2018年01月28日

美人ゆえの悲運に泣いた竜造寺家の阿安姫

戦国九州美女伝説の様相(3)

戦国時代の美女というと織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘であり、武将細川忠興の妻であったガラシャ夫人がつとに有名なのですが、同じ戦国時代にあって忘れてならない特筆すべき美女の一人として九州の戦国大名竜造寺隆信の娘であった阿安姫がいます。

阿安姫こと「お安の方」ともいわれますが、彼女にも過酷で数奇な運命が待っていました。


戦国時代、九州の肥前国(現在の佐賀)の東方(現福岡県・筑後地方)に有力な国人であった小田氏の居城(蓮池城)がありました。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であり、軍事的にも要となる土地でした。

当時の北部九州の勢力図でいうとこの豪族小田氏の城は、肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになります。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず手始めに懐柔策として縁談を持ち掛けてきたのです。

その縁談の相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき彼女は十七歳でありました。

当然のこと、小田氏には多少の警戒心はあったと思われますが、この縁談に対して小田側の反応は意外にも早かったといいます。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたのですが、実は竜造寺氏の阿安姫は隆信の娘といっても実子ではありませんでした。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄でしたが、胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情がありました。

このように阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であったのです。


阿安姫は、義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのですが、阿安姫が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていました。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていたのです。

そのような背景からいくと、この縁談は両家にとっては好ましいもののようにみえますが、これは明らかな政略結婚そのものだったのです。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を巧妙に取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信は阿安姫をその道具として使ったのです。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であったわけです。


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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったのですが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお阿安姫の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられるのです。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていたことも確かです。

明らかに両者には武力に大差がありましたし、小田側からみれば不利な戦は避けたいところであったのです。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずです。

その後またたく間に両家の婚礼の儀式は整い、竜造寺家から阿安姫は無事小田家へと嫁いできました。

たしかに小田鎮光が目にした阿安姫こと新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのです。

あまりの美しさに戸惑った鎮光や小田家の者は、当初お安の方を内心警戒するほどであったといいます。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていきました。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていきました。

しかしながら、一方の竜造寺隆信は虎視眈々とその調略の時期を狙っていました。

そしてついに隆信の野望が牙をむくと、娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきたのです。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったのですが、突如として隆信は鎮光に領内の多久の梶峰城に移るよう命じてきました。

隆信の狙いは弟長信に街道の要衝であった蓮池城を戦略的に押さえさせるためであったのです。

ここは小田の勢力を一気に抑え込もうとしたともとれます。

父祖の地を離れることは耐えがたいことでしたが、このときの小田鎮光には義父隆信の命に従うしか手立てがなかったのです。

妻であるお安の方も間に立って奔走したのですが、隆信の方針は覆ることはありませんでした。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのですが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と大友方に寝返っていくなか、かねてより隆信のこうした仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまいます。

当初攻め込んできた大友勢は有利に戦いを進めており、緒戦で竜造寺軍は押され気味でした。

そうした戦況を観て、鎮光は目ざとく大友勢側に就いたのです。


kyu03この場合にしても小田鎮光自身が竜造寺を見限ったというよりは、小田家一族一党で協議の上で最終決断されたことに従ったに過ぎません。

結果的には当主である小田鎮光は、義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになります。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒します。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との悲劇的な歴史の流れが思い浮かぶところです。

その後この戦いでは予想外の展開があって、押され気味であった竜造寺軍は隆信の義弟である鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げたのです。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって、ついには大友軍を撃破してしまったのです。

そしてこの戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行いました。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせました。

竜造寺に反旗を翻したわけですから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということです。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことになります。

これに対して隆信は、内心密かに一計を案じるのです。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせました。

何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためました。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行ったのです。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまいました。(元亀二年(1571年))

お安の方は夫の死を知って大きな衝撃を受け、その場に卒倒してしまいました。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろうと思います。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたのでした。

悲観したお安の方はその場で自害をしようとしますが、周りから押しとどめられてしまいます。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考えるのです。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのでした。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なませんでした。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになりました。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死してしまいます。

これで肥前での竜造寺の勢力は衰えてしまうのです。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったのです。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招くこととなります。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にもかかわらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのです。

秀吉の命令は絶対でした。

大名の妻とて拒めるものではなかったのです。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していました。

天下人秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからない状況でした。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る過酷な時代です。

秀の前は太閤秀吉に拝謁しました。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆しました。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのですが、その美貌はまったく衰えてはいなかったのです。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、その場で秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせました。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあったのです。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされます。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずでした。

俗説では、そのとき秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいいます。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったわけで、その後波多家はお家断絶になってしまいました。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げてしまいます。

こうした悲運な経緯の後、孤独なまま秀の前は生地の佐嘉に戻り仏門に入って静室妙安尼といわれるようになりました。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説が残っています。事実かどうかはわかりません。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあります。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なりますが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるところがあります。

















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posted by モモちゃん at 06:47| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月28日

戦国の女性はかくも強かった?!

美女に押しかけられた話!

戦国時代の肥前の龍造寺隆信といえば、きわめて残忍な武将であったと伝えられている。

その龍造寺隆信の母といわれるのが、慶ァ尼(1509〜1600)である。

慶ァ尼は本家村中龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ嫡子隆信を産んだ。

九州も戦国真っただ中にあったが、隆信は幼年期には寺に預けられたため一時期僧籍に身を置いていた。

天文14年(1545年)に夫であった周家が殺されたため慶ァ尼は出家した。

さらにそれに続いて龍造寺本家一族が謀略により殺されてしまうという悲劇が突然襲い、結果的には生き残っていた慶ァ尼の息子隆信が龍造寺本家そのものを継ぐこととなる。

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成り行きで本家を継いだこともあって信隆の下では本家家臣団のまとまりも覚束ない状況にあったため、慶ァ尼は献身的に息子信隆を背後から補佐し続けなくてはならなかった。

息子信隆は僧籍にあったとはいえ、もとより武将としての器量も兼ね備えていたのであるが、母慶ァ尼からみると次第に信隆には危うい部分があることに気付き始めていた。

大将として武将を束ねるのに寛容さに欠けるだけでなく、部下や国人に対するのにあまりにも猜疑心が強すぎ配慮に欠けている。

このままでは隆信の代で龍造寺の家は絶えるやもしれない。

賢明な慶ァ尼は、隆信の冷徹な性格や粗暴な一連の所業を知るにつけ母として常々憂慮していたのである。

そのことがあって慶ァ尼は、はやくから優秀な補佐役となる人物を隆信の側に置くべく陪臣の中からそうした人材を探し求めていた。

そのような折、隆信の従兄弟筋に当たる年下の鍋島直茂が14歳当時から隆信の近習の一人として仕えていたのであるが、あるときその実直な直茂の気質に慶ァ尼の目がとまった。

直茂は、武将の子らしく誠実味があって周囲の者に臆するところがない。

乱暴者の信隆にも機転のきく直茂はよく仕えたし、信隆とも馬が合って格別可愛がられてもいた。

しかも直茂は武勇にも秀でていて、戦場でも殊のほか戦上手でその都度連戦連勝の武勲をあげており、すでに家中でも名将との声も上がっていた。

もとより鍋島家は龍造寺の陪臣として仕えてきた家であり、龍造寺家が存亡の危機にあった時代も常に支え続けた忠臣であった。しかも直茂の父・鍋島清房は若い信隆の後見役を務めていた。

龍造寺に鍋島父子が味方し続ける限り、他の陪臣も国人らも離れることはないはずであると慶ァ尼は考えた。

慶ァ尼は息子信隆が継いだ龍造寺家の支配を盤石のものにするには、この鍋島父子の助力が是が非でも必要であることをこのとき あらためて確信したのであった。

そこで慶ァ尼は一計を案じた。


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(画像は佐賀城内)


直茂の父・鍋島清房が登城した折、慶ァ尼が自ら出向いて彼を呼び止めたのである。

慶ァ尼はかしこまる清房に向かって親しげに話しかけた。

清房殿は先年つれあいを亡くされたと聞いておりますが、まだ幼子もいてさぞや男所帯で難儀されておられることでしょう。そうそうここは私がよい後添えを捜して進ぜましょうぞ」と言った。

慶ァ尼は、龍造寺家の重臣として父子共々支えてくれている鍋島家のことを気に掛けていることをここで自らの口で伝えてみせたのであった。

慶ァ尼は周囲からは龍造寺後家といわれていたが、当時47歳でありながらその容色はいまだ衰えはいなかった。

このとき艶然と優雅に微笑みかける慶ァ尼を目の前にして、清房自身は恐れ入って心中戸惑うばかりであった。

44歳の男盛りの鍋島清房にとって、主家の後家とはいえ慶ァ尼はまぶしく見えて仕方なかった。

従来より総じて肥前龍造寺家の女性は美形であるといわれ、遠国にまでその噂は広まっていたほどであった。

そのように主君の母堂から新しい妻を迎えた方が良いと諄々と説き伏せられ、清房は一方的にその気にさせられてしまっていた。

話は突然のことであったが、清房にしてみれば相手が慶ァ尼だけに強いて断ることも憚れたのである。

慶ァ尼の勢いに押された清房は、ここは相手がいることだとして顔合わせ(見合い)だけでも応じるという約束を終いには慶ァ尼としてしまったのだった。

そのように言い含められてしまったともいえよう。

清房にしてみれば突然の話であるから、とにかくこの成り行きには唐突であったこともあり戸惑うばかりであった。

それから数日後、鍋島清房の屋敷の前に前触れもなく花嫁行列の籠がとまった。

このとき清房が在宅中であったのかどうか、また清房が自ら花嫁を門外まで出迎えたのかどうかも分からない。

突然の出来事に鍋島家中が混乱したことだけは間違いあるまい。

何故に花嫁の籠が来たのか?

清房自身はいまだ話にあった婚儀相手との顔合わせそのものを行ってはいなかったのであるから、この突然の花嫁行列にはとにもかくにも驚愕したはずである。

白無垢の花嫁は籠から降りると案内も請わずに屋敷内に自ら入っていったから、家中の者も戸惑い驚き呆れたはずである。

籠から降りた花嫁はそのまま奥の座敷まで進んでいって清房と顔合わせしたかどうかは定かではないのだが、すでに花嫁衣装で屋敷に入ったことは傍目にも婚儀が成ったものとここては受け取らざるを得ない。

こうした展開に当の清房はすべて慶ァ尼の指図との認識があったであろうが、とにかくこのいきなりの展開にはさすがに心底驚いたはずである。

清房からみれば、まったく事前連絡もないままに事は進められたのだ。

家中が右往左往する中で、清房にはさらに驚愕する事実が判明する。

その肝心の花嫁というのが、後添えを真剣に勧めたあの慶ァ尼本人であることが分かったから清房は二度びっくりである。

この展開に清房の狼狽する顔が目に浮かぶようである。

清房は恐れ入ってここは必死に辞退したであろうが、慶ァ尼の決意は固くそのまま婚儀は成立してしまったのである。

慶ァ尼という女性は常に胸に懐剣を忍ばせていることでも知られていたが、恐らくはこの婚儀が思い通りに成らなければ彼女自身の恥辱であるからここで命を絶つと言い切って清房の前でごり押ししたのではないかとも想像される。

このとき一方的に押しかけてきた慶ァ尼は、それほどに必死であったのだといえる。

何せ竜造寺家の命運が掛かっているとして、慶ァ尼の思いは尋常ではなかったのだ。

これによって正式に慶ァ尼は直茂の継母となり、主君龍造寺信隆とは義兄弟となったのである。

結果、慶ァ尼の狙い通りに龍造寺の盤石の態勢がこれ以降成ったのであった。

後年隆信が島津との戦に敗れ討ち死にした時、直茂を肥前統治の後継者に推したのもこの賢明な慶ァ尼であった。

母は強し、されど慶ァ尼はさらに強しというところである。

この慶ァ尼の話は後世つくられたものだという説もあるのだが、かってこの経緯を伝え聞いた徳川家康が機会あるごとに慶ァ尼の思い切った行動を称賛したとされることから、あながち作り話ではないといえよう。













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posted by モモちゃん at 07:26| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月07日

「日本人奴隷貿易」ノンフィクションを出版しました!

本日、歴史ドキュメントを出版しました。

私事ですが、これまで書き溜めてきた原稿を整理していたのですがようやくアマゾンから書籍として出すことが出来ました。

戦国時代に題材と取った特殊な分野のドキュメント作品なのですが、これまで10年近くブログなどで単発的に発表してきたものをまとめて、さらに近年新たに出てきた史料を加えて完成させたものです。

本書は400年以前の海外への日本人拉致事件ともいえる奴隷貿易をテーマに書き上げました。

日本ではほとんど知られてはいませんが、アフリカだけではなく当時は大航海時代の美名の下で世界的なビジネスモデルとして奴隷貿易がはびこり、極東アジア地域にまで拡散していました。

その時期、まさに日本は戦国時代真っ只中だったのです。

そうした戦乱の時代を背景にして、過酷な歴史が隠れたまま展開していたのだともいえます。

当方は立場上、アカデミックな学閥も政治も宗教問題も一切関係ありませんので、何の偏見もなく自在に考えたままに本稿を書き進めてましたので、その点は十分ご理解ください。

ほんの一部分を書き著したつもりでしたが、当初の予想を超えて本著は四百ページを超えるものになってしまいました。

戦国の日本人奴隷貿易を扱った重い内容ですが、南蛮からの鉄砲とキリスト教の伝来を中心に時代を切り取り、その中での西洋と日本とが激突するダイナミックな歴史の流れを紹介しています。

歴史というのは単発の事件を並べただけでは解明できないものであって、すべての事象、事件というものは個々の人間を介して見えない部分で繋がっているものです。

歴史にはその時代に生きた人間,証人となる確かな人物が登場しなくてはなりません。

そこで登場する日本人として、尾張の浪人として九州長崎に流れ込んできたキリシタン村山等安の数奇な半生を織り込んでみました。

等安は卓越した才覚によって貿易商として巨万の富を手にしただけではなく、長崎代官の役職にまで上り詰めますが、そこには政治絡みの権力闘争やキリシタンとしての宿命的な葛藤がありました。

本書の中では彼を取り巻く人物として、当時の権力者であった豊臣秀吉や徳川家康・秀忠、戦国大名の高山右近、大村喜前、天正遣欧少年使節千々石ミゲル、さらには宣教師ジョアン・ロドリゲス神父、デ・モラレス神父、貿易商末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、イエズス会司祭荒木トマス、背教者不干斎ハビアンといった多くの人物が次々と登場してきます。

とにかく読んでいただければ、その面白さはご理解いただけると思います。



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posted by モモちゃん at 21:21| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

戦国時代は尾張弁が主流だった?!

是非!名古屋弁を標準語に

かっては秀吉が日本六十余州を統一し、その支配下に置いたのだから尾張弁辺りが標準語になっていたとしてもおかしくはないところである。

秀吉の天下が彼一代で終わった短命政権であったことで、この標準語の流れそのものは途中で頓挫してしまったのだと思われる。

名古屋弁は言い回しが微妙な変化があって面白い。

聴いていて何だか元気になる感じかする。

女性が使うととても愛嬌があっていい感じである。

戦国の敵方との交渉の場では説得力が発揮されて、調略にはもっとも適していたのではなかろうか?

むしろ平和時には向かないのかもしれない。






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2017年08月02日

戦国の桶狭間で起こっていたこととは?!

桶狭間に転がった桶とは?

「おわい屋」という語彙を始めて目にしたのは三島由紀夫の文学作品「仮面の告白」の文中であった。

いまや放送禁止用語であり、死語となったこの語彙はおそらく関東周辺地域の古語であったのかもしれない。

「おわい屋(汚穢屋)」とは、便所の汲み取りを職業とする専門用語である。

現代の上下水道完備の若い世代には、この一昔前の便所の汲み取りということさえ理解が及ばないことであろう。

それこそむかしむかしの話になる。

庭の裏木戸があいて誰かが入って来た。小母さんは又,口を袂で押さえて,「ほら,来た来た豊田さん,貞子も。早く早く」といって自分から先に家へ入ってしまった。私も何が何だかわからないで,小母さんの後につづいてお勝手から入った。小島さんがお勝手と廊下をしめた。小島さんに,「何あに」と聞くと,小島さんは,「おわい屋,おわい屋」と言って笑った。…… ガボッガボッとおわいを汲む音が聞こえる。…… 手拭でほおかむりをした,おわい屋さんは,天秤棒をキシキシいわせて,こい桶をかついで出て行くところだった。うす黄色い水が汲み取り口から,点々と三四ヶ所たれていた。小母さんは,「まあ,だらしのないおわい屋さん」と言ってまゆをしかめた。…… 小島さんは小声で,「家のお母さんとっても綺麗好きなのよ。だから,おわい屋さんやなんかきて,さわった所は皆ふかせるのよ」と壜の蓋をしながら言った。』「綴方教室」(「綺麓好き」)(豊田正子著,木鶏社刊)


汚穢屋とはいっても、これはれっきとした歴史のある職業であり、江戸時代以前から重宝されていた。

長屋でも汲み取りの人が回ってきてそうした屎尿を回収していったわけで、その際には回収量に応じて大家にはいくばくかの金銭の支払いがあったのである。

いわゆる臨時収入というやつである。

汚穢屋は少なくとも一般庶民の衛生管理はもとより、農事に欠かせない堆肥をひろく回収斡旋していたことになるわけで、これは戦国時代からその活躍が各所で見られたのである。

糞尿から塩硝が生成され始めたときにも、火薬の原材料という軍事物資にも直接かかわっていたわけで、ここから大いに財を成した者も出てきたことがそれとてく伺えてくる。

戦時には欠かせない兵糧運搬や糞尿処理の現場には、意外にも御用商人が関わっていた。

人間が一時に大勢集まればあらゆる商売の機会が生まれてくるわけで、目敏い商人たらがこうした戦時経済の場へ次々と参画していった。

相手が誰であろうと売れる物があれば売る、買い取る物があれば買い叩く。

もとより戦国時代であれば数千から数万の兵員が集団で戦場まで一定期間行軍するわけであるが、その間は厳しい軍律によって統制されていた。

行軍中は私語や勝手に隊列から離れての用便などは禁じられていたわけで、糞尿は指定御用商人が用意した桶にため込まねばならなかった。

事前にそのような取引が専門業者とされていたのだ。

「こちらの隊の方は、この桶にお願いします!」
「桶の外にはお漏らしになりませぬようご配慮ください。満杯の場合はすぐに次の桶をご用意いたします!」


この時代糞尿は肥やしとして農家に高く売れたのであり、そこらに気安く垂れ流すようなものではなかった。

当然戦時には大軍団にはかならず汚穢屋の屋号が入った肥え桶がぞろぞろと後を付いていったのである。

こうした糞尿回収が戦時経済では機能的に働いていたことになる。

こうした習いがあってのことか、笑い話ではなく実際に田舎では「よその土地で小便はするな!小便するときは自分とこの田圃にしろ!」と子供までが親に口うるさくいわれていたのである。

経済に疎い戦国大名はこうした戦場の屎尿処理まで頭が回ってはいなかったようで、野放図に沿道に糞尿を放置していったこともあって近隣住民からは評判が悪かったのである。

糞尿処理がいい加減な武将は、厳しい戦国の時代を生きながらえることは出来なかったのは確かである。

たとえば籠城戦において城内の衛生環境が悪化したことによって悲劇的な結末を招いてしまったのが、能登(石川県)において行われた天正5(1577)年夏の第二次七尾城籠城戦である。

糞尿問題で話題になる事例である。

七尾城は能登畠山氏の居城であったが、上杉謙信により包囲され、その周辺の領民1万5千人あまりが城内に避難してきていたときのことである。

七尾城は山城であり、山全体に郭が設けられかなりの人数を収容できる大きな城ではあったが、ここでは肝心の大人数分の飲料水の確保と屎尿処理がうまく対応できてはいなかった。

気温の高い夏場、大量の糞尿が城内に溜まっていったことで、井戸がたちまち汚染されてしまったのだ。

籠城戦で飲料水が汚染されてしまえば致命的である。

これが災いして瞬く間に城内に疫病が発生すると、ついには頼るべき城主が早々に倒れてしまう。

表向きは籠城戦ではあるが、結局のところは自分らの溜まりにたまった屎尿が原因であえなく落城に至ったということである。

これが意外過ぎる戦国の糞尿譚なのである。


戦国時代の屎尿処理の事実を知ったとき私などはその合理性に感嘆せずにはおられなかったわけであるが、その際ふとある戦国武将のことが思い浮かんだのである。

それは駿河の戦国大名今川義元である。

2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元・今川氏真親子に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で今川本陣を強襲し、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いがつとに有名である。

このとき昼食の支度にかかった今川陣営には、相当数の肥え桶が設営されていたのではあるまいか。

兵員の多くがいくぶん気が緩んだ瞬間であったであろう。

並べられた肥え桶の周りにも大勢集まっていたはずである。

そこを織田軍団が急襲した。

今川勢は逃げまどい大混乱に陥る。

この間に今川義元は討ちとられ大敗するのである。

それこそ織田勢に攻め込まれた桶狭間の戦場跡には、放置されたままの肥え桶があちらこちらに転がっていたことであろう。

桶狭間に肥え桶である。

戦場が、桶狭間とはまさしく言い得て妙である。









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ラベル:桶狭間
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2017年04月04日

世界各地に日本の忍術は広まっていった!

いまや忍者は世界中に居ます!

忍者とは、鎌倉時代から戦国時代、さらに江戸時代に大名や領主に仕え、または独立した職能集団として組織的な諜報活動、戦場での破壊活動、敵国への浸透戦術、暗殺などを担っていたとされる。

もともとは村落単位の自衛組織として発祥してきたもので、その中で特殊な武器を使い戦闘能力を高めていった。

彼らは幼少期から忍者修行をするのであるが、なかには孤児や拉致されてきた児童までもが含まれていたという。

戦時には領主や各地の大名らに忍びの者、ラッパ、スッパとして集団で雇われ、諜報活動や戦闘に度々参加した。

忍者は人間離れした持久力や身体能力が要求されるだけに、その活躍や名称は日本国内にとどまらず広く世界的にも知られている。



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ラベル:諜報活動
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2017年02月23日

戦国大名の政略結婚とはどのようなものか?

戦国九州美女伝説の様相(3)

何回かシリーズで書いてきていたのですが、戦国時代の3人目の美女を紹介するのをすっかり忘れていました。

九州の戦国時代にあって、忘れてならない特筆すべき美女の一人ということになります。

今回は竜造寺氏の美女の3人目、阿安姫こと「お安の方」を紹介します。

他の竜造寺氏の美女同様に彼女にも数奇な運命が待っていました。


戦国時代、九州の肥前国(佐賀)の東方に有力な国人小田氏の居城(蓮池城)がありました。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であり、軍事的にも要となる地でした。

当時の勢力図でいうと豪族小田氏の城は、肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになります。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず手始めに縁談を持ち掛けてきたのです。

その縁談の相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき彼女は十七歳でありました。

当然のこと、多少の警戒心はあったと思われますが、この縁談に対して小田側の反応は意外にも早かったといいます。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたのですが、実は竜造寺氏のお安の方は隆信の娘といっても実子ではありませんでした。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄でしたが、胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情がありました。

阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であったのです。


義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのですが、お安が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていました。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていたのです。

そのような背景からいくと、この縁談は両家にとっては好ましいもののようにみえますが、これは明らかな政略結婚そのもののだったのです。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を巧妙に取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信はお安をその道具として使ったのです。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であったわけです。


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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったのですが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお安の方の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられるのです。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていたことも確かです。

明らかに両者には武力に大差がありましたし、小田側からみれば戦は避けたいところであったのです。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずです。

そのごまたたく間に婚礼の儀式は整い、竜造寺家から安の方は無事小田家へと嫁いできました。

たしかに小田鎮光が目にした新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのです。

あまりの美しさに戸惑った鎮光は、当初お安の方を内心警戒するほどであったといいます。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていきました。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていきました。

竜造寺隆信は虎視眈々とその調略の時期を狙っていました。

そしてついに隆信の野望が牙をむくと娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきたのです。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったのですが、突如として隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命じてきました。

隆信の狙いは弟長信に街道の要衝である蓮池城を戦略的に押さえさせるためであったのです。

ここは小田の勢力を抑え込もうとしたともとれます。

父祖の地を離れることは耐えがたきことであったが、このときの小田鎮光には隆信の命に従うしか手立てがなかったのです。

妻であるお安の方も間に立って奔走したのですが、隆信の方針は覆ることはありませんでした。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのですが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と寝返っていくなか、かねてより隆信のこうした仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまいます。


kyu03小田鎮光は義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになります。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒します。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との歴史の流れが思い浮かぶところです。

この戦いでは予想外の展開があって、押され気味であった竜造寺軍は隆信の義弟である鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げたのです。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって大友軍を撃破してしまったのです。

そしてこの戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行いました。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせました。

竜造寺に反旗を翻したわけですから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということです。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことになります。

これに対して隆信は、内心密かに一計を案じるのです。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせました。

「何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい」

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためました。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行ったのです。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまいました。(元亀二年(1571年))

お安の方は大きな衝撃を受けて、その場に卒倒してしまいました。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろうと思います。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたのでした。

悲観したお安の方は自害をしようとしますが、周りから押しとどめられてしまいます。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考えるのです。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのでした。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なませんでした。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになりました。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死してしまいます。

これで竜造寺の勢力は絶えてしまうのです。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったのです。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招くこととなります。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にも関わらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのです。

秀吉の命令は絶対でした。

大名の妻とて拒めるものではなかったのです。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していました。

秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからない状況でした。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る過酷な時代です。

秀の前は太閤秀吉に拝謁しました。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆しました。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのですが、その美貌はまったく衰えてはいなかったのです。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせました。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあったのです。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされます。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずでした。

俗説では、秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいいます。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったといわれ、その後波多家はお家断絶になってしまいました。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げてしまいます。

こうした悲運な経緯の後、孤独なまま秀の前は佐嘉に戻り、仏門に入って静室妙安尼といわれるようになりました。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説が残っています。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあります。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なりますが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるところがあります。












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2017年02月15日

戦国の美女は最強の女傑でもあった?!

義母は美し過ぎる女傑であった!

前回紹介した通り、龍造寺隆信が娘婿一族を滅ぼすとは戦国の世とはいえあまりにも理不尽な所業であった。

ここにも隆信という武将の残忍さが表れているといえる。

そして今回紹介するのが、その龍造寺隆信の母であった慶ァ尼(1509〜1600)である。

慶ァ尼は本家村中龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ嫡子隆信を産んだ。

九州も戦国真っただ中にあり、隆信は幼年期には寺に預けられたため一時期僧籍に身を置いていた。

天文14年(1545年)に夫であった周家が殺されたため慶ァ尼は出家した。

さらにそれに続いて龍造寺本家一族が謀略により殺されてしまうという悲劇が突然襲い、結果的には生き残っていた慶ァ尼の息子隆信が龍造寺本家そのものを継ぐこととなる。

成り行きで本家を継いだこともあって信隆の下では本家家臣団のまとまりも覚束ない状況にあったため、慶ァ尼は献身的に息子信隆を背後から補佐し続けなくてはならなかった。

息子信隆は僧籍にあったとはいえ、もとより武将としての器量も兼ね備えていたのであるが、母慶ァ尼からみると次第に信隆には危うい部分があることに気付き始めた。

賢明な慶ァ尼は隆信の冷徹な性格や粗暴な一連の所業を母として憂慮していたのである。

そのことがあって、慶ァ尼ははやくから優秀な補佐役となる人物を隆信の側に置くべく陪臣の中から探し求めていた。

そのような折、隆信の従兄弟筋に当たる年下の鍋島直茂が14歳当時から隆信の近習の一人として仕えていたのが、あるとき慶ァ尼の目にとまった。

乱暴者の信隆にも機転のきく直茂はよく仕えたし、信隆とも馬が合って可愛がられてもいた。

しかも直茂は武勇にも秀でていて、戦場でも殊のほか戦上手でその都度連戦連勝の武勲をあげていた名将でもあった。

もとより鍋島家は龍造寺の陪臣として仕えてきた家であり、龍造寺家が存亡の危機にあった時代も常に支え続けた忠臣であり、しかも直茂の父・鍋島清房は若い信隆の後見役でもあった。

龍造寺に鍋島父子が味方し続ける限り、他の陪臣も国人らも離れることはないはずであった。

慶ァ尼は息子信隆が継いだ龍造寺家の支配を盤石のものにするには、この鍋島父子の助力が是が非でも必要であることをこのとき確信した。

そこで慶ァ尼は一計を案じた。


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(画像は佐賀城内)


直茂の父・鍋島清房が登城した折、慶ァ尼が自ら出向いて彼を呼び止めたのである。

清房殿は先年つれあいを亡くされたと聞いておりますが、まだ幼子もいてさぞや男所帯で難儀されておられることでしょう。そうそうここは私がよい後添えを捜して進ぜましょうぞ」といった。

慶ァ尼は、龍造寺家の重臣として父子共々支えてくれている鍋島家のことを気にかけていることをここで示したのであった。

慶ァ尼は周囲からは龍造寺後家といわれていたが、当時47歳でありながらその容色はいまだ衰えはいなかった。

このとき艶然と優雅に微笑みかける慶ァ尼を目の前にして、清房自身は恐れ入って心中戸惑うばかりであった。

44歳の男盛りの鍋島清房にとって、主家の後家とはいえ慶ァ尼はまぶしく見えて仕方なかった。

従来より総じて龍造寺家の女性は美形であるといわれ、遠国にまでその噂は広まっていたほどであった。

そのように主君の母堂から新しい妻を迎えた方が良いと諄々と説き伏せられ、清房は一方的にその気にさせられてしまっていた。

話は突然のことであったが、清房にしてみれば強いて断ることも憚れた。

慶ァ尼の勢いに押された清房は、ここは相手がいることだとして顔合わせ(見合い)だけでも応じるという約束を終いには慶ァ尼としてしまったのだった。

清房にしてみれば突然の話であるから、とにかくこの成り行きには戸惑うばかりであった。

それから数日後、鍋島清房の屋敷の前に前触れもなく花嫁行列の籠がとまった。

このとき清房が在宅中であったのかどうか、また清房が自ら花嫁を出迎えたのかどうかも分からない。

清房自身はいまだ話にあった顔合わせを行ってはいなかったのであるから、この花嫁行列には驚愕したはずである。

白無垢の花嫁は籠から降りると案内も請わずに屋敷内に入っていったから、家中の者も驚き呆れたはずである。

籠から降りた花嫁はそのまま奥の座敷まで進んでいって清房と顔合わせしたはずであるが、すでに花嫁衣装で屋敷に入ったことは婚儀が成ったものとここては受け取らざるを得ない。

こうした展開に当の清房はすべて慶ァ尼の指図との認識があったであろうが、とにかくこのいきなりの展開には心底驚いたはずである。

まったく事前連絡もないままに進められたのだ。

さらにその花嫁が、後添えを真剣に勧めた慶ァ尼本人であることが分かったから二度びっくりである。

清房の驚きの顔が目に浮かぶようである。

清房は恐れ入ってここは必死に辞退したであろうが、慶ァ尼の決意は固くそのまま婚儀は成立してしまったのである。

慶ァ尼という女性は常に胸に懐剣を忍ばせていることでも知られていたが、恐らくはこの婚儀が思い通りに成らなければ彼女自身の恥辱であるからここで命を絶つと言い切って清房の前でごり押ししたのではないかとも想像する。

このときの慶ァ尼はそれほどに必死であったといえる。

これによって正式に慶ァ尼は直茂の継母となり、主君龍造寺信隆とは義兄弟となったのである。

慶ァ尼の狙い通りに龍造寺の盤石の態勢が成ったのである。

後年隆信が島津との戦に敗れ討ち死にした時、直茂を肥前統治の後継者に推したのもこの慶ァ尼であった。

母は強し、されど慶ァ尼はさらに強しというところである。

この慶ァ尼の話は後世つくられたものだという説もあるが、この経緯を伝え聞いた徳川家康が慶ァ尼の思い切った行動を機会あるごとに称賛したとされることから、あながち作り話ではないといえよう。














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2017年02月07日

戦国の幻の美女コンテスト(1)

戦国九州の美女伝説(1)

通常戦国の美女といえばまずは織田信長の妹お市の方や明智光秀の娘細川ガラシャ、さらには絶世の美女と言われた秀吉の側室松の丸殿こと京極竜子らがその筆頭に挙げられるであろう。

これらの定説として登場する美女は主に近畿圏がその舞台であって、残念なことに当時の西国や九州地方まで網羅した評価ではなかった。

つまりは現代一般に定説となっている部分は、いわゆる戦国の相対的な地政学的状況下での評価ということになる。

日本全国にわたって美女が選出された結果ではないということである。

当然のことであるが、むしろ全国レベルでみれば日本各地、それも都から遠く離れた地方にも多くの美女が居たはずである。

たとえば地方で限って言えば松山城主であった三村家親の娘鶴姫(常山城主、上野隆徳の妻)が特に有名だし、九州にも多々美女として注目された女性たちがそれこそ数多く居たのである。

秀吉も九州に遠征した際には九州の美女には相当に驚いた様子であったし、あらためて制圧した九州での美女狩りを命じたと言われるほどである。

戦国九州であれば、美女としてまずその筆頭に必ず登場してくるのがこの肥前の覇者龍造寺家の女性たちである。

今回は九州ご当地シリーズで紹介していきたい。


かって戦国九州の肥前に龍造寺隆信という武将が居た。

豊後の大友や薩摩の島津と勢力争いを繰り返していたが、自からは五州二島の太守と自負していただけに、周りからは肥前の熊と恐れられていた。

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風貌が威風堂々とした巨体であり、見る者に黒クマのような印象を与えたのである。

隆信は幼少期には僧籍にあったが、戦国の例にもれず後年還俗して滅亡寸前の家督を継ぐことになった。

当初、なかなか家臣団が一つに纏まらず苦汁を舐めるような時期もあったとされる。

隆信は体格、膂力が人並み以上に優れていただけではなく、博覧強記の頭脳と調略面でもあれこれと智謀が働いただけに、次第にその勢力を急拡大させていった。


だが、生来の猜疑心の強い性格と残忍さがあって、従属していた国人もたびたび離反した。

その非道な振る舞いや傲慢さは戦国武将の筆頭織田信長にどこかしら似ていなくもないのだが、いまひとつ人気がない悲運な武将ではあるのだ。

意外にもそうした戦国の龍造寺家には、他国にも知れ渡るような美女が3人いたといわれる。

しかもその3人ともみな龍造寺隆信とのかかわりがあった。


@龍造寺隆信の娘、玉鶴姫といわれる女性。

A龍造寺隆信の義理の娘、安の方(於安・秀の前)。

Bそして隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)の3人である。

肥前の黒熊といわれる隆信の下で、@とAの二人の姫様はすくすくと美しく育ったのは確かである。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたが、実はそのうちの一人A安の方は隆信の娘といっても実子ではなかった。

本家筋である龍造寺胤栄が若くして亡くなったため、隆信がその後を養子として継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘が隆信の下に引き取られたわけである。

安の方は当時3歳であったという。

後に二人の娘たち、玉鶴姫と安の方は隆信の手によって有力な国人との政略結婚の道具とされた。

戦国時代の決まり事ではあったが、これが彼女らの悲劇の始まりであった。

それまで龍造寺家は二代に渡り滅亡寸前まで追い詰められたが、その度に筑後柳河の蒲池鑑盛の庇護よにり家が存続出来たという経緯もあって、隆信は娘の玉鶴姫をその大恩ある蒲池鑑盛の嫡子鎮漣に嫁がせており、当然そこには実質的にも両家が親戚関係にあったことは確かである。

ところが隆信は戦略的にも要害の地である筑後柳河を我がものにせんと企み、一方的に2万の兵をもって攻めよせた。

鎮漣は柳河城の籠城戦で巧みにこれを防戦し龍造寺を一旦は撃退したが、終には親族の仲介で隆信と講和せざるを得なかった。

龍造寺隆信はその後も執拗に策を弄して鎮漣を欺き、肥前に誘い出して騙まし討ちにしたのである。

鎮漣は当初隆信の誘いを警戒していたし妻の玉鶴姫も父隆信の企みを予感して夫を必死に引きとめたが、義理がたい鎮漣自身は終には覚悟して義父隆信の元へと出立したのであった。

隆信は訪れた鎮漣一行を囲い込み殺害した後、すぐさま柳河に軍勢を差し向け一気に蒲池鎮漣一族を殲滅してしまった。

このとき蒲池鎮漣の妻だった玉鶴姫は、父隆信の元へ帰ることを拒否しただけでなく蒲池の支城であった塩塚城の近くまで逃れて夫鎮漣の後を追って自害した。

鎮漣と玉鶴姫との間には娘が居たというが、これも非情にも隆信に殺されたという。

たとえあの信長であってもここまでの非情さはなかったであろう。

天正8年(1580年)、こうして戦国の美女玉鶴姫は、その運命を翻弄されて無残な最期を遂げてしまったのである。


龍造寺の悲劇はこれだけでは終わらなかった。

















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posted by モモちゃん at 09:49| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月12日

入試問題には絶対出ない日本史とはこれですね!

奴隷貿易の儲けは山分け

学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

当時は、アジアの奴隷取引が当たり前だった
戦国のキリシタン大名は輸出入税収入で潤った
九州では奴隷化される戦争難民がつくりだされていた


東洋医学史研究会
宇田明男




●当時の奴隷供給の背景と様相とアフリカ方式の導入

渡来した宣教師は宣教事業の手始めとして、まず周辺諸国でもっとも力のある大名に近づきその信任を得ることに努めた。

そのためにはまず南蛮の珍しい貢物を献上して為政者の関心を引いたのである。

友好的な領主には、教会の宣教活動の許可と支援とを事あるごとに陳情していった。

交易の仲介業務という特権を握っている宣教師は、南蛮との交易によって、大名側にその都度独占的利益がもたらされることを示してみせる。

機会があれば、領国周辺の軍事情報を提供する。

大名から彼らの布教に対して積極的な協力が得られれば、その見返りとして戦略に必要な鉄砲弾薬の供給を優先的に手助けするという有利な条件を提示してみせる。

これには多くの大名が飛びついた。

特に群雄割拠していた当時の戦国九州の諸大名は宣教師の要求に乗ったのである。

このようにして南蛮勢力と友好的な大名は、新兵器鉄砲を装備することによってその勢力はますます拡大させていった。

まさしくこれによって戦闘の様相が一変してしまった。

熾烈な鉄砲による戦闘が各地に拡散し、いよいよ戦国の様相が強まっていき、都市部が荒廃し夥しい戦争難民が作り出されていった。

宣教師の進出は、交易事業の拡大とともにさらに京坂地域にも押しすすめられていった。


彼らは日本国内の多くの大名の中から、まず織田信長に白羽の矢を立てた。

信長の勢力が拡大すれば、一気に邪魔な異教徒を抹殺排除していくことも可能になるわけで、イエズス会は頻繁に信長に接触して高価な南蛮渡来の贈物を贈った。

軍事物資の硝石が搬入される堺の港を逸早く戦略的に掌握できたのも、当時彼らともっとも友好的であった信長の勢力であったことはただの偶然ではなかった。

背後には、イエズス会の周到な戦略があったからである。

好都合なことにイエズス会は元はといえば創始者のイグナチオ・デ・ロヨラや宣教師のフランシスコ・カブラルも軍人であって、その教会も軍隊組織を踏襲するなど西洋の軍事情報にも精通していた。

実際にイエズス会宣教師と接触した信長は、一箇月間に渡って彼らから西洋事情や軍事情報を集中的に教授されている。(フロイス日本史)


ある意味、イエズス会が信長に対して軍事顧問団ともいうべき働きをしていたということになる。

これは直接の経済的援助以上のものであって、戦略的にも大きな成果を信長にもたらしたものといえよう。

かれらは軍事顧問団として信長に西洋の軍事学を連日講義してみせたわけで、これに対して信長は最大級の馳走でかれらをもてなしてみせたし、商業都市堺に対して軍事的に威圧して多額の矢銭(軍資金)を要求して見せた。

こうみると信長の独創的戦略のうちには、西洋の革新的で合理的な西洋の手法も加味されていたことも十分理解できよう。

一方の信長も己の天下布武の大きな野望の達成には、イエズス会宣教師からの情報が不可欠であることに逸早く気付いていたわけで、抜け目なく彼らを最大限活用して見せたのである。

その効果そのものは信長の戦歴に見ることが出来る。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)に行われた比叡山焼き討ちでは、信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたといい、その犠牲者数は「信長公記」には数千の死者、ルイス・フロイスの書簡には約1500名の死者とあり、さらに「言継卿記」によると非戦闘員の男女、子供を含めて3,4千人が殺戮されていたと記されている。


天正2年(1574)7月13日、信長は、伊勢長島一向宗を包囲し追い詰めていた。

一向宗側は9月29日にわび状をよこしたが、それを無視して中江城、屋長島城を四方から火をつけ、籠城した2万人の男女をすべて焼き殺した。

天正3年(1575)8月、織田信長が越前の一向一揆を制圧した際、捕らわれた一揆方の男女1万2250人余りは信長のもとに送られすべて斬殺された。

「その外、国々へ奪い取り来る男女、その員(かず)を知らず」、「生捕りと誅(殺された)させられたる分、合わせて3,4万に及ぶべく候か」(信長公記)

さらに天正5年(1577年)、石山本願寺を支援する鉄砲集団雑賀衆の本拠地である秋葉山を十万の大軍勢で急襲したが、織田方の兵士は町に乱入放火すると共に非戦闘員である女子供を始め住民1万人をなで斬りにして惨殺した。

その数年後に信長が手掛けた天正伊賀の乱でも同様であるが、彼の戦闘形態は大規模な軍団を投入して敵方の老若男女の住民すべてを容赦無くなで斬りし、火攻めで滅ぼしたのであった。

これらの大虐殺は徹底した宗教弾圧にも等しかったし、こうした戦略手法の発想はきわめて西洋的である。

イエズス会からみれば、犠牲者の多くは忌まわしい異教徒らであったから、その伽藍共々住居も焼き払うという火炙り同然の見事な信長軍の掃討作戦には大いに共感した。

同時に宣教師等からは、ことのほか信長が強大で頼もしい類稀な王侯貴族にみえた。

その勇猛果敢さは、かっての教皇アレキサンドル6世の息子チェーザレ・ボルジア(ヴァレンティーノ公)をも彷彿とさせたことであろう。

事実イエズス会の宣教師は、こうした信長の果敢な軍事行動を見て「日本の王は、われわれカトリックに大いなる親近感を抱いている。信長が日本を支配する今こそ、日本とヨーロッパを結びつける千載一遇の機会である。」(イエズス会総長あてヴァリニャーノの書簡)、とまで言い切っている。

彼らは心震える想いで、ここではまさに最大級の賛辞を信長に贈っている。

このようにイエズス会は信長の行動を賞賛するだけでなく、積極的に接近すると同時に軍事的にも彼を援護する戦略を一時期とったのである。


dorei3宣教師がもっとも優位にある王族に接近して宣教上の庇護を請うたり、さらには多くの奴隷を狩り集める側に積極的に戦略的に鉄砲弾薬を供給していく手法はアフリカ方式とまったく同じものであり、これこそがポルトガル商人の合理的かつ巧妙な奴隷確保のやり口であった。


南北アメリカ大陸には19世紀までに1000万人以上の黒人がアフリカから奴隷として奴隷船で移送された。

移送された黒人奴隷のうち何割かは劣悪な環境の奴隷船内で死亡し海中に遺棄されたのである。

奴隷数が1000万というはにわかには信じがたいところであるが、これには奴隷確保と奴隷船に特化した独自の移送マニュアルがあった。

奴隷商人は商品としての奴隷の輸送コストを抑えそこからの儲けにきわめて敏感であったが、奴隷の確保にも大いに知恵を絞った。

ヨーロッパの奴隷商人たちはアフリカでの奴隷狩りの効率を上げるための狡猾な手法をすでに考え出していた。

アフリカでも奴隷狩りが進むうちに沿岸部周辺では黒人が激減して奴隷の確保がしにくくなっていったのであるが、そこで奴隷を狩る側の有力な黒人部族に新兵器の鉄砲を売り付け、一方に圧倒的な戦力を持たせることでさらに奴隷となる捕虜確保をよりやり易くさせていったのである。

これによって奴隷市場はアフリカの内陸部まで急速に拡大していったし、鉄砲に必要な火薬の供給も彼らの独占的利益が確保されるという好都合な展開が達成できたのであった。

この結果アフリカから南北日本に渡来した際もこのアフリカ方式のマニュアルが最大限に活用されて、信長はもちろんのこと当初より好戦的な九州地方のキリシタン大名にも使われていった。

特に九州ではその手法が最も効果を発揮して、結果的には奴隷売買の取引は広範囲に拡大していくこととなった。

沿岸部の小さな港には奴隷移送用の舟さえも用意されていたし、各地で転売された奴隷は次々とより大きな交易港へと集積されていったのである。

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

事実、有馬や大村、大友のキリシタン大名は、イエズス会の軍事的支援があったからこそ竜造寺や島津の軍事的侵攻にどうにか耐えられたのである。

九州の戦乱拡大によって鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートとを見事に確保したわけである。



●戦国九州の奴隷取引の実態

九州の島津、大友、有馬、天草、大村、さらには高山、小西、黒田、細川といった諸大名も、奴隷貿易には当然関与していた。

戦略上直接、あるいは間接的に関与せざるを得なかった。

彼らに共通することは、軍団の中に鉄砲隊を早くにその戦力として装備していたことであり、それによって熾烈な戦国時代を生き延びていたという事実である。

戦場で殺戮を繰り返す戦国大名らが、奴隷取引には一切関与しなかったというような都合のよい詭弁はここでは通用しまい。

好都合な歴史認識しか通用しないのは今に始まったことではない。

それこそ、彼らが生き残っていくには鉄砲や弾薬は是が非でも手に入れなくてはならない必須の最新の軍事物資であったのだ。

まさに新兵器鉄砲が戦国大名の戦力バランスを短時日で一変させてしまったのである。

鉄砲も弾薬にしても当時はきわめて値のはる軍需品であった。

しかもそれを手に入れるには宣教師を介してでなければ、肝心の取引が一切出来なかったのである。

宣教事業優先の条件が南蛮貿易の鉄則であった。

交易の利潤の中から、教会にはその絶対的保護権によって一定の取引仲介料が支払われたのである。

交易の拠点となる港を用意できるキリシタン大名にも交易の際に輸出入税が支払われたわけで、これによって彼らは経済的に潤ったのである。

交易港には各地から商人が参集した。

たとえ南蛮との交易の場に彼らが参加できたとしても、そこで大量の金銀や対価として交換できる交易商品が用意できなければ取引は成り立たない。

ここで取引を仲介する宣教師が打開策を探るべくそれとなく両者に耳打ちする。

大名が交易上の対価として奴隷を差し出せば、ポルトガル商人はその取引に渋々応じて見せたわけである。

ここからはいわゆる奴隷取引に移行していくわけで、日本人が同胞を家畜同様に海外の奴隷商人に転売していった当時の南蛮貿易の様相がここでははっきりと見えてくることになる。

後は相互間の需要と供給の問題である。

戦乱が続けば続くほどに、奴隷取引そのものは増加し規模も拡大していく。

戦乱に巻き込まれ収奪された土地や村は無人状態になるほどに当時の人狩り(奴隷狩り)は過酷なものであった。

そこからは夥しい数の戦争難民が捕虜として奴隷狩りされていった。

キリシタン大名に売られた捕虜が、奴隷としてスペインや遥か南米アルゼンチンまで転売されていった記録もいまでも残されているが、こうした奴隷貿易なしには大名といえども戦国時代を強かに生き延びていくことは不可能であったということになろう。

(注)ニッケイ新聞(2009年4月9日付け)ブラジル国サンパロ州サンパウロ市発行
「日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人」より以下、引用。
「博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。  驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。」(引用、終わり)


戦国時代に取引された奴隷の人数については諸説があるが、日本人だけでも戦国時代を通じて数十万人はその被害者となったのではないかと考えられる。

黒人奴隷1000万に対して数十万では少な過ぎだろうか。

九州で奴隷貿易が行われていたのは数年間のことではない。

奴隷取引が顕著になり始めた1550年以降から日本が鎖国体制(1639年・寛永16年)に至るまでの期間を考えると、この約100年間に奴隷もしくは自主的な渡航者(傭兵、商人、労働者)の人数なども含めれば海外渡航者数そのものは相当な数にのぼるはずである。

中には自ら奴隷として契約して渡航する者や海外で生きていくうちに奴隷になった者も少なからずいた。

武士であれば、南蛮の使い捨ての戦闘員、傭兵として需要があり、彼らも売り買いされたのである。

遠くは南米やインドのゴアの要塞にまで売られていった。

(注)「日本人奴隷」3人、メキシコに…安土桃山時代(2013年5月13日 読売新聞記事)
(引用始め)安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。
 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂へんさん所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。

 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。
 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレスのもとで、料理などの家事労働をしていたとみられる。当時のスペインで、高級オリーブオイル1本が8ペソだった。
 ベントゥーラは来歴不明だが、ミゲルは94年、ポルトガル奴隷商人がスペイン領マニラで、ペレスに売った。

 ペレスはマニラ在住時の96年、隠れユダヤ教徒として当局に逮捕され、有罪判決を受けた。次の異端審問のため一家は97年12月、マニラから太平洋航路でスペイン領メキシコ・アカプルコに移送された。その審問記録に、ペレスの「奴隷」として3人の名があった。
 ガスパールは審問で、食事内容をはじめとするペレス家の信仰の様子などを証言。その後の99年、ベントゥーラと共に、自分たちは奴隷ではないと当局に訴え、1604年に解放された。(引用終わり)

このような事実は、戦後の歴史からはすべて削除されていたものである。



それには九州から買い取った奴隷を南蛮船が直接移送することもあったが、日本や中国、東南アジア諸国の多くの貿易商の輸送船が朝鮮半島を経由して集積地の中国マカオまで輸送していったわけであるから、奴隷の需要拡大とともに相当数の船が頻繁に行き来していたことになる。

活況を呈していた中国マカオのアジア最大の奴隷市場では、それぞれの需要に応じて転売先を振り分けられ各地に移送されていった。

現実にはマカオの市場がアジアの拠点として20世紀まで存続していた事実を考えれば、日本人の渡航や帰国が幕府によって禁止された1635年(寛永12年)直前まで日本人奴隷取引は続いていたということになる。


こうした戦争捕虜に対する扱いは九州でも変わりはなかったが、早くから海外との奴隷取引がされていたことでその様相は大きく違っていた。

当然のように、戦闘に晒された土地では奴隷狩り目的の人狩りや異教徒狩りといった侵略行為が多発していた。

九州の有力な諸大名は矢銭(軍資金)を稼ぐためにそうした侵攻を続けていた。

豊後の大友氏の軍勢は筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の奴隷狩りを行ったし(「宗像市史・史料編中世」)、豊後に侵攻した島津軍は村々を襲って集めた捕虜を肥後天草まで連行してそのまま海外の奴隷商人に売り払っていた。

九州に進攻した豊臣秀吉の軍勢さえも豊後の各地で略奪や人狩りを大規模に展開していった。

遠征時には、まだ秀吉の奴隷取引禁止令は出されてはいなかった。

当時の天草や島原半島での日本人の戦争捕虜の海外取引については、ルイス・フロイスが詳細に記録している。

「豊後の国に跳梁していた最悪の海賊や盗賊は、とりわけこれら仙石の家来や兵士たちにほかならなかったからである。彼らは、なんら恥とか慈悲といった人間的感情を持ち合わせていない輩であり、当不当を問わず、できうる限り盗み取ること以外に目がなかった。(フロイス『日本史』1-194)

ここにある仙石とは秀吉勢の武将仙石秀久の軍勢(長州・四国方面)のことであるが、このときすでに九州諸国では相当数の人買い商人や海賊が横行していた事実が窺える。

「当地方に渡来するポルトガル人・シャム人・カンボジア人らが、多数の人質を購入し、彼らからその祖国・両親・子供・友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している(フロイス『日本史』1−322)」

「(秀吉の時代、薩摩軍が豊後の南部を通過したとき)最大に嘆かわしく思われたことは(薩摩勢が)実におびただしい数の人質、とりわけ婦人・少年・少女たちを拉致………これらの人質に対して彼らは異常なばかりの残虐行為をした。彼ら(被害者)のうちには大勢のキリシタンも混じっていた。(フロイス『日本史』8−173)」

これらは1588年から1589年当時の奴隷に関わる様相が具体的に記されているわけであるが、実際には南蛮人が渡来して以降数十年間にわたって継続的に行われていた人身売買の実情そのものであったことに注目しなくてはなるまい。

皮肉なことに九州の奴隷売買の事実を示すものとしては、このフロイスの記録がもっとも明確なものであろう。

実際にはキリシタンであろうと奴隷になれば海外にさえ転売される運命であったし、すでに九州から中国マカオへの奴隷移送のルートもその交易と積み出しの拠点もすっかり出来上がっていたのである。

転売されたそれらの奴隷は九州各地の港から天草や口之津、長崎、平戸、博多へ集積転売された後さらに海外の市場(マカオ)へと奴隷船で移送されていった。

ここでの奴隷輸送船は南蛮船だけではなく、多くの輸送船が中国や東南アジア方面からも続々と押し掛け積み出し港は活況を呈していた。

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった」フロイス『日本史』8-268」

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった」(フロイス『日本史』8-314」)

買い取られたこれらの夥しい奴隷は、最終的には九州からの輸出品として次々と中国のマカオの奴隷市場へと送り込まれていった。

結果的には、九州のキリシタン大名らの武器装備の多くは罪もない夥しい奴隷におとされた人々の犠牲によって支えられ、その需要のほとんどが奴隷貿易によって賄われたということは否めないところである。

それでも、そのような奴隷貿易は一切なかったという反論もある。

戦国の日本人の奴隷など稀な出来事だともいう。

はたしてそうなのか?

戦国に戦争難民や人狩り、人攫い(ひとさらい)はなかったということなのか?

たしかに戦国を扱った大河ドラマにも登場したような記憶はない。

しかしながら面白いことに九州地方では、時代を経てもこの子供の人攫いという生活感覚にはいまでも特別な響きが残っているように思えてならない。

逆にここで奴隷取引というものがなかったとするなら、一体九州の大名らは大量の鉄砲や弾薬などの最新の軍需物資をどのような経済的余裕があって手に入れられたのかが問われなくてはなるまい。

新兵器であった鉄砲、弾薬は高価な武器であっただけに、入手するには潤沢な資金を必要とした。

高価なそれらの輸入軍事物資が無尽蔵に、南蛮側から無償で提供されていたわけではない。

この時代、南蛮商人そのものは富を求めて渡来し、戦国大名の需要に営利目的で群がったのである。

九州の大名は取引のカギを握るイエズス会の宣教師に言われるがままに、彼らから洗礼を受けキリシタンとなっていった。

南蛮との取引での仲介者として、宣教師の立場は絶対的であった。

九州の諸大名は裕福ではなかったわけで、キリシタンということでのその取引での優先順位は確保できても資金力(矢銭)そのものは限られたものでしかなかった。

それらの取引で支払われる高額の対価は一体どのようにして賄われたというのだろうか?

考えるほどにここらは不可解な話である。

それでなくとも、当時の九州地方にはその実質的経済規模には不釣合いなほどに多くの鉄砲が行き渡っていたわけであるが、それに対してはどのような好都合な辻褄合わせが用意できるというのであろうか。

furanki 一旦、大きな戦ともなれば鉄砲と大量の弾薬が必要であった。

戦乱と共に軍事物資の需要も一気に高まることになる。

薩摩の島津軍が九州北部まで進攻できたのもこの新兵器鉄砲を縦横に駆使したからであり、キリシタン大名大友宗麟が国崩しといわれた2門(10門ともいう)の巨大なフランキ砲(大砲)をポルトガルから入手できたのも、それこそ半端な代価では到底賄えなかったはずである。

九州の戦国大名が、何故にそれほど裕福であったのだろうか?

事の真相などはどうでもいいわけで、結局のところ華々しい歴史的業績をもたらしたという事でその名を歴史に留めたということにしておけばいいのである。

ここでいうキリシタン大名という称号そのものは、過酷な異教徒弾圧と奴隷売買とに自ら参画したという戦国大名の矢銭調達法やそうした戦闘形態をも明確に象徴していることになる。

輝かしいキリシタン大名は、いまやそう評価されるべきであろう。





削除されなければこの稿続く




参考文献
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」 (中公新書) 谷口 克広 (著) 2001
「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学」 (講談社学術文庫) 藤本 正行 (著) 2003
「信長と十字架」立花京子著 集英社新書,2004年
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「野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派-」 松森奈津子著 名古屋大学出版会 2009
「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
「近代資本主義の成立と奴隷貿易」カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか-西山俊彦
12月31日 211号 第2回 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(1)−西山俊彦
2004年 2月28日 212号 第3回 キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−西山俊彦
4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか-西山俊彦
「十字架とダビデの星―隠れユダヤ教徒の500年」 (NHKブックス) 小岸 昭 (著) 1999
「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
「雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り」(藤木久志著 朝日選書 2005
「飢餓と戦争の戦国を行く」(藤木久志著 朝日選書 2005
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
岩生成一「十七世紀バタビヤ移住日本人の奴隷取引」(『東方学論集』v.1 1954年)








「治療家・セラピストのための生体経絡・生気論」
経絡論
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posted by モモちゃん at 11:04| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

戦国一の美貌ゆえに悲運に泣いた阿安姫

戦国九州美女伝説の真相(3)

何回かシリーズで書いてきていたのですが、戦国時代の3人目の美女を紹介するのをすっかり忘れていました。

今回は竜造寺氏の美女の3人目、阿安姫こと「お安の方」を紹介します。



戦国時代、肥前国(佐賀)の東方に有力な国人小田氏の居城(蓮池城)があった。

ここは当時、肥前と筑後とを結ぶ街道の要衝の地であった。

豪族小田氏の城は肥前の覇者竜造寺氏と豊後(大分)の大友氏の狭間にちょうど位置していたことになる。

東肥前の支配権を徐々に確立しつつあった竜造寺隆信は1562年、時の蓮池城主の小田鎮光に調略の手を伸ばし、まず縁談を持ち掛けてきた。

その相手とは隆信の娘お安(阿安姫)で、このとき十七歳であった。

このときの小田側の反応は意外にも早かった。

龍造寺家の姫たちが美しいことは周辺諸国にひろく知れ渡っていたが、お安の方は隆信の娘といっても実子ではなかった。

それでも阿安姫は龍造寺家の正当な血筋ということでは、何ら問題のない出自であった。

阿安姫の実父は本家筋である龍造寺胤栄であったが、
胤栄が若くして病死したため、分家(水ヶ江竜造寺)であった隆信がその後を継ぐと同時に未亡人と隆信とが再婚し胤栄の娘お安が隆信の下に引き取られていたという事情があった。

義父である隆信にとっては義理の娘ということになるのだが、お安が成長するに従って三国一の美女としての噂が近隣諸国にまで広まっていった。

当時、龍造寺家は美女の係累が多いことでも知られていた。

肥前と筑後を結ぶ街道の要衝を押さえる小田鎮光を取り込むための政略結婚の手立てとして、隆信はお安をその道具として使ったことになる。

隆信はそうした調略や懐柔策に長けたしたたかな戦国武将であった。


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小田鎮光と竜造寺隆信との関係はそれまでの経緯から行くと決して良好なものではなかったが、それでも竜造寺の申し出を小田側が受け入れたのはお安の方の類稀なる美しさに惹かれたということも考えられる。

もとより小田側がもしここで縁談を拒絶し敵対すれば、勢力を増しつつあった竜造寺にかえって攻め込まれる口実を与えてしまう懸念とて考えられる状況下に置かれていた。

明らかに両者には武力に大差があったし、小田側からみれば戦は避けたいところであった。

この婚儀によって竜造寺と縁戚関係が結べる方が、このときの小田側にとっては格段に得策であったはずである。

またたく間に婚礼の儀式は整い、竜造寺家から安の方は無事小田家へと嫁いできた。

たしかに小田鎮光が目にした新妻お安の方は、噂に違わず驚くような美女であったのだ。

あまりの美しさに戸惑った鎮光は、当初お安の方を内心警戒するほどであった。

だが、お安の方の優しい心根や天真爛漫さに触れていくに従って鎮光は心を許すようになっていった。

またたく間に二人は仲睦まじい生活を送るようになっていった。

竜造寺隆信は虎視眈々とその時期を狙っていた。そしてついに隆信の野望が牙をむくと娘婿鎮光に一つの要求を付きつけてきた。

それは永禄二年1568年、お安の方が小田鎮光に嫁いで七年目であったが、突如として隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命じてきた。

隆信の弟長信に街道の要衝である蓮池城を戦略的に押さえさせるためであった。

父祖の地を離れることは耐えがたきことであったが、このときの小田鎮光には隆信の命に従うしか手立てがなかった。

妻であるお安の方も間に立って奔走したであろうが、隆信の方針は覆らなかった。

翌々年の元亀元年1570年、竜造寺にとって長年の宿敵ともいえる豊後の大友宗麟が六万もの大軍勢で肥前にまで攻め込んできたのであるが、大友勢の圧倒する勢いに肥前の国人衆も次々と寝返っていくなか、かねてより隆信の仕打ちに不満を抱いていた鎮光も大友軍に加担してしまう。


kyu03小田鎮光は義父である竜造寺隆信をここで裏切ったことになる。

当然女婿の身でありながら反逆したことに、隆信は激怒した。

ここらは信長の妹お市の方と浅井長政との歴史の流れが思い浮かぶところである。

この戦いでは予想外の展開があって、竜造寺軍は隆信の義弟鍋島直茂が緒戦に置いて大戦果を挙げた。

その結果大方の予想に反して劣勢と思われていた竜造寺軍は鍋島直茂の活躍によって大友軍を撃破したのである。

そして戦が終結すると隆信は、直ちに裏切った国人衆の粛清を行った。

隆信に反逆した鎮光は難を逃れて筑後に亡命し、一方お安の方は竜造寺に帰らせた。

竜造寺に反旗を翻したわけであるから、鎮光はここで竜造寺との縁戚関係を一旦解消してみせたということである。

ここは成り行き上愛する者同士が別れたわけであって、戦国の世とはいえ夫婦共々苦汁の決断をしたことであろう。

これに対して隆信は、密かに一計を案じるのである。

あるとき義父である隆信は、お安の方にこう言い聞かせた。

「何も按ずることはない。こ度の事、鎮光が詫びを入れるなら許してやろう。二人して元の多久の梶峰城に戻ればよい」

この言葉に喜んだお安の方は亡命中の夫に手紙を書きしたためた。

愛する妻からの手紙を読んだ鎮光は、すぐさま佐嘉に戻って行った。

だがこれは始めから隆信が企んだ罠であって、お安の方との再会どころかここで待ち構えていた竜造寺側の討手によって小田一族はすべて討ち取られてしまうのである。(元亀二年(1571年))

お安の方は大きな衝撃を受けて、その場に卒倒するほどであった。

愛する夫鎮光が非業の死を遂げたのは、義父の謀とはいえお安の方自身が書き送った手紙がその騙し討ちの狡猾な誘いの具に使われたことは、さぞかし口惜しく無念であったことであろう。

鎮光の裏切りを許さない隆信は、夫婦間の愛情を逆手にとって政略とはいえあまりにも惨い仕打ちをやって見せたということだ。

悲観したお安の方は自害をしようとするが、周りから押しとどめられてしまう。

さらにここにきて、またしても非情な義父隆信はお安の方を政略の具として利用することを考える。

今度は強力な水軍を配下に持つ上松浦党の当主、波多三河守親に嫁ぐようお安の方に命じたのだ。

抵抗する術もなくお安の方は言われるがままに、これに従わざるを得なかった。

お安の方は波多家に嫁いでからは、お安の方ではなく新たに秀の前と呼ばれるようになった。

そうした中で、義父である竜造寺隆信は秀吉の九州征伐の直前の島津との戦いで討ち死することになる。

これで竜造寺は絶えるのである。
 

その後の秀の前(安の方)の生涯が安泰であったかというと、そうとはならなかったようだ。

秀の前はここでもその美しいがゆえにさらなる悲運を招く。

九州の名護屋に城を構え、朝鮮出兵を強行した太閤秀吉が波多三河守親の妻、秀の前が美貌であることを伝え聞くと、夫が出陣中にも関わらず名護屋に出頭するよう妻の秀の前に命じてきたのである。

秀吉の命令は絶対である。

大名の妻とて拒めるものではなかった。

この時期秀吉はご機嫌伺いということで、出陣中の夫の代りという名目で留守中の各大名の妻たちを名護屋城に呼び寄せて召見していた。

秀吉の機嫌を損ねれば、いかなる災いを招くかわからないのだ。

拒めば御家断絶の可能性さえあり得る時代である。

秀の前は太閤秀吉に拝謁した。

もとより好色な秀吉は、その秀の前の美しさに驚嘆する。

年齢的にいえばすでに秀の前は三十路であったのだが、その美貌はまったく衰えてはいなかった。

好色な秀吉の狙いを避ける手立てとして、秀の前は頭を下げるのと同時にわざと胸から懐剣を畳に落としてみせたとされる。

自分に手を出すとその場で自害するという、その当時の武家の女子の強い意志表示の一つの流儀でもあった。

胸に懐剣を納めて操を守る作法そのものは、義父隆信の母、慶ァ尼(龍造寺胤和女)が始めたとされる。

おそらくは秀の前は直接、慶ァ尼からもそのように躾けられていたはずである。

俗説では、秀の前は自ら顔を焼き謁見し、秀吉の意に逆らったともいう。

どちらにしても召見の際に秀吉の不興を買ったといわれ、その後波多家はお家断絶になった。

その後第二次朝鮮出兵で夫である波多三河守親も戦死を遂げている。

孤独なまま後に秀の前は佐嘉に戻り、仏門に入って静室妙安尼となった。

地元には、秀の前は八十歳まで長寿を保ったという説がある。

墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺である。

美人薄命という在り来たりの話しとは趣は少し異なるが、その美しさ故に運命に翻弄された戦国の女性ということでは、東のお市の方を彷彿とさせるものがある。


















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ラベル:お安の方
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2016年04月03日

上田軍記にみる本当の真田の上田合戦とは

地の利を生かした巧みな攻防戦

天正13年(1585年)、家康が甲斐へ着陣すると真田昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めた。

だが昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にこれを拒否し、さらに離反していた上杉氏の側についてしまう。

家康は昌幸の造反を知ると真田討伐を決意し、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の軍兵を真田氏の本拠・上田城に向けて派遣する。

徳川軍は甲斐から北国街道に進軍し、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開した。

迎える真田方の戦力は約1200人であったと言われ、これに少数であるが上杉の援兵や農民も加わった。

双方には圧倒的な戦力の違いがあった。

真田昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城し戦闘態勢を整えた。

上田城に攻め寄せた徳川方は、勢いに任せて一気に二の丸まで攻め込むがここで真田方に反撃を受け撃退される。

更に後退の際に城方の猛烈な追撃を受けるとともに、戸石城から出撃した信幸軍も横合いからも攻め掛かられて徳川方は撤退し始める。

壊乱した徳川方への追撃戦には支城の矢沢勢も加わり、神川付近で多数の将兵が追い詰められて溺死したとされる。

この真田方の巧みな戦法により、徳川方は1300人もの戦死者を出し大敗した。



5分でわかる第一次上田城の戦い

 







「最強の父 - 真田昌幸」 その歴 (2/4)









講演会「上田軍記にみる真田家と二度の上田合戦」


























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ラベル:真田一族
posted by モモちゃん at 13:15| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月02日

加藤清正の熊本城ば観てみんね

クマもんはいなぞ熊本城!?

熊本城に25年ぶりに行ってきました。

本当にここを訪れるのは久しぶりです。

熊本にはよく行きますし、そのたびに熊本城も目にはします。

熊本城はこれまで10回以上訪れていた所なのですが、何故かここ25年間行く機会がありませんでした。





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三の丸駐車場横の石垣。

熊本城の石垣、石組みの形が好きです。






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さっそく石段を登っていきます。





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場内は広いです。





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外堀が見えてきました。





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堀といっても水がありません。
カラ堀です。

ここは歴史的には有名な史跡です。





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ここは西南戦争のとき篭城した家族の避難場所であり、負傷兵が介護された跡地でもあります。




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ちょっとしたグラウンドほどの広さがあります。





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熊本城は銀杏城といわれるぐらいイチョウの木が多いのですが、サクラの木も多数見かけました。




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外堀の水門はすっかり閉じられてしまっているようです。




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城内に入ると広々とした広っぱがありました。






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長い石垣が続いています。






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上がり口があるのですが、狭間から銃口がこちらを狙っています。

本来ここは城の要所になるわけで、ここだけでも狭間の数をさらに3,4段に構えて守りを固めるべきだと思いました。





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門をくぐると本丸がすぐそこに見えます。





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ここも広場になっています。





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清正流の武者返しの石垣です。





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青空に天守閣が見事に映えて見えます。





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城内に通じる通路です。

ここは本来薄暗くしていて、ここまで侵入してきた敵兵を襲う仕組みです。

25年前にもここを通ったかの記憶はありませんでした。

ここは新たに改修されていたのかもしれません。




いよいよ城内に入っていきます。




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先ほどの広場からさらに通路を通ってぐるっと回って外に出るとまた広場がありました。

ちょうど城の反対側に出ました。





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ようやく本丸への入り口がありました。

本丸の階段を上っていくと、眺望が気になります。





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熊本市内が見渡せます。






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真下の広場の様子も一望できます。




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真前の建物では抹茶が振舞われていました。






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天守閣の真下では何かの催しがあるらしく、ブルーのステージの前に席を取っている人たちがいました。






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ようやく新しい熊本城本丸御殿も見学できました。

本丸御殿内は土足禁止です。

靴はビニール袋に入れていかなくてはなりません。




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まず最初に入ったところは大御台所(おおおんだいどころ)でした。

天井は吹き抜けになっていて、煙が外へ排出されるようになっていました。

天井部分は、長さ12m直径1mの赤松の木が使われているということでした。





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本丸御殿大広間の接見の間にも入ってみました。

手前から「鶴之間」「梅之間」「櫻之間」「桐之間」、さらに藩主の部屋である「若松之間(わかまつのま)」、そしてその奥が「昭君之間」(しょうくんのま)です。


公開されたばかりの頃は、この本丸御殿大広間内部の写真撮影が禁止だたそうです。

いまでも内部の「フラッシュ撮影」は禁止です。




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ここが昭君之間です。






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立派な襖絵が並んでいます。

ここでも写真撮影はフラッシュ禁止でした。





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天井絵も見事です。






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正面の床の間の絵も贅沢な金泥が使われています。

中国の有名な「王昭君」という絶世の美女の物語が描かれています。






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戸板に描かれた絵も展示されていました。

下絵なのかも知れません。





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何故か分かりませんが、「昭君之間」の直ぐ後にある数寄屋(茶室)は公開されていませんでした。

































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    ラベル:攻城戦
    posted by モモちゃん at 10:44| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2016年03月22日

    戦国時代に災害救助隊が出動したとは思えない

    軍旅のあとには必ず凶年あり(老子)

    戦国時代、飛騨国白川郷に帰雲城という城があり、その城主は内ヶ島氏理であったという。

    ここで戦国武将といっても白川郷周辺は峻険な地域が広がっていたこともあって、華々しく外征という形では当時の戦国史には登場してはこない人物ということになる。

    内ヶ島といっても全国的にはほとんど耳にしない武将であるのだが、別の意味でその名が知られるようになった。

    それは戦国真っただ中の天正年間に、内ヶ島は忽然とその痕跡を留めることなく一夜にしてその居城である帰雲城はもとより一族郎党共々この世から消え去ったのである。

    天正13年11月29日(1586年閏1月18日)、その日帰雲城では秀吉との和睦成立を祝う宴が開かれ、その大広間には城主氏理をはじめ、娘婿の東常堯や嫡子氏行ら一族と重臣らがうち揃っていた。

    ところがその当日の深夜に至って、突然この地を大地震が襲った。

    帰雲山の下に位置していた帰雲城は、その山崩れに巻き込まれ大量の土砂によって完全に埋没してしまった。

    日本の中部で発生したこの巨大地震は当地方で白山大地震とも呼ばれ、この地震災害によって帰雲城の内ヶ島氏は滅亡してしまった。

    驚くべき歴史秘話である。

    戦国時代ということもあって、広範囲に被害をもたらした当時の大地震についてはおそらく後世までその被害の全貌は掴みにくかったであろうと想像されるところである。

    この天正大地震によって帰雲城が埋没しただけではなく、若狭湾では津波が発生し、周辺の木舟城、長島城、長浜城、大垣城も大破したとされる。

    戦国期の地震としては大きな地震災害であったことになる。


    それから10年ほど経った文禄年間にも巨大な地震が立て続けに西日本を襲った。

    まず慶長伊予地震といわれる地震が、1596年9月2日(文禄5年閏7月9日)伊予(愛媛)を震源として発生した。

    閏7月9日 - 伊予国で大地震、薬師寺の本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊したという記録がある。

    また3日後の9月4日には、現在の豊後(大分)の別府湾口付近で慶長豊後地震が襲った。

    さらに翌日の9月5日の子の刻には、現在の京都・伏見付近で慶長伏見地震が連続して発生した。

    閏7月12日から13日、畿内一円で大地震、伏見城や方広寺の大仏殿が倒壊するといった被害が出たとされる。

    なお、この年は文禄5年10月27日(グレゴリオ暦1596年12月16日)に 慶長に改元した。


    これらの大地震は400年以上以前の地震災害ではあるのだが、個人的理由もあって以前から関心があった。

    それは少年時代に父親の故郷(大分市)に行ったとき、巨大地震によって海に沈んだ島の話を聞かされたことがあったからである。

    それはずっと昔、別府湾に瓜生島という大きな島があったが、巨大地震と津波とによって海にまたたく間に沈没してしまったという伝説であった。

    これがずっと長い間記憶の片隅に残っていたのであるが、後日まとまった伝承記録などであらためて確認する機会があった。(写真は別府湾)



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    実は四十年ほど以前より水中考古学という分野が日本でも注目されるようになってきていて、海中や水中の古代の伝承遺跡の発掘や科学的調査といったものが各地で実施されるようになった。

    実際に別府湾でも調査が行われた。

    この戦国時代の地震記録については、中世のイエズス会宣教師のルイス・フロイスの「日本史」にもこの九州豊後地方の大地震について記録している。

    それには次のように記述されている。

    引用開始:
    「府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(「1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報」補遺)引用終わり:

    文中冒頭の府内とあるのは、現在の大分市周辺のことである。




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    水中考古学の研究の分野で大分豊後府内地方の瓜生島伝説が注目されだしたこともあって、それに関連する「豊陽古事談」や「豊府紀聞」、「日本一鑑」といったいくつかの古文書も紹介されて過去の地震記録が日の目をみるようになった。

    驚いたことにその伝説の瓜生島の古地図もそれらの中に残されていることが分かった。

    これは本当に驚きであった。

    単なる古代の伝説と思っていたものが、島の存在が図上に明示された古地図まで出てきていよいよ現実味を帯びてきたというわけである。

    瓜生島伝説とは一体どのようなものであったのか。

    瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど四百年前の文禄5年(1596)7月12日であったという。

    その瓜生島は府内(大分市)の西北3.3キロ沖の湾内にあったといい、東西3.9キロ、南北2.3キロ、周囲12キロの島であったという。
    (参照・「豊陽古事談」瓜生島図)

    島内の人家は約千戸、島の中央に北裏町や南本町、沖ノ浜町といった町名があり、船着き場には多くの船が各地から出入りして活気があったという。

    島には恵比寿神社や威徳寺といった大きな寺社もあって、当時、湾の周囲から眺めれば海に浮かぶ風光明媚な島の景観が広がっていたのではいかと想像される。



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    この瓜生島が突然の大地震と、それに続く津波によって海に没したというわけであるが、その被害者数は八百人前後であったと記録されている。

    それでも島の住人の大多数が犠牲となったわけである。

    瓜生島の北側に久光島という島があったが、これも瓜生島と同時に海中に沈没したとされる。


    実は当方のご先祖様もこの大地震の被害をもろに被っていたという予想外の事実があった。

    当時当方の先祖は府内(大分市)の東方に位置する鶴崎の地に刀鍛冶として一族が住んでいた。

    元は京都の山城国の刀鍛冶(宇田国宗)であったが、室町幕府の内部抗争(観応の擾乱)が勃発した正平5年(1350年)当時、一族郎党共に九州の豊後に移ってきたのだった。

    現在も現地に国宗という地名と国宗天満神社だけが残っている。

    その後もこの地に刀鍛冶として定住していたが、1596年に発生したこの豊後の巨大地震と瓜生島沈没に目の前で遭遇してしまったことになる。

    先祖が住んでいた国宗村は別府湾に流れ込む大野川の西岸の土地であり、それも別府湾に注ぐ河口に近かったこともありこのとき相当な地震被害を受けたものと思われる。

    瓜生島が沈んだのは大地震による津波が原因ともいわれるだけに、このとき別府湾の海岸一体には大波が襲ったことであろう。

    対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、近くの鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも記録されている。

    同時にこのとき対岸の高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が別府湾に降り注いだともいう。

    このことは正史に一切記録されていないので、ここらは想像の域を出ない。






















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    ラベル:白川郷
    posted by モモちゃん at 17:30| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2016年02月24日

    戦国の美女はしたたかな賢母でもあったのです(2)

    慶ァ尼は美し過ぎる女傑であった!

    龍造寺隆信が娘婿一族を滅ぼすとは、戦国の世とはいえあまりにも理不尽な所業であった。

    そして今回紹介するのが、その龍造寺隆信の母・慶ァ尼(1509〜1600)である。

    慶ァ尼は本家村中龍造寺16代当主胤和の長女として生まれ、分家の周家に嫁ぎ嫡子隆信を産んだ。

    九州も戦国真っただ中にあり、隆信は幼年期は寺に預けられたため一時期僧籍に身を置いていた。

    天文14年(1545年)に夫であった周家が殺されたため慶ァ尼は出家した。

    その間に龍造寺本家一族が謀略により殺されてしまうという悲劇が襲い、結果的には慶ァ尼の息子隆信が龍造寺本家を継ぐこととなる。

    本家を継いだとはいえ信隆の下では本家家臣団のまとまりも覚束ない状況にあったため、慶ァ尼は献身的に息子信隆を背後から補佐し続けた。

    慶ァ尼は隆信の冷徹な性格や粗暴な一連の所業を母として憂慮していたこともあり、はやくから優秀な補佐役となる人物を陪臣の中から探していた。

    中でも、隆信の従兄弟筋に当たる年下の鍋島直茂が14歳当時から隆信の近習の一人として仕えていたのが慶ァ尼の目にとまった。

    乱暴者の信隆にも機転のきく直茂はよく仕えたし、信隆とも馬が合って可愛がられてもいた。

    しかも直茂は武勇にも秀でていて、戦場でも殊のほか戦上手でその都度連戦連勝の武勲をあげていた。

    もとより鍋島家は龍造寺の陪臣として仕え、龍造寺家が存亡の危機にあった時代も支え続けた忠臣であり、直茂の父・鍋島清房は若い信隆の後見役でもあった。

    龍造寺に鍋島父子が味方し続ける限り、他の陪臣も国人らも離れることはないはずであった。

    慶ァ尼はこのとき信隆が継いだ龍造寺家の支配を盤石のものにするには、この鍋島父子の助力が是が非でも必要であることを確信した。

    そこで慶ァ尼は一計を案じた。


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    (画像は佐賀城内)


    直茂の父・鍋島清房が登城した折、慶ァ尼が自ら出向いて彼を呼び止めたのである。

    「清房殿は先年つれあいを亡くされたと聞いておりますが、まだ幼子もいてさぞや男所帯で難儀されておられることでしょう。そうそうここは私がよい後添えを捜して進ぜましょうぞ」といった。

    慶ァ尼は、龍造寺家の重臣として父子共々支えてくれている鍋島家のことを気にかけていたのであった。

    慶ァ尼は龍造寺後家といわれていたが、当時47歳でありながらその容色はいまだ衰えはいなかった。

    このとき艶然と優雅に微笑みかける慶ァ尼に、清房自身は恐れ入って心中戸惑うばかりであった。

    44歳の男盛りの鍋島清房にとって、主家の後家とはいえ慶ァ尼はまぶしく見えて仕方なかった。

    従来より総じて龍造寺家の女性は美形であるといわれ、遠国にまでその噂は広まっていたほどであった。

    そのように主君の母堂から新しい妻を迎えた方が良いと諄々と説き伏せられ、清房は一方的にその気にさせられてしまっていた。

    その勢いに押された清房は、ここは相手がいることだとして顔合わせ(見合い)だけでも応じるという約束を慶ァ尼としてしまった。

    それから数日後、鍋島清房の屋敷の前に前触れもなく花嫁行列の籠がとまった。

    このとき清房が在宅中であったのかどうかは分からない。

    花嫁は奥の座敷まで進んでいって清房と顔合わせしたはずであるが、すでに花嫁衣装で屋敷に入ったことは婚儀が成ったものと受け取らざるを得ない。

    こうした展開に清房はすべて慶ァ尼の指図との認識があったであろうが、とにかくこのいきなりの展開には驚いたはずである。

    さらにその花嫁が、後添えを真剣に勧めた慶ァ尼本人であったから二度びっくりである。

    清房は恐れ入ってここは必死に辞退したであろうが、慶ァ尼の決意は固くそのまま婚儀は成立してしまったのである。

    慶ァ尼という女性は常に胸に懐剣を忍ばせていることでも知られていたが、恐らくはこの婚儀が思い通りに成らなければ恥辱であるからここで命を絶つと言い切って清房の前でごり押ししたのではないかとも想像する。

    このときの慶ァ尼はそれほどに必死であったといえる。

    これによって正式に慶ァ尼は直茂の継母となり、主君龍造寺信隆とは義兄弟となったのである。

    後年隆信が島津との戦に敗れた時、直茂を肥前統治の後継者に推したのもこの慶ァ尼であった。

    この慶ァ尼の話は後世つくられたものだという説もあるが、この経緯を伝え聞いた徳川家康が慶ァ尼の思い切った行動を機会あるごとに称賛したとされるから、あながち作り話ではないといえよう。

























    denden 














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    ラベル:慶ァ尼
    posted by モモちゃん at 13:01| 戦国時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする