2017年04月04日

世界各地に日本の忍術は広まっていった!

いまや忍者は世界中に居ます!

忍者とは、鎌倉時代から戦国時代、さらに江戸時代に大名や領主に仕え、または独立した職能集団として組織的な諜報活動、戦場での破壊活動、敵国への浸透戦術、暗殺などを担っていたとされる。

もともとは村落単位の自衛組織として発祥してきたもので、その中で特殊な武器を使い戦闘能力を高めていった。

彼らは幼少期から忍者修行をするのであるが、なかには孤児や拉致されてきた児童までもが含まれていたという。

戦時には領主や各地の大名らに忍びの者、ラッパ、スッパとして集団で雇われ、諜報活動や戦闘に度々参加した。

忍者は人間離れした持久力や身体能力が要求されるだけに、その活躍や名称は日本国内にとどまらず広く世界的にも知られている。



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タグ:諜報活動
posted by モモちゃん at 17:31| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

戦国大名の政略結婚とはどのようなものか?

戦国九州美女伝説の様相(3)

何回かシリーズで書いてきていたのですが、戦国時代の3人目の美女を紹介するのをすっかり忘れていました。

九州の戦国時代にあって、忘れてならない特筆すべき美女の一人ということになります。

今回は竜造寺氏の美女の3人目、阿安姫こと「お安の方」を紹介します。

他の竜造寺氏の美女同様に彼女にも数奇な運命が待っていました。


戦国時代、九州の肥前国(佐賀)の東方に有力な国人小田氏の居城(蓮池城)がありました。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であり、軍事的にも要となる地でした。

当時の勢力図でいうと豪族小田氏の城は、肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになります。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず手始めに縁談を持ち掛けてきたのです。

その縁談の相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき彼女は十七歳でありました。

当然のこと、多少の警戒心はあったと思われますが、この縁談に対して小田側の反応は意外にも早かったといいます。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたのですが、実は竜造寺氏のお安の方は隆信の娘といっても実子ではありませんでした。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄でしたが、胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情がありました。

阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であったのです。


義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのですが、お安が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていました。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていたのです。

そのような背景からいくと、この縁談は両家にとっては好ましいもののようにみえますが、これは明らかな政略結婚そのもののだったのです。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を巧妙に取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信はお安をその道具として使ったのです。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であったわけです。


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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったのですが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお安の方の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられるのです。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていたことも確かです。

明らかに両者には武力に大差がありましたし、小田側からみれば戦は避けたいところであったのです。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずです。

そのごまたたく間に婚礼の儀式は整い、竜造寺家から安の方は無事小田家へと嫁いできました。

たしかに小田鎮光が目にした新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのです。

あまりの美しさに戸惑った鎮光は、当初お安の方を内心警戒するほどであったといいます。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていきました。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていきました。

竜造寺隆信は虎視眈々とその調略の時期を狙っていました。

そしてついに隆信の野望が牙をむくと娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきたのです。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったのですが、突如として隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命じてきました。

隆信の狙いは弟長信に街道の要衝である蓮池城を戦略的に押さえさせるためであったのです。

ここは小田の勢力を抑え込もうとしたともとれます。

父祖の地を離れることは耐えがたきことであったが、このときの小田鎮光には隆信の命に従うしか手立てがなかったのです。

妻であるお安の方も間に立って奔走したのですが、隆信の方針は覆ることはありませんでした。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのですが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と寝返っていくなか、かねてより隆信のこうした仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまいます。


kyu03小田鎮光は義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになります。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒します。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との歴史の流れが思い浮かぶところです。

この戦いでは予想外の展開があって、押され気味であった竜造寺軍は隆信の義弟である鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げたのです。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって大友軍を撃破してしまったのです。

そしてこの戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行いました。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせました。

竜造寺に反旗を翻したわけですから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということです。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことになります。

これに対して隆信は、内心密かに一計を案じるのです。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせました。

「何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい」

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためました。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行ったのです。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまいました。(元亀二年(1571年))

お安の方は大きな衝撃を受けて、その場に卒倒してしまいました。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろうと思います。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたのでした。

悲観したお安の方は自害をしようとしますが、周りから押しとどめられてしまいます。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考えるのです。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのでした。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なませんでした。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになりました。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死してしまいます。

これで竜造寺の勢力は絶えてしまうのです。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったのです。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招くこととなります。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にも関わらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのです。

秀吉の命令は絶対でした。

大名の妻とて拒めるものではなかったのです。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していました。

秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからない状況でした。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る過酷な時代です。

秀の前は太閤秀吉に拝謁しました。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆しました。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのですが、その美貌はまったく衰えてはいなかったのです。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせました。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあったのです。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされます。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずでした。

俗説では、秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいいます。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったといわれ、その後波多家はお家断絶になってしまいました。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げてしまいます。

こうした悲運な経緯の後、孤独なまま秀の前は佐嘉に戻り、仏門に入って静室妙安尼といわれるようになりました。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説が残っています。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあります。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なりますが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるところがあります。












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タグ:竜造寺
posted by モモちゃん at 09:52| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

戦国の美女は最強の女傑でもあった?!

義母は美し過ぎる女傑であった!

前回紹介した通り、龍造寺隆信が娘婿一族を滅ぼすとは戦国の世とはいえあまりにも理不尽な所業であった。

ここにも隆信という武将の残忍さが表れているといえる。

そして今回紹介するのが、その龍造寺隆信の母であった慶ァ尼(1509〜1600)である。

慶ァ尼は本家村中龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ嫡子隆信を産んだ。

九州も戦国真っただ中にあり、隆信は幼年期には寺に預けられたため一時期僧籍に身を置いていた。

天文14年(1545年)に夫であった周家が殺されたため慶ァ尼は出家した。

さらにそれに続いて龍造寺本家一族が謀略により殺されてしまうという悲劇が突然襲い、結果的には生き残っていた慶ァ尼の息子隆信が龍造寺本家そのものを継ぐこととなる。

成り行きで本家を継いだこともあって信隆の下では本家家臣団のまとまりも覚束ない状況にあったため、慶ァ尼は献身的に息子信隆を背後から補佐し続けなくてはならなかった。

息子信隆は僧籍にあったとはいえ、もとより武将としての器量も兼ね備えていたのであるが、母慶ァ尼からみると次第に信隆には危うい部分があることに気付き始めた。

賢明な慶ァ尼は隆信の冷徹な性格や粗暴な一連の所業を母として憂慮していたのである。

そのことがあって、慶ァ尼ははやくから優秀な補佐役となる人物を隆信の側に置くべく陪臣の中から探し求めていた。

そのような折、隆信の従兄弟筋に当たる年下の鍋島直茂が14歳当時から隆信の近習の一人として仕えていたのが、あるとき慶ァ尼の目にとまった。

乱暴者の信隆にも機転のきく直茂はよく仕えたし、信隆とも馬が合って可愛がられてもいた。

しかも直茂は武勇にも秀でていて、戦場でも殊のほか戦上手でその都度連戦連勝の武勲をあげていた名将でもあった。

もとより鍋島家は龍造寺の陪臣として仕えてきた家であり、龍造寺家が存亡の危機にあった時代も常に支え続けた忠臣であり、しかも直茂の父・鍋島清房は若い信隆の後見役でもあった。

龍造寺に鍋島父子が味方し続ける限り、他の陪臣も国人らも離れることはないはずであった。

慶ァ尼は息子信隆が継いだ龍造寺家の支配を盤石のものにするには、この鍋島父子の助力が是が非でも必要であることをこのとき確信した。

そこで慶ァ尼は一計を案じた。


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(画像は佐賀城内)


直茂の父・鍋島清房が登城した折、慶ァ尼が自ら出向いて彼を呼び止めたのである。

清房殿は先年つれあいを亡くされたと聞いておりますが、まだ幼子もいてさぞや男所帯で難儀されておられることでしょう。そうそうここは私がよい後添えを捜して進ぜましょうぞ」といった。

慶ァ尼は、龍造寺家の重臣として父子共々支えてくれている鍋島家のことを気にかけていることをここで示したのであった。

慶ァ尼は周囲からは龍造寺後家といわれていたが、当時47歳でありながらその容色はいまだ衰えはいなかった。

このとき艶然と優雅に微笑みかける慶ァ尼を目の前にして、清房自身は恐れ入って心中戸惑うばかりであった。

44歳の男盛りの鍋島清房にとって、主家の後家とはいえ慶ァ尼はまぶしく見えて仕方なかった。

従来より総じて龍造寺家の女性は美形であるといわれ、遠国にまでその噂は広まっていたほどであった。

そのように主君の母堂から新しい妻を迎えた方が良いと諄々と説き伏せられ、清房は一方的にその気にさせられてしまっていた。

話は突然のことであったが、清房にしてみれば強いて断ることも憚れた。

慶ァ尼の勢いに押された清房は、ここは相手がいることだとして顔合わせ(見合い)だけでも応じるという約束を終いには慶ァ尼としてしまったのだった。

清房にしてみれば突然の話であるから、とにかくこの成り行きには戸惑うばかりであった。

それから数日後、鍋島清房の屋敷の前に前触れもなく花嫁行列の籠がとまった。

このとき清房が在宅中であったのかどうか、また清房が自ら花嫁を出迎えたのかどうかも分からない。

清房自身はいまだ話にあった顔合わせを行ってはいなかったのであるから、この花嫁行列には驚愕したはずである。

白無垢の花嫁は籠から降りると案内も請わずに屋敷内に入っていったから、家中の者も驚き呆れたはずである。

籠から降りた花嫁はそのまま奥の座敷まで進んでいって清房と顔合わせしたはずであるが、すでに花嫁衣装で屋敷に入ったことは婚儀が成ったものとここては受け取らざるを得ない。

こうした展開に当の清房はすべて慶ァ尼の指図との認識があったであろうが、とにかくこのいきなりの展開には心底驚いたはずである。

まったく事前連絡もないままに進められたのだ。

さらにその花嫁が、後添えを真剣に勧めた慶ァ尼本人であることが分かったから二度びっくりである。

清房の驚きの顔が目に浮かぶようである。

清房は恐れ入ってここは必死に辞退したであろうが、慶ァ尼の決意は固くそのまま婚儀は成立してしまったのである。

慶ァ尼という女性は常に胸に懐剣を忍ばせていることでも知られていたが、恐らくはこの婚儀が思い通りに成らなければ彼女自身の恥辱であるからここで命を絶つと言い切って清房の前でごり押ししたのではないかとも想像する。

このときの慶ァ尼はそれほどに必死であったといえる。

これによって正式に慶ァ尼は直茂の継母となり、主君龍造寺信隆とは義兄弟となったのである。

慶ァ尼の狙い通りに龍造寺の盤石の態勢が成ったのである。

後年隆信が島津との戦に敗れ討ち死にした時、直茂を肥前統治の後継者に推したのもこの慶ァ尼であった。

母は強し、されど慶ァ尼はさらに強しというところである。

この慶ァ尼の話は後世つくられたものだという説もあるが、この経緯を伝え聞いた徳川家康が慶ァ尼の思い切った行動を機会あるごとに称賛したとされることから、あながち作り話ではないといえよう。














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2017年02月07日

戦国の幻の美女コンテスト(1)

戦国九州の美女伝説(1)

通常戦国の美女といえばまずは織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘細川ガラシャ、さらには絶世の美女と言われた秀吉の側室松の丸殿こと京極竜子らがその筆頭に挙げられるであろう。

これらの定説として登場する美女は主に近畿圏がその舞台であって、残念なことに当時の西国や九州地方まで網羅した評価ではなかった。

つまりは現代一般に定説となっている部分は、いわゆる戦国の相対的な地政学的状況下での評価ということになる。

日本全国にわたって美女が選出された結果ではないということである。

当然のことであるが、むしろ全国レベルでみれば日本各地、それも都から遠く離れた地方にも多くの美女が居たはずである。

たとえば地方で限って言えば松山城主であった三村家親の娘鶴姫(常山城主、上野隆徳の妻)が特に有名だし、九州にも多々美女として注目された女性たちがそれこそ数多く居たのである。

秀吉も九州に遠征した際には九州の美女には相当に驚いた様子であったし、あらためて制圧した九州での美女狩りを命じたと言われるほどである。

戦国九州であれば、美女としてまずその筆頭に必ず登場してくるのがこの肥前の覇者龍造寺家の女性たちである。

今回は九州ご当地シリーズで紹介していきたい。


かって戦国九州の肥前に龍造寺隆信という武将が居た。

豊後の大友や薩摩の島津と勢力争いを繰り返していたが、自からは五州二島の太守と自負していただけに、周りからは肥前の熊と恐れられていた。

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風貌が威風堂々とした巨体であり、見る者に黒クマのような印象を与えたのである。

隆信は幼少期には僧籍にあったが、戦国の例にもれず後年還俗して滅亡寸前の家督を継ぐことになった。

当初、なかなか家臣団が一つに纏まらず苦汁を舐めるような時期もあったとされる。

隆信は体格、膂力が人並み以上に優れていただけではなく、博覧強記の頭脳と調略面でもあれこれと智謀が働いただけに、次第にその勢力を急拡大させていった。


だが、生来の猜疑心の強い性格と残忍さがあって、従属していた国人もたびたび離反した。

その非道な振る舞いや傲慢さは戦国武将の筆頭織田信長にどこかしら似ていなくもないのだが、いまひとつ人気がない悲運な武将ではあるのだ。

意外にもそうした戦国の龍造寺家には、他国にも知れ渡るような美女が3人いたといわれる。

しかもその3人ともみな龍造寺隆信とのかかわりがあった。


@龍造寺隆信の娘、玉鶴姫といわれる女性。

A龍造寺隆信の義理の娘、安の方(於安・秀の前)。

Bそして隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)の3人である。

肥前の黒熊といわれる隆信の下で、@とAの二人の姫様はすくすくと美しく育ったのは確かである。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたが、実はそのうちの一人A安の方は隆信の娘といっても実子ではなかった。

本家筋である龍造寺胤栄が若くして亡くなったため、隆信がその後を養子として継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘が隆信の下に引き取られたわけである。

安の方は当時3歳であったという。

後に二人の娘たち、玉鶴姫と安の方は隆信の手によって有力な国人との政略結婚の道具とされた。

戦国時代の決まり事ではあったが、これが彼女らの悲劇の始まりであった。

それまで龍造寺家は二代に渡り滅亡寸前まで追い詰められたが、その度に筑後柳河の蒲池鑑盛の庇護よにり家が存続出来たという経緯もあって、隆信は娘の玉鶴姫をその大恩ある蒲池鑑盛の嫡子鎮漣に嫁がせており、当然そこには実質的にも両家が親戚関係にあったことは確かである。

ところが隆信は戦略的にも要害の地である筑後柳河を我がものにせんと企み、一方的に2万の兵をもって攻めよせた。

鎮漣は柳河城の籠城戦で巧みにこれを防戦し龍造寺を一旦は撃退したが、終には親族の仲介で隆信と講和せざるを得なかった。

龍造寺隆信はその後も執拗に策を弄して鎮漣を欺き、肥前に誘い出して騙まし討ちにしたのである。

鎮漣は当初隆信の誘いを警戒していたし妻の玉鶴姫も父隆信の企みを予感して夫を必死に引きとめたが、義理がたい鎮漣自身は終には覚悟して義父隆信の元へと出立したのであった。

隆信は訪れた鎮漣一行を囲い込み殺害した後、すぐさま柳河に軍勢を差し向け一気に蒲池鎮漣一族を殲滅してしまった。

このとき蒲池鎮漣の妻だった玉鶴姫は、父隆信の元へ帰ることを拒否しただけでなく蒲池の支城であった塩塚城の近くまで逃れて夫鎮漣の後を追って自害した。

鎮漣と玉鶴姫との間には娘が居たというが、これも非情にも隆信に殺されたという。

たとえあの信長であってもここまでの非情さはなかったであろう。

天正8年(1580年)、こうして戦国の美女玉鶴姫は、その運命を翻弄されて無残な最期を遂げてしまったのである。


龍造寺の悲劇はこれだけでは終わらなかった。

















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2016年12月20日

秀吉が伴天連勢力に激怒した理由

かくもキリシタン大名は偉かった

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

抹消された長崎イエズス会占領統治下の悲劇

秀吉は、何故キリシタンに対して激怒したのか?
秀吉は、何故バテレンを嫌悪したのか?
秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか?
何故にキリシタンは、弾圧されたのか?


東洋医学史研究会
宇田明男



・戦国九州のキリシタン大名と歴史認識問題
いま再評価されるキリシタン大名の輝かしい業績
キリシタン大名の果たした輝かしい歴史的功績とは一体何か ?

この戦国時代にあって、奴隷貿易を止めさせようとした人間が何人かいた。

その筆頭が豊臣秀吉である。

西洋歴史観の視点からは、秀吉のバテレン追放令はいかにも悪法のように見られがちだが本当にそうであったのであろうか。

地下人から一代にして天下人までに這い上がった秀吉は、こうした南蛮人による奴隷貿易を許さなかった。

秀吉が海外との奴隷取引を嫌ったのは、もちろん農民層の人口減少を懸念したこともあったが、それ以上にそうした過酷な差配が自分のうかがい知らぬところで勝手に行われていることが許せなかった。

そこにはポルトガルなど海外から渡来者に対して、日本全域をほぼ掌握しつつある秀吉には日本の覇者、日本国の王という対外的プライドが働いていたともいえるかもしれない。

当初、秀吉は宣教師によるキリスト教の布教活動に対して寛大さを示していたが、九州に進攻して彼の考えは一変した。

抵抗していた島津は天正15年5月8日に降伏し、6月7日に秀吉は箱崎(博多)に無事凱旋したが、九州各地を転戦するうちに、夥しい寺社が焼かれて破壊されている状況を実際に眼にするとともに、奴隷取引の実態もすでに秀吉の耳には入ってきていた。

寺社の破却はキリシタン大名の高山右近が高槻や明石で行っている異教徒弾圧と同じものであり、九州遠征でもキリシタン勢力に追われた仏教徒らが次々と秀吉の陣営に救済を求めてきていた。

キリシタンを保護したという戦国のキリシタン大名を取り上げると、それはいかにも彼らが善政を敷いたかのように聞こえがちであるが実際はそうではない。

キリシタンを特別に保護するということは、他方で仏教や神道の異教徒を武力で弾圧排除する事を意味する。

戦国大名が南蛮との交易を有利に進め軍事物資を入手するには、それを仲介する宣教師らの要求を飲まなくてはならない。

そうでなくては重要な戦略物資である火薬や鉛玉が思うように手に入らないのだ。

まさしく、宗教界においても生存を掛けた熾烈な戦略的駆け引きがそこにはあったということになる。

戦国九州のキリシタン大名の大村純忠は、領民を強制的にキリスト教に改宗させたり領内の寺社仏閣をことごとく破壊した。

大村の兵は寺院を破却するキリシタン信徒らを護衛するとともに抵抗する仏僧はすべて追放、もしくはその場で殺害していった。

領主の差配に従わない者は、投獄されるか殺傷されるのが当たり前の時代であった。

さらには領内一円でキリシタンに改宗しない者は異教徒として弾圧され、容赦なくそのまま奴隷として海外に売られていった。

当時はキリシタン信徒の確保人数に応じて弾薬や鉄砲も南蛮からその都度供給されたのである。

熾烈な戦国の世にあっては、弱小な田舎大名でさえ最新兵器である鉄砲に群がった。

背に腹は代えられないのだ。当然そこにはキリシタン大名が、九州の地で続々と登場していった背景が隠されていた。

大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進までしていたのである。

現代ではこれが記念すべき当地の歴史的美談として持て囃されているものである。

当時の大村領の長崎周辺は小さな漁村が点在する土地であったが、隣接する肥前の竜造寺隆信に狙われ度々軍事的侵略の危機に晒されていた土地でもあった。

だが、その一方で長崎は南蛮の大型船が入れる天然の良港であることから、渡来してきた南蛮人はこの土地を当初より高く評価していた。

領主の大村純忠はそのことを宣教師からも聞いていた。

大村純忠はその長崎に軍事的障壁をイエズス会に作らせることを考え、日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノに直接寄進を持ちかけたのであった。

これは大村純忠のしたたかな戦略でもあったが、実はこれには表には出せない裏の事情が隠されていた。

それは村純忠と南蛮側との間でこじれていた債務処理としての苦肉の対応策でもあったのだ。

表の名目では、長崎の土地をイエズス会への寄進するということであったが、これはかって大村が戦費としてイエズス会から銀100貫目(3000両=約9億円相当)の戦費を借りたときの担保として設定されたものであって、その債務処理として結果的には領地の一部を占有されてしまったのである。

肥前の竜造寺に攻め込まれた時、大村はイエズス会から多額の軍事物資を支援されていたのであるが、もとよりこの銀100貫目という額は弱小大名が後々工面して返済できる金額ではなかったはずで、この辺りはイエズス会側の巧妙な計略でしかなかった。

大村はその危急存亡の折、イエズス会に背後から大いに助けられていたことは確かであるが、結果的に大村純忠は1580年にイエズス会との間に次のような4項目からなる契約を交わしてしまった。(寄進状は(天正8年4月27日付。)


1.イエズス会に長崎・茂木を永久に無償贈与する。
2.パードレ(司祭)が選んだ者に死刑を含む裁判権を与える。(治外法権)
3.入港する船舶の入港税、停泊税を永久に与える。
4.ただし、ポルトガル船などこの港に入港する船からの物品輸入税は予に留保する。


寄進状の末尾には純忠・喜前父子の洗礼名「ドン・バルトロメウ」と「ドン・サンチョ」の連署がある。 (画像は長崎寄進状・ローマのイエズス会文書館所蔵)

同様に、キリシタン大名有馬晴信も領地の"浦上"(現:長崎市浦上)をイエズス会に寄進していた。

こうしたキリシタン大名による領地の寄進そのものは、南蛮貿易による巨額の負債を相殺した結果でしかなかった。

もちろん交渉の主導権は債権者であるイエズス会側がしっかりと握っていただけでなく、結果として長崎の土地を相手に譲り渡したことになる。

これは従来日本でもよく行われていた、特定の寺社に土地を寄付するという習慣とはまったく異なった契約内容のものである。

事実これ以降、長崎の地はイエズス会知行所となり政教の実権はイエズス会のものとなった。

これが日本史上、始めて外国勢力にその国土が譲渡され占有された記念すべき事例である。

結局のところ、こうした経緯はイエズス会側の巧妙な戦略的手法であって、まんまと長崎の地を外国勢力に領有されてしまったのであった。

こうした事態を招いてしまったキリシタン大名の行為を現代では革新的かつ歴史的功績として再評価するという事業が進められているわけである。

そのことは新聞にも紹介された。

 (以下、日本経済新聞記事より引用)
キリシタン大名の功績語る 九州の研究者がサミット :2012/6/3  
「九州各地のキリシタン大名の研究者らを集めた「キリシタン大名サミット」が2日、長崎県南島原市で開かれ、各大名の果たした歴史的役割について議論した。戦国時代に同県の島原半島を治め、天正遣欧少年使節の派遣などキリシタン文化の発展に貢献した有馬晴信の没後400年を記念し、同市が主催した。議論では「キリスト教を受け入れて貿易や政治を有利に運び、戦乱の世を生き抜いた」などと各大名を評価。同市は「大名の偉業を情報発信し、キリスト教関連遺跡の世界文化遺産登録につなげたい」としている。〔共同〕」(引用終わり)


いまさら領土返還など眼中にはないといったレベルの歴史認識そのものであって、まったくもって噴飯ものであろう。

その結果長崎の地がどういうことになったのかというと、南蛮人等はたちまち長崎から異教徒らのカミ、ホトケの類は悪魔として追い出し、布教の障害となるすべての寺社を破壊するなどその弾圧は横暴を極めた。

それと同時に長崎と平戸では奴隷売買の取引も盛んに行われる事態となったが、これを押し止めるような力のある主権者はもはや長崎にはおらず住民らはどうすることもできなかった。

長崎の地の先住の領民は、ここで南蛮人による占領統治下に置かれたのである。

長崎統治はどのようなイエズス会上層部の意図の下で遂行されたのであろうか?


高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその占領当時の内容が明確に示されている。


「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

占有した領土を要塞化を指示したことが、ここでも分かる記述内容である。


それによって南蛮勢力は長崎において著しい戦略的成果を上げたことを次のように誇らしげに報告している。


「イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.225-226)


かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有され、他国勢力によって軍事訓練まで行われていたとは驚きであって、とてもではないがここらはいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。

当地のポルトガル商人は強引に日本人の人妻を奪い妾とし児童を拐して奴隷にするなどして、多数の領民が死を選び自決するという悲惨な事件も発生していた。


妻子を奪われた領民は悲憤とともに死をもって抵抗を示す以外に蛮行に抗議する手立てがなかったのである。

かって日本の領土が南蛮ポルトガルに占有されていたとは驚きであって、とてもではないがいまどきの歴史教科書などには絶対に書けないところである。

これが当時の長崎領の治外法権の実態であり、ポルトガル商人らはそれこそ占有した土地で何をしようと勝手次第であった。

これらは現在の西洋史観では一切なかったことにしなくては、後々評価する上でのつじつまが合わなくなってくる。

だからこそここではお抱え研究者による禊ともいうべきイベントによって、九州のキリシタン大名らの歴史上の再評価サミットやイベントが是が非でも必要になってくるわけである。



(注:)記事引用:開始
「宗麟を全国にPR 大分市が提案事業募集 最大100万円を補助
宗麟の知名度を全国区に―。大分市ゆかりの戦国大名大友宗麟をPRしようと、
市は市内で活動する団体からの提案事業を募集している。1事業につき最大10
0万円を補助する。

 ことし3月に完成したJR大分駅府内中央口側の広場には宗麟像を中心としたモニュメントができ、南蛮文化を街づくりに生かす機運が高まっている。市は「宗麟の名を全国に広める面白いアイデアがあればぜひ応募して」と呼び掛けている。
 有識者やまちおこしグループの関係者らでつくる「大友宗麟プロモーション検討委員会」は2012年度、宗麟を市の顔として発信するための報告書を市に提出。民間活動に対する行政支援も盛り込まれており、市は13年度から提案事業への補助を始めた。
 募集する事業の内容は史実に基づき、宗麟について分かりやすく身近に感じさせるもの。これまでに「おおいた大友宗麟たかもん・いろはカルタ」や市中心部での武者行列などに補助金を交付した。市観光課は「駅前広場を利用し、宗麟にちなんだ祭りを10月に計画している。一緒に盛り上げてくれるイベント案があれば応募してほしい」としている。
 補助額は人件費や食料費を除いた必要経費の5分の4以内。選考委員会で採択事業を決める。希望者は申請書(市のホームページでダウンロード可能)を29日までに同課(TEL097・537・5717)に提出する。
※この記事は、5月12日大分合同新聞朝刊12ページに掲載されています。 」引用終わり
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2015/05/12/212041423


同じくキリシタン大名大友宗麟はイエズス会の宣教師に煽動されて、永禄4年(1561年)に宇佐八幡宮を焼き払い、天正9年(1581年)には豊前彦山の三千坊といわれる多数の坊舎を焼き払って仏教徒を追い出した。

宗麟は領内の寺社にさえ鉄砲を撃ち掛け破壊した。

天正6年(1578年)に宗麟はキリシタンに改宗していたが、それにともなう家臣の集団改宗が進められて領内の信者数も1万人を超える勢いであった。

同年大友宗麟は、キリシタン大名として九州における第一次キリシタン王国建設計画として戦端を開いたが、その野望は薩摩の島津との耳川の戦いで大敗し打ち砕かれた。

キリシタン王国建設には大きなロマンがあるとして、現代でも一部では持て囃されているのであるが、その後第二次キリシタン王国建設の機運は島原の乱として半世紀後に再び復活してくるのである。

九州戦国史ではキリスト教伝来とともに戦闘は激化し、新兵器の鉄砲が戦場で縦横に駆使されるようになっていった。

何故なら鉄砲弾薬そのものは、常にキリスト教を信仰するキリシタン側に優先的に供給され続けていたからである。

当然九州ではキリシタン大名が次第にその版図を広げ勢力を拡大していった。

天正10年(1582年)当時の九州北部のキリスト教信徒数は、大友宗麟の治める豊後で1万2千人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村で7万人、天草島原は2万人、長崎に1万5千人ほどであった。

これ以降も猛烈な勢いで九州各地でキリシタン宗徒は増えていったわけで、旧来の仏教徒らは逆に弾圧され排斥されていった。

こうした勢いに、仏教徒は命からがら逃げ惑うばかりであった。

まさにこのとき秀吉の九州遠征が始まった。

それまでにもキリシタン大名高山右近の領内でも同じように仏僧らからの訴えがあっても秀吉はまったく感知しなかったのであるが(ルイス・フロイス「日本史」4の第10章)、それに比べると九州の状況は看過できないほどに深刻な状況に陥っていた。

そうしたなかで秀吉側近中の側近であった侍医の施薬院全宗は、キリシタン大名による領内上げての奴隷取引や宣教活動の拡大に対して相当な危機感をもって秀吉にキリシタン対策を度々進言していた。

施薬院全宗は比叡山薬樹院の住持であったが、信長の叡山攻め後に還俗して名医曲直瀬道三の下で中国医学を学び秀吉の筆頭侍医となった人物である。

この辺りの事情は「九州御動座記」に詳しく記されている。


「今度伴天連(宣教師)等能き時分と思候(おもひさう らひ)て、種々様々の寶(たから)物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百、男女によらず黒舟へ買いとり、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追いいれ、地獄の荷責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買いとり、生きながら皮をはぎ、坊主も弟子も手ずからこれを食い、親子兄弟も礼儀なく、ただ今生より畜生道の有様、目前のようにあい聞こえ候。
見るを見まねにその近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り妻女を売り候由、つくづく聞きし召し及ばれ、右の一宗、もし御許容あらばたちまち日本は外道の法になるべきこと、案のうちなるべく候。
しからば仏法も王法もあい捨てるべきことを歎き思しめされ、かたじけなくも大慈大悲の思慮をめぐらされて候て、すべて伴天連の坊主本朝追い払いの由お仰せいだされ候」



少なくともこの時点で、南蛮人による日本人奴隷の取引と海外移送を止めさせるだけの強権を保持している人物が日本にいるとすれば、この豊臣秀吉以外にはいなかったのは事実である。


●秀吉が慄いた九州キリシタン勢力の動向


秀吉がキリシタン勢力を排除しようとしたことやその理由については、戦後の歴史教科書ではほとんど教えられない。

そこにはいろいろと不都合があるからである。
むしろ秀吉や徳川幕府がキリスト教徒を迫害したことを理不尽な暴挙として捉える見方が一般的であろう。

戦後日本に刷り込まれたいわゆる西洋史観に追随する教科書というもの中には、イエズス会に代表されるキリシタン宣教師達は、あたかも未開の民に科学と道徳を教え、教会や病院を建設して社会事業を押し進める「人道的救済者」であったかのように書かれているが、これなどはまさに噴飯ものであろう。

日本では、当時のキリシタン勢力の活動がすべて正当なものであって、それを時の為政者が弾圧排除したことは許しがたい犯罪行為であったとするのが西洋史観である。

もとより日本の戦後教育としての敗者の歴史がそう解釈させたのである。

敗戦国日本の歴史観そのものがGHQの統治に屈服し、「西洋冒涜」とされる著作物の類はすべて排除されそこへ新たに敗残者史観が巧妙に歴史教科書として刷り込まれたのである。

日本全土を制圧しつつあった当時の秀吉にも為政者としての強かな戦略があった。

秀吉は博多に凱旋すると、謁見を求めてきたイエズス会日本準管区長ガスパ ル・コエリョに、宣教師が関わる奴隷貿易について次々と詰問した。

「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」

「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」


秀吉はポルトガル人が関与した奴隷取引について、事前に調べ上げていた。

「九州に来る西洋の商人たちが日本人を多く購入し連行していることをよく知っている。いままで誘拐して売り飛ばした日本人を返せ。それが無理なら、ポルトガル船に買われて、日本にいる監禁されている日本人だけでも解放しろ。そんなに金が欲しいなら、代金はあとで渡す。」

これにコエリュが、平然と答えて言う。

「日本人売買の禁止はかねてからのイエズス会の方針である。自分たちの罪ではなく、問題なのは、外国船を迎える港の領主など売る日本人がいるからであり、厳しく日本人の売買を禁止しない日本側に責任がある。彼らも厳罰にしてくれれば問題は解決する」、と。
これに秀吉は激怒する。

1587年6月18日(天正15年)、秀吉のもとより、次のような朱印状が出される。

「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」

キリシタンになるかどうかは、その者の心次第である、キリシタンになることは何ら強制されるものではないという意味である。

これは当時のキリシタン大名の多くが、自国の領民に対して強制的に改宗を迫ることが多かったので、それを止めさせるために出されたものである。

さらに、翌6月19日の夜半、キリシタン教徒の悪行を知って激怒した秀吉は、すぐさまガスパ ル・コエリョに5ヶ条の詰問状を出す。

第1条、教会の布教師はなぜ日本人を強いてキリスト教に従わせたのであるか。
第2条、何のために神社仏閣を破壊したのであるか。
第3条、何故に仏僧と不和をおこして苦しめたのか。
第4条、いかにして布教師たちは民衆の必要とする牛を食用としたのか。
第5条、ポルトガル人に日本人を買わせ、これをインドに輸送したのは、何人の許可を得てしたのか。(「クラッセ日本西教史」)


それでもコエリョからは辻褄合わせの曖昧な答弁書が返って来ただけであった。

6月19日のその日の昼間、博多湾でスペインの武装南蛮船に乗った秀吉は、船上で大提督のような格好をしたコエリョに出迎えられ少なからず驚かされている。

このときコエリョは船上に装備された大砲などの武器を見せ、いかにもスペイン艦隊が自分の指揮下にあるかのごとく意図的に秀吉に対して武力を誇示して威嚇したのであるが、明らかにこれが武人としての秀吉の逆鱗に触れるのである。

秀吉はこの時点でキリスト教の拡大の背後に従来の一向宗や国人一揆のような武力、軍事的な勢力への変貌の脅威をはっきりと見てとった。

まさにバテレンの法衣の下に鎧を見たのである。

むしろこのとき秀吉の目に映った危険性そのものは、かっての一向宗や国人一揆さえも大きく超えるものであった。

九州に自ら遠征した秀吉は、イエズス会によって作られていた特異な宗教的組織体でコンフラリヤ(Confraria de Misericordia:信徒集団組織)というものの存在に気付いていたのである。

しかもそれには九州の有力大名が背後で関与していた。

かれらがキリシタンとして連携して刃向かってくればまさししく脅威であった。

この事実に対峙した秀吉の立場は明確であった。
奴らは一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が広まったのは百姓や下賎の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主として主君として迎えた。(顕如)は、予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。だがいっぽう奴ら伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも強固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためのものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう」(「完訳フロイス日本史」4・16章)

●秀吉のバテレン(伴天連)追放令とは

これに先立つ2年前の1585年(天正13年)、イエズス会のコエリョは豊臣秀吉に拝謁した際、その席で九州平定を勧めている。

しかもその時、九州の有力な大名である大友宗麟、 有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させると約束して軍事面にも自ら積極的に介入するような言動があった。

秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、すかさず、その際には2艘の船を提供しようと申し出ていた。

イエズス会の背後に世界最強のスペイン艦隊が控えていることをコエリョは、このとき秀吉にそれとなく誇示してみせたのだ。

当時のイスパニア(スペイン)艦隊は、スペイン語で Armada invencible(アルマダ インビンシブル) といわれ、16世紀末、大航海時代最盛期の艦隊規模は艦船数130隻、総兵数3万人で世界最強を誇ったが、日本でコエリョが秀吉を威嚇した翌年、1588年、イングランド上陸作戦のためにドーバー海峡へ派遣された際、ドレイクが指揮するイングランド艦隊の攻撃をうけて壊滅した。

このような経緯もあってそれまでの微かな猜疑心は、確信に取って代わった瞬間であった。

秀吉の決断は速かった。

夜間とはいえ、その日のうちにポルトガル側通商責任者やコエリョに対して宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡して、キリスト教宣教活動の制限を申し渡した。

(注 )「松浦家文書」に残る6月19日付の追放令の原文、以下引用。
「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事
一、其国郡之者を近付門徒になし 神社仏閣を打破之由 前代未聞候 国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事
一、伴天連其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰国候 其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ 曲事たるへき事 一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を経諸事売買いたすへき事
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条 可成其意事
已上
天正十五年六月十九日 朱印」

一、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ以て然るべからず候事
一、その国、郡の者を近づけ、(キリシタン宗)門徒になし、神社仏閣を打ち破る由、前代未聞に候。国郡在所知行等、給人(領主)に下され候儀は、当座の事に候、天下よりの御法度(ごはっと)を相守り、諸事その意を得べきところ、下々として猥(みだ)りなる儀、曲事(くせごと)の事

一、伴天連の知恵の法を以て、心ざし次第に檀那を持ち候と思(おぼ)し召され候えば、右のごとく日域(じちいき=日本国内)の仏法を相破る事、曲事の条、伴天連の儀、日本の地にはおかせられまじき候間、今日より二十日間に用意つかまつり、帰国すべく候、その中に下々伴天連にいわれざる族(やから)申しかくるものこれあらば、曲事たるべき事

一、黒船の儀は、商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買いたすべき事

一、今より以後、仏法のさまたげをなさざる輩(やから)は、商人の儀は申すに及ばず、いづれにても、きりしたん国より往還くるしからず候条、その意なるべき事

具体的には宣教活動で領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの破壊を止めさせ、宣教師の国外退去を命じたわけであるが、明らかに秀吉にはキリスト教布教と南蛮貿易とをこれによって切り離してしまおうという狙いがあった。

さらに国内に向けたバテレン追放令では寺社の破壊や日本人の奴隷売買を禁止した。

これに前後して秀吉は最も熱心なキリシタン大名の高山右近に棄教を強く迫ったが、右近はこれをかたくなに拒み続けついには改易となり大名の地位を失うこととなった。

秀吉の九州征伐にあたっては高山右近は秀吉を警護しその先頭を進軍してきていた。

秀吉にも信頼されていた右近に向けられたこのときの厳しい処断そのものは、いかに九州のキリシタン勢力が強大化していたかの証左でもある。

ここに至って、秀吉はキリシタンを軍事的脅威と見なしたのであった。

このときの経緯についてルイス・フロイスの「日本史」には次のように書かれている。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においてもひろまっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすことが案ぜられるからである。
同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」(「完訳フロイス日本史」4・17章)

秀吉は、勢力を拡大しつつあるキリシタンの脅威を敏感に感知し、この機を捉えてその禍根を一気に取り除こうとした。

しかし、ここでのキリシタンへの制限は緩やかなものでり、莫大な利益を生み出す南蛮貿易自体にはその後もなお宣教師の仲介が不可欠であったのだ。

秀吉自身、かっては信長の下で商業都市堺を管理下に置いたことがあった。

もとよりそれによって、軍事物資として重要さを増していた硝石の流通を戦略的に押さえたのであった。

さらに経済的に潤っていた堺からは多額の矢銭(地子銭)が獲得できた。

海外との交易が、いかに多くの利益と繋がっているかを秀吉は為政者として知り尽くしていたともいえる。

南蛮貿易自体をここで中断してしまえば、当然軍事物資としての硝石の入手が出来なくなるから、秀吉もそれ以上の制裁は取りにくい状況であったわけである。

結局、信仰そのものは禁じられておらず、表立った布教だけが制限されていたということでその実効性に問題はあったが、バテレン追放令はポルトガル人宣教師と、それらと深い関係を持つ国内のキリシタン大名らに向けた最初の政略的な警告そのものであることに違いはなかった。

人身売買に対しては、国内向けに出された朱印状や十一ヵ条の伴天連追放令の中に明確にそれを即停止すべきとして記されている。

「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

この時期すでに長崎は、イエズス会による城砦構築工事が計画通り進められ、要衝は大砲や鉄砲によって守られており、後はマニラから精鋭のスペイン兵を400人ほど招聘し駐屯させる予定であった。

そこまで長崎の情勢は逼迫していたことになる。

これに対して豊臣秀吉は、各方面に命令を下し迅速に対応することを忘れなかった。

バテレン追放令を出すと同時に側近の浅野長政や藤堂高虎らを直ちに長崎に派遣させると、イエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上のイエズス会の城塞を取り壊し領地を没収するとともに、領有されていた土地のすべてを秀吉の直轄地とし、天正16(1588)年4月21日、鍋島直茂を代官として長崎を預ける処置を取った。

また、1592年(天正20年)、有馬や大村領内の教会や十字架も破壊され、慶長元年(1597年)には、9人の宣教師をふくむ26人のキリシタンが京都から長崎西坂に移送されて見せしめとしてこの地で処刑されることとなる。



削除されなければこの稿続く












参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)


















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2016年11月13日

信長が諦めた徳川家康暗殺計画の全貌とは

珍説・あの戦国大魔王信長は、律儀な家康を謀殺しようとしていたらしいですよ!?




この事件直前に、信長には徳川家康を暗殺する企みがあったのではないかと記述した史料がある。

それは本能寺の変を報告したイエズス会のルイス・フロイスの「日本史」である。

「(明智光秀軍の)兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝(いぶか)り始めおそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」(フロイス・日本史3・p143)と書かれている。

イエズス会のフロイスが、このときどのようなルートと人脈で入手した情報なのかは不明であるが、当時の南蛮寺が本能寺と隣接していただけにこの記述自体は無視できない情報ではあろう。

しかも戦闘に従軍した明智の家臣らがそうした感想を持ち得たということは、信長周辺でも当然ひとつの策略としてあったことは否めないであろう。

戦国時代なればの想定可能な話ではあるが、少なくとも家康は織田家の義弟、もしくは盟友としての認識はあったはずであるから、このときの明智勢のとっさの判断そのものは非常に興味深い。

しかしながら、これが当時の織田方の戦略と断定するのは余りにも早計過ぎる。

敵将を領内に招き入れての毒殺や暗殺は戦国の世では当たり前の卑劣な策謀ではあったが、このときの家康は少なくとも信長にとっては敵対する勢力ではなかった。

ただ戦国時代にあっては、いかに家康方が味方勢力であろうといずれどこかで排除しておくべき油断のできない武将の一人として織田方から見られていた可能性だけは否定できないであろう。

陰湿で猜疑心の強い信長であれば、ここで家康を容赦なく切り捨てたとしても格別おかしくはない。

しかし合理的な状況判断という戦略家としての正常な思考が働いていれば、信長に家康排除の考えは端から無かったことになる。

第一、このときの信長にそうした企みを決断するだけの戦略的余裕があったかどうか疑わしいところである。

というのは信長がそうした策略をもっていたとしても当時の織田軍団全体の軍事的展開をみたとき、ここで新たに戦線をさらに拡大していく状況ではなかったからである。

織田方はこのとき、敵対する勢力に対して最大限にその戦線を拡大していた。

家康もそうした織田軍団の大掛かりな多方面に渡る戦闘の状況を事前に知っていたからこそ、この絶好とも思える時期に自ら意を決して信長の下を訪れたのだともいえよう。

家康一行は無防備同然で、信長のもと(安土城)を訪れている。

家康一行は少人数であり護衛の兵員も付けてはいなかったわけだから、このときの彼らの戦闘力は限られていた。

もし信長がここで家康主従を本気になって狙うのであれば、それこそほんの一撃で仕留められる状況である。

このときの家康にしてみれば信長の懐に飛び込んだ以上、信長に己の命を預けたも同然の心境であったことであろう。

当然のことであるが、当時はそれだけの緊張感が常に漂う戦国の世であったはずである。


そこで信長の立ち位置というものをいま一度ここで考えて見なくてはならないであろう。

信長にとってここで家康を倒すことがいかに容易であろうとも、いみじくも天下布武の大儀を掲げておきながら自らその武門の名を汚すような姑息な策略を弄して家康を弑することができるのかということである。

当然、武門としての信長の意地と威信とが問われよう。

ここらの妄想と現実とでは大きな隔たりがあるところである。

仮に家康をここで葬るとして考えたとき、一体信長にどういう狙いがあるというのであろうか。

長年に渡って信長の戦略を助けてきた盟友ともいうべき武将である律儀な家康に対して、それは余りにも理不尽過ぎる所業といえるのではあるまいか。

己に向けられた裏切り行為そのものを極端に嫌ってきた信長が、それこそ家康のような義理堅い相手を謀る行為をここでとることができるのかどうかは興味深いところである。
 

信長という武将は武門での正義や武勇を尊び、周囲に対してそれを誰よりも正当に評価して憚らなかった武将でもある。

少なくとも、信長の内面にはそうした戦国の武将としての洗練された気風と美学とがあったはずである。

大義名分は戦国の武将にとっては最大の行動原理に違いなかったはずであり、少なくともそうした手順は踏んでいくものである。

もしここで仮に信長にそうした姑息極まりない卑劣な手段を強いて採らせるというのであれば、家康にそれ相応の不手際か謀叛の事実がなくてはならなかったであろう。

そうした事実があれば、親兄弟でも手に掛ける非情な時代背景は厳然として存在しただけに、信長の場合とて非情さを凌駕するだけの明確な大義名分が問われてくるはずである。

この時点でみても家康に信長の怒りや不信を買うような落ち度は無かったのは確かである。

そのように考えると、それまで織田家に従順に従い盟友として幾度もの命懸けの武功を上げている家康をここで一方的に排除してしまうことは、信長の武将としての姿勢からは大きく外れてしまうことになろう。

いまだ天下統一に至っていない状況下では、戦略的に見ればむしろここで盟友家康を失うことの方がはるかに前途多難な状況を惹起してしまう危険性があったはずである。

もしてここで家康を倒すことになれば、当然のこととして信長は留守居として控えている家康の子息や屈強な三河軍団を相手にして新たに戦端を開き軍事的に対峙しなくてはならない事態をも招くことになる。

それだけの余裕がこの時点での織田方にあったのかといいたい。

少なくとも織田家の勢力圏内での何らかの襲撃事件で家康の命が奪われるような状況が出来したとすれば、これは即信長側の裏切りであり卑劣な策謀と見なされるはずである。

そうした展開はどうみても避けることはできないであろう。

当然のこととして最悪の場合には、徳川方は上杉や北条勢とも組んで後方から執拗に信長に挑みかかってくることも想定しておかなくてはならないことになる。

まさしく不利ともいえる戦線の拡大である。

どうあってもここで家康暗殺を考えるというのであれば、必然的にこうした徳川側の反撃にすぐさま対応できるかどうかといったこの時点での織田軍団の現実的な戦略そのものがまず最初に問われてくる。

織田側が何らかの陰謀をここで徳川に仕掛けるのであれば、それに即応して新たに投入できるそれ相応の兵力そのものが織田側に用意されていなくてはならない。

徳川方の弔い合戦を正面から受けて立つというのであれば、それだけの周到な軍略の用意は当然であろう。

はたしてこの時点での信長陣営に、それだけの余裕が実際にあったのであろうか。

結局のところ中国の毛利や四国の長宗我部との本格的な戦線が一気に拡大されていく状況下で、信長がそこまでの軍事的展開をこのとき覚悟していたのかということに帰結する。

そのように考えると織田の家中に家康暗殺の企みがあって、たとえそれが即刻実行可能であるとしてもそれ自体は信長にとっては非常にリスクの大きなものになるという認識に立たざるを得ない。

むしろここで家康を暗殺することは、かえって信長の戦略を躓かせる危険極まりない策謀でしかないということになる。




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戦国時代にあっては、相互の儀礼においても緊張した状況での気配りがなされるのが通例であった。

徳川側は主君家康を送り出すと同時に家内は臨戦態勢をとったと解すべきであって、それこそ武家として当然の対応であったはずである。

家康が信長の招きに応じたということは、事前にそれなりの準備と覚悟をしていたということになる。

家康にしてみれば戦国の世である以上いつ命を狙われてもおかしくはなかったであろうし、その覚悟があることは武人として当然のことであった。

それに対して織田側ではその勢力下にある非武装地帯の堺周辺部ではそれなりの警戒態勢がとられていて、家康一行の身辺警護は十分に保障されていたと見なくてはならない。

今回の供応が信長の家康に対する明確な返礼である以上、これを覆してまでして家康を誅す策略は見苦しいことこの上ない。

ましてや相手の馳走にはそれ相応の馳走を返すのが、本来の武家の習いというものである。

5月15日から翌月の6月1日までのあいだ家康一行には何ら旅程に支障はなかった。

安土城から京見物に出立した家康一行の予定では、見物先の堺より再び京都に戻り中国方面へ出陣する信長に会う手はずであったという。

信長は5月29日にわずかな供廻り衆とともに安土城を出立している。

同じく光秀の居城坂本城からはまず5月29日に鉄砲弾薬や長持ちが中国方面に送り出されている。
これも中国進軍の予定通りの行動である。

すでに備中高松城は秀吉の働きで落城間近であった。

秀吉自身はそこまでの戦略的仕上げをして、十分に足元を固めたところで主君信長へ出陣要請をしたことになる。

高松城の詳細な戦況そのものは信長にも伝わっていたことから、少なくとも信長には兵を整えるまでの間に十分な余裕があった。

秀吉からの要請そのものは、最後の締めを主君信長にもたせるという秀吉ならでの気配りであり、信長はこのことを十分に承知しているだけに内心余裕が生じたのである。

信長の気の緩みと言えばそれまでであるが、この機に大名物を携えて京で茶会を催そうとしたわけである。

信長はまず京において大茶会を催す予定であって、安土城より数多くの大名物の茶道具を本能寺に運び込んでいた。

6月1日には大名物の披露ということで多くの公卿や商人を本能寺に招いており、2日以降に計画された茶会に信長は家康を招いていたことになる。

こうした信長の日程のすべては、京周辺の軍事を統括する光秀がすべて掌握していたことは言うまでもない。



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ここには信長に見過ごすことの出来ないもう一つの重要な行事予定があった。

信長と茶道といえば「御茶湯御政道」と「名物狩り」がつとに知られているが、茶道具に執心していた信長はかねてより九州博多の豪商島井宗室に自分が所有する名物を披露するという約束があった。

この時代天下の三大名器として『初花』『新田』『楢柴』という3つの茶入れがあったが、すでに信長はこのうち二つ『初花』と『新田』を手に入れていた。

島井宗室はあと一つの名器『楢柴肩衝』を所有しており、今回それを持参してきていたのである。

奇しくもここに天下の三大名物が一同に揃うという信長好みの趣向が、このとき本能寺において実現していたことになる。

ここでもっとも注目すべきことは、この天下の名物茶器『楢柴肩衝』が島井宗室から信長の手に渡される手はずが本能寺で順次整えられつつあったことだ。

事件前日の6月1日、本能寺には博多商人の島井宗室と神屋宗湛が主客として招かれ、それに前関白近衛前久ら公卿衆が加わった席でこれらの名物が本能寺書院において披露されたのである。

天下を掌握しつつある信長にとって、この催しこそ得意絶頂の瞬間であってこのときの信長は終始上機嫌であったという。

ここで登場する『楢柴肩衝』という名物の由来がわかれば、このときの信長の喜びようがいかに大きなものであったかが理解できよう。


『楢柴肩衝』は、もともとは足利義政が所有していた天下に知られた名物茶器であった。

それがのちに義政の茶道の師匠である村田珠光に下賜されて、さらに珠光から弟子の鳥居引拙を経て京都の豪商・大文字屋の疋田宗観が買い取った。

これがさらに堺の豪商天王寺屋宗伯の手に渡っていたが、宗伯の弟子で堺と交易していた博多の豪商神谷宗白が1千貫の高値で手に入れたとされる。

宗白は『楢柴肩衝』を買い取ったのち家業の経営に失敗してしまう。

経済的に行き詰まった宗白は仕方なくこれを手放すこととなり、同じ博多の豪商島井宗室に2千貫で買い取ってもらっていた。

当時の2千貫目といえばとてつもない巨額な値である。
優に現代の十数億円程度には換算できるのではないか。

信長はかねてよりこの有名な名物の行方を捜していたが、意外にも堺から遠く離れた九州の豪商の手に渡っていたことを知る。

そこでどうにかして島井宗室から『楢柴肩衝』を入手しようと、堺の商人らにその交渉を仲介させていたのである。

信長と宗室との間でも書状の遣り取りがあった。

このときの島井宗室にとって、戦国の覇者信長との繋がりを持つことは悪い話ではなかった。

島井宗室のような対外的な交易を家業とする貿易商は、何らかの形で時の権力者との関係を深めていた。

彼らの権益を確保するためにも権力者による保護を必要としていた。

それまで島井宗室の交易と権益の後ろ盾であった九州の大名大友家は島津の侵略に脅かされていたこともあり、宗室自身も新たに強力な庇護者をこのとき必要としていた。

そこで宗室は国内を掌握しつつあった信長の権勢に頼ることを決断して、本能寺を訪れて今後の庇護を条件に名物『楢柴肩衝』を信長に譲る心づもりでいたのである。

その約定があって、島井宗室らはその日時に合わせて九州博多から堺を経由してこの日は京に上ってきていたのだ。

『フロイスの日本史』にいう。
「信長は元来慾深く物を惜しむ人で、誰かが名物を持っていると聞けば、人を遣わしこれを求め、それを断ることは不可能であった。所持者は免れることは出来ないと考え、求めを待たずに進物とした。そうしておけば信長がいくぶんかの義理を感じてくれるからであった」と。

このように名物を介しての強引な要求は、かえって信長の権勢の強大さをますます天下に示していったというべきであろう。

信長にとってこれも重要な戦略に違いなかったし、そうした狙いが大茶会そのものにあったことになる。

まさしく信長は三大名物のすべてが己の手元に一同に集まることに、その富と権勢とを天下に示す絶好の機会を得たわけで、このときばかりは茶道の好奇者としてそれこそ有頂天であったということになる。

もとより島井宗室との約束の日時と中国出陣の日程調整において、今回本能寺で催される大茶会の趣向が一瞬ではあるがこのとき上洛した信長の身辺に隙が出来たことになる。

信長の護衛にはわずか2,30人の供廻り衆だけが従ってきただけで、本能寺には警護の旗本は張り付いてはいなかった。

信長の出陣を前にして大方の常備兵はその準備に走り回っていたということになる。

このことがまさしく信長の足元を掬ったわけで、茶道趣味が嵩じてついには自ら墓穴を掘ってしまったということになる。

アビラ・ヒロンはその著書『日本王国記』で、信長の最後の言葉としてこのとき、「余は余自ら死を招いたな」と言ったと記録している。

信長の遠大な天下布武の事業はここに至ってようやく軌道に乗り出したときでもあったから、勝機を掴んだ信長に気の緩みがあったことは否めないであろう。

しかも丁度この時期、朝廷が信長の後継者である信忠に官位を推任することが決まっており、信忠はすでに信長より一足先に安土より上洛していた。

もとより信長の上洛にはこの信忠の官位を祝う意向があって、これに盟友家康にも同席を求めていたわけで、6月2日以降にあらためて本能寺において大茶会が催される手はずであった。

数々の名物が披露されたこの日、島井宗室と神屋宗湛の二人はそのまま本能寺内に宿泊しており、まさしく彼らは翌日(6月2日)の暁の襲撃事件に心ならずも遭遇することになる。

家康一行は堺を出立した6月2日の夜、本能寺の変事を知らされる。

ここまでの流れを見る限り、家康が信長の勢力圏内で命を狙われるような緊迫した様子はなかったことになる。

しかも家康一行は地理不案内であったため、信長の家臣・長谷川秀一に終始道案内されていた。

信長側がそうした気配りを見せている以上、家康に対するこのときの厚遇そのものは至極自然であったといえる。

家康暗殺どころの話ではない。

信長に家康暗殺の企てがあるのならば、あえて家康を取り逃がすような行動を信長の寵臣である長谷川秀一がとるはずがないではないか。

事件後の長谷川秀一の行動をみれば明白である。

長谷川秀一は、本能寺の変後の家康逃亡劇の最後まで付き従って尾張熱田まで同行したわけであるから、どうみてもここらは信長による暗殺といった話どころの展開ではないことになる。

さらには、ここでわざわざ京都におびき寄せた形で家康を本当に謀殺するとなると、これはいよいよ信長にとっては不都合な事態を招きかねない。

信長の嫡子信孝の任官と同時期に天皇や公卿衆のそば近くでの卑劣な暴挙は顰蹙を買うだけでなく、そうした傍若無人な所業に対して民衆からの非難の声が高まることは避けようがあるまい。

そのような企みの後で大茶会が催されたとしても、その場の雰囲気は最悪のものになるはずである。

結局のところそうまでして信長に家康を暗殺する決意があったかどうかが問われてこよう。

少なくとも信長は武人としての面目を失うだけでなく、民衆の人気も離れていくはずである。

それでなくとも信長という武将は、己の名誉を損なような立ち位置を終始嫌っていたはずではないのか。

このように見ていくと、結局のところ信長に家康の暗殺は到底実行できるような策謀ではなかったと見るのが妥当なところではあるまいか。

とにかく中国方面への出陣を直前に控えた信長が、義弟ともいえる家康の暗殺と大茶会の催しとを同時に画策していたとするのはあまりにも行き過ぎであろう。





本能寺の変を真横から考える(1)

何故に光秀の戦略は潰えたのか (2)

信長は家康の暗殺を企んでいたのか(3)

イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは(4)

何故光秀は信長に反逆したのか(5)

明智光秀の謀反の真相とは(6)

徳川家康は謀反の光秀主従をどう評価したのか(7)


光秀の戦略と大きな誤算とは何か(8)


細川家の対処から見えてくるものとは何か(9)


 信長の首実検が出来なかった明智光秀の不運(10)







参考資料:

「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 A4 306P 世界文化社  1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)
信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書)
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y)
長篠の戦い (歴史新書y) 大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965
           















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タグ:島井宗室
posted by モモちゃん at 11:58| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月12日

入試問題にも絶対出されない影の日本史とはこれですね!

奴隷貿易の儲けは山分け

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

当時は、アジアの奴隷取引が当たり前だった
戦国のキリシタン大名は輸出入税収入で潤った
九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていた


東洋医学史研究会
宇田明男




●当時の奴隷供給の背景と様相とアフリカ方式の導入

渡来した宣教師は宣教事業の手始めとして、まず周辺諸国でもっとも力のある大名に近づきその信任を得ることに努めた。

そのためにはまず南蛮の珍しい貢物を献上して為政者の関心を引いたのである。

友好的な領主には、教会の宣教活動の許可と支援とを事あるごとに陳情していった。

交易の仲介業務という特権を握っている宣教師は、南蛮との交易によって、大名側にその都度独占的利益がもたらされることを示してみせる。

機会があれば、領国周辺の軍事情報を提供する。

大名から彼らの布教に対して積極的な協力が得られれば、その見返りとして戦略に必要な鉄砲弾薬の供給を優先的に手助けするという有利な条件を提示してみせる。

これには多くの大名が飛びついた。

特に群雄割拠していた当時の戦国九州の諸大名は宣教師の要求に乗ったのである。

このようにして南蛮勢力と友好的な大名は、新兵器鉄砲を装備することによってその勢力はますます拡大させていった。

まさしくこれによって戦闘の様相が一変してしまった。

熾烈な鉄砲による戦闘が各地に拡散し、いよいよ戦国の様相が強まっていき、都市部が荒廃し夥しい戦争難民が作り出されていった。

宣教師の進出は、交易事業の拡大とともにさらに京坂地域にも押しすすめられていった。


彼らは日本国内の多くの大名の中から、まず織田信長に白羽の矢を立てた。

信長の勢力が拡大すれば、一気に邪魔な異教徒を抹殺排除していくことも可能になるわけで、イエズス会は頻繁に信長に接触して高価な南蛮渡来の贈物を贈った。

軍事物資の硝石が搬入される堺の港を逸早く戦略的に掌握できたのも、当時彼らともっとも友好的であった信長の勢力であったことはただの偶然ではなかった。

背後には、イエズス会の周到な戦略があったからである。

好都合なことにイエズス会は元はといえば創始者のイグナチオ・デ・ロヨラや宣教師のフランシスコ・カブラルも軍人であって、その教会も軍隊組織を踏襲するなど西洋の軍事情報にも精通していた。

実際にイエズス会宣教師と接触した信長は、一箇月間に渡って彼らから西洋事情や軍事情報を集中的に教授されている。(フロイス日本史)


ある意味、イエズス会が信長に対して軍事顧問団ともいうべき働きをしていたということになる。

これは直接の経済的援助以上のものであって、戦略的にも大きな成果を信長にもたらしたものといえよう。

かれらは軍事顧問団として信長に西洋の軍事学を連日講義してみせたわけで、これに対して信長は最大級の馳走でかれらをもてなしてみせたし、商業都市堺に対して軍事的に威圧して多額の矢銭(軍資金)を要求して見せた。

こうみると信長の独創的戦略のうちには、西洋の革新的で合理的な西洋の手法も加味されていたことも十分理解できよう。

一方の信長も己の天下布武の大きな野望の達成には、イエズス会宣教師からの情報が不可欠であることに逸早く気付いていたわけで、抜け目なく彼らを最大限活用して見せたのである。

その効果そのものは信長の戦歴に見ることが出来る。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた比叡山焼き討ちでは、信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといい、その犠牲者数は「信長公記」には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約1500名の死者とあり、さらに「言継卿記」によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,4千人が殺戮されていたと記されている。


天正2年(1574)7月13日、信長は、伊勢長島一向宗を包囲し追い詰めていた。

一向宗側は9月29日にわび状をよこしたが、それを無視して中江城、屋長島城を四方から火をつけ、籠城した2万人の男女をすべて焼き殺した。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧した際、捕らわれた一揆方の男女1万2250人余りは信長のもとに送られすべて斬殺された。

「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」、「生捕りと誅(殺された)させられたる分、合わせて3,4万に及ぶべく候か」(信長公記)

さらに天正5年(1577年)、石山本願寺を支援する鉄砲集団雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲したが、織田方の兵士は町に乱入放火すると共に非戦闘員である女子供を始め住民1万人をなで斬りにして惨殺した。

その数年後に信長が手掛けた天正伊賀の乱でも同様であるが、彼の戦闘形態は大規模な軍団を投入して敵方の老若男女の住民すべてを容赦無くなで斬りし、火攻めで滅ぼしたのであった。

これらの大虐殺は徹底した宗教弾圧にも等しかったし、こうした戦略手法の発想はきわめて西洋的である。

イエズス会からみれば、犠牲者の多くは忌まわしい異教徒らであったから、その伽藍共々住居も焼き払うという火炙り同然の見事な信長軍の掃討作戦には大いに共感した。

同時に宣教師等からは、ことのほか信長が強大で頼もしい類稀な王侯貴族にみえた。

その勇猛果敢さは、かっての教皇アレキサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)をも彷彿とさせたことであろう。

事実イエズス会の宣教師は、こうした信長の果敢な軍事行動を見て「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である。」(イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡)、とまで言い切っている。

彼らは心震える想いで、ここではまさに最大級の賛辞を信長に贈っている。

このようにイエズス会は信長の行動を賞賛するだけでなく、積極的に接近すると同時に軍事的にも彼を援護する戦略を一時期とったのである。


dorei3宣教師がもっとも優位にある王族に接近して宣教上の庇護を請うたり、さらには多くの奴隷を狩り集める側に積極的に戦略的に鉄砲弾薬を供給していく手法はアフリカ方式とまったく同じものであり、これこそがポルトガル商人の合理的かつ巧妙な奴隷確保のやり口であった。


南北アメリカ大陸には19世紀までに1000万人以上の黒人がアフリカから奴隷として奴隷船で移送された。

移送された黒人奴隷のうち何割かは劣悪な環境の奴隷船内で死亡し海中に遺棄されたのである。

奴隷数が1000万というはにわかには信じがたいところであるが、これには奴隷確保と奴隷船に特化した独自の移送マニュアルがあった。

奴隷商人は商品としての奴隷の輸送コストを抑えそこからの儲けにきわめて敏感であったが、奴隷の確保にも大いに知恵を絞った。

ヨーロッパの奴隷商人たちはアフリカでの奴隷狩りの効率を上げるための狡猾な手法をすでに考え出していた。

アフリカでも奴隷狩りが進むうちに沿岸部周辺では黒人が激減して奴隷の確保がしにくくなっていったのであるが、そこで奴隷を狩る側の有力な黒人部族に新兵器の鉄砲を売り付け、一方に圧倒的な戦力を持たせることでさらに奴隷となる捕虜確保をよりやり易くさせていったのである。

これによって奴隷市場はアフリカの内陸部まで急速に拡大していったし、鉄砲に必要な火薬の供給も彼らの独占的利益が確保されるという好都合な展開が達成できたのであった。

この結果アフリカから南北日本に渡来した際もこのアフリカ方式のマニュアルが最大限に活用されて、信長はもちろんのこと当初より好戦的な九州地方のキリシタン大名にも使われていった。

特に九州ではその手法が最も効果を発揮して、結果的には奴隷売買の取引は広範囲に拡大していくこととなった。

沿岸部の小さな港には奴隷移送用の舟さえも用意されていたし、各地で転売された奴隷は次々とより大きな交易港へと集積されていったのである。

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

事実、有馬や大村、大友のキリシタン大名は、イエズス会の軍事的支援があったからこそ竜造寺や島津の軍事的侵攻にどうにか耐えられたのである。

九州の戦乱拡大によって鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートとを見事に確保したわけである。



●戦国九州の奴隷取引の実態

九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、奴隷貿易には当然関与していた。

戦略上直接、あるいは間接的に関与せざるを得なかった。

彼らに共通することは、軍団の中に鉄砲隊を早くにその戦力として装備していたことであり、それによって熾烈な戦国時代を生き延びていたという事実である。

戦場で殺戮を繰り返す戦国大名らが、奴隷取引には一切関与しなかったというような都合のよい詭弁はここでは通用しまい。

好都合な歴史認識しか通用しないのは今に始まったことではない。

それこそ、彼らが生き残っていくには鉄砲や弾薬は是が非でも手に入れなくてはならない必須の最新の軍事物資であったのだ。

まさに新兵器鉄砲が戦国大名の戦力バランスを短時日で一変させてしまったのである。

鉄砲も弾薬にしても当時はきわめて値のはる軍需品であった。

しかもそれを手に入れるには宣教師を介してでなければ、肝心の取引が一切出来なかったのである。

宣教事業優先の条件が南蛮貿易の鉄則であった。

交易の利潤の中から、教会にはその絶対的保護権によって一定の取引仲介料が支払われたのである。

交易の拠点となる港を用意できるキリシタン大名にも交易の際に輸出入税が支払われたわけで、これによって彼らは経済的に潤ったのである。

交易港には各地から商人が参集した。

たとえ南蛮との交易の場に彼らが参加できたとしても、そこで大量の金銀や対価として交換できる交易商品が用意できなければ取引は成り立たない。

ここで取引を仲介する宣教師が打開策を探るべくそれとなく両者に耳打ちする。

大名が交易上の対価として奴隷を差し出せば、ポルトガル商人はその取引に渋々応じて見せたわけである。

ここからはいわゆる奴隷取引に移行していくわけで、日本人が同胞を家畜同様に海外の奴隷商人に転売していった当時の南蛮貿易の様相がここでははっきりと見えてくることになる。

後は相互間の需要と供給の問題である。

戦乱が続けば続くほどに、奴隷取引そのものは増加し規模も拡大していく。

戦乱に巻き込まれ収奪された土地や村は無人状態になるほどに当時の人狩り(奴隷狩り)は過酷なものであった。

そこからは夥しい数の戦争難民が捕虜として奴隷狩りされていった。

キリシタン大名に売られた捕虜が、奴隷としてスペインや遥か南米アルゼンチンまで転売されていった記録もいまでも残されているが、こうした奴隷貿易なしには大名といえども戦国時代を強かに生き延びていくことは不可能であったということになろう。

(注)ニッケイ新聞(2009年4月9日付け)ブラジル国サンパロ州サンパウロ市発行
「日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人」より以下、引用。
「博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。  驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。」(引用、終わり)


戦国時代に取引された奴隷の人数については諸説があるが、日本人だけでも戦国時代を通じて数十万人はその被害者となったのではないかと考えられる。

黒人奴隷1000万に対して数十万では少な過ぎだろうか。

九州で奴隷貿易が行われていたのは数年間のことではない。

奴隷取引が顕著になり始めた1550年以降から日本が鎖国体制(1639年・寛永16年)に至るまでの期間を考えると、この約100年間に奴隷もしくは自主的な渡航者(傭兵、商人、労働者)の人数なども含めれば海外渡航者数そのものは相当な数にのぼるはずである。

中には自ら奴隷として契約して渡航する者や海外で生きていくうちに奴隷になった者も少なからずいた。

武士であれば、南蛮の使い捨ての戦闘員、傭兵として需要があり、彼らも売り買いされたのである。

遠くは南米やインドのゴアの要塞にまで売られていった。

(注)「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代(2013年5月13日 読売新聞記事)
(引用始め)安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。(引用終わり)

このような事実は、戦後の歴史からはすべて削除されていたものである。



それには九州から買い取った奴隷を南蛮船が直接移送することもあったが、日本や中国、東南アジア諸国の多くの貿易商の輸送船が朝鮮半島を経由して集積地の中国マカオまで輸送していったわけであるから、奴隷の需要拡大とともに相当数の船が頻繁に行き来していたことになる。

活況を呈していた中国マカオのアジア最大の奴隷市場では、それぞれの需要に応じて転売先を振り分けられ各地に移送されていった。

現実にはマカオの市場がアジアの拠点として20世紀まで存続していた事実を考えれば、日本人の渡航や帰国が幕府によって禁止された1635年(寛永12年)直前まで日本人奴隷取引は続いていたということになる。


こうした戦争捕虜に対する扱いは九州でも変わりはなかったが、早くから海外との奴隷取引がされていたことでその様相は大きく違っていた。

当然のように、戦闘に晒された土地では奴隷狩り目的の人狩りや異教徒狩りといった侵略行為が多発していた。

九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした侵攻を続けていた。

豊後の大友氏の軍勢は筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の奴隷狩りを行ったし(「宗像市史・史料編中世」)、豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

遠征時には、まだ秀吉の奴隷取引禁止令は出されてはいなかった。

当時の天草や島原半島での日本人の戦争捕虜の海外取引については、ルイス・フロイスが詳細に記録している。

「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、このときすでに九州諸国では相当数の人買い商人や海賊が横行していた事実が窺える。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

これらは1588年から1589年当時の奴隷に関わる様相が具体的に記されているわけであるが、実際には南蛮人が渡来して以降数十年間にわたって継続的に行われていた人身売買の実情そのものであったことに注目しなくてはなるまい。

皮肉なことに九州の奴隷売買の事実を示すものとしては、このフロイスの記録がもっとも明確なものであろう。

実際にはキリシタンであろうと奴隷になれば海外にさえ転売される運命であったし、すでに九州から中国マカオへの奴隷移送のルートもその交易と積み出しの拠点もすっかり出来上がっていたのである。

転売されたそれらの奴隷は九州各地の港から天草や口之津、長崎、平戸、博多へ集積転売された後さらに海外の市場(マカオ)へと奴隷船で移送されていった。

ここでの奴隷輸送船は南蛮船だけではなく、多くの輸送船が中国や東南アジア方面からも続々と押し掛け積み出し港は活況を呈していた。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった」フロイス『日本史』8-268」

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった」(フロイス『日本史』8-314」)

買い取られたこれらの夥しい奴隷は、最終的には九州からの輸出品として次々と中国のマカオの奴隷市場へと送り込まれていった。

結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。

それでも、そのような奴隷貿易は一切なかったという反論もある。

戦国の日本人の奴隷など稀な出来事だともいう。

はたしてそうなのか?

戦国に戦争難民や人狩り、人攫い(ひとさらい)はなかったということなのか?

たしかに戦国を扱った大河ドラマにも登場したような記憶はない。

しかしながら面白いことに九州地方では、時代を経てもこの子供の人攫いという生活感覚にはいまでも特別な響きが残っているように思えてならない。

逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬などの最新の軍需物資をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。

新兵器であった鉄砲、弾薬は高価な武器であっただけに、入手するには潤沢な資金を必要とした。

高価なそれらの輸入軍事物資が無尽蔵に、南蛮側から無償で提供されていたわけではない。

この時代、南蛮商人そのものは富を求めて渡来し、戦国大名の需要に営利目的で群がったのである。

九州の大名は取引のカギを握るイエズス会の宣教師に言われるがままに、彼らから洗礼を受けキリシタンとなっていった。

南蛮との取引での仲介者として、宣教師の立場は絶対的であった。

九州の諸大名は裕福ではなかったわけで、キリシタンということでのその取引での優先順位は確保できても資金力(矢銭)そのものは限られたものでしかなかった。

それらの取引で支払われる高額の対価は一体どのようにして賄われたというのだろうか?

考えるほどにここらは不可解な話である。

それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせが用意できるというのであろうか。

furanki 一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要であった。

戦乱と共に軍事物資の需要も一気に高まることになる。

薩摩の島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、キリシタン大名大友宗麟が国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)をポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な代価では到底賄えなかったはずである。

九州の戦国大名が、何故にそれほど裕福であったのだろうか?

事の真相などはどうでもいいわけで、結局のところ華々しい歴史的業績をもたらしたという事でその名を歴史に留めたということにしておけばいいのである。

ここでいうキリシタン大名という称号そのものは、過酷な異教徒弾圧と奴隷売買とに自ら参画したという戦国大名の矢銭調達法やそうした戦闘形態をも明確に象徴していることになる。

輝かしいキリシタン大名は、いまやそう評価されるべきであろう。





削除されなければこの稿続く




参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)
















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posted by モモちゃん at 11:04| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月16日

家康は本能寺で信長を殺すつもりであった!?

歴史教科書では教えちゃいけないこと

あの魔王信長は、律儀な家康を謀殺しようとしていたらしいですよ!?




この事件直前に、信長には徳川家康を暗殺する企みがあったのではないかとする記述がある史料がある。
それは本能寺の変を報告したイエズス会のルイス・フロイスの「日本史」である。

「(明智光秀軍の)兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝(いぶか)り始めおそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた」(フロイス・日本史3・p143)と書かれている。

イエズス会のフロイスが、このときどのようなルートと人脈で入手した情報なのかは不明であるが、当時の南蛮寺が本能寺と隣接していただけに無視できない情報ではあろう。

しかも戦闘に従軍した明智の家臣らがそうした感想を持ち得たということは、信長周辺でも当然ひとつの策略としてあったことは否めないであろう。

少なくとも家康は織田家の義弟、もしくは盟友としての認識はあったはずであるから、このときの明智勢のとっさの判断そのものは非常に興味深い。


敵将を領内に招き入れての毒殺や暗殺は戦国の世では当たり前の卑劣な策謀ではあ
ったが、このときの家康は少なくとも信長にとっては敵対する勢力ではなかった。

ただ戦国時代にあっては、いかに家康方が味方勢力であろうといずれどこかで排除しておくべき油断のできない武将の一人として織田方から見られていた可能性だけは否定できないであろう。

このときの信長にそうした企みを決断するだけの戦略的余裕があったかどうか疑わしいところである。

というのは信長がそうした策略をもっていたとしても当時の織田軍団全体の展開をみたとき、ここで新たに戦線をさらに拡大していく状況ではなかったからである。

織田方はこのとき最大限にその戦線を拡大していた。

家康もそうした織田軍団の大掛かりな多方面に渡る戦闘の状況を事前に知っていたからこそ、この絶好とも思える時期に自ら意を決して信長の下を訪れたのだともいえよう。

事実家康一行は少人数であり護衛の兵員も付けてはいなかったわけだから、彼らの戦闘力は限られていた。

もし信長がここで家康主従を本気になって狙うのであれば、それこそほんの一撃で仕留められる状況であった。

このときの家康にしてみれば信長の懐に飛び込んだ以上、信長に己の命を預けたも同然の心境であったことであろう。

当然のことであるが、当時はそれだけの緊張感が常に漂う戦国の世であったはずである。


そこで信長の立ち位置というものをいま一度考えて見なくてはならないであろう。

信長にとってここで家康を倒すことがいかに容易であろうとも、いみじくも天下布武の大儀を掲げておきながら自らその武門の名を汚すような姑息な策略を弄して家康を弑することができるのかということである。

ここらの妄想と現実とでは大きな隔たりがあるところである。

家康をここで葬るということは、一体どういう狙いがあるというのであろうか。

長年に渡って信長の戦略を助けてきた盟友ともいうべき武将である律儀な家康に対して、それは余りにも理不尽過ぎる所業といえるであろう。

己に向けられた裏切り行為そのものを極端に嫌ってきた信長が、家康のような義理堅い相手を謀る行為をここでとることができるのかどうかは興味深いところである。
 

信長という武将は武門での正義や武勇を尊び、それを誰よりも正当に評価して憚らなかった武将でもある。

少なくとも、信長の内面にはそうした戦国の武将としての洗練された気風と美学とがあったはずである。

もしここで仮に信長にそうした姑息極まりない卑劣な手段を強いて採らせるというのであれば、家康にそれ相応の不手際か謀叛の事実がなくてはならなかったであろう。


そうした事実があれば、親兄弟でも手に掛ける非情な時代背景は厳然として存在しただけに、信長の場合とて非情さを凌駕するだけの明確な大義名分が問われてくるはずである。


この時点でみても家康に信長の怒りや不信を買うような落ち度は無かったのは確かである。
そのように考えると、それまで織田家に従順に従い盟友として幾度もの命懸けの武功を上げている家康をここで一方的に排除してしまうことは、信長の武将としての姿勢からは大きく外れてしまうことになろう。


いまだ天下統一に至っていない状況下では、むしろここで盟友家康を失うことの方がはるかに前途多難な状況を惹起してしまう危険性があったはずである。


もしてここで家康を倒すことになれば、当然のこととして信長は留守居として控えている家康の子息や屈強な三河軍団を相手にして新たに戦端を開き軍事的に対峙しなくてはならない事態をも招くことになる。

それだけの余裕がこの時点での織田方にあったのかといいたい。

少なくとも織田家の勢力圏内での何らかの襲撃事件で家康の命が奪われるような状況が出来したとすれば、これは即信長側の裏切りであり卑劣な策謀と見なされるはずである。


そうした展開はどうみても避けることはできないであろう。
当然のこととして最悪の場合には、徳川方は上杉や北条勢とも組んで後方から執拗に信長に挑みかかってくることも想定しておかなくてはならないことになる。


どうあっても家康暗殺を考えるというのであれば、必然的にこうした徳川側の反撃にすぐさま対応できるかどうかといったこの時点での織田軍団の現実的な戦略そのものがまず最初に問われてくる。


織田側が何らかの陰謀をここで徳川に仕掛けるのであれば、それに即応して新たに投入できるそれ相応の兵力そのものが織田側になくてはならない。
徳川方の弔い合戦を正面から受けて立つというのであれば、それだけの周到な用意は当然であろう。
この時点での信長陣営に、それだけの余裕が実際にあったのであろうか。


結局のところ中国の毛利や四国の長宗我部との本格的な戦線が一気に拡大されていく状況下で、信長がそこまでの軍事的展開をこのとき覚悟していたのかということに帰結する。


そのように考えると織田の家中に家康暗殺の企みがあって、たとえそれが即刻実行可能であるとしてもそれ自体は信長にとっては非常にリスクの大きなものになるという認識に立たざるを得ない。

むしろここで家康を暗殺することは、信長の戦略を躓かせる危険極まりない策謀でしかないということになる。




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戦国時代にあっては、相互の儀礼においても緊張した状況での気配りがなされるのが通例であった。

徳川側は主君家康を送り出すと同時に家内は臨戦態勢をとったと解すべきであって、それこそ武家として当然の対応であったはずである。

家康が信長の招きに応じたということは、事前にそれなりの準備と覚悟をしていたということになる。

家康にしてみれば戦国の世である以上いつ命を狙われてもおかしくはなかったであろうし、その覚悟があることは武人として当然のことであった。


それに対して織田側ではその勢力下にある非武装地帯の堺周辺部ではそれなりの警戒態勢がとられていて、家康一行の安全は十分に保障されていたと見なくてはならない。

今回の供応が信長の家康に対する明確な返礼である以上、これを覆してまでして家康を誅す策略は見苦しいことこの上ない。

ましてや相手の馳走にはそれ相応の馳走を返すのが、本来の武家の習いというものである。

5月15日から翌月の6月1日までのあいだ家康一行には何ら旅程に支障はなかった。


安土城から京見物に出立した家康一行の予定では、見物先の堺より再び京都に戻り中国方面へ出陣する信長に会う手はずであったという。


信長は5月29日にわずかな供廻り衆とともに安土城を出立している。
同じく光秀の居城坂本城からはまず5月29日に鉄砲弾薬や長持ちが中国方面に送り出されている。
これも中国進軍の予定通りの行動である。


すでに備中高松城は秀吉の働きで落城間近であった。
秀吉自身はそこまでの戦略的仕上げをして、十分に足元を固めたところで主君信長へ出陣要請をしたことになる。

信長はまず京において大茶会を催す予定であって、安土城より数多くの大名物の茶道具を本能寺に運び込んでいた。


高松城の詳細な戦況そのものは信長にも伝わっていたことから、少なくとも信長には兵を整えるまでの間に十分な余裕があったからこそ、大名物を携えて京で茶会を催そうとしたわけである。


6月1日には大名物の披露ということで多くの公卿や商人を本能寺に招いており、2日以降に計画された茶会に信長は家康を招いていたことになる。

こうした信長の日程のすべては、京周辺の軍事を統括する光秀がすべて掌握していたことは言うまでもない。



tatami.jpg 



ここには信長に見過ごすことの出来ないもう一つの重要な行事予定があった。

信長と茶道といえば「御茶湯御政道」と「名物狩り」がつとに知られているが、茶道具に執心していた信長はかねてより九州博多の豪商島井宗室に自分が所有する名物を披露するという約束があった。

この時代天下の三大名器として『初花』『新田』『楢柴』という3つの茶入れがあったが、すでに信長はこのうち二つ『初花』と『新田』を手に入れていた。


島井宗室はあと一つの名器『楢柴肩衝』を所有しており、今回それを持参してきていたのである。

奇しくもここに天下の三大名物が一同に揃うという信長好みの趣向が、このとき本能寺において実現していたことになる。

ここでもっとも注目すべきことは、この天下の名物茶器『楢柴肩衝』が島井宗室から信長の手に渡される手はずが本能寺で順次整えられつつあったことだ。

事件前日の6月1日、本能寺には博多商人の島井宗室と神屋宗湛が主客として招かれ、それに前関白近衛前久ら公卿衆が加わった席でこれらの名物が本能寺書院において披露されたのである。

天下を掌握しつつある信長にとって、この催しこそ得意絶頂の瞬間であってこのときの信長は終始上機嫌であったという。

ここで登場する『楢柴肩衝』という名物の由来がわかれば、このときの信長の喜びようがいかに大きなものであったかが理解できよう。


『楢柴肩衝』は、もともとは足利義政が所有していた天下に知られた名物茶器であった。
それがのちに義政の茶道の師匠である村田珠光に下賜されて、さらに珠光から弟子の鳥居引拙を経て京都の豪商・大文字屋の疋田宗観が買い取った。

これがさらに堺の豪商天王寺屋宗伯の手に渡っていたが、宗伯の弟子で堺と交易していた博多の豪商神谷宗白が1千貫の高値で手に入れたとされる。


宗白は『楢柴肩衝』を買い取ったのち家業の経営に失敗してしまう。
経済的に行き詰まった宗白は仕方なくこれを手放すこととなり、同じ博多の豪商島井宗室に2千貫で買い取ってもらっていた。
当時の2千貫目といえばとてつもない巨額な値である。
優に現代の十数億円程度には換算できるのではないか。

信長はかねてよりこの有名な名物の行方を捜していたが、意外にも堺から遠く離れた九州の豪商の手に渡っていたことを知る。


そこでどうにかして島井宗室から『楢柴肩衝』を入手しようと、堺の商人らにその交渉を仲介させていたのである。

信長と宗室との間でも書状の遣り取りがあった。
このときの島井宗室にとって、信長との繋がりを持つことは悪い話ではなかった。

島井宗室のような対外的な交易を家業とする貿易商は、何らかの形で時の権力者との関係を深めていた。
彼らの権益を確保するためにも権力者による保護を必要としていた。

それまで島井宗室の交易と権益の後ろ盾であった九州の大名大友家は島津の侵略に脅かされていたこともあり、宗室自身も新たに強力な庇護者をこのとき必要としていた。


そこで宗室は国内を掌握しつつあった信長の権勢に頼ることを決断して、本能寺を訪れて今後の庇護を条件に名物『楢柴肩衝』を信長に譲る心づもりでいたのであった。

その約定があって、島井宗室らはその日時に合わせて九州博多から堺を経由してこの日は京に上ってきていたのだ。

『フロイスの日本史』にいう。
「信長は元来慾深く物を惜しむ人で、誰かが名物を持っていると聞けば、人を遣わしこれを求め、それを断ることは不可能であった。所持者は免れることは出来ないと考え、求めを待たずに進物とした。そうしておけば信長がいくぶんかの義理を感じてくれるからであった」と。

このように名物を介しての強引な要求はかえって信長の権勢の強大さをますます天下に示していったというべきであろう。



信長は三大名物のすべてが己の手元に一同に集まることに、その富と権勢とを天下に示す絶好の機会を得たわけで、このときばかりは茶道の好奇者としてそれこそ有頂天であったということになる。

もとより島井宗室との約束の日時と中国出陣の日程調整において、今回本能寺で催される大茶会の趣向が一瞬ではあるがこのとき上洛した信長の身辺に隙が出来たことになる。

信長の護衛にはわずか2,30人の供廻り衆だけが従ってきただけで、本能寺には警護の旗本は張り付いてはいなかった。

信長の出陣を前にして大方の常備兵はその準備に走り回っていたということになる。
このことがまさしく信長の足元を掬ったわけで、茶道趣味が嵩じてついには自ら墓穴を掘ってしまったということになる。

アビラ・ヒロンはその著書『日本王国記』で、信長の最後の言葉としてこのとき、「余は余自ら死を招いたな」と言ったと記録している。


信長の遠大な天下布武の事業はここに至ってようやく軌道に乗り出したときでもあったから、勝機を掴んだ信長に気の緩みがあったことは否めないであろう。

しかも丁度この時期、朝廷が信長の後継者である信忠に官位を推任することが決まっており、信忠はすでに信長より一足先に安土より上洛していた。

もとより信長の上洛にはこの信忠の官位を祝う意向があって、これに盟友家康にも同席を求めていたはずであり、6月2日以降にはあらためて本能寺において大茶会が催される手はずであった。

数々の名物が披露されたこの日、島井宗室と神屋宗湛の二人はそのまま本能寺内に宿泊しており、まさしく彼らは翌日(6月2日)の暁の襲撃事件に心ならずも遭遇することになる。


家康一行は堺を出立した6月2日の夜、本能寺の変事を知らされる。

ここまでの流れを見る限り、家康が信長の勢力圏内で命を狙われるような緊迫した様子はなかったことになる。
しかも家康一行は地理不案内であったため、信長の家臣・長谷川秀一に終始道案内されていた。

信長側がそうした気配りを見せている以上、家康に対するこのときの厚遇そのものは至極自然であったといえる。
信長に家康暗殺の企てがあるのならば、あえて家康を逃すような行動を信長の寵臣である長谷川秀一がとるはずがないではないか。

結果的には本能寺の変後の家康逃亡劇の最後まで彼は付き従って尾張熱田まで同行したわけであるから、どうみてもここらは信長による暗殺といった話どころの展開ではないわけである。


さらには、ここでわざわざ京都におびき寄せた形で家康を本当に謀殺するとなると、これはいよいよ信長にとっては不都合な事態を招くことになる。

信長の嫡子信孝の任官と同時期に天皇や公卿衆のそば近くでの暴挙は顰蹙を買うだけでなく、そうした傍若無人な所業に対して民衆からの非難の声が高まることは避けようがあるまい。

そのような企みの後で大茶会が催されたとしても、その場の雰囲気は最悪のものになるはずである。
そこまでしても信長に家康を暗殺する決意があったかどうかも問われてこよう。

少なくとも信長は面目を失うだけでなく民衆の人気も離れていくはずである。
それでなくとも信長という武将は、己の名誉を損なような立ち位置を終始嫌っていたはずではないか。



そこのように見ていくと、結局のところ信長に家康の暗殺は到底実行できるような策謀ではなかったと見るのが妥当なところではあるまいか。

とにかく中国方面への出陣を直前に控えた信長が、義弟ともいえる家康の暗殺と大茶会の催しとを同時に画策していたとするのはあまりにも行き過ぎであろう。





参考資料:

「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 A4 306P 世界文化社  1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)
信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書)
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y)
長篠の戦い (歴史新書y) 大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965
           

















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2016年06月16日

光秀の背後には家康が居たのは確かである!?

徳川家康は光秀の謀反劇をどう評価していたのか

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
九州から本能寺の変を考える(7)


東洋医学史研究会
宇田明男




●本能寺の変に対する評価とは何か?
本能寺の変に対する評価は、事件の後の豊臣秀吉の天下盗りによって都合よく、且つ徹底的に改竄されたであろうことは想像に難くない。


天下人まで上り詰めた秀吉の治世では己に都合よくいかようにでも情報操作が加えられるわけで、それ自体はしごく当たり前のことであった。


増してや光秀の謀反そのものは織田家のお家騒動であって、その主殺しの顛末を織田家中で勝ち残った秀吉がいか様に喧伝しようと彼の勝手次第である。


それこそ誰も表立って異を唱えることはできなかった。
そこには主殺し、謀反人の光秀を正面から弁護する余地など微塵もなかったであろう。


翻って一方の戦国武将家康の側からみれば、光秀の謀反の背景そのものはまったく違ったものに見えていたはずである。


いうなれば中立的な第三者としての目線で本能寺の事件の全貌を真正面から忌憚なく評価分析することが出来たはずである。


家康自身も奇しくもこの事件に遭遇したわけであるから、そうした状況分析は独自に成し得るだけの情報は十分に揃っていたことになる。


表向き、義兄であり盟友でもある信長が倒れたことは家康にとっては相当な驚きではあったであろうが、当然戦国の軍事バランスが大きく揺らいでしまった突発的な状況がどういうものであるかをまず真っ先に判断できる立場にあった武将の一人であったことだけは確かである。


それこそが戦国の世を生きる武将として決して避けることの出来ない非情な宿命でもあったろう。


家康が戦国の世に台頭していった背景には、武辺の者としての矜持を頑なに堅持していったからである。


戦国の覇者信長はそうした家康の境涯を早くから見知っていたわけで、同じく武門に繋がる武士(もののふ)として彼を高く評価したのである。


それこそ領国が隣接していながら、猜疑心の強い信長を相手にした緊密な盟友関係を保つということは当時としてもきわめて特異なものであった。


信長は家康の武将としての力量をそれだけ高く評価していたわけであって、少なくとも家康の武辺の者としての意地が信長に認識され受け入れられていたことになる。


他国を侵略し勢力を急拡大し続ける信長が、そうした盟友としての家康の助力をもっとも必要としていた。


ここでは武人としての両者の戦略がうまく噛み合ったということになる。
家康はそれに対してどこまでも信長に対して律儀に振舞っていった。


それは家康の武人としての基本姿勢であって、家康の卓越した生き残りの戦略であり、それが唯一の活路であったということである。


それだけに家康側からみれば光秀の突然の謀反はそれまでのすべての軍事バランスを一気に瓦解させたも同様であった。
そうした状況に戦国武将家康はどう対処したかである。


秀吉が瞬く間に天下取りを達成していったわけであるが、この間にも家康は終始武辺者としての意地をしたたかに示し続けていった。


こうした家康をみていくと、光秀の謀反に対して秀吉とはまったく違った評価をしていたはずである。
そう考えざるを得ない。


後世の有名な狂歌に「織田がつき、羽柴がこねし天下もち、すわって食うは徳川家康」というのがあるが、まさしくこれである。


家康にはそうした覇者としての運命的なめぐり合わせを心情的に感じ取っていたであろうし、武人としての穿った認識があったということになろう。


家康の処世観はどこまでも武辺者の気概としたたか過ぎるほどの意地とを示してきている。


家康は秀吉の治世下でも多くの大名からそうした武人としての姿勢を高く評価されていたことは否めない事実でもある。


こうした考えに立ってみると武将家康の律儀さがいよいよ際立って見えてくる。


やはり光秀は天下に最大級の馳走をしたことになる。
いうなれば、明智光秀、さらにはその家臣らの働きは徳川家康を十分に馳走しているのである。


もとより光秀の行動をすべて無謀な暴挙とみなすのであればこうした考えには到底至らない。


だが家康の武辺者としての律儀さからいけば、何はともあれ光秀の決死の戦闘行動がもしもなかったのであければ、とうてい家康の天下などはとても望め得なかったことになる。


そのきっかけを光秀主従は家康の為に用意してくれたということである。


●光秀の饗応ですべては決まった?
光秀と家康とが饗応の席で対面したとき、そこではどのような展開があったのであろうか。


両者が親しく言葉を交わしたとなると、ここから先には予想外の興味深い進展があったことが窺える。


この場が両者の初対面ということではなく、それまでにも相互に挨拶は交わしたことは幾度かあったはずである。


光秀は終始洗練された武人としての作法で接したであろうし、家康は家康で武辺者としての律儀さでそれに応えたと思われる。
端的に言えばこうである。


光秀は、もし出来ることなら家康のような度量の大きな武辺者の主君に仕えたかったと考えたであろうし、相手の家康は光秀のような素養豊かな武人を側に置きたいと思ったはずである。


そういう意味でもこの饗応の席での両者は互いに好感を持ったことであろう。


共に相手を誇り高い武人としての立場を理解し得たというべきである。


それぞれの立場は違っていても彼ら二人は猜疑心の強い冷酷な信長の影響下に居るわけであって、そこには共通する鬱屈した心情を持ち得たとしても不思議ではなかった。


後に家康をして光秀の謀反の背景と武人としての心情とを深く理解していたであろうことが予想されるわけで、ここではそうした想いも改めて浮上してくる。


これは光秀と家康とが共謀していたとか事前に謀反を知らせていたとかする企みが隠されていたなどとする発想とは異なるものである。


むしろそこには切羽詰った戦国の武人としての意地が見え隠れする。
家康の立場からすれば、光秀の暴挙を批判することも出来るわけである。


ところが実際にはそのような展開にはならなかった。


俗説にあるように後に天下を取った家康は光秀にどこかで恩義を感じていたとされるわけで、だからこそ孫の三代将軍家光の「光」の字は光秀の名から取ったのだといい、あるいは死後家康が葬られた日光東照宮の「日光」の「日」は日向守から、「光」は光秀の名からそれぞれ取ったのだというのである。


さらには光秀の縁者と思われる高僧天海を重用しただけでなく、家臣斎藤利三の娘お福、後の春日局を幼い家光の養育係に選んだのも家康のそうした光秀主従へ向けらた想いの表れだといわれる。何故であろうか?


家康は謀反人光秀の行為を表向き評価はしていないが、結果的には彼らを傍に置いて優遇していることは明らかである。


そこにこそ家康の戦国武将としての律儀さがもっとも現れているというべきであろう。


武辺の者の働きに対しての恩賞はもちろんであるが、相手に馳走されればそれに対してそれ相応の馳走で応えるのが武門での礼儀作法である。


武門としての義が欠ける判断は避けられるであろうし、そこでは礼儀として武士としての面目を保とうとするはずである。


織田家への謀反であったとしても、結果的には家康が光秀から最大級の馳走をされたことはどう見ても間違いないことであって少なくともこれをすべて無視することは出来なかったことになる。


後年家康自身が光秀からそうした格別な、それも運命的ともいえる饗応を受けたと自覚していたことになるのではないか。


それは武辺の者としての家康の当然の受け取り方であって他者には何の関係もないことである。


武門であることに誇りを持つ律儀な家康であれば、滅びた光秀主従に対しての対応はしかるべきものがあったということである。


そしてこのことは取りも直さず家康が光秀の謀反の理由にまで深く思い至っていたということになる。






(この稿続く)


参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 世界文化社 1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
歴史群像 明智光秀の野望 1992年12月号 学研
日本史史料集 笹山晴生 五味文彦 吉田伸之 鳥海靖 山川出版社 1994
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1994
図説日本史 啓骼ミ 1999
裏千家茶道のおしえ 千宗室(著) 日本放送出版 1979
「堺」豊田武(著) 至文堂 1957
「戦国武将ものしり事典」 奈良本達也監修 初版主婦と生活社  1993
戦国史新聞・乱世をスクープ! 戦国史新聞編纂委員会編 日本文芸社
「不思議日本史・歴史のウラが見えてくる」 南條範夫監修 主婦と生活社 1988 
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)
信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書)
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y)
長篠の戦い (歴史新書y)
大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965








本能寺の変を真横から考える(1)

何故に光秀の戦略は潰えたのか (2)

信長は家康の暗殺を企んでいたのか(3)

イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは(4)

何故光秀は信長に反逆したのか(5)

明智光秀の謀反の真相とは(6)

徳川家康は謀反の光秀主従をどう評価したのか(7)


光秀の戦略と大きな誤算とは何か(8)


細川家の対処から見えてくるものとは何か(9)



信長の遺骸はどこへ消えたのか(10)









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2016年05月28日

カステラ献上で長崎代官に抜擢された村山等安(7)

あの長崎銘菓カステラ創製記

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


長崎銘菓カステラを食べると思い出す事がある
隠され続けた村山等安の事跡
長崎のキリシタン信徒を身を挺して守った村山等安

東洋医学史研究会
宇田明男








●銘菓カステラには意外な秘密がある


長崎の銘菓といえばカステラがよく知られている。


南蛮渡来の菓子ということで、現在では長崎のイメージの一つとしてもすっかり定着しているのではあるまいか。


この南蛮渡来のありふれた菓子を風味豊かな日本人好みのカステラ菓子として改良し創製したのは、かっての長崎代官であった村山等安その人であった。


菓子箱の中に添えられている解説書にも村山等安の名が紹介されているものもあるようである。


しかしそれ以上の村山等安という人物の情報は見かけない。


kasutera



キリシタン迫害が当たり前の時代、村山等安が長崎代官として統治した長崎では一人の殉教者も出さなかった。


それは村山等安を始め一族がキリシタンであり、彼らが命懸けで長崎の多くのキリシタン信徒を庇護したからであった。


しかしこのことによって後に咎を受け、村山等安一族は幕府によって処刑されたのである。


キリシタン禁令を犯したということでの、いわゆる見せしめの一族皆殺しであった。


この辺りの不都合な歴史にはあえて触れないで置こうというところが、いわゆる歴史認識上の賢い対応であろう。


いまさら過去の忌まわしい歴史はいらない、だけど美味しいカステラ菓子は捨て難いという姑息さである。


名を捨て実を盗ったのだとも言えよう。



村山等安が長崎に広めたカステラ菓子そのものは、一つの食文化として定着して400年以上経た今日でも人々に愛され続けているのであるが、皮肉なことに彼や一族の業績に関心を寄せる人は少ない。


長崎の銘菓カステラ創製に関係深い村山等安という人物について、カステラ菓子屋が無関心なのか、触れたくないのか知らないがそれ以上の情報は意外なことに長崎市民も知らないのである。


これこそ歴史あるカステラ創製のいいとこ取りであって、肝心の先人への恩義も礼節のへったくれもないというところであろう。




戦国期に活躍した村山等安は商人の出ではなく、武家の出自をもつ人物であった。


等安は武家に持て囃された茶道や料理にも精通していただけでなく、長崎に於ける南蛮料理・菓子(カステラ・加寿天以羅)の創意工夫で天下人秀吉や諸大名にも喜ばれていたということでもわかるように、ひろく武家好みの風流にも通じた才人としても知られていた。



等安は当時、ポルトガルの商船で伝来していたいわゆるスペインのビスコッチョ(BISCOCHO・カスティーリャのパンもしくは菓子、パステル・デ・マンテキージャのようなケーキ菓子)を手本にしただけでなく、交流のあった南蛮人から直接調理法を伝授された。


長崎の教会でも礼拝の後でもこうした質素な駄菓子の類が度々振る舞われていた。


南蛮の菓子はぼそぼそしてやや固めであったが、等安はこれに貴重な輸入品であった砂糖を加えさらに蜂蜜や水飴で味を調えるなどして独自の工夫をして、より口当たりのよい日本人好みのカステラ菓子に仕上げてみせた。


当時の長崎でも京大坂同様に茶道は盛んであったし、当時の武人にとっては自ら料理して茶席で客をもてなし馳走するのが当たり前の作法であったのだ。


この時代、茶菓子といっても麩菓子のような簡単なものしか一般には知られてはいなかっただけに、長崎での等安の茶会ではこのカステラ菓子が出されて好評を博した。


彼がもてなす茶席には、肥前名護屋に布陣していた多くの大名諸侯も頻繁に訪れていたからこの趣向は彼らの間でも大変な評判を呼んだ。



さらにはこのカステラ菓子が天下人秀吉に献上されたことがきっかけで、長崎の貿易商村山等安は秀吉との謁見が叶うのである。



秀吉は二日間にわたって等安から長崎周辺の情勢や交易内容、地理について詳しく話を聞き、多くの情報を得た。



等安の父親はかって織田家に仕えてもいたこともあって、これに秀吉は大いに親しみを感じた。


人たらしで知られた秀吉はその場で等安の行政官としての才覚を見抜き、彼に長崎の代官職を与えたのである。



それは周囲も驚くような破格の抜擢であった。



一介の貿易商に過ぎない等安が天下人秀吉の代官として長崎の地を統治することになるわけで、このような形で新たな権力者が出現したことに長崎の既成勢力の間には大きな衝撃が走った。








削除されなければ、この稿続く。


参考資料:
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著









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2016年05月24日

戦国時代に大活躍した南蛮武器商人とは(6)

儲けは山分け、戦国九州ビジネスモデル

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

奴隷貿易が軍事費を支えた戦国九州
戦国のキリシタン大名は奴隷売買で潤った
九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていた


東洋医学史研究会
宇田明男


●キリシタン大名の大量の軍事物資はどう購われたのか

当時天草に隣接する島原・口之津の港には、急速に需要が高まった火薬の原料である硝石が南蛮船によって集積されていたことで、火薬(煙硝)を求めて西日本各地から多くの交易船が集まってきていた。

軍需品である火薬の需要からいえば、戦国時代ということもあって島原・口之津の港へは日本各地から交易を求めて続々と武器商人らが集まってくることになる。

港周辺はこうした軍事物資の取引で活況を呈していたことで、武器商人はもとより南蛮の奴隷商人らが数多く参集していた。

南蛮との交易上の対価の基本はここでも良質の銀であったが、奴隷での実物取引も少なくなかった。

奴隷が取引の対価として金銀の代わりとして扱われたわけで、当然ここでは軍需品の硝石と捕虜(奴隷)との取引が頻繁に行われ次々と海外へと転売されていった。

その多くはキリシタン大名の手によって集められた異教徒や戦場で捕虜となった若い男女であり、各地で攫われた子供らであった。

商取引として奴隷の売買も取引されたわけで、その都度輸出入税がキリシタン大名には支払われる仕組みであって、もっぱらそれらの収益は彼らの戦費に投入されることとなった。

ここで転売された奴隷はさらに船で移送され長崎や平戸で集積された後、中国のアジア地域最大の奴隷市場があるマカオへと運ばれていった。

奴隷を搬送する船は南蛮船だけではなく、九州の奴隷積み出し港には海外からも多くの船舶や人買い商人、さらには沿岸部の海賊までが出入りして活況を呈していた。

その様子はルイス・フロイスの『日本史』にもはっきりと記録されている。


「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

また戦国時代のそうした奴隷取引の転売ルートの存在が新聞にも紹介された。

(注)「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代(2013年5月13日 読売新聞記事)
(引用始め)安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。(引用終わり)

このような事実は、戦後の歴史からはすべて削除されていたものである。

結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。

それでも、そのような奴隷貿易は一切なかったという反論もある。

戦国の日本人の奴隷など稀な出来事だともいう。

はたしてそうなのか?

戦国に戦争難民や人狩り、人攫い(ひとさらい)はなかったということなのか?

たしかに戦国を扱った大河ドラマにも登場したような記憶はない。

しかしながら面白いことに九州地方では、時代を経てもこの子供の人攫いという生活感覚にはいまでも特別な響きが残っているように思えてならない。

逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬などの最新の軍需物資をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。

新兵器であった鉄砲、弾薬は高価な武器であっただけに、入手するには潤沢な資金を必要とした。

高価なそれらの輸入軍事物資が無尽蔵に、南蛮側から無償で提供されていたわけではない。

この時代、南蛮商人そのものは富を求めて渡来し、戦国大名の需要に営利目的で群がったのである。

九州の大名は取引のカギを握るイエズス会の宣教師に言われるがままに、彼らから洗礼を受けキリシタンとなっていった。

南蛮との取引での仲介者として、宣教師の立場は絶対的であった。

九州の諸大名は裕福ではなかったわけで、キリシタンということでのその取引での優先順位は確保できても資金力(矢銭)そのものは限られたものでしかなかった。

それらの取引で支払われる高額の対価は一体どのようにして賄われたというのだろうか?

考えるほどにここらは不可解な話である。

それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせが用意できるというのであろうか。

furanki 一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要であった。

戦乱と共に軍事物資の需要も一気に高まることになる。

薩摩の島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、キリシタン大名大友宗麟が国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)をポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な代価では到底賄えなかったはずである。

九州の戦国大名が、何故にそれほど裕福であったのだろうか?

どうやら過去の歴史を綺麗事でうまく飾っていくことが、いまの歴史認識の流れになりつつある。

事の真相などはどうでもいいわけで、結局のところ華々しい歴史的業績をもたらしたという事でその名を歴史に留めたということにしておけばいいのである。

輝かしいキリシタン大名は、いまやそう評価されるべきであろう。

ここでいうキリシタン大名という称号そのものは、過酷な異教徒弾圧と奴隷売買とに自ら参画したという戦国大名の矢銭調達法やそうした戦闘形態をも明確に象徴していることになる。

要するに、ここでは現実の事象から目を逸らした建前だけの歴史認識など一切無用のものであるともいえるのである。










削除されなければこの稿続く




参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)















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2016年05月13日

戦国本能寺襲撃は南蛮寺展望台から丸見えだった!

「九州から戦国・本能寺の変を考える」いよいよ佳境に迫る!?

信長の首実検ならず!

光秀は、何故僅かな手勢で戦略なき無謀な負け戦に手を掛けたのか?

戦国時代に引き起こされた本能寺の変は、まさに突発的な大事件であった。

その首謀者である明智光秀についてもこれまで数多くの説が立てられ論じられてきたが、九州から遠く離れた京の都において展開されたこの事件の本質と謎について今回新たな挑戦を試みてみた。

光秀の戦略の狙いはどこにあったのか?

本能寺の変は、意外にも信長の覇権をめぐって九州の豪商の思惑が少なからず絡んでいた。

それが、この事件とどう繋がっていたのか?

このとき信長は、奇しくも盟友家康の暗殺を本当に企んでいたのか?

本能寺襲撃のその意外な展開とは

本能寺の変において、何故に織田信長の遺骸が発見出来なかったのかが大きな謎である。

本能寺は明智勢の急襲によってその建物(伽藍というべきか)はすべて焼け落ちたのである。

明智勢が火を掛けたというよりは、むしろこの火災自体は信長の意思によって己の遺骸を焼かせたということも考えられる。

信長が葬った松永弾正と同様に、己の最後においてついには自爆して果てたとでもいえようか。

戦国の武将にとって首を取られ晒されることは恥辱以外の何物でもなかったはずであり、このときの信長が遺骸の痕跡を残さぬよう火中に自ら身を投じたとしても何ら可笑しくはなかった。

事件直後、焼け落ちた本能寺の検分が行われた。

ところが明智勢がいくら本能寺の焼跡を精査してみても肝心の信長の遺骸は一片も発見できなかった。

火炎がよほど強かったのか、すべてが焼き尽くされた状態であっていくら探しても信長の遺骸は最後まで見つからなかったのである。

検分を指揮した光秀らは、この時点で非常な戸惑いと焦りとを覚えたことであろう。

敵将の首実検無くしては、その勝敗の決着はつきかねるのが本来の武家の習いである。

実際に信長の首級か遺骸そのものを確認しないことには、彼の戦略的展開がここで躓きかねないところである。

結果的に光秀は、この時点で決定的な信長の首実検が出来なかったということになる。

穿った見方をすれば、光秀はここでとにかくそれらしい遺骸を信長のそれに仕立てあげてみせるといった野心的手段をとるような強かさを演じてみせてもよかったはずである。

それこそ光秀という武将は、もとより秀吉のようなはったりを噛ませるような機転は持ち合わせてはいなかったわけで、そこらは彼本来の行政官的性格が出ているのであろう。

逆に秀吉は、事件直後に信長が無事逃げおおせたというような偽の情報を流して巧妙な撹乱工作を行っていた。

この差は最後まで埋められないのである。

では何故に、肝心の織田信長の遺骸が本能寺焼け跡から発見できなかったのであろうか?

通常であれば、焼死体は木造家屋の焼け跡からは発見できるものである。

発見できなかったということは、状況によってはその場所から信長が外部に脱出していたのではかということになる。

明智勢の包囲から信長が逃げおおせたということであれば、本能寺にはそうした外部へ通じる抜け道があったのかという疑問も出てくる。

もとより本能寺自体にそうした工夫があったのであれば、京都周辺を軍事的に統括する織田家重臣の光秀が感知していなかったはずがない。

それでも信長の遺骸が見つけだすことが出来なかったとなると、ここは別の観点に立たざるを得ない。

信長の遺骸が燃え尽きるような特別な条件がその場にあったということである。

何らかの高温可燃物の存在が疑われることとなる。

まず考えられることは、従来より本能寺内には鉄砲の火薬生成に使われる硝煙や火薬の備蓄設備があったということである。

よく知られていることであるが、本能寺は鉄砲伝来時に種子島の末寺からもっとも早くにその情報が入って来たこともあって、ここではその鉄砲に必要な火薬の生成と備蓄が行われていた。

本能寺は当初この地での火薬生成の拠点でもあった。

その生成の過程で火薬の原材料である燃焼し易い硝薬や硫黄が床下にこぼれ落ちていた可能性とて考えられる。

本能寺が城塞に近い構造を持っていたのであれば、火薬備蓄用の倉庫、ないしは地下蔵があったということである。

これらに火がつけばたちまち爆発炎上する。
そうなると通常の火災とは比較にならないほどの高温が発生し、隣接する建物は激しく燃え上がることになる。

当然のことであるが、そうした高温にさらされた遺骸は形が残らないほどに完全に燃え尽きてしまう。

あるいは本能寺の火災が火薬の備蓄されている施設に燃え移って爆発炎上してしまった可能性もここでは考えられる。

信長の遺骸は爆発によって木端微塵に吹き飛ばされたということになる。
本能寺の炎上に伴って、大きな火柱の上がる爆発があったともいう。

どちらにしてもここでは本能寺内の火薬の存在が、もっともその重要な要因となりうることになる。

ここで思い出すのが、歴史家故八切氏の説である。
八切氏がいう「本能寺の出火は、どこかのキリシタン大名からの鉄砲攻撃によって、地下の火薬庫が爆発したもの」という異説である。


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さらには、信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たちで、しかも信長が滞在する本能寺に南蛮渡来の新式火薬で作った爆弾を本能寺から90メートルという至近距離にあった「南蛮寺(サンタ・マリア寺)」の展望台から打ち込んで、本能寺を跡形なく焼失させたという驚きの説を残している。

まるでロケット砲攻撃そのものである。

さらにこれでいくと本能寺信長襲撃は、明智勢とイエズス会南蛮寺とが共謀した作戦ということになってくる。

随分と飛躍した説であるが、イエズス会そのものは一種の軍事組織であり、かっては信長の軍事顧問的働きをしてみせていただけに、十分あり得る話であってそれなりに信ぴょう性があるといえる。

イエズス会が京都布教の拠点として四条坊門姥柳(うばやぎ)町(現在の中京区蛸薬師室町西入ル)に天正6年(1578)建立されたもので、3階建ての寺は「昇天の聖母の会堂」ともいわれ当時は本能寺に隣接していた。


ここでは本能寺を直接ロケット攻撃したとまで飛躍させなくとも、隣接する南蛮寺から何らかの隧道(トンネル)を掘っていたと考えた方がより合理的である。

ロケット砲攻撃だと、あまりにも露骨過ぎるであろう。

南蛮寺からであれば、密かに本能寺の真下まで隧道を掘り進めることはきわめて容易であったろう。

しかもその隧道を使って本能寺の真下に大量の火薬をこっそり仕掛けていたと考えた方が、さらに信ぴょう性が増す。

その背景としてはすでに本能寺の事件当時には、反キリシタンへと変貌していた信長へのイエズス会の評価そのものは手厳しいものがあった。

イエズス会による軍事的情報の提供と経済的支援によって軍事的に大きく台頭した信長が、ここでイエズス会から距離を置き始めていたことは、彼らから見れば裏切りに近いものであった。


当時のイエズス会は常に日本国内の軍事バランスに目を配っていた。

それもかれらの戦略に迎合する大名に力を貸していただけではなく、重要な軍需品であった火薬の供給を自在にコントロールしていたし、その最大の恩恵を受けてきたのが織田信長に他ならなかった。


後年、徳川幕府によるキリシタン弾圧が本格化しつつあるとき、イエズス会内部の書簡にははっきりと日本国内の内乱を期待する記述が示されているものがある。

1618年10月16日付け日本発、ヴィエイラの総長あて書簡がそれである。
神はこのキリスト教会を救う方法を無数にご存知である。
中でも最も容易な方法は暴君の生命を奪うことである。そうすれば日本中が内乱になり、領主たちは皆天下人になるのを望むであろう。この野心のとりこになった者は、われわれの存在を許したり、キリスト教会に左程反対しなくなったりするであろう


明らかにここでは日本国内の内乱、それも政権が一気に変わるような大きな戦乱の勃発を期待した文面になっている。

暴君の生命を奪うことである」とは、信長以外の何物でもあるまい。

同時にここでは、いかにもそうした試みは実証済みといわんばかりの記述でしかないわけで、彼らの狙いというかまさにその本性が如実に現れている。

これは実に興味深い記述であって、ここから少し遡ればおのずと戦国期の本能寺の変で織田信長が倒された事例を髣髴とさるわけで、あたかも当時の明智光秀による突発的謀反そのものに彼らの思惑も十分に絡んでいたことを吐露して見せたというべきものであろう。


事実、ルイス・フロイスの「日本史」に書かれていた信長に対する彼らの評価も、始めと終わりとでは百八十度変化するわけだが、この辺りの背景も探ったら興味深い展開が出てくる。

かくて彼(信長のこと)はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されるだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾールの無謀さと不遜に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。

そしてこの冒涜的な欲望を実現すべく、自邸に近く城(安土城のこと)から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ、そこに毒々しい野望的意志を書いて掲げたが、それを日本語から我らの言語に翻訳すれば次のとおりである」

 「偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、見る者に喜悦と満足を与えるこの安土の城に、全日本の君主たる信長はハ見寺(そうけんじ)と称する当寺院を建立した。当寺を拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる者に授けられる功徳と利益は以下のようである。
 第一に、富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低きもの、賤しき者が当所に礼拝に来るならば、当持院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しこうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう。

 第二に、八十歳まで長生きし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平安を得るであろう。
 第三に、予が誕生日を聖日とし、当寺へ参詣することを命ずる。
 第四に、以上のすべてを信ずる者には、確実に疑いなく、約束したことがかならず実現するであろう。しこうしてこれらのことを信ぜぬ邪悪の徒は、現世においても来世においても滅亡するに至るであろう。ゆえに万人は、大いなる崇拝と尊敬をつねづねこれに捧げることが必要である」(ルイス・フロイス 日本史)


信長は安土城に盆山を設け、自ら神を超える存在であるとして人々に参拝を強制していた。

これに従わない和泉・槙尾寺は伽藍を焼き払らわれ、さらに高野聖さえも数百人が取り押さえられて惨殺されるという有様であった。

こうした信長の独裁者としての変貌にイエズス会やその宣教師らは驚愕したであろう。

キリシタンの武将高山右近の説得工作にも、信長は宣教師を脅して強引に協力させてもいた。

イエズス会の宣教事業の後ろ盾になってくれるという当初の楽観的予想を覆すような信長のその後の傲慢な言動に苛立った彼らの勢力が、魔王と化した信長をどこかで葬り去ろうと画策した可能性も浮上してくるわけである。


そのように信長が己の神格化を目論んだ結果どうなったか。

フロイスの次のような手厳しい記述が続いている。
信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」(フロイス・日本史)と、本能寺の変での最後を記している。


これら一連のイエズス会の内部文書や報告書簡を見ていると、奇しくもこれは同時代の16世紀イタリア戦国時代の外交官として生き抜いたマキャヴェリが著した「君主論」の政略的記述内容にそのまま通じるものがある。

イエズス会の宣教師は、布教の為には手段を選ばなかったということであり、当時のヨーロッパ人らは皆似たような戦略的発想をしていたことが窺えて非常に興味深いところである。





本能寺の変を真横から考える(1)

何故に光秀の戦略は潰えたのか (2)

信長は家康の暗殺を企んでいたのか(3)

イエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは(4)

何故光秀は信長に反逆したのか(5)

明智光秀の謀反の真相とは(6)

徳川家康は謀反の光秀主従をどう評価したのか(7)


光秀の戦略と大きな誤算とは何か(8)


細川家の対処から見えてくるものとは何か(9)



参考資料:
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
戦国群雄伝 信長 秀吉 毛利 世界文化社 1996年
戦国京都・王城の地150年の英雄たち 1994年 学研
「戦国武将の参謀と異形の頭脳集団」 歴史と旅  秋田書店 1999年
「徳川創世記 家康・秀忠・家光の野望」歴史読本 1998年
「戦国武将一〇四傑」 別冊歴史読本94 新人物往来社 1998年
「秀吉天下人への道」 歴史読本 新人物往来社  1995年
歴史群像 明智光秀の野望 1992年12月号 学研
日本史史料集 笹山晴生 五味文彦 吉田伸之 鳥海靖 山川出版社 1994
日本史用語集 全国歴史教育研究協議会編 山川出版社 1994
図説日本史 啓骼ミ 1999
裏千家茶道のおしえ 千宗室(著) 日本放送出版 1979
「堺」豊田武(著) 至文堂 1957
「戦国武将ものしり事典」 奈良本達也監修 初版主婦と生活社  1993
戦国史新聞・乱世をスクープ! 戦国史新聞編纂委員会編 日本文芸社
「不思議日本史・歴史のウラが見えてくる」 南條範夫監修 主婦と生活社 1988 
信長と家康: 清須同盟の実体 (学研新書)
戦国の軍隊: 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢
織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代 (ソフトバンク新書)
信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)
戦国関東の覇権戦争 (歴史新書y)
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 (中公新書)
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)
信長と消えた家臣たち―失脚・粛清・謀反 (中公新書)
関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは? (歴史新書y)
長篠の戦い (歴史新書y)
大航海時代叢書〈第11〉日本王国記・日欧文化比較 アビラ・ヒロン (著), ルイス・フロイス (著) 岩波書店 1965

「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店










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2016年04月06日

戦国一の美貌ゆえに悲運に泣いた阿安姫

戦国九州美女伝説の真相(3)

何回かシリーズで書いてきていたのですが、戦国時代の3人目の美女を紹介するのをすっかり忘れていました。

今回は竜造寺氏の美女の3人目、阿安姫こと「お安の方」を紹介します。



戦国時代、肥前国(佐賀)の東方に有力な国人小田氏の居城(蓮池城)があった。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であった。

豪族小田氏の城は肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになる。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず縁談を持ち掛けてきた。

その相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき十七歳であった。

このときの小田側の反応は意外にも早かった。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたが、お安の方は隆信の娘といっても実子ではなかった。

それでも阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であった。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄であったが、
胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情があった。

義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのだが、お安が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていった。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていた。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信はお安をその道具として使ったことになる。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であった。


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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお安の方の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられる。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていた。

明らかに両者には武力に大差があったし、小田側からみれば戦は避けたいところであった。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずである。

またたく間に婚礼の儀式は整い、竜造寺家から安の方は無事小田家へと嫁いできた。

たしかに小田鎮光が目にした新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのだ。

あまりの美しさに戸惑った鎮光は、当初お安の方を内心警戒するほどであった。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていった。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていった。

竜造寺隆信は虎視眈々とその時期を狙っていた。そしてついに隆信の野望が牙をむくと娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきた。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったが、突如として隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命じてきた。

隆信の弟長信に街道の要衝である蓮池城を戦略的に押さえさせるためであった。

父祖の地を離れることは耐えがたきことであったが、このときの小田鎮光には隆信の命に従うしか手立てがなかった。

妻であるお安の方も間に立って奔走したであろうが、隆信の方針は覆らなかった。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのであるが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と寝返っていくなか、かねてより隆信の仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまう。


kyu03小田鎮光は義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになる。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒した。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との歴史の流れが思い浮かぶところである。

この戦いでは予想外の展開があって、竜造寺軍は隆信の義弟鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げた。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって大友軍を撃破したのである。

そして戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行った。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせた。

竜造寺に反旗を翻したわけであるから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということである。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことであろう。

これに対して隆信は、密かに一計を案じるのである。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせた。

「何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい」

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためた。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行った。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまうのである。(元亀二年(1571年))

お安の方は大きな衝撃を受けて、その場に卒倒するほどであった。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろう。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたということだ。

悲観したお安の方は自害をしようとするが、周りから押しとどめられてしまう。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考える。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのだ。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なかった。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになった。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死することになる。

これで竜造寺は絶えるのである。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったようだ。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招く。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にも関わらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのである。

秀吉の命令は絶対である。

大名の妻とて拒めるものではなかった。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していた。

秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからないのだ。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る時代である。

秀の前は太閤秀吉に拝謁した。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆する。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのだが、その美貌はまったく衰えてはいなかった。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせたとされる。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあった。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされる。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずである。

俗説では、秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいう。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったといわれ、その後波多家はお家断絶になった。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げている。

孤独なまま後に秀の前は佐嘉に戻り、仏門に入って静室妙安尼となった。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説がある。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺である。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なるが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるものがある。


















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タグ:お安の方
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2016年04月03日

上田軍記にみる本当の真田の上田合戦とは

地の利を生かした巧みな攻防戦

天正13年(1585年)、家康が甲斐へ着陣すると真田昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めた。

だが昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にこれを拒否し、さらに離反していた上杉氏の側についてしまう。

家康は昌幸の造反を知ると真田討伐を決意し、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の軍兵を真田氏の本拠・上田城に向けて派遣する。

徳川軍は甲斐から北国街道に進軍し、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開した。

迎える真田方の戦力は約1200人であったと言われ、これに少数であるが上杉の援兵や農民も加わった。

双方には圧倒的な戦力の違いがあった。

真田昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城し戦闘態勢を整えた。

上田城に攻め寄せた徳川方は、勢いに任せて一気に二の丸まで攻め込むがここで真田方に反撃を受け撃退される。

更に後退の際に城方の猛烈な追撃を受けるとともに、戸石城から出撃した信幸軍も横合いからも攻め掛かられて徳川方は撤退し始める。

壊乱した徳川方への追撃戦には支城の矢沢勢も加わり、神川付近で多数の将兵が追い詰められて溺死したとされる。

この真田方の巧みな戦法により、徳川方は1300人もの戦死者を出し大敗した。



5分でわかる第一次上田城の戦い

 







「最強の父 - 真田昌幸」 その歴 (2/4)









講演会「上田軍記にみる真田家と二度の上田合戦」


























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タグ:真田一族
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2016年04月02日

加藤清正の熊本城ば観てみんね

クマもんはいなぞ熊本城!?

熊本城に25年ぶりに行ってきました。

本当にここを訪れるのは久しぶりです。

熊本にはよく行きますし、そのたびに熊本城も目にはします。

熊本城はこれまで10回以上訪れていた所なのですが、何故かここ25年間行く機会がありませんでした。





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三の丸駐車場横の石垣。

熊本城の石垣、石組みの形が好きです。






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さっそく石段を登っていきます。





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場内は広いです。





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外堀が見えてきました。





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堀といっても水がありません。
カラ堀です。

ここは歴史的には有名な史跡です。





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ここは西南戦争のとき篭城した家族の避難場所であり、負傷兵が介護された跡地でもあります。




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ちょっとしたグラウンドほどの広さがあります。





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熊本城は銀杏城といわれるぐらいイチョウの木が多いのですが、サクラの木も多数見かけました。




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外堀の水門はすっかり閉じられてしまっているようです。




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城内に入ると広々とした広っぱがありました。






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長い石垣が続いています。






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上がり口があるのですが、狭間から銃口がこちらを狙っています。

本来ここは城の要所になるわけで、ここだけでも狭間の数をさらに3,4段に構えて守りを固めるべきだと思いました。





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門をくぐると本丸がすぐそこに見えます。





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ここも広場になっています。





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清正流の武者返しの石垣です。





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青空に天守閣が見事に映えて見えます。





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城内に通じる通路です。

ここは本来薄暗くしていて、ここまで侵入してきた敵兵を襲う仕組みです。

25年前にもここを通ったかの記憶はありませんでした。

ここは新たに改修されていたのかもしれません。




いよいよ城内に入っていきます。




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先ほどの広場からさらに通路を通ってぐるっと回って外に出るとまた広場がありました。

ちょうど城の反対側に出ました。





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ようやく本丸への入り口がありました。

本丸の階段を上っていくと、眺望が気になります。





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熊本市内が見渡せます。






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真下の広場の様子も一望できます。




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真前の建物では抹茶が振舞われていました。






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天守閣の真下では何かの催しがあるらしく、ブルーのステージの前に席を取っている人たちがいました。






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ようやく新しい熊本城本丸御殿も見学できました。

本丸御殿内は土足禁止です。

靴はビニール袋に入れていかなくてはなりません。




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まず最初に入ったところは大御台所(おおおんだいどころ)でした。

天井は吹き抜けになっていて、煙が外へ排出されるようになっていました。

天井部分は、長さ12m直径1mの赤松の木が使われているということでした。





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本丸御殿大広間の接見の間にも入ってみました。

手前から「鶴之間」「梅之間」「櫻之間」「桐之間」、さらに藩主の部屋である「若松之間(わかまつのま)」、そしてその奥が「昭君之間」(しょうくんのま)です。


公開されたばかりの頃は、この本丸御殿大広間内部の写真撮影が禁止だたそうです。

いまでも内部の「フラッシュ撮影」は禁止です。




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ここが昭君之間です。






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立派な襖絵が並んでいます。

ここでも写真撮影はフラッシュ禁止でした。





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天井絵も見事です。






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正面の床の間の絵も贅沢な金泥が使われています。

中国の有名な「王昭君」という絶世の美女の物語が描かれています。






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戸板に描かれた絵も展示されていました。

下絵なのかも知れません。





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何故か分かりませんが、「昭君之間」の直ぐ後にある数寄屋(茶室)は公開されていませんでした。

































    denden 














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    タグ:攻城戦
    posted by モモちゃん at 10:44| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする