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ラベル:歴史認識
posted by モモちゃん at 09:51| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月16日

最強の易断!人の命はいつ絶えるのか?!

もう駄目、今にも死にそう!

自分の死ぬ日を予知して、わざわざ周囲に知らせて回ったという人物が古今東西に多数存在していることに気づき、それらの文献史料を探してみました。

未来をほぼ正確に預言、予知するということは常識では考えにくいことなのですが、そうした歴史上の事例をいくつもめていくと新たな視点も生まれてきます。

過去から未来へと時間が一方に流れているというのは普通われわれの感覚的捉え方ですが、本当は未来から過去に時間が流れていて、そこここに干渉しているという量子力学分野の最新研究もあります。

要は未来があるから目の前に現在の事象そのものがあるのです。

結局のところ、目の前の現象はすでに確定していることであって、はるか未来の時空からただその残像が投影されているだけなのかも知れません。

歴史上にはそうした拡大された時空や次元から俯瞰できる能力を持った人物が居たことだけは、多くの事例をみれば確かなことのように思えてきます。





予知といえばいろいろあるが、今回は人の命、寿命に関わる予知の話としたい。

まず、我が国の古いところでは、聖徳太子が自分の死ぬ日時を予言して、その日に亡くなったという記録がある。(『聖徳太子伝暦』)

空海も自分の死ぬ日を予言し、死の四箇月前、弟子たちを集めて告げたことで知られている。

吾、入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅の刻なり、もろもろの弟子等悲泣するなかれ」と明言し、その予告通り、承和二年(八三五)に空海は大往生した。

この種の伝統は受け継がれ、比叡山定心院の十禅師成意も弟子や同僚に前もって知らせた上で入滅したというし、熊谷直実入道の入滅の予言も『吾妻鏡』に記録されていて特に有名である。


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外国にもこの類の話は少なくないようで、学者というより霊界の話で有名なスェーデンボルグの場合は、死ぬ一月以上前の一七七二年二月にメソジスト派の創始者であるジョン・ウェズリーに手紙を書き、その中で「自分は三月二十九日に死ぬから、それまでに会いに来てくれ」といい、実際にその予告した日に死亡した。


このような話ばかりだとうんざりするので、ここらで少し話の向きを変えてみよう。

江戸時代の文政年間、京都の医界で名医として知られた中神琴渓は、近江国山田村の貧農の家に生まれたとされるが、そこから独学奮励して医者になった人物である。

彼には次のような「死を予知する」ということに関連した有名な逸話がある。

三十を過ぎたある日、いつものように野菜の行商で大津まで出て、ある髪結床に作物を買ってもらい、そこで一休みしていた時のことである。

床屋の親方が妙なことを口にした。

先程帰った客の老人は気の毒だが近いうちに死ぬだろうと言うのである。

それを聞いて半信半疑でそれとなく気に止めていたところ、はたしてその老人は幾日かして本当に死んだのである。

琴渓は驚いて、なぜ老人の死が予知できたのかしつこく親方に尋ねるとその理由を話してくれた。

これまで何千人もの髪を結ってきたが、死が近づくと決まって代月のところに証が現れるのが分かるようになっただけのことだ」と。

琴渓はこれに大いに感じた。髪結床の親方さえこれだけのことが分かるのである。

自分も医者となりその道を極めれば、人の生死を診断し予見できるようになると。

一大決心をした琴渓は医学書を漁り、その中でも特に六角重任著・吉益東洞閲『古方便覧』二巻を精読・研究し、ついに四十九歳のとき京に出て開業したという。

昔は人の生死を的確に見極めることが、医師の技量の一つであった。

中国の歴史書『史記』・扁鵲倉公列伝にあるように、名医であった扁鵲や倉公は患者の三日後、八日後、半年後の生死を診断の結果見事に言い当てるわけである。

「後漢書」の伝によると、名医華佗(? - 建安13年(208年))などは三年後の病気の再発や十年後の病死を的中さたと記されている。

こうした病状の変化は、すべて人の顔色や脈に現れるという。

古代中国の医学書『素問』・陰陽別論七に、「凡そ、真脉の蔵脉を持する者は、肝の至ること懸絶にして急なるは十八日に死す。心至ること懸絶なるものは九日に死す。肺至ること懸絶なるは十二日に死す。腎至ること懸絶なるは七日に死す。脾至ること懸絶なるは四日に死す。」とある。

病がすすんで臓器まで病に冒されると、おのずと死期が決まってくるというのである。

予後に関して古代の医学書『難経』・二十四難にも同じように脈気と死症について記述があるし、その『難経』・十七難にも「其の死生存亡脉を切して之を知るべきことありや」といって、脈と死症の要諦を上げている。

確か同書に書かれている五十三難の七伝や六十難の真心痛も死に至るものであるが、素人には何のことなのかさっぱり分からないところである。

こうした予後の判定というものが、疾病の軽重や経過からみての判断というものに掛かってくるとき、当然医者と易者とではその判断基準がおのずと違うはずである。

であるが、しかし多分に易者のいう観相術と医術の望診とは似通っているように思えてくる。

人が「命旦夕に 迫る」とき、まさに命が絶えようとするとき、その変化は顔に表れるというのだ。

医学でいう、衰弱したビポクラテス顔貌はやはり死相に違いないだろうし、生命力が失われつつある人はそれ相応の衰退を双眸にも顔貌全体にも現してくるはずである。

確かにそれはいえることである。



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病気見舞いに行って、素人目にもああ、もうこれは長くはないなと不謹慎にも内心思ってしまうことと大差はないのかもしれない。

しかしその道を究めた者となると、そこには逆に格別な技量の冴えというか真骨頂の展開があっても、それはそれでいいのではないのかという気分になる。

ただ類似した情報を並べただけでは面白くないということだ。

名人芸というか、ここでは世間をあっと驚かせるような究極のセオリーが欲しいところである。

人の命に関わる事なので多少差し障りがあるであろうが、広い世間ではそういうちょっとは変わった事象があってもいいのではないかとも思うわけである。

そこでこういう話が出てくる。

『近世奇人伝』に紹介されている中村龍袋という、当時名を知られた観相家の逸話によると、彼は晩年自分の相を観て、「餓死の相が出ている」として家の門を閉じ、弟子たちの出入りを禁じ、絶食してついには餓死したということである。

これなどはこじつけがましく、予知というより予告めいた勝手な自殺行為そのものというべきものである。

易者とはそういう程度のものなのかということになる。


ところが同じ易者でもこれが本場中国となると、そのスケールがまったく違ってくる。

『後漢書』・方術伝によると、折像という易者が自分の死ぬ日を占い予知した。

そこでその命が絶えるであろう日に、長年付き合った親戚や友人一同を自宅に招いて賑やかに酒宴を開いて別れを惜しんだ。

折像は最後に同席した親しい人々に別れの挨拶をして、それが終わると同時に見事にその場でこと切れたという。

わざわざ史書に記録が残されているのだから、実際にそうだったのだろう。

それ以上の確認の仕様がない話である。

こうした易の達人の話はまだ続く。

易聖といわれた衛大経は同じように自分の死ぬ日を占い、その日に間に合うように墓を作らせ、まさにその予告した日に息絶えたという。(『新唐書』・隠逸伝)

この事例もわざわざ史書に記録が残されたのである。

そして最後に登場する易者の極め付きは『三国志』・方技伝に出てくる管輅その人であろう。

この易者の易断は半端ではなかった。

彼は自分自身の死を前もって予告していただけでなく、人の相を占って何と百人以上の寿命を見事に的中させたという。

これこそ驚愕の事実である。

このあまりにも見事な占いに人々は戦き恐れ、半信半疑の者も管輅に生年月日をずばりと言い当てられ、続いていざ死ぬ日を占う段になると、みな慌てて辞退してしまうというほどその易占は神妙であったという。

もはやこうなると単なる予知というより、神業というべきであろうか。

易断は未来を覗いているのではなく、未来からいまを覗いているのだ。

そこには時空を超えた共時性のもとに、一瞬小窓が開くのである。






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2017年09月03日

身近に発見したレトロな建造物

レトロな財産がある街

大牟田市というところは、個人的にはとても懐かしい都市である。

以前はちょっとしたデパートがあって、田舎町から年に何回か親に連れて行ってもらうのがとても楽しみであった。

大牟田は日本の近代において石炭産業の中核にあって、三池炭鉱を筆頭に経済発展に貢献してきた輝かしい歴史がある。

石炭産業の衰退とともにその勢いは失われた感はあるが、かっての生産や輸送を担った港湾や多くのインフラ設備はいまでも市内各所に残されている。





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昨日、建設中の有明無料道路を車で走っていたら車窓からとてもレトロなレンガ壁が目に飛び込んできた。




RIMG1243




















思わず途中で道路を迂回してその建造物をわざわざ見に行った。

その建物は青空に映えて見事に輝いて見えた。






RIMG1240





















毎日この建物を目にしている人には格別な思いはないのかもしれないが、産業基盤を支えたこういう歴史的建造物がいまだにしっかりと残されていることはまれなことのように思える。

こうした風格のある外観はそう簡単にはにじみ出てはこない。






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歴史を感じさせるとてもモダンで均整の取れた建造物である。

窓枠の形や中のステンドグラスなど雰囲気がいい。






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大牟田市は終戦間際に大規模な米軍による爆撃によって甚大な被害を受けた。

そうした戦災を潜り抜けた建造物であれば、なお一層輝いて見えることになる。













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2017年08月25日

日本では廃れてしまった淫蕩過ぎる習慣とは?

日本人は淫蕩な人種なのか?

ご存知の方は極めて少ないと思うのだが、日本は古代から明治期の辺りまでは混浴がごく普通の当たり前の習俗風景があった。

江戸時代の銭湯も簡単な仕切り程度の、ほぼ混浴の状態が庶民の生活の中に自然なものとして溶け込んでいた。

とくに地方の温泉地などはその傾向が明治以降も強く残っていて、大分県では昭和30年代までは混浴の温泉が普通にあった記憶がある。

そうした従来からの伝統的な生活習慣があったことから、地元の人たちには混浴そのものには何の違和感もなかったのである。

ところが幕末以降の西洋文明が流れ込むと、こうした習俗にことさら批判の目が向けられだした。

ついには銭湯での混浴が全面的に禁じられたのだ。


日本人のこうした男女混浴の習俗については、幕末に来航した有名なペリー提督の遠征記にも触れられている。

ペリー提督「日本遠征記」には、挿絵付で嫌悪感を込めて次のように記している。

「(日本人の)男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」と。

ペリー提督が、混浴を目にして日本人は淫蕩な人民であると断じてしまうところが欧米人らしいところではあるが、その先入観というか、当時の大らかな日本人の国民性を削ぎ落とすようなものの見方にはいささか抵抗を感じないでもない。

とにもかくにも、彼はここでははっきりと混浴を淫蕩な行為とみなしているわけである。

入浴自体は何も淫蕩ではあるまいに、ただ男女が混浴状態にあること自体がとにかく淫蕩という一方的な認識である。

しかしながら、何も当時の日本人が混浴までして自ら淫蕩でありたいと望んでいたわけではない。

ましてや、当時の人々は混浴を淫蕩なるものとしては意識さえもしてはいなかった。

しかも当時の日本人すべてが混浴していたというわけでもない。

もとより都市部の余裕のある暮らしをしていた富裕層はこうした習俗には染まらないし、染まる必要もなかった。

何故なら、そういう人間は自宅に自前の風呂の設備があるわけで、その燃料費にも何ら不自由はしないからである。

端から銭湯などで人前で肌を晒す必要などないのである。

家に風呂などない貧しい一般庶民の方が多かった。

結局のところ淫蕩などと決めつけてしまうのは、貧しい庶民の生活環境をまったく配慮しない一方的なものの見方と言わざるを得ない。

しかも明治期以降の西洋的文明観が、ますますそういう意識を強めていったのである。

文明開化の波にに乗った都市部の文化人が、ひとたび鄙びた温泉地を訪れるとやたら混浴は淫蕩だと言い出す。

結果混浴そのものを法律で禁じ規制した。

その流れのまま、現在では混浴自体ははっきりと公衆浴場条例で規制されてしまっている。


30年以前のことであるが、九州のある温泉地に家族で出かけたとき、地元の共同の温泉場に入ったことがあった。

地元の古くからの施設ということで、外来者は入浴料を随意入口の箱に入れるのだがそこの風呂場には仕切りが一切なかった。

いわゆる伝統的な混浴浴場である。

私と子供たちはそのまま裸になって入浴したのだが、混浴の風習を知らない家内はどこかで水着に着替えて後から入ってきた。

水着を着て入浴というのは、何だか変な感じである。

しばらくしてそこへ地元のおじさんがいきなり入ってきたのだけど、その場に水着姿の人間が入浴している姿を見て一瞬驚いたような表情を浮かべてみせた。

地元のおじさんからみれば、「なんじゃ、こりゃあ!」という感じであったろう。

いまでは裸での男女混浴は淫蕩なものという認識と意識とが、わが温泉大国日本では日常的にすっかり定着してしまっているようである。

しかしながら、いつの日か再び混浴が日本の温泉地で復活してくるのかもしれない。

そうした予感がしないでもない。




温泉好きOLが選ぶ、人気温泉郷「黒川温泉」。

http://www.trend-park.com/krkw/ydn_a1_t1.html











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ラベル:混浴温泉
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2017年04月23日

ドイツのノイシュヴァンシュタイン城を見学する!

おとぎ話の城を空から訪問!

ドイツ南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方にあるノイシュヴァンシュタイン城をご存知であろうか。

バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築された城で、オーストリア国境に近いオストアルゴイ郡フュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に位置し、近隣にはルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城がある。

ノイシュヴァンシュタイン城はかって同地方にあったシュヴァンシュタイン城に由来しており、1890年になってから付けられた名称である。(「ノイ (Neu)」はドイツ語で「新しい」の意)

この城は軍事的な目的の要塞ではなくて、意外にもルートヴィヒ2世自身のロマンティックな趣味のためだけに建設されたものとされている。

そのこともあって、この特に優雅で美しいノイシュヴァンシュタイン城は、おとぎ話のお城として世界中に知られている。




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2017年04月02日

東洋史に埋もれていた名医伝承記録

東洋医学名医伝・筑後弁バージョン

あるとき一人の老人が通り雨におうて人家の軒下で雨宿ばしとると、そんよちゃりしかけとるひゅうなか家の中から女のすすり泣く声が聞こえてきたげなたい。

なかば覗いてみっと、母親が子供の枕元でうずくまるごとして泣きよるじゃなかね。老人は思わず声ば掛けたげな。

外から突然声のしたけん女は驚いて泣きはらしとった顔ば上げたげな。

老人は静かに語りかけたとげな。そん優しか老人の言葉に、母親は気ば許して事の次第ば話はじめたげなたい。

母親の話によっと、子供の病状が一昨日より急に悪うなって、診てもろっとた医者はもう手の施しようがなかち言うて帰ってしもうたげな。

子供の意識は無く命はいくばくもなかごたる様子で、もう死を待つばっかりちゆうて母親は泣き崩れたげな。

老人は気の毒に思うて、オリは医術の心得のあるとばってん、こんまま見過ごすとはどげんしてん心残りじゃけん、オリにそん子供の脈ば診さしてもらえんじゃろかち言うたげな。


老人は一通り子の脈ば診ると、母親に父親の所在ば尋ねたげな。こん子の父親は既に亡く、いままで母一人子一人で暮らしてきたげなたい。

老人はその答えに頷くとこげん言うたげな。「やっぱしこん子の命は絶えそうばい。そもそもの原因はこん子が母親の陰の気ばっかし受けて育てられとって、父親の陽の気に包まれんやったとがいかんとたい。

そしけん体内の陰陽の調和のとれんごとなったとばい。一刻の猶予もなか」

そこで老人は母親に起死回生の妙法ば教えたげな。母親は子供の命が助かるかもしれんち知って、老人の言うたごと村中にある若衆宿さん直にだだ走りで走っていったげな。

そこん家では元気盛りの若者が幾人も泊り込んで共同生活ばしよったとばってん、そげん広ろうもなか部屋の中は若か男たちの熱気で溢れかえっとったげな。

母親はその部屋さん駆け込むと、若者たちが遊びよった将棋ん駒ばひったくるごとして掴み取ると、だだ走りで家に帰ったげな。

そん将棋の駒ば土瓶で煎じて子供に飲ませたところ、生死ば彷徨っとった子供は奇蹟的回復をみたげなたい。──

ここに登場する老人こそ、朝鮮医学の集大成ちいわれとる医学書『東医宝鑑』ば17世紀初頭に編纂した名医許浚その人じゃったげなたい。

そん許浚ちいう人は家庭的にはいっちょん恵まれとらんやったけん、もともとよか環境で育ったわけじゃなかったとげなたい。

いわゆる妾腹の子で、苦学して医ば志したげな。逸話にもそげんか許浚自身の幼少時の境涯が反映されとるとかも知れんたいね。

こん話はなんか馬鹿馬鹿しか、荒唐無稽の作り話じゃなかかと思われる向きもあるやろうたい。

ばってんこれによう似とる名医の話が、後漢時代に活躍したちいう華佗の伝の中にもあるとたい。

東陽県の陳叔山の一歳の餓鬼が下痢が止まらんごとなって、だんだんに衰弱していったこつのあったげな。

方々手ば尽くしたばってんどげんしてん病状が良くならんけん親父が心配して、名医ち名前の聞こえた華佗のもとさん遠路訪ねてきたとげなたい。

華佗は一通り病状と経過ば聞くげっと、親父に向かって詳しか説明ば始めたげな。「そん子の母親は次の子ばすでに妊娠しとるはずばい。そしけん母乳中にもともと含まれとるはずの母親の陽の気が、はらん胎児ば養うとにばっか吸収されてしもうて、そん母乳は子供ば養うとには不十分な冷たか陰の気にばっかし偏ってしもうとるとたい。
そしけんそん子がいまんごつ陰の気の充満した冷たか母乳ばっかし飲みよるげっと、こん病は回復せんじゃろう」と、明解な病理、病機ば示したげなたい。


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中国には「名医、棺を返す」ち言うごたる名言のあるげなたい。

これは名医ちゅうもんは死人さえも生き返らせるちゅうごたるニュアンスのものかと思うばってん、扁鵲がそげんやろうし、唐時代の孫思邈(五八一〜六八二)の伝にも、これとぴったっと当てはまるごたる話が残されとるとばい。

孫思邈はある日、往診の帰りに棺ば担いでいきよる行列と遭遇したげな。

ようっと見るとその棺の底からはぽとぽと血が滴って落ちとるじゃなかね。

不審に思うた孫思邈は行列に泣きながら付いていきよる老婆に、いつ亡くなったつか尋ねたげな。

孫思邈が医者ちゅうこつが分かると、老婆は一人娘が難産で二晩苦しんで出産でけんで数時間前に死んでしもうたちゆうて、泣きながらどげんかして生き返らせてくれと懇願してきたげなたい。

棺の蓋ば開けさすっと、中の若か婦人はもう血の気の退いて顔色は蝋のごたったげな。脈ばとってみると、ちょこっと触れてくるじゃなかね。

孫思邈はまだ望みがあるち思うて、素早く鍼ば取り出し経穴を定めて打ったげなたい。

しばらくすると妊婦の気が動いて、顔に血の気がさし生気が蘇ってきたとげなたい。

脈が強よなってくなると、突然妊婦は産気づいてきて棺の中から「オギャア、オギャア」ちゆう産声が聞こえ、そんまま赤ん坊が生まれたとげな。


こん成り行きには、周りの者も驚き大歓声ば上げたげなたい。何と名医孫思邈は鍼一本で母子二人の命ば救ったとばい。

こげん孫思邈は名医としての誉れ高く、今でん中国では仁術ば身をもって示した医者として尊敬ば集めとるとげなたい。









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ラベル:中国文化圏
posted by モモちゃん at 09:34| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

古代の異種人類の頭蓋骨の謎に迫る!

人類によく似た太古の頭蓋骨?

今世紀になってようやく謎の「パラカスの頭蓋骨」のDNA解析結果が出たようである。

パラカスの頭蓋骨発見の経緯はというと、1928年、ペルー南岸部ピスコ近郊の砂漠地帯、パラカスにおいて、考古学者フリオ・テーヨ(1880〜1974年)が巨大な墓地遺跡から数多くの奇妙な頭蓋骨を発見したことから広く知られることとなった。

それらの頭蓋骨は太古のもので、3000年ほど前の人間のものと考えられており、その形状は縦方向に長く引き伸ばされた奇妙な形をしていた。

ここでは、そのDNA解析結果の解説動画に注目したい。


691B+161 長頭人間は人間ではなかった(DNAの検査結果)Long









Enormous Cone Head Of Paracas Peru: Lost Human History Revealed



パラカスの頭蓋骨の動画を観るとやはりその外観からして気になる点がある。


それは人類にあるはずの頭蓋骨表面部の縫合といわれるものの形態が異なっていることである。


人類の頭蓋骨の頭頂部分の骨は頭頂骨といわれ、通常解剖学的には左右2個で構成されている。


その左右2個で構成されている頭頂骨の接合部には、縫い目跡のような縫合というはっきりした線状のものがある。


解剖学的には、矢状縫合Sutura sagittalis, Pfeilnahtといわれる。



これがパラカスの頭蓋骨にはまったく見られないのだ。

どうみても頭頂にはそうした縫合のない、のっぺりとした頭頂骨にしか見えない。


これが不可解であって、この頭蓋骨が人類のものとは異なっている外観上の特異点である。




参考文献:


「Rauber-Kopsch解剖学」のページより引用
http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/Rauber-Kopsch/1-14.html


全体としての頭蓋

 頭蓋には頭蓋函と顔面部とが区別される.前者は前頭骨・頭頂骨(2個)・後頭骨・蝶形骨・側頭骨(2個)・篩骨の8個の骨で構成されている.そのうち初めの3つは扁平骨であって,それぞれに,緻密骨質でできた外板Lamina externaおよび内板Lamina internaがあって,両板のあいだには海綿質がある.この海綿質は頭蓋函ではとくに板間層Diploe とよばれ(図178,263)その中を板間管Canales diploiciという広い静脈管が通っている.頭蓋の外面をおおう骨膜を頭蓋骨膜Pericraniumという.後頭骨・蝶形骨・側頭骨・篩骨・前頭骨の一部は頭蓋底Basis cranii,Schadelbasisをつくる.















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ラベル:解剖学
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2016年11月24日

ペリー提督に淫蕩といわれた日本人の悪習とは?

かって日本人は淫蕩であったそうな

ご存知の方は極めて少ないと思うのだか、日本は古代から明治期の辺りまでは混浴がごく普通の当たり前の習俗風景があった。

江戸時代の銭湯も簡単な仕切り程度の、ほぼ混浴の状態が庶民の生活の中に自然なものとして溶け込んでいた。

とくに地方の温泉地などはその傾向が明治以降も強く残っていて、大分県では昭和30年代までは混浴の温泉が普通にあった記憶がある。

そうした従来からの伝統的な生活習慣があったことから、地元の人たちには混浴そのものには何の違和感もなかったのである。

ところが幕末以降の西洋文明が流れ込むと、こうした習俗にことさら批判の目が向けられだした。

ついには銭湯での混浴が全面的に禁じられたのだ。


日本人のこうした男女混浴の習俗については、幕末に来航した有名なペリー提督の遠征記にも触れられている。

ペリー提督「日本遠征記」には、挿絵付で嫌悪感を込めて次のように記している。

「(日本人の)男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」と。

ペリー提督が、混浴を目にして日本人は淫蕩な人民であると断じてしまうところが欧米人らしいところではあるが、その先入観というか、当時の大らかな日本人の国民性を削ぎ落とすようなものの見方にはいささか抵抗を感じないでもない。

とにもかくにも、彼はここでははっきりと混浴を淫蕩な行為とみなしているわけである。

入浴自体は何も淫蕩ではあるまいに、ただ男女が混浴状態にあること自体がとにかく淫蕩という認識である。

しかしながら、何も当時の日本人が混浴までして自ら淫蕩でありたいと望んでいたわけではない。

ましてや、当時の人々は混浴を淫蕩なるものとしては意識さえもしてはいなかった。

しかもすべての日本人が混浴していたというわけでもない。

もとより都市部の余裕のある暮らしをしていた人間はこうした習俗には染まらないし、染まる必要もなかった。

何故なら、そういう人間は自宅に自前の風呂の設備があるわけで、その燃料費にも不自由はしないからである。

銭湯などで人前で肌を晒す必要などないのである。

家に風呂などない一般庶民の方が多かった。

淫蕩などと決めつけてしまうのは、貧しい庶民の生活環境をまったく配慮しない一方的なものの見方と言わざるを得ない。

しかも明治期以降の西洋的文明観が、ますますそういう意識を強めていったのである。

文明開化の波にに乗った都市部の文化人が、ひとたび鄙びた温泉地を訪れるとやたら混浴は淫蕩だと言い出す。

結果混浴そのものを法律で禁じ規制した。

その流れのまま、現在では混浴自体ははっきりと公衆浴場条例で規制されてしまっている。


30年以前、九州の温泉地に家族で出かけたとき、地元の共同の温泉場に入ったことがあった。

地元の古くからの施設ということで、外来者は入浴料を随意箱に入れるのだがそこの風呂場に仕切りが一切なかった。

いわゆる伝統的な混浴浴場である。

私と子供たちはそのまま入浴したのだが、混浴の風習を知らない家内はどこかで水着に着替えて後から入ってきた。

水着を着て入浴というのは、何だか変な感じである。

しばらくしてそこへ地元のおじさんがいきなり入ってきたのだけど、水着姿の人間が入浴している姿を見て一瞬驚いたような表情を浮かべてみせた。

おじさんにすれば、「なんじゃ、こりゃあ!」という感じであったろう。

いまでは裸での男女混浴は淫蕩なものという認識と意識とが、わが温泉大国日本では日常的にすっかり定着してしまっているようである。

しかしながら、いつの日か再び混浴が日本の温泉地で復活してくるのかもしれない。

そうした予感がしないでもない。













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ラベル:混浴習慣
posted by モモちゃん at 07:00| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

王様の主治医はどこの誰だか知っていますか?

王様のお抱え医師とは?

侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師をいう。

昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にその時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味するものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人はこのような掛かり付けというより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。

と、堅苦しい感じで紹介すると息苦しくなるが、庶民にはまったく関係のないことだけに何と言うこともない。

話は単純である。王室直属の専属医師団のことである。

チャングムやホジュンの韓国ドラマを観ておられたら、その辺りはご存知であろうと思う。

日本の天皇家の侍医団の場合は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる(体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっていた。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高かった。

現代の皇室の医師団も同様である。


侍医ということでまず思い出すのは中世の曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門である。

初代の道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療して効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられた。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。

曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。

文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害を命ぜられたが、このとき玄朔は秀次の侍医として側に仕えていたということで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くことになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日で治癒された。 


戦国の大名で、こうした侍医集団の充実にもっとも力を入れたのが徳川家康であった。

彼は多少太り気味ではあったが、日ごろから粗食で養生に努め健康管理には殊のほか注意を払っていた。

家康自身が医術・本草学(薬物)に詳しかったことは当時のいくつかの記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師までも傍に召し抱えていた。


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さらに家康は、天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一流の京の医師を揃えていたし、他に旧武田家に仕えていた板坂卜斉、片山宗哲などの名だたる名医が侍医として傍近くに控えていた。

家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの医師に対しては常に新しい医学知識の習得に努めさせていた。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研究するといった家康の積極的な対応にみることができる。

たとえば朝鮮の『東医宝鑑』や中国の「本草綱目」を入手すると直ちに、侍医らに読ませていることでも分かる。

そうした海外の医学情報にも家康はことのほか敏感であったわけである。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで医家として仕えることを命じた。

ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出るわけがない。

なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子弟が目立ちはじめたのである。

事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事である。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった思い切った対応策を講じた。

こうした奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕するという決まりであった。

毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであるが、その様子は実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いということで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、常時頭を低く垂れて前傾したままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。

このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の伝統的診察法であったが、実際のところどれほど機能したか疑わしい。


これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持っていたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。

奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあって幕府の医療行政を統括していた。 

これを医家の名門半井・今大路両家が代々世襲したのである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられていたし、そのアルバイト収入が莫大であった。

慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも治療代として千両が届けられ、つごう二千両が薬礼となった。

これが先例となって、これ以降奥医師の薬礼としては千両が通例となった。

千両とは莫大な金額である。

当時の1両の貨幣価値はというと、一両あれば普通の一家が1ヶ月間ゆったりと生活できたということから考えれば、このときの千両がいかに莫大な礼金であるかが分かるはずである。

このように侍医の待遇がよいのは、その責任の重大さとまったく無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の眼疾の治療に失敗してしまった医師団は即刻処刑されたのだという。

まさに侍医とは、命懸けの職責であったのである。


魏の曹操は、頭痛や眩暈(めまい)の持病で苦しんでいたが、そのこともあって天下の名医として知られる華佗を典医として傍に置いていた。

華佗は巧みな外科手術による治療や内臓疾患の治療を得意とし、多くの薬物に精通した名医としても有名であった。

華佗は曹操を診察して、持病の頭痛や眩暈は鍼治療で一時的に解消できるが、それだけでは根治させることはできないことを曹操に伝えた。

そしてその病を根治させるには「麻沸散」という麻酔薬で麻酔をかけ頭部を切開手術しなければならないと言うと、猜疑心の強い曹操は手術にかこつけて自分を殺害するものと疑った。

それでなくとも当時は典医といっても医者の身分はきわめて低く、華佗は士大夫としての扱いもされなかったことで不満が募っていった。

華佗は典医という窮屈な状況を嫌っていたわけで、妻が病気であると偽って故郷へ帰ってしまい曹操のもとへは戻ろうとしなかった。

このことに曹操はひどく激怒して、ついには彼を捕縛し投獄すると終には華佗を殺してしまった。

周囲から華佗の命乞いがあっても曹操は「鼠一匹の命に何のことがある」といって怒りにまかせて殺害してしまうのだが、曹操の持病の頭痛や眩暈を治せるのは華佗の鍼の技量しかないことに後から気が付く。

さらにには曹操の庶子で才気煥発な曹沖が病で倒れた時、適切に診断治療が出来る医者が傍におらず夭折させてしまった事を後々まで後悔することとなる。














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ラベル:御典医
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2016年08月03日

はるか昔の東洋名医伝シリーズ:九州筑後弁

名医伝・筑後弁バージョン

あるとき一人の老人が通り雨におうて人家の軒下で雨宿ばしとると、そんよちゃりしかけとるひゅうなか家の中から女のすすり泣く声が聞こえてきたげなたい。

なかば覗いてみっと、母親が子供の枕元でうずくまるごとして泣きよるじゃなかね。老人は思わず声ば掛けたげな。

外から突然声のしたけん女は驚いて泣きはらしとった顔ば上げたげな。

老人は静かに語りかけたとげな。そん優しか老人の言葉に、母親は気ば許して事の次第ば話はじめたげなたい。

母親の話によっと、子供の病状が一昨日より急に悪うなって、診てもろっとた医者はもう手の施しようがなかち言うて帰ってしもうたげな。

子供の意識は無く命はいくばくもなかごたる様子で、もう死を待つばっかりちゆうて母親は泣き崩れたげな。

老人は気の毒に思うて、オリは医術の心得のあるとばってん、こんまま見過ごすとはどげんしてん心残りじゃけん、オリにそん子供の脈ば診さしてもらえんじゃろかち言うたげな。


老人は一通り子の脈ば診ると、母親に父親の所在ば尋ねたげな。こん子の父親は既に亡く、いままで母一人子一人で暮らしてきたげなたい。

老人はその答えに頷くとこげん言うたげな。「やっぱしこん子の命は絶えそうばい。そもそもの原因はこん子が母親の陰の気ばっかし受けて育てられとって、父親の陽の気に包まれんやったとがいかんとたい。

そしけん体内の陰陽の調和のとれんごとなったとばい。一刻の猶予もなか」

そこで老人は母親に起死回生の妙法ば教えたげな。母親は子供の命が助かるかもしれんち知って、老人の言うたごと村中にある若衆宿さん直にだだ走りで走っていったげな。

そこん家では元気盛りの若者が幾人も泊り込んで共同生活ばしよったとばってん、そげん広ろうもなか部屋の中は若か男たちの熱気で溢れかえっとったげな。

母親はその部屋さん駆け込むと、若者たちが遊びよった将棋ん駒ばひったくるごとして掴み取ると、だだ走りで家に帰ったげな。

そん将棋の駒ば土瓶で煎じて子供に飲ませたところ、生死ば彷徨っとった子供は奇蹟的回復をみたげなたい。──

ここに登場する老人こそ、朝鮮医学の集大成ちいわれとる医学書『東医宝鑑』ば17世紀初頭に編纂した名医許浚その人じゃったげなたい。

そん許浚ちいう人は家庭的にはいっちょん恵まれとらんやったけん、もともとよか環境で育ったわけじゃなかったとげなたい。

いわゆる妾腹の子で、苦学して医ば志したげな。逸話にもそげんか許浚自身の幼少時の境涯が反映されとるとかも知れんたいね。

こん話はなんか馬鹿馬鹿しか、荒唐無稽の作り話じゃなかかと思われる向きもあるやろうたい。

ばってんこれによう似とる名医の話が、後漢時代に活躍したちいう華佗の伝の中にもあるとたい。

東陽県の陳叔山の一歳の餓鬼が下痢が止まらんごとなって、だんだんに衰弱していったこつのあったげな。

方々手ば尽くしたばってんどげんしてん病状が良くならんけん親父が心配して、名医ち名前の聞こえた華佗のもとさん遠路訪ねてきたとげなたい。

華佗は一通り病状と経過ば聞くげっと、親父に向かって詳しか説明ば始めたげな。「そん子の母親は次の子ばすでに妊娠しとるはずばい。そしけん母乳中にもともと含まれとるはずの母親の陽の気が、はらん胎児ば養うとにばっか吸収されてしもうて、そん母乳は子供ば養うとには不十分な冷たか陰の気にばっかし偏ってしもうとるとたい。
そしけんそん子がいまんごつ陰の気の充満した冷たか母乳ばっかし飲みよるげっと、こん病は回復せんじゃろう」と、明解な病理、病機ば示したげなたい。


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中国には「名医、棺を返す」ち言うごたる名言のあるげなたい。

これは名医ちゅうもんは死人さえも生き返らせるちゅうごたるニュアンスのものかと思うばってん、扁鵲がそげんやろうし、唐時代の孫思邈(五八一〜六八二)の伝にも、これとぴったっと当てはまるごたる話が残されとるとばい。

孫思邈はある日、往診の帰りに棺ば担いでいきよる行列と遭遇したげな。

ようっと見るとその棺の底からはぽとぽと血が滴って落ちとるじゃなかね。

不審に思うた孫思邈は行列に泣きながら付いていきよる老婆に、いつ亡くなったつか尋ねたげな。

孫思邈が医者ちゅうこつが分かると、老婆は一人娘が難産で二晩苦しんで出産でけんで数時間前に死んでしもうたちゆうて、泣きながらどげんかして生き返らせてくれと懇願してきたげなたい。

棺の蓋ば開けさすっと、中の若か婦人はもう血の気の退いて顔色は蝋のごたったげな。脈ばとってみると、ちょこっと触れてくるじゃなかね。

孫思邈はまだ望みがあるち思うて、素早く鍼ば取り出し経穴を定めて打ったげなたい。

しばらくすると妊婦の気が動いて、顔に血の気がさし生気が蘇ってきたとげなたい。

脈が強よなってくなると、突然妊婦は産気づいてきて棺の中から「オギャア、オギャア」ちゆう産声が聞こえ、そんまま赤ん坊が生まれたとげな。


こん成り行きには、周りの者も驚き大歓声ば上げたげなたい。何と名医孫思邈は鍼一本で母子二人の命ば救ったとばい。

こげん孫思邈は名医としての誉れ高く、今でん中国では仁術ば身をもって示した医者として尊敬ば集めとるとげなたい。















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2016年07月26日

当ブログで一番読まれた記事を紹介します

当方のブログでもっとも読まれた記事とは?

「死相」とは死期が迫った顔色のことであります。

西洋医学では、ヒポクラテス顔貌(hippocratic face )瀕死顔貌ともいわれますが、それは「鼻はとがり、眼やこめかみはくぼみ、耳は冷たく、収縮し、耳たぶは突き出ている。額の皮膚は硬くてつやがなく、顔色は黄色か黒ずんでいるか、あるいは青白いく鉛色になっている」というもので、中国医学で表現される「死相」というのとものは少しニュアンスが違います。

普通は観相術といった占いの世界で使われる特殊な言葉であって、それ相応の経験がなければそうした顔に表れる変化には気付くことはできないものだとされています。

ということで、昔は易者や医者といった専門的技量をもった者が「死相」を見極めていたということになります。

今回はそうした部類の奇談であります。



戦国の名医曲直瀬道三外伝

戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物に、曲直瀬道三(まなせどうさん)という名医がいた。

幼い時に両親を亡くし姉の下で育てられたこともあり、当初は僧籍に身を置いていたようである。

漢学などの学問に秀でていただけでなく、若いころより医術の道を志すようになっていたが、幸いにも足利学校でさらに専門的な勉学を続けることができた。

当時明国から帰国したばかりの足利学校の教授田代三喜について、最新の李朱・中国医学を学びそれを完璧なまでに習得した。

道三は、「医学は身分・性別・年齢を問わぬ。誰であっても平等に治療せねばならぬ」という、師田代三喜の教えを終生守り医学の研鑽を怠らなかった。

その後、京都を中心に医療活動を始めたが、その卓抜した診断治療によって一躍名医として知られるようになった。

信長や秀吉といった当時の名だたる大名家に重用されただけでなく、格式高い宮中にまで出入りが許されるまでになった。

さらにはその名声を聞いて、曲直瀬道三のもとには入門を希望する俊才が全国から続々と集まってきた。

道三自身はそうした若い門弟を育てることにも力を注ぎ、医学を教習する啓迪塾という私塾も自ら建てるとともに、寸暇を惜しんで後進のために多くの医学書を著述した。

ここで医学を学んだ弟子の数は優に数百人にも及ぶといわれ、我が国の医学中興の祖として大きな足跡を残したことでも知られる。

下の写真は、曲直瀬道三が著した医書『察証辨治啓迪集(外題:啓迪集)』の写本・出典 東京大学附属図書館所蔵 )


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この名医曲直瀬道三には、その診断の巧みさで一度に多くの人命を救ったという逸話が残されている。

それは道三が数人の弟子を連れて諸国を遍歴していたときのことである。
中国地方の大名毛利家での病気治療を無事に終えて、京都に帰還する道中であったともいう。

道三一行がある海岸沿いの小さな漁村に差しかかったとき、一人の少年に出会った。

その少年の顔を見て、道三ははっとした。

その少年の顔色に、はっきりと死相が現れていたからである。

少年の顔色は青白くくすんでいた。
たち振る舞いには特別変わったところはなかったが、道三の目から見ればそれはまさに死期の迫った病人の(証)顔色であった。

道三は不思議に思いつつ、その少年に近づくと親しげに声をかけた。
「この当たりに宿を貸してくれる家はないかのお?」

道三一行は皆剃髪していたので旅の僧侶によく見間違えられる。
老僧然とした道三の顔をしげしげと見つめていたその少年は、微笑みながら答えた。

「それなら、おれのうちに泊まればいいよ」

少年は道三一行を自分の家に案内するという。すかさず弟子の一人が、困惑した表情で道三に近づくと耳元でささやいた。

「先生、きょうの宿は次の宿場町に泊まる手筈にいたしておりましたが」

「いや、今宵はこの子の家にどうしても泊まらなければならぬのじゃ」

道三以外は、だれもこの少年の異変に気づいてはいなかった。

道三は医学書の上だけでなく、常に実際の診療を大事にして弟子を養成していただけに、このような時も医師としての立場を寸刻も忘れなかったのである。

村中に足を踏み入れると、道三は周囲に漂う異様な気を感じとった。

どうしたことか、すれ違う村人の中には少年と同じように顔に死相が現れている者が幾人もみうけられたのである。

道三は、案内された村中の少年の家でも異様な光景を目にした。

人の良さそうなその漁師の父親は、道三一行を家の中へ快く招き入れてくれた。

道三がそれとなく少年の両親や幼い兄弟達の様子をみると、皆その顔に死相が現れていた。

このように人の顔色の変化をみて診断(望診)することは中国から渡来した医術の奥義であって、まさに名医のもっとも優れた技量を示す診断法の一つであった。

当時は、直接脈を診て病状を知る精緻な脈診さえも、そうした高度な診断法には及ばない技量であるとされていた。

道三はいよいよ不審に思って、その少年と家族全員の脈を弟子たちに診(み)させたがいずれも精気が失われようとする死脈そのものであった。

弟子たちはここで始めて道三からこの場の異変を知らされて、驚くと同時に一様に戸惑うばかりであった。

「先生これは一体いかなるわけでございましょう?」

「うむ」

何人もの者が一様に死脈というのは、異様なことで通常は有り得ないことである。

近隣に疫病が流行っている様子はない。

しかも死相、死脈が出ていながら、命いくばくもない重病人のように床に伏せっているわけでもない。

これには道三も考え込んでしまった。

道三はそのまま屋外に出ると、浜辺へとゆっくりと足を進めた。

絶え間なく浜辺にうち寄せる波を一心に見つめていたが、一瞬その道三の心に閃くものがあった。

「もはや猶予はあるまい!」

道三は、眼前の碧い海の彼方を見つめていた。

・・・・・・この場所、この土地の風水そのものに恐ろしい災禍が隠されているようだ。−−−

それは、この異変が天変地異の前触れかもしれぬという、不安とも予感ともつかぬ思いであった。

「身近に予期せぬ危機が迫ってきておる。一刻も早くこの場所を離れなさい」

道三は意を決すると漁師の家族はもとより、村中の者に近くの山へ避難するようにすすめた。

道三の弟子たちは、一斉に外へと走り出すと近隣の村人に危機を知らせて回った。

村中はたちまち騒然となった。

旅医者の狂言として嘲笑する者、怯えてそのまま座り込んでしまう者と、上へ下への大騒ぎとなった。

それでも村人の半数近くは、道三の言葉に従って足早に近くの山へ避難しはじめた。

少年とその家族も半信半疑で道三の言葉に従った。

海辺の村から退避した村人たちは、一様に不安げな面持ちで山の上から真下に見える村の様子を窺っていたが、穏やかな海面や村の眺望には何の変化もなかった。

「あれぇ、波が、波がやってくるよー!」

突然の子供の叫び声に一同は海の彼方に目をやった。

遥か彼方に水平線に黒々とした巨大な波の壁が見えた。

「あれは津波じゃ。大津波じゃ」

悲鳴に近い村人達の声があがった。




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巨大な波柱は恐ろしい早さで真っ直ぐこちらへ近づいてくる。

果たして不気味な海鳴りがしてきたかと思う間もなく、泡立つ大波が周辺の海岸に襲いかかってきた。

海岸沿いの小さな村は一瞬のうちに大波の渦に飲み込まれ一たまりもない。

波頭はさらに山に向かって這いあがりながら、轟音とともに木々を次々となぎ倒していく。

海全体が大きく膨れ上がり、ごうごうと唸りながらいまにも山上にまで襲いかかってきそうな勢いであった。

山上から、道三らは一部始終を見ていた。

津波の到来も一瞬なら、去っていくのも一瞬であった。

破壊された海岸沿いには先ほどまでの村の面影はまったくなかった。

瞬く間に大波がすべてを押し流し、抉り取るように村中の家屋を飲み込んでいった。

道三の足下で震えている少年の顔には、もはや死相はなかった。

津波から逃れた村人達の顔からも、おぞましい死相がすべて嘘のように消え去っていた。

このときの大津波は大地震によるもので、京都や近畿周辺にも甚大な被害を及ぼしたものであったという。


その後名医道三は、戦国の世を悠々と生き延びて文禄四年(一五九五)に逝去したが、八十八歳の長寿であった。















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ラベル:名医伝
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2016年04月25日

中国の詩人「王維」や「唐詩選掌故」で思い出すこと

中国の詩人:「王維」と「大田南畝」

始めて漢詩というものに触れたのは、何時の頃であったろうか。

その最初に知ったのが、中国の詩人「王維」が詠んだ漢詩『鹿柴』であった。

短い漢詩であったが、これには強烈な印象が残った記憶がある。

この漢詩を読んだとき、そこから湧き上がる自然の情景が鮮烈に想い浮かんできたというわけである。


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(鹿柴:書き下し)
「空山人を見ず

但人語の響きを聞くのみ

返景深林に入り

復た照らす青苔の上 」


(意訳:)
人気のない寂しい山では人の姿が見られなくとも

ただどこからか人の声だけが響いてくる

夕日が深い林の中に差し込んできて

また青い苔の上を照らしている


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また同様に、中国の詩人杜牧が詠んだ「山行」という漢詩も思い出す。


(山行:書き下し)
遠く寒山に上れば、石径斜めなり

白雲生ずる処人家有り

車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す、楓林の晩(くれ)

霜葉は、二月の花より紅なり


(意訳:)
遠くの寒々とした山に登ると、石混じりの道が斜めに続いている

白い雲が湧き出るような高地でも人家がある

思わず車を止めて、何気なく楓の林の夕暮れを愛でている

霜で赤くなった紅葉は、二月に咲く桃の花よりもさらに紅いではないか




さらに
ここで思い出したのが、江戸時代の大田南畝の狂歌である。

狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られるし有名な短歌の本歌取りの手法を用いたものがあるが、大田南畝の狂歌というと漢詩調である。

彼の作品に『唐詩選掌故』をもじった『通詩選笑知』というのがあるのだが、ここでは格調高い『唐詩選』の原文と対比して見ると抱腹絶倒する内容となっているわけで、あえてここに紹介する。


〔漢詩原文:書き下し〕
鹿柴 裴廸
 
日夕寒山を見る

便ち獨往の客と爲る 

松林の事を知らず

但、麕かの跡有り


(意訳:)
夕方、さむざむとした山を眺めている

そこで、世を避けた独り住まいの身となった

松林の様子がどうなっているのかは知らない

ただ鹿のとおった足跡がある


〔大田南畝の狂歌:屁臭

一夕燗曝を飲む

便ち腹張の客と為る

透屁の音を知らず

但、遺矢の跡有り


(注:)
燗曝(かんざまし)

透屁(すかしべ)

遺矢(うんこ)













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2016年01月09日

流浪の民とジプシー音楽の夕べ

ロシア民謡の夕べ


「二つのギター」という作者不詳のロシア民謡があるが、バンドやその編曲によってそれぞれ曲想や趣が異なってくる。

テンポも違うしずいぶんとイメージそのものが変わってくる。

今回、「二つのギター」をいくつか選んでみた。





オーソドックスなロシア民謡:「二つのギター」









演奏:ザ・ムスタングの 「二つのギター」





北欧のバンドではザ・スプートニクスのものがよく知られているが、個人的にはこのムスタングのものが好きである。





 


Two Guitars - Russian Gypsy Music








演奏と唄:ユル・ブリンナー 「二つのギター」






ブリンナーの「二つのギター」には別に古典的な曲調のものもあるが、これがお勧めである。

彼は映画俳優になる以前は、13歳からパリでジプシー音楽をギター演奏し自らも歌っていた。


















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ラベル:ジプシー音楽
posted by モモちゃん at 18:14| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月18日

曹操の典医華佗はなぜ殺害されてしまったのか?

お抱え医師という制度をご存知であろうか?

侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師をいう。

昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にその時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味するものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人はこのような掛かり付けというより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。

と、堅苦しい感じで紹介すると息苦しくなるが、庶民にはまったく関係のないことだけに何と言うこともない。

話は単純である。王室直属の専属医師団のことである。

チャングムやホジュンのテレビドラマを観ておられたら、その辺りはご存知であろうと思う。

日本の天皇家の侍医団の場合は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる(体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっていた。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高かった。

現代の皇室の医師団も同様である。


侍医ということでまず思い出すのは曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門である。

初代道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療して効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられた。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我 が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。

曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。

文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害を命ぜられたが、このとき玄朔は秀次の侍医として側に仕えていたということで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くことになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日で治癒された。

このとき玄朔は天皇に灸治療を勧めたが、その先例がなくついに許可されなかったという経緯があった。


戦国の大名で、侍医集団の充実にもっとも力を入れたのが徳川家康であった。

彼は多少太り気味ではあったが、日ごろから養生に努め健康管理には殊のほか注意を払っていた。

家康自身が医術・本草学に詳しかったことは当時のいくつかの記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師までも召し抱えていた。

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さらに家康は、天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一流の京の医師を揃えていたし、他に旧武田家に仕えていた板坂卜斉、片山宗哲などの名だたる名医が侍医として傍近くに控えていた。

家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの医師に対しては常に新しい医学知識の習得に努めさせていた。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研究するといった家康の積極的な対応にみることができる。

たとえば朝鮮の『東医宝鑑』を入手すると直ちに、侍医らに読ませていることでも分かる。

そうした海外の医学情報にも家康はことのほか敏感であったわけである。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで医家として仕えることを命じた。

ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出るわけがない。

なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子弟が目立ちはじめたのである。

事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事である。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった思い切った対応策を講じた。

奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕するという決まりであった。

毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであるが、実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いということで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、頭を低く垂れて前傾したままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。

このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の伝統的診察法であったが、実際のところどれほど機能したか疑わしい。


これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持っていたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。

奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあって幕府の医療行政を統括した。

これを医家の名門半井・今大路両家が世襲したのである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられてい たし、アルバイト収入が莫大であった。

慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも千両が届けられ、つごう二千両が薬礼となった。
これが先例となって、これ以降奥医師の薬礼としては千両が通例となった。

千両とは莫大な金額である。

当時の1両の貨幣価値はというと、一両あれば普通の一家が1ヶ月間ゆったりと生活できたということから考えればいかに莫大な礼金であるかが分かるはずである。


このように侍医の待遇がよいのは、その責任の重大さと無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の眼疾の治療に失敗してしまいそのときの医師団は即刻処刑されたのだという。

まさに命懸けの職責であったのである。


魏の曹操は、頭痛や眩暈(めまい)の持病で苦しんでいたが、天下の名医として知られる華佗を典医として傍に置いていた。

華佗は巧みな外科手術による治療や内臓疾患の治療に優れ、薬物に精通した名医としても有名であった。

華佗は曹操を診察して、持病の頭痛や眩暈は鍼治療で一時的に解消できるが、それだけでは根治させることはできないと曹操に伝えた。

根治させるには「麻沸散」という麻酔薬で麻酔をかけ頭部を切開手術しなければならないと言うと、猜疑心の強い曹操は手術にかこつけて自分を殺害するものと疑ったという。

それでなくとも当時は典医といっても医者の身分は低く、華佗は士大夫としての扱いもされなかったので不満が募っていった。

華佗は典医という窮屈な状況を嫌っていたわけで、あるとき偽って故郷へ帰って曹操のもとへは戻ろうとしなかった。

このことに曹操はひどく激怒して、ついには彼を投獄すると終には殺してしまった。

周囲から華佗の命乞いがあっても曹操は「鼠一匹の命に何のことがある」といって怒りにまかせて殺害してしまうのだが、曹操の持病の頭痛や眩暈を治せるのは華佗の鍼の技量しかないことに後から気が付く。

さらにには曹操の庶子で才気煥発な曹沖が病で倒れた時、適切に治療が出来る医者がおらず夭折させてしまった事を後々まで後悔することとなる。





















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    2015年06月06日

    現代人には理解しがたい昔話の筋書き

    何やら裏があるような昔話

    いじめられていたカメを助けた「うらしまたろう」は、その助けたカメに連れられて竜宮城に招かれます。

    竜宮城には表門と裏門とがあったのですが、「うらしまたろう」はこのときどちらから入城したのかご存知でしょうか?

    そうです、「うらしまたろう」は表門から入城したのです。


    最初、「うらしまたろう」は裏門から入城しようとしたのですが、入ろうとしたら門の扉がいきなり閉じてしまったのです。

    そこで「うらしまたろう」はあらためて表門へと回ったのです。

    表門には門番がいて、「うらしまたろう」の顔を見るとにやりと笑って小さな声で一言いいました。

    「うらしまったろう?」

    そうです、「うらしまたろう」は、「裏閉まったろう?」と門番に言われてしまったのです。





    ◆DW2. 浦島太郎 (唱歌)








    浦島太郎編

     















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      ラベル:浦島伝説
      posted by モモちゃん at 10:56| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする