2017年07月04日

にわかには信じられない人物伝異聞(1)

伝説の名医・華佗

はるか昔、中国の後漢末期に華佗(か だ、? - 建安13年(208年))という名医がいた。

華佗は、薬学・鍼灸に非凡な才能を発揮した医師であったが、彼がもっとも得意とする医術は外科手術であった。

華佗の外科手術については、歴史書の三国志と後漢書に記録がある。

Guanyu『華佗字元化、沛國譙人也、一名旉。遊學徐土、兼通數經。曉養性之術、年且百歲而猶有壯容、時人以為仙。沛相陳珪舉孝廉、太尉黃琬辟、皆不就。精於方藥、處齊不過數種、心識分銖、不假稱量。針灸不過數處。若疾發結於內、針藥所不能及者、乃令先以酒服麻沸散、既醉無所覺、因刳破腹背、抽割積聚。若在腸胃、則斷截湔洗、除去疾穢、既而縫合、傅以神膏、四五日創愈、一月之間皆平復。』(『後漢書』方術列伝 )




彼は鍼灸や投薬で治せない病の患者の場合は、麻沸散とよばれる麻酔薬を酒とともに投与して患者の意識を失わせたあと、腹部を切り開いて患部を切除し、さらに腹腔を洗浄し切開部を縫合したのちに薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促したとされる。

歴史上最初の麻酔外科手術ということになるが、華佗の外科手術の術式などの情報は彼が曹操によって殺害されたことですべて絶えてしまった。

当然のことであるが、ここで言えることは史書に記録があるからといって、これがすべて事実であったとはいえないではないかということである。

何の検査機器もなく、消毒薬などの化学薬品もなく、しかも医学的診断技術も知識もなかった古代において、そのような外科手術などが行われたなどというのは疑わしいいではないか。

しかしながらこれが単なる古代人の空想であったとしても、ここまで細かく考え及ぶものであろうか?

華佗の外科手術の術式が気になるところであるが、そもそも治療するうえで、こうした外科手術を行うという治療技術の発想はどこからもたらされたのであろうか?

麻酔薬を使うという発想自体、あまりにも専門的かつ画期的過ぎる発想ではないか。

しかも病気の根源(患部)が腹部にあると特定する診断技術まで揃っているとなると、やはりこれは人類史から考えても俄かには信じがたいことではある。

さらにいうならば、外科手術を行うことで患者が回復するという華佗の医師としての確信(医学情報)そのものはどこから得られたのであろうか?

華佗は「鍼灸や投薬で治せない病の患者には、麻沸散とよばれる麻酔薬を酒とともに投与して患者の意識を失わせたあと、腹部を切り開いて患部を切除し、さらに腹腔を洗浄し切開部を縫合したのちに薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促した」というように、この一連の治療の流自体は現代人にも納得できる西洋医学の外科手術の術式に比較できるもののようにも思える。

華佗の詳しい出自は分からない。

中国人であったであろうが、いわゆる伝統的な従来の中国医学とは異なる医術を行っていることが奇異でもある。

当時のシルクロードを経由してもたらされたペルシャの医術やインドのススルタ医術の情報が大きく影響していた可能性は十分にある。

麻酔薬などにはそうした外来の薬物が使われたということになる。

特に面白いのは、華佗の生理観、病理観としてあるのは「人間は加齢とともに体内に疾穢が溜まってくる」というものである。

この疾穢の蓄積が疾病の原因になるということである。

疾穢とは何なのか分からないし、華佗伝にだけ出てくる語彙である。


『三国志』華佗伝や『後漢書』方術伝には、彼の行った数々の治療や診断の例が記録されているのだが、その症例のいくつかをウ ィキペディアから引用する。

1・陳登を診察した際、陳登の好物だった膾から感染した寄生虫が胃に巣くっていると診断した。治療として煎じ薬を2升作って半分ずつ飲ませ、寄生虫を吐き出させた。華佗は3年後に再発すると言い、果たしてその通りになったが、その時華佗やそれに代わる医者がおらず、陳登は死んでしまった。

2・曹操の武将李通の妻が重病になったとき華佗は、以前流産した際の胎児が残っているためと診断した。李通は胎児はもう降りたと言ったが、華佗は胎児は双子で、一人が残っているのが病因と診断した。果たしてその通りミイラのように石灰化した胎児が体内から取り出された。

3・県の役人の尹正が、手足が熱っぽく、口の中が乾いて、人の声を聞くと苛立ち、小便が通じないという症状に悩まされていた。華佗は熱いものを食べ、汗が出れば平癒するが、出なければ3日で泣きながら絶命すると診断した。尹正は熱いものを食べたが汗は出ず、果たして診断通りの死に方をした。

4・軍の役人の李成が咳に苦しんで、時に血膿を吐いていた。診察した華佗は病原は肺ではなく腸炎と診断し、さらに18年後にちょっとした再発があるからと、その分も合わせて粉薬を出した。その5・6年後、李成の親類に同じ症状になった者がいたので、李成の親類は後で華佗から貰って来るからと李成に頼み、予備の薬を融通してもらった。親類は治癒すると、約束通り華佗のいるに向かったが、丁度華佗が曹操に捕縛され、薬は手に入らなかった。薬のない李成は、華佗の診察を受けた18年後に病が再発して死んでしまった。

5・重病に苦しむある郡守の様子を診たところ、激怒させるのが最も効果的な治療法だと診断する。そして華佗は高額の薬代を貰いながらも治療を行わず、ついには郡守の悪口を書いた手紙を残し去って行った。これに激怒した郡守が数升の血を吐いたところ、すっかり病気は治ってしまった。

6・東陽県の陳叔山の一歳の男の子が下痢が止まらず次第に衰弱していった。父親が心配して方々手を尽くしたが子供の病状が良くならいことで、名医として名の聞こえた華佗のもとに遠路訪ねてきた。 華佗は一通り子供の病状と経過を聞くと、父親に向かって次のように説明した。「その子の母親は次の子をすでに妊娠しているはずだ。そのため母乳中に本来含まれるはずの母親の陽の気が体内の胎児を養うためにほとんど吸収されてしまい、その母乳は子供を養うには不十分な冷たい陰の気に偏ってしまっているのだ。だからその子がいまのまま陰の気が充満した冷たい母乳を飲み続ける限り、この下痢の症状は回復しないだろう」と伝えた。



上記の2の症例のように胎児の遺体が石灰化してしまうことは「石児」または「石胎」と呼ばれるもので、非常に珍しい症例であるが、これはときどきニュースとして紹介されることがある。

「91歳女性の子宮に石灰化した胎児」のニュース
チリ西部の小さな町で、91歳の女性の子宮の中から石灰化した胎児が見つかった。女性は60年以上前の妊娠に気づいていなかったという。


http://www.cnn.co.jp/video/14724.html
2015.08.05 Wed posted at 11:27 JST

母親の体内に36年間、胎児の骨格を摘出 インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3024138

82歳老婆の腹に“石灰化した40歳の胎児”が発見される ― 人体の驚異「石児・石胎」とは?
http://tocana.jp/2013/12/post_3376_entry.html



その他にも華佗は小児病や食中毒についても巧みな治療を施している。

驚くべきことに華佗は、脳外科手術を曹操に提案したとされる。

物語の
『三国志演義』では、頭痛やめまいの持病に苦しんでいた曹操に召し出されたとき、華佗は曹操の病根は頭にあるため鍼や薬の治療は効かないと診断し、「まず麻肺湯を飲み、その後に斧をもって脳を切り開き、風涎を取り出して根を除きます」と治療法を告げた。

これに曹操は驚愕する。
お前はわしを殺す気か!」と激怒する曹操に対し、華佗は関羽が毒矢が刺さった肘の骨を削られても少しも動じなかった事を引合いに出して、是が非でも外科手術を受けるように説得する。

しかし曹操は、「脳を切り開く治療法などこれまで聞いたことがない。お前は関羽と親しかったから、治療にかこつけ俺を殺して関羽の仇を討つつもりであろう」とさらに激高すると、そのまま華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまった。


この部分は物語の創作なので事実かどうかの確認はとれないが、華佗の医術がそれほどに革新的で神妙であったということである。

曹操は名医華佗を侍医として手元に置きたがったのだが、華佗は曹操の下で拘束されるのを嫌って、妻が病気であると偽って自分の家に帰宅してしまった。

このことが曹操の逆鱗に触れて、投獄されついには殺されたのだともいう。

華佗は牢獄内で、多くの人命を病から救うことが出来るとして彼の外科手術の術式などを記した医書を書き上げ、それを牢番の役人に託そうとしたが、牢番は禍が及ぶことを恐れてその医書を受け取ろうとしなかった。

華佗は落胆してその医書を自らの手で焼却したと伝にある。


実は数十年前に華佗の医術や鍼灸について調べたことがあって、「鍼灸師からみた華佗の医術」という論考を東洋医学関係の専門誌に発表したことがあった。


奇しくもこれが後に、中国の医学雑誌に翻訳されて採録された。

どうやら拙論が本場中国でそれなりに評価されたらしい。











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タグ:曹操
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2017年03月29日

1枚の挿絵から作られた「アダムスのお化け一家」

怪奇アダムス・ファミリーの原作とは?

1991年に映画化された『アダムス・ファミリー』(The Addams Family)がヒットして、1993年に続編が作られた。

もともと『アダムス・ファミリー』は、1960年代に制作された連続テレビドラマであって、日本でも「アダムスのお化け一家」というタイトルで放送されていた。

風変りなアダムス一家は、丘の上にある城の大きな洋館に住んでいた。

一家は仕事らしい仕事もしていないのだが、とても裕福な暮らしぶりであった。

お化け一家といっても、彼らは不幸な事や邪悪な事、忌まわしい物、不気味な物が大好きなちょっと変わった一家という設定だった。

テレビの画面も白黒だったので、コメディ一風のホラー映画であるところが何となく雰囲気的にも合っていた。

キャラクターもそれらしい設定であった。




La cancion de La Familia Addams / The Addams Family song

 







アダムスファミリー (オリジナル版)  吹替 広川太一郎

 







Best of Morticia Addams

 








The New Addams Family - Keeping Up With The Joneses

 
















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2017年03月08日

原作の鬼太郎は凄くグロい少年であった!

原作とはイメージが違う鬼太郎

水木しげる原作の漫画「ゲゲゲの鬼太郎(奇太郎)」はつとに有名であるが、昭和30年代の紙芝居の世界では「墓場の鬼太郎」という題名で子供たちに知られていた。

おどろおどろしい妖怪の世界が展開していたのであるが、今思えば当時のストーリーにはアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違った生々しい恐怖感が描き出されていた。

それは本当の意味での不気味さであり、おぞましい様な恐怖感というものを感じさせてもいた。

幽霊人間、鬼太郎であって、決していい子の鬼太郎というイメージではなかったのだ。

確かに描かれている絵のタッチそのものがそうした奇怪な雰囲気を醸し出していた。

今思えば、とても懐かしい幻想の世界でもあった。


紙芝居の「墓場の鬼太郎」はとても面白い作品に思えていたのだが、どうしたことか途中で中断してしまって続編には遭遇しなかった。

ずっと後年になってから、「ゲゲゲの鬼太郎」が少年漫画雑誌に連載が始まった。

それをみて、子供心にも「墓場の鬼太郎」の続きなんだと思った。



墓場鬼太郎 【蟲師 眼福眼過】










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タグ:墓場鬼太郎
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2016年10月05日

日本人だけが知っていること・キリスト慰霊祭

本当のキリスト慰霊祭はこれです?

日本には太古古史といわれるものがある。

そうした中に、古来のキリストの墓伝説とその祭りがある。

青森県三戸郡新郷村(旧・戸来村・へらい)には、謎の歌と踊り「ナニャドヤラ」というのが古くから伝わっている。

しかも新郷村には、なんと日本で亡くなったというキリストの墓といわれるものまでもがある。

驚きである。

ゴルゴダの丘で磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡って来ていて、キリストはこの地で亡くなったという伝説があるのだ。

2000年前ゴルゴダの丘で磔刑になったのはキリストの弟のイスキリであったという。

ここではイエスの霊を慰める「キリスト祭」が、1964年から毎年、6月の第一日曜日に「キリストの里公園」で開催されている。

今年もその祭りが7日に行われた。

新郷村ナニャドヤラの不思議な歌詞は日本語としては理解出来ないが、ヘブライ語に置き換えると意味が通じるのだそうだ。

新郷村の「ナニャドヤラ」はすでにCD化されていて、踊りの手順も解説されている。



キリスト祭 前編 【青森県新郷村キリストの墓】

 






キリスト祭 後編 【青森県新郷村キリストの墓】

 
















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2016年08月21日

始皇帝と徐福に関連する謎の出土品に迫る!

失われた秦の傳國玉璽と謎の銅版

昭和57年(1982)当時、福岡県山門郡山川町(現みやま市山川町)の蒲池山山中から古代の文字が彫り込まれた謎の銅板が掘り出された。

いや正確にいえば、そのような未確認情報が郷土史家の間に伝わってきたというべきかもしれない。

実際には、いつごろ発見されたのかの正確な日時さえ不明なのだから。


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とにかくそれに関しては、きわめて断片的な情報しか得られなかったのであるが、その銅版について永年解読を試みてきた経緯を今回ここに紹介したいと思う。

この銅版との最初の関わりは、みやま市の郷土史家・村山健治氏より2枚のコピー資料をいただいたことから始まる。

その1枚には銅版表面の拓本がコピーされていて、もう1枚にはその銅版の文字の判読できた部分だけが一部書き出されていた。


そのときの村山氏の話では、銅版を発見した人がそこに何が書かれているのかわからず、町の判子屋にその銅板を持ち込んだといういことであった。

その判子屋さんが古代史にも造詣があったこともあって、その珍しい銅版のコピーが入手できたというわけである。
 
出土したのがこの銅版が1点だけなのか、他に何らかの遺物が同時に出ていたのかはまったく不明で、肝心の銅版の所有者の氏名さえも特定できてはいないということだった。

もちろん、そこには所有者を公表できない何らかの事情があったとも考えられるわけである。

その銅版に記されている文字はすべて古い時代の「篆刻文字」であり、その表面は相当腐食しているらしく彫り込まれている文字も不鮮明であったという。  

銅版上には全部で八十個の文字が認められたが、コピーを見てもはっきりと読みとれない文字が少なくとも十字ほどあった。

工業用のエックス線で撮影すればすべての字形は判別できると思えるのだが、残念なことにそれを確認しようにも現物は所在不明ということで諦めるしかなかった。

もとよりすべての文字がここで特定できなければ、正確な判読はできない。

適当な文字を当てはめるにしても、誤謬が出てくることは否めないところである。

このことは後日、強く感じたことでもある。


解読原文1は途中まで判読がされていたもので、村山氏よりいただいたものである。

解読原文2と3は、その後当方が独自に補足修正をこころみたものである。

銅板に彫り込まれた文字はいわゆる篆刻文字であり、内容も始皇帝の有名な傳國璽(玉璽)が主題となっていることがわかる。

何故ここで傳國璽に関連する遺物が出土したのかは謎であるのだが、その文面から言うと目の前の傳國玉璽についての詳しい由来が解説されていることがわかる。

記述からいえば、まるでお宝の箱書きそのものである。

それにしても、何故に始皇帝の傳國玉璽に関連するような遺物が九州の山中から出土したのだろうか。

九州の有明海沿岸部にはかねてより古代の徐福渡来伝説があるだけに、むしろそれは徐福との関連が疑われるところである。

ここからは次々と、新たな謎が湧き上がってくる。

始皇帝の傳國玉璽関連の何らかの事物が九州にもたらされた可能性があるなると古代史のロマンも大きく膨らんでくるというわけで、当方もこの銅板コピーを目にして以来、解読につながる手がかりを求めて情報を探し続けたというわけである。


●「拓本のコピー」

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●「解読原文1」聞曰此傳國璽也此玉是昔日卞和於荊山之下見鳳凰棲於石上戴天進之楚文王解之果得玉璽二十六年○原工琢為璽李斯篆此八字於其上二十八年始皇巡狩○○○○○源大作舟将○○○○


●「解読原文2」聞曰此傳國璽也此玉是昔日卞和於荊山之下見鳳凰棲於石上戴天進之楚文王解之果得玉撲二十六年旨原工琢為璽李斯篆此八字於其上二十八年始皇巡狩東海瑯邪挙源大作舟将難事狼藉


●「解読原文3」聞曰此傳國璽也此玉是昔日卞和於荊山之下見鳳凰棲於石上戴天進之楚文王解之果得玉撲二十六年旨原工琢為璽李斯篆此八字於其上二十八年始皇巡狩東海廟満間源大作舟将難事狼藉


(注)卞和(ベンカと読む)。撲ー研磨される前のあらたまが正しい。
始皇帝が宰相の李斯に命じて玉に篆刻させたのは「受命于天既寿永昌」受命干天(じゅめいてんにうく)既寿永昌(きじゅえいしょう)の八字であったという。

ここに登場する卞和の撲については、中国の故事としてつとに有名である。

紀元前8世紀頃、戦国時代の楚の人・卞和という人がいた。卞和は山中にて玉璞を手に入れ、彼はそれを楚の[厂+萬]王(レイオウ)に献上した。

ところが[厂+萬]王が専門の鑑定人にそれを見せると、これはただの石くれに過ぎないと断言した。[厂+萬]王は、卞和が騙したとして酷く怒り、罰として卞和の左足を切り落とした。

[厂+萬]王が逝去してその後武王が即位した。卞和は諦めずに再度これを武王に献上したが、武王も同様に鑑定人にその玉璞を鑑定させたのであるが、またしてもただの石との判定が出た。

武王もまた、王を騙したとして怒り、今度は卞和の右足を切断する刑を科した。

その武王が死去して文王が後を継いだ。卞和はその石を抱き、悲嘆にくれて楚山の麓で三日三晩泣き明かした。
卞和の血涙となったという。

この出来事を耳にした賢明な文王は卞和の下へ人を使わし、卞和に事の次第を問い質した。

「この世には足を切り落とされた罪人は大勢いるが、お前は何故にいつまでも嘆き悲しんでいるのか」 と。

「私は両足を無くしたことを悲しんでいるのではありません。天下の玉璞をただの石くれと見做され、貞士として生きる自分のことが、ただの誑[たぶらかし]の族だと人に言われたことに悲しんでいるのです」 と卞和は答えた。

使者の報告を聞いた文王は深慮の後、玉の鑑定人を呼び出し、その石を連日連夜磨かせた。その結果、卞和がいうとおり見事に輝く世にも稀な璧玉が誕生したという。『韓非子』「第四巻第十三篇卞和氏」

この楚の国の宝玉が、後に戦利品として秦の始皇帝の手に渡ったのである。


●「解読原文2」の「読み下し文」

聞えて曰く。此は傳國璽也。此玉は昔日、卞和荊山の下に於いて、石上に鳳凰棲ところに見われる。楚の文王、戴天之を進めるに之を解し、玉撲を果たし得る。
二十六年、旨を原ねるに工琢き、璽と為さんと李斯その上に此八字を篆す。二十八年、始皇東海瑯邪を巡狩し、挙源、大いに舟を作る。将に難事狼藉。

●「意訳文」
伝え聞くに、これこそは傳國璽である。この玉璽はむかし、(楚人の)卞和氏が荊山の下で石の上に吉兆の現れである伝説の鳳凰が棲でいる場所で見つけだしたものである。
楚の文王が戴天王位につく際に、これが玉撲(あらたま)であることを知り手に入れたのだ。
始皇二十六年に、始皇帝の意により始めて玉を工が磨き、玉璽とするために李斯(秦の丞相)がその表面にこの八字を篆刻した。始皇二十八年に始皇帝は東海の瑯邪台に巡狩すると共に、挙源に大きな舟を建造させたが本当に大変で無謀な作業であった。


●あっけない謎解き!の顛末
実は、平成18年(2006)5月になって、この銅版原文の篆刻文字の出典と思われるものが出てきた。
 
この事実は偶然発見したのであるが、意外といえば意外な顛末であった。

それは中国「三大奇書」の一つとして有名な「三國演義・(焚金闕董卓行兇 匿玉璽孫堅背約)」の文脈の一部分であったのだ。

全く予想外の展開であり、すっかり拍子抜けして内心苦笑せざるを得なかった。

30年来思案し続けた謎が一気に解けたというか、当方にとっては実にあっけない結末そのものであった。

その実際の記述内容は以下の通りである。


「啓視之、乃一玉璽、方圓四寸、上鐫五龍交紐。傍缺一角、以?金?之。上有篆文八字云、「受命於天、?壽永昌」。堅得璽、乃問程普。
普曰、此傳國玉璽也。此玉是
昔日卞和於荊山之下、見
鳳凰棲於石上、載而進之
楚文王。解之、果得玉。秦二
十六年、令良工琢爲璽、李
斯篆此八字於其上。二十
八年、始皇巡狩至洞庭湖、
風浪大作、舟將覆、急投玉
璽於湖而止。至三十六年、始皇巡狩至華陰、有人持璽遮道、與從者曰、「持此還祖龍。」言訖不見、此璽復歸於秦。
明年、始皇崩。後來子嬰將玉璽獻與漢高祖。後至王莽?逆、孝元皇太后將璽打王尋・蘇獻、崩其一角、以金?之。」


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銅版での記述では「傳國璽」とされていて、一方の「三國演義」では「傳國玉璽」と書かれている。

その違いだけである。

縦10文字、横8列に納めるために余分なこの1文字を省いてきっちりと彫り込まれたものであろう。

それにしても、始皇帝の玉璽に関わる記述部分だけが抜書きされた銅版が山中から出土するということはどういうことなのだろう?

ここでもこの謎だけは残ったままである。

銅板も誰が何時ごろ作成したのか、どのような形で山中から出土したのかも不明である。

腐食しやすい銅版が残っていたということは、壷か何かの中に密閉された状態で掘り出されたのかもしれない。

肝心の始皇帝の玉璽自体は、皇帝の死後二千年の歴史の荒波に押し流されていまの所在はまったく不明である。

始皇帝の名を知っている日本人は少なくないが、始皇帝の玉璽に関心を持つ者は稀であろうと思う。

そう考えると、この銅版が日本人の手でわざわざ篆刻までして作成されたとは考えにくいところである。
 
もしかしたら筑後の山中より、この箱書きとしての銅版と一緒にその玉璽そのものも同時に出土していた可能性があるのかもしれない。

玉璽そのものの価値は、それこそ計り知れない。

銅版や「三國演義」にあるように、始皇帝の傳國玉璽自体は、確かに一度失われたという事実がある。

歴史から消えたのである。 

しかし歴史の流れはいかにも不可解で複雑でもある。

「三國演義」にいうようにここでは、始皇帝巡狩中に洞庭湖で暴風に遭遇し、そのとき舟が転覆しそうになり玉を湖に投げ込んで難を逃れたというように記されているが、不思議なことにいつの間にか傳國玉璽そのものは忽然と後から出てくるわけである。

傳國玉璽が失われたままでは不都合であるから仕方なく別の玉で再度傳國玉璽同様の、いわゆる偽物の玉璽を作ったのではないか。

そうした辻褄あわせがどこかで成されたのではないかと思う。

こうした経緯は秦の滅亡を暗示している。始皇帝が亡くなった時、この偽の玉璽で偽の始皇帝の遺言書が作られるのである。

この裏工作で秦の王朝は崩壊していく。


出土した銅版は箱書きとしてふさわしいともいえる。

つまり、この銅版が秦の傳國玉璽に添えられていたものだとすれば、最高に愉快であろう。

もしかしたら古代史の謎に満ちたこの九州のどこかに、失われた秦の傳國玉璽がひっそりと隠されているのかもしれないのだ。














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タグ:三國演義
posted by モモちゃん at 21:21| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月06日

毒を盛られたことはありますか?

「ああ、苦しい」といって、白雪姫はその場にバッタンと倒れこみました!?

夫の酒に毒 別居妻を殺人未遂容疑で逮捕 宇都宮

産経新聞 2015年12月1日

夫を毒殺疑い、67歳女逮捕=直前に結婚、遺体から「青酸」―他にも不審死・京都:2014年11月19日




似たような毒による中毒死や自然毒を使った事件というのがある。

随分昔のことであるが、山菜と間違えてトリカブトの葉を味噌汁の具にして一家が中毒死するという事件があった。

近年にも東京の中華料理店の店主が、送られてきたトリカブト入り「葛餅」を食って中毒死するという事件があったし、保険金目的に妻をトリカブトで毒殺したとか、京都では結婚直後に夫に青酸カリを飲ませていたというような忌まわしい事件もあった。

青酸毒は人体の呼吸中枢を麻痺させるらしい。

青酸毒を盛られれば速やかに窒息死することになる。

自然界の毒物として知られるトリカブトという植物の根は、加工されて「附子」として漢方薬の処方や毒矢にも使われる。

アルカロイド系(アコニチン)の猛毒が含まれるだけに当然取扱には注意がいるわけである。

自然界にはこうした猛毒が存在する。

テレビかなんぞのサスペンス物か推理ドラマを彷彿させる毒殺事件ではあるが、これもテレビドラマの「警部コロンボ」を見ていたら、河豚毒(テトロドトキシン)をワインに混入させている場面があり、これもひそかに毒殺を謀ったものであった。

自然界にある毒物を使っての殺人は有史以前から随分あったわけで、中国では古来よりもっぱら鴆毒が使われた。

前漢時代、高祖(前漢の創始者・在位前202‐前195)の妻である呂后が、高祖と威婦人との間にできた趙王を殺すのに鴆毒が使われたという。

霊帝(在位167‐189)の后である何皇后が、帝の愛妾を鴆毒を使って殺させた。

鴆毒は中国の歴史書にも度々登場する有名な毒物であるが、日本人にはあまり知られてはいないようだ。

鴆毒自体は投与されると微量であっても命を落とすのだという。

通常鴆毒といえば暗殺に使われるわけで、その際には鴆酒として登場する。

鴆酒の作り方はしごく簡単である。

これは毒鳥といわれる鴆という鳥の羽を酒に浸して数回掻き回すだけで簡単に出来上がるという。

これを飲んだ者は、当初黄疸のように体が黄色くなるということからみれば、まず肝機能が冒され、さらに五臓六腑のすべてが爛れて終には死に至るとされる。

服毒すれば確実に多臓器が機能しなくなる。

何でも鴆にはそれほどの猛毒があるということで古来から恐れられていた。

古い記録では『養老律令』(757年(天平宝字元年)に記述があることからみれば、日本にも大陸から持ち込まれた可能性は極めて高いと思われる。

事例としては『太平記』に、足利直義が恒良親王に鴆毒を薬と偽って飲ませ暗殺したとある。

おそらく戦国時代まで使われていたであろう形跡がある。


これだけ有名な毒物であるのだが、この鴆という毒鳥の実態は古代よりその存在が曖昧であったのだ。

鴆という固有名詞や漢字があるのだから実際に生息していたのであろうが、どんな鳥なのか残念ながら小生は見たことはない。

中国の『三才図絵』や『本草綱目』あたりにその絵図は紹介されていると思うが、何でも広東省や江西省に生息しているキジ科の鳥で、形は鷹に似ていて首の長さは七〜八寸、くちばしは赤く首は黒いということである。

肉にも猛毒があるといい、その食性は蛇を好物にしていて、獲物の蛇が石垣の間などに逃げ込むと、それを引き出すのに石垣に糞を引っ掛けて石を砕くという。

本当にそのような鳥が生息しているのか疑問であろう。

蛇食い鳥の一種であろうか、そう聞くだけで何とも恐ろしげな怪鳥にみえてくるではないか。

実は鴆という鳥は中国の古い史書や文献には随所に登場するが、本当に実在していたのか疑問視されてきた毒鳥なのである。



それまでこの恐ろしい毒鳥は人々に忌み嫌われ、見つかり次第殺されてきたということで、中国大陸では相当早い時期に絶滅したとされていたわけである。

今でいう絶滅種であり、貴重動物ということになる。

おいおい、毒鳥が貴重な絶滅種とは何だということになってくる。

そうなると、いよいよ架空の鳥だろうということになってくる。

ところが、羽に毒がある鳥は架空の生き物ではなく20世紀末になってニューギニアの森林地帯で偶然発見されたのだ。

それも権威ある科学誌「サイエンス」に大きく取り上げられた(写真参照)。



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つまりこうした事例が出てきたことによって、古代中国大陸にこの種の鴆なる毒鳥が実在していたことの信憑性は一気に高まったというわけである。

歴史上の毒薬として再認識されるに至ったわけである。


歴史上有名な暗殺目的の毒薬ということでは、「ボルジア家の毒薬」というのが西洋ではことのほか高名である。

確かそういう題名の西洋映画が随分前にあった。

そこにはチェーザレ・ボルジアが登場し、彼が手にする家伝の毒薬は確か「カンタレラ」という名前であった。

名前から察するに恐らくカンタレルスが含まれているハンミョウという昆虫毒が使われていたのか、もしくは猛毒の砒素が主成分だったのかもしれない。

一説によるとカンタレラという毒薬は口にすると甘味があったということであるが、一体だれがその危険な毒物の味見をしたというのであろうか?

口当たりのよいさっぱりとした味の毒薬というのであれば、使い易いことこの上なかったことであろう。

とにかく、この毒薬が権勢欲の渦巻くルネッサンス時代の暗黒の世界で度々暗殺に使われた。

自然界の昆虫毒といえばまずハンミョウであるが、これは江戸時代薬種商が薬剤として扱っていて砒石(ヒ素を含む)などと同様に劇薬として販売先をいちいち確認していた。

これらは漢方薬としてもっぱら水腫の治療に使われていた。

当時、本当にハンミョウの毒などを使って夫の毒殺をたくらむ女房もいたらしく、そうした逸話も残っているし巷では密かに財産を狙っての毒殺事件も少なくなかったようである。

一例をあげると、江戸時代に書かれた『道徳塗説』に出てくる話がそれにあてまるようだ。

そこには江戸市中で起こった欲に絡んだ毒殺事件が紹介されている。

下谷の源助店の長助という独り者は、ある日深川八幡の富籤を一枚買った。

現代の自治宝くじと思ってもらえばいい。

これがなんと一等百両に当たった。

百両がどれほどの価値があったか気になるところであるが、当時1両あれば家族4人が1ヶ月間裕福に暮らせるだけの貨幣価値があった。

現代で言うなら1両が4,50万円ほどなのかもしれない。

いや2,30万もあれば田舎なら結構やっていけるかなとなる。

これが百両であるから、現代なら数千万の貨幣価値は十分あったことになる。

当時であれば、一般庶民が絶対に目にすることのできない金額である。

ということで、生まれてはじめて百両もの大金を手にした長助は飛び上がって喜んだ。

長助は百両のうちまず二十両をしきたりどうり神社に奉納した。

二日目、六十両を町役の大家に預けて、やっとどうにか落ち着くことができた。

三日目、残りの二十両を持って出掛け、仲間内の借銭、義理もすませた。そしてこの日浅草まで足をのばして、日ごろ口にしたこともないような御馳走を鱈腹食って長屋に帰ってきた。

残りの三両を神棚に上げてその晩はぐっすり眠ったのであるが、夜中にいきなり叩き起こされた。

「百両、そっくり出してもらおうか」と、押し入った三人の賊に長助は短刀を突きつけられたのである。

実はこれこれしかじか、残りの三両は神棚に、と長助は震えながら答えた。

たったの三両ときいて賊たちは拍子抜けしたが、土間近くに置かれていた祝い札の付いた上等の角樽が目に入った。

三両を仲良く山分けしたあとで賊たちは祝杯を上げることにし、その酒を残らず飲み干してしまった。 

翌朝、大騒ぎになった。

長助の長屋近くの路上で風体人相のよくない男達が、三人冷たくなって転がっていたからである。

間もなく長助は助け出された。

そして肝心の角樽の酒が毒入りであったことも判明した。

この角樽は源助店の大家からの到来物であった。

この結果調べが進み、長助から預かった六十両を着服しようとくわだてた大家のたくらみと知れたわけである。

直ちに大家は補縛され入牢、長助は町内預かりとなったという。



一般庶民でもこんな具合であったから、大名家や古代の王宮では毒殺を恐れて常時お毒味役が傍に控えていたらしい。

これもキムタク主演の時代劇があった。

主人公は毒味中に混入されていた毒によって視力を失うのである。

毒味役をおいていてもときには巧妙な方法で毒殺される危険性はあった。

ローマ皇帝ネロが暗殺した異母兄弟のブリタニクスの場合などがその好例である。



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豪華な食事の席でブリタニクスが好きなスープが出された。

傍に控えていた毒味役の奴隷が試食した後に、その湯気の立つスープ状の飲物をブリタニクスに差し出すと(猫舌の彼は)まだ熱かったので、顔をしかめて再び奴隷の手に戻した。

この一瞬に素早く毒物が混入されたのである。

少し間を置いてそのスープ皿はブリタニクスに渡されて、彼はそのまま口にした。

しばらくしてから、ブリタニクスは食事中にいきなり持病の癲癇発作に紛らわしい倒れ方をしてその場で悶死したという。

ネロは、素知らぬ顔でそれを傍観していたのである。

日ごろから用心深く対応している者でも一瞬の隙を衝かれれば、ブリタニクスのようにあっけなく命を落とすことになる。


フランスのブルボン王朝の祖となったアンリ四世は毒殺を恐れて、いつも自分でセーヌ川に水を汲みに行き自炊で卵をゆでていたという。

王様が自炊するとは何事か。


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というのはアンリ四世は毒殺未遂事件も含めて生涯に十七回も暗殺の危険にさらされたというから、安易に毒味役を置くなどという悠長なことはしておられなかったのである。

とにかく身の安全を考えると、まず自分が口にする食べ物の安全性を充分に確かめなくてはならず、細心の注意を払いながら自前で不慣れな調理もやっていたということである。


こうみてくると、まず食いしん坊やグルメ嗜好の美食家は王座に長く座り続けることは無理というものである。

権力者は、そうした権力の座にながく居続けることは実に大変なことである。

あの有名な英雄ナポレオンもセント・ヘレナ島で、最後は毒殺されてあえ無く終わったのである。

有名なイギリスの科学雑誌『ネイチ ャー』に発表されたところによると、残されていたナポレオンの頭髪には常人の十三倍の砒素が含まれていたことが確認されたということであった。

だが、20世紀後半になって次々と新説が現れて最近の歴史学者の研究によると、ナポレオン毒殺はそれまでの定説とは異なり政治的なものではなく、意外にもナポレオンの人妻との不倫が背後に絡んでいたという異説も出てきて、ここらは最後まで英雄的?であったというわけだ。──



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昔から中国では猛毒の砒素を医療分野で使って、難病の白血病の治療を行っていた。

これに注目したアメリカの癌センターが砒素をベースにした薬剤を急性前骨髄性白血病に投与したところ非常な好成績を上げたということで、現在米国では白血病の治療薬として承認されている。

これと繋がるのかどうか分からないが学生時代、症候概論担当の教授(医学博士)から、微量の砒素の投与は小児期の虚弱体質を改善し免疫力を強化する働きがあるということを聞いたことがある。

やはりトリカブト,ハンミョウ同様、毒も使いようということであろうか。






















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タグ:暗殺事件
posted by モモちゃん at 15:28| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

日本に本物のフリーメーソンが集団で渡来していた事実がある!?

河童は太古日本に渡来してきた職能集団であった!

古代職能集団の秘密を解き明かす


河童は古来より不思議な発想の世界に誘ってくれる妖怪である。

河童伝説の存在は古代史はもとより地方文化史や民族学の分野でも、古代水陸信仰の貴重な伝承として注目されている。

しかも水神の眷属とされる河童は水中だけの妖怪ではなく、川(海)に半年、山に半年の水陸両方を住み分けているという変遷移動する伝承もあるからその実体はまさしく複雑怪奇である。

画像説明:「写真は福岡県筑後地方の古い河童神像であるが、頭に帽子か皿を被ったような装飾物があり、腰ミノを付けほぼ裸の姿である。全体に南方系の習俗を想わせる雰囲気がある。」

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そこで今回は河童の実態を解明するために、古代史関連の愉快な話をしたいと思う。

ここで改まって言うまでもなく、古代史と医学史には密接な関連性がある。

かっての日本においては西洋の医学との交流よりは明らかに中国を中心に東洋系の医学との関係の方が、歴史的にははるかに長かった。

当初、わが国における東洋医学の萌芽というものは、鍼医徐福の渡来を一つの例として捉えてみることも出来る。

しかし医学史に関連付けてみられるれる古代史の興味ある事跡というものは徐福渡来だけではない。

戦後間もない昭和二十三年(一九四八)に江上波夫東大名誉教授によって「騎馬民族征服説」なるものが発表された。

それ以来その学説のスケールの大きさと発想のユニークさ、さらには現在もなお論戦が続いているということを聞けば、古代史ファンでなくても少しは関心が持てようと言うものである。


実はこれもまた医学史の視点から見ると実に面白い学説の一つなのである。

「騎馬民族征服説」というのは、東北アジアの夫余系騎馬民族が朝鮮半島を南下し辰王国となり、さらに北九州に渡って建国、その後機内に移動して大和朝廷を建てたというものであった。

もちろんこの学説には賛否両論がある。
そこらの展開が非常に興味深いのである。たとえば、その反論としてよく出てくるのが、まず

1)天皇家の祭祀というものは農耕民族の儀礼であって、騎馬民族特有の動物の犠牲を伝統的に欠いているではないか。
2)騎馬民族の去勢技術が古代日本に伝播していないのは本質的に矛盾するのではないか。 
3)大和ことばには食肉や内蔵を言い表す語彙が非常に少ないのは、騎馬民族の狩猟性より農耕性が強いことの一つの特徴ではないか。等々−−。


ここから先はそれぞれ古代史研究家、考古学者の専門領域であって、今後も熱い論戦が続けられるというわけである。

「騎馬民族征服説」を古代九州の歴史的背景からどう見るかであるが、はっきり言って騎馬民族はやはり古代日本に渡来していたのではないかと考えている。

しかしそれと同時にいえることは、本来日本の国土は森林や湿地が多く、広大な平原で最大に機能する騎馬は渡来直後においてはそれほど戦闘力としての威力を発揮できなかったのではないか。

平野部が少なく、山岳地域や河川で寸断される地形では、馬が駆け回るには障害物が多すぎる。

映画「七人の侍」ではないが、侵略される側は地の利を生かした城塞と弓矢でそれを防御できたのではないか。

騎馬による戦闘はやはり平原である。治水が悪い湿地帯ではない。

だから騎馬民族はその独自の祭祀性を日本の風土に馴染ませ、さらに最後まで実質的主導権を維持することができずに終わったのではないかとも考えるわけである。


では何故、騎馬民族が渡来していたという考えに立つかといえば、古代日本には早くに大陸系の整骨医術が伝播していた形跡があると考えたからである。

医学史的にみていくと、我が国の伝統的整骨術というものは、古くは治水土木技術や築城技術に付随して発達した特殊な医療技術(術式)としての整骨術と、戦闘武術として発達した拳法・柔術に付随派生した救急の医療技術という二つの異なった源流があるのではないかと考えている。

この特殊な医療の伝播の背景には古代の騎馬民族の影響があるように思えてならない。(写真は筑後地方の神社に奉納されている勇壮な渡来系豪族像)


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ここでわざわざ古い整骨術の源流を二つに区分するのは、それぞれが類似した伝統性を保持していながら明らかに歴史的に違った派生と伝播の違いがそれぞれにあったと考えられるからである。

わが国における武術系の整復術自体は、その体系が戦国時代末期に明国より渡来した陳元鬢(一五九五〜一六七一)がもたらしたもので、中国正骨術と中国武術とを日本人に直接伝えたことに始まったという歴史的事実がある。

さらに後世、これに一八世紀に完成した清代の医学書である『医宗金鑑』の整骨技術やその後の西洋医学の伝播が大きな影響を与えてきている。

もう一方の治水土木技術や築城技術に付随して伝播した整骨医術というのは一体何かということであるが、これこそが河童渡来伝承に付随する整骨術そのものの伝播の実体ということになる。

よく知られている河童伝説そのものは、実は日本固有のものではなく古代中国大陸からの渡来した水神系の伝承遺物の一つである。

いわゆる九州地方のの河童伝説によると、河童一族という集団は遠く大陸よりはるばる渡来してきた種族であり、それも内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下って海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したと伝えられている。




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つまりカッパなるものは中国の中原平野部を横断して海を渡り、太古の時代に遥か彼方の日本の地までやって来たといういうことになる。

ここらは古代の民族移動史や技術伝播のルートとしてみても、興味深いところである。

古代における集団的民族移動は特別なことではなくて、他民族の侵略から逃れたり急激な気候変動による食糧難などの理由でたびたび大移動が実施されたものである。

そうした移動の過程で個々の文化の伝播と融合が繰り返されていった。

その伝承記録の一つが、この河童渡来伝説といわれるものである。

古代中国で創られた「沈」という漢字は、もともと水神への供物として牛を水に沈める形からできているというが、その犠牲にみる祭祀性には中東のパール神の影響があったのではないかと思う。

河童の原型そのものは中国古代の神話や古典籍にも残されているわけで、その古い起源についてもここでは考えてみたいと思う。

古代中国では、河童は河伯といわれていた。

日本でいう河童は古代中国の神話に出てくる河伯そのものに近い存在である。

河伯とは個人ではなくて、一族といった集団かもしくは部族の名称であり神格でもある。

また河伯集団は「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」(山海経・海内北経)と古典籍に記述があるように、古代中国では水神信仰は治水技術、それも土木工事ときわめて深い関係があったことが古代の神話からも窺える。

「史記」にあるように、黄河の大洪水を治めた禹が禅譲されて夏王朝の王に就けたのは、この「河伯」の大きな助けがあったからである。

その河伯集団が古代の大洪水を治水するのに大きな働きをしたということは、彼らが治水工事のエキスパート集団であったことがわかる。

何故に、そのようなエキスパート集団が古代に存在していたのか不思議に思えるのではないだろうか。

同じように日本でも、古代の治水築城工事に河童集団が関わったとする伝説が各地に残されているし、実際に水神への供物として人身御供が行われた。

人柱伝説がそれである。

九州は水神への人柱伝説が少なくない。(写真は筑後地方の河童祭り)


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困難を伴う治水工事には、水神祭祀としてそうした犠牲がたびたび必要とされたのだ。

そうした祭祀性をみていくと、やはり大陸からの河伯祭祀そのものの伝播が当然みえてくるはずである。

河童に代表される水神や海神などの水陸信仰自体は、仏教伝来よりずっと以前に沿岸部の海洋民族同士の交流を通して日本の風土にもしっかりと定着していたと考えられる。

河童伝説に象徴されるように、夥しい文化的伝承遺物をみる限り水上生活を通して水神信仰が古代九州にも広まっていたことは確かである。

しかしながら、その後の仏教伝来によってそれまでの伝統的な土着の古代神は次々と弾圧されるようになったのであるが、水神信仰もその例外ではなかった。

仏教圏の拡大によってその権威が高まっていったことによって、根強く残っていた従来の土俗的祭祀性が次第に衰えていったことになる。

結局、水神の河童も終いには異形の醜悪な姿にかえられ、水中の妖怪に成り下がってしまったということである。

それは河童神の形にも大きな変化を及ぼすこととなり、外見的には背中に水生動物の亀同様の甲羅を背負わされ、頭には皿まで被せられた姿となった。

そこに古代の河伯信仰の変貌がうかがえる。

何故にそうした変遷が分かるかというと、河童神の古い遺物が残されている筑後地方の古い神社を訪ねてみると、その社殿の梁を支える河童神には甲羅も皿もない太古の原型をそのまま見ることが出来るからだ。

その姿はまさに逞しい力士像である。

筋肉隆々の裸体には、河童特有のあの甲羅はみられない。

これが本来の河童の姿である。


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そうした伝承河童の裸の姿は九州の風土にしっかりとなじんでいる。

いまでも河童は身近な存在であり、素朴な親しみを感じる存在なのだ。

この風土性は、ここではいまだに守られているといえる。


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河童は中世以降、異形の妖怪といいながらもときたま人前に姿を現すようになる。

これが後世の変貌した河童伝説の登場である。

河童は子供のようにいたずらや相撲が好きで、人間に遭遇するとすぐ相撲で挑み掛かってくる。

河童は小柄だが腕力が強く、何故か相撲という格闘技が得意で大好きである。

しかも面白いことに河童は、格闘技で腕の関節が脱臼しても、腕が切断されても容易に元にもどせる卓越した治療技術を持っている。

格闘技とそれに対応した特殊な治療技術という組み合わせである。

関節の損傷、骨折の接骨・整復術というように、その治療技術の範疇が外科的でいかにも恣意的、象徴的でさえある。

この接骨・整骨術と相撲の関係、いったいそれは何を意味しているのだろうか?

河童の万能薬にしても、ほねつぎ(接骨術)に関わる薬が必ずそれらの伝説には登場してくる。

不思議なことに、彼らは古来より接骨、骨傷、打撲治療の特殊な治療技術をもつ整骨名人なのである。

これは何故であろうか?

しかも河童伝説には治水土木技術や築城技術に関わったとする伝承がすこぶる多い。

どう考えても、河童は昔話に出てくるようなただのありふれた水辺の妖怪とはいえないのである。

折口信夫の「河童の話」に、次のような一節がある。

河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。」

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ここにも河童と彼らの特殊な接骨・整骨術との関連性が見て取れる。

河童伝説を調べていくと、河童集団は定住することなく広範囲に移動しながら築城・治水・架橋に対して集団で活動していたということになっている。

やはり河童と土木工事とは特別な関係にあるわけだ。

そうした土木工事では力仕事ということもあって、危険な作業に伴う筋肉や関節の損傷、骨折怪我が日常的に頻発したはずである。

接骨・整骨術はそこから必然的に派生してきていることになる。

つまり土木技術という職能に付随した特殊な治療技術そのものは、経験的に蓄積されながら部族内で共有されていったと考えられるわけである。

だから河童は接骨の名人なのである。

この文化史的な特殊性を考えると、いよいよ渡来した河童一族なるものがある種の土木建築技術に特化した職能集団であったことが判明してくる。

しかしここで、もう一つの謎というか疑問点が浮上してくる。

それは河童一族とまったく同様に、大陸の北方内陸部にいた騎馬民族も独自の接骨・骨傷治療(整骨術)と格闘技(モンゴル相撲)を古くから持っていた。

これまた、どういうことであろうか?

やはり職能に関連して格闘技や力自慢が、彼らの間ではもてはやされたのか?

ここにもあらためて解明しなければならないところである。

古代において河童は水神系の眷属としてその祭祀に深く関わっていたが、それとは別に内陸部の騎馬民族との関連性もそれとなく窺える部分がある。

馬と河童は、民族学的伝承分野では相互に関連性が濃厚である。

乗馬ということでいうならもとより騎馬民族は巧みなその乗馬技術を誇ったわけであるが、それこそ落馬による怪我や骨折脱臼は日常茶飯事であったことは容易に納得できることである。

実際に、現在のモンゴルを中心にして広範な領域で古来よりこの伝統的整骨医術が最も発達したことが知られている。(「モンゴル医学史」参照)

とにかくモンゴルの伝統医学といえば、まずこの整骨医術がその筆頭に上げられる。

しかもこの地にも格闘技として、有名なモンゴル相撲がある。

しかしながら中国の北方に位置する遊牧民族(匈奴)のそうした骨折や関節周囲の軟部組織の損傷に対する治療法そのものが、中国王朝内でも実際に医療技術として認められだしたのは随分と後世のことであった。

それだけに、大陸からの医術の伝播がそうした北方地域の接骨・整骨術が通常のルートで古代日本にそのまま伝わったとするのには多少無理がある。

たとえば清代の西太后がギックリ腰になったとき、当時もいろいろな治療法が試みられたがまったく効果がなく、はじめてこの北方より伝わった整骨医術の徒手療法が施されて回復したという話がそれを如実に物語っている。

当時でさえ北方の整骨術それ自体は、主流の治療技術として中原ではそれまで重要視されてはいなかった。

もちろん中国の整骨術といえば、まず少林寺に代表される武術系の骨傷治療技術がもっとも発達していたことを考慮すればなおさらである。

古代中国でさえもも、伝統的医療技術としての整骨術の派生の様相をみてもこのように明確に異なるわけである。

そうなると、河童一族と騎馬民族との間には古代において何らかの関連性があったのではないかという発想が出てこよう。

たしかにそのままでは、整骨術の派生を考える上では類似した特殊な背景を持っていることは頷けるがその先がはっきりしてこない。

彼ら河童一族が、北方域の騎馬民族と同族でなければ一体何者なのか、いよいよ謎は謎を呼ぶということになろう。


私は40年以前から、河童一族というのは神殿建設を専門とする古代の特殊な土木技術職能集団のことではないかと考えてきた。

中央アジアのカッパドキア辺りからやって来たのが「カッパ一族」というのが従来からの持論である。

実際に熊本県八代地方には、河童一族はペルシャからやって来たという伝承がある。

九州出身の作家火野葦平も生前この説に賛同し、大いに巷で喧伝していた。

ここに職能集団という視点を加えると、さらに分かり易くなってくる。

それも大規模な巨石を使った神殿、城壁、霊廟、墳墓などを専門的に構築する土木技術者が定住することなく集団で移動していたのではないかという、特殊性も加味されてくる。

古代では、そうした神殿、城壁の構築が盛んであり、特異な職能集団が個別に存在していたことが知られていた。

西欧で言うところのフリーメーソンの原型、石工集団がこれである。

古代よりこうした神殿建築技術者には国境を自由に通行できる特殊ともいえる通行権が与えられていた。

彼らは神殿建設が完成すると、神殿を守るライオン像や獅子像、狛犬を設置して次の仕事を求めて移動していった。


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その結果、石材を使った各地の神殿の構造や様式においても、多くの類似性を残していったと考えてもおかしくはないわけである。


前述したように、大陸内陸部のタクラマカン砂漠・タムリ盆地から黄河を下って海に至り、さらに東シナ海を通って九州に上陸渡来したという伝承が事実であるとすれば、河童集団はその移動中に騎馬民族集団と接触し直接文化的交流を持った可能性が当然出てくる。

河童集団は大陸内陸北部に一部残る者たちと、さらに移動を続けた集団とに分かれていった可能性もある。

そこではもちろん整骨術や格闘技・相撲が民族間で接触交流したことによって、同じように文化的にも影響し合った可能性も出てくるであろう。

単なる偶然ではなく、彼らに必要な技術が文化的に共通していた格闘技や特殊な治療技術の分野ということで、河童集団と騎馬民族との間で深い情報交換がなされたとするならば、これまで気になっていた謎も一気に氷解してくる。

しかも伝説の九州渡来コースが示すように、太古において河童一族と騎馬民族とは一時期中国内陸北部で接触交流があったことの確証にも繋がる。

そのような経緯を経て、彼ら河童技術者集団がエジプトやオリエントから中央アジアを経由して、はるばる日本まで渡来してきたなどと考えるだけでもロマンがある話である。

河童が大好きな胡瓜も、もともとはエジプトなど中東地域の作物であった。
これなど明らかに古代シルクロード経由の伝播が考えられるものである。


ここに紹介している力士像の写真は、北部九州の筑後地方にある神社の屋根の梁を両手で支える伝統的な古代の河童(河伯)神像の姿である。

頭の皿や背中の甲羅などなく、筋骨隆々としてまるで力士の姿そのものである。

下の写真は中国湖南省の省都、長沙市で1972年に馬王堆漢墓から出土した2100年前の布には古代神話の世界が色彩豊かに描かれている。

これに注目していただきたい。


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そこには力士のように両手で力強く大地を支える水神(河伯)の姿が描かれている。

足元には巨大魚(兩龍)がいて、その上に乗っている構図である。


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この構図はまさしく「馮夷(河伯・河童)は人面にして、兩龍に乗ず」と表現されている古代中国神話の河伯神の姿そのものである。

実に明白である。

古代の遺物としてみたとき、古代中国の構図と筑後の河童神像は奇しくも両者共その姿、ポーズにおいて驚くべき類似性を示しているではないか。

これこそ二千年以上以前に、大陸から河童神の原型がそのまま古代日本の地に確実に伝わっていた証左でもある。

少なくとも、河童一族は騎馬民族よりも遥かに先に古代日本に渡来してきていたということである。

こうみてくると、古代北部九州には接骨・整骨術渡来も含めて興味深い文化人類学的展開があるということになる。  























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posted by モモちゃん at 11:49| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月12日

トーマス・パー爺さんの超人伝説の背景

パー爺さん長寿伝説の真相

長寿者というと意外にもイギリスにその記録がある。

そのなかで 第一に上げられるのはトーマス・カーン(一三一八〜一五八八)という人物がまず筆頭であろう。

問題なのは次に上げる長寿者のトーマス・パーである。

この人物についてはいろいろな書物に散見するので、ご存知の方は多いのでは あるまいか。(いわゆる、酒のラベルになっているあのオールド・パーおじさんである)


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彼は百歳のとき三人目の妻と死別したのであるが、老いても精力絶倫であったのが災いしてか、百二歳のときに村の娘を強姦して逮捕されてしまうという不祥事を起こしてしまった。

高齢者でありながら、まったくもってけしからぬ話である。

別の情報によると少し話は違っていて、年齢も105歳のときにキャサリン・ミルトンという若い女性を孕ませたことで逮捕されたという。

若いキャサリン・ミルトンは近隣でも評判の美女であったから、よりスキャンダラスな展開になった。

実際にこのときの裁判記録が残されているのかも知れないが、年の差が開き過ぎていることもあって、二人の間に恋愛が絡んでいたとは考えられず当時も事件性が強調されてしまったようである。

パーおじさんは、どちらにしてもこのとき確かに女性問題が原因で投獄されたのである。

劣悪な獄中にあってもパーおじさんはすこぶる健康であった。

この罪で彼は十八年間獄中にあったが、百二十歳で出獄した後、百二十二歳で再婚して子をもうけた。

こうなると人間離れした生命力である。


彼が世間から注目を浴びだしたのは、国王チャールズ1世に謁見したことからである。

ついには彼の存在が国王の耳にまで達したのである。

会見の際、国王チャールズ1世がパーに対し、他の者にくらべて何か特別に変わったことを成したことがあるかどうか尋ねたところ、パーおじさんはかって自分は女性問題で教会から懲罰を受け、課された贖罪を18年を掛けて成し遂げた最も年老いた人間だと苦笑しながら答えてみせた。

国王は驚いて感嘆の声を上げた。

この事実が世間に広まると、パーおじさんはロンドンで一躍有名人となり国民的人気者となった。

記録によるとパーおじさんは、百三十四歳当時まで性的能力が十分にあったというが、その後チャールズ1世の宮廷に招かれた一六三五年に一五二歳で死んでしまった。

農村での農夫としての生活が身体にあっていたらしいのだが、急に宮廷生活を強いられたことが彼の命を縮めてしまったということである。




Westminster.jpg




彼の墓はロンドンのウェストミンスター寺院内にあって、シェークスピアなどの有名な詩人や文人と一緒に埋葬されているということである。

THO: PARR OF YE COUNTY OF SALLOP. BORNE
IN AD: 1483. HE LIVED IN YE REIGNES OF TEN
PRINCES VIZ: K.ED.4. K.ED.5. K.RICH.3.
K.HEN.7. K.HEN.8. K.EDW.6. Q.MA. Q.ELIZ
K.JA. & K. CHARLES. AGED 152 YEARES.
& WAS BURYED HERE NOVEMB. 15. 1635.

「サラップ州のトーマス・パーは1483年に生まれた。エドワード4世、エドワード5世、リチャード3世、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世、ジェイムズ1世、チャールズ1世の10代にわたる治世を生き、1635年11月15日ここに埋葬された。」とその墓碑銘にあるという。


このような例外を上げていると、一体全体人間の寿命とは何なのだといいたくなる。

平均寿命にも達しないうちに成人病や癌で倒れていく人があるかと思うと、他方でこのような長命の事例もあるわけである。

人間と生活環境、人間と職業をベースにした詳細な平均余命のデーターは、当の厚生労働省ではなくて生命保険会社のコンピュータの中に蓄積されているという。

実はこれが最も重要な企業機密とされている。

これも意外な話ではあろう。



































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    posted by モモちゃん at 12:19| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年04月12日

    墓場の鬼太郎はどこへ消えたのか?

    おどろおどろしい鬼太郎がよかった


    水木しげる原作の漫画「ゲゲゲの鬼太郎」はつとに有名であるが、昭和30年代の紙芝居の世界では「墓場の鬼太郎」という題名で子供たちに知られていた。

    おどろおどろしい妖怪の世界が展開していたのであるが、当時のストーリーにはアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違った生々しい恐怖感が感じられていたように思う。

    それだけに子供心にもこの感覚はとても新鮮に思えた。

    幽霊人間の鬼太郎であって、決していい子の鬼太郎というイメージではなかった。

    描かれている絵のタッチそのものがそうした雰囲気を醸し出していた。

    今思えば、とても懐かしい空想の世界でもあった。


    紙芝居の「墓場の鬼太郎」はとても面白い作品に思えていたのだが、どうしたことか続編には遭遇しなかった。

    ずっと後年になってから、「ゲゲゲの鬼太郎」が少年漫画雑誌に登場し連載が始まった。

    それをみて、子供心にも「墓場の鬼太郎」の続きなんだと思った。




    Hakaba Kitarou episode 1 [English Sub HD]

     






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      タグ:鬼太郎
      posted by モモちゃん at 07:28| 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2014年02月20日

      奇談:大の男が死ぬほど怖がるものがあります


      本当に、本当に、死ぬほど怖いのです


      人にはそれぞれ食物に好き嫌いがある。
      どうしても酒が飲めない、なになにが食べられないという人はわりと多いものである。

      若いとき友人の屈強な武道家に無理にビールを飲ませたら、一口飲んだら顔が真っ赤になってそのままぶっ倒れてしまい驚いたことがある。
      友人は外見とは違って、アルコールをまったく受け付けなかったのである。

      そのように苦手な食品があるとか、ただ嫌いというだけなら話はわかるが、それらに近づくのも恐ろしいとなると話は変わってくる。
      もちろんあの「饅頭怖い」の類の話ではないのである。

      これに関していくつか江戸時代の奇談を集めてみた。
      man.jpg


      享保年間のことである。
      御先手を勤めていた鈴木伊兵衛という人はどうしたことか百合の花が無性に嫌いであった。

      あるとき茶会で仲間が四五人集まった席で、吸い物が出て皆が箸をとったのに伊兵衛だけが不快そうな顔をして落ち着かない様子であった。
      いかにも機嫌が悪そうにみえ箸も取らない。

      皆が一体どうしたのかと聞くと、「もしかしてこの吸い物に百合の根でもはいっているのではないか」という。

      「いや貴殿が百合が嫌いなことは以前から知っていることだから、そのような無礼なことはしない」と、主人が言う。

      そうこうしているうちに、同席している一座のなかの膳に、なんと百合の絵が描かれているのがあったのである。
      これには皆驚いてしまった。

      すぐにこの膳を下げて取り替えてもらったところ、伊兵衛は元のように元気になったというのである。

      次は鍼師山本東作の伝える話である。
      土屋能登守(土浦城主・九万五千石)の家来に樋口小学という医師がいたが、この人は非常に鼠が嫌いであった。

      あるとき同僚達で一緒に食事をすることになり、彼もこの席に招かれた。

      ところがこのとき彼だけが少し遅れて来ることになったのであるが、皆で「以前から 鼠嫌いとは聞いているが、いかにも妙である。本当かどうか一つためしてみようではないか」、ということになった。

      そこで鼠の死骸を持ってきて小学が座る席の畳の下に隠しておいて、そ知らぬ顔して待っいることにしたのである。

      しばらくして小学がやってきたのでその席に座らせ、膳も出させた。
      すると小学は急に顔色が悪くなり、全身から汗を流していかにも苦しそうな素振りである。

      「どうしたのだ」、と皆が声をかけるがそれに答えることもできないほど弱りきった様子である。

      いまさら鼠を隠していることなど言えば果たし合いになるやもしれず、皆はそのことには口に出せないまま交互に介抱するより他になかった。

      小学が帰宅したいというので人を付けて送っていったが、後から聞いてみると、宿に帰って後はすっかり回復して何のこともなかったということであった──。(以上『耳袋』より)

      二つの事例によれば、嫌いな物は恐ろしいほど徹底して嫌いなのである。

      ではこのような状況を強いられた者が、極限までいくとどうなってしまうのか。
      これについても江戸時代の記録が残されているので紹介しょう。

      元禄時代の尾張藩の御畳奉行が書き残した日記に次のようなものがあった。
      元禄七年のことである。

      ある男がどうしたことか、焼き味噌を極端に恐れるということで城下で噂になっていた。

      それを聞いた藩主源敬公(初代義直)は、この男を直に試してみようと酒宴に呼び寄せ焼き味噌を肴に杯をたまわった。

      公は例の男に声をかけられ、その焼き味噌を手ずから下されたのである。

      男は焼き味噌を恐れながらも逃げることもできないまま、仕方無く手を差し出し頂戴した。

      だがその途端、いきなりその手が強直して引くことも曲げることも出来なくなってしまったのである。

      この事態に驚いた公は直ちに男を次の間に引き下がらせ、掌の焼き味噌を捨てさせる騒ぎとなった。

      ところがその後、この男の掌には赤黒く味噌の痕が醜く残り、次第にその部分から腐りはじめてやがて死んだというのである。──

      こうした事例をみてどう考えるか。
      ある種のアレルギー症とみるか、ショック状態があるところをみればアナフィラキシー・ショックというべきか。

      いや、恐怖心からくるのであるから心因性、精神性の過剰反応というふうに片づけてしまうというのが西洋医学に近い考えというところであろうか。

      むしろすっぱりと、このような現象は電磁波過敏症同様に西洋医学の範疇に入らぬと言い切るのが正論であろう。

      では東洋医学的にみて、こうした現象が説明できるのかということになる。
      実は中国医学にはこのような現象を応用した伝統的な手法がある。

      握薬(敷掌心法)というのがそれである。
      薬味を手掌にのせるだけ、あるいは握らせるだけで薬(の気)が身体に作用し、治療としての効力を発揮するというものである。

      このような治療に関しては、古くは中国の葛洪(二八三〜三六三)や呉尚先(一八〇六〜一 八八六)の医学書にも記述があることが知られている。

      具体的に例を上げてみよう。

      李時珍の著した『本草綱目』の石燕(化石の一種)に関する記述によると、これは通常には痔や下痢に効能があるとされるが、最も注目すべき用法は雌雄があるとされる石燕各一片づつを、陣痛に苦しむ妊婦の両手に握らせた時に顕れるという。

      なんと、それだけで妊婦が苦痛から解放されるというのであるから面白い。

      これが本当に事実かどうかは試していないので何ともいえないが、ここから拡大解釈したにしても、実際に石燕に薬気なるものがあるか、いや膳に描かれた百合の絵に気があるか、さらに鼠の死骸や焼き味噌に気があるのかといわれれば、これ以上は私としても答えようがないわけである。

      何かの気が出ているとするならば、それがある人にとっては薬気となり一方では邪気となるわけだし、あるいは気ではなくて何かの波動・信号波・微粒子が身体に対して作用しているとこじつけたにしても、もちろんこれでは科学的な答えとはなりえない。

      しかしとにもかくにも、この動植物や薬気に感応し反応する現象、要するに抗原抗体反応を想起させるような人体の未知の部分には少なからず興味が湧くわけである。


      余談であるが、かって「文化ゴリラ」とまでいわれ自ら肉体を鍛え上げた三島由紀夫は意外にも蟹を極度に恐れたということである。

      「蟹」の姿そのものはもちろんの事、蟹という字形さえも見るのを嫌ったというから面白い。
      まあ、意外といえば意外、世の中にはこういう不可思議なこともあるわけである。











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        タグ:本草綱目
        posted by モモちゃん at 10:06| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

        2014年02月18日

        古医書『医心方』に紹介されている凄い精力剤(3)


        元気に長生きするためといいながら、何だかお節介な話は昔からあるようです



        中国唐の時代の大中3年(849)にある老僧が皇帝(宣宗)に拝謁したという。

        錢易』・南部新書・辛「大中三年、東都(洛陽)に一僧進む。年一百二十歳、宣宗、 何の薬を服して此に至るかを問う。
        僧對えて曰く。臣少は賤、素、薬を知らず。性本茶を好む。至る處、唯茶是を求む。
        或いは出て亦、日に百余椀に遇う。常の如く日に亦、四五十椀を下らず。因、茶五十斤を賜る。保寿寺に居せしむ。」──


        唐代の話であるが、お茶をがぶがぶ飲んでいたら百二十歳まで長生きした坊さんが居たというのである。

        この坊さんどこぞでのんびりと暮らしていたであろうに、誰かおせっかいな者がいて、 どこそこに長寿の坊主が居りますよというようなことを皇帝に奉上したらしい。

        それで、その坊さんはとうとう洛陽の都まで引き出され、宣宗に拝謁することになってしまったというわけである。

        皇帝は長寿の坊さんに謁見すると、「どんな薬を飲んだらそのように長生きできるのか?」と訊ねる。

        特別な薬も飲んだ覚えのない坊さんは、「いえ生来お茶が好きなので日に百杯、少ないときでも四、五十杯ほど飲んでおります」と答えたわけである。

        何のことはない、お茶が好きな坊さんがたまたま長寿だったというだけのことである。

        どうでもよいことであるが、坊さんにとってはまったく余計なお世話なのである。
        ninjin.jpg


        こういう例はいくつかある。

        我が国でも九世紀の薬学者の竹田千継は『神農本草経』で枸杞の薬効を知り、十七歳 より続けて服用していたところ九十七歳になっても髪は黒々として若々しく、周囲の者を驚かせていた。

        まわりの(おせっかいな)声もあって斉衡二年(八五五)に以前より体の弱かった文徳天皇に、この枸杞の服用を進める奉上をつい出してしまった。

        これには天皇が大いに喜ばれるとともに、彼の本草学者としての知識と経歴とをかわれ宮廷の薬草園での枸杞の栽培管理の役目を仰せつかった。

        しかもその上に側近として左馬寮允にまで任ぜられてしまった。
        こうなると竹田千継はやたらと忙しくなり、活力の元であった枸杞茶を飲む暇がなくなってしまって急激に老化・老衰現象が現れて二年ほどしてあっけなく死んでしまった。

        これが余計なおせっかいでなくて何であろうか。 

        因みにこういった長寿者・万能薬の存在といった種類の奉上はお上にも特に喜ばれ、紹介者や奉上した者には場合によってはたくさんの御褒美が下賜されたのである。

        当然ご褒美目的の奏上も少なくないのはいうまでもないことである。

        やはり昔も今も価値ある情報というのはあるわけであるが、それを受ける方もそれなりに適切に対応していないと詐欺まがいの情報に振り回されてしまうし、逆に有益なニュー スが入ってこなくなる。


        しかしながら昔から長寿法やら奇薬というのは、時の権力者が天下に布告してまでして求めたから実際に宮廷に持ち込まれる機会は特に多かったようである。

        たとえば隋の煬帝の時代の奇薬に関する奉状が、わが国で編纂された医学書の『医心方』にも転載されているのでここで紹介してみよう。

        この情報自体は中国では早くに散逸してしまっていて、わが国の『医心方』に記録されている貴重な医薬情報ということであるから、ここでは特に注目しなければならないところである。

        「(古今)録験方に云う、益多散。
        女子、臣妾、再拝して書を皇帝陛下に上る。頓首、頓首、死罪、死罪。愚聞く、上善は君を忌まずと。妾が夫、華浮、年八十、房内衰ふ。知る所従り方を得たり。
        方は、生地黄、洗い薄く切り、一升の清酒を以て浹さしむ。浹へば乃ち千たび搗きて屑と為す。十分。
        桂心、一尺、二分に准ず。甘草、五分、炙る。朮、二分、乾漆、五分を用いる。
        凡そ五物、搗きて末とし、篩に下し治めて合する。食後に酒を以て、方寸匕を服すこと日に三たびす。華浮、此の薬を合わせて未だ之を服すに及ばずして病没す。
        故、浮に奴あり、益多と字なす。年七十五、病みて腰屈み髪白く、横ざまに歩きて傴僂む。妾、之を憐れみ、薬を益多に與う。
        服すること二十日にして腰伸び、白髪は黒く更わり、顔色猾澤、状三十の時の若し。
        妾に婢有り、番息、謹善と字なす二人なり。益多以て妻と為し、男女四人を生ましむ。
         益多出て酒を飲み、酔いて帰れば、趣して謹善を取る。謹善、妾の傍らに在りて臥す。
        益多追いて謹善を得て、與に交通す。
        妾、覚り偸み聞くに、気力多く壮動にして、又微に他の男子に異なるあり。
        妾、年五十なるも、房内更に開きて懈怠するを、人は識らず。自ら女情を絶断すること能はず、為して二人を生む。
        益多は、妾、番息等三人と陰陽を合わせて極まり無し。時に妾、奴と通ぜしを恥識り、即ちに益多を殺す。
        脛を折りて中を視れば、黄髄有り、更に充満す。是を以て、此の方に験有るを知る。
        陛下御するに膏を用いれば、髄随いて満る。君、宜しき良方なり。臣妾、死罪、稽首再拝、以て聞す。」


        このようにただ漢文を読み下しても、一般には馴染まないのでこれをわかりやすく意訳してみよう。

        「(古今)録験方に益多散という処方がある。
        ある女が言う。わたくしは再拝して皇帝陛下に書を上つります。頓首して謹んで申し上げます。
        わたくしは善いことは陛下に忌みはばかることなく奉上するものときいております。
        わたくしの夫華浮は八十歳で腎虚となりましたが、知り合いから一つの処方を教えられました。(中略)

        この処方を食後に酒でもって一寸四方の匙の分量を日に三回服用します。
        夫華浮はせっかくこの薬を調合いたしましたのに、これを服用しないままに病死してしまいました。
        それで、夫には益多という奴隷がありまして、年は七十五になりますが病気で腰が曲 がり髪も白く、横向きに歩いて背中がまるくなってしまっておりました。
        わたくしはこれを憐れに思い、この薬を益多に与えました。
        二十日間ほど服用しましたところ腰が伸びて白髪も黒く更わり、顔色までがつやつやして見た目には三十代の若々しさとなりました。

        わたくしには番息、謹善という二人の婢がありましたが、益多は二人を妻にして男女四人を生ませてしまいました。
        益多は外に出て酒を飲み、酔って帰れば、趣くままに謹善に抱きつきました。
        謹善は わたくしの側にきて臥しました。
        益多は追ってきて謹善を捕まえて、ともに交わったのです。
        わたくしが、それとなく窺うと益多は気力が充実していよいよ壯んでありました。
        またすこし他の男と異なるところがありました。

        わたしは五十歳になりますが、ますます欲情が高まり、どうしようもなく悩んでおりました。
        このように自ら女としての情欲を断ち切ることができず、そのまま二人の子供を生みました。
        その後も益多は、わたくしと番息ら三人を相手にしまして精力絶倫で極まるところを知りません。
        わたしは奴隷と通じたのを恥ずかしく思い、益多をいきなり殺してしまいました。
        益多の脛を折って中をみますと黄髄があり、しかもそれは充満しておりました。
        このことでこの処方の本当の効能を知ったわけです。
        陛下が女を御されるのにこの膏を用いられれば、思いのまま髄が満ち溢れることでしょう。
        陛下、これはまことに良い処方であります。臣妾が稽首再拝してここに謹んで申し上げます。」



        おせっかいこの上ない話であるが、驚くべき内容の奉状である。
        同時に、薬効を示すのにこれ以上の効能書はないのではと思えるほどの迫力がある。

        これらの記述内容はフィクションではない。
        嘘偽りのない話である。 

        というのは、これの出典元である『古今録験方』を撰したのは甄権先生であり、彼は唐の初代皇帝太宗の寵を蒙った名医であった。

        しかも甄権は隋の開皇元年に秘書省正字についた経歴があるだけに、そのとき宮廷内のこうした記録文書にも眼をとおす機会があったのである。

        さらに甄権についていえば彼自身は百三歳の長寿を全うしたが、これは当時としては記録的な長命であったのだ。

        益多散はこの甄権先生がその著書に収録している重要な処方の一つである。

        このような経緯を考えると、いかにも効能抜群の精力剤に思えてくるから面白い。
        益多散ドリンクがあってもおかしくはないであろう。

        いやはやこのような話を紹介するのも、あるいはおせっかいなのかもしれないよね。




















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          posted by モモちゃん at 22:49| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

          摩訶不思議な治療法:古代尿療法

          馬の小便水薬とは何のこと?


           
          江戸時代に書かれた『耳袋』(根岸鎮衛)に次のようにある。

           「吐血とまらざるに、童便を飲んでよし。然れども、宿に小児なければ、他より貰う時はさめてぬるく、心持を損ず。その時はその身の小便を飲んでよし。右は予が親友山 本某、文化の六の年春、吐血していろいろ薬を施しけれどそのしるしなし。或医師、右 の法を伝えけるゆえ飲みけるに、さっそくとまりける由。(中略)ある官医にその事語りけるが、随分医家にその法ある由語りぬ。──」


           「吐血をとめる奇法の事」とあるものの一部であるが、これより中国医学の尿療法に 触れてみよう。

           さてこの吐血をとめる奇法であるが、捜すと出てくるもので、これは中国の五世紀後 半に書かれた『〓澄遺書』(〓澄)に喉頭出血に人尿を飲むと止血効果があるとあるか ら、これが一応この奇法の最も古い出典ではないかと思う。


           また唐代の孫思〓の『備急千金要方』には、歯間出血に童子の尿を飲むと止血するとある。
          こうなるとどうやら人尿には止血効果があるらしい。

           もちろん漢方医学の原典である『傷寒論』や『金匱要略』にも人尿は薬物として登場 している。
          「少陰病編」の白通加猪胆汁湯を構成する薬物にそれは含まれている。  


          尿を飲むということでは、『後漢書』・方術列伝に方士達が尿を飲んでいたことが記録されているから、中国では相当の歴史があるといえよう。


           古代においては不老長寿の効能があるとされたわけである。
          そのためかどうかわから ないが、楊貴妃は童女の尿を飲んでいたという話である。  

          不老長寿と薄命の美女とは何となく結び付けやすいのかもしれないなどと思っていると、面白い資料が出てきた。

           それは『本草綱目』(李時珍)に紹介されているのであるが、朱震亨が記録している特異な事例がそれである。


           「震亨曰く。小便降火甚だ速し。常に見る一老婦、年八十。貌、四十に似る。其の故 を詢う。常に悪病有り。人、人尿を服すを教ゆ。四十餘年にならん。且つ老健、他に病 無し。──」


           医師・朱震亨が一人の老婦人に会った。年齢は八十歳だという。ところがどうみても 四十歳ぐらいにしかみえない。

          不思議に思ってその理由を尋ねてみた。
          話によると彼女 はかっては病気勝ちな体質であった。
          ところがある時、人からあなたのような体質には人尿がよいと、飲むように強くすすめられた。

          実際に飲み始めて四十年以上になる。
          そのためか年をとっても今は頗る健康だし、これといって病気もない──、というのである。


           八十歳の老女が四十歳位にみえるということは、老化がほとんどすすんでいないということである。

           朱震亨でなくてもこれには驚かざるをえないではないか。  


          また清代の宮廷医案(カルテ)が現在まで残されているが、そのなかにある西太后( 一八三五〜1九〇八)の処方に童子の尿を成分として加えた丸薬があった。(『慈橲光 緒医方選議』)


          これは生理不順を治す処方であったらしいが、なにやらホルモン代謝に 関係してくるような様相を呈してくるからそれなりに面白い。


           我が国にも中国の尿療法は伝えられた。そして鎌倉時代の時宗の開祖一遍上人(一二 三九〜一二八九)が諸国遊行し、それを広く伝えたというのである。


           では彼はどこでどのようにしてこの奇法を知ったのか。これに関して明確な資料はな いが一つだけ手がかりがある。


           一遍上人は若い時、九州の太宰府で修行勉学した経歴がある。恐らくこの時期、尿療 法の効能を知ったのではないかと思う。


           というのは当時太宰府には重要な政府機関があっただけでなく、ここは大陸に対する文化的な拠点でもあった。


           私はかって太宰府の天満宮に秘蔵されている蔵書の目録を見る機会があった。
          夥しい 漢籍のなかに『傷寒論』等の医書があったのを記憶しているが、それだけにここでこうした中国医学関係の典籍に一遍上人が触れる機会は充分にあったと思うわけである。

          当然こうした根拠なしに万民に広めることはできなかったのではないかと思う。


           なお現代の中医学でも尿療法はあるらしい。
          関心のある方は『中薬大辞典』を紐解かれたい。 ちゃんと「人尿」の項目がある。





















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            posted by モモちゃん at 08:36| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

            2014年02月16日

            米糞聖人・イケメンだから歴史に名を残せるのか?


            まったく食べなくても生きていけるイケメンの坊さんが突然現れた!?


            昔の日本人というのは、予想以上にユーモアのセンスに恵まれていたのではないかと思う。
            古典文学である「宇治拾遺物語」とか「古今聴聞集」等をひもとくと、それこそ随所に抱腹絶倒の面白い話が紹介されている。

            現代の低俗なテレビ番組など、足下にも及ばない洗練されたおかしさがある。それも読むなら古文のままがいい。
            芥川龍之介の「鼻」なども、元になった古典の原文を先に読んでからだと何やら興ざめである。
            そうしたなかの話の一つであるが、昔たいそう有り難い坊さん(聖・ひじり)がいたそうである。

            その坊さんは飯を食わずとも生きているという不思議な人で、多くの信者に崇められていた。いまでいうところの特殊技能者か超人である。
            見るからに男前ということもあってか、この坊さんのことが当時の帝や貴族たちの間でも話題になりついには朝廷にまで引き出されることとなった。

            そうしたなかに物見高い上に妙に疑り深い若造の公達(貴族)らがいて、わいわいとこの聖のもとへと押し掛けた。「宇治拾遺物語」巻十二の九にある話である。
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            「昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて年来になりぬ。帝聞し召して、神泉に崇め据えて、殊に貴み給ふ。木の葉をのみ食いける。物笑いする若公達集まりて、「この聖の心みん」とて、行き向ひて見るに、いと貴げに見ゆれば、「穀断幾年ばかりになり給ふ」と問われければ、「若きより断ち侍れば、五十余年にまかりなりぬ」といふを聞きて、一人の殿上人の曰く、「穀断ちの糞はいかようにかあるらん。
            例の人には変わりたるらん。いで行きて見ん」といへば、二三人連れて行きて見れば穀糞を多く痢り置きたり。
            怪しと思ひて、上人の出でたる隙に、「居たる下を見ん」といひて、畳の下を引きあけて見れば、土を少し掘りて、布袋に米を入れて置きたり。公達見て、手を叩きて、「穀糞聖、穀糞聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。その後は行方も知らず、長く失せにけりとなん。」


            実は、この話は「文徳実録」巻六にも同様の記録があって、この聖、化けの皮が剥がされた後も多くの女性に何故か人気があったらしく、町中では「米糞聖人」と愛称で呼ばれ追いかけられたということである。
            やはり昔もスキャンダルがもてはやされて思わぬ信心に繋がったらしい。


            実は暇つぶしに読んでいた泉秀樹著「歴史のウラ舞台・おもしろ人物帖」という本にもこれと似た話が載っていた。

            江戸時代の医師、橘南渓の記録にあるらしく、不食症として取り上げられている。
            三河国巨海村の尼僧が二〇年間も一切食事をとらずに断食をしているということで、わざわざその地に逗留して調べた記録が残っているらしい。

            尼僧とはいえ、常人離れしたことをするとお上にも怪しまれ、一時は寺社奉行あたりが厳しく調べあげたらしいが、結局食事を受け付けない不食症として許された経緯があったということである。

            「段々小食になり、後には一月に二三度ほど食すればよしといい、其後は段々に不食して、数月の間に少し食することになりて、近き頃は絶えて食せざるようになれり」とあるから事実としかいいようがない。
            明治時代の超能力者として知られる長南年恵も一四年間ほとんど食事を取らず、大小便もせず、二〇代の若さを保ったまま四〇代でなくなった事実がある。

            こんなことが本当にあるのかと思っていたら、今度は「AZ」(十二号)という雑誌に、「二十世紀の仙人少女、丁静」として紹介されている記事に遭遇した。(「気の大事典」にも転載記事あり)

            これは現在の中国に長期間断食中の少女(当時十二歳)が実在するという驚くべき内容のものであった。嘘か本当か、目を疑う記事ではないか。



            壁穀とは気功状態での断食のことを言うが、何とこの少女の場合二年あまりも普通の食物を口にしないというのである。

            軍事医学科学院専門テーマ研究グループによる西洋医学的、中医学的診断や観察も多項目にわたって行われたことが紹介されているだけに実に興味深い。
            「神仙伝」などによると、古代の仙人と呼ばれる人たちは特殊な導引行気によって、五穀を食べなくてもよくなり、これによって心身ともに溌剌として、しかもそろって長寿なのである。



            これはいわゆる生体のエントロピーが極端に減少している状態なのかもしれないし、これによって老化現象が抑えられるということであろう。
            さてさて話はこれだけかということになろうが、実はそうではない。
            インドのサイババが最近は何かと話題になるが、宇宙エネルギーの研究で知られる工学博士深野一幸氏の著書にも紹介されていた聖人ババジのことが俄に浮かび上がってくる。(「あるヨギの自叙伝」バラマハンサ・ヨガナンダ原著)

            ヒマラヤには不老不死の聖者集団がいるというのであるが、そこには数百歳とも一〇〇〇歳ともいわれる高齢の聖者が何人かいるらしい。その中のひとり聖人ババジは紀元二〇三年生まれだという。現在一七九一歳ということになる。
            聖人ババジは不老不死の術(クリヤ・ヨガの技法)を会得して現在も外見は二五、六歳の青年にしかみえないということである。

            古代の仙人は五穀を断ち、食気という特殊な呼吸法を行い、寿命を驚異的レベルにまでのばしたということになっているが、現代にまでこれに類する事象が脈々と流れていて非常に愉快なことである。

            これに関連した最近の事例を引用紹介しておきます。


            年断食の印ヨガ聖者、科学者も仰天 2010年05月10日 20:00 発信地:アーメダバード/インド

            インド・アーメダバード(Ahmedabad)の病院で、国防省研究機関の医師団による観察を終えて会見する自称「70年間断食」のプララド・ジャニ(Prahlad Jani)さん(2010年5月6日撮影)。(c)AFP/Sam PANTHAKY

            【5月10日 AFP】70年前から食べ物も飲み物も摂取していないという83歳のインド人ヨギ(ヨガの聖者)について、体の仕組みを15日間にわたって調査したインドの科学者たちが、観察期間が何事もなく終了したことに仰天している。

             ヨギのプララド・ジャニ(Prahlad Jani)さんは前月22日から、インド西部アーメダバード(Ahmedabad)の病院に缶詰めにされ、医師30人によって24時間態勢で15日間にわたって観察された。

             期間中、ジャニさんは一度も飲食せず、トイレにも行かなかった。インドの生理学関連研究施設「DIPAS(Defence Institute of Physiology and Allied Sciences)」のディレクター、G. Ilavazahagan氏は、「実験期間中、(ジャニさん)が液体と接触したのは、うがいと風呂の際だけだった」と声明で述べた。

             観察期間を終えた神経学者のSudhir Shah氏は、記者団に「(ジャニさんが)どのように生き延びているのか、わからなかった。何が起きているのか、まだ謎のままだ」と驚きを表明した。

             Shah氏は「ジャニさんがエネルギーを水や食料から得ていないのであれば、周囲からエネルギーを得ているに違いない。エネルギー源が日光の可能性もある」と述べた。「医学専門家として、われわれは可能性から目を背けてはならない。カロリー以外のエネルギー源があるはずだ」

             ジャニさんの観察調査を実施した国防省傘下のインド国防研究開発機構(Defence Research and Development Organisation、DRDO)は、数か月以内に詳細な研究結果を明らかにする考え。兵士たちが飲食をせずに生き延びる方法や、宇宙飛行士への応用、さらには自然災害で閉じこめられた人びとが生き延びる方法などに応用できるかもしれないと期待を寄せている。(c)AFP/Rajesh Joshi










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              posted by モモちゃん at 07:38| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

              2014年02月14日

              屁も一芸のうち、身を助けるという話


              おっと失礼、人の運命を彩る屁の話


              今から三十数年以前の小学生のときのことであったが、朝礼での校長訓話の最中に突然バウンという物凄い轟音が講堂内に響きわたった。

              その音の元は私の右横二、三メートルのところに立っていた若い女の先生であったが、すぐには一体何の音なのか分からなかった。
              とにかく瞬時に音源が特定できるような音質ではなかったのだ。
              後で思い出してみても、俄かにあの轟音は識別できるものではなかったとしか言い様がない。
              そのときの女の先生のいくぶん紅潮して強張ったような表情を見て、やっとそれが何の音なのか気付いたという次第であった。

              その轟音に驚いたまわりの生徒や先生たちに一瞬ざわめきがあったのだが、その余りの音の大きさに度胆を抜かれたのと、女の先生の気丈夫な憮然とした表情に周囲は気圧されて笑い声ひとつ立たなかった。

              まさにその轟音の迫力そのものが、笑いを抑え込んだのであった。
              軽やかな音であったなら、このときの状況はまったく違っていたであろうことは想像に難くない。
              とにかく私自身、後にも先にもこれほどの豪快な放屁音は聞いたことがないということだけは事実である。
              後日、昔話の「屁こき女房」を読んだとき、まさにこれだと体験的に捉えたのを覚えている。

              こういう放屁の話題に関しては江戸時代の大博物学者の平賀原内先生が、心血を注いで書き上げた有名な『放屁論』が詳しい。
              自由自在に放屁できる放屁男が出てくるその後編のさわりの一部を少し紹介しよう。

              「漢にては放屁といひ、上方にては屁をこくといひ、関東にてはひるといひ、女中は都ておならといふ。
              其語は異なれども、鳴ると臭きは同じことなり。
              その音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にして其形圓く、ブウと鳴るもの中品にして其形いびつなり。
              スーとすかすもの下品にして細長くして少しひらたし。

              是等は皆素人も常にひる所なり。
              彼放屁男のごとく、奇奇妙妙に至りては、放ざる音なく、備らざる形なし。

              抑いかなる故ぞと聞けば、彼ケ母常に芋を好みけるが、或る夜の夢に、火吹き竹を呑むとみて懐胎し、鳳屁元年へのえ鼬鼠の歳、春邉と梅匂ふ頃誕生せしが、成人に随ひて、段々功を屁ひり男、今江戸中の大評判、屁は身を助けるとは是ならん云々──。
              」と、おかしな話が続く。 
              A_PORT~1

              放屁の芸で世渡りができるとは愉快であるが、かって十九世紀末のフランスのパリの劇場(ムーラン・ルージュという)あたりで自由自在に屁を放ち、しかも音程も調節できてフランス国歌の「ラ・マルセエイズ」などを奏してやんやの喝采を浴びた男が実際にいたそうである。

              なんだ馬鹿馬鹿しい、屁を題材にして下らぬ話を書きなぐってと思われる向きも恐らくあると思うが、たかが屁されど屁なのである。

              屁ひとつで人生が変わってしまうこととてあるのである。
              屁ひとつで不幸になる、あるいは幸運が舞い込む。
              そういうこととて長い人の一生では突然出てくるはずである。
              そうは思いませんか?

              江戸時代の話で、一発の放屁が争い事の原因となったことが記録として残されている。
              町名は書いてないが話が話だけにここではかりに、あさくさ(浅草)の近くにあった長屋としておく。

              その長屋に独り者の男と夫婦ものが隣合わせに住んでいたのであるが、あるとき夫の留守中に女房が思わず大きな放屁をした。

              薄い壁一枚、これを隣の独り者が聞いて、「女のくせに人間離れした放屁じゃねえか」といって嘲り笑った。
              女房はこれに腹を立て血相変えて男の家に駆け込むと、「自分の家で屁をひるのが何がおかしい。余計なお世話だよ」とこれまた罵った。

              二人が声高に争うのを近所の長屋の連中が集まって引き分けたので、このときはどうにか騒動はおさまった。 
              ところがこの女房が銭湯に行っているあいだに夫が仕事から帰ってきたのであるが、七八歳の娘が「留守のあいだにおかしなことがあって、とてもまわりが騒がしかった」と口を滑らせてしまったのである。

              「何があったんだ」と怪訝顔で父親が尋ねると、「隣のおじさんと母さんのあいだで言い争いがあったのだけど、父さんには絶対にいっちゃあ駄目といわれてるの」と娘がぺらぺらと喋ってしまったから大変である。

              これを聞いて夫は、さては隣の男と女房は密かに通じておったなと思い込み心中おだやかでなく、近くの銭湯から帰ってきた女房をつかまえて激しい口論となった。
              しまいには夫が出刃包丁を持ち出して、いきなり女房の頭に切り付けてしまった。

              女房の悲鳴に近所の者たちが再び駆けつけて夫を取り押さえたが、このときの騒ぎで加勢にきていた隣の男までも巻き込まれて傷つけられてしまった。

              公になりそうな事件であったが、訳知りの人が間に立って内々で済んだのであるが、これは放屁一発がとんだ事件に発展したという貴重な事例の記録なのである。(『耳袋』巻の七)


              学名はゴミムシ科、ミイデラゴミムシというすごい昆虫がいるのをご存知だろうか。
              あだ名は「屁ふり虫」とか「ヘッピリ虫、屁こき虫」とかいうやつである。
              miidera.jpg


              子供のころこれでよく遊んだのであるが、実に愉快な昆虫であった。
              掘り返された直後の畑や田圃にいるのだが、地中から茶褐色の2.5センチぐらいの大きさのぼてっとした体型の昆虫がもそもそ這い出てくる。

              これを棒の先でちょっと押さえてやるとブッといって、勢いよくお尻から噴霧器みたいに白煙を吹き出す。

              押さえる度にブッ、ブッといって放屁音とともに白煙が続けて出るのであるが、次第にその量が少なくなって終いには出なくなってしまう。つまりガス切れ状態になるわけだ。

              犬や鶏の放屁音ならたまに聞くことはあるが、虫ケラとなると予想外の可笑しさが伴う。
              小さくとも放屁音そのものには、違いないのだから。

              この白煙はおそらく自己防衛のものと思われ、指の爪にかかると黄色くなるところからこれは成分に亜硫酸成分が含まれているのかも知れない。

              強い酸とたんぱく質が反応するということで、これは化学でいうキサントプロテイン反応というやつではないかと思っていたのであるが、あとで調べたら当たらずとも遠からずであった。

              このガスを噴出すメカニズムが本当に凄いのである。
              ゴミムシノの体内には2つの隔離されたタンクがあり、1つには原料の過酸化水素とヒドロキノンを蓄えていて、これがもう一方のカタラーゼ酵素で囲まれた反応タンクに送り込まれると一気に酸化反応が引き起こされ勢いよくガスを噴出すという仕組みなのである。

              この一瞬の化学反応で噴出されるガス自体は100度以上にもなり、まともに吹きかけられると皮膚に火傷による水泡ができるらしい。
              白いガス状のものは、高温の水蒸気が含まれているのかもしれない。
              ゴミムシ自身は、それこそ固いキチン質の装甲で包まれているので大丈夫なわけである。

              まあ、子供の頃はこういう少し危ない昆虫を相手にして遊ぶのも大層愉快なものであった。

              昆虫といえどもこうした防衛力を持っていれば、そう簡単に鳥などに補食されはしないであろう。
              昔は屁のことを「転失気」や「失気」といったのであるが、漢方医学では屁のことを格調をもってそう呼んだ。
              屁は、屁だろうがと私などは思う。

              以前宮崎の友人が、「蛇が出た」というのを自分たちのところでは「へっが出た」というと言っていたのだが、逆に「屁が出た」は何と言うのか聞き忘れた。

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              タグ:平賀源内
              posted by モモちゃん at 16:59| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

              古くて新しい臓器売買の怖い話

              子供の頃、夕方遅くまで遊び回っていると、大人から怖い人に生き胆を盗られるぞと脅かされていた記憶がある。

              お年寄りの話によると、一昔前まで、人の内臓を盗み取るのが目的の殺人が本当にあったということである。

              どうも鎌倉時代以前からそうした無知と迷信に取り憑かれた殺人者が度々横行していたらしいのである。
              人の生き胆を取るなど猟奇的で身の毛がよだつが、何でもそれが病気治療の奇薬に利用されたということらしい。

              その上、それで何らかの取引もあったということになると、当方としては思わずぐっと身を乗り出してしまうわけである。
              もちろん東洋では植物だけでなく、古くから動物性生薬も治療には使われていた。

              犀角、鹿茸、虎骨、オットセイの一物、蛇、それに熊胆などである。
              江戸中期の古方派・医師後藤艮山はこの貴重な熊胆丸を処方して手広く売り出したので有名になったという。

              とにかく熊の胆は高価なもので同じ重さの金と取り引きされたというから、相当な高貴薬であったろう。何でも激しい痛みをともなう胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があるという。

              では人間の人胆は一体何に効能があるというのか。
              おそらく当時の「不治の病」といわれるものに対してではないかと思うのだが、これに関して一つだけ確かな歴史的史料がある。

              江戸時代の有名な首斬り役人であった山田浅右衛門は徳川家の御佩刀御試御用役でもあったが、刑死者の生胆を貰い受ける特権があり、それで自家製の薬を作って売ったということである。

              人間の胆は労咳(結核)にきくといい、こちらは「人胆丸」と呼ばれ高価な薬であったが、これ自体の出典根拠は大陸や印度から伝わった仏教説話に繋がっていくようである。

              当時山田家は試刀の礼金や刀剣鑑定料といった副業もあったが、この「人胆丸」の売薬でその財力は万石の大名に匹敵するといわれた。
              原材料は役得ですべて只同然だから、それこそ丸儲けである。

              因みに名人とうたわれた八代目吉亮は三百の首をその生涯に斬り落としたというから、「人胆丸」も相当量市中に出回ったことであろう。

              一応こちらは合法的に人胆が使われ売買されたことになるが、常に供給不足であったことは察しがつく。
              そうであるとなると結局この時代には合法、非合法の「人胆丸」が存在したということになってくる。当然、偽物もあったであろう。

              ここに、冒頭で紹介したような猟奇的事件が発生する背景があったことは想像にかたくない。

              ところが、こうした事象は過去のこととばかりとはいってはおれないようなのである。

              現代医学の進歩のもとでは、いまや人体の内蔵諸器官はパーツとしての「取引」が可能な時代が到来したのである。

              昔も今も人間の要求は変わらない。人間の臓器であろうと、生き長らえるために必要であればどこからか市場原理に突き動かされた需要が自ずと出てくる。
              そこには、人間の臓器を求めてでもしてどうにかして生き長らえたい、生かせたい命があるという方便である。

              医療も関連法規もそういう方便で整備されてくる。つまり臓器移植法がそれである。
              経済的に疲弊している後進国ではそうした需要に答える貧しい人々がいるし、暗黒の組織が影でうごめいてもいる。
              生活苦から、自ら片方の腎臓や眼球を売っている貧民層の人も少なくない。
              死刑囚の臓器パーツが商品化しているところもあるし、臓器移植に金銭取引が絡んだ赤ん坊売買や誘拐事件がすでに欧米や中南米でも頻繁に起こっている。

              さてさて、一体どこからこのような臓器売買の発想が出てきたのであろうか。

              まさか山田浅右衛門の「人胆丸」に刺激されてということではあるまい。
              倫理的にもデリケートな問題であって、いきなり人体再利用といったら言い過ぎかもしれないが、どうやらそうした風潮が巷に徐々に作られつつあることだけは確かである。

              平和ボケの日本では想像もつかないが、とにかく治安の悪い国では死体がごろごろ転がっているのである。
              日本では比較にならないほど、そこでは人命が軽視されており、やたらと殺人事件が多発しているわけである。

              米連邦捜査局(FBI)の発表によると、アメリカでは1991年の殺人事件による死者は二万四千七百三人であり、統計上は年々増加傾向にあるという。

              それこそ世界一の銃社会であるから、1日平均32人もの市民が犯罪がらみで撃ち殺されるということになる。
              銃社会は、当然これを享受し続けている。

              同じ病院内で、救急で運び込まれた重症の瀕死体状態の患者がいて、新鮮な臓器パーツさえあれば助かる命がある。

              身近に新鮮な再利用可能な臓器パーツがあれば、必然駅に需要は湧いてくるというべきであろうか。

              一旦これが合法化されてしまえば、的確かつ迅速な処理と搬送システムの充実が計られ情報ネットや供給体制が整えられることになる。

              当然こうしたシステム化にはどうしても経済的負担と効率化が問題になる。
              要は高額な負担経費さえクリアすれば実行可能である。

              後は搬送や医療専門チームといった採算コストを考慮した経済至上主義的システムに擦り変わっていかざるをえない。

              欧米にならった所詮臓器移植の合法化とはそういうものだと考えている。

              もとより一般の健康保険の適応外であるから、移植にはべらぼうな費用が掛かる。

              日本でも不動産や資産を処分したりして、そうした腎臓や心臓の新鮮な臓器パーツを求めて海外に行く人は後を絶たない。

              それこそ日本でも一昔以前までは売血という行為が、急場の糧を得るために巷で行われていたのも事実である。

              余談であるが、中国の『清朝野史大観』という歴史を扱った書物をご存じであろうか。
              yasi.jpg

              これに食道楽で嬰孩肉(子供の肉)が好物の酷官の話しが出てくるのだが、雇った料理人に人肉を平気で調理させていたということである。

              そういう残酷なことがまかり通るというのが不思議であるし、またそうした嗜好に応ずる残忍な供給自体があるということが意外でさえある。

              それはその時代がそれほどに経済が疲弊し生活苦に喘ぐ貧しい人々が多かったということの反証であり、非情にも子供を売らざるを得ない親が少なくなかったという過酷な事実を教えてくれるものである。

              しかもこの話の場合は主役が官吏だけに余計に皮肉である。

              現代中国ではこの伝統性は残っているようで、母乳が闇で取引されていて富裕層が希少な栄養剤ということで貧困層の女性から買い取っているということである。
              疲労回復や病後の養生として根強い需要があるらしい。

              欧米人が好んで使う高価な化粧品にも、後進国で堕胎された多くの胎児から抽出された成分が使われているし、高価な成長ホルモン剤とて原材料の出どころを追跡すれば同様であろう。
              このように人間の要求とは、それこそどこまでも底知れぬものである。

              以前あるSF映画の中で、食料供給の為に人間の死体が再処理分解されて食品に加工されていくショッキングな部分があったが、その意外性の裏で何やら信憑性のありそうな展開にはっとさせられたことがある。

              まあそうした発想からみれば、いまの時代には相当の距離があるとみることもできるのだが、一方で人間が死ねば粗大ゴミと化する時代がきているとするならば、そうした未来社会の到来もただの空想とばかりいえなくなる。

              臓器移植のための臓器パーツにJISマークや国際商標が添付される時代もそう遠くはないのかもしれない。



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              タグ:医学史
              posted by モモちゃん at 16:54| Comment(0) | 歴史奇談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする