2016年11月12日

入試問題には絶対出ない日本史とはこれですね!

奴隷貿易の儲けは山分け

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

当時は、アジアの奴隷取引が当たり前だった
戦国のキリシタン大名は輸出入税収入で潤った
九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていた


東洋医学史研究会
宇田明男




●当時の奴隷供給の背景と様相とアフリカ方式の導入

渡来した宣教師は宣教事業の手始めとして、まず周辺諸国でもっとも力のある大名に近づきその信任を得ることに努めた。

そのためにはまず南蛮の珍しい貢物を献上して為政者の関心を引いたのである。

友好的な領主には、教会の宣教活動の許可と支援とを事あるごとに陳情していった。

交易の仲介業務という特権を握っている宣教師は、南蛮との交易によって、大名側にその都度独占的利益がもたらされることを示してみせる。

機会があれば、領国周辺の軍事情報を提供する。

大名から彼らの布教に対して積極的な協力が得られれば、その見返りとして戦略に必要な鉄砲弾薬の供給を優先的に手助けするという有利な条件を提示してみせる。

これには多くの大名が飛びついた。

特に群雄割拠していた当時の戦国九州の諸大名は宣教師の要求に乗ったのである。

このようにして南蛮勢力と友好的な大名は、新兵器鉄砲を装備することによってその勢力はますます拡大させていった。

まさしくこれによって戦闘の様相が一変してしまった。

熾烈な鉄砲による戦闘が各地に拡散し、いよいよ戦国の様相が強まっていき、都市部が荒廃し夥しい戦争難民が作り出されていった。

宣教師の進出は、交易事業の拡大とともにさらに京坂地域にも押しすすめられていった。


彼らは日本国内の多くの大名の中から、まず織田信長に白羽の矢を立てた。

信長の勢力が拡大すれば、一気に邪魔な異教徒を抹殺排除していくことも可能になるわけで、イエズス会は頻繁に信長に接触して高価な南蛮渡来の贈物を贈った。

軍事物資の硝石が搬入される堺の港を逸早く戦略的に掌握できたのも、当時彼らともっとも友好的であった信長の勢力であったことはただの偶然ではなかった。

背後には、イエズス会の周到な戦略があったからである。

好都合なことにイエズス会は元はといえば創始者のイグナチオ・デ・ロヨラや宣教師のフランシスコ・カブラルも軍人であって、その教会も軍隊組織を踏襲するなど西洋の軍事情報にも精通していた。

実際にイエズス会宣教師と接触した信長は、一箇月間に渡って彼らから西洋事情や軍事情報を集中的に教授されている。(フロイス日本史)


ある意味、イエズス会が信長に対して軍事顧問団ともいうべき働きをしていたということになる。

これは直接の経済的援助以上のものであって、戦略的にも大きな成果を信長にもたらしたものといえよう。

かれらは軍事顧問団として信長に西洋の軍事学を連日講義してみせたわけで、これに対して信長は最大級の馳走でかれらをもてなしてみせたし、商業都市堺に対して軍事的に威圧して多額の矢銭(軍資金)を要求して見せた。

こうみると信長の独創的戦略のうちには、西洋の革新的で合理的な西洋の手法も加味されていたことも十分理解できよう。

一方の信長も己の天下布武の大きな野望の達成には、イエズス会宣教師からの情報が不可欠であることに逸早く気付いていたわけで、抜け目なく彼らを最大限活用して見せたのである。

その効果そのものは信長の戦歴に見ることが出来る。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた比叡山焼き討ちでは、信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといい、その犠牲者数は「信長公記」には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約1500名の死者とあり、さらに「言継卿記」によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,4千人が殺戮されていたと記されている。


天正2年(1574)7月13日、信長は、伊勢長島一向宗を包囲し追い詰めていた。

一向宗側は9月29日にわび状をよこしたが、それを無視して中江城、屋長島城を四方から火をつけ、籠城した2万人の男女をすべて焼き殺した。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧した際、捕らわれた一揆方の男女1万2250人余りは信長のもとに送られすべて斬殺された。

「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」、「生捕りと誅(殺された)させられたる分、合わせて3,4万に及ぶべく候か」(信長公記)

さらに天正5年(1577年)、石山本願寺を支援する鉄砲集団雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲したが、織田方の兵士は町に乱入放火すると共に非戦闘員である女子供を始め住民1万人をなで斬りにして惨殺した。

その数年後に信長が手掛けた天正伊賀の乱でも同様であるが、彼の戦闘形態は大規模な軍団を投入して敵方の老若男女の住民すべてを容赦無くなで斬りし、火攻めで滅ぼしたのであった。

これらの大虐殺は徹底した宗教弾圧にも等しかったし、こうした戦略手法の発想はきわめて西洋的である。

イエズス会からみれば、犠牲者の多くは忌まわしい異教徒らであったから、その伽藍共々住居も焼き払うという火炙り同然の見事な信長軍の掃討作戦には大いに共感した。

同時に宣教師等からは、ことのほか信長が強大で頼もしい類稀な王侯貴族にみえた。

その勇猛果敢さは、かっての教皇アレキサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)をも彷彿とさせたことであろう。

事実イエズス会の宣教師は、こうした信長の果敢な軍事行動を見て「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である。」(イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡)、とまで言い切っている。

彼らは心震える想いで、ここではまさに最大級の賛辞を信長に贈っている。

このようにイエズス会は信長の行動を賞賛するだけでなく、積極的に接近すると同時に軍事的にも彼を援護する戦略を一時期とったのである。


dorei3宣教師がもっとも優位にある王族に接近して宣教上の庇護を請うたり、さらには多くの奴隷を狩り集める側に積極的に戦略的に鉄砲弾薬を供給していく手法はアフリカ方式とまったく同じものであり、これこそがポルトガル商人の合理的かつ巧妙な奴隷確保のやり口であった。


南北アメリカ大陸には19世紀までに1000万人以上の黒人がアフリカから奴隷として奴隷船で移送された。

移送された黒人奴隷のうち何割かは劣悪な環境の奴隷船内で死亡し海中に遺棄されたのである。

奴隷数が1000万というはにわかには信じがたいところであるが、これには奴隷確保と奴隷船に特化した独自の移送マニュアルがあった。

奴隷商人は商品としての奴隷の輸送コストを抑えそこからの儲けにきわめて敏感であったが、奴隷の確保にも大いに知恵を絞った。

ヨーロッパの奴隷商人たちはアフリカでの奴隷狩りの効率を上げるための狡猾な手法をすでに考え出していた。

アフリカでも奴隷狩りが進むうちに沿岸部周辺では黒人が激減して奴隷の確保がしにくくなっていったのであるが、そこで奴隷を狩る側の有力な黒人部族に新兵器の鉄砲を売り付け、一方に圧倒的な戦力を持たせることでさらに奴隷となる捕虜確保をよりやり易くさせていったのである。

これによって奴隷市場はアフリカの内陸部まで急速に拡大していったし、鉄砲に必要な火薬の供給も彼らの独占的利益が確保されるという好都合な展開が達成できたのであった。

この結果アフリカから南北日本に渡来した際もこのアフリカ方式のマニュアルが最大限に活用されて、信長はもちろんのこと当初より好戦的な九州地方のキリシタン大名にも使われていった。

特に九州ではその手法が最も効果を発揮して、結果的には奴隷売買の取引は広範囲に拡大していくこととなった。

沿岸部の小さな港には奴隷移送用の舟さえも用意されていたし、各地で転売された奴隷は次々とより大きな交易港へと集積されていったのである。

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

事実、有馬や大村、大友のキリシタン大名は、イエズス会の軍事的支援があったからこそ竜造寺や島津の軍事的侵攻にどうにか耐えられたのである。

九州の戦乱拡大によって鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートとを見事に確保したわけである。



●戦国九州の奴隷取引の実態

九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、奴隷貿易には当然関与していた。

戦略上直接、あるいは間接的に関与せざるを得なかった。

彼らに共通することは、軍団の中に鉄砲隊を早くにその戦力として装備していたことであり、それによって熾烈な戦国時代を生き延びていたという事実である。

戦場で殺戮を繰り返す戦国大名らが、奴隷取引には一切関与しなかったというような都合のよい詭弁はここでは通用しまい。

好都合な歴史認識しか通用しないのは今に始まったことではない。

それこそ、彼らが生き残っていくには鉄砲や弾薬は是が非でも手に入れなくてはならない必須の最新の軍事物資であったのだ。

まさに新兵器鉄砲が戦国大名の戦力バランスを短時日で一変させてしまったのである。

鉄砲も弾薬にしても当時はきわめて値のはる軍需品であった。

しかもそれを手に入れるには宣教師を介してでなければ、肝心の取引が一切出来なかったのである。

宣教事業優先の条件が南蛮貿易の鉄則であった。

交易の利潤の中から、教会にはその絶対的保護権によって一定の取引仲介料が支払われたのである。

交易の拠点となる港を用意できるキリシタン大名にも交易の際に輸出入税が支払われたわけで、これによって彼らは経済的に潤ったのである。

交易港には各地から商人が参集した。

たとえ南蛮との交易の場に彼らが参加できたとしても、そこで大量の金銀や対価として交換できる交易商品が用意できなければ取引は成り立たない。

ここで取引を仲介する宣教師が打開策を探るべくそれとなく両者に耳打ちする。

大名が交易上の対価として奴隷を差し出せば、ポルトガル商人はその取引に渋々応じて見せたわけである。

ここからはいわゆる奴隷取引に移行していくわけで、日本人が同胞を家畜同様に海外の奴隷商人に転売していった当時の南蛮貿易の様相がここでははっきりと見えてくることになる。

後は相互間の需要と供給の問題である。

戦乱が続けば続くほどに、奴隷取引そのものは増加し規模も拡大していく。

戦乱に巻き込まれ収奪された土地や村は無人状態になるほどに当時の人狩り(奴隷狩り)は過酷なものであった。

そこからは夥しい数の戦争難民が捕虜として奴隷狩りされていった。

キリシタン大名に売られた捕虜が、奴隷としてスペインや遥か南米アルゼンチンまで転売されていった記録もいまでも残されているが、こうした奴隷貿易なしには大名といえども戦国時代を強かに生き延びていくことは不可能であったということになろう。

(注)ニッケイ新聞(2009年4月9日付け)ブラジル国サンパロ州サンパウロ市発行
「日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人」より以下、引用。
「博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。  驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。」(引用、終わり)


戦国時代に取引された奴隷の人数については諸説があるが、日本人だけでも戦国時代を通じて数十万人はその被害者となったのではないかと考えられる。

黒人奴隷1000万に対して数十万では少な過ぎだろうか。

九州で奴隷貿易が行われていたのは数年間のことではない。

奴隷取引が顕著になり始めた1550年以降から日本が鎖国体制(1639年・寛永16年)に至るまでの期間を考えると、この約100年間に奴隷もしくは自主的な渡航者(傭兵、商人、労働者)の人数なども含めれば海外渡航者数そのものは相当な数にのぼるはずである。

中には自ら奴隷として契約して渡航する者や海外で生きていくうちに奴隷になった者も少なからずいた。

武士であれば、南蛮の使い捨ての戦闘員、傭兵として需要があり、彼らも売り買いされたのである。

遠くは南米やインドのゴアの要塞にまで売られていった。

(注)「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代(2013年5月13日 読売新聞記事)
(引用始め)安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。(引用終わり)

このような事実は、戦後の歴史からはすべて削除されていたものである。



それには九州から買い取った奴隷を南蛮船が直接移送することもあったが、日本や中国、東南アジア諸国の多くの貿易商の輸送船が朝鮮半島を経由して集積地の中国マカオまで輸送していったわけであるから、奴隷の需要拡大とともに相当数の船が頻繁に行き来していたことになる。

活況を呈していた中国マカオのアジア最大の奴隷市場では、それぞれの需要に応じて転売先を振り分けられ各地に移送されていった。

現実にはマカオの市場がアジアの拠点として20世紀まで存続していた事実を考えれば、日本人の渡航や帰国が幕府によって禁止された1635年(寛永12年)直前まで日本人奴隷取引は続いていたということになる。


こうした戦争捕虜に対する扱いは九州でも変わりはなかったが、早くから海外との奴隷取引がされていたことでその様相は大きく違っていた。

当然のように、戦闘に晒された土地では奴隷狩り目的の人狩りや異教徒狩りといった侵略行為が多発していた。

九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした侵攻を続けていた。

豊後の大友氏の軍勢は筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の奴隷狩りを行ったし(「宗像市史・史料編中世」)、豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

遠征時には、まだ秀吉の奴隷取引禁止令は出されてはいなかった。

当時の天草や島原半島での日本人の戦争捕虜の海外取引については、ルイス・フロイスが詳細に記録している。

「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、このときすでに九州諸国では相当数の人買い商人や海賊が横行していた事実が窺える。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

これらは1588年から1589年当時の奴隷に関わる様相が具体的に記されているわけであるが、実際には南蛮人が渡来して以降数十年間にわたって継続的に行われていた人身売買の実情そのものであったことに注目しなくてはなるまい。

皮肉なことに九州の奴隷売買の事実を示すものとしては、このフロイスの記録がもっとも明確なものであろう。

実際にはキリシタンであろうと奴隷になれば海外にさえ転売される運命であったし、すでに九州から中国マカオへの奴隷移送のルートもその交易と積み出しの拠点もすっかり出来上がっていたのである。

転売されたそれらの奴隷は九州各地の港から天草や口之津、長崎、平戸、博多へ集積転売された後さらに海外の市場(マカオ)へと奴隷船で移送されていった。

ここでの奴隷輸送船は南蛮船だけではなく、多くの輸送船が中国や東南アジア方面からも続々と押し掛け積み出し港は活況を呈していた。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった」フロイス『日本史』8-268」

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった」(フロイス『日本史』8-314」)

買い取られたこれらの夥しい奴隷は、最終的には九州からの輸出品として次々と中国のマカオの奴隷市場へと送り込まれていった。

結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。

それでも、そのような奴隷貿易は一切なかったという反論もある。

戦国の日本人の奴隷など稀な出来事だともいう。

はたしてそうなのか?

戦国に戦争難民や人狩り、人攫い(ひとさらい)はなかったということなのか?

たしかに戦国を扱った大河ドラマにも登場したような記憶はない。

しかしながら面白いことに九州地方では、時代を経てもこの子供の人攫いという生活感覚にはいまでも特別な響きが残っているように思えてならない。

逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬などの最新の軍需物資をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。

新兵器であった鉄砲、弾薬は高価な武器であっただけに、入手するには潤沢な資金を必要とした。

高価なそれらの輸入軍事物資が無尽蔵に、南蛮側から無償で提供されていたわけではない。

この時代、南蛮商人そのものは富を求めて渡来し、戦国大名の需要に営利目的で群がったのである。

九州の大名は取引のカギを握るイエズス会の宣教師に言われるがままに、彼らから洗礼を受けキリシタンとなっていった。

南蛮との取引での仲介者として、宣教師の立場は絶対的であった。

九州の諸大名は裕福ではなかったわけで、キリシタンということでのその取引での優先順位は確保できても資金力(矢銭)そのものは限られたものでしかなかった。

それらの取引で支払われる高額の対価は一体どのようにして賄われたというのだろうか?

考えるほどにここらは不可解な話である。

それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせが用意できるというのであろうか。

furanki 一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要であった。

戦乱と共に軍事物資の需要も一気に高まることになる。

薩摩の島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、キリシタン大名大友宗麟が国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)をポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な代価では到底賄えなかったはずである。

九州の戦国大名が、何故にそれほど裕福であったのだろうか?

事の真相などはどうでもいいわけで、結局のところ華々しい歴史的業績をもたらしたという事でその名を歴史に留めたということにしておけばいいのである。

ここでいうキリシタン大名という称号そのものは、過酷な異教徒弾圧と奴隷売買とに自ら参画したという戦国大名の矢銭調達法やそうした戦闘形態をも明確に象徴していることになる。

輝かしいキリシタン大名は、いまやそう評価されるべきであろう。





削除されなければこの稿続く




参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)








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posted by モモちゃん at 11:04| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする