2017年08月23日

江戸っ子の暮らし向きをちょいと拝見!

気ままでも厳しいお江戸での暮らし

江戸時代の一般庶民の暮らしはとても慎ましやかなものでした。

当時江戸には若い男性が多い割には市内には女性の数は少なく、思うように結婚できない若者が多かったのです。

家族を養うにはそれ相応の稼ぎが必要でしたから、経済力のない男は独身を通すしか手立てはなかったわけです。

大きく稼ぐこともなければ、大きな出費も出来ないというわけで巷では賭け事や飲酒で憂さ晴らしをしていたことになります。

娯楽といえば、仲間内での飲み会や芝居見物、相撲や見世物、寺社参り、花見といったところでしょうか。

一般庶民が出入りできるような飲み屋や食い物屋はそこここにありましたが、当時は栄養とか食事のバランスとかはまったく関心がもたれてはいなかったので、栄養失調や胃腸の疾患で苦しむ人が少なくありませんでした。

当然冷暖房設備もありませんでしたから、風邪や熱中症、急性胃腸炎(食中毒)、眼病や皮膚病などの感染症も頻発しました。

それでもまともに医者に掛かれる世帯も限られていました。

驚くことに、江戸時代の庶民の平均寿命は三十代後半でした。

当然子供たちも早くに独り立ちをせざるを得ませんでした。

高齢者がいなかったということではなく、これは衛生状態に問題があって、出産時の妊婦や新生児の死亡率が非常に高かったからです。






長屋のくらし








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ラベル:庶民の暮らし
posted by モモちゃん at 17:31| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

家康が最後に掴んだ「膃肭臍」とは一体何だったのか?

秀吉と家康の健康管理術

戦国時代にあって、徳川家康ほど自己の健康管理に努めた武将はまれであった。

他の多くの武将は戦国の気風そのままに無骨一辺で、むしろ酒色に溺れて短命であった。

命を惜しむことが恥とされた時代でもあった。

それこそ長生きするために気配りをして努力をするというのは極めて少数派であったのだ。

そうした中で家康が着実に足元を固め天下を取ったわけであるが、そこには家康独自の健康管理と長生術とが重要な役割を果たした事実はあまり知られてはいない。

当時、家康は大変な読書家であり、自ら医学書や本草書(薬学)を読んで研究していたのである。

今回、その核心部分について紹介してみよう。

御存知のように、オットセイ(膃肭臍)は強精剤としての人気は現代でも相当に根強いものがある。

強精剤というと、スッポンエキス、ベンガル虎の一物、沖縄ハブの肝、赤マムシの肝、キングコブラの肝、鹿鞭を尻目に、まずはこのオットセイの一物というわけで、中国の有名な至宝三鞭丸、海馬三腎丸などにも処方されている。

そこで気になってくることであるが、わが国にこのオットセイの効能が伝わったのは一体何時のことであろうか。

時代を遡っていくと、まずは最初に戦国武将徳川家康(一五四二〜一六一六)に行き着くことになる。


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というのは家康は殊のほか本草学に熱心であり、中国朝鮮の医学書をいち早く入手して研究していた実績があるからである。

しかも当時としては珍しい薬草園までも作っており、家康の遺品には薬物や調剤道具が沢山残されていた。(駿府御分物御道具帳

『本草綱目』や『和剤局方』を独自に研究していたし、613年当時朝鮮で刊行された『東医宝鑑』にも逸早く目を通していた。

とにかく家康はこの分野においてはひどく研究熱心であった。

実はこれらの医書には、膃肭臍(オットセイ)の補腎薬としての効能や処方が薬物情報として書かれていた。

このことに家康は気付いたはずである。

史料を見ると家康が六九歳の時(1611年)に、蝦夷の松前藩主松前慶広に海狗腎(オットセイ)を捕獲し献上するように命じている事実があるが、時系列からいけば確かにこのときすでにこれらの医書からオットセイの薬効情報を掴んでいたということになる。

さらにいえば、家康は捕獲の命令を出す前に海狗腎(オットセイ)の実態をしっかりと特定していたということがいえるはずである。

ここが非常に重要である。

何故ならば、それまで日本では誰もこの海狗腎(膃肭臍)に注目などしていなかった。

存在さえもあやふやであったのだ。

家康より後は、にわかに海狗腎(オットセイ)の薬効が世間一般にも知られるようになり、江戸時代を通じて市中でも大いに強精剤としての人気が集まったという経緯があるのだ。

それも江戸庶民の川柳の題材にまで登場するくらいだから、市井の注目度は相当なものがあった。

 ・
始皇帝 おつとせいとは 気がつかず
 ・おつとせい 転ばぬ為の 薬の名
 ・松前の 矢で射た 腎薬
 ・効能で 女房よろこぶ 夫ト勢
 ・薬食いでも 後家はいましめ おっとせい


ここで腎薬(強精剤)とくれば、あの腎虚(萎縮腎説、老人性肺結核説がある)で倒れた戦国の覇者豊臣秀吉はどうであったろうか。

こうなるとこの腎薬オットセイの存在を天下人の秀吉が知り得たかどうかが気になるところである。



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この点についても早速あれこれと調べてみたというわけである。

ポルトガル宣教師として1563年来日したルイス・フロイスの著した『日本史』によれば、秀吉は大阪城内に参百人のお手付きの側女をおいていたというから、これが重要な傍証となる。

後年秀吉は延命を願って没薬(もつやく)を服していたが、これとて天下統一後の権勢とは裏腹に衰える体力の回復に、それこそやっきになっていた証拠でもある。

秀吉は地下人もしくは百姓の出ということもあって、民間医療の灸治療や温泉(有馬)の効能もよく知っていた。

親しかった前田利家とはお互い灸をし合ったという逸話は有名である。

その上、精力増強のために当時としては宣教師の薦めたこともあって、珍しく牛肉や生玉子を食らっていたし、一方で虎肉が良いと聞けば朝鮮出兵中の島津義弘らに塩漬けの虎肉を送るように厳命していたほどである。

これに答えて武将福島正則は虎を討ち取り、塩漬けにした虎肉を秀吉のもとへ送り届けている事実がある。

その後も秀吉の下へ続々と虎肉が送られてきた結果、もう送らずともよいとの伝令が出されたほどであった。

こうなると朝鮮出兵の目的には、意外とこれらの珍奇な薬物や大陸あたりの精力剤の入手が絡んだものだったかもしれないということになってくる。

晩年になると秀吉は足腰がふらつき、ついには城内でお洩らしまでするようになり、本人はもとより側近あたりの強壮剤捜しは避けられない事態となっていた。

この当時、いわゆる老人の失禁などは腎気(生命力)の衰えとみられたのである。
 
関白職を甥の秀次に譲る時、書状でもって「茶湯、鷹狩り、女狂いなど一切秀吉の道楽の真似るなかれ」と、厳しく生活態度を訓戒したほどの秀吉であり、もとよりかっての主君織田信長が呆れ返るほどの女好きであったからどう転んでも腎虚だけは避けようもなかった。

ここらは自業自得である。

本題の膃肭臍(膃肭臍・オットセイ)であるが、中国方面ではすでに八世紀前半には薬物情報として外部から入って来ていたらしい。(『和漢薬』百九十六号・三浦三郎)

意外なことにオットセイに強壮効果があるとの医薬情報自体は、アラビア半島の中東方面から海か陸のシルクロードを通じてはやくに中国方面に伝播してきていた。

となると時代的には鎌倉時代に伝わっていた『和剤局方』からの情報か、さらには中国で直接宋医学を学んだ医師の田代三喜あたりから腎薬オットセイなるものの薬効は確実に日本にも伝わっていた可能性はあることになる。

勿論、情報通の秀吉自身こうした珍奇薬への特別な関心ははじめから側近のお伽衆や医師達へ向けられたことは十分考えられるところである。

側に仕えた筆頭侍医の施薬院全宗や侍医に近い立場にあった曲直瀬道三(中国に留学して李朱医学を学んだ田代三喜の弟子)、海外の薬種も手広く扱っていた堺の小西家からもそれらの情報は入っていたかもしれない。

しかも秀吉は天下統一後は健康面であれこれと不安を抱えていたから、当時の最高水準の医師団を傍近くに置いていた。

そうした中、当時の名医として名高い竹田定加や半井瑞桂らの番医はもとより多くの名医の治療を直接受けたことで、たぶん海狗腎(オットセイ)情報も彼の耳に端に入っていたことも考えられる。

しかし薬物情報と現物の入手とはまったく別次元のものであるということをここでは考慮しておかなくてはなるまい。

ここで重要なことは、海狗腎(オットセイ)なるものがこの時代はっきりと海獣の「オットセイ」だと特定されていたかどうかが非常に疑わしいのだ。

疑わしくもあり、実に曖昧なのだ。

強壮剤としての薬効があるという海狗腎(膃肭臍)とはどんな生き物なのか、意外なことに当時の医療に携わる薬師・医師らはもとより巷の日本人の誰もがその実態を知らなかったのである。

海にいる大きな海獣、あるいは海魚というレベルの認識であれば、海豹やトド、あるいは鮫や鱶も該当するやも知れず、それこそ誰も「オットセイ」なるものを特定することができなかった。

それこそ当時は現物と医薬文献との間でその情報が一致しない事例はいくらでもあったのである。

学者はその名称や存在自体は知っていても肝心の現物そのものは実際には見ていないこともあった。

当時でも動植物のいわゆる生薬(しょうやく)というものを特定する作業はもちろんのこと、その生薬としての効能の善し悪しを見定める選品作業というものは専門的な知識と経験が必要であっただけに、それこそ一夕一朝に解決できる問題ではなかったのだ。

事実、当時最新の中国(明)の薬物書として刊行されたことで有名な『本草綱目』でさえ、そこに描かれている膃肭臍(オットセイ)の図録は巨大な怪魚そのものなのである。

当然ここからオッセイにつながるような情報は得られなかったはずである。

ということは、『本草綱目』の編著者である李時珍でさえもが実際のオットセイを見たことはなかったということになる。

加工された「海狗腎」は目にしたかもしれないが、膃肭臍の全体像はどこまでも怪魚であったということになる。

怪魚と「海狗腎」とでは絶対にふたつは結びつかない。

当時の『本草綱目』が膃肭臍をどのように表示していたのか国会図書館のアーカイブでようやく探し出してきたのでご覧あれ。

これで『本草綱目』に紹介されている膃肭臍がいわゆるオットセイなるものに見えるかという点を確認していただきた。

オットセイに鱗があるのかということである。



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ここで厳密にいえば、生前秀吉はこの『本草綱目』に描かれた「膃肭臍」なるものの絵姿さえもを目にはしていないし、それは叶わなかったのだ。

というのは『本草綱目』が明の李時珍の手によって完成したのが1578年当時であるが、日本に『本草綱目』が実際に輸入されたのは、江戸幕府が開かれたずっと後年のことであった。

しかも当時でさえ『本草綱目』は、容易に国外に持ち出されるような部類の書籍ではなかった。

第一、この時代明国は日本との直接の交易を断っていた。

そうした状況下にあって1607年にようやく長崎で林羅山が『本草綱目』を入手して、始めて家康に献上したわけであるから当時でもなかなか入手できない貴重かつ高価な稀覯本であったことになる。

ここではじめて家康が権力者として「膃肭臍」なるものに最も早く注目したという明確な経緯が判明してくるということになる。 
 
さらに留意しておかなくてはならないことは、たとえ貴重な文献が入手できたとしても薬用としての「オットセイ」の特定作業と実際にそれの捕獲に繋がらなくては意味はないことになる。

結局現物を入手するにも膃肭臍(オットセイ)という海獣の特定ができて初めてそれが可能となる。

これが実現したのは権力者としての家康の絶大な権力が発揮されたからであり、そこには卓越した彼の情報収集力がものを言ったといえる。

幸いなことに、家康にはそうした海外情報を齎してくれる有能な人材がブレーンとして身近に存在していた。

彼の元には明から渡来してきた医師団がいたことはすでに拙論でも紹介したところである。

さらにウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンのような海外情報に通じた西洋人さえもがいた。

家康は自ら彼らに問いただし、特定作業に繋がる情報を得たことであろう。

そうなるとここは偶然などということではなく家康にとっては必然的な流れがあったわけで、すべては入手するべくして確実に己の手で掴み取ったということになるのではないか。

ここらが家康の本来の凄さであり、その実力に見合った強運というべきところである。

要するに、家康のもとにはオットセイを特定できる人間がいたということである。

ここから「膃肭臍」とオットセイとが特定され、ふたつが見事につながることになる。

オットセイは哺乳類食肉目アシカ科の海獣であって、北太平洋のアラスカ周辺や千島列島付近にまで生息しており、特に冬季には本州中部当たりまで回遊するという生態でもあるから、当時の日本人にとってまったく未知の動物というわけではなかった。

オットセイは繁殖期になるとより強い遺伝子を残すために、強い一匹のオスが多くのメスを独占し、大きなハーレムを形成する動物ということからみれば、誰が観てもその強壮性そのものは理にかなっていよう。

しかもそれが権力者が欲しがる最高の補腎薬とは、家康自身が気付くまでは日本人の誰一人として気付く者はいなかったのである。

ここに家康の本当の凄さがある。

というわけで天下人秀吉のもとではオットセイの実体そのものはすこぶる曖昧なままで、捨て置かれていたということになる。

それこそ国内の既存の本草書にいくらかそれらしき記載はある。

だが肝心のオットセイなるもののはっきりした特定はいまだ出来ておらず、いくばくかの情報の片鱗はあったとしても結局秀吉の時代では海狗腎そのものの入手は不可能だったということになる。

たとえ海狗腎なるものに天下人秀吉が強い憧れを抱いた補腎薬であったとしても、さすがにオットセイの特定がされるだけの確かな情報が彼のもとでは揃わなかったということになる。

結局のところ秀吉は海狗腎の入手に間に合わず63歳で逝去、家康はオットセイ入手に間合い見事にセーフ、75歳までしたたかに延命し天下を掌握したということになる。

しかもこの間に家康は生涯子供を18人ももうけたのである。

あの世では、秀吉が地団太踏んで悔しがったことであろう。

まあそれでも秀吉自身は、当時の名医曲名瀬道三自身も晩年愛用していたという人参入りの理中丸や補中益気湯ぐらいなら、精力回復を願ってせっせと服用していたのかもしれない。

本稿では、精力剤の効果を吹聴しているのではない。
むしろこうした薬物に頼ってしまうのは逆効果であろう。

強精剤はやたら弱った体をむち打つものである。

これによって精力が一時的に増してもこれは直ちに延命に繋がるものではない。

限りある命を精力増強に振り向けるわけで、肝心の生命力そのものが損なわれることもある。

この辺りも家康は賢く対応していたということがいえよう。








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posted by モモちゃん at 21:23| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月03日

日本文化とどこか癒合しているカフェとは

日本文化としてのペットカフェ

ネコカフェとかウサギカフェが、人気を集めだしたのはいつのころからだろうか?

いまや日本だけではなくて、海外でも似たような店舗が出現してきているようである。

ペットカフェは海外からの観光客にも人気である。

ペットカフェはただのカフェでもなく、といって動物園でもない。

動物を眺めて終わるということでもない。

強いて言うならば、ペットショップの延長線上にいくらか重なるのかもしれない。

もともと癒し効果のあるネコやウサギ、フクロウといった小動物が選ばれて、そうした業態が出現してきたのだとも言えそうである。





【ふくろうラッシュ】フクロウカフェを4カ所まわってきたった☆








下北沢のうさぎカフェおひさまへ行ってきた









Cafe lapins a TOKYO - Rabbit Cafe うさぎカフェ










うさぎとカフェ.mpg











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2017年05月07日

地元に名園を残してくれた殿様・佐賀県武雄市

殿様自慢のお庭

佐賀県武雄市の御船山楽園に出かけてみました。

20万本のつつじが御船山の断崖下に咲き誇っていると聞いたからです。

久留米つつじに平戸つつじが群生していて、景色はいいです。






RIMG2922

















入り口部分です。

入場料は大人700円とあります。

武雄領主が江戸時代に造園した庭園だそうです。






RIMG2900

















庭園の真ん中辺りに池がありました。

対岸に藤棚が見えました。






RIMG2906

















山のがけ下にたくさんのつつじがありました。





RIMG2908

















崖下の谷には一面につつじが植えられていました。





RIMG2912

















花見台から見た平戸つつじです。

満開の時期には少しずれたかもしれません。

行基が彫った釈迦像や羅漢像が安置された洞窟もありました。







RIMG2914




















園内では藤も満開でした。






RIMG2919


















園内では花の香りはあまり感じませんでしたが、途中にあった茶店からは美味しそうなメープルシロップの香りが漂ってきました。

それは、こんがりと焼かれた旨そうな饅頭の匂いでありました。
















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2017年05月06日

歴史に所縁あるナンジャモンジャの木とは?

ナンジャモンジャとは何じゃろか?


いまが見ごろということで、ナンジャモンジャの花を探して佐賀県神崎町まで出かけました。

通常はナンジャモンジャと呼ばれる植物はヒトツバタゴのことだそうですが、対馬に多数群生しているとか聞いたことがあります。

「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種は、ヒトツバタゴのほか、ニレ、イヌザクラ、ボダイジュなど様々な種類があって、元々は占いや神事に利用されていたものということで、神社や寺によく植えられています。

2,3本では見栄えがありませんが、4,50本ともなると見応えがあるのではないかと思い、今回出かけて行きました。

佐賀県神崎町の大円寺というお寺のナンジャモンジャが有名ということでした。






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たしかにたくさんナンジャモンジャが植樹されていました。

ナンジャモンジャまとまった状態で50本前後あるように思われます。

木の高さは4,5メートルほどで、花は満開に近い状態でした。

間近でナンジャモンジャの花を観賞したのは始めてです。







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真っ白い花で香りはほとんどありませんが、沢山の数が咲き誇っているだけにそこら一体に何やら微妙な芳しさが漂っているような感じがします。






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花びらは細くて丸みがあります。







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白くて繊細な感じです。






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2017年03月27日

貧乏人には飲めなかったから高貴薬なのだ!

庶民には無縁の高貴薬とは?

約30年前に観たテレビの番組で中国の漢方薬が紹介されていたのだが、そのなかで天然の二十年ものの薬用人参が展示販売されているところが映しだされていた。


この一本の立派な人参の販売価格が、なんと当時70万円だといっていた。

現在であれば、優に5倍にはなっているだろう。


一瞬唖然としたが天然資源が枯渇している現状を考えれば、その稀少価値は計り知れないとも感じた。


人参といえば朝鮮人参が有名であるが、江戸時代の吉宗の代になって初めて国産化さ れたといい、それまではすべて大陸からの輸入品に頼っていたのである。



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たとえば正倉院御物のなかに人参は含まれていたし、後に光明皇后の施薬院のためにそこから五十斤(三十キログラム)もの人参が流用されたというが、すべてとてつもなく貴重な渡来薬物であった。


時代劇にも人参は高貴薬としてよく登場する。


親の病気に薬代が嵩み娘が泣く泣く身売りするという、よくある話がそれである。


当時、それほど人参は高かったかどうか、どうしても当時の事情が知りたくなって図書館に行って調べてみた。


江戸時代の天保七年に人参一斤(六百グラム〕銀三十八貫という高値があったというが、大抵は一斤が銀十六貫辺りが平均的相場だったらしい。


当時の専門技術者であった京都の大工の日当が銀三匁(江戸は五匁)、これで銀十六貫を割ると五三三三日分に当たる計算である。

平成元年三月二十四日の銀の相場でこれを計算してみたところ、大工の日当は三百十八円、人参六百グラムは百六十九万七千八百九十四円にあたる。



現在平成27年11月26日の銀の相場ではどうか。

銀が倍以上に値上がりしていて、大工の日当は720円になる。(江戸だと1200円相当)。





ほかの物価と換算した場合は、江戸時代は現在より銀の価値が二〜三倍になるのでさらに人参の薬価そのものは高くなる。


たとえば通説に従って一両を現代の三万円と換算すると、大工の日当は千五百円、人参一斤は八百万という感覚であろうか。


とにかく現在の経済感覚で単純に計算したところで正確な数値が出てきはしないが、 それでもこの驚くべき価格には現代人でもおおよそ察しが付くというものである。


物価が上がるのは需要と供給に関係があることぐらい、経済オンチの私にも分かる。


円安だと、今も昔も舶来品は当然高くなる。


それに当時の人参は供給量が特に少ない薬物ときている。


だがこの高値には、もう一つ理由があるようである。


寛文・延宝(一六六一〜一六八〇)の頃、数原通玄という良医、朝鮮人参の効能を考へ──衆人の命を助くる事限り知らず。──これより大効ある事をいよいよ知る」と、 『近代世事談』にあるとおり、この時代人参の薬効に人気が集まったらしい。


昔から人参湯は起死回生の薬として知られていた。


この薬湯は漢方の医学書『金匱要略』に登場するし、『傷寒論』には理中丸として出てくる。 

いまでいう特別な新薬というわけではなかった。


しかしながら、通常処方される人参湯には三両(十二匁)、つまり四十五グラム(現代では十五日分)の人参が必要となるが、とても一般庶民が買える薬ではない。


円に換算するとこれだけで六十万以上もする高貴薬である。


天文(一五三二〜一五五四)の頃の名医永田徳本は薬一服十八文以上取らなかった。


患者が二代将軍秀忠のときも治療代は十八文だけしか取らなかったというが、これは例外中の例外であろう。


江戸時代医家,売薬で巨富を成すものが多かったのは、各種の史料をみれば分かることであるが、ここには高貴薬の人参が絡んでいる。


安政度で診察料が銀十五匁から三十匁(約一万五千円)、往診料は初度に二十二匁五分、その後は一度毎に十五匁ということで、こうした医療費とは別に一里内外は三十匁、二里は六十匁、二里半は二両、三里以上は五両(約十五万円)、おまけに二里以上は駕籠の往来であれば、 さらに往診療として駕籠賃、弁当代は病家が出すというものであった。


薬代はというと、七日分が銀三十匁、三日分が十五匁であるが、宵越しの金など持たない庶民はそう簡単に医者に掛かれなかったのである。


そうなると自然と鍼灸療法ということになる。灸は京阪とも二十四文(約144円相当) ですえられた。


按摩代は子供の按摩の揉み代、上下揉んで二十四文。大人の按摩は上下揉みは四十八文であったのだ。

現代でいえば、お手軽クイック整体というところである。


もちろんこれが相場であるから、世間にはこれより高い料金を取った者もいたであろうし、割り引いた場合もあったろう。

これを酒の価格と比較すると実感としてよく分かる。

安政の時代では、上酒一升が三百四十文から四百文(約二千四百円)のあいだであったという。『守貞漫稿』

ただし当時には、今のように酒に割高な税金は掛けられてはいなかった。











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2017年03月23日

大江戸の雰囲気を味合う「鬼平犯科帳」シリーズ

旨そうな「五鉄」の軍鶏鍋が喰いたい

ようやく池波正太郎の「鬼平犯科帳」全24巻(文春文庫)を読破することが出来ました。

これまでにも「鬼平犯科帳」は読んだことはありましたし、機会があれば「オール読物」に連載されている作品も何篇かその都度読んでいました。

今回はあらたまって全巻を片っ端から読み進めて見たというわけです。

30年以上以前の若い時に読んだ鬼平シリーズと比較すれば随分と違った感じがするもので、そこここに漂う独特の江戸の風情というものを今一度しっかりと味わったような気がしました。




粋人








吉右衛門

 







鬼平犯科帳 第1部 第19話   多岐川裕美(むかしの男)









鬼平より味わい深い言葉 1 「侍の心」

 








鬼平より味わい深い言葉 2 「異星より降った生き物」

 








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ラベル:時代小説
posted by モモちゃん at 07:00| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

大江戸に救急医療体制はあったのか?

お江戸の籔井は有名人!

藪医者(藪井竹庵)、あるいは、やぶくすしという言葉は、相当に古くからあったようである。

『広辞苑』によると野巫医(加持祈祷の呪いで病気を治療する者をいう)からできたとしているから、それなりに歴史的伝統があることになる。

ずいぶんと以前に「医道三訓」なるものを何かの本で読んだ。
医、非仁愛之士、不可託。医、非聡明達理、不可任。医、非廉潔淳良、不可信。」

そこには医療に求められるであろう切実なる理想が込められていることが、ひしひしと伝わってくる訓戒である。

それこそ江戸時代までは医者になるのに国家試験も免許制度もなく、資格自体に特別な条件は要らなかったのであるから、その医術の質を問うほうがおかしいくらいの時代背景があった。

多少専門的知識や技術は必要であったであろうが、要は周囲の者が医療技術者として認めるかどうかということであって、その他の専門技術者と同様の認識であったのだ。

それでも医術というからには武術並みに免許皆伝ぐらいあったであろうと思うのだが、それすらもいらなかったのである。

まさに役者、芸者、易者の同類であったわけである。

当然、巷には良医、名医などは数少なかった。

早い話、中には読み書きがまともにできない藪医がごろごろいたのである。

ものの本によると、「元禄以来は太平の御代となり、医者の真似する者が、何時の間にやら頭を丸めて、長羽織、見る内に駕籠乗物にとび上がり昼夜いそがしげに走り回り、 子孫虱のわく如くに分散して国々の果、村々に医者のなき所なし・・・」とある。

これが明治の始めまで続いたのであるから、実に藪医という言葉が現実に生きていた時代であったというべきである。

そのように見てくると当時流行った川柳に出てくる藪医の描写が、まんざら誇張されたものではなかったことがよく分かる。

ここでそれを少し紹介してみたい。

たとえば新米の藪医もはじめは「薬屋に毛のはえた奴あたま剃り」などと茶化されたりするのだが、 そのうちに「半殺しにして余人へと藪医言い」とか、「藪医者は一人治すと二人死に」 とか町中で悪口をいわれるようになる。

やがては「竹庵はまたも四五人後家を出し」とか噂されるし、いよいよにエスカレートしてくると、「殺すもの上手の女郎下手の医者」などと嫌なことも言われだす。 

医者が往来を歩いていると、「八幡よりもっと怖いは医者の藪」と陰口をたたかれたり、終いには「人の命の惜し気なく藪医盛り」ときついことを耳にするようになる。

往診に行っても、「やぶ医の入った家に殺気立ち」とか、「ひと思案ござると藪医のこわいこと」などと言われ、これでは面目まるつぶれである。

その一方で昔からの権威、格式を鼻にくくりつけたような医家の名家といわれるところもあった。

旁もって療治灸治のため、医骨の仁を相尋ね候といえども藪薬師は間々見え来るが、 和気・丹波の典薬、かってもって逢ひがたく候」──『庭訓往来』、とあるとおりこれらの将軍家の典薬頭の格式は高く、江戸時代ともなるとその子孫の半井家は千五百石、今大路家は二千石もの家禄があった。

ここらは相当に羽振りが良かった。

それに対して市井の町医者の方も負けてはおらず、宣伝も行きわたって大いに市井に名を上げるものがいた。

土生玄碩は目薬の売薬で巨富を得て有名であり、ついには将軍家の侍医まで出世した。

有名な杉田玄白も『解体新書』の出版で大成功を収めたから、収入では土生玄碩に負けてはいなかった。

文政年間、京都の医師のなかで最も収入が多いと自負した新宮凉庭は、大阪鴻池家からの療治謝礼だけで年間の生活費が充分に足り、他に二千五百両(約二億円)もの年収があったと弟子に自慢気に話したという記録がある。

原南陽という医師は落ちぶれて江戸に出て小石川あたりの裏店を借りて按摩や鍼を業としていたが、やがて己の才覚で水戸公に五百石で召しかかえられたという。

これは当時としては破格の抜擢であり、人がうらやむ出世であった。

とはいえ、開業が自由なだけ同業同士の過当競争もあって、すべての町医者が裕福というわけではなかった。

落ちぶれたままの境涯の者も少なくなかった。

たとえば元禄御畳奉行(尾張藩士)の日記に、「頃日、いせ町伝馬町下る丁、町いしや(医者 )若山玄昌女、弐拾参歳、父の脇指を腹へ突立て、未だ死なざる内に両親見つけ、押し留む。書置および歌あり。父の貧を悲しみてのこと也。云々(正徳元・五・五)」とある。

これを見ると良医であろうと藪医であろうと世渡りするにも、それ相応の算術の才覚がものをいった。

駕籠代の上前を取る流行医者」というように、昔は往診の際に共回りをぞろぞろ連れて行き、駕籠代や弁当代を患家から頭数分もらっていた。

藪医といわれようと、当時はこれくらいの図々しさが必要だったのである。   

当然のことであるが、現代のような国民皆保険の制度などない時代であったから一般庶民や貧乏人は質の高い医療など受けられる余裕はなかった。

江戸時代の平均寿命は30歳前後であった。

衛生事情はもとより、栄養状態が悪く出産時の母子の死亡率が高かったし、疫病が流行って命を落とすことも少なくなかったからである。

流行り病といわれた感染症には一般庶民は無力であった。


九十歳以上の長寿を保った葛飾北斎などは、当時はきっと人間離れした化け物と見られたはずである。















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ラベル:流行り病
posted by モモちゃん at 12:36| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

伝統の和太鼓というと真田の陣太鼓ですが?

太鼓の音で魔を払う

日本の太鼓にはいろいろな種類があって、それこそ伝統な各種催事などでも機会あるごとに演奏されています。

身近にはお祭りの太鼓や陣太鼓などはよく耳にします。

真言宗のお寺での読経の際に太鼓が叩かれているのを観たことがあります。

現代ではプロの太鼓演奏集団もたくさんあるようです。






両国 にぎわい祭り 太鼓打ち分け2015.5.3










尾鷲寄せ太鼓?









リアル太鼓の達人2 - 石見神楽(松原神楽社中)










天鼓雷音 平成23年4月











和太鼓演奏 / 空 Sora











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ラベル:神楽太鼓
posted by モモちゃん at 12:31| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

最近の歴史関連ブログインデックス

最近のインデックス

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ラベル:歴史問題
posted by モモちゃん at 09:39| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

映画にみる武士の面目と意地について

武士の意地が描かれている作品

森鴎外の短編小説に『阿部一族』という作品がある。

江戸時代初期に肥後藩で起きた殉死に関わる事件を題材にしもので、家中の重職であった阿部一族が上意討ちに至る経緯が歴史小説として、大正2年(1913年)1月に『中央公論』誌上に発表された。

その事件の発端は、寛永18年(1641年)肥後藩主細川忠利の病状が悪化し、側近たちは次々と殉死を願い出て許されたのであるが、老臣の阿部弥一右衛門も同様に殉死の許可を乞うが、主君忠利は「生きて新藩主を助けよ」と遺言し、忠利は死去する。

主君の許可なく腹を切ったのでは犬死だと、弥一右衛門は考えていた。

旧臣たちが次々と殉死していく中で弥一右衛門は、殉死できぬまま従来どおり勤務していたが、周囲からは彼が命を惜しんでいるという陰口を耳にしたことで、息子ら一族を集め彼らの面前で切腹を遂げる。

しかし主君の遺命に背いたことが問題となり、阿部家は藩から殉死者の遺族として扱われず、逆に家格を落とす処分を受けることとなる。

鬱憤をつのらせた弥一右衛門の嫡子・権兵衛は、忠利の一周忌法要の場で髻を切ったことで非礼を咎められ、捕縛され罪人同様に縛り首となる。

藩から一族への度重なる恥辱によって彼ら一族は家中での武士としての面目を失い、追い詰められたことで、次男の弥五兵衛はじめ兄弟は覚悟を決して屋敷に立てこもる。

そしてついには藩のさし向けた討手を相手に壮絶な死闘を展開し、阿部一族は全滅する。

阿部一族の武士としての意地が鮮烈に描かれている作品である。


ここで初めて熊谷久虎監督の映画作品「阿部一族(1938)」を観た。

この作品は、森鴎外の作品を忠実に描き切っているように思えた。




阿部一族(1938)/熊谷久虎










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ラベル:肥後藩
posted by モモちゃん at 23:23| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月22日

お江戸の町には若い男が溢れかえっていた?!

気ままでも厳しいお江戸での暮らし

江戸時代の庶民の暮らしはとても慎ましやかなものでした。

当時は若い男性が多い割には市内には女性は少なく、思うように結婚できない若者が多かったのです。

家族を養うにはそれ相応の稼ぎが必要でしたから、経済力のない男は独身を通すしか手立てはなかったわけです。

大きく稼ぐこともなければ、大きな出費も出来ないというわけで巷では賭け事や飲酒で憂さ晴らしをしていたことになります。

栄養とか食事のバランスとかはまったく関心がもたれてはいなかったので、栄養失調や胃腸の疾患も少なくありませんでした。

医者に掛かれる世帯も限られていました。

驚くことに、江戸時代の庶民の平均寿命三十代でした。

これは衛生状態に問題があって、出産時の妊婦や新生児の死亡率が非常に高かったからです。






長屋のくらし








江戸の食事情









江戸の銭湯










モテた職業 TOP3










お江戸のお花見事情



























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ラベル:平均寿命
posted by モモちゃん at 14:38| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

したたかに酔って候で、よって減刑にてござるよ

酔っぱらいの狼藉は大目に見よってか?

酩酊による判断能力減退を理由に殺人罪が軽減、沖縄地裁


11月22日、沖縄県那覇地裁は、家宅侵入および殺人罪の裁判で被告に対し、犯行時に「飲酒による酩酊で心神耗弱状態」であったことを理由に25年の求刑を14年に減刑した。

被告の設備工石下慶祐被告は昨年2月日に勤務先の飲み会の後、タクシーで自宅近くまで到着し、面識のない女性の住宅に侵入した挙句、室内にあったナイフで寝ていた女性を数回突き刺して殺害した。

翌日、母親への話では石下被告は犯行を記憶しておらず、「変な夢を見た。気付いたら部屋みたいな所にいて、何かくるまったものを、ナイフか包丁か分からないけど何かでプスプス刺した」などと話していた。

続きを読む: https://jp.sputniknews.com/japan/201611233039014/




玄関の戸を開ける気配がしたかとおもうと、すぐにどどっという何かが倒れるような大きな音がした。

行ってみると、ぐでんぐでんに酔っぱらった友人が三人、重なるようにしてぶっ倒れている。

大家に見つかるとうるさいので一人づづ玄関脇の自分の部屋に引きずっていったが、 その重いことといったらなかった。

しばらく並べて寝かせておいたところ三人とも気分が悪くなったらしく、交互に縁側の方へ這っていって嘔吐しはじめた。

翌朝は多少二日酔い気味ではあっても皆おもしろおかしく昨日のことを話しはじめ たが、どうしたことか飲み屋から出てから後の記憶がてんでないというのである。

しかもである、帰りの電車賃までもすっかり使い果たしてしまっていたのに、どうやってここまで辿り着いたのか不思議でならないという──。
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これは学生時代の他愛ない思い出の一場面であるが、酩酊が過ぎるとよくこのようなことがあるものである。

昔から浮世の憂さ晴らしということでは、酒は人間にとってなくてはならないものであった。

それだけに江戸時代など、時代背景や環境といったものに対して精神的不平や不満が鬱屈してくると、どうしても酒に走ることが多かったのではないかと思う。

特に昔は今と違ってこれといった娯楽も少なかったし、いわゆる封建制度の厳しい社会体制のもとでは多くの庶民が鬱屈した精神状態に置かれがちであった。

だからどうしても憂さ晴らしの飲酒量が多くなり、やがて体をこわす原因になったのである。

酔っているあいだは日頃の不満や不安から逃れられると、それこそ前後不覚になるまで呑み続けるということが多かった。

これが毎日のように続くとやがてアルコール依存症とか慢性アルコール中毒、肝臓・胃腸障害が出てくるようになるし、やがて精神にも異常をきたすようになる。


記録によると、正徳二年八月二十七日に次のような飲酒が絡んだ出来事があった。

互いに酒好きで仲のよい只介と彦六という二人の武士が犬山で刄傷事件を起こしたのである。

木曽川辺まで遊びに行ってしたたかに呑んでの帰り、ぶらぶらと街道を歩いているうちに酩酊している彦六がいきなり刀を抜いて只介の腕に切りつけた。

ところが只介も泥酔しているのでこれに気付かない。

そのまますたすた歩いていると腕から流れる血に驚き、「ややっ、汝はわれを切りたるか」と只介が叫んだ。

しかし泥酔のあまりこのこともふっつり忘れて、ぶらぶらと二人とも並んで歩いていってしまった。

そして今度は急に思い出したように只介がふらつきながら抜刀し彦六の顔面に切りつけ、切っ先が伸びて股までも切り削いだ。

彦六はそのまま路上にどおっと倒れたが、 只介もよろめきながらそのまま倒れ込むと鼾をかいて眠り込んでしまった。

しばらくして目を覚ました只介が、「──やれ彦六なんぞ臥したる、日も晩れなん、早く帰るべし」と言うと、彦六は草臥したまま起き上がれずに「汝は先へ帰るべし」 と言う。

それで只介はそのままふらふらと帰っていってしまった。

血まみれになった彦六の方は百姓に介抱され、駕籠で家まで運ばれたが疵がひどく二、三日後死亡した。

以上は尾張藩の御畳奉行の日記に記録されている事件であるが、これに類似した奇妙な事件がもう一つ元禄六年六月二九日の条にも出てくる。

「頃日、御納戸に中間三人伏し居りたり。夜半に一人の男、夢を見たりけん、ふと起きあがり、脇指を抜きて一人の男の首を切り落とし、また熟眠す。ややありて一人の男血腥きに目を覚まし、火を点しみるに、一人の男の首切り落とされ、湧血狼藉たり、大い に驚き、熟眠したる男をおこし、何が故ぞと責め問う。かの男も是をみて驚く。夢に汝 等我を切るゆえ、抜き合わせしと覚えて、その後は知らず、夢中に切り殺したるかと。終に籠(牢)に入る」、とある。

これらの事件は記録として残されているだけに、当時としても特異なものであったろう。

やはり泥酔しての刄傷事件といってもやはり尋常ではないし、睡眠中に夢と現実が混同してしまうなど、錯覚というより錯乱に近いものだし、不覚の最たるものである。

こうした事件の様相からして、多分に当時の人々が何かに抑圧されたり、鬱屈するといった過酷な状況下に置かれていたような気がするのである。

これらは所謂、発狂・精神異常とはいえないまでも、心身症、神経症といったものが背後にあるのかもしれない。

文政年間の『甲子夜話』(松浦静山)に、「人事の世に従て変ずるは勿論なり。疾病 もその時世によること一つなり。年若きものの陽症は発狂の如く、陰症は健忘労〓の如く、一種の疾あるを押しなめて、癇症とすること、近世の事なり」、とあるように精神の病をこの時代には心・気の乱れとして認識していたのである。

では癲狂・癇症とは何か。『病名彙解』(蘆川桂洲)には次のように書かれている。

癲狂・俗に云ふきちがいなり。癲と狂と少しく異なることあり。(医学)入門に云ふ、多く喜ぶを癲とし、多く怒るを狂とす。喜は心に属す。怒るは肝に属す。癇症・俗に云ふくつちがきなり、癲癇と連ねても云へり。大人のを癲と云ひ、小児のを癇と云へり。それ癇症は時に作り、時に止む。その癲狂の心を失して妄りに作り、久を経て癒えざる者と、もと一類にあらず」、と書かれている。

酒をたらふく呑んで前後不覚になったり、国会での証人喚問で都合よく健忘症になったりするものは、そうした範疇にもちろん入らない。


むかしから「酒は百薬の長」という。

その一方では、「酒は万病のもと」などともいうのである。

心して、召されよ。














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ラベル:心神耗弱状態
posted by モモちゃん at 11:06| 江戸時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月05日

江戸城を舞台にスパイ大作戦を演じた男?!

江戸時代に秘密諜報員が活躍していた


江戸時代の眼科の泰斗として知られた土生玄碩は安芸国吉田の眼科医の家に生まれ、鍼を使った白内障治療の新しい術式を考案した人物である。

大阪で蘭方を学びさらに江戸に出てからは眼科の名医として知られ、ついには将軍の侍医として法眼の位に叙せられていた。

ところが文政十二年(1829)丑年十二月十三日、この土生玄碩と子息の玄昌父子両人がシーボルト事件に連座し、改易となる事件が起こった。
その経緯を記した当時の記録には次のようにある。


「先達、オランダ人江戸逗留中、伜玄昌義、対話として罷り越し候処、外科シイボルト 義、眼科療治法の秘薬所持致す旨承り、其方へ申聞け、右は眼科第一の妙薬と相聞こえ、 且つは疑わしくも存じ、其方義旅宿へ罷り越し、シイボルトへ対話、効能をも試し候処、 実に希代の薬験之有り感伏致し、万人の助けに成らる可き義に付き、伝授受取り度く、夜 中忍びにて度々罷り越し、オランダ人と懇意を結び候へども、容易には伝授致すまじく、 カピタンへ相願い然る可き哉と然りてカピタンの歓び候品遣し度く言い含め、その教えに 任せ、何の思慮も無旨○御召御紋の羽織を差し遣わし、薬法伝授の義取り計らひ呉れ候様 相願ひ候処、シイボルト義も右体の品望みの趣申し聞け候に付、其後時服御紋附御帷子差 し遣わし候処、薬法伝授致し呉れ候間、謝礼として猶又御紋服遣わし候段、たとえ私欲に かかわる義には之無く、弁へざる義に候とも、御国禁を背き候段、不届きの至りに候、之 に依り改易仰せ付けられる者也。」(『藤岡屋日記』)


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この事件が起こる丁度十年前、文政六年(1823年)7月3日、シーボルトは長崎出島 のオランダ商館付医師としてバタビアを経由して初めて日本に来航し、ここを拠点にして医師として精力的に活動を開始していた。

やがて彼は長崎の地に鳴滝塾を設立し向学心に燃える優秀な塾生を集め西洋医学を教授したので あるが、これは当時としては実に画期的な事業であった。

それまでの閉鎖的な医学教育とは比較にならないオープンな外科手術法の伝授に、多くの塾生達は目を見張った。



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その中には、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らがおり、最新の西洋医学を講義された。

シーボルトは多くの塾生を教えながら、一方で広範な「日本学」の研究を精力的に進めていた。

塾生達がオランダ語を習得し始めると、シーボルトは次々とオランダ語による研究リポ ートを提出させると共に、これによってあらゆる分野の日本文化の資料や標本を収集することが可能となった。

鳴滝塾の事を聞きつけて全国各地から蘭学を学ぼうとする俊英が数多く集まってきたから、 こうした人材には事欠かなかった。

シーボルトは西洋の薬物情報を記載したテキストを作成すると、それを塾生の一人である高良斉に日本語に翻訳させると、文政年八年(1825)には『薬品応手録』として大阪で出版した。

シーボルトは日本国内の医学の現状に強い関心があり、特に鍼灸術をはじめ本草学に精通した医師達と積極的に交流したが、こうした西洋の薬物情報関連の出版物は当時の蘭方医達に少なからず影響を与えた。

しかもこの『薬品応手録』という医学書は、実に意外な情報を秘めていたのであった。

こ こでいう意外な情報とは冒頭で紹介した当時の眼科医、土生玄碩にとって、という意味おいてである。

この医書の内容からいけば医学書というより薬物書というべきであるが、当時の入手し 易い外国産薬物の効能や用法の解説はもちろんのこと、特に実用度を高める意味で日本産 の薬物を主体にして編集されていることが大きな特徴であった。


このなかにはジキタリスやベラドンナといった薬草についての解説があった。

当初『薬品応手録』は鳴滝塾でテキストとして使われ、シーボルトの江戸参付のとき各 地で交流した医師たちにも贈られた。

もちろんこの画期的内容の医書自体は、眼科医・土生玄碩の手にも渡っていたはずなのであるが、この当たりの行き違いやねじれた経緯がもとで、シーボルト事件がスキャンダラスナなものに変貌 していった。


長崎からの江戸参府は五年ごとに行われ、文政年九年商館長スチュレルに随員としてシーボルトもこのときのオランダ使節団に参加した。

シーボルトは各地の宿泊所で多くの蘭学者や本草学者らと学術交流を行ったのであるが、 江戸ではこの土生玄碩当人とも会見している。

玄碩はこのときシーボルトの眼科手術の講義を聞き自分の術式を彼に詳しく説明したところ 高い評価を得たのである。

事実、シーボルトは玄碩の画期的術式には驚いているのである。

さらに後日、シーボルトは薬剤によって瞳孔を開かせる実験を玄碩に見せたのであるが、今度は逆に玄碩の方が驚嘆してしまった。

この開瞳用の薬剤さえ手元にあれば、玄碩の行う眼科手術は格段にやり易くなるはずであった。
ところが玄碩が再三にわたってシーボルトに問いただしたのだが、どうしたことかすぐには薬剤の処方を教えてもらえなかった。


玄碩は非常なあせりを覚えたらしい。

度々シー ボルトの元を訪れてウナギの蒲焼、駅路の鈴、さらには春画といったものまで贈るという具合に、あらゆる手立てを尽くして必死になって聞き出そうとするがまったく埒があかない。

実はこの薬剤についてはすでに前述の『薬品応手録』に記載されていたのである。

それがベラドンナ(莨とう・中南欧産の多年草であり日本名はハシリドコロともいう)であり、開瞳薬の主成分となるものであった。

ここで何故にシーボルトがすんなりと処方を教えなかったのか理由はいろいろと考えられようが、微妙な部分だけに第三者には理由は分からない。

シーボルト自身は学生時代に幾度となく決闘をした経験もある無骨な一面を持った人物であり、性格的には高慢で自意識が強い上に、無遠慮なところや目的を追行するにも相手構わず強引なところがあったという。

一方の玄碩も若いときは放蕩三昧な遊び人であって、争いも多く医者仲間から「ホラ貝玄碩」と嘲られたこともあるような強い個性を持った人物である。

このような交換条件を伴ったある種の取引ともなれば、当然両者ともそれなりに構える部分はあったろうと思う。

意地と意地とのぶつかり合いといった、相当な駆け引きと険悪なやり取りもそこではあったのではないか。

お節介なことではあるが、ここで交渉がうまくいかなかった理由を思いつくままにいくつか上げてみよう。


1.開瞳薬は眼科治療には不可欠の貴重な薬剤であったから、シーボルトは始めから教授 に対して何らかの見返り(交換条件)を要求するつもりであった。

事実有用な医学情報と引き換えに、それまでにもシーボルトは珍しい物品を医師たちから度々受け取っていた。

2.ベラドンナはすでに『薬品応手録』に記載されている薬物である。それに全く気付かぬ玄碩の不勉 強さと情報に対する安易な態度が、シーボルトを不快にさせたのかも知れない。

3.日本一の眼科の名医、流行医者、将軍の侍医、法眼の位ということで、シーボルトに対しても高慢な 態度を取った。この背景には玄碩のシーボルトへ対するライバル意識がどこかにあったのではないか。

4.玄碩は目薬の売薬で莫大な利益を上げて巨富を蓄え、さらにこれを高利貸している人物であったから、医者とはいえシーボルトには金銭に執着した胡散臭い人物に見えたかも知れない。

5.気性が激しいだけに、両者とも単に気が合わなかった。


どれが該当するか私には断定できないが、結果的には玄碩は大きな代償を払わされることになる。

とうとう玄碩は薬剤名を聞き出すのに、将軍より拝領の三つ葉葵の紋服を国禁を犯してシ ーボルトに贈ってしまうのである。



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文政十一年(1828年)9月17日、バタビア仕立てのオランダ船、コネリウス・ハウト マン号は長崎で猛烈な暴風雨に遭遇し稲佐海岸に乗り上難破した。

シーボルトは任期満ちてこの船で帰国する予定であり、日本における大量の学術資料を 船に積み込んでいたが、役人による被害調査を兼ねた積荷検査でご禁制の日本地図が船内から偶然発見されたのである。

このとき出てきた地図類はあの伊能忠敬が測量作図した高精度の『日本輿地全図』の写しであった。

日本全土がほぼ正確に計測され作図された地図として江戸城紅葉山文庫(歴代将軍の霊廟と機密文書・図書の収納庫)に秘蔵されていたものであり、結果的には当時の日本の最高機密情報がシーボルトによってまさに国外に持ち出されようとしていたことになる。

それらの地図の中には間宮林蔵による北方の樺太の地形情報も含まれており、当時これらは日本が唯一正確な測量を行っていたものであった。


もとより幕府が管理している秘蔵の地図であるからには、当然外部持ち出しは制限されていたと思われるのであるが、実際にはそれほど厳重ではなかったように思える。

そもそも紅葉山文庫を所管する書物奉行の高橋作左衛門景保が、江戸参府の際江戸城を訪れたシーボルトを密かに文庫内に案内してこれらの地図を見せたことが、地図の持ち出し漏洩のきっかけであった。

シーボルトは地図の内容とその精度に驚くと共に、高橋景保に対して巧みに交換条件を持ち出してこれらの測量図の写しを譲り受けたのであった。

この辺りの経緯として、「私は城番の家来を買収して将軍の御殿のよい見取り図を手に入れることに成功した」とシーボルトは自慢げに書き残している。

後日伊能図を持ち帰ったシーボルトは、オランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」として、したたかにもこれを刊行している。


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さらにこの事件で幕府役人を驚かせたことは、シーボルト宅の捜索で土生玄碩が贈ったとされる持ち出しご禁制の葵紋の羽織が出てきたことであった。

(徳川家の家紋である葵の紋は歴代の将軍によって紋様が微妙に違っている。

当時の第十一代将軍家斉(いえなり:在位1787-1837)の紋章は、下の通り13葉のものである。)

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発覚に至るまでに何らかの事前探索や密告があったのかもしれないが、 これがシーボルト事件の発端であり、これによって土生玄碩・玄昌父子が改易となり座敷牢に拘禁されたわけである。


シーボルトは学術研究においては、その標本の入手、資料の収集については非常な好奇心としたたかさを持っていた。

各種の標本や禁制品の日本地図や最高機密の江戸城内の詳細な図面などを入手している事実を見ると、土生玄碩同様、目的貫徹に至るまでは並みのしたたかさではないことは明白である。

彼の一連の違法探索と情報収集活動そのものは外国人によるスパイ行為とみられても仕方のないものであったろう。

シーボルト事件によって鳴滝塾の優秀な塾生(23人)の多くが次々と連座して罰せられ獄死していった。

ご禁制の地図類を手渡した幕府天文方の役人高橋景保も捕らえられ同様の結末であった。

外交方の筆頭でもあった高橋は獄死(1829年3月20日急死)したが死体はそのまま塩漬けにされ、刑確定時に斬首という厳しいものであった。

ただ、シーボルトは結果的には国外に追放されたのであるが、この事件ですべてを失ったわけではなかった。

ここでもシーボルトはしたたかさを発揮して、追放時には没収されたはずの図面の写しをしっかりと隠し持って帰国した。(1829年12月30日長崎出港)


一方の土生玄碩がしたたかというのは、誇大な市中広告によって目薬販売を行い巨富を得た 事実からも容易に察せられるが、それよりもシーボルト事件で彼の領地や膨大な貸金がお上に没 収され、しかも入牢という事態に陥っても少しもへこたれはしなかったからである。

普通入牢すれば、その過酷な状況からいけば数カ月もしないうちに健康を損ない病死ということも考えられるのであるが、そこはしたたかな玄碩である。

このとき玄碩は、どこからともなく大金を融通してくる。

玄碩は事件発覚以前に、手回しよく金銀を二つの油樽にいれて深川に沈めておいたのだった。

この用意周到さと緊急時の肝の座った対応には、あきれるばかりである。

こうした潤沢な資金を使って、ころあいを見て各方面に巧妙な赦免工作を手配した。

もとより彼の名医としての実績は幕府も無視できず、やがて許されて無事出獄することが出来たのである。


その後、玄碩は現役復帰して87歳の長寿を得ただけでなく、日本の近代眼科学発展に貢献した医師として高く評価されるに至った。

意外な展開であるが、その功績により彼の頭蓋骨は現在東京大学医学部において学会の宝物として保存されているということである。

このように観ていくとシーボルトと土生玄碩とは医者というだけでなく、互いにどこかしら似ているのである。

もちろん、その目的貫徹にみせる並外れた強固な意志としたたかさという点で、見事なまでに。















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ラベル:間宮林蔵
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2016年09月06日

三百年前の住空間を実感できる場所がある

文化財訪問でタイムスリップ

福岡県に住んでいて、「うきは市の平川邸」の存在はつい最近まで知りませんでした。

近くといっても意外と山深いところにあるということもあって、これまで訪れる機会がありませんでしたが、今回短時間でしたが建物の外観を見学することができました。





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うきは市の郊外というよりは、狭い山道を登っていきます。


「うきは市の平川邸」そのものは三百余年前の古民家の建築物であって、平成の時代になって国指定重要文化財になったということです。







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文化財に指定された平成19年3月から6月にかけて、かやぶき屋根の全面掛け替えが行われました。






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内部を見学するには事前に住人の方へ予約が必要ということでしたので、今回は急きょ訪れたこともあって残念ながら建物の外観だけを確認するだけにとどめました。

近くにはまったく人影がありませんでした。

何だかこの辺りだけ時間が止まっているような錯覚に陥ります。






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すべてが古びた雰囲気です。

かやぶき屋根の型が「クド」に似ていることから、「くど造り」と呼ばれていますが、建物の内部は主家と土間の2棟をコの字型につなぎ、さらに納屋まで続くのが特徴で分棟型を発展させた型になっているとのことでした。





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古風な建物だけに、どこからみても風格があります。

どこか懐かしい感じがして、まるで時代劇の世界に入り込んだような雰囲気がそこここに広がっています。






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小さなくぐり戸がありました。

突然誰かが出てきそうな感じです。


とてもいい感じです。





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奥のほうに別の住居があるようでしたが、夕暮れ時で挨拶もせずにそのまま失礼してしまいました。






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建物のわきには一群のコスモスが咲いていました。






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本当にタイムスリップした雰囲気です。






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道路側からみたかやぶき屋根です。

この間、10分にも満たない訪問時間でした。残念。















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