2014年09月05日

不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産群:島原大乱前哨戦(42)

九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

不都合過ぎるキリスト教関連
文化遺産とは何か(42)


千々石ミゲル、長崎へ逃げる!
長崎代官・村山等安との邂逅


東洋医学史研究会・宇田明男




●千々石ミゲル、長崎へ逃げる!


それまで、海外での日本人奴隷の扱いやその状況というものは、ほとんど国内では知られてはいなかった。
ここで千々石ミゲル以外の少年使節らがそのままイエズス会内に留まったということは、海外の日本人奴隷に関わる情報には彼らは一切関知しなかったということであり、口を噤んでいたということに他ならない。


海外での奴隷売買の実態は、そのまま隠蔽されてしまっていてもおかしくは無かったであろう。


その中で千々石ミゲルただ一人が、正面からこれに決然として向き合ったということになる。


千々石ミゲルは、それまでの名誉も栄光もすべて捨て去っただけではなかった。
イエズス会内のキリシタンとしての厳しい戒律を破ってでも、その日本人奴隷の悲惨な状況を人々に知って欲しかったはずである。


そしてまずそれを伝えておくべき相手として、南蛮貿易にも深く関わってきた大名の大村喜前の下を訪ねたに違いあるまい。
千々石ミゲルの報告には、喜前も少なからず驚いたはずである。


日本人奴隷を売り払う側とて、海外での奴隷のその後の消息などに関心は持たなかったであろう。
千々石ミゲルの訴えを大村喜前がどこまで真摯に受け取ったかも不明である。


だが喜前は、その後にキリスト教を棄教したのは事実である。
ミゲルも一時期は大村喜前に仕えそれなりの処遇(食禄六百石ヲ賜フ)はあったであろうが、徳川の代になると次第に周囲の状況は変わってくる。


喜前の下で千々石ミゲルは、南蛮との通商に何らかの役目で関係していたのは確かであろう。
秀吉の支配が終わると、長崎はそのまま徳川に収公されて幕府の直轄領となったが、このとき大村もイエズス会を通じて保有していた利権であった、長崎入港の船から徴収する物品輸入税という莫大な収入源を一気に失うこととなった。


これによって、大村とイエズス会との実質的な利害関係が一辺に切れてしまうこととなった。
そうした経済的繋がりがなくなったこともあって、キリシタンを見限って喜前は1602年、キリスト教を棄教してしまった。
しかもこれによって喜前は、掌を返すようにキリシタン弾圧に方向転換するのである。


このきっかけを作ったのが渡欧した千々石ミゲルの情報というわけである。


これによってミゲルは、教会側からは背教者、反逆者として危険視されるようになる。
ミゲルの棄教は当時のキリシタン社会や教会に相当な衝撃をもたらしたのである。


その後ついには刺客に襲撃され重傷を負うという事態にミゲルは遭遇する。
ミゲルにどのような覚悟があったのかは分からないが、このような身に危険が迫るような状況に追い込まれていって領内から身を隠したのである。


このときミゲルに辛うじて逃がれ得る土地があるとすれば、それは唯一幕府天領であった長崎の町しかなかった。
当時すでに長崎には、南蛮貿易の拠点ということもあって独特のキリシタン社会が出来あがっていた。


もとより住民の大半がキリシタンであったし、一旦この地に逃げ込めば大名の大村も有馬も幕府の直轄領内では下手に手は出せなかった。
ミゲルを悪質な背教者として異端視するイエズス会とてそれは同様であった。


そしてこの時期、長崎の町で千々石ミゲルのような異端者をあえて庇護する力のある者がいるとすれば、それは同時期の長崎外町の代官職の地位にあった村山等安ということになる。


村山等安は長崎と隣接する大村や有馬の大名とも親しく交流していたことから、以前より千々石ミゲルとは面識があったし、逐一彼の消息も耳に入っていた。


事実ミゲルが大村家に一時期家臣として仕えていたことを考えれば、事件が起こる以前からミゲルと等安とは商取引の現場でも頻繁に交流があったことになる。


そうなるとミゲルの襲撃事件を知った等安が逸早く助けの手を差し伸べて、彼の身柄を長崎の地に受け入れて庇護した可能性が高い。


ミゲルは襲撃されたときの刀傷で相当な痛手を受けていて、もはや武士としての働きは出来ない不自由な体になっていた。
ここに至ってもいまだに身の危険を感じるのであれば、長崎に逃れるというのが当然の成り行きである。


村山等安ならばミゲルの窮状に際して率先して手を貸したであろう。


しかも千々石ミゲル本人がイエズス会を脱退した異端者ということであればなおのこと、このときの等安はミゲルをそのまま放っておくことは出来なかったはずである。



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ミゲル襲撃はキリシタンであった等安にとっても見過ごせない事件であった。

村山等安が統治する長崎にミゲルが逃げてきたのが忌まわしい襲撃事件直後の1606年当時であり、それより以前の時期(1602年頃)村山等安自身もそれまで緊密であったイエズス会とは決別して次第に両者は宗教的にも対立を深めていた。


むしろこのときの等安自身のイエズス会からの離脱は、ミゲルの動向とも重なる部分があって、その原因さえもミゲルがもたらした渡欧情報との関連性があったとも考えられる。


千々石ミゲルが大村家や有馬家にもたらした海外情報は、両家とも親交のある村山等安の耳にも入っていた可能性があるわけで、少なくともこの辺で等安とイエズス会との実質的な相互関係も損なわれてしまっていた。


しかも等安がイエズス会の教会から離れただけでなく新たに別会派に改宗してしまったということは、イエズス会からみれば明らかに等安は裏切り者であり、最悪の反逆者に違いなかった。


等安はこれ以降、政略的な考えもあってイエズス会の後から日本に渡ってきたスペイン系の托鉢修道会のフランシスコ会やドミニコ会を積極的に支援するようになる。


事実長崎の地にドミニコ会を最初に招致し経済的に支援したのは村山等安自身であったのだ。


フランシスコ会もドミニコ会も南蛮貿易には殆ど関与していなかったから、交易による経済的利得などは期待できないことは誰の目にも明らかであった。


あえてそのような清貧な立場をとる会派を支援するということはキリシタン信徒としての理由意外には考えられないことであった。


この等安の転身には、長崎代官というより彼の武士としての矜持が多分に働いていたということがいえるであろう。
この辺の彼の内面的心情は、棄教した千々石ミゲルとどこかしら似ている。


そうした異端者同士としての部分でのお互いの関係が深まっていたともいえるであろう。


それまでイエズス会には日本におけるキリスト教の独占的布教権があったが、これが一旦解除されたため他の托鉢修道会といわれるフランシスコ会、ドミニコ会、さらにアウグスチノ会がマニラから日本へと次々と渡来してきており、それぞれの教会が競合しながら布教活動を行うという状況が生まれていた。


従来、イエズス会は大名などの支配階層に積極的に宣教活動を展開して信徒数を増やしていたが、ここで新たに托鉢修道会が進出してきて貧民階層にも徐々に浸透し始めてきていた。


1580年、ポルトガルはスペインに併合された結果、スペイン系の修道会であるフランシスコ会やドミニコ会は、すでにイエズス会が進出していたアジア地域や日本にも新たに布教するために渡航を図った。


その結果日本での既得権を主張するイエズス会とのあいだでは、それこそ熾烈な布教競争の鬩ぎ合いを繰り広げる展開となってきていたのだ。


当時の長崎在住のそれらの托鉢修道会の教会や教徒は、長崎の代官職にある権力者村山等安によって、経済的支援はもちろんのこと何らかの庇護を受けていた。


むしろ千々石ミゲルのような不安定な立場の者は、このような権力者の保護がなければ生きてはいけない状況下に置かれていた。


当時、村山等安はバテレン追放令の下でも長崎においてキリシタン教徒や教会を一族で支援し続けたことでも知られていた。


このことはサント・ドミンゴ教会の修道師の当時の記録にも残されている。
「私たちが長崎に入りそこに居ることが出来るようになったのは彼に負うところが大きいのであります。何故ならば、私達は新来者であり大きな反対を受けていましたから、彼の庇護がなかったならば、迫害の始まった後も前も私達は大変な苦労をしたでありましょう」


等安は、長崎の托鉢修道会のドミニコ会を庇護していただけに、最大級の賛辞が当時の文書には書き残されている。






削除されなければこの稿続く




 
(注:3)読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」より文献史料引用



参考資料:
「デ・サンデ天正遣欧使節記」E・デ・サンデ:著, 泉井 久之助:他訳, 長澤 信壽:他訳 発行:雄松堂書店
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)をもたらしたのではないのか
















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    タグ:大村喜前
    posted by モモちゃん at 18:38| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする