2017年07月27日

都市爆撃の戦災概況図ってご存知ですか?

わが町久留米市南部の百年!

忘れられた無差別攻撃による「都市戦災概況図」を見る




郷土史ということで、今回はわが町の歴史を古地図の探索によって追跡してみた。


これまで機会あるごとに集めてきた古老の証言も、町並みの発展の経過もすべてがこれらの古地図に集約されていた。


今回、地方都市の片隅でありながら、古地図の中にわが町域をどうにか補足することが出来た裏には意外な歴史の流れと新たな発見とがあった。
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地図そのものは遥か彼方の上空から地上を視たところの鳥瞰図である。


平面的な広がりのある単純な図形としてみることもできるし、想像を広げて起伏のある立体的空間をそこに自在に組み立ててみることもできる。


古地図にしても確かな地勢の記録として、あるいは過去のタイムカプセルに密封されていた遺物さながらに、時空を越えて目の前に過去の異空間が展開することは、視る者に言いしれぬ感慨をもたらすに違いあるまい。


それが自分が長年居住する地域ともなれば、それこそまた格別の興味も湧いてこようというものである。


とはいえ、大都市の中心部というわけでもない片田舎であれば、そうした歴史文化の蓄積や確かな記録というものはそうた易く出てくるものではない。


筑後一円あるいは久留米を中心に同じテーマで考えれば、古代史を含めてそれ相応の歴史的流れや事跡を紹介することは可能であるが、足元の一つの校区に絞って見るとなるとそれこそ思うようにはいかない。とにかく歴史的色合いが少ない新興地域なのである。m1




私がこの地(福岡県久留米市南部)に移り住んだのは40年ほど前であった。


当時と比べて最近の世帯数の増加傾向はそれほど顕著ではないが、町としての様相は随分と変わってきた。


特に周辺地域の開発が活発化してきていることもあって、道路事情も緩慢ではあるが以前よりは改善されてきている。


現在の久留米市南部の地域図をみるとその変化がはっきりと分かる。(地図1参照・平成15年現在)


十数年前、わが町をまさに俯瞰した航空写真が一面に載った不動産広告が新聞に折り込まれてきたことがあった。


これまで地図でしか視ることのできなかった町域を一望の下に見渡したこの写真が、あらためてわが町の百年の歴史をタイムスリップして振り返ってみるきっかけとなった。


ここ久留米市南部域には特別な歴史的遺物というものはほとんど何もない。



しかも数十年前まで田圃が広がっていたいたような地域であればなおのこと、古い地図上で探しまわっても、町名はおろか何の痕跡も残ってはいないというのが普通ではないであろうか。


昭和30年代以降、地方の土地開発が進み始めた頃は山や田圃が掘り返されおびただしい遺跡が出てきたのだが、当時は文化財保護法などは整備されていなかったこともあってそれらの歴史的遺産は次々と破壊されていった。


当時そうした凄まじい状況を見て子供心にもそれはひどく異常なことのように思えたのを記憶している。


しかも周辺の固有の歴史的伝承地名も新しい地名に変えられ、いわゆる昔の面影というようなセンチメンタルな過去の遺物は次第に忘れ去られた。


わが町にしてもそれは同様であるわけだが、数少ない伝承遺物の祠を探しにいったところすでにそこにはマンションが建っていたこともあった。


そうした状況もあって、過去の地図でわが町の姿をどこまで遡ってたどることが出来るのだろうかという素朴な疑問がふと湧き上がってきたのである。


そして、早速手がかりになるような古い地図はないかと心当たりを探しまわってみたのであるが、意外にも予想していた以上にいろいろな地図資料が出てきたのである。


それこそ古地図というものは第一級の史料である。久留米の市街中心部ならば江戸時代の久留米城を中心に古地図がいくつか残っているのであるが、やはり予想通り当時の地図ではわが町域を確認することは出来なかった。


当時のわが町周辺は久留米の市中図には含まれてはいなかったし、その元となる伝統ある町名などといった確かな痕跡は何もなかった。


ただ町域全体が久留米藩の家老内藤家の土地であったというお年寄りからの伝聞しか得られなかった。


南部の牟田山という地名も、むかし牟田左衛門という古キツネが棲んでいたということで、それ以外には明確な地名記録はないということである。


そこで江戸時代の古地図はここで諦めて、明治以降のものを中心にあれこれ探してみることにした。


明治時代の地図作成について紹介すると、当初は内務省と陸軍省がそれぞれ独自の官製の地図を作成し始めていたのであるが、当時すでに内務省はイギリス式の測量と作図法を、陸軍省はドイツ式をそれぞれに導入していた。


興味深いことに国内地図の作成が別々の政府機関で進められていたわけであるが、当時の富国強兵策の元に明治11年になって国内地図の作成はすべて陸軍省に統括整備されることとなった。


ここにきて明治政府は正確な国内地図を完成させるべく、ドイツに技術将校を留学させて帰国後にこの任に当たらせた経緯があった。


この時点で詳細な国内地図は、いわゆる軍事機密的要素を一気に高めたわけである。


わが南校区は後でも触れるのであるが、明治後期より軍都として発展してきた久留米市の市街にも近く軍事上の要衝となる重要な施設が次々と整備されてきた歴史があった。


そのこともあって、市内校区周辺地域では多くの官製地図が作成されていたことが判明したのである。



右の地図2は明治33年(1900)に大日本帝国陸地測量部によって測量されて、翌年製版された本格的な久留米周辺の地図である。m2


これによるとわが町の位置はもとより当時の町域の様子がよく分かる。


細い村道が東西に伸びているだけで町並みや民家はほとんど見られない。


一面の原野と田圃が広がっている。


以前当地在住の九十歳のお年よりに尋ねたとき、ここらは昔は一面の松林であったという情報を得ていたが、地図上でもその確認が取れたことになる。


地名として、先に上げた牟田山とか八軒屋、十二軒屋、江戸屋敷、上津、国分、藤光といった旧来の地名がそれぞれ確認できる。


この地図はいわゆる官製(陸軍)のものであるが、当時どうしてこれだけ正確な地図が久留米市街以外の地域まで広範囲に作成されたのか不思議に思われたのであるが、後にの地に陸軍の練兵場が設置されたと聞いて納得した。


というのは多分に地図というものが、当時軍事的に利用されることを前提にして全国的に作成されていたと考えられるからである。


少なくとも、このような地図は一般人の眼に触れることはなかったはずである。



 たとえば、同時期に民間で発行された久留米周辺部の地図と精度を比較してみれば、その差は歴然としている。


地図3「久留米付近明細図」(明治35年発行)にしても、それまでの略図的表現からようやく近代的地図の体裁が少しづつ整ってきたというところではないだろうか。m3


これら二点の地図を比較してみると、100年前の南部地区の原型がどうにか浮かび上がってくる。


100年前の明治30年代当時のわが町域は、ほとんど民家もなく雑木林か荒れ地という状態であったことがはっきりこれらの地図で確認できるわけである。


この時期、北部九州の軍事的基盤は着々と整備拡張されつつあった。


同時期久留米でも明治30年(1987)に第二十四旅団司令部が置かれ、歩兵第四十八連隊が福岡より久留米市南部の国分村(現国分町)に移駐してきている。


その当時に作成されたらしい地図「国分町全図」を見ると、司令部は現在の国道3号線沿いの久留米市諏訪野町辺りにあり、兵器部、火薬庫がそのすぐ南側に隣接していたことが分る。


その後さらに明治40年(1907)には第十八師団が設置され、久留米はいよいよ北部九州の軍都としての態勢を備えていった。



やはり、このような地方都市の詳細な地図が計画的に作成された理由もここらにあったのではないかと推察するわけである。


明治40年代当時、わが南町地区には騎兵第二十二連隊、軽重兵十八大隊、野砲兵二十四連隊、山砲兵第三大隊が置かれ、広い練兵場を前にその兵舎や関連施設がいくつも連なっていたことを示す地図も出てきた。

(地図4参照・大日本帝国陸地測量部・明治末作図)m4


練兵場の西側の鹿児島本線荒木駅から軍事物資や戦車、その他の重火器が運ばれた。


さらに昭和三年になると、久留米・吉井間に鉄道(久大線)が開通し、陸上輸送の体勢も整ってきている。


直接確認はしていないのだが、現久大線の南久留米駅には戦車を鉄道列車に積み下ろしするための戦車台がいまも残っているということである。


発行年代の不明瞭な古地図でも、鉄道路の有無や施設部分の増設の様子によっておおよその年代が推定できる。


これらの地図によると、練兵場施設周辺や道路沿いに民家が徐々に増えてきているのが分かる。


市中心部周辺からの人や物資の流れがさかんになり、練兵場周辺で次第に関連資材の生産や経済的な活動が生じてきたことを反映しているようである。


戦前の町並みを画いた地域図を見ると、市中心部より練兵場に延びた道沿いに旅館や軍刀を扱う専門店も次々と出てきている。


まさに門前市を成すといった状況がうかがえる。


北部九州の広い範囲から徴兵された兵士は、この久留米の練兵場において厳しい訓練が行われ後、戦時中は外地へと各部隊が続々と出征していった。
(地図5参照・大日本帝国陸地測量部・明治44年測量、大正2年発行)m5



この場所は多くの将兵の足跡が残されていた練兵の地であって、明治、大正、昭和と施設の拡張が続き、戦前まで帝国陸軍の重要拠点として存在し続けていたわけである。


久留米の歩兵第四十八連隊の兵士は主に久留米を中心に福岡県南部と佐賀県から召集され、1936年4月に満州に派遣された。


同連隊は東京(トンキン)城を中心に隊務に就いた後、終戦の年1945年3月には台湾方面に転戦していた。


出征時には、各連隊地から徒歩で久留米駅まで行軍し、そこから列車で長崎佐世保港に向かったという。


 おそらくそのようにして出征していった全体の兵員数は延べ数十万人にも及ぶのではないだろうか。


実際にここに召集され訓練を受けたという人に幾度も遭遇したことがある。


当時の厳しい訓練の様子や立ち並ぶ兵舎の位置関係や家族面会時の思い出などうかがったことがある。


入隊練兵中の兵士らに遠方から面談に来る家族もあって、練兵場上の北側には当時何軒もの旅館や料亭が出現していたようである。
(地図6参照・大日本帝国陸地測量部・昭和3年以降の発行)minami


練兵場の敷地内の東西に兵舎などの施設が立ち並び、それらの建物の南側に広大な練兵場が広がっていたことなどが当時の地図で確認できる。


 兵舎と道路の間には、高い土手があって外部からは覗えないようになっていたことや、広い練兵場の南端には松の木があって、訓練でよくそこまで全力で走らされたということであった。


昭和16年に発行された久留米商工史付録の「大日本職業別明細図・久留米市」(東京交通社)では市中心部の商店名などは詳細に書かれているが、軍関係の施設については一切省かれている。
(地図7参照・久留米市編入当時の国分町全図)tizu3


市南部に施設が集中していたこともあって、道路施設だけが簡略的に画かれているだけである。


地図の編集内容を見ていくだけでも、この当時次第に戦時色が強くなってきていることが感じ取れる。




昭和20年6月18日に久留米市にも近い県南部の大牟田市が爆撃された際、米軍爆撃機が撃墜された。


その1月後、その巨大なジュラルミン製の残骸がこの練兵場に運び込まれ、国民の戦意高揚ということもありその大展覧会が華々しく開かれ多くの市民が見物に訪れたという。


そうした市民の中には、ジュラルミンに覆われた米軍機の堅牢な防弾構造を知って驚き、今更ながらに敵国の物量の凄さを知った人も少なくなかったという。



しかも米軍は、この昭和20年の7月末と8月初めにかけて久留米空襲を予告するビラを相当数撒いており、市民の危機感は高まっていた。


当時、米軍のビラを拾ったら、そのまま警察に届けることになっていたらしい。
(写真(右):B24爆撃機、(左):P38戦闘機


その予告通り、展覧会から間もない8月11日10時20分、終戦の間際、久留米市はB29、B24爆撃機80機、艦載機P26、 P38 約50機の襲来による集中的都市爆撃で多大な戦災被害を受けた。


総重量500トンにも及ぶ多数の大型焼夷弾と爆弾によって、死者214人、重軽傷者160人、罹災者数2万人、消失家屋4千5百戸余の甚大な爆撃被災を受け、久留米市中心部の都市機能はほとんど壊滅状態となった。



当時のアメリカ軍は、日本家屋の大半が木材と紙で出来ていることから、住民もろとも広範囲に家屋を一気に焼き払う目的でM69集合焼夷弾と呼ばれる引火性油脂を主成分とする焼夷弾という新式の爆弾を開発した。


それは六角形の鉄の円筒にゼラチン状の油脂成分を充填したものを束ねた構造で、通称ナパーム焼夷弾とも呼ばれたものである。


米軍は都市攻撃の効果をさらに高めるために、このナパーム弾38発〜48発を一束にまとめて220ポンド〜最大750ポンドの大型焼夷弾を標準化した。


日本本土爆撃においてB29はこれを1機に最大40個を搭載して連日のように飛来し、都市部を集中的に攻撃した。
(右の写真は米軍が撒いたビラ)


大型焼夷弾は投下後、地上約300mの空中で時限装置が作動し自動的に本体が分解してナパーム弾が分散しながら広い範囲に落下する。


着弾時に中身の油脂は四方に飛散し、猛烈な勢いで燃え広がり火災を発生させる。



もとより建物が密集した市街地の建物と市民のすべてを無差別に焼き払う、いわゆる非人道的殺戮焼却爆弾であった。


この爆撃によって一夜にして久留米市の中心部は破壊焼失し、それまでの町並みはまったくの焼け野原となってしまった。


そのため戦後復興後市内中心部の道路は、地図を見ると戦前のそれとはまったく異なった路線となって現在に至っていることが分かる。


市中支部を流れる現在の池町川は、昭和21年の戦災復興都市計画で川幅が約2倍に広げられ、位置も少し南側に移されている。


米軍機による西鉄筑紫駅・国鉄久留米荒木駅への機銃掃射(宇佐市平和資料館映像)





戦後半世紀経って、このときの戦災によって消失した町並みの詳細な地域図が有志によって復元作成された。


撃墜爆撃機展覧会の会場ともなった南部の軍施設や練兵場一帯は、中心部から2キロ以上離れていることもあってこのときの爆撃の被害にはあっていない。



ただし弾薬庫や発電設備だけがピンポイントで攻撃されていた。



練兵場などの軍施設がほとんど無キズであったということは意外である。


米軍の攻撃の目標はこれらの軍事施設ではなく、むしろ市街中心部の無差別の民間人攻撃であり、これは明らかに市民の戦意喪失を狙ったものといえる。


 当時、市内に居住していて当日の爆撃に遭遇し、奇跡的に助かった女性の体験談を伺ったことがある。


その方は、警報サイレンと同時に屋外に走り出て近くの防空壕に一旦非難しようとしたが、周囲から避難してくる人が多く、自分が妊娠中で大きなお腹をしていたこともあってその防空壕に入らずにそののまま逃げたということであった。


後で分かったことであるが、その防空壕には爆弾が直撃し避難していた人たちはみな亡くなったということであった。


戦後復員された方々も、鉄道が寸断されていて移動には相当難渋されたということで、佐賀県鳥栖から久留米まで借りた自転車で走ってやっと家に辿り着くという状態だったという。


久留米市内は焼け野原で荒廃し、かっての面影もない酷い状態が一面広がっていたという。




戦争直後は練兵場の多くの建物施設が引揚者の住宅や開墾農地に転用されたということであったが、60年以上経過した現在ではその面影はほとんど残ってはいない。


元軍属や引揚た人々が多数入植してこの一帯は農地として開墾され、練兵場施設跡にも民家が少しづつ建ち始めたわけである。


そうした経緯から見れば、ここはまったく戦後の新しい町域なのである。


ただ広い面積を占める学校関係の施設と市営住宅や団地が、道路沿いに並んでいるところをみるとこれが当時の建物の区画跡かなと思える程度である。


練兵場の跡地がそのままの枠組みとなって、いまの町域が戦後発展してきたことは戦前のこれらの地図を視れば容易に分かるというわけである。


百年の間にこれだけの変貌を遂げて出来上がった町並みと町域ということで考えると感慨深いものがある。


久留米という一地方都市の片隅を占めるに過ぎないわれらの校区も、このように観てくるとそれなりの独自の歴史があるということである。


それこそ地図で視る郷土の歴史としては、ここの校区の事例は格好の教材になるのかもしれない。
(下の図は久留米市戦災概況図)



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平成14年11月5日、当方の住所地の表示も全面的に変更整理されて「久留米市南町」から「久留米市南」となった。 



「参考文献・資料」
1.地図1 「南町地区住居表示の実施に伴う町界町名変更(案)久留米市 平成14年
2.地図2・大日本帝国陸地測量部 明治33年発行
3.地図3・「久留米付近明細図」金文堂 明治35年発行
4.地図4・大日本帝国陸地測量部 明治末作図
5.地図5・大日本帝国陸地測量部 大正2年発行
6.地図6・大日本帝国陸地測量部 昭和3年発行
7.地図7・「国分町全図」 作図時期不明
8.「南町地域における新住居表示の実施について」 久留米市 平成14年
9.全国戦災都市別被害状況表 (昭和54年3月内閣総理大臣官房管理室による日本戦災遺族会への委託調査『全国戦災史実調査報告書』
10.第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌(対本土作戦のみ)1945年 6月〜8月
11.「大本営発表」「軍管区司令部発表」昭和16年12月〜昭和20年8月
12.鳥飼行博研究室Torikai Lab Network 日本本土空襲 U.S. Bombing 1944-45
13.全国主要都市戦災概況図


















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ラベル:都市計画
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2017年07月22日

太鼓の音での暑気払いはいかがですか?

ドドンと太鼓の音で魔を払う

日本の太鼓にはいろいろな種類があって、それこそ伝統な各種催事などでも機会あるごとに演奏されています。

身近にはお祭りの太鼓や陣太鼓などはよく耳にします。

古代より太鼓は祭祀や戦いの場で使われていました。

真言宗のお寺での読経の際に太鼓が叩かれているのを観たことがありますし、現代ではプロの太鼓演奏集団もたくさんあります。

町内でも今月末には夏祭りがありますので、集会場で太鼓の稽古が毎日あっています。




両国 にぎわい祭り 太鼓打ち分け2015.5.3










尾鷲寄せ太鼓?








リアル太鼓の達人2 - 石見神楽(松原神楽社中)










天鼓雷音 平成23年4月











和太鼓演奏 / 空 Sora









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posted by モモちゃん at 18:46| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

もう一人のピアノの詩人だったキャバレロ

ピアノのキャバレロといえば

カーメン・キャバレロ(Carmen Cavallaro, 1913年5月6日 - 1989年10月12日)というアメリカのピアニストをご存知であろうか?

特に有名な演奏は、1956年の映画作品『愛情物語』の中の「トゥー・ラブ・アゲイン」であるが、これは耳慣れたショパンの名曲『夜想曲第2番』をアレンジしたもので映画と同時に大ヒットした。

カーメン・キャバレロは、当初クラシックの演奏家を目指していたが、途中でポピュラー音楽に転向した。

彼の演奏の基礎はクラシックであっただけに、クラシックからポピュラー・ミュージックまで幅広いレパートリーを自在に弾きこなした。

その演奏は豪快かつ繊細で、独特の装飾音符をちりばめた華麗な「キャバレロ・タッチ」が人気を集めた。





愛情物語 :カーメン・キャバレロ / To Love Again :Carmen Cavallaro










CARMEN CAVALLARO - MANHATTAN  











Carmen Cavallaro - 慕情











YOU´RE MY EVERYTHING Carmen Cavallaro











CARMEN CAVALLARO - HAY HUMO EN TUS OJOS - SMOKE IN YOUR EYES










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ラベル:ムード音楽
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2017年05月31日

世界最古の楽器といえば打楽器です!

ダラブッカの演奏を集めてみました

ダラブッカは、タブラ、ドゥンベク、ダラブッケともいい、膜鳴楽器に分類される打楽器です。

通常はベリーダンスの伴奏としてアラブ音楽やトルコ音楽でよく使われます。

ダラブッカの伝統的な演奏スタイルは、ベリーダンスの伴奏として発展してきただけにダンサーが踊りやすいように、メリハリの利いた簡潔で力強いフレーズが多く使われます。

通常のベリーダンスの伴奏では、伝統的なエジプトスタイルの2拍子系、4拍子系のものが最もよく演奏されます。




Mother of Pearl Sadaf Darbuka - Our Best Solo










New Generation Darbuka & Sombaty Darbuka - Online Darbuka Shop









Raquy and Osama Farouk. Darbuka.avi










Raquy and 10 Year Old Darbuka Prodigy Sercan

 








Darbuka Ritim-Solo

 













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ラベル:アラブ音楽
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2017年05月14日

美人は一応シュミレーション加工が可能です!

最新のデジタルで美人はどう造られるのか?


いま懐かしい80年代の歌謡曲が若い世代にもブームなんだそうです。

そうなると80年代のファッションなんかも復活しそうな感じですね。

いま思えば80年代は綺麗な女性が多かったように思います。(?)

当時の巷での評価でいうと、その筆頭が歌手のあべ静江さんでした。

確かに男性には人気がありました。



コーヒーショップで あべ静江 









あべ静江さん みずいろの手紙


 




先般、パーフェクトな体形や顔のメイクで美人モデルに作り上げる手法が動画で紹介されていました。

これは凄いです。男性必見です。
二次元のデジタルだとここまで可能なんです。



Body Evolution - Model Before and After










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ラベル:あべ静江
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2017年05月03日

古来女性も使っていた日本のフンドシとは?

褌(ふんどし)の数え方

新太郎は出港予定の前日に姉から風呂敷包みを受け取ると、あらためて別れの挨拶をした。

姉とは半年以上会えなくなるわけで、一抹の寂しさがあったが新太郎は終始笑顔を崩さなかった。

新太郎は帝国大学附属工業専門部を卒業すると、すぐに給料のいい商船会社に就職することを決断した。

先輩の勧めもあったが、もとより自ら望んで大型船の機関部でエンジンの保守管理に従事する仕事に就いたのだ。

海外航路を運航する船に乗り込むわけだから、一端航海に出れば何ヶ月間も陸地には上がれないこともある。

ましてや日本に帰って来るとなると、予定があったとしてもそれこそ何時のことになるかははっきりとは分からない。

新太郎が乗船する大型船は商船であり、大量の物資や貨物を港から港へと輸送する。

そのエンジンの操作はもとより機関部全体の保守管理をするわけであるから、若い新太郎には最初から遣り甲斐のある仕事のように思えたのだ。

両親は若くして他界していたので彼の身内といえば、3歳上の姉だけであった。

新太郎が商船会社に就職したことに姉は驚きはしたが、格別反対はしなかった。

男は思い通りに生きた方がいいと常々口にしていただけに、新太郎の意思を尊重してくれたのである。

新太郎は、希望通りに外国航路を巡る大型船に配属され乗船することが入社直後に決まったのであるが、その日のうちに姉の下を訪ねていった。

このときの新太郎には、特別に姉に頼みたい要件があったのだ。

「姉さん、ふんどしば縫ってもらえんやろか?」

「そりゃあよかばってん、何丁いるとね?」

「百丁縫って欲しかとよ」と、申し訳なさそうな顔で新太郎はそう言った。

「まあ!百丁もね!」

姉は、百丁という数を聴いて一瞬驚いた表情で新太郎の顔を見つめた。

「どうして百丁もいるとね?」

「俺は自分でふんどしば洗濯するとは面倒たい。三日おきに新かふんどしに取り替えていくけん、どげんしてん一航海に百丁はいるとたい」、と新太郎は言った。

姉は新太郎の言葉に笑いながらどうにか納得すると、期日までにふんどしを百丁仕上げると新太郎に言った。

そして、新太郎が船に乗り込む前日までにその百丁のふんどしをどうにか仕上げてくれたのであった。

新太郎は受け取ったその百丁のふんどしと身の回り品を携えて、翌日の早朝に始めての航海に出る大型船に乗船したのだった。

船の機関部の仕事は面白かった。

エンジンの保守管理は油だらけになることも少なくなかったが、新太郎はすべてにおいて作業手順の飲み込みが速く先輩達からも可愛がられた。

船内の生活にもすぐ慣れたし、専属の調理人がつくる毎日の料理も洋風で新しいもの好きの新太郎を喜ばせた。

日本で陸の仕事に就いていたとしてもこれほどの経験は出来まいと思った。

新太郎の乗った船の航路は世界の七つの海にまで広がっていて、世界中の大きな港を経由して各航路を回っていった。


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見る物、聴く物どれもこれもが目新しく、若い新太郎は世界各地で青春を謳歌していったというわけである。

そしてこの間、新太郎の百丁のふんどしは予定通りに2,3日おきに取り替えられていった。

使い捨てのふんどしは次々と船上から海面へと投げ捨てられた。

ふんどしはその都度海風に大きく煽られ吹き飛ばされながら海の藻屑となって新太郎の視野から消えていった。

その後も新たな航海の度に新太郎の百丁のふんどしは、毎回姉が縫い続けてくれた。

新太郎は20代にして外国航路の機関長に出世していた。

それでも姉の手で縫われるふんどしが千丁を超えた辺りから、新太郎は陸にそろそろ上がろうと思うようになった。

新太郎は三十をいくつか過ぎたころに、その商船会社を惜しまれつつ退社した。

いまでも新太郎はときどき夢に見ることがあるのであるが、それは夥しい白い晒木綿のふんどしが世界中の海の中を漂っている様子なのである。

それは夢でありながら、妙にリアルで生々しい情景なのである。


「爺ちゃんは何でパンツば履かんとね?」と、孫から聴かれると、新太郎は大抵きまって「爺ちゃんは色のついたパンツは好かんとたい」と応えるのであった。





















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posted by モモちゃん at 09:40| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月01日

「ロビンソン・クルーソー」原書初版本を探しています?!

もしかしたらお宝発見!

イギリスの小説家ダニエル・デフォーの小説「ロビンソン・クルーソー」は、日本でもよく知られた作品です。

また意外なことですが、もっとも長い題名の付いた小説ということでも知られています。

原題は、そのままだと「The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner: Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque; Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates」ということになります。

この小説「ロビンソン・クルーソー」は、1719年にロンドンで刊行されているのですが、当時大変なベストセラーになりその後も次々と版を重ねました。

原題をみると、" The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner: " 
 「ヨークの船乗り、ロビンソン・クルーソーの生涯と驚くべき不可思議な冒険の数々」というタイトルで始まっています。

さらに続けて、" Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;
「彼は28年間も孤独なまま過ごしたのは、南アメリカ沿岸の大河オリノコの河口付近にある無人島であった:

Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates."
船が難破して岸辺に打ち上げられ、彼以外の者はすべて犠牲となってしまった。その最後において、奇しくも海賊船にどのようにして救出されたかを記したものである。」と書かれています。

これに続いて「彼の(本人)自筆による」(Written by Himself)とあって、まるで主人公のロビンソン・クルーソー自身が記述したかのように表現されています。

まるでノンフヘション作品と言わんばかりの触れ込み方です。

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少年時代、この「ロビンソン・クルーソー」と「十五少年漂流記」の二冊は愛読書でした。

主人公の無人島での生活と冒険を、わくわくしながら読んだ記憶があります。


「ロビンソン・クルーソー」には、もう一つ特別な思い出があります。

実は伯父の一人が意外なことに、この「ロビンソン・クルーソー」の原書、それも貴重な初版本を持っていたのです。

ただし、80年ぐらい以前の戦前の話です。

もしいまそれが手元にあるとすれば、とてつもないお宝本ということになります。

世界中の図書館や大学当たりが欲しがる数少ない稀少本として、おそらく数億円の価値はあるのではないかと思われます。

生前、伯父はその「ロビンソン・クルーソー」の本の入手の経緯について話してくれました。

それによると伯父が旧制中学の生徒であったとき、実家の近くに当時逗留していたある人物と出会い、家族ぐるみで付き合ううちにとても懇意になったそうです。

たしかその方の名前も聞いていたのですが、残念なことに失念してしまいました。

その方は学者のような風貌で、何でもかっての日露戦争当時ロシア側との交渉での通訳を務められていたという経歴があったといいます。

その方がその土地を離れる際に、伯父にその貴重な「ロビンソン・クルーソー」の原書を手渡してくれたというのです。

初版本だから大事にするといいと言われたということでしたが、戦争の混乱もあってその後の原書の行くへは不明だということでした。

この話を聞いて40年近く経ちますが、いまでも時折この話を思い出します。

伯父が育った家に行くと、決まったように従兄たちに声を掛けます。

屋根裏か押し入れで、古めかしか英語の本ば見かけたりはせんね?もしも出てきたら、もの凄かお宝になるとばい」、と。

ここだけの話ですが、ここらの事情を詳しく聞き知っているのは、実は私だけなのです。












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2016年10月21日

秋は雷山千如寺にまで足を延ばしてみました

秋の千如寺・五百羅漢像を訪ねる



福岡県糸島市雷山にある千如寺大悲王院に行ってきました。

ここは成務天皇(第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)の時代ということなので、古代の4世紀辺りにまで想定できる歴史があるということになります。

この時代の九州は、歴史教科書には記載されてはいない「九州王朝」が支配していた時代ということになりますので、成務天皇の事跡そのものは後世の日本書紀などの正史に詳しい記録はありません。

その縁起はというと、成務天皇の四十八年、雷山の地主神である雷大権現の招きで渡来した天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)の僧清賀上人によってこの地に開創されたと伝えられています。

霊鷲山とはインドのビハール州にある山で、別名では耆闍崛山、鷲峰山、霊頭山、鷲頭山、鷲台としても知られていますが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定したことで有名な聖地です。

霊鷲山は、かって釈迦が無量寿経や法華経を説いた仏教の霊山ということになります。

その所縁の地からインド人の清賀上人が仏教と共に古代日本に渡来してきたということですから、ここでも従来の学会の定説や歴史観がひっくり返ってしまいます。

その後、千如寺は聖武天皇の時代には勅願道場となり、国司により七堂伽藍が建立されたということです。

仏教が盛んであった鎌倉時代には、この地には三百もの坊舎があったといわれます。



参詣する人たちが次々とバスで訪れていました。




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千如寺は立派な樹齢400年といわれる楓の大木があることでも近隣に知られています。






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中庭に大きな楓があります。






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伽藍の裏は傍まで山が迫っていて、その斜面を覆うように石像が並んでいました。





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杉の大木の間に羅漢像が整然と並べられています。





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やはりこれだけ羅漢像があると壮観です。






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ラベル:仏教伝来
posted by モモちゃん at 11:56| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月03日

極秘任務中消えた伊号潜水艦を発見!

忘れ去られた伊52潜水艦

戦前、日本海軍は世界最高水準の潜水艦製造技術を保有していました。

また、圧縮空気で推進器を稼働させる魚雷も当時世界最高水準レベルの革新的技術でした。

若い時、その軍需工場で働いていた技術者だったという方に話を伺ったことがあります。

そこにはほとんど知られていない驚きの歴史がありました。




日本軍の極秘潜水艦伊401

 






発見!伊52潜水艦   ドイツ派遣潜水艦の最終艦

 














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posted by モモちゃん at 08:30| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

ヒットラーが未来の人類に託してくれたもの!?

受け継がれたヒットラーの遺産とは何か?

科学発展の道筋には確かに人類の求める続けてやまない真理追究のロマンがある。 

そこにはまさしく科学の平和利用という理想がある。

20世紀初頭ドイツの科学者の中には、宇宙に向けてロケットを打ち上げる夢をもって地道な研究を続けていた学者グループがあった。

これに目を付けたナチス・ ドイツは、新兵器に転用できる科学技術として彼らのロケット研究を高く評価した。

そしてナチスの手によってそこから瞬く間に無人爆撃機、さらにはV2号ロケットへと改良していった。

ヒットラーの期待に応えて、完成したV2号ロケットは次々と英国のロンドン市内に打ち込まれ市民を震え上がらせた。

V2号ロケット攻撃で数千人の犠牲者が出たのだ。

V2 rockets from Penemünde to London









このロケットには、飛行中の姿勢を制御する画期的な姿勢制御装置(ジャイロ)がすでに搭載されていた。

ドイツ敗戦時、連合国側のアメリカとソ連の軍隊はこのV2号ロケット施設を競って接収した。

戦勝国側はナチスドイツ軍の脅威的な新兵器技術をすべて鹵獲物として接収したのである。

ここでは工場設備だけではなく、ロケット開発や製造に従事した科学者や技術者6千人を拘束しそれぞれの国に移送した。

大戦後判明したことであるが、当時のドイツの科学技術水準は他国を大きく引き離していたわけで、皮肉にもその後の米ソの宇宙競争を支えたものは、まさにヒットラーの遺産ともいうべきこれらのロケットを主体とする軍事先端科学技術であった。

ヒットラーの遺産はいまや強大な軍事システムとして存続し続けている。

それが脅威の巡航ミサイルシステムである。

アジア太平洋地域で戦争があるとすれば、開戦と同時に最先端兵器であるこの巡航ミサイルが最初に飛び交うことになる。

全天候型のGPSによってコントロールされる巡航ミサイルは、50メートルほどの低空で飛行し続け適格に標的をピンポイント攻撃することが可能である。

コンピューター画面の地形図に攻撃標的の座標ポイントをクリックするだけで事足りる。

すでに中国も「北斗 (衛星測位システム)」を4年前に実用化し、巡航ミサイルシステムもアジア太平洋地域に配備している。(2012)




衝撃映像「ロシア潜水艦がシリア沖から初めての巡航ミサイル攻撃」 Russian Caspian Sea fleet launches cruise missiles against ISIS sites in Syria

  







シリア空爆、米艦船から発射される巡航ミサイル US, Arab allies launch air strikes on IS jihadists in Syria

 








中国の長距離巡航ミサイルの第一波攻撃で日本は壊滅する

 






これらのシステムは運用する国はそれぞれ違っていても、ヒットラーから受け継いだ同じ巡航ミサイルであるからほとんど区別がつかないほどに似通っている。

ヒットラーから受け継いだ遺産としての巡航ミサイルには、皮肉にもまったく同じ血脈が流れていることを如実に物語っているのである。












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posted by モモちゃん at 09:27| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月14日

古代生物マンモスは1万年前に絶滅しました!?

古代生物は生存している!?

マンモス (Mammoth) は哺乳綱長鼻目ゾウ科マンモス属 (Mammuthus) に属する太古の動物である。

現生の哺乳動物のゾウに体型が類似しているが、遺伝的には別系統だとされる。

約400万年前から1万年前頃まで生息していたとされ、巨大な湾曲した牙が特徴的で長さが5メートル以上にもなり、行動範囲も広く古代の人類とも頻繁に遭遇していたことになる。

世界各地に生息していたが、現在は全種が絶滅しているというのが生物学者らの定説である。


プテラノドン(学名:Pteranodon)は、中生代白亜紀後期の約8000万年以前(中生代白亜紀)にアメリカ大陸を中心に生息していたとされる翼竜の一種である。

巨大な7,8メートルにもなる翼を持ち、空を自在に飛行した。

この種族も早くに絶滅した古代生物とされたとするのが定説であるが、これとて現在でも目撃事例があるわけで、真実そうであるのか疑わしいところである。

ただこれらは、学者が発見できないだけなのかもしれないのだ。




REAL Woolly MAMMOTH sighting footage caught on tape! (Yakutsk city, Sakha Republic, Siberia 1943)










Mammoth caught on Camera










【プテラノドン!?】米国上空を飛ぶ翼竜が撮影される!リアルジュラシック・ワールド【世界の不思議大図鑑】UFO UMA 未確認 ALIENS 恐怖 イルミナティ フリーメイソン

 








【都市伝説】 絶滅したはずの翼竜『プテラノドン』は生きていた?

 










beポンキッキーズ40th ソングス 「ほえろ!マンモスくん」













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ラベル:プテラノドン
posted by モモちゃん at 05:50| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

男ならパーおじさんの名前ぐらい覚えておけ!

パー爺さん驚異の長寿伝説の真相とは

長寿者というと意外にもイギリスにその記録がある。

そのなかで 第一に上げられるのはトーマス・カーン(一三一八〜一五八八)という人物がまず筆頭であろう。

問題なのは次に上げる長寿者のトーマス・パーである。

この人物についてはいろいろな書物に散見するので、ご存知の方は多いのではあるまいか。

いわゆる、酒のラベルになっているあのオールド・パーおじさんのことである。


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パーおじさんは百歳のとき三人目の妻と死別したのであるが、老いても精力絶倫であったのが災いしてか、百二歳のときに村の娘を強姦して逮捕されてしまうという不祥事を引き起こしてしまった。

高齢者でありながら、まったくもってけしからぬ話である。

別の情報によると少し話は違っていて、年齢も105歳のときにキャサリン・ミルトンという若い女性を孕ませてしまったことで逮捕されたのだという。

若いキャサリン・ミルトンは近隣の村々でも知らぬ者が居ないほどの評判の美人であったから、この事件はよりスキャンダラスな展開になった。

ことが事だけに最初から秘密裏にもみ消せるような事態ではなくて、しかもこれには高齢のパーおじさんが関わっていて、その相手が村人たちが注目する美人であったということもあって結果的には相当な大事件になってしまったのである。

実際にこのときの裁判記録が残されているのかも知れないが、二人の年の差が開き過ぎていることもあって、両者に恋愛が絡んでいたとは考えられず当時も事件性が一段と強調されてしまったようである。

結果的にはパーおじさんには教会から厳しい懲罰が下されたのである。

理由はどうあれパーおじさんは、このとき確かに女性問題が原因で投獄されたのである。

あえてここでパーおじさんを弁護するならば、彼は年齢に関わらず高齢であっても若々しい精神と肉体とをずっと維持し続けていたに違いないわけで、それだけの魅力的な風貌をも兼ね備えた男性でもあったといえるのではないだろうか。


劣悪な獄中にあってもパーおじさんはすこぶる健康であった。

この罪で彼は十八年間獄中にあったが百二十歳で出獄した後、百二十二歳で再婚して子をもうけた。

パーおじさんの行動はまるで青年のようであるし、こうなると人間離れした生命力である。


パーおじさんが世間から注目を浴びだしたのは、国王チャールズ1世に謁見したことからである。

ついには彼の存在が国王の耳にまで達したのである。

会見の際、国王チャールズ1世がパーおじさんに対し、他の者にくらべて何か特別に変わったことを成したことがあるかどうか尋ねたところ、パーおじさんはかって自分は女性問題で教会から懲罰を受け、課された贖罪を18年を掛けて成し遂げた最も年老いた人間だと苦笑しながら答えてみせた。

これはまさにイギリス風のユーモアでもって、見事に答弁しているではないか。

さすがに国王もこれには驚いて感嘆の声を上げた。

この事実が世間に広まると、パーおじさんはロンドンで一躍有名人となり国民的人気者となった。

記録によるとパーおじさんは、百三十四歳当時まで性的能力が十分にあったというが、その後チャールズ1世の宮廷に招かれた一六三五年に一五二歳で死んでしまった。

農村での農夫としての生活が本来身体にあっていたらしいのだが、急に宮廷生活を強いられたことが彼の命を縮めてしまったということである。

彼の年齢そのものは当時の農地の賃貸契約書などで確認できるものであって、記録から見ても長寿者そのものに間違いはないとされている。



Westminster.jpg




彼の墓はロンドンのウェストミンスター寺院内にあって、シェークスピアなどの有名な詩人や文人と一緒に埋葬されているということである。

ちゃんとした墓碑銘もそこには残されている。


THO: PARR OF YE COUNTY OF SALLOP. BORNE
IN AD: 1483. HE LIVED IN YE REIGNES OF TEN
PRINCES VIZ: K.ED.4. K.ED.5. K.RICH.3.
K.HEN.7. K.HEN.8. K.EDW.6. Q.MA. Q.ELIZ
K.JA. & K. CHARLES. AGED 152 YEARES.
& WAS BURYED HERE NOVEMB. 15. 1635.

「サラップ州のトーマス・パーは1483年に生まれた。エドワード4世、エドワード5世、リチャード3世、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世、ジェイムズ1世、チャールズ1世の10代にわたる治世を生き、1635年11月15日ここに埋葬された。」と記録されているという。


このような例外を上げていると、一体全体人間の寿命とは何なのだといいたくなる。

平均寿命にも達しないうちに成人病や癌で倒れていく人があるかと思うと、他方でこのような驚異的な長命の事例もあるわけである。

人間と生活環境、職業や嗜好をベースにした詳細な平均余命のデーターは、当の厚生労働省ではなくて生命保険会社のコンピュータの中に蓄積されているという。

実はこれが最も重要な企業機密とされているのだが、これも意外な話ではあろう。


















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ラベル:墓碑銘
posted by モモちゃん at 07:28| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

よく舞い踊る民族だったかっての日本人

さあ、景気よく、歌って踊って!


子供のころ親に連れて行ってもらった映画館で、勝新太郎の歌う「河内音頭」というのを始めて聞いた覚えがある。

その場面だけが、いまでも鮮烈に記憶に残っている。

何ともいえない独特のリズムが印象に残った。

昔の日本人は、よく歌いそして踊っていたような気がする。




河内音頭 勝新太郎 .











東京音頭の踊り方











チャンチキおけさ











座頭市 タップダンス Zatoichi Japanese tap dance

 














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    ラベル:音頭
    posted by モモちゃん at 19:39| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年11月28日

    九州王朝にインド仏教伝来という伝承あり

    五百羅漢像を訪ねる



    福岡県糸島市雷山にある千如寺大悲王院に行ってきました。

    ここは成務天皇(第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)の時代ということで、古代の4世紀辺りに想定できる歴史があるということになります。

    この時代の九州は歴史教科書には記載されない「九州王朝」が支配していた時代ということになりますので、成務天皇の事跡そのものは日本書紀などの正史に詳しい記録はありません。

    その縁起はというと、成務天皇の四十八年、雷山の地主神である雷大権現の招きで渡来した天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)の僧清賀上人によって開創されたと伝えられています。

    霊鷲山とはインドのビハール州にある山で、別名では耆闍崛山、鷲峰山、霊頭山、鷲頭山、鷲台としても知られていますが、1903年(明治36年)1月14日朝、大谷光瑞が率いる第1次大谷探検隊が朝日に照らされたこの山を仏典上の霊鷲山と同一と確定したことで有名です。

    ここはかって釈迦が無量寿経や法華経を説いた霊山ということになります。

    その所縁のある地からインド人の清賀上人が仏教と共に古代日本に渡来してきたということですから、ここでも従来の定説や歴史観がひっくり返ってしまいます。

    その後、千如寺は聖武天皇の時代には勅願道場となり、国司により七堂伽藍が建立されたということです。

    鎌倉時代には三百もの坊舎があったといわれます。



    参詣する人たちが次々とバスで訪れていました。




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    千如寺は立派な樹齢400年といわれる楓の大木があることでも近隣に知られています。






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    中庭に大きな楓があります。






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    伽藍の裏は山が迫っていて、そこには五百羅漢像がありました。





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    杉の大木の間に羅漢像が整然と並べられています。





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    やはりこれだけ羅漢像があると壮観です。






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      posted by モモちゃん at 12:51| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2015年11月03日

      うきは市の国指定重要文化財訪問記

      山奥の文化財訪問記


      福岡県に住んでいて、「うきは市の平川邸」の存在はつい最近まで知りませんでした。

      近くといっても意外と山深いところにあるということもあって、これまで訪れる機会がありませんでしたが、今回短時間でしたが建物の外観を見学することができました。





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      うきは市の郊外というよりは、狭い山道を登っていきます。


      「うきは市の平川邸」は三百余年前の古民家の建築物であって、平成の時代になって国指定重要文化財になったということです。







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      文化財に指定された平成19年3月から6月にかけて、かやぶき屋根の全面掛け替えが行われました。





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      内部を見学するには事前に住人の方へ予約が必要ということでしたので、今回は急きょ訪れたこともあって残念ながら建物の外観だけを確認するだけにとどめました。






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      かやぶき屋根の型が「クド」に似ていることから、「くど造り」と呼ばれている建物の内部は主家と土間の2棟をコの字型につなぎ、さらに納屋まで続くのが特徴で、分棟型を発展させた型になっているとのことでした。





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      古風な建物には風格があります。

      どこか懐かしい感じがして、まるで時代劇の世界に入り込んだような雰囲気がそこここに広がっています。






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      小さなくぐり戸がありました。

      とてもいい感じです。





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      奥のほうに別の住居があるようでしたが、夕暮れ時で挨拶もせずにそのまま失礼してしまいました。




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      建物のわきには一群のコスモスが咲いていました。






      RIMG2466

















      本当にタイムスリップした雰囲気です。





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      道路側からみたかやぶき屋根です。

      この間、10分にも満たない訪問時間でした。残念。
























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        ラベル:古民家
        posted by モモちゃん at 06:50| 歴史発見 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする