2016年05月20日

古代にもあった高額医療費の核心部分に迫る!

医療費にまつわる面白話し

昔の一両小判の価値とは、一体どのくらいのものであったのであろうか?

江戸時代は幕府によって米一石が一両と一応決められていたが、相場による変動があった。

この米の価格から一両を現代の円に換算すると幾らに相当するかということが、よく話題になる。

これには諸説があって三万円代から四万、六万、八万、高いところでは十六万というのがある。

しかし当時一両もあれば、4人家族は1ヶ月間ゆったりと暮らせる貨幣価値があったとも言う。

ゆったりと暮らせるとは、果たして1月の生活費はいくらあればいいのだろうか?


武士の生活で考えてみよう。

百石取りの武士の場合、四公六民で四十石がその取り分となる。

俸禄が百石といっても、まるまる百石分もらえるわけではないのだ。

米を白米にするのに五石のつき減りがあり、実質三十五石が手取りということになる。

現代のサラリーマンが、源泉徴収であれこれその給料から差し引かれるのと同じである。 

このうち自家用に消費するのが十一石あまり、 残り二十四石をどうにか換金することができる。

一石=一両=八万円で計算すると一九二万円、 これが百石取りの一年間のその他の生活費となるわけで、当時の消費生活がいくらか窺えるというものである。

これがエリートである奥医師となると二百石の知行であっても、年間四千両(約三億二千万円)の副収入があったという。

しかも自分の家があっても、別に役宅として立派な屋敷も用意されるわけだから、住居費は掛からない。

ここらは歴史教科書では一言も触れられないことであるが、将軍の御脈をとる御匙医師ともなると大変な格式があって、大名が診てもらうと盆暮に千両箱が届けられるのが通例であった。

このように奥医師の場合は知行に加えて足高やアルバイト収入に税金はかからず、裕福この上なかったわけである。

医者の中には巨富を元手に高利貸でさらに資産を増やし、金融業で名を成した者もいたという次第であった。


二千年前のハムラビ法典には骨折を治癒させた医師には銀貨を支払う規定があったように、医療に対する報酬は昔から明確に保証されていた。

それに値する特殊技能として認知されていたことになる。

古代中国の戦国時代には疽(悪性の腫れ物)は血膿を口で吸い出すのが常法であり、信じられないかもしれないが痔の治療では医師が舌で嘗めて治していた。

このことを知った時は、我ながら大変に驚いたものである。

秦王は腫れ物を吸う医師には車一台、痔を嘗めれば五台を与えるという具合に汚い病ほど報酬を多くしていたことが古典籍の『荘子』にしっかりと記録されている。

とにかく古代の治療代はべらぼうに高額であった。

確か大夫簡子を診た名医扁鵲はその報酬として四万畝の広大な田地を賜ったということが『 史記』に書かれているが、貧乏人には到底まねのできないところである。(周代の一畝 は1.82アール)

何でこのような事を書きだしたかというと、医療に対する報酬について歴史的事実に基づいて突っ込んでみ たかったからである。

実は意外なことであるが、洋の東西を問わず古来医者を卑しむことが多かった。

『論語』に「人にして恆なくんば以て巫医をも作すべからず」とあるし、『列子』には「乞児・馬医と雖も敢えて侮らず」とある。

古代において、医者は卑しい職業と見られていたということは意外であろう。

二千年前のインドのマヌの法典には「高利貸しの食物は糞のように忌まわしい。医者の食物は血膿のように汚らしい」と、その報酬に対する貪欲さを卑しめて揶揄している。

ようするに昔の医者は巫、乞食、高利貸しと並称される存在であったというわけである。

医術は君子が個々に身に付ける一種の素養と考えられた時代があって、それは身過ぎのための職業とするのではなくて、自分の両親や一族に病人が出た時に適宜対応する手段として必要視されたのであった。

身分の高いものから見れば、そこには医療行為によって専ら報酬を得るという職業的概念がなかったともとれる。

逆にいえば、巷には医療行為を行って多額の報酬を得る医者も当然いたということである。

ただし、概して医者の身分はどこまでも工人(職人)扱いであって、報酬を得る以上卑しい行為とみられていた。

江戸時代の『近世風俗見聞集』に具体的に紹介されている当時の医師や医療の記述をみると、ここらの事情や背景はおおよその見当がつく。

「官医以下、町医者・国々の医師も驕慢に構へ、療治の道に鍛練を尽くさず、只形姿 を立派にのみ拵え、利欲を稼ぐに精根を尽くすなり」、「本人はもとより家従までも不 行跡を尽くし、医道の玄妙至らざる故、親切の情さらになく、表向きのみ飾りさも良医の体に見せて人をだますなり」、「人を助くる心を失ひ、いささかも病人の為を弁えず、 兎角療治の功を争ひ──或いは売薬を競ひ、その上、山医者などいえるもの出来て、後々病者の身の害となる事も厭はず、眼前即効の奇薬を与え、或いは禁穴をも構はずして 灸を点じ、一時の験気を発せしめて人を服さしめ──当世は山医者・売薬人多く出来て、世を費やし、また天命を縮むるもの多し」等々、当時の医者や医療に対する憤懣がうんざりするほど書き連ねてある。

だから、概して廉潔の士は医業に就かなかった。

もともと本来が医を業とする者は金 銭に執着して汚く、金ずくめだからこそ血膿をすすったり尻を嘗めるのだといった侮蔑の意識の方が強かった。

しかも貧乏人からもなけなしの金銭を容赦なく取り立てていくそうした根性を嫌ったのであり、そのいかがわしさ、貪欲さを当時の文化人は許容できなかったのである。

それは医術の暗黒時代であったともいえるし、医道の確立される淘汰の時代とも言えるわけである。

しかし医道というものがそれまで蔑ろにされていたということではない。

西洋ではヒポクラテスの時代にも、医道についてすでに言及され医学の根幹として認識されていた。

Hippocrates_rubens.jpg


そうした倫理観については、古代中国の医学書『黄帝内径』にも張仲景の『傷寒論』自序にも、さらには孫思邈の医学書においても医道に関しては明確な姿勢を示している。

我が国においては丹波康頼の『医心方』の冒頭に「太医病を治するに無欲無求、大慈惻隠の心に発すべし」と、唐時代の孫思邈の仁術の教えを忠実に伝えようとしている。

こうみると結局、医道と医術、仁術と医学とはそれぞれ分離した存在、あるいは分離されやすい存在であったということであろうか。

早い話、医術に対して仁術が正道としても、他に算術、忍術、魔術といった諸々の選択肢があったということになる。

ここで報酬に執着しなかった中国唐時代の名医孫思邈の仁術について書いてみよう。

孫思邈は唐時代の非凡な医師であるが、「人の命は千金に代えがたい」として、中国 に古代から伝わる医薬、鍼灸を実験と経験によって集大成し、『備急千金要方』三十巻三十三冊を撰したことで知られている。

現代でも歴史上の名医を問われれば、名医として孫思邈の名前が必ず出てくる。

彼は仁術を身を以て実践したというが、貧乏な者からは治療代を取らず、遠くの病人でもロバに薬袋をぶら下げて自ら往診し、深夜といえども親切に診療し重病人は自宅で丁寧に看護した。

彼の名声は巷に広がり、彼の医療の恩恵を受けた貧しい人々は、彼の家の周りに杏の種を治療のお礼に埋めていった。

長年の間にこれらの杏の木が育ち見事な杏林となったという。

何故、貧しい患者は杏の種を植えていくのか、これには前例となる有名な出典があったからである。

中国の古典籍『神仙伝』にあるが、董奉が人の病を治しても報酬を受け取らず、治った者には杏を記念に植えさせたので何年か後には立派な林を成したという故事に孫思邈の患者も同じようにならったのである。

つまり「杏林」とは、仁術を施す名医にふさわしい異称だったのである。

しかしながら、この事実に対して当時の文化人は意外にも冷やかな目で見ていたのである。

孫思邈自身も文章博士であり第一級の文化人であったが、日常的に医を業としたので、いわゆる身分上は方技を行う職人(工)としてしか周囲からはみられなかったのである。

それほどに古代の身分制度は厳しいものであった。

これらすべては昔のことであるから、世情や価値観がいくら違っていても少しもおかしくはないわけであるが、時代の流れと平行した一つの歴史的変遷として医療に対する報酬を考えてみるのも、ここでは文化的・史料的価値はあろうというものである。

まあ現在の日本の世情からいけばなるべく高価な薬がいかにも効きそうに思えるし、高い治療費を請求された方がより良い医療サービスを受けているように錯覚してしまうときもあるわけである。

やはり医療サービスの多くは、すべて経済的価値観そのものが実質的に支えていることに違いはあるまい。
















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posted by モモちゃん at 11:24| 歴史再発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする