2018年09月29日

今度の新札の肖像はせごどんに決定!?

 西郷隆盛の真影は何時出てくるのか?


西郷隆盛(1828〜1877年)は、自分の肖像写真を生涯一枚も残さなかったということがいまや定説となっている。

一般に流布している彼の画像と言われるものは、まったくの別物か偽物がその場しのぎにあてがわれているということになる。

西郷は終生写真機の前に立つことはなかったというわけである。

結局のところ、遺影としての写真も一切家族にも残さなかったことになる。

西郷自身が、幕末に入ってきた西洋の写真技術そのものにまったく関心がなかったわけはないだろうし、彼ほどの人物が写真を撮られることを理由もなく嫌ったということも考えにくいところである。

ましてや俗説でいうように西郷自からが暗殺を恐れて写真を撮らなせなかったのだとなると、それこそ英傑らしからぬ臆病者としか思えぬ発想で笑える話となろう。

現実はもっと深刻な立場に西郷は置かれていたから、むしろ周囲の者が西郷の身を必死に庇い案じたのだ。

終始緊迫した政治情勢の中に西郷はその身を置き続けていただけに、幕府側とは敵対することもあり幾度か捕縛や暗殺計画にも遭遇してきていた。

そのため西郷の近辺には影武者が置かれたほどである。

西南戦争の発端も、結局のところ明治新政府の西郷暗殺の画策が発端となっている。

そのようなこともあって、むしろ周囲の警護する者たちが西郷の身を案じて写真を撮らせなかったという見方がここではより妥当な理由ということになるはずである。


現代では西郷の肖像写真がまったく現存しないことで、かえって彼の人相や姿が注目されてきているようだ。

いまでもいろいろなところから西郷らしい写真が持ち出されてくる。 

最近ようやく上野公園の立派な銅像なども、生前の西郷の姿を忠実には再現されてはいない事実も知られるようになって、ここでもそれがいい加減な伝聞や合成されたイメージだけで作られたようにいわれだしている。

いまも昔も変わらず、西郷隆盛は民衆に人気があったのは確かである。

やはりそれは西郷隆盛の堂々とした風貌そのものが大いに関係しているのであろう。

そうした伝聞はあっても肝心の写真自体が残されていないのだから、どうしようもないところである。

幕末から維新に掛けての激動の時代にあって、あの坂本竜馬や勝海舟、木戸孝允、高杉晋作らさえしっかりと肖像写真を残している。

遠い薩摩、九州の南端の鹿児島の地にそのような風潮がなかったかというと事実は違っていた。

当時の薩摩藩士の桐野利秋や永山弥一郎だけでなく、西南戦争前には名もない藩士でさえも自らの戦場での死を覚悟して写真を撮っている。

だのに西郷の写真だけはいまだに出てこないのは、そこに何らかの意図が隠されているように思えるのだが、それにしても残念なことには違いない。

その結果ということになるのだろうが、明治維新の悲劇的英雄という一面もあって、当時でさえそれに相応しい風貌がどこかで勝手に作られてしまい、西郷隆盛のイメージだけが先行してしまっていたのかも知れないのだ。


当然のことであるが、西郷隆盛が活躍した時代にはそれこそ数十万もの人々が直接彼の風貌や面相を目にしていたはずである。

西郷は行く先々で衆人の注目の的であったし、倒幕の進軍中もその姿を一目見ようと周辺の町や村から多くの人々が沿道に続々と集まってきた。

ところが肝心の肖像写真そのものが残されていなかったことで、次第に人々の記憶が失われいくと共に、西郷の人相そのものは風化し彼の死後それこそ勝手に変貌していったように思える。


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その最たるものがあの上野の銅像である。

幕末来日したイギリスの外交官(日本語通訳官)、アーネスト・サトウは1867年1月神戸で西郷隆盛と面会したとき、「(西郷は)黒ダイヤのように大きな目玉をしているが、しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」と日誌にはっきりと書いている。

「黒ダイヤのように大きな目玉」という印象は相当強かったらしく、やはり多くの肖像画にもこれが共通した西郷の特徴となっている。

威風堂々とした体躯と黒ダイヤのように大きな目玉がその特徴となれば、少なくとも維新の英傑に相応しい風格が最初から揃っていたことになる。

しかしながら、それだけではあまりにも情報が少な過ぎる。

どんな過去の偉人であろうと肖像画や写真がなければ、断片的な情報でイメージは後からどんどん膨らませることが出来る。

そこから本物とは違ったイメージ画像が勝手に作られてしまうことになる。

こうなるとこれはまったくの創作ということになる。


その結果が、あの有名なエドアルド・キョッソーネのひどくモンタージュされた肖像画の独特の風貌であり、上野の銅像となってしまうわけである。

この肖像画では西郷の極端に目がデフォルメされて異常なまでに大きく描き込まれている。(1883年当時とされる)

どうみても目の大きさと顔の幅の比率が不釣合いで、通常の人の顔とはいえないものである。

窮屈な顔面に大きな双眸が窮屈そうにはめ込まれているに過ぎない。

西郷の目玉が大きかったにしても、外国人が描いたものだけに日本人から見るとどうしてもそうした違和感がある。 

私に言わせれば、極端な風刺画的デフォルメの手法である。

しかもアーネスト・サトウのいう愛嬌があるとも思えない。



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銅版画家のキョッソーネ自身は、このとき西郷本人とはまったく面識がなかった上に彼の写真そのものが存在しなかったために、取りあえず弟の西郷従道と従兄弟の大山巌をモデルにして肖像をどうにかイメージして合成したというが、これには驚きである。

これだとただのモンタージュ画像ということになる。

同様に、銅像を作った高村光雲も西郷との面識はないわけで、これまたキョッソーネが描いたその肖像画をもとにして顔の部分を製作したとされている。(1899年)

デフォルメイメージ画像の拡散である。


銅像の完成後、その除幕式に招かれた西郷未亡人のイトが銅像を見上げて「宿んし(主人)は、こげなおひとではなかっ!」と思わず叫んだという逸話さえ残されているわけだから、何をか云わんやである。


当方も西郷隆盛の風貌には少なからず関心がある。

まず「黒ダイヤのように大きな目玉」といわれると、私などはあの有名な博物学者の南方熊楠先生のくりくりした目玉をつい思い浮かべてしまう。

眼力がすごいのだ。

普通だと、黒ダイヤのように大きな目玉を持っている人物などすぐには思いつかない。


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何よりもその黒々とした双眸には力があるからに違いあるまい。

しかしそうであれば相当に個性的な風貌であろう。

もしかしたら実際は西郷の「黒ダイヤのように大きな目玉」は、南方熊楠先生よりもずっと大きかったのかもしれない。

インターネット上を検索するとたくさんの西郷隆盛の肖像画と想定される画像が出てくるが、大抵の画像は西郷のイメージ画の延長線上にあるものだと思う。

それで今回は銅像の人相とは別の西郷隆盛の顔を求めて、独自にその手がかりをあれこれと探し求めてみることにした。

西郷の経歴を調べてみると、彼は安政5年(1858年)当時、上京して攘夷派の諸志士らと挙兵をはかったりして密かに活動していた時期がある。

すでにこのとき西郷隆盛は身の危険に晒されていた。

幕府方の捕吏によって厳しく行方が追跡されていたというが、そのとき西郷を探索捕縛するための人相覚なるものが市中に配布されていたという事実がある。

その貴重な写真画像が、昭和34年当時、世界文化社から刊行されていた「科学大観」という画報の1冊に掲載されていた。

これは、いわゆるモンタージュ作画されたお尋ね者の手配書といわれるものであった。

発見して役人に通報すれば、幾ばくかの報奨金が出た可能性もある。


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手配書には、はっきりと西郷吉之助と名前が書かれている。

西郷の似顔絵の隣には長州の高杉晋作や筑前の平野国臣の似顔絵が同じように並んでいる。

手配書とはいえ、その画像がいい加減なもののはずもなく、これは当時の西郷の人相や骨相をある程度正確に捉えている貴重な史料ではないかと思う。


このときの西郷の似顔絵を見ると、わざとらしく相対的に悪人面で描かれている。
 
一方の高杉晋作の場合は写真は残されているので、この手配書の人相との比較検証が出来る。

それなりにモンタージュ作画の出来栄えが分かるわけだ。

どの角度から捉えるかで雰囲気や相貌は変わるだろうが、高杉晋作の場合は手配書と写真を見比べてもそれほど似ているとはいえない。

実際この程度の人相書きで人物が特定できるかとなると、いささか心もとないところである。

高杉でさえこの程度であるから、西郷の場合にしても本当の人相とは程遠いのかもしれない。

しかし手配書の似顔絵といえども、その人物の印象を一瞬にして掴み取るような巧みな描写力があって侮りがたいのも事実である。

描写の中にその人物を彷彿とさせる雰囲気が出されていれば、何となく分かるものなのかも知れない。

ただ、それぞれに悪人面が強調されているところが、ここではかえっておかし味さえ感じさせるところである。


この手配書では西郷は、「黒ダイヤのように大きな目玉」の印象を強調したようには描かれてはいない。

どうみてもそれとは程遠い武骨な面相である。

その面相も骨相も一応東洋人的風貌としてのバランスが、違和感無くとれているのは確かである。

全体にデフォルメされた感じではない。

ただ全体の骨相ということであれば、この点隣の高杉晋作の場合では何となくそれらしく巧みに描かれているようにも思える。

そうなるとこの手配書では、高杉の顔面の下半分の形はほぼ正確に捉えているのではないかと思う。

彼の目じりが上がっているか下がっているかは、見る側の目線の高さでも印象は大きく変わってくるであろう。

肝心の西郷の骨相はというと、全体にいささか角ばっている。

まずそこは長めの眉としっかり横に張った顎が描かれていて、従来のモンタージュや銅像とは明らかに違った印象を受ける。

ここが重要であろう。

どう見ても描かれている3人の中では、西郷がもっともその顎が大きく張っていて特徴的に描かれている。

顔面と目の大きさのバランスが取れている。

それでいて西郷の黒眼は大きかったということであろう。


ここで補足すると、西郷の腹心の武人で同じ薩摩藩士の永山弥一郎とは同郷人の中でも非常に骨相が似ていたということである。

骨相や体格、その雰囲気が似ていただけではなく、顔つきもそれなりに似ていたはずである。

そのことを周囲の者が一様に認めていた。

そのため永山はたびたび西郷の影武者を務めていたともいうが、それうなると逆に永山弥一郎に類似した人相を想定していくことがより本物の西郷の顔に近づくことになるのかもしれない。

永山弥一郎の肖像写真は現在も何点か残されているので、ある程度その人相や骨相は一応ここでも確認できる。(下の2枚の写真)


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やはり永山も、その特徴として確かに男らしい角張った骨相をしている。

写真で見た永山の顎のラインと手配書の西郷の顎の張り具合は、たしかに雰囲気がよく似ていると思う。

手配書同様にそこには武骨さがしっかりと出ている。

そうであれば、この両者の骨相についての伝聞そのものの信憑性は非常に高いということになってくる。


永山は幕末各地で戦闘に加わり、その抜群の軍功と勇猛さとで知られていたが、最後は西郷と共に西南戦争で三番大隊指揮長として華々しく散った薩摩の武人である。

それでいて武人らしく服装や身だしなみに洒落をみせるところは、西郷や盟友の桐野利秋(中村半次郎)とも共通するところである。

こうした武人としての姿勢からいえることは、人と対峙するときは常に姿勢や服装に最大限の注意をはらっていたということであろう。

西郷にあっても同様であって、どこまでも礼儀正しい人物と捉えなくてはなるまい。

あえてここで言うならば、本当の西郷隆盛は銅像のような浴衣姿などでは外出はしなかったということになる。


桐野は戦死したときその身にフランス製の香水を帯びていたといわれるし、永山も火中に自ら身を投じてその最後も己の屍を晒さなかった。

武骨さの中に洗練されたダンディズムを持っていたというのは、本当にラストサムライの気概を感じさせる部分でもある。

薩摩でも武辺の者として知られていた永山は、それでいて女性や子供らにも親しまれ絶大な人気があったというところなど、その人柄までが西郷と酷似しているからなお更おもしろいところである。

余談であるが、永山の顎や額の形は、どこかしら往年のチャールズ・ブロンソンをも髣髴とさせる。

写真を観るとそのような雰囲気が漂っている。


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ということで実際の西郷の風貌も、おそらくは永山同様にブロンソンの骨太な風貌にも酷似していたように想像されてくる。



ここで再度、永山弥一郎や手配書の人相書の骨相をそれぞれ比較してみると、西郷の人相そのものは、キョッソーネのモンタージュ肖像画や銅像とはまったく違った風貌だったと考えるべきだと思う。

こうなるとやはりキョッソーネのモンタージュ肖像画の信ぴょう性はきわめて低いとしか言えない。

今回、当方もモンタージュの手法を使って、手配書の人相書きに手を加えてみた。

維新後の断髪した西郷と高杉の顔を描いてみたが、その結果はどうであろうか。

断髪してしまうと随分と人相や風貌が変わってしまうのだが、骨相だけは簡単には変えられないところがここでは最大のポイントである。


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西郷隆盛の場合は骨相を覆う顔の筋肉も引き締まっていて、これまでの肖像画とは違った武骨ないかつい風貌をより印象づけているように思える。

そうであれば、西郷の風貌はキョッソーネのモンタージュ肖像画や銅像のような、いささかぷっくりした面貌そのものはやはり似つかわしくないということになってくる。


ここらは当方の目論見どおりというか、西郷の骨相を考慮するだけでも、そこにはいままでのイメージとはまったく違った西郷隆盛の風貌が新たに浮かび上がってくる。

これは従来の肖像画や銅像に対して、別な観点からさらに検討を加えるべきポイントではないかと思う次第である。


民間に西郷隆盛の写真はあるのであれば、すでに発見されて特定されていてもおかしくはないところである。

国会図書館や政府機関にも保管されてはいないのであろうか。

一説によると西郷は、明治天皇から肖像写真を求められていたということであったが、結局写真は提出されないままに終わってしまったのだという。

これはむしろ逆に本物の肖像写真は天皇の下に届けられていて、いまでも宮内庁書陵部に密かに保管されたままになっているのではないかと当方は思っている。

唯一現存するとすれば、宮内庁書陵部である。

今世紀にそれが明らかになるかどうかは分からない。

いつの日か西郷隆盛の真影写真が、日の目をみることを切に願っている。














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posted by モモちゃん at 17:10| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする