2014年08月06日

天草島原の大乱前夜・村山等安の決死の行動A(33)


不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(33)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

村山等安の決死の行動計画・その2
次男仲安・フランシスコ・村山がキリシタン擁護の豊臣方に接近する


東洋医学史研究会
宇田明男




●キリシタン弾圧と村山一族の動き・決死の行動計画・そのA

村山等安と高山右近らが遭遇した時期、秀吉の遺児秀頼の大阪方と徳川家康とはいよいよ対立を深め、このときまさに戦端を開こうとしていた。

慶長19年(1614年)10月2日、豊臣家では大量の兵糧を買い入れると同時に、旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし臨戦体勢に入った。

秀吉の遺児秀頼はキリスト教に好意的であったこともあって、この大坂冬の陣直前には高山右近や明石掃部(洗礼名はジョアン・ジュスト)、小西行長の家臣だった多くのキリシタン浪人たちが大坂方に集まり加勢しつつあった。
(大坂夏の陣図屏風・大阪城天守閣所蔵)

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このときも右近が長崎に向かったことを知った大坂方の使者が、後を追ってやっと長崎に到着したのは右近がマニラへ向け出航した3日後のことであった。



当時のキリシタン教徒らは豊臣秀頼の治世であれば彼らの信仰が許されると考え、一斉に大坂方を支援しようと組織的に画策していた。

徳川幕府がもっとも恐れていたことはこのような国内の動静であり、大阪方がキリシタン勢力と結託するとともにスペインの軍事的支援を受けて戦いを挑んでくるという最悪の事態であった。

幕府による禁教令が出された当時の国内のキリシタン聖職者数は150名、信徒数は65万を超えていたというから、そうした懸念は十分に予想されたわけである。

事実、ウィリアム・アダムス(三浦按針)や江戸幕府と交易するようになった新教国のオランダは、キリシタン大名による異教徒弾圧そのものはカトリックによる独善的な排斥であり、この背後には日本国内での宗教的対立による騒擾や大きな内乱の企てがあるからだと家康に訴えていたほどである。

このような内外の情報から、すでに幕府はキリシタン勢力の存在を見過ごすことの出来ない軍事的脅威とはっきりと断定していたわけである。

まさにこの同じ時期、村山等安の足下でも彼がうかがい知らぬうちに大変な事態が出来していた。

いや、等安自身がうかがい知らぬというより、これは村山一族による一連の画策であったのかもしれない。

息子たちは等安との協議において、武士の覚悟を持って遂行すべきとする父等安の助言を受け入れた決死の行動であったとみるべきなのかも知れない。

等安の次男の仲安・フランシスコ・村山は思慮深く勇敢な若者であったが、父等安に反発して家を出奔したまま密かに弾薬や兵糧を満載した船で長崎を出航し、キリシタンの同士と共に臨戦態勢の大坂城に入城してしまったのだという。

それ以前に次男フランシスコ・村山は、長崎において迫害されるキリシタンを救援する『十字架の組』を組織して献身的に活動していた。

長崎を出奔する直前、彼も含めて宣教師らが国外に一斉に追放されたのであるが、このとき彼は禁令を破ってドミニコ会のモラーレス神父らと共に密かに国内に再入国していたのだ。

そして彼は、長崎に留まることなくそのまま直後に大坂方の陣営に飛び込んでいった。

これらの幕府を蔑ろにした行動の一切はすべて秘密裏に遂行されたものであって、外部に漏れれば村山一族はただでは済まされるはずもなかった。

それほどに危険極まりない策謀であったが、追放される宣教師や次男フランシスコ・村山らの再入国の危険な裏工作自体も、すべて父等安の指図で実行されたことは間違いあるまい。

大胆不敵というか、この時点でさえも村山一族の決意の程が窺えるところである。
同年12月には徳川方が大坂城を20万の軍勢で包囲するが、その後の激しい戦の中で次男フランシスコ・村山(仲安)は命を落すこととなる。

表向き父等安は、この次男の無鉄砲な行動にはまったく感知してはいなかったとされるのだが、このことが後に内通者によって暴露され村山一族の幕府への謀反として訴えられることになる。

彼の一族の者が謀反に加担したということでは、直接等安が指示しようがしまいが、結果的にはこの事件に関わったことには何ら変わりはしなかった。


徳川の政権の下では確実にキリシタン排除の方向に向かっていたわけだから、キリシタンに深く関わる村山等安が逼迫しつつある大坂方の動きに無関心であったはずはない。

むしろ村山等安が当初より大坂方を兵站面で支援するだけでなく、直接の加担をも目論んでいたとする見方もここでは否定できない。

ある時期、豊臣秀頼の側近である大野治長とも親交があって、その要請もあって背後ではかなりの援助もしていたともいわれる。

村山等安が豊臣接近を狙って事前に何らかの政治的画策をとっていたことが事実とすれば、次男フランシスコの大坂方への加勢に至る行動自体はまったく腑に落ちない話とはいえないことになる。

次男仲安がたとえ単独で大坂方に加わったものとしても、心情的にも彼がキリシタンとして相当な危機意識を持っていたことは十分に窺えることである。

だがかっての関ヶ原の大戦と違って、今回の徳川方と豊臣方の対立は戦力で見ても明らかに徳川方に勝算があったはずである。

村山等安らにもその趨勢は十分に分かっていたはずであるから、ここに至っての次男仲安の賭けにも似た単独行動はどうみても無謀としか思えない。

等安もそうした彼の決断を理解していたことであろうが、若い仲安が等安の下から勝手に暴走してしまった可能性も否定できない。

皮肉なことにその直後には、父親等安自身も同様の否応なく切羽詰った行動を自ら採らざるを得ない状況に追い詰められていく。

いやむしろここに至って考えられることは、そうした憶測を持ち出すまでもなく、すでに村山等安と彼の息子らは己の命をも賭して何らかの行動に打って出ようとしていたことは否定しがたい事実である。

そしてそのように見ていくのが、もっとも自然な流れとして彼らの行動に筋が通ってくる。

結局のところ彼らの置かれた状況は、そこまで切迫していたということになる。

そこに至るまでに紆余曲折があったにしても、彼ら一族にとってこのままキリシタン弾圧の流れに立ち竦んではおられなかったということである。

まさに決死の行動あるのみであっただろう。




削除されなければ、この稿続く





参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号




















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    posted by モモちゃん at 09:25| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする