゃん at 16:38| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする