2014年08月05日

島原大乱を予見していた村山等安の決死の行動(32)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(32)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

村山等安の決死の行動計画
そして、高山右近の死



東洋医学史研究会
宇田明男





●村山等安の決死の行動計画・その@

この高山右近のキリシタンとしての毅然とした生き様に、村山等安も同じ武士として大いに感じるところがあったはずである。

何故なら等安自身も一族の命運を賭けて決死のキリシタン救済策を長崎の地で密かに実行しつつあった。

村山等安はこのとき、己もしくは一族の者達の死をすでに覚悟していたことは疑いようのない事実である。

すでに等安の下ではそうした不退転の覚悟で決死的行動計画が進められていた。
その一つとして等安の息子らは、キリシタン救援のための決死的宗教組織を逸早く長崎で立ち上げていた。

それは、彼の次男の仲安フランシスコ・アントニオ・村山が組織した『十字架の組』というものであった。

人々に「平和と愛の精神を教え、最後にいかなる方法でもよいから棄教する前に神のために役立つように死ぬべきことを教えた」と当時の記録にはある。

幕府の反キリシタン政策に真っ向から対抗するこのような動きに、父親として等安自身がどこまで関与し容認したのかは分からないが、最終的な責任と決断は彼がすべて負っていたのは確かであろう。

兎にも角にも、こうした村山家の命運が左右される重大な事態を等安本人が一切知らぬはずはなかった。

時を同じくして、迫り来るキリシタン迫害の大波を前に、右近と等安の二人は似たような境涯に立っていたのではないか。

一方の高山右近は日本を立ち去る決断をし、他方の村山等安は長崎に留まったまま命懸けの行動を起こしていたことになる。

事実、等安は高山右近をマニラへ送り出すとともに、その裏で大胆かつ危険な企てを秘密裏に息子らと画策実行していた。

このことがもし公に露見すれば死罪は免れようもなかった。

村山等安も元をただせば、父方は戦国の尾張織田家の家臣団の出自であった。
右近や等安を含めた当時の戦国武将らは、それこそ武辺の者としての常に命を掛けて行動する矜持を持っていたはずであり、まさにそのような気骨ある者たちが奇しくもこのとき顔を合わせた瞬間でもあった。


彼らのように当時の武士階層が次々とキリシタンに改宗していった理由について、細川家の「忠利公御年譜之内・有馬記」には次のように書かれている。

「彼の宗門は、死を安く(容易に)する事を元とするゆえ、武士の好むべき道なりと、各この宗門を信じけるなり」と。

イエズス会の厳しい規律は、日本の武士道にも通じるとことがあった。

しかも、キリシタンは死者に対しては弔うというよりは最大級の祝福を与えようとして、葬儀自体も華麗で荘厳なものとして人々に認識されていたこともあって、戦場に臨む武士達の死生観ともうまく合致していたのである。

最初に渡来したイエズス会の宣教事業は一般庶民を対象にしたものではなく、多くは大名や武士などの階層を主体としたものであっこともあって、厳しい教義そのものが支配層に急速に受け入れられていった経緯があった。

その代表格が、かってはキリシタン大名として知られた高山右近であった。


この追放によって高山右近は妻子共々、日本を後にすることになる。(1614年11月7日追放)
トリゴーの「日本殉教史」には、長崎の木鉢港を出航し、遠ざかる祖国を見つめる右近一行の最後の様子を次のように記している。

「追放者は、最後まで日本の山河に目を注ぎながら去っていった。彼らの魂はこの国に引きつけられていた」


幕府によるこのキリシタン国外追放に対して、村山等安はここでも驚くべき計画を秘密裏に進めていた。

長崎を出航した1隻目の船は、イエズス会の宣教師ら23名を乗せてマカオへと向う予定であり、2隻目は、フランシスコ会士4名、アウグスティノ会士2名、ジュスト高山右近や如安内藤とその娘ジュリア・内藤その他の有力キリシタンを乗せてマニラへと出航していく手筈であった。

幕府の役人が見守る中、3隻の船は次々と長崎の港を出航していった。
ところが最後の3隻目の船は、村山等安が密かに手配した潜伏用の偽装船であったのだ。

この船には、日本人教区司祭4名(等安の次男のフランシスコ・村山を含む)、3人のフランシスコ会士、2名のドミニコ会士(モラーレス神父とオルファネル神父)が搭乗していた。

彼ら一行もそのままマニラに向かうと見せかけて、沖合いで等安の用意した別の船に乗り換えてそのまま全員日本に再潜入させたのであった。

モラーレス神父はこの後、禁令に反してそのまま等安の長男・徳安の屋敷に匿われることになる。

この計画が実際に村山等安が中心になって実行されたものであったとすれば、これは幕府の禁令に反する行為であるから彼自身が幕府天領の代官という立場上極めて危険な反逆行動に出たと言わざるを得ないことになる。

まったく無謀とも思える大胆な行動であった。

このとき再入国した村山等安の次男のフランシスコ・村山や神父らはそのまま長崎に留まることもなく、すぐさま風雲急を告げる大坂城に同志と共に支援に駆けつけたのであった。彼らはここでも終始決死の覚悟であった。


当時の長崎のキリシタンの置かれている状況をレオン・パジェスは次のように記録している。

「長崎の信徒達は深く宣教師を慕い、聖なる方舟の様に彼等を隠匿する特権を争った。彼等の慈愛の心に富んだ熱心さは、イエズス・キリストの為に命を捨てる光栄に浴する事を第一の目的としていた」と。

このような絶対的信仰心は、為政者にはまったく理解されないものであって、キリシタン信徒に対しては徹底的な弾圧しか残されてはいなかった。

幕府による禁教令それ自体の厳しさとしてその後の展開を挙げるなら、右近らが国外に追放されたこの事件直後、長崎の地に存在していた16教会のうち9教会までが1ヶ月足らずのうちに次々と破壊されていったことである。

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追放船がマニラへ向けて出発したのは11月7日であり、翌日の8日には岬の教会・サン・パウロ教会(外浦町:イエズス会本部:現:長崎県庁舎)と山のサンタ・マリア教会(立山町:現:長崎歴史文化博物館)が取り壊されすべて焼かれた。

9日にはサン・アウグスチノ教会(本古川町:現:常盤橋界隈)、翌々日の11日には村山一族が支援してきたドミニコ会のサン・アントニオ教会(本大工町:現:長崎市公会堂) 、12日にサン・ペドロ教会(今町:現:長崎テレビ)、15日サン・チャゴ病院の教会(今町:現:長崎銀行本店)、14日サント・ドミンゴ教会(勝山町:現:桜町小学校)、さらにサン・ジョアン・バウチスタ教会(筑後町)、 サンタ・クララ教会(大橋町)、 教会堂(浦上里郷)、 ハンセン氏病病院(浦上里郷)が17日までに取り壊されていった。


この間には幕府から初めて山口駿河守直友、間宮権左衛門伊治らが上使として長崎に下向してきた。

長崎での一連のキリシタン弾圧や国外追放は、幕府上使や長崎奉行長谷川左兵衞と3人の仏僧らによって遂行されたもので、キリシタン諸教会に壊滅的な打撃を受えた。

さらには諸藩の兵1万を率いて、島原、有家、有馬、口之津、小浜各地で過酷な迫害をくわえたことで殉教者も出る事態となった。

 長崎では幕府の集中的なキリシタン迫害に抗議して、数千人規模のキリシタン行進も行なわれ騒然となっており、急遽市内警戒のため隣接する佐賀や唐津、大村、平戸などから兵が駆り出されて暴動鎮圧の体勢が素早くとられた。

こうした不穏な空気は、長崎周辺にも広く漂っていたこともあって幕府側による厳戒態勢がとられていたことになる。

しかもこのとき小倉から事前に500人規模の鉄砲隊まで呼び寄せていたことを考えれば、幕府はキリシタン宗徒勢力に対して相当な警戒心を持っていたことが窺えるであろう。

こうしたキリシタン弾圧の事実も当時の大きな出来事としてここに記しておかなくてはなるまい。

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また高山右近は、慶長20年1月8日(1615年2月5日)、マニラに到着後病を得て40日後に63歳で没した。

(右は長崎県長崎市西坂公園にある日本二十六聖人殉教地の記念碑)

















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    ラベル:村山等安
    posted by モモちゃん at 18:14| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする