2014年08月08日

島原騒乱前夜・イエズス会と対立した長崎代官村山等安の命運(34)

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(34)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

奴隷貿易はなかった?
原爆の悲劇とて、400年も経てばきれいに忘れ去られる


東洋医学史研究会
宇田明男



 




●奴隷輸出許可書を誰が発行したのか





長崎代官:村山等安はキリシタンでありながら、何故にイエズス会を敵視したのであろうか。


当初、等安とイエズス会とは緊密な関係を保っていたのは確かであったが、長崎が幕府直轄領に移行した時期辺りから両者間には対立が生まれる。



村山等安はポルトガル商人との交渉も通詞無しにポルトガル語を自在にこなし多くの情報に接したこともあって、南蛮人の日本における戦略をいち早く感知した数少ない一人でもあった。



村山等安は当初よりポルトガル商人の奴隷取引に強い嫌悪感を抱いていた。


しかし南蛮交易上の取引や決済として奴隷売買は、すでに日本国内それも九州ではビジネスモデルとしてすっかり定着していたのである。



いわゆる奴隷を取引きする大きな市場がしっかりと形成されていた。

しかもこの商取引の裏にはイエズス会の教会が深く関与していた。




こうした状況は朝鮮半島や中国沿岸部でも同様であった。


これらの地域では海賊の倭寇が跳梁跋扈しており、略奪や奴隷狩り、放火、殺戮を繰り返していた。


倭寇は奴隷狩りで集めた男女をマカオの奴隷商人に次々と転売していたのである。
この当時、自国民が奴隷として売られていく悲惨な状況を知った中国広東の役人とキリスト教司教との遣り取りが記録された文書も残されている。


「広東の長官は、朕の家臣たちが略奪された大勢の男女の若者を不正取引で買い入れて、シナからマニラに送るのを嘆き、(中略)聴訴官は、其処〔マカオ〕から〔マニラに〕軍需品を齎す船舶で〔奴隷を〕一人も送ることのないよう尽力し、それを禁じた。これに対し同司教は、言葉と懲戒罪によって彼〔聴訴官〕の邪魔をした。」(「モンスーン文書と日本―十七世紀ポルトガル公文書集」― 高瀬弘一郎訳註「ポルトガル人による中国人奴隷輸出の現実」1614年、文書33、p.276-291」より引用)


ここでは奴隷取引を禁じようとする明国の役人を司祭は何故に邪魔したのであろうか。
奴隷取引はポルトガル商人にとって特に収益の大きな取引であり、その都度仲介料が教会側に支払われた。


教会は宣教事業に必要な資金的援助をそうした奴隷取引からも得ていたのである。
それ自体が慣習化し、アジア地域にヨーロッパと繋がるスタンダードな一つのビジネススタイルとして定着していたわけである。


こうした取引にイエズス会が深く関わり、奴隷の輸出ということで許可書発行(同意書)に関与していたことに千々石ミゲルや等安は以前より疑念と反発とを抱いていた。


人身売買するにしても、その根幹の所有権はローマ教皇にあるのであって、さらに教皇文書によってキリスト教国の王はその代理人として、関与する一切の権限を教会と商人とに委ねていたわけである。


そこではたとえポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁じようとも、遠く離れたアジアの端でそれが厳しく守られるはずもなかった。
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確かにポルトガルの国王ドン・セバスチャン1世は1571年3月12日付の勅令で日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布し、日本人奴隷の売買を禁止していた。


だが実際には、そこにいままで同様の需要と供給の流れはもとより、奴隷を商品として扱う市場がそのまま用意されているわけであるから、人間の欲望のままにこうした商取引自体は無くなるはずもなかった。


「時には奴隷貿易を止めようとする動きもあったが、ポルトガル人商人たちは抗議を行った。「我々は奴隷を買い入れるために100万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている……従って国王がこの事実[イエズス会の奴隷貿易認可]を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪うことを受け入れることはできない」(『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』北原 惇著)というものであった。


こうした反発は協会側もまったく同様であったわけで、むしろ教会側はここでははっきりとした対応を講じて見せた。
日本人奴隷を仲介取引することについては好都合な解釈を用意していただけでなく、逆にイエズス会修道士らは次のような理由でそれを巧妙に正当化してみせた。


「ポルトガル国王陛下がそれを命じている以上、われわれは何人をも購入することはないであろう。しかし、日本国民は彼ら自身の子供たちを売却するのを常とするのだ。しかも日本人は彼らと同じ非信徒たちに売却する。つまり、日本国民は日本国民を異教徒たちに売却するのだ。したがってキリスト教徒たちへの売却は、正当であるように思われる。というのは、キリスト教徒は購入した者たちを皆、キリスト教徒にするからである。(1605 年、文書 148)」(大航海時代の日本―ポルトガル公文書に見る―. 高瀬弘一郎訳註)


ポルトガル人たちの奴隷取引に対する認識は、これ以上でもなければこれ以下でもなかった。


いわゆる普遍的な倫理観などが介在するような余地はなかったし、こうしたレベルの独善的解釈が奴隷取引には常にとられ続けていた。


かってキリシタン大名であった有馬晴信は、宣教師の要求に応じて領民から少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った事実があった。


政庁での使用人なのか、衛兵要員なのか、そこにはどのような名目が立てられたのかはわからないが、このとき送られた少年少女はキリシタンであったのではないか。


ここにある宣教師とは、有馬を軍事面で度々支援していたイエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノのことであろう。


そしてこれをヴァリニャーノから直接指示され、実務面で秘密裏に遂行したのがイエズス会の出世頭で実力者でもあった長崎のジョアン・ロドリゲス神父であった。


彼が教会の会計責任者(プロクラドール)の地位に着いた理由も、こうした実務能力を評価されたからであった。
ロドリゲス神父はそうした輸出業務全般に関わっていたが、そこではイエズス会が輸出許可証を発行することによって修道会の財政調達を助けていたことによる。


この背景には、イエズス会内部の急速な財政の悪化があり、経済的にも逼迫した状況に陥っていたことも関係していた。


それは日本国内の宣教事業だけでなく、長崎に集まってくる各地の迫害されたキリシタン信徒の救済のための出費など、教会はここでも相当な経費負担を強いられてきていたからである。


そのためイエズス会はマカオやゴアの上部組織からも多額の事業資金を借りなくてはならず、その負債が相当に積み上がっていたのである。


その一方で、有馬や大村との交易では取り立てるべき債権が残ったままであった。
相手にその支払い能力がないのであれば、ここは現物商品を受け取るかたちで、有馬やゴアともどうにかして貸借関係を決済しようとしたであろうことが窺えるわけである。


教会の財政を立て直すためにヴァリニャーノは相当な危機感を持っており、日本語に長けたロドリゲス神父に有馬との負債に関わる決済実務の交渉もすべて任せていたということになる。


こうした両者間の機密情報を密かに探り出そうとして千々石ミゲルは動いていたのだ。
そのために彼は、主君や教会からは危険人物として執拗に命を狙われたのである。


教会内部では、宣教師が貿易に従事するのは問題があると考える者もいたが、そうした意見は教会上層部にはまったく受け入れられなかった。


日本布教長をも務めた準管区長フランシスコ・カブラルはその少数派の一人であったが、イエズス会総会長あての書簡で次のように自分の考えを述べている。


「日本の改宗事業のために必要であるとの口実の下にわれわれが少しずつ足を踏み出し、純粋に必要あって、極めて慎重かつ細心に始めたことが、必要というより、無知と貪欲さから行われるようになること、つまり修道士にふさわしい程度をこえて恣に行われるようになるのを非常に恐れる。というのは、すでに今年何人かのバードレが個人でもって、貧者のためとか教会を修繕するためとか言って20ピコ、10ピコと生糸を入手した。この生糸は直ちにその地で転売されたが、このようなことも非常に悪いことだと思われた。また何人かのバードレは、これと同じ口実で、少額ながらこの地で投資するために 金を送ってきた。もしも初期のうちに防いでおかないと、これが嵩じて非常な悪事を働く者も出てこよう。」


カブラルは聖職者が俗事の商取引に深く関わることで、悪事を働く者が出てくることを強く懸念していたが、実際にはあらゆる場でポルトガル商人と共に多くの商取引に宣教師は従来通り関わり続けていた。


カブラルは、なおもイエズス会総会長あての書簡に続けて記している。
「教会の門をくぐつて人々はミサにあずかるが、同時にその傍らの門から生糸や棉放物の梱が運び込まれ、良心問題やその他の霊的な事柄のために来た人々が、中国の財貨や商品が、プロタラドール立会いの下に欄にされているのを目撃するというようなことがたびたび起っているからである。このようなことは、現在の管区長(ヴァリニヤーノ)から多くの許可と権能を得て行われているので、カーザ内に慎みを欠く空気を作り出し、その上少なからず非教化の原因にもなっている」


プロタラドールの神父を操るヴアリニヤーノのそうした貿易推進の姿勢さえも痛烈に批判してみせている。
カブラルとイエズス会東インド管区の巡察師ヴアリニヤーノとは宣教事業でも意見が合わず、遂にカブラルは布教責任者の立場を解任され1582年に日本から退去させてしまった。


当時のイエズス会の方針では、大衆受けするような宗教的清貧さを表に出すことを避けていたし、大名や貴人との交流に多額の経費を要する状況にあった。


削除されなければ、この稿続く













参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号




















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    ラベル:奴隷貿易
    posted by モモちゃん at 11:30| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする