2019年08月16日

戦国の美女伝説・戦う豊後の妙林尼

妙林尼の墓石に遭遇する!?

戦国時代に九州の豊後に妙林尼と呼ばれる女性がいた。始めから尼僧であったのではなく、大友氏の支城である鶴崎城主吉岡鑑興の正室であった。

妙林尼は舞踊や音曲の芸にも秀でていたとされるだけに、容姿端麗であったことは間違あるまい。

しかしながら妙林尼の出自ははっきりしないこともあって、出家する前の名前さえもわからない。

年齢も不詳であるが、出家したときはすでに元服した男子が居たことを考えれば三十代は越えていたであろうと思われる。
わかっていることは、周囲から妙林さまと呼ばれて親しまれていたということだけである。

妙林尼が嫁いだ吉岡家は豊後大友氏の一族であると同時に、生え抜きの重臣の一人でもあったが、島津との耳川の合戦において日向国・高城の激戦であえなく討ち死にしてしまった。

夫鑑興の戦死によって妙林尼はその菩提を弔うため出家して尼となったのである。
当時は夫か戦死すれば妻は仏門に入るのが武家の習いであった。

妙林尼は女性でありながら島津軍に奪われた城を奪還すると共に、撤退する島津軍を追撃し大きな戦果を挙げたとして地元では広く知られている戦国時代の人物である。

これには次のような背景と経緯とがあった。

当時、豊後をはじめ九州の6カ国を掌握した大友宗麟は自らキリシタン信徒となり、新たにキリシタン王国建設の野望に燃えて版図を広げようとしていたが、図らずも耳川の合戦(天正6年・1578年)で島津氏に大敗してからは次第にその勢力は衰退しつつあった。

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吉岡家では当主の鑑興亡き後は嫡子の吉岡統増がすぐさま跡を継いで鶴崎城主となっていたが、敵対する島津氏は勢力を拡大させて天正14年(1586年)12月には大友氏の支城鶴賀城まで北上し城を包囲した。

島津家当主の義久の弟の島津義弘は肥後口から三万七百余りの兵を、その下の弟の島津家久は一万余りで日向から大友氏領内へ侵攻してきていたのだ。


このとき豊臣秀吉の九州攻めに加わっていた四国勢の長宗我部元親、信親、仙石秀久、十河存保、依岡左京らが大友氏に援軍として味方して合流してきていた。

島津の侵攻を前にして、大友、四国連合軍六千の兵は大野川を渡り戸次川の河原で島津軍一万八千と激突したが、圧倒的な島津軍の大軍に打ち砕かれ連合軍は大敗を喫した。(1586年)

この直後大友家の家督を継いでいた大友義統は恐れおののき、豊後の府内を放棄して豊前の龍王城に逃走する有様であった。
戸次川の合戦に勝利した島津軍は軍勢を二手に分けると、大友屋敷のある府内(大分市顕徳町)と府内の東方に位置する鶴崎城(大分市南鶴崎)に向かって進軍した。


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さらに府内をめざす島津家久は、2千の軍勢を大友宗麟が籠城する臼杵城(臼杵市)にも向けてくる。
この事態に鶴崎城主吉岡統増は、急遽軍勢をまとめると宗麟を助勢するため臼杵城へと駆けつけた。

後に残された鶴崎城は老兵と女子供達だけであって、この時点で大友氏の支城である鶴崎城は見捨てられたも同然であったが、とにもかくにも後は自力で留守居の者達のみでその場を耐え凌ぐしかなかったのである。

このとき城主不在の鶴崎城には、妙林尼が城を守る留守居として残っていたことになる。

それでも島津軍の侵攻を知った近隣の領民らは城主不在の鶴崎城に次々と逃げ込んでくる状況であったし、この間は実質的に妙林尼が城主の代理として鶴崎城を守らざるを得なくなっていたことになる。

もはや城を出ての戦いに臨めるような戦力は吉岡家にはなかったが、留守居の妙林尼を城主として戦うことに決まった。

しかもたとえ女であろうとも、ここでは名目上の城主として妙林尼に立ってもらわないことには島津との籠城戦は戦えないと皆が考えたのである。
妙林尼らは直ちに籠城戦への備えを固めた。

妙林尼は城内に籠もる老兵や農民に自ら防御策を授けると、籠城戦に耐えるべく城の周りに竹矢来や逆茂木、土塁や空堀、さらには薬研堀や落とし穴まで作らせていった。

もとより鶴崎城は海の傍に築かれた水城であり、それも大野川と乙津川の扇状地に立地していたため干潮時にしか城には出入りできなかった。
妙林尼は鶴崎城の陸地側の防御を固めれば、容易には攻め落とされないと考えた。

ここで女性である妙林尼がこのように軍法に通じていることが、とにかく不思議でならない。
周りの家臣らが補佐していたとしても、妙林尼のこのような独創的な防御策は九州でも希ではあるまいか。

しかも妙林尼は攻城戦の戦いを誰よりも熟知していたということである。

そうこうしているうちに鶴崎城へ逃げ込む領民を追いかけるようにして、たちまち島津軍三千の軍勢が城を包囲し攻撃を仕掛けてきた。

城内の兵はわずかである。それも老兵ばかりである。
まともに戦ってもとうてい勝ち目はない。
しかし妙林尼が頼りにしたのは籠城してきた農民達であり、逞しい女達であった。

幸いなことに城内には鉄砲の装備が残されており、妙林尼自らがそうした鉄砲の操作も事前に農民や女達に教えていた。

実際に妙林尼は城内からの鉄砲攻撃を巧みに采配して見せた。

島津軍の吶喊攻撃に対しては、その都度指示通りに鉄砲が火を噴いた。
籠城する者達は誰もが必死であったし、何よりも妙林尼の防御策は島津軍の猛攻によく耐えきった。

島津軍に攻め込まれれば、男らが命を失うだけではない。
女子供は皆捕虜となって拉致され、そのまま人買い商人に売られてしまうのである。

家畜のように売られた者の命運とその悲惨さは例えようがなかった。
海港が近いだけに皆がそれを目にしてきていた。
海外からの奴隷船はすでに鶴崎や沖の浜の港近くに続々と集り始めていることも城内から覗えるわけで、その理由を領民の誰しもが知っていた。

畢竟、領民達はそうした恐怖がすぐ目の前にあるからこそ、ここで戦うことに必死にならざるを得なかった。
妙林尼の手掛けた防御策は見事であった。

それらの防御を前にしても島津軍は幾度となく攻撃を仕掛け、そして退却を繰り返しながら迫りつつあったが、その度失敗して多くの犠牲者を出すばかりであった。

結果島津軍は鶴崎城に十六度も攻め寄せたが、どうしても攻略できずに攻めあぐねたのであった。

勇猛な島津兵はそれでも決して怯むことはなかったし、彼らは攻撃命令には命を惜しまず忠実に従うのである。
それだけに島津軍にとって鶴崎城攻城戦そのものは、手痛い犠牲を払う消耗戦でしかなかった。

そうなると指揮官である武将は思案せざるを得ない。
ここにきて遂に島津軍は和睦を求めてきたのであるが、妙林尼側もすでに戦いに疲労困憊して限界が来ていた。

この機を逃さず、籠城戦に疲弊していた妙林尼側も和睦をすんなりと受け入れることに決した。

妙林尼は家臣や領民の安全が確約されると、それこそ潔く鶴崎城を島津軍に明け渡した。

島津側は名目上とは云え激しい戦を交えた相手が、女の妙林尼であることに少なからず驚いたのはたしかである。

妙林尼は城を出るとそのまま近隣の民家に移り住んだのであるが、意外なことに妙林尼はその直後から薩摩の武将らと親しく交流し始めたのである。
敵味方に分かれて戦っていた兵士らもそこここで次第に交流するようになり、城内でも両者が飲み交わし互いに武勇を称え合ったのである。

酒宴を開けば、双方とも根は純朴な者同士であるから瞬く間に親しくなっていった。

これはただ事ではなかった。
妙林尼からみれば鶴崎城は敵の島津軍に奪い取られたことに違いはなかったし、彼女自身ここは何としてでも城を取り戻したいと考えた。

彼女にしてみれば夫鑑興を討ち取られ、そのうえ居城までも奪われてしまっては武家の面目は立たないのだ。
戦国の世に生きる女性でありながら、これはいかにも気丈夫過ぎる考えと云うことになるが、妙林尼自身はどうしてもこのままで済ませることは出来なかった。

妙林尼はこのとき非情な決心していたのである。

意外にも妙林尼自ら侍女を従えて鶴崎城を訪れると、酒肴でもって薩摩の武将らを懇ろにもてなしてみせたのである。

さらに無骨千万な武将らの前で妙林尼は着飾った侍女らと共に艶然と笑みを浮かべつつ舞い踊ってもみせた。

たびたび妙林尼らは鶴崎城を訪れ、こうした賑やかな酒宴を催して歓待してみせた。

妙林尼らのこうした趣向や歓待に薩摩の武将らは大喜びすると共に、それまでの警戒心もすっかり解けてしまって双方に打ち解けた雰囲気が次第に出来上がっていった。

早い話、薩摩側の武将らは思わずここで気が緩んだのであるが、これはむしろ妙林尼に気を許したと云うべきであろうか。

それから三月ほど過ぎた天正15年3月、太閤秀吉が二十万もの大軍を従えていよいよ島津討伐のため九州へ進軍してくると云う知らせがもたらされた。

豊後領内に留まっていた薩摩軍はこの情報に驚くと共に、一斉に退却命令が出され鶴崎城を守備していた薩摩軍もあたふたと撤退の準備に取りかかった。

薩摩軍の武将の一人である野村文綱(備中守)が、妙林尼の下を訪れたのは撤退する前日のことであった。(逆に妙林尼自身が野村文綱の下を訪ねたともいう説もある)

「我々は明朝、薩摩へ帰郷いたす。妙林殿は今後如何なされますか」と問うたという。

これに対して妙林尼は「私は自ら大友家に背き、皆様と深く厚誼を交わしました。もはや大友家には残れませんから家臣共々一緒に薩摩に連れて行って下さい」と真剣に頼み込んだ。

妙林尼に思いを寄せていた野村文綱はこれを大いに悦び、さらに妙林尼は祝賀と称して鶴崎城で島津軍将兵に最後の酒肴を振る舞った。

翌早朝出立する島津軍を「後始末を済ませたら、すぐに合流いたします」と妙林尼は見せかけて、この後すぐさま家臣に命じると、妙林尼一行を待ちながら酔って千鳥足でゆっくり撤退する島津軍に乙津川辺りで五十名ほどの兵で奇襲攻撃を仕掛けさせた。

逃げ惑う島津軍に対して、さらに寺司浜の松林には鉄砲隊が待ち構えており一斉に打ちかけた。

この襲撃で薩摩軍が三百ほどが無残にも討ち取られたといわれるが、このとき野村文綱は流れ矢を胸に受け負傷しながらも日向国・高城まで逃げ延びたが傷が元で命を落としたとされる。

この高城の地は、奇しくも妙林尼の夫鑑興がかって討ち死にした土地でもあった。

鶴崎城を奪還した妙林尼は、翌日薩摩軍の主立った武将の首級六十三を臼杵城の大友宗麟の下へ届けた。

その後の妙林尼の消息は不明である。
不運にも主家の大友家が滅び、妙林尼の子の吉岡統増も浪人となってしまう。

妙林尼が必死に守った鶴崎城もその後廃城となってしまうのである。(現在の鶴崎小学校・鶴崎高校周辺地域)

妙林尼は鶴崎城下の領民の命を守った恩人としていまでも地元では尊敬を集めているのだが、ここで撤退する島津軍を追撃するという彼女の所業はいささか過酷だったようにも思える。

和睦して城下の領民の命が保証されただけでも由とすべきではなかったのか。

敵対する相手と一旦和気藹々とした交流を持ちながら、一方で相手の裏をかくとは仏門に帰依する者としては余りにも非情過ぎるのではないかとも思う。

一方でそうせざるを得ないような状況そのものがあったのかも知れないし、まさに壮絶な殺し合いが当たり前の戦国という時代のおぞましさが現れている展開という気さえもする。

何故に妙林尼はそこまで非情になったのか。

この背景には、豊後に侵攻してきた島津軍の戦争捕虜に対する扱いが関わっていた可能性が大いにある。

そのことが特に豊後の戦場では島津軍優位の状況が続いたことで、侵略された側には重くのし掛かってきていた。

鶴崎城の攻防戦は特異な事例に過ぎない。

この間にも島津軍の人狩りが豊後領内では執拗に続いていた。

九州各地では早くから海外との奴隷取引がされていたことで、当然のようにこうした侵略された土地では奴隷確保の人狩りや異教徒狩りといった過酷な侵略行為が多発していた。

それが戦国時代の戦争経済の実態であり、九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした略奪と侵攻とを続けていた。

豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

当時の豊後地方での人狩りによる戦争捕虜について、宣教師ルイス・フロイスが詳細に記録している。


「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、味方勢力として大友に合力した連合軍でさえも豊後領民を人狩りしていたことになる。

そのため豊後周辺の交易港には、海外からも人買い商人が集まってきていた。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

妙林尼は己の目の前の戦いが終息したとしても、最後まで豊後領民が拉致されていくことに我慢できなかった。

薩摩軍への抵抗そのものはそうしたところから出たと云うことになる。

妙林尼の武勇を耳にした豊臣秀吉は妙林尼に是非会いたいと伝えたが、妙林尼はそれを辞退したのだという。

このとき妙林尼は、豊後の地より薩摩軍の人狩りによって連れ去られた領民が元の土地に戻されるよう申し添えたとも云う。

そしてこれは薩摩が秀吉に降伏した際に、あらためて豊後の領民を戻すよう薩摩に命令書が出された。


妙林尼のその後の消息は不明であるとした。
またどこでその最後を遂げたのかも不明である。

しかしながら妙林尼の消息について奇遇とも思える個人的な出来事があった。

戦国時代、当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する別府湾に面したまさにこの鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(初代宇田国宗)として知られていたが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後のこの地に移り棲んできていた。

現在も現地には国宗という地名と国宗天満神社だけが唯一残こされている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、天正14年(1586年)12月の鶴崎城攻防戦がすぐ目の前で勃発したのであった。


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先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも鶴崎城に至る直前の道筋にあったため島津軍との最初の戦場になった。

おそらく鍛冶場は一瞬にして戦場と化し、すべては灰燼に帰す被害を受けたはずである。

昭和50年当時まで当方の先祖の墓地は鶴崎にあったのだが、突然道路建設によって立ち退きをせざるを得なくなった。

そこですべての墓石の移転が必要になり、一つずつ墓碑銘を調べていったのであるが、ふるい墓石になるとまったく判読できないものもあって、どうにか江戸と明治のものは読めるがそれ以前の何基かは判読不明であった。

それらの墓石で気になるものがあった。
年代のわからない古い墓石に「釈尼妙林」と記されているものがあった。
「釈尼妙林」とはあの妙林様と何らかの関係があるのだろうかと、あれこれ考えてみたのだが手元に何の記録も残っていないので事実関係は一切わからない。

「釈尼妙林」とは浄土真宗のいわゆる法名であるから、当地のお寺があの妙林様の法名の複製をむやみに出すわけはないわけで、ここらはまったくの謎である。

「釈尼妙林」が実際に妙林尼の法名なのかどうなのか、そしてそのような墓石が何故に当家の墓地内にあるのか不思議である。












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詳細は
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ラベル:妙林尼
posted by モモちゃん at 19:35| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする