2017年05月11日

日本国憲法と呪能信仰との相関関係とは何か?

東大の日本史入試問題が巷で注目されている

それほどいい出題であれば、いっそのこと国会議員全員にも同様の模試でも受けさせて歴史を勉強させたらいいと思う。


東大の日本史”【問題】
1882〜1883(明治15〜16)年、伊藤博文らは、ドイツをはじめヨーロッパ諸国において、憲法や立憲的諸制度の調査にあたった。その際、彼等はしばしばドイツの政治家や学者などから、明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり、日本がいま立憲制度を取り入れようとするのは、必ずしも賢明なこととはいえない、とする忠告を受けたといわれる。
そこで、諸君が伊藤博文らの調査団に加わっていたと仮定し、上述のようなドイツ側の忠告に対して、日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明する文章を8行(記者注:240字)以内で記せ。(1989年度・第4問)
http://toyokeizai.net/articles/-/118992

何やら奇を衒ったような問題ではないか。

重箱の隅をつつくような知識を問うよりは、より今日的、かつグローバルな日本史問題に若い頭脳を試したらどうかとも思う。

東大の現代社会の問題などはどのような内容が出題されているのか興味ぶかいところである。

大学入試問題で、「シビリアンコントロールの致命的なところを500字以内で記せ」とか出題されたら面白いと思う。


現行平和憲法で平和は本当に守られるのか?

憲法でいう戦争放棄とは、即自衛権の放棄には繋がらないらしい。

実際に自衛隊があるわけだから、現状ではそう解釈せざるを得ないだろう。

戦争放棄とは、「戦争をしない」という国家的意思表示とともに「こちらから戦争を仕掛けない」という2つの意味が含まれるはずである。

ここが重要である。

われわれは他国の憲法の条文にはまったく関心がないのだが、本来日本国憲法は国家としての自衛権をも放棄しようという指向性を内在しているともいえよう。

そう解釈したいとする向きもある。

一般国民からみても憲法論議は実に面白い。

頭の固い憲法学者の机上の議論などは、とろくさいのである。


憲法は自国の行動原理であると同時に国家的都合をある意味表明している。

だから国民総意の下に制定されたとされる憲法の機能目的の範囲は、あくまでも「国家の都合」によって限定されるはずである。

だからその範囲で戦争放棄しようと、憲法をもとにあれこれ議論しようとその国の勝手である。

当然そこで「国家的都合」で設定できる憲法上の「平和」自体も限定されるであろう。

なぜなら対外的な戦争にはかならず対戦相手国が存在するからだ。

もとより他国の「国家的都合」である戦闘行為そのものを制限規定する力などは「日本国憲法」には微塵もない。

平和を守るということでは、ここにもう一つの外すことのできない絶対的ファクターがあることになる。

当然のことであるが「戦争をしない」「こちらから戦争を仕掛けない」という国家的理念と同時に、平和維持には「他国から戦争を仕掛けられない態勢」という、いわゆる防衛という戦争抑止力にも対処する必要があることになる。

ここから専守防衛という考え方が出てくる。

侵略行為そのものは他国の「国家的都合」に他ならない。

「他国から戦争を仕掛けられる」という他国の「国家的都合」に対しては、いかに平和憲法の権現であるところの日本国憲法といえどもまったく制御はできないということである。

現状でもし戦争を仕掛けられたら、もっぱら撃たれっぱなしでいるしかないわけである。

突き詰めれば、現行平和憲法ならそれすらもどこかで容認しているのであろう。

結局のところ平和の花は、日本国内の日本人の頭の中でしか咲かないということである。

となると自称平和憲法だけで日本の平和が守られるとするのは、ある種の思い込みにも似た一方的な信仰心にも思えてくる。

この種の思い込みは、意外にも二千年前の古代人にもあったのである。

かっての古代中国では、他国からの侵略による「兵害を免れる」として、五月五日に五色の糸を肘に結ぶと「兵の鬼気(ものの気)を避ける」という道教的呪術があったことが知られていた。

そのように、人々にひろく信じられていたのである。

当時は攻め込んでくる敵兵には恐ろしい死神が憑いていて、その体には人を容赦なく殺傷する鬼気(物の怪)を帯びていると考えられていた。

しかしそのようなときに身を守る呪術さえ施していれば、敵兵に殺されることはないと信じられていた。

その兵禍を避ける方法とは、「五月五日に五色の糸を肘に結ぶ」として、前もって決まった時に決まったことを呪術として手順通りにやっておくことが必要であるとされていた。

そんな馬鹿なというようなことが、当たり前に信じられていた。

奇しくもこれが古代に通用した当時の普遍的な呪術であり、民衆に浸透していた古代の兵禍を避ける方術の基本的考え方であった。

これが古代の原始的な「呪能」信仰といわれるものである。

いまの日本人が考えているように、平和憲法だけで日本の平和が守られるとするのは、まさしく現代版呪能信仰といえるものなのかも知れない。

現代の日本人とて、古代人の呪能を一概に笑うことは出来ないのである。




My Cat Saved My Son

 



動画「My Cat Saved My Son」の場合は飼い猫であるから、これはさしずめ有事の自衛隊出動というところであろうが、だがこれには直前にシビリアンコントロールが効いていたようにはまったく思えない。

第一、自衛隊にはこうした攻撃に対して俊敏な対抗処置は取れないのであるから、たとえ話であるとしても犬の突然の攻撃に即猫の自衛隊が出動したなどとはここで表現するのには所詮無理があることになる。

犬の攻撃に対して、猫はその最初の一撃(足に一噛み)に素早く反応し出動している。

いわゆる早期警戒システムが実質働いたわけで、間髪入れない迅速な反撃行動に出ているのである。

どうみても猫の反撃の素早さが最大の抑止力となっていて、それによって犬の方は瞬時に撤退している。

猫からみれば自分が攻撃されたわけではなく、飼い主の(無抵抗な)子供が犬に一方的に攻撃されたのであるからある意味集団的自衛権を行使したのだとも考えられる。

飼い主側と猫との間にはそれなりの信頼(同盟)関係があったことは確かであろうが、シビリアンコントロールどころか明確な相互扶助、集団的自衛権に関しての事前契約がされていたのかどうかはまったく分からない。

毎日餌という報酬を得ていたということであれば、猫はある種の傭兵かボディガード的存在であった可能性はある。

日本の平和憲法の下では、自衛隊といえども戦争(戦闘)行為は憲法違反であるから、ここでは反撃さえも出来まい。

早い話演習ではない戦闘行為は即憲法違反、違憲行為である。

法的には一発でも発射すれば銃刀法違反、あるいは殺人罪で捕まってしまう。


ここは戦闘行為ではなく、あくまでも威嚇射撃であるといえば、法的にはクリアできるのかも知れない。


自衛権の放棄はどうよ?

「個別的自衛権だって必要ない。万が一他国が攻めてきたら国民は無抵抗で降伏し、すぐに首相や政治家が和平交渉に出るんです」

(引用元)
http://i.imgur.com/tKavxVy.jpg


↑これは平和憲法の条文冒頭に、他国との交戦状態に遭遇した場合直前に自衛権を放棄し即無条件降伏を一方的に宣言することを条文に入れるということか?

他国の一方的戦争行為には無条件降伏で対応し、ただちに侵略占領行為を容認するということであろう。

後は首相や政治家が和平交渉に出て、他国の言いなりの傀儡政権に移行するという手順であろうか。

さらに言えば、先般より「日本に核の雨を浴びせる」と北朝鮮に脅されている情勢を深刻に考えて、ここは国の安全を考えて早期に降伏の意思を表明しておくべきなのかもしれないではないか?

それも弾道弾を撃ち込まれた後では遅過ぎるであろう。




無抵抗主義の村-日本

 






「無抵抗主義の村-日本」の無抵抗主義ということはきわめて悠長な話であって、無抵抗そのものが武器になる、あるいは平和への最善の方策などという手前勝手な主張そのものが端から安直に侵略側に受け入れられる余地などあるわけがないのであって、唯一ここで言えることは、結局のところ相手の武力に屈して自らの手で奴隷売買の契約書(条約)にしたり顔で署名したも同然ということであろう。

侵略者に白紙委任状を渡しておきながら、後から予想外の展開に地団太踏んでも遅かろう。

無抵抗主義とは最初からそのように、国民そのものが人間としての権利も尊厳も放棄することを自ら宣言しているのに他ならない。

危険この上ないことである。

侵略に対してあえて武力による抵抗はしない。
たとえ食料や財産を奪われてもいい、とにかく大事な命さえ助かればいいということである。


一見尊い人命至上主義の体を成しているかにみえて、その裏に見え隠れする卑屈さは否めない。

まずもって侵略側の都合の下で自国民の命の保障がとれるかどうかの確証とてないわけで、今後生き残って少数民族・日本村としての形を成すかどうかも不明確な事態ではあろう。


歴史を振り返れば明白である。

無抵抗主義の下では極端な話し、常に国家は非情であって国民はかってのシベリア抑留者同様、国そのものに見捨てられ僻地開発の労働力として集団移送される奴隷化条項もそこには加味されるであろうが、将来そこから開放され生きて故国に還られるかどうかは分からない。

非常時では、自国民といえども捨てられるである。それが棄民、棄兵策である。

シベリア抑留も外交的に、自国の武装解除させた兵員を奴隷要員として扱われることを日本が容認したのである。

その結果がシベリア抑留という終戦時の悲劇であった。


日本は平和憲法で戦争を放棄している。

そう宣言している以上、そこから生じるであろう外交上の利点や対外的な不安要因は国民すべてが享受しなくてはならない。

国が戦争を放棄するということは、外交の最終手段としての武力による戦争をしてまで国民の生命と財産とは守らない、守り得ないということである。

それは実際問題として、どうにも否めようがない。

だからこそ他国から国民がいくら拉致されようと、あるいは領土が侵犯されようと日本という国自体は憲法で国家機能を制限されているという理由で、非戦争体制でいつまでも傍観していられる。

いうなれば、ここでは憲法上では相対的な棄民さえもが成されるということがいえよう。

それが日本国憲法の理念とするところの、いわゆる平和維持ということである。










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タグ:戦争放棄
posted by モモちゃん at 08:52| 歴史再発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする