2019年08月16日

戦国の美女伝説・戦う豊後の妙林尼

妙林尼の墓石に遭遇する!?

戦国時代に九州の豊後に妙林尼と呼ばれる女性がいた。始めから尼僧であったのではなく、大友氏の支城である鶴崎城主吉岡鑑興の正室であった。

妙林尼は舞踊や音曲の芸にも秀でていたとされるだけに、容姿端麗であったことは間違あるまい。

しかしながら妙林尼の出自ははっきりしないこともあって、出家する前の名前さえもわからない。

年齢も不詳であるが、出家したときはすでに元服した男子が居たことを考えれば三十代は越えていたであろうと思われる。
わかっていることは、周囲から妙林さまと呼ばれて親しまれていたということだけである。

妙林尼が嫁いだ吉岡家は豊後大友氏の一族であると同時に、生え抜きの重臣の一人でもあったが、島津との耳川の合戦において日向国・高城の激戦であえなく討ち死にしてしまった。

夫鑑興の戦死によって妙林尼はその菩提を弔うため出家して尼となったのである。
当時は夫か戦死すれば妻は仏門に入るのが武家の習いであった。

妙林尼は女性でありながら島津軍に奪われた城を奪還すると共に、撤退する島津軍を追撃し大きな戦果を挙げたとして地元では広く知られている戦国時代の人物である。

これには次のような背景と経緯とがあった。

当時、豊後をはじめ九州の6カ国を掌握した大友宗麟は自らキリシタン信徒となり、新たにキリシタン王国建設の野望に燃えて版図を広げようとしていたが、図らずも耳川の合戦(天正6年・1578年)で島津氏に大敗してからは次第にその勢力は衰退しつつあった。

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吉岡家では当主の鑑興亡き後は嫡子の吉岡統増がすぐさま跡を継いで鶴崎城主となっていたが、敵対する島津氏は勢力を拡大させて天正14年(1586年)12月には大友氏の支城鶴賀城まで北上し城を包囲した。

島津家当主の義久の弟の島津義弘は肥後口から三万七百余りの兵を、その下の弟の島津家久は一万余りで日向から大友氏領内へ侵攻してきていたのだ。


このとき豊臣秀吉の九州攻めに加わっていた四国勢の長宗我部元親、信親、仙石秀久、十河存保、依岡左京らが大友氏に援軍として味方して合流してきていた。

島津の侵攻を前にして、大友、四国連合軍六千の兵は大野川を渡り戸次川の河原で島津軍一万八千と激突したが、圧倒的な島津軍の大軍に打ち砕かれ連合軍は大敗を喫した。(1586年)

この直後大友家の家督を継いでいた大友義統は恐れおののき、豊後の府内を放棄して豊前の龍王城に逃走する有様であった。
戸次川の合戦に勝利した島津軍は軍勢を二手に分けると、大友屋敷のある府内(大分市顕徳町)と府内の東方に位置する鶴崎城(大分市南鶴崎)に向かって進軍した。


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さらに府内をめざす島津家久は、2千の軍勢を大友宗麟が籠城する臼杵城(臼杵市)にも向けてくる。
この事態に鶴崎城主吉岡統増は、急遽軍勢をまとめると宗麟を助勢するため臼杵城へと駆けつけた。

後に残された鶴崎城は老兵と女子供達だけであって、この時点で大友氏の支城である鶴崎城は見捨てられたも同然であったが、とにもかくにも後は自力で留守居の者達のみでその場を耐え凌ぐしかなかったのである。

このとき城主不在の鶴崎城には、妙林尼が城を守る留守居として残っていたことになる。

それでも島津軍の侵攻を知った近隣の領民らは城主不在の鶴崎城に次々と逃げ込んでくる状況であったし、この間は実質的に妙林尼が城主の代理として鶴崎城を守らざるを得なくなっていたことになる。

もはや城を出ての戦いに臨めるような戦力は吉岡家にはなかったが、留守居の妙林尼を城主として戦うことに決まった。

しかもたとえ女であろうとも、ここでは名目上の城主として妙林尼に立ってもらわないことには島津との籠城戦は戦えないと皆が考えたのである。
妙林尼らは直ちに籠城戦への備えを固めた。

妙林尼は城内に籠もる老兵や農民に自ら防御策を授けると、籠城戦に耐えるべく城の周りに竹矢来や逆茂木、土塁や空堀、さらには薬研堀や落とし穴まで作らせていった。

もとより鶴崎城は海の傍に築かれた水城であり、それも大野川と乙津川の扇状地に立地していたため干潮時にしか城には出入りできなかった。
妙林尼は鶴崎城の陸地側の防御を固めれば、容易には攻め落とされないと考えた。

ここで女性である妙林尼がこのように軍法に通じていることが、とにかく不思議でならない。
周りの家臣らが補佐していたとしても、妙林尼のこのような独創的な防御策は九州でも希ではあるまいか。

しかも妙林尼は攻城戦の戦いを誰よりも熟知していたということである。

そうこうしているうちに鶴崎城へ逃げ込む領民を追いかけるようにして、たちまち島津軍三千の軍勢が城を包囲し攻撃を仕掛けてきた。

城内の兵はわずかである。それも老兵ばかりである。
まともに戦ってもとうてい勝ち目はない。
しかし妙林尼が頼りにしたのは籠城してきた農民達であり、逞しい女達であった。

幸いなことに城内には鉄砲の装備が残されており、妙林尼自らがそうした鉄砲の操作も事前に農民や女達に教えていた。

実際に妙林尼は城内からの鉄砲攻撃を巧みに采配して見せた。

島津軍の吶喊攻撃に対しては、その都度指示通りに鉄砲が火を噴いた。
籠城する者達は誰もが必死であったし、何よりも妙林尼の防御策は島津軍の猛攻によく耐えきった。

島津軍に攻め込まれれば、男らが命を失うだけではない。
女子供は皆捕虜となって拉致され、そのまま人買い商人に売られてしまうのである。

家畜のように売られた者の命運とその悲惨さは例えようがなかった。
海港が近いだけに皆がそれを目にしてきていた。
海外からの奴隷船はすでに鶴崎や沖の浜の港近くに続々と集り始めていることも城内から覗えるわけで、その理由を領民の誰しもが知っていた。

畢竟、領民達はそうした恐怖がすぐ目の前にあるからこそ、ここで戦うことに必死にならざるを得なかった。
妙林尼の手掛けた防御策は見事であった。

それらの防御を前にしても島津軍は幾度となく攻撃を仕掛け、そして退却を繰り返しながら迫りつつあったが、その度失敗して多くの犠牲者を出すばかりであった。

結果島津軍は鶴崎城に十六度も攻め寄せたが、どうしても攻略できずに攻めあぐねたのであった。

勇猛な島津兵はそれでも決して怯むことはなかったし、彼らは攻撃命令には命を惜しまず忠実に従うのである。
それだけに島津軍にとって鶴崎城攻城戦そのものは、手痛い犠牲を払う消耗戦でしかなかった。

そうなると指揮官である武将は思案せざるを得ない。
ここにきて遂に島津軍は和睦を求めてきたのであるが、妙林尼側もすでに戦いに疲労困憊して限界が来ていた。

この機を逃さず、籠城戦に疲弊していた妙林尼側も和睦をすんなりと受け入れることに決した。

妙林尼は家臣や領民の安全が確約されると、それこそ潔く鶴崎城を島津軍に明け渡した。

島津側は名目上とは云え激しい戦を交えた相手が、女の妙林尼であることに少なからず驚いたのはたしかである。

妙林尼は城を出るとそのまま近隣の民家に移り住んだのであるが、意外なことに妙林尼はその直後から薩摩の武将らと親しく交流し始めたのである。
敵味方に分かれて戦っていた兵士らもそこここで次第に交流するようになり、城内でも両者が飲み交わし互いに武勇を称え合ったのである。

酒宴を開けば、双方とも根は純朴な者同士であるから瞬く間に親しくなっていった。

これはただ事ではなかった。
妙林尼からみれば鶴崎城は敵の島津軍に奪い取られたことに違いはなかったし、彼女自身ここは何としてでも城を取り戻したいと考えた。

彼女にしてみれば夫鑑興を討ち取られ、そのうえ居城までも奪われてしまっては武家の面目は立たないのだ。
戦国の世に生きる女性でありながら、これはいかにも気丈夫過ぎる考えと云うことになるが、妙林尼自身はどうしてもこのままで済ませることは出来なかった。

妙林尼はこのとき非情な決心していたのである。

意外にも妙林尼自ら侍女を従えて鶴崎城を訪れると、酒肴でもって薩摩の武将らを懇ろにもてなしてみせたのである。

さらに無骨千万な武将らの前で妙林尼は着飾った侍女らと共に艶然と笑みを浮かべつつ舞い踊ってもみせた。

たびたび妙林尼らは鶴崎城を訪れ、こうした賑やかな酒宴を催して歓待してみせた。

妙林尼らのこうした趣向や歓待に薩摩の武将らは大喜びすると共に、それまでの警戒心もすっかり解けてしまって双方に打ち解けた雰囲気が次第に出来上がっていった。

早い話、薩摩側の武将らは思わずここで気が緩んだのであるが、これはむしろ妙林尼に気を許したと云うべきであろうか。

それから三月ほど過ぎた天正15年3月、太閤秀吉が二十万もの大軍を従えていよいよ島津討伐のため九州へ進軍してくると云う知らせがもたらされた。

豊後領内に留まっていた薩摩軍はこの情報に驚くと共に、一斉に退却命令が出され鶴崎城を守備していた薩摩軍もあたふたと撤退の準備に取りかかった。

薩摩軍の武将の一人である野村文綱(備中守)が、妙林尼の下を訪れたのは撤退する前日のことであった。(逆に妙林尼自身が野村文綱の下を訪ねたともいう説もある)

「我々は明朝、薩摩へ帰郷いたす。妙林殿は今後如何なされますか」と問うたという。

これに対して妙林尼は「私は自ら大友家に背き、皆様と深く厚誼を交わしました。もはや大友家には残れませんから家臣共々一緒に薩摩に連れて行って下さい」と真剣に頼み込んだ。

妙林尼に思いを寄せていた野村文綱はこれを大いに悦び、さらに妙林尼は祝賀と称して鶴崎城で島津軍将兵に最後の酒肴を振る舞った。

翌早朝出立する島津軍を「後始末を済ませたら、すぐに合流いたします」と妙林尼は見せかけて、この後すぐさま家臣に命じると、妙林尼一行を待ちながら酔って千鳥足でゆっくり撤退する島津軍に乙津川辺りで五十名ほどの兵で奇襲攻撃を仕掛けさせた。

逃げ惑う島津軍に対して、さらに寺司浜の松林には鉄砲隊が待ち構えており一斉に打ちかけた。

この襲撃で薩摩軍が三百ほどが無残にも討ち取られたといわれるが、このとき野村文綱は流れ矢を胸に受け負傷しながらも日向国・高城まで逃げ延びたが傷が元で命を落としたとされる。

この高城の地は、奇しくも妙林尼の夫鑑興がかって討ち死にした土地でもあった。

鶴崎城を奪還した妙林尼は、翌日薩摩軍の主立った武将の首級六十三を臼杵城の大友宗麟の下へ届けた。

その後の妙林尼の消息は不明である。
不運にも主家の大友家が滅び、妙林尼の子の吉岡統増も浪人となってしまう。

妙林尼が必死に守った鶴崎城もその後廃城となってしまうのである。(現在の鶴崎小学校・鶴崎高校周辺地域)

妙林尼は鶴崎城下の領民の命を守った恩人としていまでも地元では尊敬を集めているのだが、ここで撤退する島津軍を追撃するという彼女の所業はいささか過酷だったようにも思える。

和睦して城下の領民の命が保証されただけでも由とすべきではなかったのか。

敵対する相手と一旦和気藹々とした交流を持ちながら、一方で相手の裏をかくとは仏門に帰依する者としては余りにも非情過ぎるのではないかとも思う。

一方でそうせざるを得ないような状況そのものがあったのかも知れないし、まさに壮絶な殺し合いが当たり前の戦国という時代のおぞましさが現れている展開という気さえもする。

何故に妙林尼はそこまで非情になったのか。

この背景には、豊後に侵攻してきた島津軍の戦争捕虜に対する扱いが関わっていた可能性が大いにある。

そのことが特に豊後の戦場では島津軍優位の状況が続いたことで、侵略された側には重くのし掛かってきていた。

鶴崎城の攻防戦は特異な事例に過ぎない。

この間にも島津軍の人狩りが豊後領内では執拗に続いていた。

九州各地では早くから海外との奴隷取引がされていたことで、当然のようにこうした侵略された土地では奴隷確保の人狩りや異教徒狩りといった過酷な侵略行為が多発していた。

それが戦国時代の戦争経済の実態であり、九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした略奪と侵攻とを続けていた。

豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

当時の豊後地方での人狩りによる戦争捕虜について、宣教師ルイス・フロイスが詳細に記録している。


「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、味方勢力として大友に合力した連合軍でさえも豊後領民を人狩りしていたことになる。

そのため豊後周辺の交易港には、海外からも人買い商人が集まってきていた。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

妙林尼は己の目の前の戦いが終息したとしても、最後まで豊後領民が拉致されていくことに我慢できなかった。

薩摩軍への抵抗そのものはそうしたところから出たと云うことになる。

妙林尼の武勇を耳にした豊臣秀吉は妙林尼に是非会いたいと伝えたが、妙林尼はそれを辞退したのだという。

このとき妙林尼は、豊後の地より薩摩軍の人狩りによって連れ去られた領民が元の土地に戻されるよう申し添えたとも云う。

そしてこれは薩摩が秀吉に降伏した際に、あらためて豊後の領民を戻すよう薩摩に命令書が出された。


妙林尼のその後の消息は不明であるとした。
またどこでその最後を遂げたのかも不明である。

しかしながら妙林尼の消息について奇遇とも思える個人的な出来事があった。

戦国時代、当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する別府湾に面したまさにこの鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(初代宇田国宗)として知られていたが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後のこの地に移り棲んできていた。

現在も現地には国宗という地名と国宗天満神社だけが唯一残こされている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、天正14年(1586年)12月の鶴崎城攻防戦がすぐ目の前で勃発したのであった。


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先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも鶴崎城に至る直前の道筋にあったため島津軍との最初の戦場になった。

おそらく鍛冶場は一瞬にして戦場と化し、すべては灰燼に帰す被害を受けたはずである。

昭和50年当時まで当方の先祖の墓地は鶴崎にあったのだが、突然道路建設によって立ち退きをせざるを得なくなった。

そこですべての墓石の移転が必要になり、一つずつ墓碑銘を調べていったのであるが、ふるい墓石になるとまったく判読できないものもあって、どうにか江戸と明治のものは読めるがそれ以前の何基かは判読不明であった。

それらの墓石で気になるものがあった。
年代のわからない古い墓石に「釈尼妙林」と記されているものがあった。
「釈尼妙林」とはあの妙林様と何らかの関係があるのだろうかと、あれこれ考えてみたのだが手元に何の記録も残っていないので事実関係は一切わからない。

「釈尼妙林」とは浄土真宗のいわゆる法名であるから、当地のお寺があの妙林様の法名の複製をむやみに出すわけはないわけで、ここらはまったくの謎である。

「釈尼妙林」が実際に妙林尼の法名なのかどうなのか、そしてそのような墓石が何故に当家の墓地内にあるのか不思議である。












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ラベル:妙林尼
posted by モモちゃん at 19:35| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月28日

日本の奴隷貿易はいつ始まったのか?

誰もが知り得なかったこと!

2018年の6月30日、長崎・天草「潜伏キリシタン」が国内22件目の世界遺産として登録決定されました。

日本の戦国時代から江戸時代に掛けての キリシタンの歴史と云えば、過酷な弾圧があったことはよく知られていますが、何故にそれほどまでに当時の為政者らにキリシタンは嫌われたのかはよく知られていません。

海外、それも遠く離れた西洋から渡来してきた商人との南蛮貿易も拡大しつつあった時代に何故にキリシタン宗徒は排斥され続けられたのでしょうか。

織田信長も秀吉も、その後の家康もそれほどに徹底した反キリシタンだったわけではありませんでした。

それぞれにキリスト教宣教師とは謁見し、彼らに対して便宜を計ったりしていたのです。

南蛮貿易は、取引を介して双方の国に多くの利益をもたらしていたわけですから、そこには何の不都合もなかったはずでした。

しかし時の為政者はキリシタンを弾圧し、徹底的に排除していきました。

現代人にはそうした流れは一応わかっていても、もう一つ肝心なところがはっきりとはしてこないのです。

こうした疑問には、歴史学者は一様に言葉を濁します。

テレビの歴史番組でも取り上げられることはありません。

何故多くが語られないかと云えば、そこには余りにも不都合すぎる歴史的事実が隠されているからです。    
 
アフリカの奴隷貿易はご存じだと思いますが、世界の奴隷市場で当時奴隷種とみられていたのは黒人だけではありませんでした。

アジア人、それも日本人、中国人、朝鮮人もキリスト教国からみれば奴隷種でした。

当然そうした人々がアジア最大の奴隷市場があった中国のマカオに一旦集積され、ガレオン船でマニラやインドのゴアを経てヨーロッパにまで次々と転売されていたのです。

戦国時代の拉致事件などは日常茶飯事でした。

戦場での人狩りがビジネスであり一度拉致されてしまえば、それこそ女子供と云わず遠く海外まで転売されていきました。

それが当時の普遍的に世界中にはびこっていた奴隷貿易ビジネスと云うことになります。

あえてそうした歴史的タブーにも踏み込んでみました。


「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」を出版しました

私事ですが、これまで書き溜めてきた原稿を整理していたのですがようやくアマゾンから書籍として出すことが出来ました。

戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまで10年近くブログなどで単発的に発表してきたものをまとめて、さらに近年新たに出てきた史料を加えて完成させたものです。

本書は400年以前の海外への日本人拉致事件ともいえる奴隷貿易をテーマに書き上げました。

日本ではほとんど知られてはいませんが、アフリカだけではなく当時は大航海時代の美名の下で世界的なビジネスモデルとして奴隷貿易がはびこり、極東アジア地域にまで拡散していました。

その時期、まさに日本は戦国時代真っ只中だったのです。

そうした戦乱の時代を背景にして、過酷な歴史が隠れたまま展開していたのだともいえます。

当方は立場上、アカデミックな学閥も政治も宗教問題も一切関係ありませんので、何の偏見もなく自在に考えたままに本稿を書き進めてましたので、その点は十分ご理解ください。

ほんの一部分を書き著したつもりでしたが、当初の予想を超えて本著は四百ページを超えるものになってしまいました。

戦国の日本人奴隷貿易を扱った重い内容ですが、南蛮からの鉄砲とキリスト教の伝来を中心に時代を切り取り、その中での西洋と日本とが激突するダイナミックな歴史の流れを紹介しています。

歴史というのは単発の事件を並べただけでは解明できないものであって、すべての事象、事件というものは個々の人間を介して見えない部分で繋がっているものです。

歴史にはその時代に生きた人間,証人となる確かな人物が登場しなくてはなりません。

そこで登場する日本人として、尾張の浪人として九州長崎に流れ込んできたキリシタン村山等安の数奇な半生を織り込んでみました。

等安は卓越した才覚によって貿易商として巨万の富を手にしただけではなく、長崎代官の役職にまで上り詰めますが、そこには政治絡みの権力闘争やキリシタンとしての宿命的な葛藤がありました。

本書の中では彼を取り巻く人物として、当時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康・秀忠、戦国大名の高山右近、大村喜前、天正遣欧少年使節千々石ミゲル、さらには宣教師ジョアン・ロドリゲス神父、デ・モラレス神父、貿易商末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、イエズス会司祭荒木トマス、背教者不干斎ハビアンといった多くの人物が次々と登場してきます。

とにかく読んでいただければ、その面白さはご理解いただけると思います。

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ラベル:人狩り
posted by モモちゃん at 14:59| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月24日

戦国の地震予知はどのように信じられていたのか?

老子曰く、軍旅のあとには必ず凶年あり

戦国時代、飛騨国白川郷に帰雲城という城があり、その城主は内ヶ島氏理であったという。

戦国武将内ヶ島氏理といっても聞き慣れない名である。

ここで戦国武将といっても白川郷周辺は峻険な地域が広がっていたこともあって、華々しく外征という形では当時の戦国史には登場してはこない人物ということになるのだが、いまでは別の意味でその名が知られるようになった。

それは戦国真っただ中の天正年間に、内ヶ島は忽然とその痕跡を留めることなく一夜にしてその居城である帰雲城はもとより一族郎党共々この世から消え去ったからである。

といっても、内ヶ島一族は戦によって滅亡したというわけではない。

当時の内ヶ島氏理は秀吉と対立していた越中の佐々成政方に加担して出陣していたが、結果的には秀吉方の金森軍との和睦がなって領地が安堵された。

幸いにも内ヶ島氏理ら主従一同は無事帰雲城に帰還出来たのである。



その日天正13年11月29日(1586年閏1月18日)、帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が開かれ、その大広間には城主氏理をはじめ、娘婿の東常堯や嫡子氏行ら一族と重臣らがうち揃っていた。



ところがその当日の深夜に至って、突然この地を未曾有の大地震が発生したちまち巨大な山崩れが襲った。

帰雲山の真下に位置していた帰雲城はその山崩れに巻き込まれ、大量の土砂によって完全に埋没してしまった。

そうした伝承記録があるが、埋没した帰雲城の正確な位置はいまだに特定されてはいない。

帰雲城と共に三百軒ほどあった城下の町家もそのときの山崩れでほぼすべてが埋没したとされる。



日本の中部で発生したこの巨大地震は、当地方では白山大地震とも呼ばれ、この地震災害によって帰雲城の内ヶ島氏は滅亡してしまった。



驚くべき歴史秘話である。



このときの天正大地震によって帰雲城が埋没しただけではなく、若狭湾では津波が発生し、周辺の木舟城、長島城、長浜城、大垣城も大破したとされる。

戦国時代ということもあって、広範囲に被害をもたらした当時の大地震についてはおそらく後世までその被害の全貌は掴みにくかったであろうと想像されるところである。

戦国期の地震としては例を見ない、大きな地震災害であったことになる。


それから10年ほど経った文禄年間にも、巨大な地震が立て続けに西日本を襲った。

まず慶長伊予地震といわれる地震が、1596年(文禄5年閏7月9日)伊予(愛媛)を震源として発生した。

閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊したという記録がある。

また3日後の12日には、現在の豊後(大分)の別府湾口付近で慶長豊後地震が襲った

さらに翌日の13日の子の刻には、現在の京都・伏見付近で慶長伏見地震が連続して発生した。

9月4日から5日、畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった同様の地震被害が出たとされる。

伏見城は大被害を受けて、秀吉も腰が抜けたほどであった。

なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に慶長に改元した。


これらの大地震は400年以上以前の地震災害ではあるのだが、個人的理由もあって以前から関心があった。

それは少年時代に父親の故郷(大分市)に行ったとき、巨大地震によって海に沈んだ島の話を聞かされたことがあったからである。

それはずっと昔、別府湾に瓜生島という大きな島があったが、巨大地震と津波とによって海にまたたく間に沈没してしまったという伝説であった。

これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後日まとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)



wan















実は四十年ほど以前より水中考古学という分野が日本でも注目されるようになってきていて、海中や水中の古代の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。

実際に別府湾でも調査が行われた。

この戦国時代の地震記録については、中世のイエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」に九州豊後地方の大地震として記録している。

それには次のように記述されている。

引用開始:
「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)引用終わり:

文中冒頭の府内とあるのは、現在の大分市周辺のことである。




tizu
























水中考古学の研究の分野で大分豊後府内地方の瓜生島伝説が注目されだしたこともあって、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も紹介されて過去の地震記録が日の目をみるようになった。

驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。

これは本当に驚きであった。

単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたというわけである。

瓜生島伝説とは一体どのようなものであったのか。

瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)7月12日であった。

その瓜生島は府内(大分市)の西北3.3キロ沖の湾内にあったといい、東西3.9キロ、南北2.3キロ、周囲12キロの島であったとされる。(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)

島内の人家は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町といった町名があり、船着き場には多くの船が各地から出入りして活気があったという。

島には恵比寿神社や威徳寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮かぶ風光明媚な島の景観が広がっていたのではいかと想像される。


現在の別府湾の様子。

湾内に大きな島影は観られない。



bep























この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後であったと記録されている。

それでも島の住人の大多数が犠牲となったわけである。

瓜生島の北側に久光島という島があったが、これも瓜生島と同時に海中に沈没したとされる。

瓜生島地震に関しては当地には不思議な伝承があって、異変の直前に一人の老翁が白馬に乗って現れ島内を駆け回りながら、「この島はいまに崩れて海に沈むから、船を仕立てて立ち去れと!」叫んで回っていたが、いつの間にか姿が見られなくなった。

この伝聞に島内が騒然となった。

この島を差配する島長の幸松勝忠は、これは島の明神様のお告げに違いないとして直ちに全島民の退避を指示したとされ、これによって島民の半数は難を逃れたのだという。

さらには瓜生島には蛭子神社が祀ってあったが、昔から神社の神像の顔が赤く染まったら島が沈むという言い伝えがあって島民に信じられていた。

ところが大地震の発生する数日前に、その神像の顔が真っ赤になっているのを島民が偶然見付けてこれでも大騒ぎとなっていた。

慌てふためいて島から逃げ出す者のもいたし、端から迷信だとして笑う者も少なからずいた。

こうした騒ぎを傍で観ていた島に住む按摩の真斉という男が、「蛭子様の顔が赤くなったのは、迷信を信じるお前らの鼻を明かすためにオレがわざと紅殻を塗ったからだ!」と云ってみせた。

同様に加藤良斉という医者までが、「蛭子の顔が赤くなるとき島崩れるとの寓言など信ずべからず」と常々住民に吹聴していたという伝承記録もある。

それこそ信じる者は救われぬである。


実は、当方のご先祖様もこの大地震の被害をもろに被っていたという予想外の事実があった。

当時当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する別府湾に面した鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(初代宇田国宗)として知られていたが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後に移り棲んでいた。

現在も現地には国宗という地名と国宗天満神社だけが残こされている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、1596年に発生したこの豊後の巨大地震と瓜生島沈没に目の前で遭遇してしまったことになる。

先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも別府湾に注ぐ河口に近かったこともありこのとき相当な地震被害を受けたものと思われる。

海岸に近い位置にあった。

瓜生島が沈んだのは大地震による津波が原因ともいわれるだけに、このとき別府湾の海岸一体には相当な大波が襲ったことであろう。

対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。

同時にこのとき対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府湾に降り注いだともいう。

このことは伝承であって、正史に一切記録されていないのでここらは想像の域を出ない。






30年以内に震度6弱以上の確率が高い地域
NEWS

2018年06月26日





全国地震動予測地図2018年版(地図編)より



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「天魔王信長の野望を打ち砕く 我が武略に勝算あり」ノンフィクション


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「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」ノンフィクション


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「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」


経絡論


「時代小説短編集・憑依(つく)」
ミステリアスな題材による時代小説

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「徐福渡来伝説を検証する」太古の日本に渡来した徐福とは何者か?古代史ドキュメント

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電磁波過敏対策・電磁波攻撃防御製品[電磁番]denjiban-101
原因不明の不快な環境ストレスの原因は、多くの場合目には見えない電磁波ノイズが関係しています。
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電磁波中和装置「電磁番」は多用途の機能的防御が可能です。携帯するだけ、貼るだけ、置いておくだけ!
準静電界レベルの干渉による不快な電磁波過敏、電磁波音波攻撃対策の防御製品として、「電磁番」はご利用者の皆様から高い評価を頂いております。
★電磁波中和放電装置「電磁番」をテレビやパソコン、各種電子機器、電子レンジなどの電気機器の上や車両内に、一個セットするだけで「特殊電子回路」が周囲に放射される有害電磁波に干渉して中和放電変換します。
★日本国内の電磁波環境に対応した製品です。不快な電磁波ノイズの中和放電によって身体への悪影響はほとんど感じられなくなります。(実際のストア評価のお客様の声を参照ください)
★隣接した建物や施設から放射される不快な波動ノイズ、悪質な電磁波攻撃、嫌がらせにも対応いたします。 製品の耐用年数は、普通に使用すれば3,40年以上そのままで使用可能です。
★一般の住居内はもとより、店舗・事務室・治療室や病室、オフィス内環境を電磁波レベルで整え防御します。(取り扱い説明書を添付しております)
★製品サイズ 直径10cm 厚さ 1.5cm 重さ 約170g

電磁番使用時の注意事項
★「電磁波中和装置電磁盤」は、周囲のマイナス波動の電磁波を干渉中和放電するため、DVDショップなどの店舗内に設置された盗難防止システムのゲートセンサー(レーダー)の電磁波にも敏感に反応し、有害電波の波形を変換してしまいます。
そのため「でんじ・ばん」を携帯したまま入店されますと、警報システムによっては電磁波シールドの変化で出店時のゲートでの誤作動で警報が作動してしまう場合がありますので、店内持ち込みによるトラブルには十分ご注意下さい。

詳細は外部サイトのリンクページの「電磁波中和装置電磁番」のセット方法について」をご覧ください。
電磁波過敏や電磁波攻撃対策法については
外部サイトのリンクページの「波動電磁波情報検討会」を参照ください。
電磁波中和装置電磁番についての解説(クリックするとリンクページが開きます)
「電磁波中和装置電磁番」のご案内
電磁波過敏について
電磁波攻撃によるストレス症状について
「電磁波中和装置電磁番」の干渉中和放電効果について
「電磁波中和装置電磁番」を使用されているお客様の声
「電磁波中和装置電磁番」の機能と構造について
「電磁波中和装置電磁番」に関するご質問と解説
「電磁波中和装置電磁番」を使った気の調整法について
電磁波過敏の関連の出版物
最近の重要な電磁波情報
不眠症対策について
レーザーポインター攻撃
スマホ電磁波の対策予防法
スマホ乗っ取り攻撃について
電磁波攻撃・嫌がらせ対策
最新の電磁波攻撃機器とは
電磁波被曝と準静電界について
米国大使館電磁波被曝事件




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戦国時代、飛騨国白川郷に帰雲城という城があり、その城主は内ヶ島氏理であったという。

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ここで戦国武将といっても白川郷周辺は峻険な地域が広がっていたこともあって、華々しく外征という形では当時の戦国史には登場してはこない人物ということになるのだが、いまでは別の意味でその名が知られるようになった。

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といっても、内ヶ島一族は戦によって滅亡したというわけではない。

当時の内ヶ島氏理は秀吉と対立していた越中の佐々成政方に加担して出陣していたが、結果的には秀吉方の金森軍との和睦がなって領地が安堵された。

幸いにも内ヶ島氏理ら主従一同は無事帰雲城に帰還出来たのである。



その日天正13年11月29日(1586年閏1月18日)、帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が開かれ、その大広間には城主氏理をはじめ、娘婿の東常堯や嫡子氏行ら一族と重臣らがうち揃っていた。



ところがその当日の深夜に至って、突然この地を未曾有の大地震が発生したちまち巨大な山崩れが襲った。

帰雲山の真下に位置していた帰雲城はその山崩れに巻き込まれ、大量の土砂によって完全に埋没してしまった。

そうした伝承記録があるが、埋没した帰雲城の正確な位置はいまだに特定されてはいない。

帰雲城と共に三百軒ほどあった城下の町家もそのときの山崩れでほぼすべてが埋没したとされる。



日本の中部で発生したこの巨大地震は、当地方では白山大地震とも呼ばれ、この地震災害によって帰雲城の内ヶ島氏は滅亡してしまった。



驚くべき歴史秘話である。



このときの天正大地震によって帰雲城が埋没しただけではなく、若狭湾では津波が発生し、周辺の木舟城、長島城、長浜城、大垣城も大破したとされる。

戦国時代ということもあって、広範囲に被害をもたらした当時の大地震についてはおそらく後世までその被害の全貌は掴みにくかったであろうと想像されるところである。

戦国期の地震としては例を見ない、大きな地震災害であったことになる。


それから10年ほど経った文禄年間にも、巨大な地震が立て続けに西日本を襲った。

まず慶長伊予地震といわれる地震が、1596年(文禄5年閏7月9日)伊予(愛媛)を震源として発生した。

閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊したという記録がある。

また3日後の12日には、現在の豊後(大分)の別府湾口付近で慶長豊後地震が襲った

さらに翌日の13日の子の刻には、現在の京都・伏見付近で慶長伏見地震が連続して発生した。

9月4日から5日、畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった同様の地震被害が出たとされる。

伏見城は大被害を受けて、秀吉も腰が抜けたほどであった。

なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に慶長に改元した。


これらの大地震は400年以上以前の地震災害ではあるのだが、個人的理由もあって以前から関心があった。

それは少年時代に父親の故郷(大分市)に行ったとき、巨大地震によって海に沈んだ島の話を聞かされたことがあったからである。

それはずっと昔、別府湾に瓜生島という大きな島があったが、巨大地震と津波とによって海にまたたく間に沈没してしまったという伝説であった。

これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後日まとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)



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実は四十年ほど以前より水中考古学という分野が日本でも注目されるようになってきていて、海中や水中の古代の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。

実際に別府湾でも調査が行われた。

この戦国時代の地震記録については、中世のイエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」に九州豊後地方の大地震として記録している。

それには次のように記述されている。

引用開始:
「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)引用終わり:

文中冒頭の府内とあるのは、現在の大分市周辺のことである。




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驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。

これは本当に驚きであった。

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瓜生島伝説とは一体どのようなものであったのか。

瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)7月12日であった。

その瓜生島は府内(大分市)の西北3.3キロ沖の湾内にあったといい、東西3.9キロ、南北2.3キロ、周囲12キロの島であったとされる。(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)

島内の人家は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町といった町名があり、船着き場には多くの船が各地から出入りして活気があったという。

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現在の別府湾の様子。

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老子曰く、軍旅のあとには必ず凶年あり

戦国時代、飛騨国白川郷に帰雲城という城があり、その城主は内ヶ島氏理であったという。

戦国武将内ヶ島氏理といっても聞き慣れない名である。

ここで戦国武将といっても白川郷周辺は峻険な地域が広がっていたこともあって、華々しく外征という形では当時の戦国史には登場してはこない人物ということになるのだが、いまでは別の意味でその名が知られるようになった。

それは戦国真っただ中の天正年間に、内ヶ島は忽然とその痕跡を留めることなく一夜にしてその居城である帰雲城はもとより一族郎党共々この世から消え去ったからである。

といっても、内ヶ島一族は戦によって滅亡したというわけではない。

当時の内ヶ島氏理は秀吉と対立していた越中の佐々成政方に加担して出陣していたが、結果的には秀吉方の金森軍との和睦がなって領地が安堵された。

幸いにも内ヶ島氏理ら主従一同は無事帰雲城に帰還出来たのである。

その日天正13年11月29日(1586年閏1月18日)、帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が開かれ、その大広間には城主氏理をはじめ、娘婿の東常堯や嫡子氏行ら一族と重臣らがうち揃っていた。

ところがその当日の深夜に至って、突然この地を未曾有の大地震が発生したちまち巨大な山崩れが襲った。

帰雲山の真下に位置していた帰雲城はその山崩れに巻き込まれ、大量の土砂によって完全に埋没してしまった。

そうした伝承記録があるが、埋没した帰雲城の正確な位置はいまだに特定されてはいない。

帰雲城と共に三百軒ほどあった城下の町家もそのときの山崩れでほぼすべてが埋没したとされる。

日本の中部で発生したこの巨大地震は、当地方では白山大地震とも呼ばれ、この地震災害によって帰雲城の内ヶ島氏は滅亡してしまった。


驚くべき歴史秘話である。

このときの天正大地震によって帰雲城が埋没しただけではなく、若狭湾では津波が発生し、周辺の木舟城、長島城、長浜城、大垣城も大破したとされる。

戦国時代ということもあって、広範囲に被害をもたらした当時の大地震についてはおそらく後世までその被害の全貌は掴みにくかったであろうと想像されるところである。

戦国期の地震としては例を見ない、大きな地震災害であったことになる。


それから10年ほど経った文禄年間にも、巨大な地震が立て続けに西日本を襲った。

まず慶長伊予地震といわれる地震が、1596年(文禄5年閏7月9日)伊予(愛媛)を震源として発生した。

閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊したという記録がある。

また3日後の12日には、現在の豊後(大分)の別府湾口付近で慶長豊後地震が襲った

さらに翌日の13日の子の刻には、現在の京都・伏見付近で慶長伏見地震が連続して発生した。

9月4日から5日、畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった同様の地震被害が出たとされる。

伏見城は大被害を受けて、秀吉も腰が抜けたほどであった。

なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に慶長に改元した。


これらの大地震は400年以上以前の地震災害ではあるのだが、個人的理由もあって以前から関心があった。

それは少年時代に父親の故郷(大分市)に行ったとき、巨大地震によって海に沈んだ島の話を聞かされたことがあったからである。

それはずっと昔、別府湾に瓜生島という大きな島があったが、巨大地震と津波とによって海にまたたく間に沈没してしまったという伝説であった。

これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後日まとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)



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実は四十年ほど以前より水中考古学という分野が日本でも注目されるようになってきていて、海中や水中の古代の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。

実際に別府湾でも調査が行われた。

この戦国時代の地震記録については、中世のイエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」に九州豊後地方の大地震として記録している。

それには次のように記述されている。

引用開始:
「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)引用終わり:

文中冒頭の府内とあるのは、現在の大分市周辺のことである。




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水中考古学の研究の分野で大分豊後府内地方の瓜生島伝説が注目されだしたこともあって、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も紹介されて過去の地震記録が日の目をみるようになった。

驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。

これは本当に驚きであった。

単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたというわけである。

瓜生島伝説とは一体どのようなものであったのか。

瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)7月12日であった。

その瓜生島は府内(大分市)の西北3.3キロ沖の湾内にあったといい、東西3.9キロ、南北2.3キロ、周囲12キロの島であったとされる。
(参照・「豊陽古事談」瓜生島図)

島内の人家は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町といった町名があり、船着き場には多くの船が各地から出入りして活気があったという。

島には恵比寿神社や威徳寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮かぶ風光明媚な島の景観が広がっていたのではいかと想像される。


現在の別府湾の様子。

湾内に大きな島影は観られない。



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この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後であったと記録されている。

それでも島の住人の大多数が犠牲となったわけである。

瓜生島の北側に久光島という島があったが、これも瓜生島と同時に海中に沈没したとされる。

瓜生島地震に関しては当地には不思議な伝承があって、異変の直前に一人の老翁が白馬に乗って現れ島内を駆け回りながら、「この島はいまに崩れて海に沈むから、船を仕立てて立ち去れと!」叫んで回っていたが、いつの間にか姿が見られなくなった。

この伝聞に島内が騒然となった。

この島を差配する島長の幸松勝忠は、これは島の明神様のお告げに違いないとして直ちに全島民の退避を指示したとされ、これによって島民の半数は難を逃れたのだという。

さらには瓜生島には蛭子神社が祀ってあったが、昔から神社の神像の顔が赤く染まったら島が沈むという言い伝えがあって島民に信じられていた。

ところが大地震の発生する数日前に、その神像の顔が真っ赤になっているのを島民が偶然見付けてこれでも大騒ぎとなっていた。

慌てふためいて島から逃げ出す者のもいたし、端から迷信だとして笑う者も少なからずいた。

こうした騒ぎを傍で観ていた島に住む按摩の真斉という男が、「蛭子様の顔が赤くなったのは、迷信を信じるお前らの鼻を明かすためにオレがわざと紅殻を塗ったからだ!」と云ってみせた。

同様に加藤良斉という医者までが、「蛭子の顔が赤くなるとき島崩れるとの寓言など信ずべからず」と常々住民に吹聴していたという伝承記録もある。

それこそ信じる者は救われぬである。


実は、当方のご先祖様もこの大地震の被害をもろに被っていたという予想外の事実があった。

当時当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する別府湾に面した鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

元は京都の山城国の刀鍛冶(初代宇田国宗)として知られていたが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後に移り棲んでいた。

現在も現地には国宗という地名と国宗天満神社だけが残こされている。

その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、1596年に発生したこの豊後の巨大地震と瓜生島沈没に目の前で遭遇してしまったことになる。

先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも別府湾に注ぐ河口に近かったこともありこのとき相当な地震被害を受けたものと思われる。

海岸に近い位置にあった。

瓜生島が沈んだのは大地震による津波が原因ともいわれるだけに、このとき別府湾の海岸一体には相当な大波が襲ったことであろう。

対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。

同時にこのとき対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府湾に降り注いだともいう。

このことは伝承であって、正史に一切記録されていないのでここらは想像の域を出ない。




30年以内に震度6弱以上の確率が高い地域
NEWS     

2018年06月26日



全国地震動予測地図2018年版(地図編)より



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posted by モモちゃん at 09:29| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月17日

戦国の経済を支えた御用商人の活躍とは?!

織田信長が勝機を掴んだ瞬間!

「おわい屋」という語彙を始めて目にしたのは三島由紀夫の文学作品「仮面の告白」の文中であった。

それだけに何だか新鮮な響きがあった。

いまや放送禁止用語であり、死語となったこの語彙はおそらく関東周辺地域の古語であったのかもしれない。

「おわい屋(汚穢屋)」とは、便所の汲み取りを職業とする専門用語である。

現代の上下水道完備の若い世代には、この一昔前の便所の汲み取りということさえ理解が及ばないことであろう。

それこそむかしむかしの話になる。

庭の裏木戸があいて誰かが入って来た。小母さんは又,口を袂で押さえて,「ほら,来た来た豊田さん,貞子も。早く早く」といって自分から先に家へ入ってしまった。私も何が何だかわからないで,小母さんの後につづいてお勝手から入った。小島さんがお勝手と廊下をしめた。小島さんに,「何あに」と聞くと,小島さんは,「おわい屋,おわい屋」と言って笑った。…… ガボッガボッとおわいを汲む音が聞こえる。…… 手拭でほおかむりをした,おわい屋さんは,天秤棒をキシキシいわせて,こい桶をかついで出て行くところだった。うす黄色い水が汲み取り口から,点々と三四ヶ所たれていた。小母さんは,「まあ,だらしのないおわい屋さん」と言ってまゆをしかめた。…… 小島さんは小声で,「家のお母さんとっても綺麗好きなのよ。だから,おわい屋さんやなんかきて,さわった所は皆ふかせるのよ」と壜の蓋をしながら言った。』「綴方教室」(「綺麓好き」)(豊田正子著,木鶏社刊)


汚穢屋とはいっても、これはれっきとした歴史のある職業であり、江戸時代以前から重宝されていた。

長屋でもそうした汲み取りの人が回ってきて屎尿を回収していったわけで、その際には回収量に応じて大家にはいくばくかの金銭の支払いがあったのである。

大家にとってはいわゆる臨時収入ということになる。

汚穢屋は少なくとも一般庶民の衛生管理はもとより、農事に欠かせない堆肥をひろく回収斡旋していたことになるわけで、これは戦国時代からその活躍が各所で普通に見られたのである。

糞尿から塩硝が生成され始めたときにも、火薬の原材料という軍事物資にも直接かかわっていたわけで、ここから意外にも大いに財を成した者も出たことがそれとてく伺えてくる。

戦時には欠かせない兵糧運搬や糞尿処理の現場にしても、随所で御用商人らが深く関わっていた。

糞尿の運搬と処理が戦国時代からビジネスとして機能していたのだ。

人間が一時に大勢集まればそこにはあらゆる商売の機会が生まれてくるわけで、目敏い商人たらがこうした活気ある戦時経済の場へも次々と参画していった。

相手が誰であろうと売れる物があれば売る、買い取る物があれば買い叩く。それがビジネスの現場である。

もとより戦国時代であれば数千から数万の兵員が集団で戦場まで一定期間行軍するわけであるが、その間は厳しい軍律によって統制されていた。

無言のまま黙々と行軍する。途中の休息も食事もすべて指揮官の指図に従う。

行軍中は私語や勝手に隊列から離れての用便などは禁じられていたわけで、そこでの糞尿は御用商人が用意した桶にすへて漏らさずため込まねばならなかった。事前にそのような取引が専門業者となされていた。

糞尿の回収が行われるのは、環境や衛生面のことを考慮していたからではなかった。

当時は糞尿にそれなりの商品価値があったからである。

これをそのまま放置することはもったいないのである。

この時代糞尿は肥やしとして農家に高く売れたのであり、そこらに気安く垂れ流すようなものではなかった。

「こちらの隊の方は、この大桶にお願いします!」
「桶の外にはお漏らしになりませぬようご配慮ください。満杯の場合はすぐに次の桶をご用意いたします!」

そうした商人らの声が行軍中や休息時に響く。

当然戦時には大軍団にはかならず汚穢屋の屋号が入った肥え桶がぞろぞろと後を付いていったのである。

面白いことに、こうした糞尿回収が戦時経済では機能的に働いていたことになる。

こうした習いがあってのことか、笑い話ではなく実際に田舎では「よその土地で小便はするな!小便するときは自分とこの田圃にしろ!」と子供までが親に口うるさくいわれていたのである。

農事や経済に疎い戦国大名はこうした戦場の屎尿処理まで頭が回ってはいなかったようで、野放図に沿道に糞尿を放置していったこともあって近隣住民からは評判が悪かったのである。

糞尿処理がいい加減な武将は、厳しい戦国の時代を生きながらえることは出来なかったのは確かである。

逆にここで戦国時代の糞尿処理について、あえて衛生面について考えてみることも出来る。

むしろこれなどは戦況に大いに関連することでもあった。それも敵に周囲を囲まれてしまう籠城戦では深刻な問題が度々発生した。

長期に亘る籠城戦では城内に糞尿がたまりに溜まる。

当然悪臭も立ちこめてくるのである。

たとえば籠城戦において城内の衛生環境が悪化したことによって悲劇的な結末を招いてしまったのが、能登(石川県)において行われた天正5(1577)年夏の第二次七尾城籠城戦である。

糞尿問題で話題になる事例でもある。

かっての七尾城は能登畠山氏の居城であったが、上杉謙信により包囲され、その周辺の領民1万5千人あまりが城内に避難して籠城戦となった。

七尾城は山城であり、山全体に郭が設けられかなりの人数を収容できる大きな城ではあったが、ここでは肝心の大人数分の飲料水の確保と屎尿処理がうまく対応できてはいなかった。

気温の高い夏場、大量の糞尿が城内に溜まっていったことで、井戸がたちまち汚染されてしまったのだ。

籠城戦で飲料水が汚染されてしまえば致命的である。

これが災いして瞬く間に城内に疫病が発生すると、ついには頼るべき城主が早々に倒れてしまった。

凄惨な状況に陥ったわけで、結果的には自滅したも同然であった。

表向きは籠城戦ではあるが、結局のところは自分らの溜まりにたまった屎尿が原因であえなく落城に至ったということである。

これが意外過ぎる戦国の糞尿譚なのである。


戦国時代の屎尿処理の事実を知ったとき私などはその合理性に感嘆せずにはおられなかったわけであるが、その際ふとある戦国武将のことが思い浮かんだのである。

それは駿河の戦国大名今川義元のことである。

2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で今川本陣を強襲し、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いがつとに有名である。

このとき昼食の支度にかかっていた今川陣営には、相当数の肥え桶が設営されていたのではあるまいか。

兵員の多くがいくぶん気が緩んだ瞬間であったであろう。

並べられた肥え桶の周りにも大勢集まっていたはずである。

そこを織田軍団が急襲した。

今川勢は逃げまどい大混乱に陥る。

この間に今川義元は討ちとられ大敗するのである。

それこそ織田勢に攻め込まれた桶狭間の戦場跡には、放置されたままの肥え桶があちらこちらに無様に転がっていたことであろう。

桶狭間に肥え桶である。

戦場が、桶狭間とはまさしく言い得て妙である。










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ラベル:軍事産業
posted by モモちゃん at 09:11| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月21日

キリシタン大名の起死回生の交渉術

領土は戦争で取り返す!


九州戦国時代、奇しくも九州の桶狭間とも云われる戦いがあった。

それが肥前の龍造寺隆信と有馬・島津連合軍との戦い「沖田畷の戦い」であった。

戦国の天正12年(1584年)、九州のキリシタン大名有馬晴信は勢力を拡大していた隣国肥前の龍造寺隆信の下から離反しつつあった。

龍造寺は九州全域の覇権を賭けて、薩摩の島津とも対峙していた時期でもあった。

有馬はすでにこのとき龍造寺とは縁戚関係を結んで臣従していたが、それでも龍造寺の版図拡大の戦略的野心はどうにも防ぎようがなかった。

しかも隆信は殊の外キリシタン宗団を嫌っており、有馬領からも排除することを狙っていた。

豊後の大友氏に勝利し筑前・筑後・肥後に勢力を急速に拡大していく隆信はまさに「肥前の熊」であり、その戦略的暴虐さと冷酷で残忍な性格からみても弱小大名の有馬の命運は風前の灯火という状況であった。

そうした中で有馬晴信は、かねてより薩摩の島津に極秘裏によしみを通じて活路を得ようとしていた。

有馬の背信を知って激怒した隆信は龍王崎から出陣すると、同年3月20日には島原半島北部の神代に上陸し有馬領に本格的な侵略を開始してきた。

有馬晴信は直ちに肥後八代にいた島津義久に援軍要請したが、肥後平定中であった島津には有馬方に大軍を送るだけの余裕がなかった。

だが島津としても戦略上有馬を見捨てることは出来なかった。

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苦慮した結果、義久は自軍から末弟の家久と副将格の重臣と共に3000程の兵をさいて急遽島原へ援軍として送くることを決断したのである。

家久は薩摩でも希に見る戦上手の武将として知られていただけに、このときの義久の判断そのものは的確であったといえる。

しかしながら、龍造寺隆信はこのとき数万(一説では5万、6万とも云う)の兵力で有馬に侵攻しつつあったから、この時点でもその軍事力には大差があり過ぎた。

有馬が領内で掻き集めた兵が3000余り、援軍の島津勢と合わせてもその総勢は6000の戦力でしかなかった。

龍造寺方の兵力は有馬・島津連合軍の優にその四五倍以上はあったことになるから、どうみても圧倒的に龍造寺方の戦闘力の方が勝っていたことになる。

その鉄砲にしても龍造寺方は一千挺以上装備しており、鉄砲隊も圧倒的に多かったのである。

まともにぶつかれば勝ち目はないとみた島津家久は、島原に上陸すると地形を配慮した綿密な作戦を有馬方と共に迎撃策を立てていったが、紆余曲折の末最後には家久の作戦に有馬方も同意した。

家久は、主戦場を島原の北方にある湿地帯を縦貫する通路のある沖田畷にすることで大軍の侵攻が制御迎撃できると考えていた。

当時の島原周辺は山の裾野から海岸線に掛けて広大な湿原と深田が広がっていて、通路そのものの道幅が狭かったので、その一帯は沖田畷と呼ばれていた。

この沖田畷の地形を利用して敵側の戦端を細く伸ばし、頃合いを観て横合いから伏兵をもって攻撃を仕掛けるという島津得意の戦法を採れば、たとえ相手が大軍であろうとも敵の陣形を突き崩すことが出来るというしたたかな作戦であった。

敵軍を泥濘の沖田畷の一本道に誘い込むことで、少ない兵力でも有利に迎撃態勢が取れると家久は見切ったのである。

有馬と薩摩の連合軍の総大将を晴信として森岳城に本陣が置かれ、海岸線には薩摩勢の伊集院忠棟ら1000、内陸側に設けた防御用の大木戸にも薩摩の赤星一党の50人、家久軍は伏兵として森岳城の背後に布陣すると共に、薩摩の新納忠元ら残りの1000は前山の山裾に伏兵として身を隠した。

いうなればこの作戦には積極的に薩摩勢が前面(先陣)に出て、敵勢を迎え撃つ体勢をとっていたことになる。


侵攻してきた龍造寺方は当初より有馬・島津の主力軍は日野江城に籠もっているものと予想しており、兵力を山沿い、沖田畷の中道、海岸沿いの三軍に分けて、主力の隆信は自ら沖田畷の中道へ向かって軍勢を意気揚々と押し進めていった。

龍造寺方には、すでに島津軍が応援部隊を送り込んできていることも、その兵力が僅かであることも伝わっていた。

このときの隆信は己の大軍を持って攻め立てれば、寡兵の有馬・島津連合軍などは一撃で撃破できると傲慢にもそう豪語し自らも確信しきっていた。

事実圧倒的な兵力を誇る龍造寺軍は辺り一帯を埋め尽くす規模であり、有馬・島津連合軍の陣を包囲する形で続々と迫ってきていた。

たちまち沖田畷付近で龍造寺方の先鋒部隊が島津軍と遭遇し始めるのだが、龍造寺方は相手が小勢なのを侮り事前に物見も出さずに勢いのままに真正面から攻め掛かっていった。

まさに相手を蹴散らかさんばかりの勢いを初戦から示してきたのである。

島津軍はその勢いに押されてたちまち敗走するかにみせて、龍造寺の先鋒部隊を沖田畷の湿地帯の方へと巧く引き込んでいった。

これが島津軍得意の戦法(御家芸の釣り野伏せ)であり、たいした抵抗も見せずに相手との間合いを巧みに取りながら後退していったのである。

勢い付いた龍造寺軍はそのまま一気に攻め立てて、ついには沖田畷の狭い一本道の畦道に誘い込まれていった。

泥濘の上に縄を付けた戸板を引き回し、敏捷に退路を飛び渡りながら後退したであろうが、島津軍にとってはこれは命懸けの犠牲をも伴う決死の捨て身の戦法でもあった。

龍造寺軍は見事に島津の戦法、釣り野伏せに引っ掛かってしまったのである。

家久は龍造寺軍が沖田畷に入り込み十分鉄砲の射程に入ったのを見定めると、一斉に弓鉄砲で打ちかけさせた。

この突然の鉄砲攻撃に龍造寺軍の先陣が一気に崩れだした。

龍造寺軍はその場から退避しようとしたが後続部隊が続々と押し合いへし合いで押しかけてくる状態であったから、まったくどうにも動きがとれないまま狭い畦道で大混乱が発生してしまった。

龍造寺軍の先陣の多くは一本道の狭い畦道から滑り落ちてしまい、そのまま深い泥濘に足を取られてしまっていた。

泥濘の湿原に迂闊に踏み込めば、足はもとより腰や胸の辺りまで抜かり込む有様であったから、一旦泥濘に滑り落ちれば命を失ったも同然であった。

そうした先陣の混乱は後方の総大将隆信の下へは伝わらないまま、隆信自身は一向に前に進まない兵団の様子に苛立ち、すぐさま伝令を発した。

しかも自らが前線に立ち、手早く指揮を取ろうするほどの焦り様であった。


こうした隆信の苛立ちもあって、前線の諸将に対して命を惜しまず攻めるようにとの伝令が行くと将兵は尚更いきり立ち、しゃにむに無謀な猛攻を後続部隊が仕掛けていった。

これが戦場で云うところの、無理押しに攻め立てる「我攻め」である。

先陣は背後から後続部隊に力尽くで押し出される形で、次から次へと狭い一本道に押し出されていくわけで、戦闘態勢が取れぬままに泥濘に滑り落ちていったのである。

ここにきて、泥濘に足を取られ身動きが取れなくなった夥しい龍造寺軍をそれまで潜んでいた島津方の伏兵が弓、鉄砲を猛烈に射掛けたのである。

島津軍は次々と狙い撃ちしていったので、瞬く間に龍造寺軍の夥しい兵が重なるようにしてその場に倒されていった。

この有利な戦況を観て、島津軍は一斉に抜刀すると龍造寺軍の先鋒部隊に襲いかかった。


龍造寺軍と有馬・島津連合軍の戦いの経緯は、こうした沖田畷での戦いが主戦場として記録されているのであるが、一方で海外の史料によるとこの戦いでは有明海海上からの有馬方の軍船からの砲撃が大きな戦果を上げたことが記されている。

ルイス・フロイス『日本史』によれば、この戦いの直前に有馬晴信の下にイエズス会副管区長コエリュが訪れており、キリシタン宗団組織の存亡に関わる緊急事態として強い危機感を示している。

イエズス会の副管区長コエリュは聖職者であると同時に、大名と南蛮商人との仲介者でもある。

火薬や鉄砲の供給はもちろん、龍蔵寺軍の侵略を前にしてこのとき有馬晴信は必死に軍事支援を副管区長コエリュに要請したことであろう。

危急存亡の事態に晴信はコエリュに泣きついた感じであったであろう。

それに応えて、ここでイエズス会は有馬晴信に対して最大限の軍事支援を行った。

それが二門の最新兵器の大砲を装備した軍船として登場してくる。

ルイス・フロイス『日本史』第五三章(第二部五二章)「野戦が行なわれ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第」には、次のように記されている。[引用開始]

「戦闘は栄光の福音史家聖マルコスの祝日の前日にあたる四月二十四日の朝、金曜日の八時に開始され、正午すぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行なわれた。

 双方とも渾身の力をもって勇戦したが、隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまつさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じこめてしまった。

 浜辺の戦列の端からは、隆信の二人の息子が他の武将たちとともに近づきつつあったが、その率いる兵はさらに豪華、かつ清潔で、見事な隊列を組んでいた。

その折、既述のように高来における最優秀のキリシタンの一人である有馬の家老の船には二門の半筒砲が積まれており、他の身分のある貴人たちが乗りこんでいた。ところでその場には砲手がいなかったので、一人のアフリカのカフル人が弾丸を込め、一人のマラバル人が点火していた。そうした厄介な操作にもかかわらず砲は見事な協力のもとに発射を始めた。

なにぶんにも敵兵は大群であったから弾丸が当り損ねることがなく、敵の一群が木端微塵に粉砕されると、(味方)一同は船内で敬虔にひざまずき、両手を合わせ、「パアテル・ノステル・クイ・エース・イン・チェリス・サンクチフィチェル、ノーメン、ツウム」の祈りを声高々に唱えた。そしてふたたび立ち上がると、またもや半筒砲にかなりの弾丸を込めた。

 人々が語るところによれば、一発で十人を倒した砲弾もあったという。敵の兜が断片となって空中に舞い上がるのが見え、味方の者はふたたび敬虔にひざまずいて「パアテル・ノステル」を続けるのであった。

これら二門の砲は敵をさんざんに痛めつけ、のちほど中務やドン・プロタジオ(有馬晴信)、およびその他の殿たちの証言によれば、千人の兵を有しているよりもそれらはより効果的に役立ったという。
というのも、かの海岸の戦列の端の一隊は、それら二門の砲によって甚大な損害を被り、列を乱し出し、その一部は退却し遁走し始め、他の一部は中央から進んできた部隊に合流した。」
[引用終わり]

ここで登場する優秀な砲手のカフル人とはエジプト北東部のカフル・アッシャイフから、またもう一人のマラバル人はインド半島南西部の海岸地方から南蛮人と共に渡来してきた艦船の乗員であり、訓練を受けた軍事戦闘要員達である。

しかも彼らは南蛮船にかならず搭乗している大砲の砲手であり、少なくとも彼らもイエズス会の影響下にあるということになる。

このとき有馬の二門の新兵器大砲は船に装備されてはいても有馬の兵ではまったく操作できず、実際の砲撃は彼らの助勢でようやく射撃できたのである。

おそらくこれが実戦でみられた日本における最初の大砲による艦砲射撃であり、実体弾による戦果であったのではないかと思われる。

この戦で日本人が始めて艦載砲の威力を目にしたわけで、その強大な破壊力と殺傷力に驚愕したことであろう。

浜辺の戦列の端からは、隆信の二人の息子が他の武将たちとともに近づきつつあったが、その率いる兵はさらに豪華、かつ清潔で、見事な隊列を組んでいた。」であろう龍造寺軍が、艦砲射撃によって一瞬にして「一群が木端微塵に粉砕される」様子は、この戦に連なっていた龍造寺の将兵に対して、始めて目にする大砲の威力そのものは相当な恐怖心を与えたはずである。

当初沖田畷の戦いは、どうみても強大な勢力を誇る龍造寺が敗退するような戦ではなかった。

山裾から海岸沿いにかけて龍造寺軍の夥しい将兵で埋め尽くされていた状況を考えれば、この戦いはどこまでも対峙する有馬・島津連合軍にとっては不利な状況であった。

ましてや寡兵である以上、大軍である龍造寺軍の戦意を失わせるような迎撃などは、ほぼ不可能な状況にあったといわざるを得ないのである。

有馬・島津連合軍の沖田畷での猛反撃が大きな戦果に繋がったことに違いはないが、そもそものきっかけを作ったのがこの新兵器大砲による海上からの艦砲射撃であったように思えてならない。

これはただの偶然でもあるまい。

イエズス会副管区長コエリュが、二門の大砲と訓練された砲手を素早く手配してくれていたからである。

ここでこのように軍事支援が行われていたのは、イエズス会副管区長コエリュのキリシタン大名有馬晴信へ対する特別な配慮に他ならないのである。


有馬が戦で敗れれば、有馬領内のキリシタン宗団も壊滅の危機に遭遇するわけであるから、ここでのイエズス会の軍事支援は当然のことであった。

しかしながらこのときの二門の大砲そのものは、イエズス会から有馬方に無償供与されたわけではなく、優先的な緊急の商得取引として引き渡されていたものである。

これも南蛮の鉄砲火薬取引同様に、有馬方が戦時の軍事物資として購入したも同然なのである。

現物が納品された以上有馬方には当然支払い義務が発生するわけで、これが後々キリシタン大名の南蛮、あるいはイエズス会への戦時負債ということになってくる。

たしかに外国人砲手の活躍で有馬方の大砲による艦砲射撃は、海岸沿いを進攻していた龍造寺軍精鋭を次々と吹き飛ばし予想以上の大きな戦果を上げていた。

日本の歴史書には、こうした外国人砲手が戦闘で大活躍していた事実は記録されてはいない。

当の勝者側もこうした事実には触れたくはなかったのであろう。

逆に云えば、外国勢力の介入によって、当初の予想に反して戦局が大きく変えられてしまったということだけはここでは云えるであろう。

さらにおかしなことは、この沖田畷の戦いについてのフロイスの記録には湿地帯を利用した特筆すべき有馬・島津連合軍の迎撃作戦そのものについては一切触れられてはいない。

沖田畷に湿地帯が本当に広がっていたのかもどうかもよく判らない。

龍造寺軍に包囲され鉄砲による猛射撃を受けている有馬・島津連合軍の描写があるところをみると、有馬・島津連合軍の陣営は攻め込まれて龍造寺軍の鉄砲隊の射程内に置かれてしまっていることになる。

とうてい反撃どころではないのだ。

しかしここで有馬・島津連合軍に反撃の機会が一気に出現する。

フロイスの記述を見れば、それははっきりしてくる。

戦闘は栄光の福音史家聖マルコスの祝日の前日にあたる四月二十四日の朝、金曜日の八時に開始され、正午すぎまで継続した。鉄砲隊による最初のいっせい射撃が終ると、槍による激闘が一時間にわたって行なわれた。

 双方とも渾身の力をもって勇戦したが、隆信の軍勢は槍の間からも鉄砲を放って戦局をきわめて有利に展開し、あまつさえその兵力は味方の軍勢とは比較にならぬほど多大であったので、彼らは我らの味方を一挙に押し切って、矢来の中に閉じこめてしまった。」と、そこにはあるではないか。

敵軍に陣地を包囲され矢来の中に閉じこめられてしまった防戦ともいえる状況から、ここからどう挽回できたのか不可解なところである。

戦局は流動的であるが、ここらの記述では明らかに龍造寺軍が有利に展開している様子が見て取れる。

やはりこの危機的状況を覆したのが、有馬方の軍船からの新兵器大砲による艦砲射撃ではなかったかということになる。

この砲撃によって龍造寺軍は混乱し、たちまち陣形を崩したのではないか。

そしてこの隙を見て有馬・島津連合軍は一気に反撃に出て、最初の勝機を掴んだのではあるまいか。

結果的には、有馬・島津連合軍の反撃で龍造寺軍の先鋒部隊の出鼻がくじかれただけでなく、一方的に艦砲射撃の直撃を受け続けるうちに龍造寺軍の一翼であった海岸沿いの兵団の混乱がさらに広がって、大軍団の指揮系統や進攻する隊列の統制が崩されていったわけで、そうした戦局の混乱がついには敗走を招いたということになる。

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そうした混乱を押さえようとして龍造寺隆信は、輿に担がれたまま前線近くにまで乗り出してきていた。

その輿は6人の兵によって担がれていた。

隆信は戦場を駆け回るには肥り過ぎていたのである。

軍船からの砲撃による龍造寺軍の混乱に乗じて、このときすでに島津・有馬の連合軍の果敢な反撃が一斉に始まっていた。

龍造寺軍の陣形が乱れ、双方の将兵が入り乱れて戦っていたもいた。

しかもこうした状況下で追い打ちを掛けるように、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲弾が総大将龍造寺隆信に命中した。

そのまま隆信はあっけなく討ち取られてしまう。

隆信の突然の討ち死にでたちまち龍造寺軍にさらなる動揺が拡散し、いわゆる全軍総崩れとなった。

有馬・島津の両軍は、戦場から敗走し退却する龍造寺軍を執拗に追撃し討ち取った。

この戦いで龍造寺隆信の弟康房、さらには龍造寺の四天王であった武将までもが討ち取られてしまうのである。

野戦ともいえる合戦で首級を取られた戦国大名は、この龍造寺隆信と今川義元だけであろう。

こうして島津・有馬の連合軍は、劇的な展開を見せて龍造寺軍を有馬領内から排撃することに成功した。

そこには南蛮渡来の新兵器大砲がたしかに威力を発揮していたのである。




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ラベル:沖田畷の戦い
posted by モモちゃん at 10:30| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月26日

長崎県平戸市周辺を旅しました

長崎県平戸は当日雨でした



先日長崎県平戸に行ってきました。

あいにくの雨天でしたが、すでに海も野山も春めいていました。

「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」を出版しました。

 戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまで10年近くブログなどで単発的に発表してきたものをまとめて、さらに近年新たに出てきた史料を加えて完成させたものです。

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本書は400年以前の海外への日本人拉致事件ともいえる奴隷貿易をテーマに書き上げました。

 

内容紹介

戦国時代に人買い船が西方よりやって来た!
火薬一樽は、日本人の娘五十人で取引されたというのは事実なのか?!何故に、日本に鉄砲が持ち込まれたのか?!
鉄砲で始まり鉄砲による未曾有のキリシタン軍団の大乱で終わる秘められた九州戦国史、歴史教科書では絶対触れることの出来ない戦国時代のその真実とは?

時代の激流に翻弄されながら、武人としての矜持を保った長崎代官・村山等安の壮絶な生きざまも併せて紹介したドキュメント作品。

本書は戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまでは国内で活躍した武将中心の世界を俯瞰するのとは別に、ここで視点を大きく変えて見てみました。

日本の戦国という時代様相とともに、当時の日本は海外とどのような対外的交渉があったのか捉えてみました。

新兵器の鉄砲伝来とキリスト教宣教師の渡来とによって、戦国日本にはいきなり南蛮という新たなファクターが付け加えられたのです。


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そこには悲惨な戦国難民が発生する一方で、端から日本人を奴隷種とみなす南蛮商人とが奇しくも同時に登場してくるという過酷な展開が見られたのです。














日本ではほとんど知られてはいませんが、アフリカだけではなく当時は大航海時代の美名の下で世界的なビジネスモデルとして奴隷貿易がはびこり、極東アジア地域にまで拡散してきていました。

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その時期、まさに日本は戦国時代真っ只中だったのです。

そうした戦乱の時代を背景にして、過酷な歴史が隠れたまま展開していたのだともいえます。

当方は立場上、アカデミックな学閥も政治も宗教問題も一切関係ありませんので、何の偏見もなく自在に考えたままに本稿を書き進めてましたので、その点は十分ご理解ください。

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ほんの一部分を書き著したつもりでしたが、当初の予想を超えて本著は四百ページを超えるものになってしまいました。

戦国の日本人奴隷貿易を扱った重い内容ですが、南蛮からの鉄砲とキリスト教の伝来を中心に時代を切り取り、その中での西洋と日本とが激突するダイナミックな歴史の流れを紹介しています。

歴史というのは単発の事件を並べただけでは解明できないものであって、すべての事象、事件というものは個々の人間を介して見えない部分で繋がっているものです。

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歴史にはその時代に生きた人間,証人となる確かな人物が登場しなくてはなりません。

そこで登場する日本人として、尾張の浪人として九州長崎に流れ込んできたキリシタン村山等安の数奇な半生を織り込んでみました。

等安は卓越した才覚によって貿易商として巨万の富を手にしただけではなく、長崎代官の役職にまで上り詰めますが、そこには政治絡みの権力闘争やキリシタンとしての宿命的な葛藤がありました。

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村山等安は対外的には中国(明)との支配海域を確認する外交交渉において画期的な成果を成し遂げていたのですが、当時の幕府も後世の為政者もこの事実を黙殺したのです。

これが皮肉なことに、現在の尖閣諸島問題と深くリンクしているのです。








本書の中では彼を取り巻く人物として、当時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康・秀忠、戦国大名の高山右近、大村喜前、天正遣欧少年使節千々石ミゲル、さらには宣教師ジョアン・ロドリゲス神父、デ・モラレス神父、貿易商末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、イエズス会司祭荒木トマス、背教者不干斎ハビアン、村山マリアといった多くの人物が次々と登場してきます。

とにかく読んでいただければ、その面白さはご理解いただけると思います。


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小高い丘の河津桜は満開でした。





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全編の内容と主な目次
● 天正遣欧少年使節とイエズス会宣教師ヴァリニャーノ・何故に、鉄砲が持ち込まれたのか?!・すべてはキリスト教伝来から始まる・いま何故、千々石ミゲルの存在が問われるのか?天正遣欧少年使節・イエズス会(1)
● 九州戦国時代の様相・奴隷船がやってきた・千々石ミゲル(2)
● 宣教師が絶賛した織田信長・海外に売られた戦争捕虜・当時の奴隷供給の背景と様相 (3)
● 秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか・アジアにおける日本人奴隷の実態・秀吉を激怒させたものとは何か・何故にキリシタンは、弾圧されたのか(4)
● 千々石ミゲルの棄教・大村喜前・応用倫理神学(5)
● キリシタン大名による奴隷貿易は特殊なものだったのか・保身に転じたキリシタン大名・その後の千々石ミゲルと時代背景・ 命を狙われる異端者、千々石ミゲル(6)
● 千々石ミゲル、長崎へ逃げる・長崎代官・村山等安とは何者か・ キリシタン貿易商としての活躍(7)
● 千々石ミゲルと長崎代官・村山等安との邂逅・ 長崎の教会と村山等安・それでも奴隷貿易は続く・奴隷の輸出許可書を誰が発行したのか・ ジョアン・ロドリゲス神父の登場(8)
● 長崎でのイエズス会・ジョアン・ロドリゲス神父の活動・ 等安、イエズス会からの離反を決意する ・ 村山等安と彼の一族が支援した宗教活動 (9)
● 長崎・マードレ・デ・デウス号事件・追い詰められるキリシタン・ 等安の命運を決定付けた長崎聖行列(10)
● 誇り高き同志、キリシタン高山右近との別れ・村山等安の決死の行動計画・その@・キリシタン弾圧と村山一族の動き・決死の行動計画・そのA(11)
● 幕府の思惑と村山等安の画策・幕府が恐れた村山等安の存在・等安の対コンフラリヤ策とは ・村山等安の台湾遠征の目的とは?(12)
● 村山等安に忍び寄る影・村山等安に対抗する勢力とは・村山等安と末次平蔵との確執(13)
● 末次平蔵の怒りを買った等安・末次平蔵を操るイエズス会の陰謀 (14)
● イエズス会司祭荒木トマスの暗躍・荒木トマスとは何者か・荒木トマスの放った一撃(15)
● 村山等安、窮地に陥る・末次平蔵の勝利 ・裁かれる村山一族・ 村山等安、ついに斬首される (16)
● 村山一族の斬首、殉教者・ キリシタン弾圧の時代と元和大殉教 ・キリシタン村山マリーアの殉教・ 陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代(17)
● 村山等安を評価していた背教者不干斎ハビアン・「破提宇子」=「地獄のペスト」を書いたハビアン・ハビアンの不可解な死に隠されたもの・その後の千々石ミゲル (18)
● イエズス会世界戦略・大航海時代と侵略の歴史・「宣教活動→仲介貿易→軍事行動→植民地化」という侵略の図式 (19)
● 日本でのイエズス会が採った軍事戦略・イエズス会に踊らされた秀吉・九州には、キリシタンによる内乱の火種があった・本能寺の変との関わり(20)


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● 国内最大の内乱が、キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発! ・村山等安一族が残した功績を顕彰する(21)
● 最強の傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態と、その攻防・鉄砲二千丁による猛攻とその後の悲劇 ・ついにはオランダ艦船の手を借りる(22)
● 悲劇の主役は、一体誰だったのか・何故に、ここにきて千々石ミゲルなのか・鎖国令・反乱はキリシタン傭兵部隊の暴走だったのか(23)

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★製品サイズ 直径10cm 厚さ 1.5cm 重さ 約170g

電磁番使用時の注意事項

★「電磁波中和装置電磁盤」は、周囲のマイナス波動の電磁波を干渉中和放電するため、DVDショップなどの店舗内に設置された盗難防止システムのゲートセンサー(レーダー)の電磁波にも敏感に反応し、有害電波の波形を変換してしまいます。
そのため「でんじ・ばん」を携帯したまま入店されますと、警報システムによっては電磁波シールドの変化で出店時のゲートでの誤作動で警報が作動してしまう場合がありますので、店内持ち込みによるトラブルには十分ご注意下さい。


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2019年01月20日

戦国に名を残した阿安姫の生涯

戦国九州美女伝説を探る

戦国時代の美女というと織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘であり、武将細川忠興の妻であったガラシャ夫人がつとに有名なのですが、同じ戦国時代にあって忘れてならない特筆すべき美女の一人として九州の戦国大名竜造寺隆信の娘阿安姫がいます。

阿安姫の美しさは、当時九州一円はもとより交易の中心であった堺や京、大坂までつとに知られていたのです。

阿安姫こと「お安の方」ともいわれますが、彼女にも過酷で数奇な運命が待っていました。


戦国時代、九州の肥前国(現在の佐賀)の東方(現福岡県・筑後地方)に有力な国人であった小田氏の居城(蓮池城)がありました。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であり、軍事的にも要となる土地でした。

当時の北部九州の勢力図でいうとこの豪族小田氏の城は、肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになります。

戦略的な拠点となり得る土地だけに、竜造寺も大友も互いにこの土地と城を狙っていたことになります。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず手始めに懐柔策として縁談を持ち掛けてきたのです。

もとよりこれは戦略としての政略結婚の話しであることは、みえみえのことでした。

その縁談の相手とは隆信の娘お安(阿安姫)であり、このとき彼女は十七歳でありました。

当然のこと、小田氏側には多少の警戒心はあったと思われますが、この縁談に対して小田側の反応は意外にも早かったといいます。

小田氏にとってこの縁談はそれほど悪い話しではありませんでした。

竜造寺に対して弱小である小田氏からみれば、むしろ願ってもない好都合な話ということになります。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたのですが、実は竜造寺氏の阿安姫は隆信の娘といっても実子ではありませんでした。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄でしたが、胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情がありました。

今風に云えば、妻の連れ子ということになります。

このように阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であったのです。


阿安姫は、義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのですが、阿安姫が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まってきました。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていたのです。

そのような背景からいくと、この縁談は両家にとっては好ましいもののようにみえますが、これは明らかな政略結婚そのものだったのです。

もとより隆信はそうした調略や懐柔策に長けた、したたかな戦国武将であったわけです。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を巧妙に取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信は明らかに阿安姫をその道具として使ったのです。

このことは後からはっきりと判ってきます。



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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったのですが、それでも竜造寺の申し出を小田側がそのまま受け入れたのはお阿安姫の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられるのです。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶してしまえば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていたことも確かです。

明らかに両者には武力に大差がありましたし、弱小であった小田側からみれば不利な戦は避けたいところであったのです。

竜造寺が始めから小田氏を武力で攻めてもいいわけですが、力尽くでは犠牲を覚悟しなくてはなりません。

勢力を温存しておきたい竜造寺は、それを考慮して巧妙な調略をここでは講じてみせたわけです。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっても格段に得策であったはずです。

両者の思惑が合致したというわけです。

その後またたく間に両家の婚礼の儀式は整い、竜造寺家から阿安姫は無事小田家へと嫁いできました。

たしかに小田鎮光が目にした阿安姫こと新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのです。

あまりの美しさに戸惑った鎮光や小田家の者は、当初お安の方を内心警戒するほどであったといいます。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていきました。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていきました。

しかしながら、一方の義父である竜造寺隆信は虎視眈々とその調略の時期を狙っていました。

そしてついに隆信の野望が牙をむくと、娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきたのです。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったのですが、突如として隆信は鎮光に領内の多久の梶峰城に移るよう命じてきました。

いわゆる領地変えです。

隆信の狙いは弟長信に街道の要衝であった小田氏の蓮池城を戦略的に押さえさせるためであったのです。

同時にここは小田の勢力を一気に抑え込もうとしたともとれます。

父祖の地を離れることは耐えがたいことでしたが、このときの小田鎮光には義父隆信の命に従うしか手立てがなかったのです。

妻であるお安の方も間に立って奔走したのですが、隆信の方針は覆ることはありませんでした。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのですが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と大友方に寝返っていくなか、かねてより隆信のこうした仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまいます。

このとき当初攻め込んできた大友勢は有利に戦いを進めており、緒戦で竜造寺軍は押され気味でした。

そうした戦況を観て小田氏勢力は目ざとく大友勢側に就いたのです。


kyu03この場合にしても小田鎮光自身が竜造寺を見限ったというよりは、小田家一族一党で協議の上で最終決断されたことに従ったに過ぎません。

この決断に至ったというのも鎮光ひとりの考えではなく、これまで彼に仕えてきた家臣団の強い思いが背後にはあったということになります。

結果的には当主である小田鎮光は、義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになります。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は烈火のごとく激怒します。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との悲劇的な歴史の流れが思い浮かぶところです。

その後この戦いでは予想外の展開があって、押され気味であった竜造寺軍は隆信の義弟である名将鍋島直茂が緒戦において大戦果を挙げたのです。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって、ついには大友軍を撃破してしまったのです。

そしてこの戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行いました。

それは熾烈なものでした。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせました。

竜造寺に反旗を翻したわけですから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということです。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえここでも夫婦共々苦汁の決断をしたことになります。

これに対して冷酷非情な隆信は、内心密かに一計を案じるのです。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせました。

わが娘であるお前は何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためました。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま竜造寺の佐嘉に戻って行ったのです。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて囲まれ討ち取られてしまいました。(元亀二年(1571年))

お安の方は夫の死を知って大きな衝撃を受け、その場に卒倒してしまいました。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろうと思います。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたのでした。

悲観したお安の方はその場で自害をしようとしますが、周りから押しとどめられてしまいます。

彼女の悲運はこれだけでは終わりませんでした。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考えるのです。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのでした。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、義父に従わざるを得ませんでした。

当時の戦国の世にあっては、身分の高い女性が三度、四度と嫁ぐことは珍しいことではなかったのです。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになりました。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦い(沖田畷の戦い)であえなく討ち死してしまいます。(天正十二年・1584年)

これで肥前での竜造寺の勢力は衰えてしまいます。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったのです。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招くこととなります。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にもかかわらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのです。

秀吉の命令は絶対でした。

大名の妻とて拒めるものではなかったのです。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していました。

天下人秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからない状況でした。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る過酷な時代です。

秀の前は太閤秀吉に拝謁しました。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆しました。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのですが、その美貌はまったく衰えてはいなかったのです。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、その場で秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせました。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあったのです。

胸に懐剣を納めて操を守る武家の作法そのものは、義父隆信の母、叔母でもある慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされます。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずでした。

俗説では、そのとき秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいいます。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったわけで、第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げてしまい、その後波多家はお家断絶になってしまいました。

こうした悲運な経緯の後、孤独なまま秀の前は生地の佐嘉に戻り仏門に入って静室妙安尼といわれるようになりました。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという俗説が残っていますが、事実かどうかはわかりません。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあります。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なりますが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方やガラシャ夫人をも彷彿とさせるところがあります。









denden3商品詳細

電磁波過敏症対策・電磁波攻撃防御製品
原因不明の不快な環境ストレスの原因は、多くの場合目には見えない電磁波ノイズが関係しています。
「電磁番」は多用途の機能的防御が可能です。携帯するだけ、貼るだけ、置いておくだけ!
準静電界レベルの干渉による不快な電磁波過敏症、電磁波音波攻撃対策の防御製品として、
「電磁番」はご利用者の皆様から高い評価を頂いております。
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★日本国内の電磁波環境に対応した製品です。不快な電磁波ノイズの中和放電によって身体への悪影響はほとんど感じられなくなります。(実際のストア評価のお客様の声を参照ください)
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「天魔王信長の野望を打ち砕く 我が武略に勝算あり」ノンフィクション

tuku
「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」ノンフィクション

奴隷船

「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」

経絡論

「時代小説短編集・憑依(つく)」
ミステリアスな題材による時代小説
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「徐福渡来伝説を検証する」太古の日本に渡来した徐福とは何者か?
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ラベル:美女伝説
posted by モモちゃん at 07:20| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月17日

戦国にも領有権・拉致問題が存在していた!

「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」を出版しました

私事ですが、これまで書き溜めてきた原稿を整理していたのですがようやくアマゾンから書籍として出すことが出来ました。

戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまで10年近くブログなどで単発的に発表してきたものをまとめて、さらに近年新たに出てきた史料を加えて完成させたものです。

本書は400年以前の海外への日本人拉致事件ともいえる奴隷貿易をテーマに書き上げました。

当初の予想を超えて内容が400ページ近くなりましたので、価格が抑えられる経済的な電子書籍の形で出版することにしました。

これだとタブレットやパソコンでも閲覧できますし、読み上げソフトにも対応できます。

 
内容紹介

戦国時代に人買い船が西方よりやって来た!
火薬一樽は、日本人の娘五十人で取引されたというのは事実なのか?!何故に、日本に鉄砲が持ち込まれたのか?!
鉄砲で始まり鉄砲による未曾有のキリシタン軍団の大乱で終わる秘められた九州戦国史、歴史教科書では絶対触れることの出来ない戦国時代のその真実とは?
時代の激流に翻弄されながら、武人としての矜持を保った長崎代官・村山等安の壮絶な生きざまも併せて紹介したドキュメント作品。

本書は戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまでは国内で活躍した武将中心の世界を俯瞰するのとは別に、ここで視点を大きく変えて見てみました。

日本の戦国という時代様相とともに、当時の日本は海外とどのような対外的交渉があったのか捉えてみました。

新兵器の鉄砲伝来とキリスト教宣教師の渡来とによって、戦国日本にはいきなり南蛮という新たなファクターが付け加えられたのです。

そこには悲惨な戦国難民が発生する一方で、端から日本人を奴隷種とみなす南蛮商人とが奇しくも同時に登場してくるという過酷な展開が見られたのです。

日本ではほとんど知られてはいませんが、アフリカだけではなく当時は大航海時代の美名の下で世界的なビジネスモデルとして奴隷貿易がはびこり、極東アジア地域にまで拡散してきていました。

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その時期、まさに日本は戦国時代真っ只中だったのです。

そうした戦乱の時代を背景にして、過酷な歴史が隠れたまま展開していたのだともいえます。

当方は立場上、アカデミックな学閥も政治も宗教問題も一切関係ありませんので、何の偏見もなく自在に考えたままに本稿を書き進めてましたので、その点は十分ご理解ください。

ほんの一部分を書き著したつもりでしたが、当初の予想を超えて本著は四百ページを超えるものになってしまいました。

戦国の日本人奴隷貿易を扱った重い内容ですが、南蛮からの鉄砲とキリスト教の伝来を中心に時代を切り取り、その中での西洋と日本とが激突するダイナミックな歴史の流れを紹介しています。

歴史というのは単発の事件を並べただけでは解明できないものであって、すべての事象、事件というものは個々の人間を介して見えない部分で繋がっているものです。

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歴史にはその時代に生きた人間,証人となる確かな人物が登場しなくてはなりません。

そこで登場する日本人として、尾張の浪人として九州長崎に流れ込んできたキリシタン村山等安の数奇な半生を織り込んでみました。

等安は卓越した才覚によって貿易商として巨万の富を手にしただけではなく、長崎代官の役職にまで上り詰めますが、そこには政治絡みの権力闘争やキリシタンとしての宿命的な葛藤がありました。

村山等安は対外的には中国(明)との支配海域を確認する外交交渉において画期的な成果を成し遂げていたのですが、当時の幕府も後世の為政者もこの事実を黙殺したのです。これが皮肉なことに、現在の尖閣諸島問題と深くリンクしているのです。




本書の中では彼を取り巻く人物として、当時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康・秀忠、戦国大名の高山右近、大村喜前、天正遣欧少年使節千々石ミゲル、さらには宣教師ジョアン・ロドリゲス神父、デ・モラレス神父、貿易商末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、イエズス会司祭荒木トマス、背教者不干斎ハビアン、村山マリアといった多くの人物が次々と登場してきます。
とにかく読んでいただければ、その面白さはご理解いただけると思います。


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全編の内容と主な目次
● 天正遣欧少年使節とイエズス会宣教師ヴァリニャーノ・何故に、鉄砲が持ち込まれたのか?!・すべてはキリスト教伝来から始まる・いま何故、千々石ミゲルの存在が問われるのか?天正遣欧少年使節・イエズス会(1)
● 九州戦国時代の様相・奴隷船がやってきた・千々石ミゲル(2)
● 宣教師が絶賛した織田信長・海外に売られた戦争捕虜・当時の奴隷供給の背景と様相 (3)
● 秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか・アジアにおける日本人奴隷の実態・秀吉を激怒させたものとは何か・何故にキリシタンは、弾圧されたのか(4)
● 千々石ミゲルの棄教・大村喜前・応用倫理神学(5)
● キリシタン大名による奴隷貿易は特殊なものだったのか・保身に転じたキリシタン大名・その後の千々石ミゲルと時代背景・ 命を狙われる異端者、千々石ミゲル(6)
● 千々石ミゲル、長崎へ逃げる・長崎代官・村山等安とは何者か・ キリシタン貿易商としての活躍(7)
● 千々石ミゲルと長崎代官・村山等安との邂逅・ 長崎の教会と村山等安・それでも奴隷貿易は続く・奴隷の輸出許可書を誰が発行したのか・ ジョアン・ロドリゲス神父の登場(8)
● 長崎でのイエズス会・ジョアン・ロドリゲス神父の活動・ 等安、イエズス会からの離反を決意する ・ 村山等安と彼の一族が支援した宗教活動 (9)
● 長崎・マードレ・デ・デウス号事件・追い詰められるキリシタン・ 等安の命運を決定付けた長崎聖行列(10)
● 誇り高き同志、キリシタン高山右近との別れ・村山等安の決死の行動計画・その@・キリシタン弾圧と村山一族の動き・決死の行動計画・そのA(11)
● 幕府の思惑と村山等安の画策・幕府が恐れた村山等安の存在・等安の対コンフラリヤ策とは ・村山等安の台湾遠征の目的とは?(12)
● 村山等安に忍び寄る影・村山等安に対抗する勢力とは・村山等安と末次平蔵との確執(13)
● 末次平蔵の怒りを買った等安・末次平蔵を操るイエズス会の陰謀 (14)
● イエズス会司祭荒木トマスの暗躍・荒木トマスとは何者か・荒木トマスの放った一撃(15)
● 村山等安、窮地に陥る・末次平蔵の勝利 ・裁かれる村山一族・ 村山等安、ついに斬首される (16)
● 村山一族の斬首、殉教者・ キリシタン弾圧の時代と元和大殉教 ・キリシタン村山マリーアの殉教・ 陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代(17)
● 村山等安を評価していた背教者不干斎ハビアン・「破提宇子」=「地獄のペスト」を書いたハビアン・ハビアンの不可解な死に隠されたもの・その後の千々石ミゲル (18)
● イエズス会世界戦略・大航海時代と侵略の歴史・「宣教活動→仲介貿易→軍事行動→植民地化」という侵略の図式 (19)
● 日本でのイエズス会が採った軍事戦略・イエズス会に踊らされた秀吉・九州には、キリシタンによる内乱の火種があった・本能寺の変との関わり(20)


maria

● 国内最大の内乱が、キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発! ・村山等安一族が残した功績を顕彰する(21)
● 最強の傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態と、その攻防・鉄砲二千丁による猛攻とその後の悲劇 ・ついにはオランダ艦船の手を借りる(22)
● 悲劇の主役は、一体誰だったのか・何故に、ここにきて千々石ミゲルなのか・鎖国令・反乱はキリシタン傭兵部隊の暴走だったのか(23)

「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景: (ノンフィクション) Kindle版








denden3商品詳細

電磁波過敏症対策・電磁波攻撃防御製品
「電磁番」は多用途の機能的防御が可能です。携帯するだけ、貼るだけ、置いておくだけ!
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「天魔王信長の野望を打ち砕く 我が武略に勝算あり」ノンフィクション

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「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」ノンフィクション

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「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」

経絡論

「時代小説短編集・憑依(つく)」
ミステリアスな題材による時代小説
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「徐福渡来伝説を検証する」太古の日本に渡来した徐福とは何者か?
古代史ドキュメント
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ラベル:領有権
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2018年12月02日

戦国史シリーズ第2彈を出しました!

歴史ドキュメント第2彈を出版しました!

今回戦国史シリーズ第2彈として、「天魔王信長の野望を打ち砕く 我が武略に勝算あり」を出版しました。

戦国史最大の謎とも云われる明智光秀による本能寺の変を独自の観点から説き明かしました。

織田家重臣として信長に重用されながら、明智光秀は何故に謀叛に至ったのか?

明智光秀の信長への反逆の理由だけでなく、謀叛計画の全貌とその周到な作戦計画を時系列で紹介しています。

同時に信長による徳川家康暗殺計画の有無、謀叛の黒幕の存在、さらには本能寺が外国勢力にも狙われていたとする信長爆殺説についての検証や朝廷による信長排除の動きにも触れて、本能寺の変にかかわる多くの謎を解明しつつ、その全貌を詳細に解説しています。

いままで不明瞭であった歴史の謎が解き明かされるときの、驚きと面白さとを合わせてお届けします。

「 天魔王信長の野望を打ち砕く 我が武略に勝算あり」
(本能寺の変に隠された光秀の緻密な戦略とは?)
  [目次]
  第一章 本能寺の変に隠された明智光秀の戦略とは何か?
  ●明智光秀の謀反に至る戦略の概要とその時系列
  ●本能寺の変は織田家のお家騒動なのか?
  ●明智光秀は何故情報戦略を欠いたのか?
  ●朝廷工作に賭けた明智光秀の戦略
  ●明智光秀謀叛の計画性を問う
  ●勝てる戦略を選ばなかった明智光秀
  ●謀反の黒幕は突き詰めるとこうなる
  ●明智光秀の誤算とは何か?
  ●明智光秀の戦略は何故に潰えたのか?
  ●細川家の対応から見えてくるもの
  ●光秀と秀吉の戦略の違いとは何か?
 
  第二章 イエズス会の陰謀と戦国武将織田信長 
  ●もう一つの信長暗殺計画の可能性とは何か?
  ●本能寺の変にイエズス会の陰謀が絡む理由とは何か?
  ●何故あえて信長爆殺説を支持するのか?
  ●信長爆殺説の新たな展開・「八切史観」と「副島説」
  ●イエズス会が魔王信長を見限ったとき
  ●イエズス会とアジア侵略の歴史

  第三章 光秀は家康饗応で信長暗殺決行を決意した
  ●光秀は家康饗応で信長暗殺決行を決意した
  ●光秀の策略は五月十七日夜に開始された
  ●信長は家康接待で光秀を何故足蹴にしたのか
  ●信長は家康の暗殺を本当に企んでいたのか
  ●徳川家康は本能寺の変をどう評価したのか?

   第四章 織田信長は何故「是非に及ばず」と云ったのか
  ●明智光秀は信長に何故反逆したのか
  ●問われ続ける明智光秀謀反の理由
  ●明智光秀の叛意そのものはいつ生じたのか?
  ●武将明智光秀の武門の意地とは何か?
  ●明智光秀家中の軍律に隠された真意とは何か
  ●武将明智光秀、天魔王織田信長の野望を叩き潰す!
  ●武将明智光秀、我が武略に勝算あり!
  ●織田信長は何故「是非に及ばず」と云ったのか?

coverhttps://www.amazon.co.jp/dp/B07L1WDTQ6



















登録情報







































































ラベル:本能寺の変
posted by モモちゃん at 06:33| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月02日

秋の夜長は戦国史を紐解く

歴史発見シリーズ
戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景(11)

その他の重要な参考文献・資料の厳選163冊を紹介します。
画像をクリックすると、詳しい書籍の内容紹介が表示されます。



東洋医学史研究会
宇田明男



歴史発見館シリーズ!!
ノンフィクション・「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景: 長崎代官村山等安とその一族


・何故、千々石ミゲルはキリスト教を棄教したのか
・何故、長崎代官村山等安は斬首されたのか
・天草島原の乱はキリシタン傭兵部隊の反乱なのか




ドキュメント・「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景: 長崎代官村山等安とその一族」全編の内容と主な目次

● 天正遣欧少年使節とイエズス会宣教師ヴァリニャーノ・何故に、鉄砲が持ち込まれたのか?!・すべてはキリスト教伝来から始まる・いま何故、千々石ミゲルの存在が問われるのか?天正遣欧少年使節・イエズス会(1)
● 九州戦国時代の様相・奴隷船がやってきた・千々石ミゲル(2)
● 宣教師が絶賛した織田信長・海外に売られた戦争捕虜・当時の奴隷供給の背景と様相 (3)
● 秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか・アジアにおける日本人奴隷の実態・秀吉を激怒させたものとは何か・何故にキリシタンは、弾圧されたのか(4)
● 千々石ミゲルの棄教・大村喜前・応用倫理神学(5)
● キリシタン大名による奴隷貿易は特殊なものだったのか・保身に転じたキリシタン大名・その後の千々石ミゲルと時代背景・ 命を狙われる異端者、千々石ミゲル(6)
● 千々石ミゲル、長崎へ逃げる・長崎代官・村山等安とは何者か・ キリシタン貿易商としての活躍(7)
● 千々石ミゲルと長崎代官・村山等安との邂逅・ 長崎の教会と村山等安・それでも奴隷貿易は続く・奴隷の輸出許可書を誰が発行したのか・ ジョアン・ロドリゲス神父の登場(8)
● 長崎でのイエズス会・ジョアン・ロドリゲス神父の活動・ 等安、イエズス会からの離反を決意する ・ 村山等安と彼の一族が支援した宗教活動 (9)
● 長崎・マードレ・デ・デウス号事件・追い詰められるキリシタン・ 等安の命運を決定付けた長崎聖行列(10)
● 誇り高き同志、キリシタン高山右近との別れ・村山等安の決死の行動計画・その@・キリシタン弾圧と村山一族の動き・決死の行動計画・そのA(11)
● 幕府の思惑と村山等安の画策・幕府が恐れた村山等安の存在・等安の対コンフラリヤ策とは ・村山等安の台湾遠征の目的とは?(12)
● 村山等安に忍び寄る影・村山等安に対抗する勢力とは・村山等安と末次平蔵との確執(13)
● 末次平蔵の怒りを買った等安・末次平蔵を操るイエズス会の陰謀 (14)
● イエズス会司祭荒木トマスの暗躍・荒木トマスとは何者か・荒木トマスの放った一撃(15)
● 村山等安、窮地に陥る・末次平蔵の勝利 ・裁かれる村山一族・ 村山等安、ついに斬首される (16)
● 村山一族の斬首、殉教者・ キリシタン弾圧の時代と元和大殉教 ・キリシタン村山マリーアの殉教・ 陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代(17)
● 村山等安を評価していた背教者不干斎ハビアン・「破提宇子」=「地獄のペスト」を書いたハビアン・ハビアンの不可解な死に隠されたもの・その後の千々石ミゲル (18)
● イエズス会世界戦略・大航海時代と侵略の歴史・「宣教活動→仲介貿易→軍事行動→植民地化」という侵略の図式 (19)
● 日本でのイエズス会が採った軍事戦略・イエズス会に踊らされた秀吉・九州には、キリシタンによる内乱の火種があった・本能寺の変との関わり(20)
● 国内最大の内乱が、キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発! ・村山等安一族が残した功績を顕彰する(21)
● 最強の傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態と、その攻防・鉄砲二千丁による猛攻とその後の悲劇 ・ついにはオランダ艦船の手を借りる(22)
● 悲劇の主役は、一体誰だったのか・何故に、ここにきて千々石ミゲルなのか・鎖国令・反乱はキリシタン傭兵部隊の暴走だったのか(23)
















「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」

経絡論
「戦国日本人奴隷貿易の真相」ノンフィクション

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「時代小説短編集・憑依(つく)

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denden3商品詳細
★電磁波中和放電装置「電磁番」をテレビやパソコン、各種電子機器、電子レンジなどの電気機器の上や車両内に、一個セットするだけで「特殊電子回路」が周囲に放射される有害電磁波に干渉して中和放電変換します。
★日本国内の電磁波環境に対応した製品です。不快な電磁波ノイズの中和放電によって身体への悪影響はほとんど感じられなくなります。(実際のストア評価のお客様の声を参照ください)
★隣接した建物や施設から放射される不快な波動ノイズ、悪質な電磁波攻撃、嫌がらせにも対応いたします。 製品の耐用年数は、普通に使用すれば3,40年以上そのままで使用可能です。
★一般の住居内はもとより、店舗・事務室・治療室や病室、オフィス内環境を電磁波レベルで整え防御します。(取り扱い説明書を添付しております)
電磁番使用時の注意事項
★「電磁波中和装置電磁盤」は、周囲のマイナス波動の電磁波を干渉中和放電するため、DVDショップなどの店舗内に設置された盗難防止システムのゲートセンサー(レーダー)の電磁波にも敏感に反応し、有害電波の波形を変換してしまいます。
そのため「でんじ・ばん」を携帯したまま入店されますと、警報システムによっては電磁波シールドの変化で出店時のゲートでの誤作動で警報が作動してしまう場合がありますので、店内持ち込みによるトラブルには十分ご注意下さい。

詳細は外部サイトのリンクページの「電磁波中和装置電磁番」のセット方法について」をご覧ください。
電磁波過敏症や電磁波攻撃対策法については
外部サイトのリンクページの「波動電磁波情報検討会」を参照ください。
電磁波中和装置電磁番についての解説(クリックするとリンクページが開きます)
「電磁波中和装置電磁番」のご案内
電磁波過敏症の症状とはなにか
電磁波攻撃によるストレス症状について
「電磁波中和装置電磁番」の干渉中和放電効果について
「電磁波中和装置電磁番」を使用されているお客様の声
「電磁波中和装置電磁番」の機能と構造について
「電磁波中和装置電磁番」に関するご質問と解説
「電磁波中和装置電磁番」を使った気の調整法について
電磁波過敏症の症状関連の出版物
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スマホ電磁波の対策予防法
スマホ乗っ取り攻撃について
電磁波攻撃・嫌がらせ対策
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電磁波被曝と準静電界について
米国大使館電磁波被曝事件









































































ラベル:参考文献
posted by モモちゃん at 07:01| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月01日

戦国の悲劇を巡る「ダークツーリズム」!

長崎・天草「潜伏キリシタン」 世界遺産登録決定
国内22件目 2018/6/30

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3246706030062018MM8000/



九州戦国時代

「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景」を出版しました

私事ですが、これまで書き溜めてきた原稿を整理していたのですがようやくアマゾンから書籍として出すことが出来ました。

戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまで10年近くブログなどで単発的に発表してきたものをまとめて、さらに近年新たに出てきた史料を加えて完成させたものです。

本書は400年以前の海外への日本人拉致事件ともいえる奴隷貿易をテーマに書き上げました。

日本ではほとんど知られてはいませんが、アフリカだけではなく当時は大航海時代の美名の下で世界的なビジネスモデルとして奴隷貿易がはびこり、極東アジア地域にまで拡散していました。

その時期、まさに日本は戦国時代真っ只中だったのです。

そうした戦乱の時代を背景にして、過酷な歴史が隠れたまま展開していたのだともいえます。

当方は立場上、アカデミックな学閥も政治も宗教問題も一切関係ありませんので、何の偏見もなく自在に考えたままに本稿を書き進めてましたので、その点は十分ご理解ください。

ほんの一部分を書き著したつもりでしたが、当初の予想を超えて本著は四百ページを超えるものになってしまいました。

戦国の日本人奴隷貿易を扱った重い内容ですが、南蛮からの鉄砲とキリスト教の伝来を中心に時代を切り取り、その中での西洋と日本とが激突するダイナミックな歴史の流れを紹介しています。

歴史というのは単発の事件を並べただけでは解明できないものであって、すべての事象、事件というものは個々の人間を介して見えない部分で繋がっているものです。

歴史にはその時代に生きた人間,証人となる確かな人物が登場しなくてはなりません。

そこで登場する日本人として、尾張の浪人として九州長崎に流れ込んできたキリシタン村山等安の数奇な半生を織り込んでみました。

等安は卓越した才覚によって貿易商として巨万の富を手にしただけではなく、長崎代官の役職にまで上り詰めますが、そこには政治絡みの権力闘争やキリシタンとしての宿命的な葛藤がありました。

本書の中では彼を取り巻く人物として、当時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康・秀忠、戦国大名の高山右近、大村喜前、天正遣欧少年使節千々石ミゲル、さらには宣教師ジョアン・ロドリゲス神父、デ・モラレス神父、貿易商末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、イエズス会司祭荒木トマス、背教者不干斎ハビアンといった多くの人物が次々と登場してきます。

とにかく読んでいただければ、その面白さはご理解いただけると思います。

「戦国日本人奴隷貿易の真相とキリシタン弾圧の背景: (ノンフィクション) Kindle版













「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」

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★電磁波中和放電装置「電磁番」をテレビやパソコン、各種電子機器、電子レンジなどの電気機器の上や車両内に、一個セットするだけで「特殊電子回路」が周囲に放射される有害電磁波に干渉して中和放電変換します。
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★隣接した建物や施設から放射される不快な波動ノイズ、悪質な電磁波攻撃、嫌がらせにも対応いたします。 製品の耐用年数は、普通に使用すれば3,40年以上そのままで使用可能です。
★一般の住居内はもとより、店舗・事務室・治療室や病室、オフィス内環境を電磁波レベルで整え防御します。(取り扱い説明書を添付しております)
電磁番使用時の注意事項
★「電磁波中和装置電磁盤」は、周囲のマイナス波動の電磁波を干渉中和放電するため、DVDショップなどの店舗内に設置された盗難防止システムのゲートセンサー(レーダー)の電磁波にも敏感に反応し、有害電波の波形を変換してしまいます。
そのため「でんじ・ばん」を携帯したまま入店されますと、警報システムによっては電磁波シールドの変化で出店時のゲートでの誤作動で警報が作動してしまう場合がありますので、店内持ち込みによるトラブルには十分ご注意下さい。

詳細は外部サイトのリンクページの「電磁波中和装置電磁番」のセット方法について」をご覧ください。
電磁波過敏症や電磁波攻撃対策法については
外部サイトのリンクページの「波動電磁波情報検討会」を参照ください。
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電磁波過敏症の症状とはなにか
電磁波過敏症の症状経過について
「電磁波中和装置電磁番」の干渉中和放電効果について
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「電磁波中和装置電磁番」の機能と構造について
「電磁波中和装置電磁番」に関するご質問と解説
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電磁波過敏症の症状関連の出版物
最近の重要な電磁波情報
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スマホ電磁波の対策予防法
スマホ乗っ取り攻撃について
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posted by モモちゃん at 10:32| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月25日

忍者はフェィクニュースを巧みに流す!

募集中「年収945万円なのに忍者不足」!

忍者とは、鎌倉時代から戦国時代、さらに江戸時代に大名や領主に仕え、または独立した職能集団として組織的な諜報活動、戦場での破壊活動、敵国への浸透戦術、暗殺などを担っていたとされる。

もともとは村落単位の自衛組織として発祥してきたもので、その中で特殊な武器を使い戦闘能力を高めていった。

彼らは幼少期から忍者修行をするのであるが、なかには孤児や拉致されてきた児童までもが含まれていたという。

戦時には領主や各地の大名らに忍びの者、ラッパ、スッパとして集団で雇われ、諜報活動や戦闘に度々参加した。

忍者は人間離れした持久力や身体能力が要求されるだけに、その活躍や名称は日本国内にとどまらず広く世界的にも知られている。

特殊な職能集団として、いまや忍者は観光地では引く手あまたである。

「年収945万円で忍者募集」伊賀市、偽ニュースを否定
2018/7/24

「年収945万円なのに忍者不足」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180724-00000108-asahi-soci





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2018年07月20日

日本の発酵食品・味噌の仕込み方!

自家製味噌に挑戦する!


健康食を考える上でその中心に置いて考えるべき日常の食べ物といえば、やはり味噌だと思う。

日本人の食生活に不可欠な食材ということで、味噌に特別な拘りを持ておられる方も少なくないであろう。

まず味噌は日本人の健康食としてその筆頭に位置する存在に違いない。

味噌に拘りを持てば、必然的に手作りの手前味噌ということになる。


味噌づくりには、大豆と米こうじ、塩を用意する。

使用する容器や道具は、カビや雑菌が繁殖しないように事前にアルコールなどで消毒しておく。




RIMG0547


















今回は、教えてもらった分量は、大豆900グラム、塩600グラム、米こうじ3キログラムであった。

我が家も何年か前から自前で味噌を仕込むようになったが、実際に手伝うのは今回が初めて。






RIMG0549





















大豆を柔らかく煮てすり潰したものに細かくほぐした米こうじを混ぜ合わせる。

さらにこれに塩を加えて丁寧に混ぜる。








RIMG0553




















さらに混ぜ合わせて出来たものを小分けしてボールのように丸めていく。

仕上げは空気が入らないようにボール状にしたものを少しづつ押し固めながら容器に入れていく。

その作業が終わったら上からラップを被せて密着させ、味噌の表面をきれいに覆う。







RIMG0550



















仕込んだ直後は味噌は黄色っぽい大豆の色である。

これが半年経つと次第に発酵して味噌全体の熟成が進んでくる。

熟成してくると、次第に美味しそうないい匂いが漂ってくる。

手作り味噌を食べ始めると市販の味噌とは比較にならない美味しさに遭遇することになる。

自家製味噌は熟成に少なくとも半年は必要である。

味の芳醇さはもちろんその風味や香りに格段の違いがある。

市販の促成物とは違った本物の美味しさがある。






RIMG1724


















熟成した味噌壷を開けると味噌特有の芳香が広がってくる。

味噌の色も茶褐色になっていて、時間の経過と共にその色が濃くなっていく感じで熟成が進んでいく。






RIMG1723

















始めて体験したが、味噌作りは意外と面白い。

しかもこれは何やら男性向きの作業のように思える。













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ラベル:手作り味噌
posted by モモちゃん at 07:28| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月03日

戦国最強の放送禁止用語・死語について

織田信長が勝機を掴んだ瞬間!

「おわい屋」という語彙を始めて目にしたのは三島由紀夫の文学作品「仮面の告白」の文中であった。

それだけに何だか新鮮な響きがあった。

いまや放送禁止用語であり、死語となったこの語彙はおそらく関東周辺地域の古語であったのかもしれない。

「おわい屋(汚穢屋)」とは、便所の汲み取りを職業とする専門用語である。

現代の上下水道完備の若い世代には、この一昔前の便所の汲み取りということさえ理解が及ばないことであろう。

それこそむかしむかしの話になる。

庭の裏木戸があいて誰かが入って来た。小母さんは又,口を袂で押さえて,「ほら,来た来た豊田さん,貞子も。早く早く」といって自分から先に家へ入ってしまった。私も何が何だかわからないで,小母さんの後につづいてお勝手から入った。小島さんがお勝手と廊下をしめた。小島さんに,「何あに」と聞くと,小島さんは,「おわい屋,おわい屋」と言って笑った。…… ガボッガボッとおわいを汲む音が聞こえる。…… 手拭でほおかむりをした,おわい屋さんは,天秤棒をキシキシいわせて,こい桶をかついで出て行くところだった。うす黄色い水が汲み取り口から,点々と三四ヶ所たれていた。小母さんは,「まあ,だらしのないおわい屋さん」と言ってまゆをしかめた。…… 小島さんは小声で,「家のお母さんとっても綺麗好きなのよ。だから,おわい屋さんやなんかきて,さわった所は皆ふかせるのよ」と壜の蓋をしながら言った。』「綴方教室」(「綺麓好き」)(豊田正子著,木鶏社刊)


汚穢屋とはいっても、これはれっきとした歴史のある職業であり、江戸時代以前から重宝されていた。

長屋でもそうした汲み取りの人が回ってきて屎尿を回収していったわけで、その際には回収量に応じて大家にはいくばくかの金銭の支払いがあったのである。

大家にとってはいわゆる臨時収入ということになる。

汚穢屋は少なくとも一般庶民の衛生管理はもとより、農事に欠かせない堆肥をひろく回収斡旋していたことになるわけで、これは戦国時代からその活躍が各所で普通に見られたのである。

糞尿から塩硝が生成され始めたときにも、火薬の原材料という軍事物資にも直接かかわっていたわけで、ここから意外にも大いに財を成した者も出たことがそれとなく伺えてくる。

戦時には欠かせない兵糧運搬や糞尿処理の現場にしても、随所で御用商人らが深く関わっていた。

糞尿の運搬と処理がビジネスであったのだ。

人間が一時に大勢集まればそこにはあらゆる商売の機会が生まれてくるわけで、目敏い商人たらがこうした活気ある戦時経済の場へ次々と参画していった。

相手が誰であろうと売れる物があれば売る、買い取る物があれば買い叩く。それがビジネスの現場である。

もとより戦国時代であれば数千から数万の兵員が集団で戦場まで一定期間行軍するわけであるが、その間は厳しい軍律によって統制されていた。

無言のまま黙々と行軍する。途中の休息も食事もすべて指揮官の指図に従う。

行軍中は私語や勝手に隊列から離れての用便などは禁じられていたわけで、そこでの糞尿は御用商人が用意した桶にすへて漏らさずため込まねばならなかった。

事前にそのような取引が専門業者とされていた。

「こちらの隊の方は、この大桶にお願いします!」
「桶の外にはお漏らしになりませぬようご配慮ください。満杯の場合はすぐに次の桶をご用意いたします!」

そうした商人らの声が響く。

糞尿の回収が行われるのは、環境や衛生面のことを考慮していたからではなかった。

当時は糞尿にそれなりの商品価値があったからである。

この時代糞尿は肥やしとして農家に高く売れたのであり、そこらに気安く垂れ流すようなものではなかった。

当然戦時には大軍団にはかならず汚穢屋の屋号が入った肥え桶がぞろぞろと後を付いていったのである。

面白いことに、こうした糞尿回収が戦時経済では機能的に働いていたことになる。

こうした習いがあってのことか、笑い話ではなく実際に田舎では「よその土地で小便はするな!小便するときは自分とこの田圃にしろ!」と子供までが親に口うるさくいわれていたのである。

農事や経済に疎い戦国大名はこうした戦場の屎尿処理まで頭が回ってはいなかったようで、野放図に沿道に糞尿を放置していったこともあって近隣住民からは評判が悪かったのである。

糞尿処理がいい加減な武将は、厳しい戦国の時代を生きながらえることは出来なかったのは確かである。

逆にここで戦国時代の糞尿処理について、あえて衛生面について考えてみることも出来る。

むしろこれなどは戦況に大いに関連することでもあった。それも敵に周囲を囲まれてしまう籠城戦などでは深刻な問題が度々発生した。

たとえば籠城戦において城内の衛生環境が悪化したことによって悲劇的な結末を招いてしまったのが、能登(石川県)において行われた天正5(1577)年夏の第二次七尾城籠城戦である。

糞尿問題で話題になる事例でもある。

かっての七尾城は能登畠山氏の居城であったが、上杉謙信により包囲され、その周辺の領民1万5千人あまりが城内に避難して籠城戦となった。

七尾城は山城であり、山全体に郭が設けられかなりの人数を収容できる大きな城ではあったが、ここでは肝心の大人数分の飲料水の確保と屎尿処理がうまく対応できてはいなかった。

気温の高い夏場、大量の糞尿が城内に溜まっていったことで、井戸がたちまち汚染されてしまったのだ。

籠城戦で飲料水が汚染されてしまえば致命的である。

これが災いして瞬く間に城内に疫病が発生すると、ついには頼るべき城主が早々に倒れてしまった。

凄惨な状況に陥ったわけで、結果的には自滅したも同然であった。

表向きは籠城戦ではあるが、結局のところは自分らの溜まりにたまった屎尿が原因であえなく落城に至ったということである。

これが意外過ぎる戦国の糞尿譚なのである。


戦国時代の屎尿処理の事実を知ったとき私などはその合理性に感嘆せずにはおられなかったわけであるが、その際ふとある戦国武将のことが思い浮かんだのである。

それは駿河の戦国大名今川義元のことである。

2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で今川本陣を強襲し、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いがつとに有名である。

このとき昼食の支度にかかっていた今川陣営には、相当数の肥え桶が設営されていたのではあるまいか。

兵員の多くがいくぶん気が緩んだ瞬間であったであろう。

並べられた肥え桶の周りにも大勢集まっていたはずである。

そこを織田軍団が急襲した。

今川勢は逃げまどい大混乱に陥る。

この間に今川義元は討ちとられ大敗するのである。

それこそ織田勢に攻め込まれた桶狭間の戦場跡には、放置されたままの肥え桶があちらこちらに無様に転がっていたことであろう。

桶狭間に肥え桶である。

戦場が、桶狭間とはまさしく言い得て妙である。



















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posted by モモちゃん at 07:21| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月28日

美人ゆえの悲運に泣いた竜造寺家の阿安姫

戦国九州美女伝説の様相(3)

戦国時代の美女というと織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘であり、武将細川忠興の妻であったガラシャ夫人がつとに有名なのですが、同じ戦国時代にあって忘れてならない特筆すべき美女の一人として九州の戦国大名竜造寺隆信の娘であった阿安姫がいます。

阿安姫こと「お安の方」ともいわれますが、彼女にも過酷で数奇な運命が待っていました。


戦国時代、九州の肥前国(現在の佐賀)の東方(現福岡県・筑後地方)に有力な国人であった小田氏の居城(蓮池城)がありました。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であり、軍事的にも要となる土地でした。

当時の北部九州の勢力図でいうとこの豪族小田氏の城は、肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになります。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず手始めに懐柔策として縁談を持ち掛けてきたのです。

その縁談の相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき彼女は十七歳でありました。

当然のこと、小田氏には多少の警戒心はあったと思われますが、この縁談に対して小田側の反応は意外にも早かったといいます。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたのですが、実は竜造寺氏の阿安姫は隆信の娘といっても実子ではありませんでした。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄でしたが、胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情がありました。

このように阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であったのです。


阿安姫は、義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのですが、阿安姫が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていました。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていたのです。

そのような背景からいくと、この縁談は両家にとっては好ましいもののようにみえますが、これは明らかな政略結婚そのものだったのです。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を巧妙に取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信は阿安姫をその道具として使ったのです。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であったわけです。


800px-Ryūzōji_Takanobu






























小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったのですが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお阿安姫の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられるのです。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていたことも確かです。

明らかに両者には武力に大差がありましたし、小田側からみれば不利な戦は避けたいところであったのです。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずです。

その後またたく間に両家の婚礼の儀式は整い、竜造寺家から阿安姫は無事小田家へと嫁いできました。

たしかに小田鎮光が目にした阿安姫こと新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのです。

あまりの美しさに戸惑った鎮光や小田家の者は、当初お安の方を内心警戒するほどであったといいます。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていきました。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていきました。

しかしながら、一方の竜造寺隆信は虎視眈々とその調略の時期を狙っていました。

そしてついに隆信の野望が牙をむくと、娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきたのです。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったのですが、突如として隆信は鎮光に領内の多久の梶峰城に移るよう命じてきました。

隆信の狙いは弟長信に街道の要衝であった蓮池城を戦略的に押さえさせるためであったのです。

ここは小田の勢力を一気に抑え込もうとしたともとれます。

父祖の地を離れることは耐えがたいことでしたが、このときの小田鎮光には義父隆信の命に従うしか手立てがなかったのです。

妻であるお安の方も間に立って奔走したのですが、隆信の方針は覆ることはありませんでした。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのですが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と大友方に寝返っていくなか、かねてより隆信のこうした仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまいます。

当初攻め込んできた大友勢は有利に戦いを進めており、緒戦で竜造寺軍は押され気味でした。

そうした戦況を観て、鎮光は目ざとく大友勢側に就いたのです。


kyu03この場合にしても小田鎮光自身が竜造寺を見限ったというよりは、小田家一族一党で協議の上で最終決断されたことに従ったに過ぎません。

結果的には当主である小田鎮光は、義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになります。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒します。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との悲劇的な歴史の流れが思い浮かぶところです。

その後この戦いでは予想外の展開があって、押され気味であった竜造寺軍は隆信の義弟である鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げたのです。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって、ついには大友軍を撃破してしまったのです。

そしてこの戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行いました。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせました。

竜造寺に反旗を翻したわけですから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということです。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことになります。

これに対して隆信は、内心密かに一計を案じるのです。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせました。

何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためました。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行ったのです。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまいました。(元亀二年(1571年))

お安の方は夫の死を知って大きな衝撃を受け、その場に卒倒してしまいました。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろうと思います。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたのでした。

悲観したお安の方はその場で自害をしようとしますが、周りから押しとどめられてしまいます。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考えるのです。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのでした。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なませんでした。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになりました。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死してしまいます。

これで肥前での竜造寺の勢力は衰えてしまうのです。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったのです。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招くこととなります。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にもかかわらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのです。

秀吉の命令は絶対でした。

大名の妻とて拒めるものではなかったのです。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していました。

天下人秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからない状況でした。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る過酷な時代です。

秀の前は太閤秀吉に拝謁しました。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆しました。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのですが、その美貌はまったく衰えてはいなかったのです。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、その場で秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせました。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあったのです。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされます。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずでした。

俗説では、そのとき秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいいます。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったわけで、その後波多家はお家断絶になってしまいました。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げてしまいます。

こうした悲運な経緯の後、孤独なまま秀の前は生地の佐嘉に戻り仏門に入って静室妙安尼といわれるようになりました。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説が残っています。事実かどうかはわかりません。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあります。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なりますが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるところがあります。

















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