2017年05月07日

地元に名園を残してくれた殿様・佐賀県武雄市

殿様自慢のお庭

佐賀県武雄市の御船山楽園に出かけてみました。

20万本のつつじが御船山の断崖下に咲き誇っていると聞いたからです。

久留米つつじに平戸つつじが群生していて、景色はいいです。






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入り口部分です。

入場料は大人700円とあります。

武雄領主が江戸時代に造園した庭園だそうです。






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庭園の真ん中辺りに池がありました。

対岸に藤棚が見えました。






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山のがけ下にたくさんのつつじがありました。





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崖下の谷には一面につつじが植えられていました。





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花見台から見た平戸つつじです。

満開の時期には少しずれたかもしれません。

行基が彫った釈迦像や羅漢像が安置された洞窟もありました。







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園内では藤も満開でした。






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園内では花の香りはあまり感じませんでしたが、途中にあった茶店からは美味しそうなメープルシロップの香りが漂ってきました。

それは、こんがりと焼かれた旨そうな饅頭の匂いでありました。
















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2017年05月06日

歴史に所縁あるナンジャモンジャの木とは?

ナンジャモンジャとは何じゃろか?


いまが見ごろということで、ナンジャモンジャの花を探して佐賀県神崎町まで出かけました。

通常はナンジャモンジャと呼ばれる植物はヒトツバタゴのことだそうですが、対馬に多数群生しているとか聞いたことがあります。

「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種は、ヒトツバタゴのほか、ニレ、イヌザクラ、ボダイジュなど様々な種類があって、元々は占いや神事に利用されていたものということで、神社や寺によく植えられています。

2,3本では見栄えがありませんが、4,50本ともなると見応えがあるのではないかと思い、今回出かけて行きました。

佐賀県神崎町の大円寺というお寺のナンジャモンジャが有名ということでした。






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たしかにたくさんナンジャモンジャが植樹されていました。

ナンジャモンジャまとまった状態で50本前後あるように思われます。

木の高さは4,5メートルほどで、花は満開に近い状態でした。

間近でナンジャモンジャの花を観賞したのは始めてです。







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真っ白い花で香りはほとんどありませんが、沢山の数が咲き誇っているだけにそこら一体に何やら微妙な芳しさが漂っているような感じがします。






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花びらは細くて丸みがあります。







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白くて繊細な感じです。






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2017年03月27日

貧乏人には飲めなかったから高貴薬なのだ!

庶民には無縁の高貴薬とは?

約30年前に観たテレビの番組で中国の漢方薬が紹介されていたのだが、そのなかで天然の二十年ものの薬用人参が展示販売されているところが映しだされていた。


この一本の立派な人参の販売価格が、なんと当時70万円だといっていた。

現在であれば、優に5倍にはなっているだろう。


一瞬唖然としたが天然資源が枯渇している現状を考えれば、その稀少価値は計り知れないとも感じた。


人参といえば朝鮮人参が有名であるが、江戸時代の吉宗の代になって初めて国産化さ れたといい、それまではすべて大陸からの輸入品に頼っていたのである。



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たとえば正倉院御物のなかに人参は含まれていたし、後に光明皇后の施薬院のためにそこから五十斤(三十キログラム)もの人参が流用されたというが、すべてとてつもなく貴重な渡来薬物であった。


時代劇にも人参は高貴薬としてよく登場する。


親の病気に薬代が嵩み娘が泣く泣く身売りするという、よくある話がそれである。


当時、それほど人参は高かったかどうか、どうしても当時の事情が知りたくなって図書館に行って調べてみた。


江戸時代の天保七年に人参一斤(六百グラム〕銀三十八貫という高値があったというが、大抵は一斤が銀十六貫辺りが平均的相場だったらしい。


当時の専門技術者であった京都の大工の日当が銀三匁(江戸は五匁)、これで銀十六貫を割ると五三三三日分に当たる計算である。

平成元年三月二十四日の銀の相場でこれを計算してみたところ、大工の日当は三百十八円、人参六百グラムは百六十九万七千八百九十四円にあたる。



現在平成27年11月26日の銀の相場ではどうか。

銀が倍以上に値上がりしていて、大工の日当は720円になる。(江戸だと1200円相当)。





ほかの物価と換算した場合は、江戸時代は現在より銀の価値が二〜三倍になるのでさらに人参の薬価そのものは高くなる。


たとえば通説に従って一両を現代の三万円と換算すると、大工の日当は千五百円、人参一斤は八百万という感覚であろうか。


とにかく現在の経済感覚で単純に計算したところで正確な数値が出てきはしないが、 それでもこの驚くべき価格には現代人でもおおよそ察しが付くというものである。


物価が上がるのは需要と供給に関係があることぐらい、経済オンチの私にも分かる。


円安だと、今も昔も舶来品は当然高くなる。


それに当時の人参は供給量が特に少ない薬物ときている。


だがこの高値には、もう一つ理由があるようである。


寛文・延宝(一六六一〜一六八〇)の頃、数原通玄という良医、朝鮮人参の効能を考へ──衆人の命を助くる事限り知らず。──これより大効ある事をいよいよ知る」と、 『近代世事談』にあるとおり、この時代人参の薬効に人気が集まったらしい。


昔から人参湯は起死回生の薬として知られていた。


この薬湯は漢方の医学書『金匱要略』に登場するし、『傷寒論』には理中丸として出てくる。 

いまでいう特別な新薬というわけではなかった。


しかしながら、通常処方される人参湯には三両(十二匁)、つまり四十五グラム(現代では十五日分)の人参が必要となるが、とても一般庶民が買える薬ではない。


円に換算するとこれだけで六十万以上もする高貴薬である。


天文(一五三二〜一五五四)の頃の名医永田徳本は薬一服十八文以上取らなかった。


患者が二代将軍秀忠のときも治療代は十八文だけしか取らなかったというが、これは例外中の例外であろう。


江戸時代医家,売薬で巨富を成すものが多かったのは、各種の史料をみれば分かることであるが、ここには高貴薬の人参が絡んでいる。


安政度で診察料が銀十五匁から三十匁(約一万五千円)、往診料は初度に二十二匁五分、その後は一度毎に十五匁ということで、こうした医療費とは別に一里内外は三十匁、二里は六十匁、二里半は二両、三里以上は五両(約十五万円)、おまけに二里以上は駕籠の往来であれば、 さらに往診療として駕籠賃、弁当代は病家が出すというものであった。


薬代はというと、七日分が銀三十匁、三日分が十五匁であるが、宵越しの金など持たない庶民はそう簡単に医者に掛かれなかったのである。


そうなると自然と鍼灸療法ということになる。灸は京阪とも二十四文(約144円相当) ですえられた。


按摩代は子供の按摩の揉み代、上下揉んで二十四文。大人の按摩は上下揉みは四十八文であったのだ。

現代でいえば、お手軽クイック整体というところである。


もちろんこれが相場であるから、世間にはこれより高い料金を取った者もいたであろうし、割り引いた場合もあったろう。

これを酒の価格と比較すると実感としてよく分かる。

安政の時代では、上酒一升が三百四十文から四百文(約二千四百円)のあいだであったという。『守貞漫稿』

ただし当時には、今のように酒に割高な税金は掛けられてはいなかった。











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タグ:薬用植物
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2017年03月23日

大江戸の雰囲気を味合う「鬼平犯科帳」シリーズ

旨そうな「五鉄」の軍鶏鍋が喰いたい

ようやく池波正太郎の「鬼平犯科帳」全24巻(文春文庫)を読破することが出来ました。

これまでにも「鬼平犯科帳」は読んだことはありましたし、機会があれば「オール読物」に連載されている作品も何篇かその都度読んでいました。

今回はあらたまって全巻を片っ端から読み進めて見たというわけです。

30年以上以前の若い時に読んだ鬼平シリーズと比較すれば随分と違った感じがするもので、そこここに漂う独特の江戸の風情というものを今一度しっかりと味わったような気がしました。




粋人








吉右衛門

 







鬼平犯科帳 第1部 第19話   多岐川裕美(むかしの男)









鬼平より味わい深い言葉 1 「侍の心」

 








鬼平より味わい深い言葉 2 「異星より降った生き物」

 








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タグ:時代小説
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2017年03月16日

江戸の街中には魑魅魍魎の類が疾駆していた!?

創作物語「憑依(つく)」

平助が銭湯から戻ったときのことであった。

家の角を曲がったとき薄暗い門口辺りに人影があった。

近付いてみるといかにもみすぼらしい格好の老人であった。

老人は平助の姿を認めると足早に近付き笑顔を浮かべてみせた。

「これは旦那、おかえりなさいませ」
老人は軽く会釈するとそういった。

そのように親しげに挨拶されても平助にはまったくその老人には見覚えがなかった。

「はて、どちら様でしょうか?」

平助は怪訝そうな表情のまま、老人の顔をしげしげと覗き込んだ。
年恰好は六十歳前後であろうか。

白髪ではあったが、顔の色艶はよかった。
どんぐり眼で眉は薄く、鼻にはやや赤みがあった。

どこにでも居るような年寄りの顔であって、特に印象に残るような顔ではなかった。
身なりはいかにも着古した感じで、薄黒く汚れていくつもの綻びが目に付いた。
まったくのぼろ着そのものであった。

「あっしは、天神町の方からまいりやした」

「はて?天神町といっても、あいにく知り合いはありませんが」と平助がいうと、老人はいきなり平助の手を取った。

「いやお忘れになったのも無理はございません。旦那には三十年ほど前にお会いしたきりで、あっしももっと若かった」

老人はそういうと、涙ぐんだ目で平助を見つめた。

「あっしがこの通りで行き倒れているとき、旦那はあっしに銭を恵んでくださった」

「ちょいと待ってくださいよ。三十年も以前だったら私もただの餓鬼ですよ。それにそんな昔の記憶とてありゃしない。そりゃあ誰かの間違いですよ」

「いや確かに旦那でした。あっしの記憶に間違いありやせん。そのときから旦那とは浅からぬご縁がるものと思っておりやす」

可笑しな話である。30年前の平助の顔を思い出したとしても、いまの顔とをここで比較しようにも到底無理な話ではないか。

老人の言う事は平助にはどうにも合点のいかないものであった。

「三十年前だったらきっと人違いですよ。もしかしたらその親切なお人は近所のどこぞの旦那だったかもしれない」

平助はこれ以上老人とかかわる気がしなかったから、話を切り上げてそそくさと木戸から家の中へ入った。

家に入ると同時に、飼っている柴犬の太郎が木戸口に向かって激しく吼えた。
愛犬の太郎が人に向かってこのように吠えるのは珍しいことであった。



平助が居間で煙草を燻らせていると、何やら勝手口の方に来客があったのか人声がする。

気になって台所の方を覗いてみると、何とそこに先ほどの老人が上がり框に腰掛けているではないか。

しかも老人は平助の女房の目の前で握り飯を食っている。

「ああ、旦那。おかみさんにご厄介になっておりやす」と、老人は平助の姿を目にすると機嫌のいい声を上げた。

「お光、これはどういうことだ?」
女房のお光はきょとんとした表情で平助の方を見上げた。

「お前さんの知り合いだとかで。こちらひどく腹を空かしていなさるようなので、いま握り飯をさしあげたのだけど」

「いや知り合いでもなんでもない。先ほど門口に突っ立っていなさっただけだ」

平助はそういいながら、灯りの下でしげしげと老人の顔を覗き込んだ。

「どこの何方だか手前はまったくおまえ様には心当たりがないので、申し訳ないがここは帰っておくれでないか」

平助は老人に対して少し語気を荒くしてそういった。

老人は困ったような顔で平助を見上げて頷いてみせたが、一向に腰をあげようとはしない。

平助は無言のまま老人に近付くと、脇からぐっと手を差し入れ抱え上げるようにして立ち上がらせた。
老人にしては意外と重みがあった。

その重みは老人の体重そのものなのか、平助の力に意識的に抵抗しているのかは判然としなかった。

それでもようやく老人の体を勝手口の外に押し出した。
平助は憮然とした表情で戻ってきた。

「あの爺さん一体何者だろうね。夜分に人の家に入り込んで来て、またく迷惑なことだ」

夜なかに何度か太郎の吠える声が聞こえたようだったが、平助はそのまま気にせずに眠ってしまった。


翌朝平助が家の外に出てみると、昨日の老人が昨日同様に門口の前に突っ立っていた。

「一体うちに何の用ですかい。理由もなくしつこく付きまとうと自身番に届けますよ」
平助は表情をこわばらせてきつくそう言い放った。

自身番は、町奉行の監督下にあって町内に設けられている警備のための詰め所であり、自身番屋とも呼ばれていた。

町内の家主や雇い人が交代で詰めていて、時たま市中見周りの役人も顔を出すのである。

老人は平助に向かって軽く会釈をしながら、へらへらと笑いながら悪びれた様子も見せずに前の通りを往ったり来たりしていた。

目の前の怪しげな老人は一晩中家の前に佇んでいたのかと思うと、平助にはこれは尋常ではないという不安感が一気にわいてきた。

まるで宿なしの浮浪者同然であり、どうみても薄気味悪いとしか言いようがなかった。

平助は家人に不審な老人が門口辺りを徘徊していることを自身番に届けておくように言いつけると、その日は用事があって上本町まで出かけていった。

家から出てしばらくすると誰かに付けられているような気がして、平助が思わず振り返ると例の老人が見え隠れしながら後をつけて来ていた。

いよいよこれは怪しい。

平助は後を付けてくる老人をまいてやろうと早足に通りの角を曲がると、細い路地に入って一気に掛け抜けた。

路地を二三度曲がって大通りに出て後ろを見ると老人の姿はなかった。
平助は老人をうまくまいたと思った。

平助は用事を済ませて帰路に就いたが、怪しい老人の姿はどこにもなかった。
平助がひょいと大通りから横道に曲がった時であった。

横合いから黒い影が飛び出してきて、平助はそのままぶつかりそうになった。
「ああっ!」
平助は思わず声をあげた。

「旦那、いまお帰りですかい」
平助の目の前には、ぼろ着姿でにたにた笑うあの老人が立っていた。

平助は老人を無言で睨みつけて押しのけるとそのまま歩き続けた。

老人が後を執拗に付いてくる足音が平助には聞こえた。
「いい加減にしろ!」

平助はそう叫びざま振り返ると、老人の胸倉を掴んで思いっきり付き飛ばした。
平助は重い手ごたえを感じた。

老人はころころと地面を転がると、身軽にすっくと起き上がると再び平助の前に立ちはだかった。

このときの身のこなしの素早さはとても老人の動きとは思えなかった。

平助はこのときいままでにない恐怖を覚えた。
平助は老人に掴みかかると、その体を力一杯振り回すようにして投げ飛ばした。

老人の体はまたしても地面を横にころころと転がった。
「もう付きまとうな!」

そう叫びながら、さらに平助は路上の木切れや小石を掴むと老人に向かって投げつけた。
平助はそれほど必死であった。

その瞬間であった、地面に転がっていた老人は起き上がりかけたかと思うといきなり動物のように四足で逃げ出した。

平助にはその後ろ姿が犬のようにも狸のようにも見えた。

逃げながらその顔は平助の方を見ていた。
それはほんの一瞬のことであったが、もはや老人の顔は笑ってはいなかった。。

老人はそのまま狭い路地に走り込んで姿を消してしまった。

平助はその場にしゃがみこんだ姿勢であったが、心の臓が煽って呼吸するのに息苦しいほどであった。

平助はあれ以上老人がしつこく迫ってきていたら、あの後どういう行動に出ていたか自分でもわからないと思った。
それほどにこのときの平助は無我夢中で混乱していた。

平助は少し落ち着くと自分が夢でも見ていたのかと思わず頬をつねってみた。

その気味の悪い老人との遭遇から一か月ほど経った頃、女房のお光があの老人を隣町で偶然見かけたと言ってきた。

詳しく聞くと隣町の有馬屋という大店に入って行くところを見たという。

「有馬屋というとあの縮緬問屋の大店だろう?」

「そうですよ。でもねおかしいことに、あれほどみすぼらしい風体なのに誰も店に出入りするのを咎めないんだから。皆知らんぷりなんですよ」

「あの爺さんが店に出入りしてたって?」

「はい、少し離れて見ていたのだけど誰もお爺さんのことに気付いていないみたでしたよ。もしかしたら店の者にはあのお爺さんの姿が見えていなかったのかもしれない」

「見えていないって、そりゃあ妙な話だな。現に俺たちにはあの薄汚い爺さんの姿がちゃんと目に見えていたし、必死になって追い払ったりもしたわけだし」

そう話しながら、平助はあの薄汚い不気味な老人が自分のところからどうやら離れていってくれたことを心のどこかで安堵していた。

それからまた一か月経過したとき、思いがけない出来事が起こった。


夫婦で話していた隣町の大店有馬屋が数日前に潰れたというのである。

詳しいことは分からなかったが、すでに店は閉じてしまっていると女房のお光は平助に話した。

「あれだけの構えの大店だったのに、本当に一夜にして潰れたそうですよ」

「そろそろまた不景気風が吹き始めたのかもしれないぜ。それとも例の疫病神みたいな爺さんの仕業かも知れねえ」

このとき平助は、疫病神という言葉が自分の口から出たことにはっとした。

「違えねえ、あの爺さんは確かに疫病神だ。疫病神だか貧乏神だか知らねえが俺の家にとり憑こうとしていたんだよ」

「貧乏神が目に見えたってこと?」

「そうさ、人目に見えない貧乏神がどうしたわけか俺たち夫婦には見えたってことだ」

「うちの太郎にも貧乏神は見えてましたよ。しっかり吠えていたもの」

平助が愛犬の太郎の方に目をやると、太郎は嬉しそうに平助の傍に走り寄って来た。










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2017年02月11日

大江戸に救急医療体制はあったのか?

お江戸の籔井は有名人!

藪医者(藪井竹庵)、あるいは、やぶくすしという言葉は、相当に古くからあったようである。

『広辞苑』によると野巫医(加持祈祷の呪いで病気を治療する者をいう)からできたとしているから、それなりに歴史的伝統があることになる。

ずいぶんと以前に「医道三訓」なるものを何かの本で読んだ。
医、非仁愛之士、不可託。医、非聡明達理、不可任。医、非廉潔淳良、不可信。」

そこには医療に求められるであろう切実なる理想が込められていることが、ひしひしと伝わってくる訓戒である。

それこそ江戸時代までは医者になるのに国家試験も免許制度もなく、資格自体に特別な条件は要らなかったのであるから、その医術の質を問うほうがおかしいくらいの時代背景があった。

多少専門的知識や技術は必要であったであろうが、要は周囲の者が医療技術者として認めるかどうかということであって、その他の専門技術者と同様の認識であったのだ。

それでも医術というからには武術並みに免許皆伝ぐらいあったであろうと思うのだが、それすらもいらなかったのである。

まさに役者、芸者、易者の同類であったわけである。

当然、巷には良医、名医などは数少なかった。

早い話、中には読み書きがまともにできない藪医がごろごろいたのである。

ものの本によると、「元禄以来は太平の御代となり、医者の真似する者が、何時の間にやら頭を丸めて、長羽織、見る内に駕籠乗物にとび上がり昼夜いそがしげに走り回り、 子孫虱のわく如くに分散して国々の果、村々に医者のなき所なし・・・」とある。

これが明治の始めまで続いたのであるから、実に藪医という言葉が現実に生きていた時代であったというべきである。

そのように見てくると当時流行った川柳に出てくる藪医の描写が、まんざら誇張されたものではなかったことがよく分かる。

ここでそれを少し紹介してみたい。

たとえば新米の藪医もはじめは「薬屋に毛のはえた奴あたま剃り」などと茶化されたりするのだが、 そのうちに「半殺しにして余人へと藪医言い」とか、「藪医者は一人治すと二人死に」 とか町中で悪口をいわれるようになる。

やがては「竹庵はまたも四五人後家を出し」とか噂されるし、いよいよにエスカレートしてくると、「殺すもの上手の女郎下手の医者」などと嫌なことも言われだす。 

医者が往来を歩いていると、「八幡よりもっと怖いは医者の藪」と陰口をたたかれたり、終いには「人の命の惜し気なく藪医盛り」ときついことを耳にするようになる。

往診に行っても、「やぶ医の入った家に殺気立ち」とか、「ひと思案ござると藪医のこわいこと」などと言われ、これでは面目まるつぶれである。

その一方で昔からの権威、格式を鼻にくくりつけたような医家の名家といわれるところもあった。

旁もって療治灸治のため、医骨の仁を相尋ね候といえども藪薬師は間々見え来るが、 和気・丹波の典薬、かってもって逢ひがたく候」──『庭訓往来』、とあるとおりこれらの将軍家の典薬頭の格式は高く、江戸時代ともなるとその子孫の半井家は千五百石、今大路家は二千石もの家禄があった。

ここらは相当に羽振りが良かった。

それに対して市井の町医者の方も負けてはおらず、宣伝も行きわたって大いに市井に名を上げるものがいた。

土生玄碩は目薬の売薬で巨富を得て有名であり、ついには将軍家の侍医まで出世した。

有名な杉田玄白も『解体新書』の出版で大成功を収めたから、収入では土生玄碩に負けてはいなかった。

文政年間、京都の医師のなかで最も収入が多いと自負した新宮凉庭は、大阪鴻池家からの療治謝礼だけで年間の生活費が充分に足り、他に二千五百両(約二億円)もの年収があったと弟子に自慢気に話したという記録がある。

原南陽という医師は落ちぶれて江戸に出て小石川あたりの裏店を借りて按摩や鍼を業としていたが、やがて己の才覚で水戸公に五百石で召しかかえられたという。

これは当時としては破格の抜擢であり、人がうらやむ出世であった。

とはいえ、開業が自由なだけ同業同士の過当競争もあって、すべての町医者が裕福というわけではなかった。

落ちぶれたままの境涯の者も少なくなかった。

たとえば元禄御畳奉行(尾張藩士)の日記に、「頃日、いせ町伝馬町下る丁、町いしや(医者 )若山玄昌女、弐拾参歳、父の脇指を腹へ突立て、未だ死なざる内に両親見つけ、押し留む。書置および歌あり。父の貧を悲しみてのこと也。云々(正徳元・五・五)」とある。

これを見ると良医であろうと藪医であろうと世渡りするにも、それ相応の算術の才覚がものをいった。

駕籠代の上前を取る流行医者」というように、昔は往診の際に共回りをぞろぞろ連れて行き、駕籠代や弁当代を患家から頭数分もらっていた。

藪医といわれようと、当時はこれくらいの図々しさが必要だったのである。   

当然のことであるが、現代のような国民皆保険の制度などない時代であったから一般庶民や貧乏人は質の高い医療など受けられる余裕はなかった。

江戸時代の平均寿命は30歳前後であった。

衛生事情はもとより、栄養状態が悪く出産時の母子の死亡率が高かったし、疫病が流行って命を落とすことも少なくなかったからである。

流行り病といわれた感染症には一般庶民は無力であった。


九十歳以上の長寿を保った葛飾北斎などは、当時はきっと人間離れした化け物と見られたはずである。















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タグ:流行り病
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2017年02月09日

<ローマ法王>高山右近を「模範者」と持ち上げる!

決死の覚悟であった高山右近と村山等安

学校では絶対教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?


逃れようのない命運の下、
誇り高き同志のキリシタン高山右近と村山等安との最後の別れ


東洋医学史研究会
宇田明男


<ローマ法王>高山右近を「模範」と称賛

毎日新聞 2017/2/9    

【ローマ福島良典】フランシスコ・ローマ法王は8日、江戸幕府のキリスト教禁教令で国外に追放されて殉教し、カトリックの崇敬対象「福者」になったキリシタン大名の高山右近(1552年ごろ〜1615年)を「模範」とたたえた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170209-00000095-mai-int




●キリシタン高山右近との別れ

戦国の武将で摂津高槻城主であったキリシタン大名高山右近をご存知であろうか。

右近は秀吉の支配下で大名の座を捨てた後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後などに隠れ住んでいたが、天正16年(1588年)に加賀の前田利家に招かれそこで1万5千石の扶持を受けていた。

この間は、右近の周囲は平穏であるかに見えていた。

徳川時代になると全国的にも幕府によるキリシタン弾圧の動きが顕在化しつつあったが、この時も高山右近は加賀前田家の客人として遇されており、そこでは一介の武将として留まっていた。

しかしながら、徳川幕府はかってのキリシタン大名であった高山右近のことを忘れてはいなかった。

国内のキリシタンの動向に目を光らせていた幕府は、その弾圧の矛先を彼にも向けてきた。

それは徳川と豊臣との間で高まりつつあった戦乱の気配とともに、国内のキリシタン勢力が次第に豊臣方に近づきつつあったからである。

徳川幕府は、高山右近らのキリシタン勢力が豊臣方に加担して一斉蜂起することを最も恐れていた。

幕府の手前、そのまま前田家に留まっておれない状況にかねてより苦慮していた右近は、幕府の禁教令を受けてついに意を決して一つの行動を起こした。

人々の引きとめる中加賀を自ら退去すると、他の追放されるキリシタン信徒や修道女300人余りの列に加わったのだった。

京都を経由して一族とも合流し、彼らと共に遠く九州の長崎の地までそのまま移送されていった。

高山右近ら一行は慶長19年(1614年)の4月20日に長崎に到着し、その後の幕府の処置が伝えられるまで市内の教会に全員収容されることとなった。



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右近が長崎に移送されてきたとき、長崎代官としてまた同じキリシタン信徒として村山等安は複雑な想いで収容先のトドス・オス・サントス教会(現在の長崎・春徳寺)に駆けつけてきた。

右近は家族とともに追放された内藤如安(元丹波守護代)らとも合流したあと、長崎からマニラに送られる船に乗ることになっていたが、このとき村山等安は経済的援助だけでなく渡航に必要な2隻の船を彼らに提供した。

ただこのとき等安は独自の台湾遠征計画を練っていた時期であり、その船団編成の準備のため不本意ながら右近一行に対しては老朽船しか用意できなかった。

秀吉の下で大名の地位にあった右近は、長崎の等安とも以前から茶道を通じて交流があった。

しかも右近が長崎まで伴ってきた妻はジェスタという洗礼名であったが、これは等安の妻の洗礼名とまったく同じであっこともあって二人の武人は同志として肝胆相照らす仲でもあった。

戦国時代にあって高山右近は人一倍猜疑心の強い織田信長や豊臣秀吉の下でも信任を得ていただけでなく、武将として多くの大名からも絶大な信頼を寄せられていた稀有な人物であった。

当時、右近の説得によってキリシタンになった武将も少なくなかった。

当初幕府は右近の処刑も考えていたが、それによる国内のキリシタン勢力の反発を危惧して最終的には国外追放の方針に傾いたという経緯があった。

慶長19年(1614年)9月24日、ついに長崎の高山右近らに対して国外追放の命令が幕府より下された。

その直後に、(陰暦9月10日という)最後の別れの挨拶に村山等安の屋敷を訪れた右近は、そこで彼の盟友で茶友でもあった豊前藩主の細川忠興への礼状として「日本訣別の書簡」をしたためるとそれを等安に事づけたという逸話がある。

出航を待つこのつかの間に等安と右近とは、そのとき共に何を語らったであろうか。

今回の右近らの国外追放には、等安の次男の長崎教区神父の仲安フランシスコ・アントニオ・村山も含まれていた。



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すでにこのとき、ある事件を契機にして長崎代官村山等安の身辺にも幕府の厳しい監視の目が張り巡らされていた。

彼とてもうどうにも後戻りはできない状況に置かれていた。

次第にキリシタン迫害が苛烈化する状況にあって、二人はここで始めて心に秘めていた国内での迫り来る騒乱の懸念について互いに触れたはずである。

等安も高山右近ももはや豊臣方と徳川方の衝突が避けられないことと、さらにはそこにキリシタン勢力を巻き込んだ大乱勃発の危険性とをはっきりと認識していた。

二人は、次第に追い詰められていく多くのキリシタン同胞の行末を案じていた。

そうした中、右近が追放された直後の慶長19年(1614年)10月2日、ついに豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし、徳川方との戦争準備に着手した。

これは予想されていた展開であった。

それまでにも徳川と対立を深めていた大坂方から、密かに金沢の右近の元へは参戦の誘いの使者が度々訪れていた。

キリシタン大名として高名であった高山右近がここで豊臣方の加勢として味方して立てば、全国のキリシタン宗徒が彼の元へ参集することは明らかであった。

大坂方は右近を陣営に引き入れようと画策していた。

だが右近はそのような形で彼のキリシタンとしての立場が利用され、多くの犠牲を伴う大乱に加担させられることを極度に嫌っていた。

ここで右近が動けばより大きな大乱を招き、結果的には多くのキリシタン信徒や彼を慕う遺臣らを戦乱に誘い込むことになるとして、まずそれを回避しなくてはならないと考えていた。

もとより右近は、キリシタン宗徒が犠牲になる騒擾や戦乱を望んではいなかったし、何ら野望も抱いてはいなかった。

そのようなこともあって、右近はこの時を選んで自らこうした幕府の海外追放を選択し潔く受け入れていたのだった。

右近も等安も、もはや戦国の武将としての自分本位の功名心はまったく持ち合わせてはいなかった。

彼らの前にはそうした野心とは無関係に、命を賭して守らなくてはならない弱者としての多くのキリシタン同胞が周囲にいたのである。

そしていまようやく高山右近は、幕府監視の下にマニラ行きの船に乗船することとなる。

かって高山右近がキリシタン大名として奴隷貿易に直接関与したかどうかは不明であるが、このとき彼ら一族が長崎の港から奴隷船とまったく同じ航路を通ってマニラへ渡航することになったのは事実である。

彼ら一行はキリシタンとしての自由の地を求めていたのであろうが、奴隷と同じように遠く祖国を離れていかざるを得なかったことは何とも言えず皮肉な展開ではあったであろう。

右近との最後の別れに際して、このとき村山等安は己の驚くべき胸中を打ち明けてみせた。

等安は、このときマニラに追放される船から神父たちを密かに小舟で連れ戻すという大胆かつ危険きまわりない行動に出るのである。












削除されなければこの稿続く








参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
「不干斎ハビアン―神も仏も棄てた宗教者」釈 徹宗著 新潮社 2009
「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学
















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2017年01月21日

映画『沈黙』の次は大作『島原大乱』だろう!

いよいよ公開、映画『沈黙』

ハリウッド映画『沈黙』は、現代の日本でどう受け入れられるのだろうか。

原作は遠藤周作の小説であり、出演者も日本人が多数出ている。

原作小説は世界的にも高い評価を得たとされる。

映画そのものは宗教を題材にしたとても重い作品であり、過酷な拷問に苦しむキリシタン信徒の姿も描かれるわけだから、観る側も相当な覚悟がいるであろう。

映画作品にしろ、歴史小説にしろフィクションであるから、そこには独自の演出や誇張もあるであろうし、もっとも重要であるところの宗教教義に至ってはどこまで理解が及ぶものなのか分からない。


この作品は1966年に発表された直後、小説として評価されたにも関わらず、当時のカトリック教会に否定され、鹿児島、長崎では長い期間にわたって発禁本扱いにされていた事実がある。

この作品の時代設定は、島原の大乱が終わった直後の長崎が舞台である。

未曽有の島原の大乱とキリシタンとの関係を一体どう評価するというのか。

あの3万7千人もの犠牲者を出した大乱の直前ではなく、終息してしまったところから物語の幕が上がるということは、日本人としてはいささ違和感を覚えるところである。

時代背景から言えば、いわゆる日本のキリシタン迫害の過渡期、もしくはそのもっとも過酷な時期からは焦点が外れているともいえなくもない。

むしろ時代設定がそこにわざわざ絞り込まれていることで、キリシタン弾圧の過酷さだけがより強調されてくるのは確かである。

そこがこの映画の一つの狙いなのかもしれないが、そこには何かが都合よく見落とされている感じがする。

結果的事象の前には、その発生事由としての原因そのものがあるはずなのだ。

それは宗教的迫害が生まれた理由の明確化が、そこに厳然と示されていなくてはならないであろうということである。

それでなくては、そこに至るまでのキリスト教伝来以降の歴史的経緯として捉えておかなくてはならない時代背景はもちろんのこと、そこから生じたいくつもの宗教がらみの事件の重要な部分が欠落してしまっていることになる。

それが示されなければ、当時のキリシタン宗徒が何故に為政者からあれほどに忌み嫌われ排斥されていったのかの歴史的流れが曖昧なままで表には出てこない。

いうなればこの映画作品は、まさしく五幕物の最期を飾る悲劇作品というべきものであろう。

実際には、今回ここでは開幕公演されない一幕から四幕が存在しているのである。

しかもそれらがすべて悲劇的展開となっている。

多くの日本人は、そのことには関心を持たないであろう。





コロンブスを称賛し過ぎる歴史教科書
http://touyouigaku55.seesaa.net/article/440227547.html


戦国の奴隷取引は当たり前だったのか?
http://touyouigaku55.seesaa.net/article/433838442.html

南蛮に買い叩かれた戦国日本人奴隷
http://kenkoubook.seesaa.net/article/427942352.html

アジアにおける日本人奴隷の実態
http://kenkoubook.seesaa.net/article/427976864.html

奴隷貿易の儲けは山分け
http://kenkoubook.seesaa.net/article/443830699.html

日本でのイエズス会が採った見事な軍事戦略
http://kenkoubook.seesaa.net/article/427867734.html


秀吉は何故イエズス会の長崎城砦を破壊したのか?
http://touyouigaku55.seesaa.net/article/445128986.html

長崎代官は何故イエズス会と対立したのか
http://kenkoubook.seesaa.net/

知られざる元和の大殉教
http://kenkoubook.seesaa.net/article/445857820.html

海外からもたらされた火種が燻る島原領内
http://kenkoubook.seesaa.net/article/417899070.html

島原鉄砲軍団の装備と練兵の核心に迫る
http://kenkoubook.seesaa.net/article/445214175.html














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2017年01月20日

尖閣諸島を手放せ、尖閣は要らない!?

学校では絶対教えられない九州歴史発見シリーズ

南蛮に妨害された等安の台湾遠征
村山等安の台湾遠征は無駄だったのか?
台湾遠征計画に驚愕した長崎イエズス会
中国側(明)が支配海域をはっきりと明言した事実

東洋医学史研究会
宇田明男





「尖閣諸島を手放せ」■「尖閣は要らない」  ?


1615年徳川幕府は、大坂方の豊臣と戦端を開いた直後に、長崎代官の職にあった村山等安の台湾遠征計画を実行に移させるべく朱印状を与えた。

台湾遠征については、事前に長崎奉行・長谷川権六の薦めがあったのか、あるいは村山等安が自ら幕府に建白したのかは定かではない。

どちらにしても、事の発端は九州のキリシタン勢力と認識されていた等安の勢力をここで削ぐことを密かに画策していた幕府側の動きとも同調したものであったことは確かであった。

しかもこの台湾遠征という対外的事業に伴う一切の費用そのものは村山等安がすべて負担したのである。

長崎代官という公職に就いてはいたが、元を糺せば等安は一介の貿易商でしかなかった。

貿易商としての己の才覚で財を成していたとはいえ、等安は台湾遠征のための資材や船舶、さらにはそのための戦闘要員までをも事前に準備しなくてはならなかった。

おそらくそれは数十万石の大名でも難渋するであろう大事業に違いなかった。

彼の狙いは、まず第一に台湾島に交易の拠点、もしくは中継点を設けて直接日本と中国(明)との通商路をしっかりと確保することであった。

ここには貿易商としての等安の経験と独自の見識とが働いていた。

第2点は、隣接する中国沿岸海域や尖閣
諸島を含む海域での船舶の航行の安全を期するために日中間の支配海域と国境線を明確にすることにあった。

ここにも領有、支配海域という明確な認識がすでに等安にはあった。

第3点目は、これらの海域で暴れる倭寇勢力(海賊)の制圧にあった。

当時海賊の横行が、この海域での対外的交易において大きな障害となっていた。

この時期、東シナ海海域の倭寇勢力は台湾島にもすでに拠点を構えて暴れていた。

こうした視点に立ち得たのは、村山等安の貿易商としての長年の実務的経験と知識とがあったからである。

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このときの等安の台湾遠征計画自体は、江戸幕府だけでなく内外に大きな驚きを持って受け取られていた。

実はこの村山等安の台湾遠征の計画にもっとも敏感に危機感を持って反応したのは、かねてより生糸の転売で大きな利益を上げていたポルトガル商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。

ここにきてイエズス会と敵対する長崎の等安勢力が台湾へ遠征するという情報は、同じ長崎で活動する彼らに少なからぬ驚きをもって受け取られた。

もしもこの等安による遠征計画が成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになるわけで、その結果彼らがこれまで独占してきた仲介貿易事業も宣教活動も一気に破たんすることになることは明白であった。

彼らからすれば、等安の遠征計画はそれだけ衝撃的なものであった。

これに対してすぐさま南蛮勢力は結束して直ちに遠征の妨害工作に出た。

実はこうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非でも阻止するように、彼らには教会上層部から特別に指示が出されていた。

それは日本の為政者である将軍が、明(中国)との直接の交易を強く望んでいることを事前に察知していたからであった。

1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスーン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」p173ー175 : 高瀬弘一郎著

「台湾を獲得して中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害するよう命令」(1610年、文書13)より引用。
 「現在日本全土を統治している国王(=徳川秀忠)は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている、と。其処は泉州の沿岸の近くである。彼の意図は、それ〔フォルモザ島〕を獲得して其処とシナとの間の貿易を手に入れることである。(中略)日本人たちにそれ〔狙い〕を遂げることなど出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼する。」引用終わり

南蛮がこうした対抗策に出る直前の慶長十三年(1608年)、家康は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見していた。

幕府はここで台湾で勢力を持つ高砂族との関係を改善して明国や東南アジアとの交易の際の中継となる拠点造りを強く望んだわけだが、いまだにそれは果たせないまま推移していた。

翌年の慶長十四年(1609年)、九州の大名有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すため渡海したが、台湾の原住民との交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。

これとて事前に講じた南蛮勢力側の妨害工作が成功した結果であった。

こうした中で今回あらためて長崎代官・村山等安が、台湾遠征計画に名乗りを上げたわけである。

それに至る経緯は判然としないのであるが、この時期そのような建白書が等安から幕府へ奉じられていたのかも知れないところである。

幕府主導によってすべてここで台湾遠征の事業が考えられていたとしても、それを実施すること自体大変な企てであることには違いはなかった。

この間にも徳川と豊臣との戦いが、大坂では続いていた。

そうした状況の中で、台湾遠征と長崎代官である村山等安と結びついたことは誰がみても意外な展開であったはずである。

幕府にしてみれば、あるいはこの時期キリシタンである村山等安の勢力をここで削ぐために、無理難題が一方的に押し付けられたということも当然考えられよう。

幕府はすでに等安を西国におけるキリシタン勢力の中心人物として捉えていた。

当然こと、ここでは双方に腹の探り合いがあったはずである。

少なくとも台湾遠征ということであれば、村山等安自身には貿易商としての独自の見聞もあったはずであり、ここで長崎代官として自らそれ相応の手立てを幕府に建白して忠誠心をみせたのかもしれない。

逼迫した国内情勢を考えれば、このときそうした駆け引きが長崎のキリシタンを守ろうとする等安には是が非でも必要であった。

台湾遠征を企てるだけの力量なら、彼なら戦略を練る一かどの武人として、また貿易商として十二分に備わっていた。

長年代官職にあって、等安は同時に幕府直轄領長崎の貿易商としても活躍していたわけで、この間に多くの対外的交渉の場にも関わってきていた。

朝鮮や中国明国の海商はもとより、南蛮勢力や倭寇とも呼ばれた海賊とも少なからず交渉があった。

等安はその際も、彼らとの交渉に相手の言語で対応できる語学力を習得していた。

少なくとも彼には日本の国益を守ろうとする、武人としての気概があった。

等安の頭の中には、交易上の航路に関連する領海線や海洋上に点在する島々の領有権というものの重要性が強く意識されてきていた。

それはこれまでの南蛮との多くの商取引や貿易で培われた等安独自の外交感覚でもあった。

すでに南蛮勢力は東南アジア(マニラ)や中国(マカオ)などに交易上の拠点を確保してきており、強固な要塞を設けるなどしてその勢力を拡大しつつあった。

新たに交易に参入してきたオランダなどの西欧の重商主義的動向を密かに窺っていた等安自身は、西洋人がじわじわと東アジア海域や日本近海に拠点を設けて迫って来ていることを忸怩たる思いで眺めていた。

それだけに海上の通商路をしっかりと確保することと、日本の交易船が何の制約もなく自由に航行できる環境が必要と考えていた。

当初より等安は交易に付随して、台湾遠征計画においてもこの辺りの外交的な問題を明確にさせることを意図していた。 


台湾遠征が後世にもたらしたもの

もしも等安の台湾遠征が成功すれば、結果的に南蛮人商人は大きな打撃を受けるはずであった。

南蛮貿易の利権が一気に失われればイエズス会の日本での宣教事業も経済的に破綻して、たちまち頓挫してしまうことになる。

明らかにイエズス会と対立する等安の狙いは、当初よりそこにもあったはずである。

すでにこのとき等安は長崎周辺のイエズス会勢力とは熾烈な敵対関係にあった。

当然等安と敵対する彼らは、常にこうした日本側の動きには敏感に対応していたわけで、そうした南蛮商人やイエズス会勢力側から何らかの妨害工作があることをこのときの等安自身はどこまで予測していたのであろうか。

皮肉なことに村山等安とイエズス会勢力とは立ち位置や利害関係の確執から、ここでも互いに対立する状況が続くわけである。

国内だけではなく、すでに対立するそうした国外勢力も等安を抹殺するために背後で密かに画策し始めていた。

そのための資金提供も成されていた。

さらには当時の南蛮勢力は、中国沿岸の海賊集団である倭寇とも緊密に連携して実効性のある妨害工作を前もって講じていた。

等安の台湾遠征の企ては琉球王朝を通じて中国の明にも事前に伝えられ、沿岸海域での警戒感も高まっていた。

政略に長けた者同士、おそらくそうした水面下の熾烈な情報操作の戦いは当事者同士であれば十分に感知していたはずである。

等安の台湾遠征そのものの国内情報が少ないのは、ほとんど外部に対して秘密裏に進められたという事情が背景としてあったからであろう。

だが先に上げたように、等安の台湾遠征の情報そのものは早い段階で南蛮人や明国だけでなく、すでに周辺海域の倭寇らにまで瞬く間に知れ渡っていた。

言うなればそうした等安の画策に抵抗する多くの勢力がひしめく状況下にあって、あえて台湾遠征隊は送り出されたということになる。

長崎より、総員4000名の台湾遠征隊を村山等安は送りだした。

遠征隊の総大将は等安の息子長安(三男)であった。

急遽長崎港周辺から結集した十三艘の遠征船団は、元和2年(1616年)5月4日に出航したが、時期的に早過ぎたこともあって直後に琉球近海で激しい暴風に遭遇する。

遠征隊の総大将である村山長安の船を含む三艘は交阯(ベトナム)に漂着した後、翌年の元和3年7月に何の成果も得られずそのまま帰国を強いられた。

明石道友の船を含む別の三艘は台湾北部に漂着し内一艘の部隊はどうにか上陸して要塞を構築したが、周辺の原住民やその地を拠点としている倭寇の執拗な攻撃に晒され、さらに兵糧の補給不足で戦闘不能となり全員が自害してしまったためそれ以上の攻略を断念せざるを得なかった。

残りの七艘も暴風で遭難し船体に大きな損害を受けたが、琉球で船を修理した後に金門島、澎湖島を経て再度台湾の竹塹に上陸を果たした。

その後七艘は大陸沿岸部にまで進行して明国に交易を求めているが、何ら成果は得られず結果的には遠征自体はここでの交渉は失敗に終わってしまった。

明国の日本に対する警戒心がそれだけ強かったのである。

日本と明国の関係がこれまで同様に改善されないということは、ポルトガル側と倭寇との間に共通する海上交易の権益が従来通り維持されるということを意味した。

結局彼らによって準備された妨害工作が功を奏して、もっとも恐れていた明国と日本側の直接交易という計画は阻止されてしまい、今回の等安の遠征計画は完全に失敗に終わってしまった。

遠征したこれら船団の一部は周辺海域の倭寇とも果敢に交戦していたが、排撃の姿勢で待ち構えていた金門島の明国軍司令官・沈有容の軍船と激しい戦闘を交えうち1艘の船を失っている。

軍司令官の沈有容はこの戦功により福建水師提督に任命された。

遠征船団は、このとき東湧島で漁民に紛れこんでいた明国の偵倭官・董伯起を捕えて一旦日本に帰国していた。

翌年村山等安は明国との交易を求めるために、拉致してきた董伯起を鄭重に送還することとし、その交渉のすべてを明石道友に任せた。

このとき等安は明石道友に、細心の注意と細かな指示を与えて送り出した。

再度明国と領海と支配海域を確認するためであった。

だが遠征時に日本側と武力衝突があったことで相手の警戒心は殊のほか強く、等安による明国側との通商交渉は進展せずに事実上行き詰ってしまう。

長崎代官村山等安の使者明石道友は、このとき明国側に逮捕され役人(海道副使)に尋問を受けたのである。

その時の経緯が最近ようやく日の目を観た。

「引用開始」
「尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に」
【2013年1月21日 読売新聞】

 中国の明王朝の公式日誌「皇明実録」の中に、明の地方長官が日本の使者との間で、明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言し、その外側の海は自由に航行できるとした記述を、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。

 中国は現在、尖閣諸島を約600年前の明の時代から支配してきたと主張しているが、石井氏は記者会見で、「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、この史料からわかる」と語った。

 石井氏が見つけたのは、江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。沿岸を守る長官だった「海道副使」(海防監察長官)が、長崎からの使者・明石道友を逮捕・尋問した際の記録で、皇帝への上奏文として納められていた。

 それによると、この海道副使は明石に対し、沿岸から約40キロ・メートルの「東湧島」(現在の馬祖列島東端・東引島)などの島々を明示したうえで、この外側の海を「華夷の共にする所なり」とし、中国でも他国でも自由に使える海域だと指摘したという。魚釣島などからなる尖閣諸島は、中国大陸から約330キロ・メートル離れている。

 中国は、明王朝の1530年代に琉球に派遣された使者の記録をもとに、琉球の支配海域の境界は尖閣諸島の東側にある久米島と同諸島の大正島の間にあり、魚釣島などは明の領土だったと主張している。だが、今回の記述により、明の支配海域は沿岸から約40キロ・メートルまでで、尖閣諸島はどこの国にも属さない「無主地」だったことが明らかになった、と石井氏は指摘している。日本政府は、尖閣諸島が「無主地」であることを調査・確認したうえで、1895年に日本に編入したとしている。
「引用終了」










この稿、削除されなければ続く







参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号



















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タグ:長崎代官
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2017年01月16日

発禁本映画「沈黙」の第一幕は絶対に見せられない!?

映画「沈黙」のプロローグ・序章

学校では絶対に教えられない九州歴史発見シリーズ
いまさら歴史認識がどうした?

ここでは不都合な歴史はなかったことにすればいい?
アジアや日本では奴隷取引はなかった?
いずれ拉致事件も原爆の悲劇も人々から忘れ去られる?

ハリウッド映画の「沈黙・サイレンス」の原作は遠藤周作の代表作とされる小説であるが、この作品は1966年に発表された直後、小説として評価されたにも関わらず、当時のカトリック教会に否定され、鹿児島、長崎では長い期間にわたって発禁本扱いにされていた事実がある。


東洋医学史研究会
宇田明男





●長崎代官は何故イエズス会と対立したのか

長崎代官:村山等安(1562−1619)は熱心なキリシタンでありながら、何故にイエズス会教会を敵視し始めたのであろうか。

彼の妻ジェスタも敬虔なキリシタン信徒であり、二人の間に生まれた息子たちもセミナリヨで学んで教区司祭となっていた。

しかしある時期より村山等安は、それまで交流のあったイエズス会勢力を長崎一帯から排除しようとして動き始める。

これ以降長崎の教会は内町(イエズス会)と外町(托鉢修道会・ドミニコ会)とで、それぞれに対立し始めることとなる。

この事実によって結果的には、彼はもとより彼の一族は大きな悲劇に見舞われるのである。

長崎の地に浪人同然のよそ者として流れて来ていた若い等安の才覚とキリシタン信徒としての姿勢とを高く評価し、当初背後から支援したのは他ならぬイエズス会の教会そのものであった。

その後等安が貿易商として台頭していく過程では、両者の利害関係は持ちつ持たれつの親密なものであった。

等安は、イエズス会の司祭が仲介する商取引では積極的に会計責任者(プロクラドール)の地位にあった有能なジョアン・ロドリゲス神父にも近づき、いわゆる、家族ぐるみの友情を育んだ時期さえもあった。


ロドリゲス神父は、そうした村山一族との親しい交流の過程では独自の日本語研究を手掛けることが出来た。
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その成果として日本語の手引書さえも長崎で完成させることが出来たのである。

そのように等安とイエズス会とは、当初良好な関係を保っていたのは確かであったが、長崎が幕府直轄領に移行した時期辺りから両者間には決定的な対立が生まれてくる。

両者の友情とは相容れない政略という激しい確執が生じたのである。

そこには交易の場における南蛮側のあまりにも独占的過ぎる取引に対し、日本側は不満を募らせていたし、長崎の統治においても彼らが不用意に干渉していたことも少なからず影響していた。

従来よりイエズス会のそうした関わり方があまりにも露骨で政略的であったこともあったが、根底には日本人を奴隷種として見下すポルトガル人のいわゆる人種差別的言動に村山等安は次第に不満と怒りとを覚えるようになっていった。

しかも教会内部においてさえも厳然と人種差別が存在した。

等安自身は商人とはいえ旧織田家家臣の出自を持つだけに、もとより武人としての気概と矜持を忘れてはいなかった。

この時代、教会の宣教事業でも内部では日本人の司祭叙階に対しては明らかな差別があったし、彼らの言語を日本人が習得するのにもポルトガル人らは非協力的であった。

それは交渉の場でポルトガル人同士の取引上の、それも内輪だけの会話を取引相手の日本人に聞かれることを嫌ったからであった。

しかしそうした不利な状況にあったにもかかわらず、あえて村山等安は言語習得においてその特別な才能をいかんなく発揮してみせた。

そこには等安の武士としての意地があった。

村山等安はポルトガル商人との交渉も通詞無しにポルトガル語を自在にこなしていただけに、海外経由の多くの情報にも接したこともあって南蛮人の日本における植民地化戦略をいち早く察知した数少ない日本人の一人でもあった。

奇しくも天下人秀吉の信任の下で長崎代官となった等安は、南蛮人の背後には日本侵略の企てがあることを察知していた。

察知しても等安はそのことを外部には黙していた。

口外すれば当然イエズス会教会とのそれまでの親密な関係が崩れてしまうことは明白であった。

貿易商としてもそこには厳しい状況が生じるはずであった。

ところが1606年以降、徳川幕府の治世になると、突然彼は公然とイエズス会教会を批判するようになる。

等安は彼の一族と共にイエズス会教会から離反し、新たに渡来してきた托鉢修道会の教会に改宗したのである。

彼はここで改宗しただけでなく、後発の修道会会派の教会を経済的に支援したのである。

村山等安は徳川の時代になっても大きな権勢を持つ長崎外町の代官職に留まり続けただけに、長崎でのキリシタン信徒の有力者としての影響力は無視しがたいものがあった。

その等安が公然とイエズス会や教会の宣教活動を批判するようになったことで、以降イエズス会とは決裂し対立するようになる。

貿易商として己の財力を肥やすのであれば、その取引相手の南蛮商人やイエズス会と親交を保つのがどこまでも彼自身にとっては得策であったはずである。

だが等安はイエズス会から離れ、あえて真正面から彼らと対立する立ち位置をとったのだ。

イエズス会は等安をあの手この手で懐柔しようとしたが、対立の溝は埋まらなかった。

結局のところ等安という男は、有利な取引や金銭でもってしても籠絡できない彼らにとってもっとも厄介な背教者となったのである。

イエズス会からみればそれまで最も友好的な人物と目されていた等安が、一転してあからさまにイエズス会に敵対し始めたのである。

イエズス会内部には大きな驚きと衝撃が走った。

彼らはそのような等安の動静をみて、ついには等安を最悪の背教者、悪人として非難し長崎から排除しようと画策し始める。

ここから両者の命がけの熾烈な戦いが始まるのである。

村山等安は当初よりポルトガル商人の奴隷取引に強い嫌悪感を抱いていた。

同胞である日本人が奴隷として海外に売られていくことに忸怩たる想いを募らせていた。

しかし南蛮交易上の取引や決済として奴隷売買は、等安自身が生誕する以前の1555年以降すでに日本国内それも九州ではビジネスモデルとしてすっかり定着してしまっていたのである。

等安は長崎の地に流れてきて、始めて奴隷貿易の実態を目にした。

長崎代官という立場であっても、この地で慣習化し根付いた忌まわしい状況そのものはもはや等安の長崎代官としての権勢をしてもどうにも変え難いものであった。

事実奴隷売買自体は、ここ長崎だけの慣習化した商取引ではなかったのだ。

いわゆる奴隷を取引きする大きな市場そのものが、九州各地の交易港に隣接するアジア圏(中国マカオを中心に)にしっかりと形成されていた。

しかもこの商取引の裏には、従来より南蛮商人やイエズス会の教会が仲介者として深く関与していた。

こうした状況は朝鮮半島や中国沿岸部でも同様であった。

これらの地域では従来より海賊の倭寇が跳梁跋扈しており、略奪や奴隷狩り、放火、殺戮を繰り返していた。

奴隷売買とその市場は、背後で彼らとも深くかかわっていた。

倭寇は奴隷狩りで集めた男女を中国マカオの奴隷市場に持ち込み、南蛮の奴隷商人に次々と転売していたのである。

この当時、自国民が奴隷として売られていく悲惨な状況を知った中国広東の役人とキリスト教司教との遣り取りが記録された文書も残されている。


「広東の長官は、朕の家臣たちが略奪された大勢の男女の若者を不正取引で買い入れて、シナからマニラに送るのを嘆き、(中略)聴訴官は、其処〔マカオ〕から〔マニラに〕軍需品を齎す船舶で〔奴隷を〕一人も送ることのないよう尽力し、それを禁じた。これに対し同司教は、言葉と懲戒罪によって彼〔聴訴官〕の邪魔をした。」(「モンスーン文書と日本―十七世紀ポルトガル公文書集」― 高瀬弘一郎訳註「ポルトガル人による中国人奴隷輸出の現実」1614年、文書33、p.276-291」より引用)


ここにあるように、奴隷取引を禁じようとする明国の役人を教会の司祭は何故に邪魔したのであろうか。

奴隷取引はポルトガル商人にとって特に収益の大きな商取引であり、その都度仲介料が教会側に支払われていた。

教会は宣教事業に必要な資金的援助をそうした奴隷取引からも得ていたのである。

それ自体が慣習化し、奴隷売買がアジア地域にヨーロッパと繋がるスタンダードな一つのビジネススタイルとして定着していた。

こうした取引にイエズス会が深く関わり、奴隷の輸出ということで許可書発行(同意書)に関与していたことにキリスト教を棄教した千々石ミゲルや村山等安は以前より疑念と反発とを抱き続けていた。

人身売買するにしても、その根幹の所有権はローマ教皇にあるのであって、さらに教皇文書によってキリスト教国の王はその代理人として、関与する一切の権限をイエズス会と商人とに委ねていた。

そこではたとえポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁じようとも、遠く離れたアジアの端でそれが厳しく守られるはずもなかった。

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ポルトガル国王が日本人奴隷の売買を禁じようとしたのは、奴隷取引そのものが日本での宣教事業の妨げになると考えられたからである。

確かにポルトガルの国王ドン・セバスチャン1世は1571年3月12日付の勅令で、日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布し日本人奴隷の売買を禁止していた。

この勅令が出されたことを現場のイエズス会教会もポルトガル商人も知らぬはずはなかった。

しかしこの交易としての奴隷売買の利権を南蛮商人らはけっして離そうとはしなかった。

なぜなら、そこにいままで同様の奴隷の需要と供給の二つの流れがあることはもとより、奴隷を商品として扱う市場がしっかりと整備された供給地がそのまま用意されているわけであるから、人間の欲望のままにこうした商取引自体は無くなるはずもなかった。

たちまちそうした勅令に対して、ポルトガル人商人からは猛烈な反発が沸き起こった。

奴隷取引そのものはローマ教皇が正式に許可したものであって、国王に何らかの権限があるとしてもそれは教皇の代理人の勝手な意向でしかなかった。


「時には奴隷貿易を止めようとする動きもあったが、ポルトガル人商人たちは抗議を行った。「我々は奴隷を買い入れるために100万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている……従って国王がこの事実[イエズス会の奴隷貿易認可]を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪うことを受け入れることはできない」(『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』北原 惇著)というものであった。


こうした反発はイエズス会もまったく立場は同様であったわけで、むしろ教会側はここでは狡猾とも思えるしたたかな対応策を取引の場で講じてみせた。

教会は、さっそく日本人奴隷を仲介取引することについて好都合な解釈を用意していただけでなく、
イエズス会修道士らは実際の取引の現場を踏まえた上で次のような理由付けでそれを巧妙に正当化してみせたのである。


「ポルトガル国王陛下がそれを命じている以上、われわれは何人をも購入することはないであろう。しかし、日本国民は彼ら自身の子供たちを売却するのを常とするのだ。しかも日本人は彼らと同じ非信徒たちに売却する。つまり、日本国民は日本国民を異教徒たちに売却するのだ。したがってキリスト教徒たちへの売却は、正当であるように思われる。というのは、キリスト教徒は購入した者たちを皆、キリスト教徒にするからである。(1605 年、文書 148)」(大航海時代の日本―ポルトガル公文書に見る―. 高瀬弘一郎訳註)


ポルトガル人たちの奴隷取引に対する認識は、これ以上でもなければこれ以下でもなかった。

奴隷商人であろうと、教会であろうと、もはや奴隷取引なしには済まされない状況そのものが存続していたのである。

そこにはいわゆる普遍的な倫理観などが介在するような余地などはなかったし、こうしたレベルの独善的解釈が奴隷取引には常にとられ続けていた。

かってキリシタン大名であった有馬晴信は、宣教師の要求に応じて領民から百名あまりの少年少女を徴集し、ゴアに本拠を置くポルトガル領インドの副王に奴隷として送った事実があった。

それが政庁での使用人なのか、傭兵要員なのか、そこにはどのような名目が立てられたのかはわからないが、このとき送られた少年少女は体のよいキリシタン奴隷であったのではないか。

ここにある宣教師とは、有馬を軍事面で度々支援していたイエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノのことである。
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そしてこれをヴァリニャーノから直接指示され、実務面で秘密裏に遂行したのがイエズス会の出世頭で実力者でもあった長崎のジョアン・ロドリゲス神父であった。

彼が教会の会計責任者(プロクラドール)の地位に着いた理由も、こうした日本語を自在に操る実務能力をヴァリニャーノから評価されたからであった。

ロドリゲス神父はそうした輸出業務全般に関わっていたが、そこでは実質イエズス会がローマ教皇の代理人として輸出許可証を発行することによって修道会の財政調達を助けていたことによる。

この背景には、イエズス会内部の急速な財政の悪化があり、経済的にも逼迫した状況に陥っていたことも関係していた。

それは日本国内の宣教事業だけでなく、長崎に集まってくる各地の迫害されたキリシタン信徒の救済のための出費など、教会はここでも相当な経費負担を強いられてきていたからである。

そのため長崎のイエズス会(日本本部)はマカオやゴアの上部組織からも多額の事業資金を借りなくてはならず、その負債が相当に積み上がっていた。

その一方で、有馬や大村との交易では取り立てるべき多額の債権が残ったままであった。

有馬や大村といった小大名にとっては、それは大き過ぎる債務に違いなかった。

もとはといえばそれらの債務はキリシタン大名の多額の戦費であって、緊急時にイエズス会の
アレッサンドロ・ヴァリニャーノが巧妙に肩代わりしてやったものであった。

キリシタン大名の彼らにその支払い能力がないのであれば、ここは現物商品を受け取るかたちで、有馬やゴアともどうにかして貸借関係を決済しようとしたであろうことが窺える。

ここでイエズス会教会の会計責任者(プロクラドール)
ロドリゲス神父の登場である。

教会の財政を立て直すためにヴァリニャーノは相当な危機感を持っており、日本語に長けたロドリゲス神父に有馬との負債に関わる決済実務の交渉もすべて任せていたということになる。

ロドリゲス神父は
ヴァリニャーノの意向を受けて忠実にその職務を果たしてみせた。

こうした両者間の裏取引とも言える機密情報を密かに探り出そうとして、いわゆる背教者千々石ミゲルは動いていたのだ。

そのために彼は、教会やキリシタン
からは背教者として執拗に命を狙われ、ついに刺客に襲撃され瀕死の重傷を受けたのである。

彼らから見れば、千々石ミゲルや等安といった背教者、異端者は粛清されて当たり前と考えられた時代であった。

当時のイエズス会の方針では、大衆受けするような宗教的清貧さを表に出すことを避けていたこともあって、宣教事業では特定の大名や貴人との交流に多額の経費を要する状況にあった。

教会は宣教事業や教会のそうした資金繰りに窮していた。

教会内部では、宣教師が商行為である貿易に関与し過ぎることは問題があると考え批判する者もいたが、そうした意見は教会上層部にはまったく受け入れられなかった。

日本布教長をも務めた準管区長フランシスコ・カブラルはその少数派の一人であったが、イエズス会総会長あての書簡で次のように自分の考えを述べている。


「日本の改宗事業のために必要であるとの口実の下にわれわれが少しずつ足を踏み出し、純粋に必要あって、極めて慎重かつ細心に始めたことが、必要というより、無知と貪欲さから行われるようになること、つまり修道士にふさわしい程度をこえて恣に行われるようになるのを非常に恐れる。というのは、すでに今年何人かのバードレが個人でもって、貧者のためとか教会を修繕するためとか言って20ピコ、10ピコと生糸を入手した。この生糸は直ちにその地で転売されたが、このようなことも非常に悪いことだと思われた。また何人かのバードレは、これと同じ口実で、少額ながらこの地で投資するために 金を送ってきた。もしも初期のうちに防いでおかないと、これが嵩じて非常な悪事を働く者も出てこよう。」


カブラルは聖職者が俗事の商取引に深く関わることで、悪事を働く者が出てくることを強く懸念していたが、実際にはあらゆる場でポルトガル商人と共に多くの商取引に宣教師は従来通り関わり続けていた。

カブラルは、なおもイエズス会総会長あての書簡に続けて記している。



「教会の門をくぐつて人々はミサにあずかるが、同時にその傍らの門から生糸や棉放物の梱が運び込まれ、良心問題やその他の霊的な事柄のために来た人々が、中国の財貨や商品が、プロタラドール立会いの下に欄にされているのを目撃するというようなことがたびたび起っているからである。このようなことは、現在の管区長(ヴァリニヤーノ)から多くの許可と権能を得て行われているので、カーザ内に慎みを欠く空気を作り出し、その上少なからず非教化の原因にもなっている」


プロタラドールの神父を操るヴアリニヤーノのそうした貿易推進の姿勢さえもここでは痛烈に批判してみせている。

カブラルとイエズス会東インド管区の巡察師ヴアリニヤーノとは日本での宣教事業でも意見が合わず、遂にカブラルは布教責任者の立場を解任され1582年に日本から退去させてしまった。

これは事実上の左遷であった。












削除されなければ、この稿続く













参考資料:
読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
 1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
 2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
 3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
 4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
 5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
 6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
 7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
 8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
 9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993

「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号









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    2017年01月14日

    「沈黙」と「西国一の金貸し」の話・長崎キリシタン秘史

    沈黙はここから始まった

    学校では絶対に教えられない九州歴史発見シリーズ
    いまさら歴史認識がどうした?


    末次平蔵の野心とその陰謀とは

    陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代様相

    沈黙したキリシタン信徒


    東洋医学史研究会
    宇田明男




    ●村山一族の斬首、殉教者

    元和年間の幕府によるキリシタン処刑によって、それまで権勢を誇った村山一族がことごとく抹殺され長崎の地から排除された。

    この処刑に対して敵対するイエズス会の反応は当然冷ややかであったが、長崎の多くの人々はこの尊敬を集めていた家族の刑死に対して歎き悲しんだ。

    それだけ多くのキリシタン信徒が村山一族の庇護を受けていたのであった。

    その後のキリシタンに対する幕府の裁断は苛酷なものであった。

    名前の判明している村山一族の斬首、殉教者と捕縛された者は、以下の通りである。.

    元長崎代官:村山等安・アントニオ(58歳 1562〜1619)(江戸にて斬首
    等安妻 ジェスタ・村山(旧姓:西)(53歳?・西次郎平衛重友の娘・捕縛)
       等安の長男 徳安・アンドレス(日本名・二郎八・37歳・長崎にて火炙り・殉教)
       徳安 妻 マリーア・村山(旧姓:木村:34歳・末次平蔵の姪・長崎にて斬首・殉死)
       等安の次男 仲安・フランシスコ・アントニオ(35歳・大坂城にて戦死・
       等安の三男 長安(32歳・京都にて斬首・
           長安の妻 カタリーナ(捕縛・娘二人と共に実家に幽閉)
           長安の長男 アントニオ(8歳・京都にて斬首・殉死)
           長安の長女 マリア(2歳・長崎にて斬首・殉死)
           長安の次女 ジュスタ(1歳・長崎にて斬首・殉死)


       等安の長女 すでに長崎・町年寄高木家に嫁いでいた。(高木助左右衛門の生母)
       等安の次女 アントーニア(捕縛・助命後に結婚)
       等安の四男 久四郎・マルエル(24歳・長崎にて斬首・殉教)
       等安の五男 パブロ(21歳・京都にて斬首・殉教)
       等安の六男 ペドロ(18歳・京都にて斬首・殉教)
       等安の七男 ディエゴ(12歳・長崎にて斬首・殉教)
       
    等安の孫(あるいは八男) ミゲル(11歳・長崎にて斬首・殉死)


    村山等安の一族の内、男子はすべて死罪を免れなかった。

    村山等安の一族の処刑には京都所司代であった板倉勝重が直接差配執行し、村山等安の息子、ジョアン・パブロおよびペドロを京都の刑場で処刑した。

    後年の天草島原の乱では勝重の次男板倉重昌が幕府上使役として原城に派遣されたが、初戦で討ち死にした。

    役目柄とはいえここでも反キリシタン側としての因縁が終始絡んでくることになる。



    長崎奉行所に捕縛され入牢していた等安の妻のジェスタと娘二人(長女と次女)は、村山家文書によると処刑されずこの後解放されたという。

    このとき村山等安の長女はすでに他家へ嫁いでいた。
    また次女は助命後に結婚したとされる。

    彼女らの助命工作は、ジェスタ・村山の実家である貿易商西家が等安の訴追事件直後にその財力と政治力とで幕府に働きかけていたもので、結果的にはジェスタをはじめ村山家の女子3名の助命に成功したとされる。

    ジェスタは、肥前出身の有力なキリシタン貿易商であった西類子(にし・ルイス)の家と血縁関係があったと思われるが、詳細は不明である。(『堺市史史料』105巻に「西家系図」が掲載されているが、未確認)

    貿易商・西類子は豊臣秀吉治世のころからルソンと長崎の間を渡航し、朱印船による海外交易で財を成したことで知られる。

    彼は大村喜前の家臣であったが、南蛮の言葉に通じていたこともあって1607年(慶長12年)、藩主の推挙で徳川家康に謁見し際に海外経済事情を説明して大いに信任を得たとされる。

    それ以降、西類子はルソン渡航と国内すべての港に出入りする自由を家康より許され、1616年(元和2年)前後に堺に移転して居を構えたとされるが、貿易商というだけでなく当時としては相当な権力も兼ね備えた人物であった。

    彼は後年、キリシタンから法華教に改宗した。


    ●陰謀の顛末とキリシタン弾圧の時代

    長崎代官・村山等安と直接対立していたのが、同じ長崎の貿易商であった末次平蔵であった。

    等安が青年期に親しく末次家に出入りし、平蔵の父親であった平戸出身の博多の豪商・末次興善に貿易商としての手解きを受けただけでなく商売上の資金の融通も受けていた。

    平蔵は等安の活躍する姿を間近で見ていたことになる。

    さらに言えば、等安と末次家との関係は緊密とも言える縁戚関係にあった。

    等安の長男徳安・アンドレスと平蔵の姪マリーアとが結婚しており、彼らは縁戚関係にあった。

    それでも等安が長崎外町の長崎代官に就任して権力者として台頭していく過程で、次第にイエズス会と対立が表面化し始めたこともあって、イエズス会の教会の有力な信徒であった内町の末次家との間は疎遠になっていった。

    これが内町外町の政治的対立、さらには長崎教会内での分裂、貿易商同士の確執が絡んでいくに従って、そこには複雑な対立の様相が展開していった。

    村山等安はイエズス会教会からは反逆者とみなされてしまう。

    そうした中でイエズス会は、等安と対立関係にある末次平蔵に資金援助を行い、彼のもとに密かに反村山勢力を結集させるべく画策する。

    ここで権勢欲の強い平蔵に対して、イエズス会は宿敵村山等安を代官職より引き摺り下ろし、そこに替って平蔵が代官職に就くという陰謀計画を持ちかけたのである。

    これに末次平蔵はすぐさま飛び付いた。

    平蔵はこの企てを確実なものにするために、長崎奉行に就任した長谷川権六との親交を深めると共に着々とその足元を固めていった。

    キリシタンである村山等安の存在が、いまやキリシタンを排除すべく立場をとる幕府にとっても目障りになってきていることにすでに平蔵は気付いていた。

    だからこそ、幕府直轄の長崎奉行の長谷川権六とも早々に手を結ぶことが出来たのである。

    平蔵は勝機を掴んだと確信した。

    ここからは、村山等安対末次平蔵・イエズス会、さらに幕府という三つ巴の戦いが始まる。

    それぞれの思惑が絡み足の引っ張り合いがあるが、ついには末次平蔵が村山等安を幕府に公然と訴追するという思いがけない展開となる。

    この訴追事件では、長崎奉行・長谷川権六との共同作戦により末次平蔵がその勝利を手にする。

    結果、長崎代官村山等安は将軍秀忠によって代官職を罷免される。

    代官職より村山等安を引き摺り下ろし一族を抹殺する陰謀工作に成功して、その座を一気に奪い取った末次平蔵らは訴追から長崎に凱旋するとイエズス会や仲間の町年寄(乙名)らと共に勝利の祝杯を上げた。

    平蔵は、等安同様に大いなる権勢と富とを手にできると思った。

    平蔵は喜色満面であったが、彼が実際に手にした長崎代官職の支配権そのものは当初の予想に反してまったく期待はずれのものであった。

    長崎代官という権力職の座に付けば自ずと大名並みの格式と権力とを手に出来るだけでなく、その支配権によって巨万の富が得られるはずであった。

    だが末次平蔵は、その代官職の差配の内実を知らなかったのである。

    支配権には相当の役得(余得収入)があるとみていたところ、実際には村山等安が差配し工面したほどに平蔵は年貢を集めることができなかったのだ。

    末次平蔵にとって、これは予想外のことであった。

    長崎外町から集められる年貢の石高と帳簿上のそれとでは、相当な開きがあり不足分があった。

    実は村山等安は幕府に収める年貢の不足分を、自分の家政(家業収入)から工面して毎年多額の補填を行っていた。

    村山等安は貧しい長崎外町の領民(キリシタンの)のために自腹を切っていたのである。

    末次平蔵がここで新たに代官職に就けたというのは、反キリシタンの立場を摂るという明確な政治的姿勢を幕府に強く訴えてみせたからに他ならなかった。

    このとき末次平蔵は、己の首を賭けてキリシタンを徹底して弾圧排除することを幕府に確約したのである。

    ここには想像を絶するいくつもの陰謀が隠れていた。

    キリシタンの窮地を救うために、何としてでも活路を見出そうと奮闘し続けた村山一族は、同じキリシタンであった末次平蔵らによって訴追され終には失脚させられた。

    逆に末次平蔵らにしてみれば、背教者一族を自らの手で粛清したという確かな手応えがあったことであろう。

    戦国時代の気風が色濃く残るこの時代にあっては、力ある者の下克上は当たり前であり、権謀術策を弄して強かに台頭するのは武家一般の習いでもあった。

    そのような意味では、いまだ力がすべてを支配する熾烈な政治的権力闘争の時代でもあったということになろう。

    結果的に長崎の領民らは、等安による長崎支配を嫌う平蔵らの勢力がこのように暗躍して彼を抹殺することに表立って反対することもなく、幕府や長崎奉行所の権力を前にして成されるがまま看過してしまったも同然であった。

    幕府という強権の前で長崎の領民らは何の手立ても打てなかったのである。

    しかも等安一族に対する幕府の厳しい仕置きを目にすると、たちまち長崎住民のあいだではそれまでのキリシタンとしての彼らへの評価が一変してしまった。

    悲劇的結末に終わってしまった等安についてさえも、彼にはもとより人徳がなかったのだとか教会事業に不用意に深入りし過ぎたからだとかいった風評が巷には流された。

    もはやこのとき長崎にはキリシタンを庇護してくれるような権力者は一人としていなかった。

    末次平蔵らの策略はそれほどに迅速且つ用意周到なものであって、瞬く間に長崎代官の地位と権勢とは等安から反キリシタンの平蔵勢力へと取って代わってしまっていた。

    村山等安の抹殺はイエズス会が裏では巧妙に加担していたものであり、彼との長年にわたる確執には一旦勝利したかに見えたのであるが、この事件の影響によってそれまで多くのキリシタン信徒や商人によって活気のあった長崎の街は一気に衰退していくこととなった。

    村山等安が代官職にあったときは彼の尽力によって、長崎のキリシタン信徒への迫害は極力抑えられ殉教者は一人も出なかったのは事実である。

    そこには等安による確かな庇護と政治的根回しとがあった。

    それは幕府とキリシタンとの間に立った見事な政治的均衡が維持されていたのだ。

    だが一夜にして末次平蔵が代官に就くと、今まで以上に幕府の反キリシタンの差配が強く反映されただけでなく、長崎奉行の長谷川権六らと結託して有馬や大村の地方、それに長崎の町一帯では多くの殉教者が出るほどの峻烈極まる迫害が日常的に行われるようになる。

    末次平蔵は、徹底してキリシタンを沈黙させた。

    長崎代官・末次平蔵の登場によって、一気にキリシタンを取り巻く状況が激変していったのであった。

    江戸での訴追の場で幕府側からキリシタンであるかどうかを問われた村山等安は、自分はキリシタンであると明確に答えた。

    同様に問われた末次平蔵は、自分はキリシタンではないと答えた。

    幕府重臣を前にした審判の場ではっきりと宣言したことが結果的には両者のその後の命運を分けた。

    さらにはここでのイエズス会側が支援した末次平蔵側から幕府への多額の冥加金が功を奏した。

    ついにここにきて村山等安は、長崎代官職を罷免され排除されたのであった。

    平蔵は最後にキリシタン背教者を証人として登場させた。

    このときの劇的な訴追劇の展開と、予想外の証人尋問が村山等安の命運に留めを刺したのである。

    末次平蔵が長崎代官職を手にした瞬間でもあった。

    そしてあらためて長崎代官・末次平蔵と長崎奉行・長谷川権六の両者には、徹底したキリシタンの取り締まりが幕府から課せられることになった。

    幕府の意向が働いて各地でキリシタンは捕縛されただけでなく、容赦なく次々と処刑されていった。

    それまでキリシタンの末次平蔵と結託し彼を支援してきたイエズス会は、この平蔵の反キリシタンへの豹変振りに驚愕したのは言うまでもなかった。

    末次平蔵を背後から上手に操ってきたと考えていたイエズス会は、結果的には平蔵に見事に裏切られたのであった。

    長崎のイエズス会教会にとっては予想外の皮肉な展開であった。

    それは過酷なキリシタン弾圧として、いままさに火事場の火の粉のように彼らの上に次々と災禍として降りかかってきた。

    キリシタンの内実を知りつくした末次平蔵にとって、彼らを追い詰める手立てはいくらでも用意できたのである。

    この間にも長崎奉行の長谷川権六は、信徒が神父をかくまったり、会合を開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることをすべて厳しく禁じた。

    元和6年(1620年)1月以降、長崎を中心にキリスト教関係の施設の取り壊しが次々と始まった。hou

    ミゼリコルディア(慈悲の兄弟会)の天主堂や、長崎の教会所属の7つの病院を破却すると共に、キリシタンの墓地を暴き、信徒の遺骨を海や市外に投棄させるなどして彼らを弾圧し続けた。
    (右は長崎・放虎原斬罪所の碑)

    村山等安が援助して建てられた長崎・勝山のサント・ドミンゴ教会はすべて破壊され、その跡地に新たに長崎代官・末次平蔵の広大な屋敷が建てられた。

    末次家はこれ以降、4代に渡ってここに居住してその栄華を極めることとなる。

    初代末次平蔵は背教者、キリシタン迫害者として、そして代官として長崎に君臨して後世にまでその名を残すこととなる。

    そして長崎の過酷なキリシタン迫害、弾圧のすべてに末次平蔵が関わったといわれるほどの反キリシタンに徹した姿勢をしっかりと長崎領民に見せ付けたのである。

    その結果多くのキリシタンが長崎から逃れ出て行った。

    当時の長崎は最盛期5,6万の人口であったが、またたく間にそれが半減するほどであった。

    それでも貿易商末次平蔵は、イエズス会と関係が深い南蛮商人との交易を絶つことだけはしなかった。

    むしろマカオとの生糸貿易を主導する貿易商としての優位な立場を終生維持し続けた。

    どこまでも利に聡い末次平蔵は、かっての宿敵村山等安と同様に、そして等安をはるかに凌駕する巨富を蓄財して、ついには「西国一の金貸し」とまで揶揄されるほどのしたたかで裕福な貿易商としてのし上っていった。










    削除されなければ、この稿続く。




    参考資料:
    読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
    「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
    「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
     1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
     2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
     3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
     4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
     5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
     6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
     7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
     8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
     9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
    10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
    11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
    12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

    「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
    「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
    「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
    「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
    「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
    「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
    「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
    「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
    「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
    「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
    図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
    「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
    教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学






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    タグ:長崎代官
    posted by モモちゃん at 10:12| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2017年01月13日

    元和年間のキリシタン弾圧の様相(2)

    知られざる元和の大殉教

    学校では絶対教えられない九州歴史発見シリーズ
    いまさら歴史認識がどうした?

    元和の大殉教図に描かれたキリシタン弾圧
    キリシタン村山マリーアの殉教


    東洋医学史研究会
    宇田明男




    ●いまは昔、忘れられた長崎「元和の大殉教」


    村山等安一族の粛清に続いて、その3年後の元和8年(1622年)8月5日に長崎においてキリスト教徒55名が火刑と斬首によって一斉に処刑された、いわゆる見せしめともいうべき「元和の大殉教」が起こる。

    もとより長崎の住民を震撼させる大きなキリシタン弾圧事件であった。

    長崎奉行・長谷川権六が表舞台に立ってすべての差配を行った。


    このとき処刑されたのは長崎奉行所によって捕縛された神父や修道士、老若男女のキリシタン信徒らであったが、幕府の禁令を犯して聖職者らを匿った宿主たちが処刑の対象であった。

    これは日本のキリシタン迫害の歴史の中でも、一度に最も多くの信徒が同時に処刑された事件として知られている。

    この大殉教に至る背景そのものには、イエズス会の教区司祭であった背教者トマス荒木の働きが深く関わっていた。

    反キリシタンに転向した背教者トマス荒木がキリシタン摘発に協力したことで、その後の奉行所の探索そのものは大きく進展し成果を上げていた。

    この事件の直前にトマス荒木は宣教師の日本への潜入を果敢に阻止しただけでなく、聖職者の捕縛にも成功していた。

    これに対してキリシタン信徒らは、牢屋に捕らえられていた宣教師を密かに脱獄させようと企んで牢内に潜入するという事件までもが発生する。

    この救出劇は結果的には失敗して実行犯は捕まってしまうのであるが、その際に計画の首謀者であったドミニコ会のコリアド神父の国外脱出を信徒らが手助するなどして幕府の取り締まりに対抗姿勢をみせていた。

    長崎だけでなく各地からのこうしたキリシタン勢力の動きは細大漏らさず幕府の三浦按針(ウィリアム・アダムス)の耳に入っており、さらには将軍秀忠にも逐一報告されていた。

    三浦按針は度々幕府に対してキリシタンの活動に警告を発していた。

    そのような中でキリシタンの処刑という大事件にまで発展してしまったのは、執拗に幕府の禁令を犯し続けるキリシタン宗徒や宣教師の度重なる暗躍がついには将軍秀忠の逆鱗に触れてしまったからであった。

    こうした長崎におけるキリシタン勢力の度重なる抵抗に、将軍秀忠は激怒した。

    このときの秀忠のキリシタン信徒に対する処置は特に厳しいものであり、牢に捕らえられている禁令を犯した宗徒や宣教師全員を即刻処刑するように命じたのである。

    将軍秀忠は苛酷な処罰でキリシタン勢力に臨むことで、彼らを弾圧一掃する姿勢を天下に示した。

    9月始めに、長崎のキリシタン宗徒の入牢者たちに対しての処刑命令が幕府から長崎奉行所に下された。

    直ちに入牢しているすべてのキリシタンらに処刑の期日が伝えられた。

    信徒らは一斉に歓喜の声を上げた。

    処刑当日は土曜であったので、死を覚悟した殉教者等は前日の金曜に大斉して聖歌を共に歌って最後の準備をした。

    9月9日大村の宮崎牢を出た一行22名(大村組)は大村湾を船で渡って長与に上陸し、長崎の浦上で一泊し翌10日早朝、刑場施設のある西坂の丘(現・長崎市西崎公園)に向かって整然と並んで歩いていった。

    西坂の丘は戦国末期の秀吉の時代から幾たびも処刑場として使われ、キリシタン信徒が罪人として処刑されてきていた場所として知られていた。

    同様に長崎の桜町牢(現・長崎市水道局)からも、当日処刑されるキリシタンたち33名(長崎組)が西坂に向かっていた。


    彼らの移送中は特に厳重な警戒体勢がとられ、周囲には護送の武装した刑吏が約400人ほどが手配されていて物々しい雰囲気であった。

    しかも受刑者の各々に一人ずつ刑吏が付き添い、頸にかけらた縄をしっかりと保持したまま信徒を移送していった。

    沿道では早朝にもかかわらず多くの長崎の住民が移送される彼らに祈りを捧げ、刑場まで後から付き従ってきた。

    多くのキリシタン信徒らが処刑されるということで長崎中の領民の関心が西崎の丘に集まったのであるが、当日は周辺の住民が一斉に詰めかけたため、刑場周囲の高台の山々にまで足の踏み場もないほどに人が満ち溢れた。

    当日の形状周囲に集まった見物人は3万にも及んだというが、これは当時の長崎の人口の6,7割の人数であるだけに、人々の関心の高さが窺える。

    しかも刑場となった当時の西坂の丘は海際であったので、夥しい小舟が海側から張り付くように丘の周りにこぎ寄せられ処刑の様子を見守った。

    処刑は、まず手始めに斬刑の者たちから開始された。




    ●キリシタン村山マリーアの殉教


    このときの処刑では、すでに刑死した村山等安の長男・村山徳安アンドレスの妻であった村山マリーアが神父を匿った罪で真っ先に刑場に引き出されていた。

    村山マリーアの夫もこの同じ刑場で3年前に元和年間の最初の殉教者として火刑に処せられていたし、親族である舅(等安)をはじめ義弟や幼い甥や姪たちもすでに処刑されており、彼女が村山一族の最後の殉教者としてこの刑場に立っていたことになる。



    maria今回この刑場で最初に処刑されるのは、村山マリーアであった。

    もとより長崎の住人で、敬虔なキリシタンである村山マリーアのことを知らぬ者はいなかった。

    マリーア・村山は、現長崎代官・末次平蔵の姪であり養女でもあったが、いうまでもなく彼女も長崎ではもっと古いキリシタンの家系である木村家から出ていた。

    マリーアは、末次家とも交流のあったかっての長崎奉行・長谷川左兵衛や後任の権六からも幾度となくキリスト教を棄教するように説得されたことがあったが、それでも彼女自身は最後まで信仰を捨てることはなかった。

    マリーアは村山家の一族として多くの人々から信頼され愛されていたので、彼女を見知っている幕府の役人までもがどうにかして助命しようとしてこれまでにも再三棄教するように説得していたのであった。

    しかし彼女は夫の村山徳安とともに敬虔なキリシタン信徒として生活し、ドミニコ会のモラーレス神父を屋敷に匿い身辺の世話を続けていた。

    彼女の身分や立場からいえば、処刑から逃れられる手立ては残されていた。

    しかしマリーアは差し伸べられたそれらすべての助命活動を断って、夫徳安と同様に自らキリシタンとしての死を選んだのである。

    この日のマリーアは唯一手元に残しておいた晴れ着を着ており、今日は天国への門出を自らも祝うという心の気高さをみせてしっかりした足取りで牢から刑場までの道を歩いてきていた。

    刑場では、火刑に掛けられる者と斬首される者とが二つの集団に分けられていった。

    そしてここで村山マリーアが、いの一番に処刑されることとなった。

    この日、村山徳安アンドレスの屋敷に長期間匿われていたドミニコ会のモラーレス神父もこの同じ刑場に引き出され処刑されることになっていた。

    刑場内で久しぶりに遭遇した者同士が、それぞれに親しげに挨拶を交わす様子があったという。

    マリーアは罪人ではあったが、この場で関わりのあったモラーレス神父に最後の別れの挨拶をすることを特別に許されたかもしれない。

    処刑直前に牢内で書き残したモラーレス神父の書翰には、そのマリーア・村山について次のように賞賛の言葉が記述されている。


    「長崎代官(村山当安)の息子(徳安)の妻であり現代官(末次平蔵)の姪であって、あれほどの名誉と栄華の中で生活していたのに、いま彼女が夫のいない甚だしい貧困に満足していること、ただ神の御恵みによってこの苦しみを容易に耐えていることは確かに人々の大きな驚きとなっています」


    元和8年8月5日(1622年9月10日)のこの日、長崎の西坂で他のキリシタン信徒とともに彼女は処刑された。

    このときマリーア・村山の処刑は、火炙りではなく斬首であった。

    同じように刑場で斬首された者の中には、カルロ・スピノラ神父を匿って逮捕され、後に処刑されたポルトガル人:ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である幼い4歳のイグナシオや、同じく朝鮮人信徒アントニオの婦人マリアと息子のペトロ3歳も含まれていた。

    当時キリシタンの処刑としては火刑がもっとも厳しい処刑法であったが、ここで火刑になったのは神父、修道者といった聖職者や修道会の主立った指導者たちであった。


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    火刑に処されたのは25人で、その中には村山徳安アンドレスが匿っていたモラーレス神父を始めドミニコ会の神父5人、修道士2人、ロザリオ会員3人、イエズス会の神父2人、修道士6人、フランシスコ会の神父2人、指導的信徒3人と、さらに長崎の「修道会の母」と敬われた80歳の日本人女性キリシタン、ルシア・デ・フレイタスが含まれていた。

    (上図は元和の大殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)


    「元和の大殉教図」を見ると壮絶な処刑の当時の様子がつぶさに見て取れる。

    他の史料と付き合わせても刑場の情景が細部まで克明に描写されていて、実際に現場を見た者が描いていることが頷けるものである。

    描かれている刑場全体は竹矢来の組まれた囲みで隔てられていて、その周りを警護の武装した役人が厳重に取り巻いている。

    それを長崎の領民が刑場全体を囲むように遠巻きに取り囲んでいる様子がわかる。

    地形は現在の様子とは大いに異なり、当時は西坂の刑場のすぐ側まで海が迫っていた。

    周りの丘の上や海上に浮かべた小船からも、沢山の人々が刑場を注視している。

    画像の左上の刑場の奥まった一角に、あれこれ指図している人物が描かれているが、おそらくこれが刑の執行を差配する長崎奉行・長谷川権六の姿である。

    画像中央部分に20数名の聖職者と思しき人物が両手を前で縛られて柱に括り付けられている様子が見て取れる。

    周囲の大量の薪の一部にすでに火が付けられていることに注目しなくてはならない。

    画像でも分るように、当時の火刑の遣り方は罪人をゆっくりと時間をかけて苦しめるために、焙るように距離をとって焼き始める。

    同時に画像の手前では、火刑より先に始められた凄惨な斬首刑が次々と執行されている様子が描かれている。

    罪人はみな座らされていて、それを4人の首切り役人がそれぞれに刀を振り上げていままさに振り落とさんとしている様子である。

    すでに首を打ち落とされた犠牲者の屍が地面には転がっていて、後ろの晒し台の上にはいくつかの首が並べられていて大地は赤く血に染まっている。

    首の一つは、村山マリーアのものということになる。

    この絵の中には、確かにモラーレス神父の姿もあるはずであるが、画面上では特定出来ない。

    この凄惨な油彩画を描いたのはセミナリヨで南蛮絵画を学んだ日本人修道士である。

    彼はこの長崎での元和の大殉教を目にしてその情景をスケッチした後、マカオに逃れてこの絵画を描いたのだという。

    このように400年前の大殉教の様子を克明に描いた絵画が現存することも、またそれを目にすることが出来ることも感慨深いことである。

    この絵画は宗教画であると同時に、貴重な歴史記録画でもある。

    奉行の長谷川権六は、キリシタン信徒が何を尊び、何を大事に扱うかということを知り尽くしていた。

    処刑後、他のキリシタン宗徒らが殉教者の遺骨や遺物などを持ち去らぬように刑場を厳重に管理し、三日三晩番卒を置いて守らせた。

    さらに殉教者から剥ぎ取った聖具や、斬首された屍を大きな穴に投げ入れて灰になるまで悉く焼き尽くし、跡形なくその灰までもすべて海中に投げ捨てさせたのだった。


    村山等安やその一族は何故にこのような大きな犠牲を払ってまでして、長崎の教会やキリシタン信徒を守ろうとしたのであろうか。

    そして当時のキリシタンは、どのような信仰心と心情とを抱いていたのだろうか。

    彼らの生きた時代は長く続いた戦国時代がようやく終焉した時期ではあったが、それまで同様人の死は日常的に転がっていたともいえる。

    その非情ともいえる過酷な戦国時代を生きながら得てきた人々の死生観そのものには、現代の感覚とはまったく異なった精神世界が求められていたことは確かであろう。

    迫害が酷くなる中でも、村山一族は穏健な托鉢修道会のドミニコ会やフランシスコ会の信徒らを最後まで支援し続けた。

    彼ら信徒の多くは権力者や富裕層ではなかった。

    そうした信徒たちのほとんどが貧困や病で苦しむ社会的弱者であったし、そこには等安の妻ジェスタや一族が救い出した朝鮮人奴隷や迫害から逃れてきた難民も多数含まれていた。

    その中には村山一族がキリシタン信仰へと導いていった人々もいたわけで、彼らから見れば信仰に帰依する人々を同胞としてそのまま放置することも見捨てることもできなかった。

    一族の身の安全を考える手立てということであれば、長崎で大きな権勢を持つ彼らなら如何様にも逃れる手立ては用意できたであろうが、彼ら一族は身を挺して長崎の多くのキリシタン信徒を護ろうと最後まで力を尽くしていた。

    その結果が、こうした苛酷な処刑であった。

    村山等安を始め彼ら一族はそのことを信仰の上の試練として、身に降りかかった刑罰をそのまま神の恩寵として受け止めたことであろう。

    こうした逼迫した長崎のキリシタン信徒の信仰の様相について、当時の宣教師による年報には次のように記されている。


    「多くの信徒はパーデレに宿を貸す事が身の破滅を招くものだと知りながら、このような正しい理由の為に命も財産も投げ捨てるのは、何よりの名誉であると思うほどの勇気をデウスから恵まれた」


    これはまさにこの刑場で殉教した彼らのことであった。







    削除されなければ、この稿続く。




    参考資料:
    読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
    「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
    「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
     1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
     2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
     3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
     4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
     5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
     6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
     7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
     8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
     9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
    10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
    11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
    12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

    「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
    「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
    「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
    「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
    「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
    「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
    「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
    「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
    「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
    「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
    図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
    「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
    教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について(岸英司名誉教授追悼記念号) 五野井隆史 サピエンチア : 英知大学論叢 41, A25-A40, 2007 聖トマス大学
























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      posted by モモちゃん at 06:00| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2017年01月11日

      幕府はキリシタン村山等安一族を処刑した

      長崎代官・村山等安一族処刑の経緯(1)

      学校では絶対教えられない九州歴史発見シリーズ
      いまさら歴史認識がどうした?

      幕府に裁かれるキリシタン村山一族
      海外の史料で確認できる事実
      村山等安の長男、徳安の処刑の経緯

      東洋医学史研究会
      宇田明男





      ●裁かれるキリシタン村山一族


      宿敵末次平蔵によって幕府に訴追された長崎代官・村山等安は、1618年、ついに将軍秀忠によって代官職を罷免された。

      代官職罷免に至る経緯は劇的であるのだが、同時に非常に複雑な展開があるのでここでは割愛する
      。(
      詳細は拙論ドキュメント・「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」参照ください)

      結局、村山等安は彼に敵対するイエズス会勢力による陰謀絡みの告発によって代官職から引き釣り下ろされた。

      等安を倒した長崎内町の末次平蔵は、その直後幕府に長崎代官の職に就くことを自ら強く願い出た。

      事前に用意された幕府への2000両もの冥加金はもとより、かねてよりの彼の政略的根回しがここでは見事に功を奏したといえるであろう。

      その場で幕府重臣らは末次平蔵の代官職就任に賛同した。

      1618年10月末、この訴追の合間に新たに長崎代官に就任して長崎に舞い戻った末次平蔵と彼の盟友長崎奉行・長谷川権六は、早速その強権を行使して手厳しいキリシタン取締を長崎において次々と実施し始めた。

      ここより村山等安失脚以後の長崎におけるキリシタン弾圧の様相を少し紹介しておきたい。

      まず最初の大きな変化として、長崎周辺にそれまで信徒によって匿われ潜伏していたキリスト教宣教師に捕縛の手が伸びたことである。

      ここでも長崎奉行所の真の狙いは、あくまでも村山等安一族の徹底した身辺探索であった。

      それまで長崎において隠然たる力を持っていた村山等安の旧勢力を一掃するためでもあった。

      反対勢力は等安の影響力を恐れるあまり、彼を徹底的に追い詰めて死罪に陥れることを画策した。

      潜伏する宣教師一人を密告した者には、銀の棒30本を褒賞として与えるという布告が長崎奉行所から出されたのもこのときであったが、これには早速手ごたえがあった。

      長崎奉行・長谷川権六はその職に就いて以降というもの、キリシタン勢力との距離を適当に保った位置でその動向を密かに探ってもいた。

      それまで村山等安との関係もあって、ことさら長崎のキリシタンを厳しく取り締まるという動きを見せてはいなかった。

      ここに至って長谷川権六は、それまで緩めていた手網を手元へたぐり寄せるようにしていよいよ獲物の絞り込みに掛かったのだ。

      当時長崎周辺では有力なキリシタン宗徒が、危険も顧みずキリスト教宣教師を密かに匿い、自らが宿主となってそうした聖職者の活動を背後から支援していた。

      長崎奉行長谷川権六は、まずこの匿われているキリスト教宣教師を狙ったのである。

      奉行所が放った密偵が市中で活躍し始めると、その探索によってすぐさま目に見える成果を上げ始めた。

      その結果、長崎周辺に隠れ潜んでいた神父が次々と捕縛され始めた。

      もとより潜んでいた宣教師が発見されれば、その宿主や世話役の付き人のキリシタン信徒も同様に厳しく罪を問われ奉行所の役人に拘束されることになる。

      そこでは捕縛した神父の付き人に対して苛酷な拷問を加えて情報を引き出しただけでなく、必要なら度々買収工作も行われた。

      長崎でもここからキリシタンに対する熾烈な拷問が日常化していった。

      そしてそこから新たに隠れ潜んでいる神父の情報が次々と芋づる式にもたらされたのである。

      ついに1619年3月15日、奉行所の捕り方は村山等安の長男アンドレス徳安の屋敷に匿われていたドミニコ会のモラーレス神父を発見し、その場で捕縛した。

      これは長崎奉行所にとって最大の収穫であった。



      モラーレス神父(1567〜1622)は1602年にマニラからドミニコ会布教長として薩摩の甑島に渡来し京泊(薩摩)周辺で布教に従事していたが、1609年、迫害によって長崎に逃れてきていた。

      その後の長崎での宣教活動は、長崎代官の村山等安一族が全面的に支援し続けていた。

      等安は教会建設のために最適の土地をドミニコ会に提供しただけではなく、宣教事業や教会の経費などに多額の資金を提供し続けていた。

      ドミニコ会は村山一族の経済的支援によって、長崎一円の布教活動の基盤を確保できたのである。

      モラーレス神父の幕府による国外追放の処分にも、等安は秘密裏にその再入国の企てに手を貸していた。

      1614年11月、モラーレス神父は幕府によって他の宣教師と共に日本を追放されたのであるが、このときあらかじめ待機していた小舟で再び長崎に舞い戻ると、長崎代官:村山等安の長男・徳安の屋敷内にそのままかくまわれていたのだ。
       
      モラーレス神父は徳安の家で逮捕された直後は長崎牢に入牢しとなり、8月8日には大村の鈴田牢に移送された。

      翌年3月25日には壱岐島の牢に移送されたが、牢内からも手紙や使いの者を介して神父として使徒職を遂行した。

       モラーレス神父は1622年9月10日、長崎の西坂の丘で弱い火で火炙りとなった後、1867年7月7日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。


      長崎奉行所によってモラーレス神父が捕縛されたとき、当主の徳安は不在であったが、妻マリーアは直ちに夫に急を知らせて呼び戻した。

      神父を匿っていた宿主徳安もそのまま拘束され奉行所に連行されたが、この時点では徳安の妻マリーアはまだ捕縛はされなかった。

      彼女は夫徳安の処刑後、村山一族の一人として拘束される。

      モラーレス神父の宿主であったことで村山等安同様、幕府のキリシタン禁令を犯した長男の徳安一家も厳しく罪を問われることとなる。

      その後の長崎奉行所の調べによって、村山等安一族の関与はここでも明白なものとなった。


      ●村山・アンドレス徳安、ついに処刑される


      末次平蔵の訴えと申し出によって、すでに等安自身は将軍秀忠から長崎代官職を罷免され甲斐へ追放されていたのであるが、さらに幕府の天領下での一族によるこれらの法令違反はきわめて重罪であるとして、元和5年(1619年)11月16日ついに等安らに厳しい死罪の裁断が下された。

      これに連座して11月19日、はじめに長男の徳安が長崎で火刑に処せられ、三男の長安一家は京都で斬首、12月1日には村山等安本人が江戸で斬首されてしまう。

      このように処罰が進められた一方、長崎でも等安の妻や一族が次々と長崎奉行所の手によって捕縛され、村山等安の屋敷と財産は奉行所によってすべて没収された。

      その結果、一族13人が連座して罪を問われ、下はわずか2、3歳の幼子(等安の孫)までもが刑場に引き出されて処刑されるという痛ましい悲劇が起こる。

      同時期に長崎に居住していた商人・ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンは、等安の家族について次のように書き残している。


      「等安は誠実な妻ジュスタと結婚して先ず次郎八(徳安)という名の息子をもうけた。次に現在サン・アントニオ天主堂ミサ司祭主任代行司祭をしているフランシスコ(仲安)をもうけ、やがて長安という三男が生まれ、今はこの妻との間に息子が八人か九人、娘が二人いる。成人した子供達はみな誠実で善良なキリシタンであり、年少の子供達は美しく愛らしい」


      また、サント・ドミンゴ教会の修道師の村山一族についての記録には次のように記されている。


      「これらの徳の高い兄弟が最も心を配っていたことは、長崎の教会を増大することでありました。教会のあった時代にはたびたび教会に行ったし、教えの組ロザリオの組に顔を出して、総ての人々に立派な模範を示しました。迫害の時に当たっては常に諸パードレを何処に如何に匿うか、過酷な迫害に対して、如何にすればキリシタンが耐えていくことが出来るかということを、彼ら兄弟の間で相談し努力していました。また数多くの問題について父親に協議しましたが、代官としてまた父親として説得に努めたのでしょう。子供達は父親の援助と努力によって数多くの問題、特に聖行列や前述の教えの組の諸事を立派に果たしました」


      捕らえられていた等安の長男アンドレス徳安の処刑が決定した直後、11月14日に長崎奉行・長谷川権六と長崎代官・末次平蔵らは訴訟がすべて決着し、完全に勝利したこともあって江戸から長崎へと意気揚々と凱旋を果たした。

      その直後の16日には捕らえられているキリシタン信徒たちに死刑が申し渡されると、19日には信徒らは火炙りの刑に処せられた。

      このとき処刑されたのはアンドレス徳安だけでなく、パジェス「日本切支丹宗門史」には、
      「長崎代官長谷川権六は四人の宿主、すなわちドミニコ会のデ・モラレス神父の宿主村山徳安、同じくドミニコ会のデ・メーナ神父の宿主吉田秋雲、オルスッシ神父とヨハネ・デ・サン・ドミニコ神父の宿主コスメ武谷、スピノラ神父とアンブロジオ・フェルナンデス修士の宿主、ポルトガル人でサン・ドミニコの第三会のドミニコ・ジョルジを犠牲者として選んだ。」とある。



      tokuan元和の殉教の始まりである。

      元和5年(1619年)の長崎でのこの火刑による最初の大殉教の様子が油彩画で描かれ残されている。


      このときの処刑は、当時としてはもっとも厳しい火刑であって、村山徳安を含めて5人の殉教者を出している。

      400年近く以前のこの迫害事件は長崎中のキリシタン宗徒にとっては衝撃的なものであり、当時の火炙りによる処刑の様子がキリシタン宗徒の手によって歴史絵画として記録されていたことになる。

      ここでははっきりと特定できないが、画像に描かれている5人の殉教者のうちもっとも左側の白装束の人物がおそらくアンドレス村山徳安である。(画像は元和5年の大殉教:イタリア内務省宗教建造物基金・ジェズ教会蔵)

      当時すでに捕縛され入牢していたパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレス徳安が役人の取り調べにおいて、「私はキリシタンであり、私自身および人々の霊の救済に努力してきた。それだから人々を救済に導くことを仕事としているパードレを私の家に置いたのである」、とモラーレス神父を匿った理由についてはっきりと答えたことが記されている。

      アンドレス徳安の言葉には、最後まで命を賭してモラーレス神父を護ろうとする決意がいかに強固なものであったかが示されている。

      さらに彼は処刑当日に、モラーレス神父に対して次のような手紙を書き送った。


      「尊師のことが原因で、いま私が神への奉仕を終わることを深く尊師に感謝致します。マリーア(妻)とパプロ(長男)を尊師(の祈り)におまかせします。神のお恵みにより天国に於いて、尊師のためにキリストと聖母およびドミンゴに祈りましょう。 十月十二日(1619年11月18日) 村山アンドレス・トクアン」


      処刑される当日、彼は白装束を身につけ妻のマリーアや兄弟、親族に最後の別れを告げた。

      徳安と妻マリーアの間には、この年に生まれた長男パプロがいたが、マリーアは幼いパプロを抱いたまま刑場まで付いて行った。 (注)村山家文書によると、パプロは母マリーア・村山の殉教した後、病死したとされる。

      パードレ・モラーレスのアンドレス・徳安の処刑に関する書翰の最後には、次のように書き遺されている。


      「彼の霊は焔によって清められ永遠に神の御恵みを受けるために天国へ昇りました。時に1619年11月18日。
      直ちに人々が遺体を引き取りに行きましたが、それが出来ないように、完全に焼かれて灰のみが残っていました。キリシタンはそれを集め、著名な殉教者の聖遺品のようにこれを尊敬の念を以って保存しました。彼の妻マリーアは息子のパプロを抱えて、この聖なる光景の場にずっといましたが、神が見守り給うが如くに聖なる死を夫が遂げるのを見つめていました。心に神の御恵の深きことを喜び、大きな幸を得る希望を抱いてそこを去りました。それから間もなく、彼女は俗世を棄てるため髪を切りました」








      削除されなければ、この稿続く。









      ドキュメント・「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」


      ゆがめられた歴史認識の深層:



      jinbutu









      ・何故、天正遣欧少年使節:千々石ミゲルはキリスト教を棄教したのか

      ・何故、長崎代官村山等安は斬首されたのか

      ・天草島原の乱はキリシタン傭兵部隊の反乱なのか


      ドキュメント・「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」(1〜24)全編の内容と目次


      ● 天正遣欧少年使節・イエズス会(1)
      ● 九州戦国時代の様相・奴隷船がやってきた・千々石ミゲル(2)
      ● 宣教師が絶賛した織田信長・海外に売られた戦争捕虜・当時の奴隷供給の背景と様相 (3)
      ● 秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか・アジアにおける日本人奴隷の実態・秀吉を激怒させたものとは何か・何故にキリシタンは、弾圧されたのか(4)
      ● 何故、千々石ミゲルはイエズス会を脱退し、棄教したのか!戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(5)
      ● キリシタン大名の奴隷貿易は特殊なものだったのか 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(6)
      ● 長崎代官・村山等安とは何者か 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(7)
      ● それでも奴隷貿易は続く 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(8)
      ● 奴隷の輸出許可書を誰が発行したのか 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(9)
      ● 長崎でのイエズス会・ジョアン・ロドリゲス神父の経済活動 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(10)

      ● 長崎・マードレ・デ・デウス号事件 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(11)
      ● 高山右近 誇り高きキリシタン同志との別れ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(12)
      ● 村山等安の台湾遠征の目的とは?戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(13)
      ● 村山等安と末次平蔵との確執 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(14)
      ● 末次平蔵を操るイエズス会の陰謀 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(15)
      ● イエズス会司祭荒木トマスの暗躍 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(16)
      ● 村山等安、ついに斬首される 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(17)
      ● キリシタン弾圧の時代と元和大殉教 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(18)
      ● 「破提宇子」=「地獄のペスト」を書いたハビアンの不可解な最後 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(19)
      ● 大航海時代と侵略の歴史 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(20)
      ● 日本でのイエズス会が採った軍事戦略 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(21)
      ● キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発! 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(22)
      ● 最強の傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(23)
      ● 反乱はキリシタン傭兵部隊の暴走だったのか? 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(24)

















      参考資料:
      読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
      「サント・ドミンゴ会の修道師の記録による村山一家」(アルバレス・タラドーリス編注・佐久間正訳)
      「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
       1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
       2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
       3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
       4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
       5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
       6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
       7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
       8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
       9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
      10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
      11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
      12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

      「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
      「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
      「堺」日本歴史新書・商人の進出と都市の自由 豊田武著 至文堂 1957
      「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
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      「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
      「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
      「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
      「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
      図録/南蛮美術の光と影:泰西王侯騎馬図屏風の謎 日本経済新聞社 2012
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      2017年01月08日

      知られざるキリシタン迫害史の核心部分

      潰えてしまった遠征計画とは?

      歴史教科書には載せられない戦国史

      スペイン勢力によるルソン島植民地化がもたらしたもの

      日本側には南蛮貿易の利権を潰す狙いがあった

      すでに島原藩藩主・松倉重政による ルソン遠征が画策されていた

      東洋医学史研究会
      宇田明男



      ●スペイン勢力を警戒した江戸幕府

      前述したようにスペインは1565年になると、いわゆるポルトガル・スペイン間で結ばれていたサラゴサ協定(1529年)の境界線(日本)を越境してフィリピンにも侵入を開始した。

      スペインはアジア地域に進出すると、いち早くマニラの富に目をつけ1570年(元亀元年)にマルティン・デ・ゴイティ率いる遠征隊を送り込み、武力によってこれを一気に占領した。

      このときスペイン本国から大砲や小銃で武装した300人の精鋭の軍隊を送り込みマニラ周辺の集落を焼き討ちし、瞬く間にルソン島を占拠するとともに1571年にはマゼランのフィリピン群島の発見を理由にしてフィリピンの領有を宣言したのだった。

      その後フィリピンのマニラでは、イエズス会員アントニオ・セデーニョの指揮によって都市の要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備されるとともに、原住民はキリスト教に強制的に改宗させられていった。

      これ以降マニラを中心にメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の支配下となったルソン島は、スペインの対中国交易の最前線として機能しメキシコと中国を中継するガレオン貿易の拠点となった。

      ちなみに、フィリピンという名称は当時のスペイン皇太子フェリペにちなんだ島名として名付けられたものである。

      さらに中国沿岸部のマカオに進出すると、1557年以降は実質的植民地と変わりはない状況下に置かれた。


      日本との関係では、天正十二年(1584)六月、ルソンからのスペイン艦船が九州の平戸に入港すると、ことを契機として日本とスペイン領フィリピンとの間で交易が始まった。

      実際には、すでに16世紀後半には多くの日本人や中国人の商人はルソン方面にも渡って盛んに交易を行っていたし、海賊である倭寇もこの海域まで侵出して活動の場としていた。

      すでに3000人規模の日本人戦闘員がルソン周辺海域で活動していたと記録されている。

      渡航した当時の日本人は集団でスペイン側の傭兵となることも少なくなく、傭兵部隊は激しい戦闘を日常的に繰り返していた。

      そうした背景もあって、ルソン方面の状況はスペインの植民地政策も含めて多くの海外情報が日本にも伝わっていた。

      地理的にも有利な九州の諸大名がルソンでも年々拡大する交易事業に強い関心を持ち、翌年の天正十三年(1585)、平戸領主の松浦鎮信がルソンに最初に船を派遣した。

      天正十四年(1586)には、隣接する長崎の大村純忠もキリシタン大名として長崎からマニラに向かって交易船を出している。

      これ以降は、ほぼ連年にわたって日本の交易船がマニラに入港して商取引が行われるようになる。

      同時期、国内統一を果たした秀吉は、アジア地域の情報がもたらされると共に海外への進出を画策し始める。

      秀吉は九州のキリシタン勢力の拡大を阻止した最初の為政者であり、占領されていた南蛮の長崎要塞を破壊し直轄領とした。

      この時点で、九州のキリシタン大名はすべて反キリシタンという看板の架け替えを行い、逆にキリシタン信徒を弾圧排除する側に変わったのであった。

      さらに秀吉は、朝鮮に入貢を命じこれに従わなければ武力で討つと脅し、これを対馬の宗義調に折衝させた。

      同様にルソン(マニラ)や高山国(台湾)にも直接の交易を促す使者を出した。

      豊臣秀吉のルソン遠征を窺わせたこともあって、1592年(文禄元年)以降はスペインも日本の国内情勢を警戒するようになる。

      この間キリシタン排除の動き強まるに従って、秀吉に追随する形で九州の旧キリシタン大名の間でもルソン遠征が懸案されるようになる。

      平戸領主松浦鎮信がルソンに船を出したのも、そのための情報収集であった。

      彼らはマニラ方面のスペイン勢力の軍事的規模もすでに掴んでいた。

      松浦氏は、ルソン島のマニラを拠点に植民地支配を行うスペイン人に対して反感を持つマレー系原住民の首長らと接触して、彼らの反乱計画に加担し日本製鉄砲の調達などの軍事支援を行っていた。

      この時期ルソン方面に対峙する九州の諸大名は、キリスト教国の動きを油断なく見据えていただけでなく、ルソン島のスペイン支配を排除すべく動いていたことになる。

      事実、秀吉以降の江戸幕府の下でもルソン島のスペイン艦隊やスペイン軍の動向を監視していただけでなく、密かにルソン遠征が画策されていた。

      この間の慶長十七年(1612)5月6日、贈賄の罪で甲斐に流されていた九州の旧キリシタン大名・有馬晴信が処刑された。

      さらには慶長十九年(1614)、幕府は禁教令を発布後に本多正純を大村に派遣して状況確認させた際、旧キリシタン大名・大村喜前は事情通としてキリシタン取り締まりについて自ら進んで情況を説明していたのであるが、元和二年(1616)9月18日、こうした迫害を恨んだキリスト教徒の手によって毒殺された。

      九州では手厳しいキリシタン迫害が進められていたが、これに対して信徒勢力は地下に潜り活動を維持し続けただけでなく、いまだに海外からの支援が密かに続いている状況下にあった。

      それを受けて松浦藩や島原の乱の松倉重政(藩主) ・勝家親子の島原藩や薩摩藩藩主の島津家久でさえルソン遠征を狙い秘密裏に準備を進めていた。
       
      松倉勝家は自ら幕府にルソン遠征を進言したことでも知られるが、ルソン遠征という動きそのものは島原領内の多くのキリシタン信徒らに大きな衝撃を与えることとなる。

      むしろこうした藩内の動きがあったからこそ、キリシタン宗徒はなお一層弾圧の危機感を高めたともいえる。

      当然、長崎のイエズス会にもこの情報はただちに伝えられていた。

      スペイン側は、それらの情報をイエズス会の教会ネットワークを介してのマカオ経由、あるいは琉球王朝経由、従来より交流のある倭寇経由で事前に入手できていた。

      日本側の情報は筒抜け状態であって、いわゆる情報戦ということでは彼らは一歩も2歩も先をいっていた。

      事実、1588年当時松浦鎮信が密かに支援していたルソン島原住民による反乱をスペイン勢力は逸早く情報を掴み反乱勢力の制圧に成功していた。

      日本側の当初の戦略的目論見はここでも阻止されていたのである。

      しかもスペイン側は、反乱の背後に日本側の関与があることも突き止めていた。

      日本側に対抗するルソン島のスペイン勢力は、当然島原藩の松倉勝家らのルソン遠征を事前に阻止すべく動いたであろうし、ここで何らかの実効性のある対抗策を用意していたことは間違いあるまい。

      九州ということであれば、それだけの対応が出来るだけの下地はすでに出来上がっていた。

      ここでキリシタン勢力の手で大きな反乱を起こせば、その試み自体は達成可能であった。

      実はこのルソン遠征だけでなく、江戸幕府は台湾遠征の計画もかねてより画策していた。

      慶長十三年(1608)、家康は日本に漂着した台湾のアミ族の者と駿河城で直接引見している。

      翌年の1609年(慶長十四年)、九州の大名有馬晴純は家康の名により、台湾へ朝貢を促すため渡海したが、その交渉は成功せずに追い返されてしまっていた。

      幕府は台湾の高砂族との関係を改善して明国や東南アジアとの交易の際の中継地化を強く望んだわけだが、いまだにそれは果たせないままであった。

       このときこれにもっとも敏感に危機感を持って反応したのは、生糸の転売で大きな利益を上げていた南蛮商人らであり、その背後で経済的繋がりを持つイエズス会そのものであった。

      もしもこの日本の台湾遠征計画が成功すれば彼らは日本での生糸の独占的市場を失い莫大な経済的損失を被ることになるわけで、こうした日本(幕府)と中国(明)との直接の交易の動きは以前より是が非でも阻止するように、ルソン島マニラ経由の教会上層部から特別な指示が出されていた。

      1610年2月17日付けリスボン発、ポルトガル国王のインディア副王宛書簡「モンスーン文書と日本: 十七世紀ポルトガル公文書集」p173ー175 : 高瀬弘一郎著「台湾を獲得して中国貿易を行おうとする日本国王の意図を、策を用いて妨害するよう命令」(1610年、文書13)より引用。

      「現在日本全土を統治している国王(=徳川秀忠)は、彼らが高砂と呼ぶフォルモザという島に遠征する準備をしている、と。其処は泉州の沿岸の近くである。彼の意図は、それ〔フォルモザ島〕を獲得して其処とシナとの間の貿易を手に入れることである。(中略)日本人たちにそれ〔狙い〕を遂げることなど出来ない旨の偽装工作をすることによって、それが成就しないよう尽力することを依頼する。」引用終わり

      その直後の元和2年(1616)、中国明との直接貿易を狙って13隻の船団に4千余の兵を出した長崎代官・村山等安の台湾遠征もイエズス会側が巧妙に阻止して、このときの遠征事業も失敗に終わった。

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      ここで南蛮貿易における日本での交易の利権が一気に失われれば、イエズス会の日本での宣教事業も経済的に破綻してすべてが頓挫してしまうことになる。

      当然彼らは、常にこうした日本側の動きには敏感に対応していたわけである。

      この時点でそうした南蛮商人やイエズス会勢力側から何らかの妨害工作があることを当時の日本の為政者が感知していたかどうかは、非常に興味深いところではないだろうか。

      天草島原の大乱を従来からの西洋史観でみれば単純に領主松倉家の苛政に苦しむ単なる農民一揆ということで片付けられようが、ここではキリスト教国スペインやポルトガルとの為政者間の政略的確執が背景にあったか否かも考えておく必要がある。

      実際には天草島原の未曾有の大乱勃発によって、九州の大名らが計画していたルソン遠征はすべてとん挫したのである。

      しかも幕府は反乱鎮圧に多額の出費(40万両)を強いられる結果となった。

      イエズス会が計画立案した2度にわたる九州のキリシタン王国建設計画そのものは潰えてしまったが、ルソン遠征阻止ということでは見事に成功していたことになる。

      ここから、さらに驚きの展開が明かされる。


      ドキュメント・「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」


      ゆがめられた歴史認識の深層:

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      ・何故、天正遣欧少年使節:千々石ミゲルはキリスト教を棄教したのか

      ・何故、長崎代官村山等安は斬首されたのか

      ・天草島原の乱はキリシタン傭兵部隊の反乱なのか


      ドキュメント・「戦国九州奴隷貿易の真相に迫る」(1〜24)全編の内容と目次



      ● 天正遣欧少年使節・イエズス会(1)


      ● 九州戦国時代の様相・奴隷船がやってきた・千々石ミゲル(2)


      ● 宣教師が絶賛した織田信長・海外に売られた戦争捕虜・当時の奴隷供給の背景と様相 (3)


      ● 秀吉は、何故バテレン追放令を出したのか・アジアにおける日本人奴隷の実態・秀吉を激怒させたものとは何か・何故にキリシタンは、弾圧されたのか(4)


      ● 何故、千々石ミゲルはイエズス会を脱退し、棄教したのか!戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(5)


      ● キリシタン大名の奴隷貿易は特殊なものだったのか 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(6)


      ● 長崎代官・村山等安とは何者か 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(7)


      ● それでも奴隷貿易は続く 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(8)


      ● 奴隷の輸出許可書を誰が発行したのか 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(9)


      ● 長崎でのイエズス会・ジョアン・ロドリゲス神父の経済活動 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(10)


      ● 長崎・マードレ・デ・デウス号事件 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(11)


      ● 高山右近 誇り高きキリシタン同志との別れ 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(12)


      ● 村山等安の台湾遠征の目的とは?戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(13)


      ● 村山等安と末次平蔵との確執 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(14)


      ● 末次平蔵を操るイエズス会の陰謀 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(15)


      ● イエズス会司祭荒木トマスの暗躍 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(16)


      ● 村山等安、ついに斬首される 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(17)


      ● キリシタン弾圧の時代と元和大殉教 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(18)


      ● 「破提宇子」=「地獄のペスト」を書いたハビアンの不可解な最後 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(19)


      ● 大航海時代と侵略の歴史 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(20)


      ● 日本でのイエズス会が採った軍事戦略 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(21)


      ● キリシタン武装勢力、3万7千人の大乱勃発! 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(22)


      ● 最強の傭兵部隊天草四郎鉄砲軍団の実態とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(23)


      ● 反乱はキリシタン傭兵部隊の暴走だったのか? 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(24)


      その他の重要な参考文献(25)












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      タグ:松倉勝家
      posted by モモちゃん at 13:48| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2017年01月02日

      伝統の和太鼓というと真田の陣太鼓ですが?

      太鼓の音で魔を払う

      日本の太鼓にはいろいろな種類があって、それこそ伝統な各種催事などでも機会あるごとに演奏されています。

      身近にはお祭りの太鼓や陣太鼓などはよく耳にします。

      真言宗のお寺での読経の際に太鼓が叩かれているのを観たことがあります。

      現代ではプロの太鼓演奏集団もたくさんあるようです。






      両国 にぎわい祭り 太鼓打ち分け2015.5.3










      尾鷲寄せ太鼓?









      リアル太鼓の達人2 - 石見神楽(松原神楽社中)










      天鼓雷音 平成23年4月











      和太鼓演奏 / 空 Sora











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      タグ:神楽太鼓
      posted by モモちゃん at 12:31| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする