2018年06月14日

戦国キリシタンの動向と殉教について

長崎代官・村山等安一族処刑の経緯(1)

学校では絶対教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

幕府に裁かれるキリシタン村山一族
海外の史料で確認できる事実
村山等安の長男、徳安の処刑の経緯

東洋医学史研究会
宇田明男

 

 


●裁かれるキリシタン村山一族


宿敵末次平蔵によって幕府に訴追された長崎代官・村山等安は、1618年、ついに将軍秀忠によって代官職を罷免された。

代官職罷免に至る経緯は劇的であるのだが、同時に非常に複雑な展開があるのでここでは割愛する
。(
詳細は拙論ドキュメント・「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景参照ください)

結局、村山等安は彼に敵対するイエズス会勢力による陰謀絡みの告発によって代官職から引き釣り下ろされた。

等安を倒した長崎内町の末次平蔵は、その直後幕府に長崎代官の職に就くことを自ら強く願い出た。

事前に用意された幕府への2000両もの冥加金はもとより、かねてよりの彼の政略的根回しがここでは見事に功を奏したといえるであろう。

その場で幕府重臣らは末次平蔵の代官職就任に賛同した。

1618年10月末、この訴追の合間に新たに長崎代官に就任して長崎に舞い戻った末次平蔵と彼の盟友長崎奉行・長谷川権六は、早速その強権を行使して手厳しいキリシタン取締を長崎において次々と実施し始めた。

ここより村山等安失脚以後の長崎におけるキリシタン弾圧の様相を少し紹介しておきたい。

まず最初の大きな変化として、長崎周辺にそれまで信徒によって匿われ潜伏していたキリスト教宣教師に捕縛の手が伸びたことである。

ここでも長崎奉行所の真の狙いは、あくまでも村山等安一族の徹底した身辺探索であった。

それまで長崎において隠然たる力を持っていた村山等安の旧勢力を一掃するためでもあった。

反対勢力は等安の影響力を恐れるあまり、彼を徹底的に追い詰めて死罪に陥れることを画策した。

潜伏する宣教師一人を密告した者には、銀の棒30本を褒賞として与えるという布告が長崎奉行所から出されたのもこのときであったが、これには早速手ごたえがあった。

長崎奉行・長谷川権六はその職に就いて以降というもの、キリシタン勢力との距離を適当に保った位置でその動向を密かに探ってもいた。

それまで村山等安との関係もあって、ことさら長崎のキリシタンを厳しく取り締まるという動きを見せてはいなかった。

ここに至って長谷川権六は、それまで緩めていた手網を手元へたぐり寄せるようにしていよいよ獲物の絞り込みに掛かったのだ。

当時長崎周辺では有力なキリシタン宗徒が、危険も顧みずキリスト教宣教師を密かに匿い、自らが宿主となってそうした聖職者の活動を背後から支援していた。

長崎奉行長谷川権六は、まずこの匿われているキリスト教宣教師を狙ったのである。

奉行所が放った密偵が市中で活躍し始めると、その探索によってすぐさま目に見える成果を上げ始めた。

その結果、長崎周辺に隠れ潜んでいた神父が次々と捕縛され始めた。

もとより潜んでいた宣教師が発見されれば、その宿主や世話役の付き人のキリシタン信徒も同様に厳しく罪を問われ奉行所の役人に拘束されることになる。

そこでは捕縛した神父の付き人に対して苛酷な拷問を加えて情報を引き出しただけでなく、必要なら度々買収工作も行われた。

長崎でもここからキリシタンに対する熾烈な拷問が日常化していった。

そしてそこから新たに隠れ潜んでいる神父の情報が次々と芋づる式にもたらされたのである。

ついに1619年3月15日、奉行所の捕り方は村山等安の長男アンドレス徳安の屋敷に匿われていたドミニコ会のモラーレス神父を発見し、その場で捕縛した。

これは長崎奉行所にとって最大の収穫であった。



モラーレス神父(1567〜1622)は1602年にマニラからドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来し京泊(薩摩)周辺で布教に従事していたが、1609年、迫害によって長崎に逃れてきていた。

その後の長崎での宣教活動は、長崎代官の村山等安一族が全面的に支援し続けていた。

等安は教会建設のために最適の土地をドミニコ会に提供しただけではなく、宣教事業や教会の経費などに多額の資金を提供し続けていた。

ドミニコ会は村山一族の経済的支援によって、長崎一円の布教活動の基盤を確保できたのである。

モラーレス神父の幕府による国外追放の処分にも、等安は秘密裏にその再入国の企てに手を貸していた。

1614年11月、モラーレス神父は幕府によって他の宣教師と共に日本を追放されたのであるが、このときあらかじめ待機していた小舟で再び長崎に舞い戻ると、長崎代官:村山等安の長男・徳安の屋敷内にそのままかくまわれていたのだ。
 

モラーレス神父は徳安の家で逮捕された直後は長崎牢に入牢しとなり、8月8日には大村の鈴田牢に移送された。

翌年3月25日には壱岐島の牢に移送されたが、牢内からも手紙や使いの者を介して神父として使徒職を遂行した。

 モラーレス神父は1622年9月10日、長崎の西坂の丘で弱い火で火炙りとなった後、1867年7月7日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。


長崎奉行所によってモラーレス神父が捕縛されたとき、当主の徳安は不在であったが、妻マリーアは直ちに夫に急を知らせて呼び戻した。

神父を匿っていた宿主徳安もそのまま拘束され奉行所に連行されたが、この時点では徳安の妻マリーアはまだ捕縛はされなかった。

彼女は夫徳安の処刑後、村山一族の一人として拘束される。

モラーレス神父の宿主であったことで村山等安同様、幕府のキリシタン禁令を犯した長男の徳安一家も厳しく罪を問われることとなる。


その後の長崎奉行所の調べによって、村山等安一族の関与はここでも明白なものとなった。


●村山・アンドレス徳安、ついに処刑される


末次平蔵の訴えと申し出によって、すでに等安自身は将軍秀忠から長崎代官職を罷免され甲斐へ追放されていたのであるが、さらに幕府の天領下での一族によるこれらの法令違反はきわめて重罪であるとして、元和5年(1619年)11月16日ついに等安らに厳しい死罪の裁断が下された。

これに連座して11月19日、はじめに長男の徳安が長崎で火刑に処せられ、三男の長安一家は京都で斬首、12月1日には村山等安本人が江戸で斬首されてしまう。

このように処罰が進められた一方、長崎でも等安の妻や一族が次々と長崎奉行所の手によって捕縛され、村山等安の屋敷と財産は奉行所によってすべて没収された。

その結果、一族13人が連座して罪を問われ、下はわずか2、3歳の幼子(等安の孫)までもが刑場に引き出されて処刑されるという痛ましい悲劇が起こる。

同時期に長崎に居住していた商人・ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、等安の家族について次のように書き残している。



「等安は誠実な妻ジュスタと結婚して先ず次郎八(徳安)という名の息子をもうけた。次に現在サン・アントニオ天主堂ミサ司祭主任代行司祭をしているフランシスコ(仲安)をもうけ、やがて長安という三男が生まれ、今はこの妻との間に息子が八人か九人、娘が二人いる。成人した子供達はみな誠実で善良なキリシタンであり、年少の子供達は美しく愛らしい」


また、サント・ドミンゴ教会の修道師の村山一族についての記録には次のように記されている。



「これらの徳の高い兄弟が最も心を配っていたことは、長崎の教会を増大することでありました。教会のあった時代にはたびたび教会に行ったし、教えの組ロザリオの組に顔を出して、総ての人々に立派な模範を示しました。迫害の時に当たっては常に諸パードレを何処に如何に匿うか、過酷な迫害に対して、如何にすればキリシタンが耐えていくことが出来るかということを、彼ら兄弟の間で相談し努力していました。また数多くの問題について父親に協議しましたが、代官としてまた父親として説得に努めたのでしょう。子供達は父親の援助と努力によって数多くの問題、特に聖行列や前述の教えの組の諸事を立派に果たしました」


捕らえられていた等安の長男アンドレス徳安の処刑が決定した直後、11月14日に長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵らは訴訟がすべて決着し、完全に勝利したこともあって江戸から長崎へと意気揚々と凱旋を果たした。

その直後の16日には捕らえられているキリシタン信徒たちに死刑が申し渡されると、19日には信徒らは火炙りの刑に処せられた。

このとき処刑されたのはアンドレス徳安だけでなく、パジェス「日本切支丹宗門史」には、
「長崎代官長谷川権六は四人の宿主、すなわちドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主村山徳安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主吉田秋雲、オルスッシ神父とヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父の宿主コスメ武谷、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主、ポルトガル人でサン・ドミニコの第三会のドミニコ・ジョルジを犠牲者として選んだ。」とある。



tokuan元和の殉教の始まりである。

元和5年(1619年)の長崎でのこの火刑による最初の大殉教の様子が油彩画で描かれ残されている。


このときの処刑は、当時としてはもっとも厳しい火刑であって、村山徳安を含めて5人の殉教者を出している。

400年近く以前のこの迫害事件は長崎中のキリシタン宗徒にとっては衝撃的なものであり、当時の火炙りによる処刑の様子がキリシタン宗徒の手によって歴史絵画として記録されていたことになる。

ここでははっきりと特定できないが、画像に描かれている5人の殉教者のうちもっとも左側の白装束の人物がおそらくアンドレス村山徳安である。(画像は元和5年の大殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)

当時すでに捕縛され入牢していたパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレス徳安が役人の取り調べにおいて、「私はキリシタンであり、私自身および人々の霊の救済に努力してきた。それだから人々を救済に導くことを仕事としているパードレを私の家に置いたのである」、とモラーレス神父を匿った理由についてはっきりと答えたことが記されている。

アンドレス徳安の言葉には、最後まで命を賭してモラーレス神父を護ろうとする決意がいかに強固なものであったかが示されている。

さらに彼は処刑当日に、モラーレス神父に対して次のような手紙を書き送った。


「尊師のことが原因で、いま私が神への奉仕を終わることを深く尊師に感謝致します。マリーア(妻)とパプロ(長男)を尊師(の祈り)におまかせします。神のお恵みにより天国に於いて、尊師のためにキリストと聖母およびドミンゴに祈りましょう。 十月十二日(1619年11月18日) 村山アンドレス・トクアン」


処刑される当日、彼は白装束を身につけ妻のマリーアや兄弟、親族に最後の別れを告げた。

徳安と妻マリーアの間には、この年に生まれた長男パプロがいたが、マリーアは幼いパプロを抱いたまま刑場まで付いて行った。 (注)村山家文書によると、パプロは母マリーア・村山の殉教した後、病死したとされる。

パードレ・モラーレスのアンドレス・徳安の処刑に関する書翰の最後には、次のように書き遺されている。



「彼の霊は焔によって清められ永遠に神の御恵みを受けるために天国へ昇りました。時に1619年11月18日。
直ちに人々が遺体を引き取りに行きましたが、それが出来ないように、完全に焼かれて灰のみが残っていました。キリシタンはそれを集め、著名な殉教者の聖遺品のようにこれを尊敬の念を以って保存しました。彼の妻マリーアは息子のパプロを抱えて、この聖なる光景の場にずっといましたが、神が見守り給うが如くに聖なる死を夫が遂げるのを見つめていました。心に神の御恵の深きことを喜び、大きな幸を得る希望を抱いてそこを去りました。それから間もなく、彼女は俗世を棄てるため髪を切りました」











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posted by モモちゃん at 13:50| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする