2017年04月23日

ドイツのノイシュヴァンシュタイン城を見学する!

おとぎ話の城を空から訪問!

ドイツ南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方にあるノイシュヴァンシュタイン城をご存知であろうか。

バイエルン王ルートヴィヒ2世によって19世紀に建築された城で、オーストリア国境に近いオストアルゴイ郡フュッセンの東南東方向(直線距離にて約4km)に位置し、近隣にはルートヴィヒ2世が幼少時代を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城がある。

ノイシュヴァンシュタイン城はかって同地方にあったシュヴァンシュタイン城に由来しており、1890年になってから付けられた名称である。(「ノイ (Neu)」はドイツ語で「新しい」の意)

この城は軍事的な目的の要塞ではなくて、意外にもルートヴィヒ2世自身のロマンティックな趣味のためだけに建設されたものとされている。

そのこともあって、この特に優雅で美しいノイシュヴァンシュタイン城は、おとぎ話のお城として世界中に知られている。




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2017年04月02日

東洋史に埋もれていた名医伝承記録

東洋医学名医伝・筑後弁バージョン

あるとき一人の老人が通り雨におうて人家の軒下で雨宿ばしとると、そんよちゃりしかけとるひゅうなか家の中から女のすすり泣く声が聞こえてきたげなたい。

なかば覗いてみっと、母親が子供の枕元でうずくまるごとして泣きよるじゃなかね。老人は思わず声ば掛けたげな。

外から突然声のしたけん女は驚いて泣きはらしとった顔ば上げたげな。

老人は静かに語りかけたとげな。そん優しか老人の言葉に、母親は気ば許して事の次第ば話はじめたげなたい。

母親の話によっと、子供の病状が一昨日より急に悪うなって、診てもろっとた医者はもう手の施しようがなかち言うて帰ってしもうたげな。

子供の意識は無く命はいくばくもなかごたる様子で、もう死を待つばっかりちゆうて母親は泣き崩れたげな。

老人は気の毒に思うて、オリは医術の心得のあるとばってん、こんまま見過ごすとはどげんしてん心残りじゃけん、オリにそん子供の脈ば診さしてもらえんじゃろかち言うたげな。


老人は一通り子の脈ば診ると、母親に父親の所在ば尋ねたげな。こん子の父親は既に亡く、いままで母一人子一人で暮らしてきたげなたい。

老人はその答えに頷くとこげん言うたげな。「やっぱしこん子の命は絶えそうばい。そもそもの原因はこん子が母親の陰の気ばっかし受けて育てられとって、父親の陽の気に包まれんやったとがいかんとたい。

そしけん体内の陰陽の調和のとれんごとなったとばい。一刻の猶予もなか」

そこで老人は母親に起死回生の妙法ば教えたげな。母親は子供の命が助かるかもしれんち知って、老人の言うたごと村中にある若衆宿さん直にだだ走りで走っていったげな。

そこん家では元気盛りの若者が幾人も泊り込んで共同生活ばしよったとばってん、そげん広ろうもなか部屋の中は若か男たちの熱気で溢れかえっとったげな。

母親はその部屋さん駆け込むと、若者たちが遊びよった将棋ん駒ばひったくるごとして掴み取ると、だだ走りで家に帰ったげな。

そん将棋の駒ば土瓶で煎じて子供に飲ませたところ、生死ば彷徨っとった子供は奇蹟的回復をみたげなたい。──

ここに登場する老人こそ、朝鮮医学の集大成ちいわれとる医学書『東医宝鑑』ば17世紀初頭に編纂した名医許浚その人じゃったげなたい。

そん許浚ちいう人は家庭的にはいっちょん恵まれとらんやったけん、もともとよか環境で育ったわけじゃなかったとげなたい。

いわゆる妾腹の子で、苦学して医ば志したげな。逸話にもそげんか許浚自身の幼少時の境涯が反映されとるとかも知れんたいね。

こん話はなんか馬鹿馬鹿しか、荒唐無稽の作り話じゃなかかと思われる向きもあるやろうたい。

ばってんこれによう似とる名医の話が、後漢時代に活躍したちいう華佗の伝の中にもあるとたい。

東陽県の陳叔山の一歳の餓鬼が下痢が止まらんごとなって、だんだんに衰弱していったこつのあったげな。

方々手ば尽くしたばってんどげんしてん病状が良くならんけん親父が心配して、名医ち名前の聞こえた華佗のもとさん遠路訪ねてきたとげなたい。

華佗は一通り病状と経過ば聞くげっと、親父に向かって詳しか説明ば始めたげな。「そん子の母親は次の子ばすでに妊娠しとるはずばい。そしけん母乳中にもともと含まれとるはずの母親の陽の気が、はらん胎児ば養うとにばっか吸収されてしもうて、そん母乳は子供ば養うとには不十分な冷たか陰の気にばっかし偏ってしもうとるとたい。
そしけんそん子がいまんごつ陰の気の充満した冷たか母乳ばっかし飲みよるげっと、こん病は回復せんじゃろう」と、明解な病理、病機ば示したげなたい。


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中国には「名医、棺を返す」ち言うごたる名言のあるげなたい。

これは名医ちゅうもんは死人さえも生き返らせるちゅうごたるニュアンスのものかと思うばってん、扁鵲がそげんやろうし、唐時代の孫思邈(五八一〜六八二)の伝にも、これとぴったっと当てはまるごたる話が残されとるとばい。

孫思邈はある日、往診の帰りに棺ば担いでいきよる行列と遭遇したげな。

ようっと見るとその棺の底からはぽとぽと血が滴って落ちとるじゃなかね。

不審に思うた孫思邈は行列に泣きながら付いていきよる老婆に、いつ亡くなったつか尋ねたげな。

孫思邈が医者ちゅうこつが分かると、老婆は一人娘が難産で二晩苦しんで出産でけんで数時間前に死んでしもうたちゆうて、泣きながらどげんかして生き返らせてくれと懇願してきたげなたい。

棺の蓋ば開けさすっと、中の若か婦人はもう血の気の退いて顔色は蝋のごたったげな。脈ばとってみると、ちょこっと触れてくるじゃなかね。

孫思邈はまだ望みがあるち思うて、素早く鍼ば取り出し経穴を定めて打ったげなたい。

しばらくすると妊婦の気が動いて、顔に血の気がさし生気が蘇ってきたとげなたい。

脈が強よなってくなると、突然妊婦は産気づいてきて棺の中から「オギャア、オギャア」ちゆう産声が聞こえ、そんまま赤ん坊が生まれたとげな。


こん成り行きには、周りの者も驚き大歓声ば上げたげなたい。何と名医孫思邈は鍼一本で母子二人の命ば救ったとばい。

こげん孫思邈は名医としての誉れ高く、今でん中国では仁術ば身をもって示した医者として尊敬ば集めとるとげなたい。









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タグ:中国文化圏
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2017年03月05日

古代の異種人類の頭蓋骨の謎に迫る!

人類によく似た太古の頭蓋骨?

今世紀になってようやく謎の「パラカスの頭蓋骨」のDNA解析結果が出たようである。

パラカスの頭蓋骨発見の経緯はというと、1928年、ペルー南岸部ピスコ近郊の砂漠地帯、パラカスにおいて、考古学者フリオ・テーヨ(1880〜1974年)が巨大な墓地遺跡から数多くの奇妙な頭蓋骨を発見したことから広く知られることとなった。

それらの頭蓋骨は太古のもので、3000年ほど前の人間のものと考えられており、その形状は縦方向に長く引き伸ばされた奇妙な形をしていた。

ここでは、そのDNA解析結果の解説動画に注目したい。


691B+161 長頭人間は人間ではなかった(DNAの検査結果)Long









Enormous Cone Head Of Paracas Peru: Lost Human History Revealed



パラカスの頭蓋骨の動画を観るとやはりその外観からして気になる点がある。


それは人類にあるはずの頭蓋骨表面部の縫合といわれるものの形態が異なっていることである。


人類の頭蓋骨の頭頂部分の骨は頭頂骨といわれ、通常解剖学的には左右2個で構成されている。


その左右2個で構成されている頭頂骨の接合部には、縫い目跡のような縫合というはっきりした線状のものがある。


解剖学的には、矢状縫合Sutura sagittalis, Pfeilnahtといわれる。



これがパラカスの頭蓋骨にはまったく見られないのだ。

どうみても頭頂にはそうした縫合のない、のっぺりとした頭頂骨にしか見えない。


これが不可解であって、この頭蓋骨が人類のものとは異なっている外観上の特異点である。




参考文献:


「Rauber-Kopsch解剖学」のページより引用
http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/Rauber-Kopsch/1-14.html


全体としての頭蓋

 頭蓋には頭蓋函と顔面部とが区別される.前者は前頭骨・頭頂骨(2個)・後頭骨・蝶形骨・側頭骨(2個)・篩骨の8個の骨で構成されている.そのうち初めの3つは扁平骨であって,それぞれに,緻密骨質でできた外板Lamina externaおよび内板Lamina internaがあって,両板のあいだには海綿質がある.この海綿質は頭蓋函ではとくに板間層Diploe とよばれ(図178,263)その中を板間管Canales diploiciという広い静脈管が通っている.頭蓋の外面をおおう骨膜を頭蓋骨膜Pericraniumという.後頭骨・蝶形骨・側頭骨・篩骨・前頭骨の一部は頭蓋底Basis cranii,Schadelbasisをつくる.















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タグ:解剖学
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2016年11月24日

ペリー提督に淫蕩といわれた日本人の悪習とは?

かって日本人は淫蕩であったそうな

ご存知の方は極めて少ないと思うのだか、日本は古代から明治期の辺りまでは混浴がごく普通の当たり前の習俗風景があった。

江戸時代の銭湯も簡単な仕切り程度の、ほぼ混浴の状態が庶民の生活の中に自然なものとして溶け込んでいた。

とくに地方の温泉地などはその傾向が明治以降も強く残っていて、大分県では昭和30年代までは混浴の温泉が普通にあった記憶がある。

そうした従来からの伝統的な生活習慣があったことから、地元の人たちには混浴そのものには何の違和感もなかったのである。

ところが幕末以降の西洋文明が流れ込むと、こうした習俗にことさら批判の目が向けられだした。

ついには銭湯での混浴が全面的に禁じられたのだ。


日本人のこうした男女混浴の習俗については、幕末に来航した有名なペリー提督の遠征記にも触れられている。

ペリー提督「日本遠征記」には、挿絵付で嫌悪感を込めて次のように記している。

「(日本人の)男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」と。

ペリー提督が、混浴を目にして日本人は淫蕩な人民であると断じてしまうところが欧米人らしいところではあるが、その先入観というか、当時の大らかな日本人の国民性を削ぎ落とすようなものの見方にはいささか抵抗を感じないでもない。

とにもかくにも、彼はここでははっきりと混浴を淫蕩な行為とみなしているわけである。

入浴自体は何も淫蕩ではあるまいに、ただ男女が混浴状態にあること自体がとにかく淫蕩という認識である。

しかしながら、何も当時の日本人が混浴までして自ら淫蕩でありたいと望んでいたわけではない。

ましてや、当時の人々は混浴を淫蕩なるものとしては意識さえもしてはいなかった。

しかもすべての日本人が混浴していたというわけでもない。

もとより都市部の余裕のある暮らしをしていた人間はこうした習俗には染まらないし、染まる必要もなかった。

何故なら、そういう人間は自宅に自前の風呂の設備があるわけで、その燃料費にも不自由はしないからである。

銭湯などで人前で肌を晒す必要などないのである。

家に風呂などない一般庶民の方が多かった。

淫蕩などと決めつけてしまうのは、貧しい庶民の生活環境をまったく配慮しない一方的なものの見方と言わざるを得ない。

しかも明治期以降の西洋的文明観が、ますますそういう意識を強めていったのである。

文明開化の波にに乗った都市部の文化人が、ひとたび鄙びた温泉地を訪れるとやたら混浴は淫蕩だと言い出す。

結果混浴そのものを法律で禁じ規制した。

その流れのまま、現在では混浴自体ははっきりと公衆浴場条例で規制されてしまっている。


30年以前、九州の温泉地に家族で出かけたとき、地元の共同の温泉場に入ったことがあった。

地元の古くからの施設ということで、外来者は入浴料を随意箱に入れるのだがそこの風呂場に仕切りが一切なかった。

いわゆる伝統的な混浴浴場である。

私と子供たちはそのまま入浴したのだが、混浴の風習を知らない家内はどこかで水着に着替えて後から入ってきた。

水着を着て入浴というのは、何だか変な感じである。

しばらくしてそこへ地元のおじさんがいきなり入ってきたのだけど、水着姿の人間が入浴している姿を見て一瞬驚いたような表情を浮かべてみせた。

おじさんにすれば、「なんじゃ、こりゃあ!」という感じであったろう。

いまでは裸での男女混浴は淫蕩なものという認識と意識とが、わが温泉大国日本では日常的にすっかり定着してしまっているようである。

しかしながら、いつの日か再び混浴が日本の温泉地で復活してくるのかもしれない。

そうした予感がしないでもない。













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タグ:混浴習慣
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2016年09月01日

王様の主治医はどこの誰だか知っていますか?

王様のお抱え医師とは?

侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師をいう。

昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にその時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味するものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人はこのような掛かり付けというより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。

と、堅苦しい感じで紹介すると息苦しくなるが、庶民にはまったく関係のないことだけに何と言うこともない。

話は単純である。王室直属の専属医師団のことである。

チャングムやホジュンの韓国ドラマを観ておられたら、その辺りはご存知であろうと思う。

日本の天皇家の侍医団の場合は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる(体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっていた。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高かった。

現代の皇室の医師団も同様である。


侍医ということでまず思い出すのは中世の曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門である。

初代の道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療して効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられた。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。

曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。

文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害を命ぜられたが、このとき玄朔は秀次の侍医として側に仕えていたということで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くことになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日で治癒された。 


戦国の大名で、こうした侍医集団の充実にもっとも力を入れたのが徳川家康であった。

彼は多少太り気味ではあったが、日ごろから粗食で養生に努め健康管理には殊のほか注意を払っていた。

家康自身が医術・本草学(薬物)に詳しかったことは当時のいくつかの記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師までも傍に召し抱えていた。


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さらに家康は、天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一流の京の医師を揃えていたし、他に旧武田家に仕えていた板坂卜斉、片山宗哲などの名だたる名医が侍医として傍近くに控えていた。

家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの医師に対しては常に新しい医学知識の習得に努めさせていた。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研究するといった家康の積極的な対応にみることができる。

たとえば朝鮮の『東医宝鑑』や中国の「本草綱目」を入手すると直ちに、侍医らに読ませていることでも分かる。

そうした海外の医学情報にも家康はことのほか敏感であったわけである。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで医家として仕えることを命じた。

ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出るわけがない。

なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子弟が目立ちはじめたのである。

事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事である。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった思い切った対応策を講じた。

こうした奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕するという決まりであった。

毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであるが、その様子は実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いということで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、常時頭を低く垂れて前傾したままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。

このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の伝統的診察法であったが、実際のところどれほど機能したか疑わしい。


これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持っていたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。

奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあって幕府の医療行政を統括していた。 

これを医家の名門半井・今大路両家が代々世襲したのである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられていたし、そのアルバイト収入が莫大であった。

慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも治療代として千両が届けられ、つごう二千両が薬礼となった。

これが先例となって、これ以降奥医師の薬礼としては千両が通例となった。

千両とは莫大な金額である。

当時の1両の貨幣価値はというと、一両あれば普通の一家が1ヶ月間ゆったりと生活できたということから考えれば、このときの千両がいかに莫大な礼金であるかが分かるはずである。

このように侍医の待遇がよいのは、その責任の重大さとまったく無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の眼疾の治療に失敗してしまった医師団は即刻処刑されたのだという。

まさに侍医とは、命懸けの職責であったのである。


魏の曹操は、頭痛や眩暈(めまい)の持病で苦しんでいたが、そのこともあって天下の名医として知られる華佗を典医として傍に置いていた。

華佗は巧みな外科手術による治療や内臓疾患の治療を得意とし、多くの薬物に精通した名医としても有名であった。

華佗は曹操を診察して、持病の頭痛や眩暈は鍼治療で一時的に解消できるが、それだけでは根治させることはできないことを曹操に伝えた。

そしてその病を根治させるには「麻沸散」という麻酔薬で麻酔をかけ頭部を切開手術しなければならないと言うと、猜疑心の強い曹操は手術にかこつけて自分を殺害するものと疑った。

それでなくとも当時は典医といっても医者の身分はきわめて低く、華佗は士大夫としての扱いもされなかったことで不満が募っていった。

華佗は典医という窮屈な状況を嫌っていたわけで、妻が病気であると偽って故郷へ帰ってしまい曹操のもとへは戻ろうとしなかった。

このことに曹操はひどく激怒して、ついには彼を捕縛し投獄すると終には華佗を殺してしまった。

周囲から華佗の命乞いがあっても曹操は「鼠一匹の命に何のことがある」といって怒りにまかせて殺害してしまうのだが、曹操の持病の頭痛や眩暈を治せるのは華佗の鍼の技量しかないことに後から気が付く。

さらにには曹操の庶子で才気煥発な曹沖が病で倒れた時、適切に診断治療が出来る医者が傍におらず夭折させてしまった事を後々まで後悔することとなる。














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タグ:御典医
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2016年08月03日

はるか昔の東洋名医伝シリーズ:九州筑後弁

名医伝・筑後弁バージョン

あるとき一人の老人が通り雨におうて人家の軒下で雨宿ばしとると、そんよちゃりしかけとるひゅうなか家の中から女のすすり泣く声が聞こえてきたげなたい。

なかば覗いてみっと、母親が子供の枕元でうずくまるごとして泣きよるじゃなかね。老人は思わず声ば掛けたげな。

外から突然声のしたけん女は驚いて泣きはらしとった顔ば上げたげな。

老人は静かに語りかけたとげな。そん優しか老人の言葉に、母親は気ば許して事の次第ば話はじめたげなたい。

母親の話によっと、子供の病状が一昨日より急に悪うなって、診てもろっとた医者はもう手の施しようがなかち言うて帰ってしもうたげな。

子供の意識は無く命はいくばくもなかごたる様子で、もう死を待つばっかりちゆうて母親は泣き崩れたげな。

老人は気の毒に思うて、オリは医術の心得のあるとばってん、こんまま見過ごすとはどげんしてん心残りじゃけん、オリにそん子供の脈ば診さしてもらえんじゃろかち言うたげな。


老人は一通り子の脈ば診ると、母親に父親の所在ば尋ねたげな。こん子の父親は既に亡く、いままで母一人子一人で暮らしてきたげなたい。

老人はその答えに頷くとこげん言うたげな。「やっぱしこん子の命は絶えそうばい。そもそもの原因はこん子が母親の陰の気ばっかし受けて育てられとって、父親の陽の気に包まれんやったとがいかんとたい。

そしけん体内の陰陽の調和のとれんごとなったとばい。一刻の猶予もなか」

そこで老人は母親に起死回生の妙法ば教えたげな。母親は子供の命が助かるかもしれんち知って、老人の言うたごと村中にある若衆宿さん直にだだ走りで走っていったげな。

そこん家では元気盛りの若者が幾人も泊り込んで共同生活ばしよったとばってん、そげん広ろうもなか部屋の中は若か男たちの熱気で溢れかえっとったげな。

母親はその部屋さん駆け込むと、若者たちが遊びよった将棋ん駒ばひったくるごとして掴み取ると、だだ走りで家に帰ったげな。

そん将棋の駒ば土瓶で煎じて子供に飲ませたところ、生死ば彷徨っとった子供は奇蹟的回復をみたげなたい。──

ここに登場する老人こそ、朝鮮医学の集大成ちいわれとる医学書『東医宝鑑』ば17世紀初頭に編纂した名医許浚その人じゃったげなたい。

そん許浚ちいう人は家庭的にはいっちょん恵まれとらんやったけん、もともとよか環境で育ったわけじゃなかったとげなたい。

いわゆる妾腹の子で、苦学して医ば志したげな。逸話にもそげんか許浚自身の幼少時の境涯が反映されとるとかも知れんたいね。

こん話はなんか馬鹿馬鹿しか、荒唐無稽の作り話じゃなかかと思われる向きもあるやろうたい。

ばってんこれによう似とる名医の話が、後漢時代に活躍したちいう華佗の伝の中にもあるとたい。

東陽県の陳叔山の一歳の餓鬼が下痢が止まらんごとなって、だんだんに衰弱していったこつのあったげな。

方々手ば尽くしたばってんどげんしてん病状が良くならんけん親父が心配して、名医ち名前の聞こえた華佗のもとさん遠路訪ねてきたとげなたい。

華佗は一通り病状と経過ば聞くげっと、親父に向かって詳しか説明ば始めたげな。「そん子の母親は次の子ばすでに妊娠しとるはずばい。そしけん母乳中にもともと含まれとるはずの母親の陽の気が、はらん胎児ば養うとにばっか吸収されてしもうて、そん母乳は子供ば養うとには不十分な冷たか陰の気にばっかし偏ってしもうとるとたい。
そしけんそん子がいまんごつ陰の気の充満した冷たか母乳ばっかし飲みよるげっと、こん病は回復せんじゃろう」と、明解な病理、病機ば示したげなたい。


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中国には「名医、棺を返す」ち言うごたる名言のあるげなたい。

これは名医ちゅうもんは死人さえも生き返らせるちゅうごたるニュアンスのものかと思うばってん、扁鵲がそげんやろうし、唐時代の孫思邈(五八一〜六八二)の伝にも、これとぴったっと当てはまるごたる話が残されとるとばい。

孫思邈はある日、往診の帰りに棺ば担いでいきよる行列と遭遇したげな。

ようっと見るとその棺の底からはぽとぽと血が滴って落ちとるじゃなかね。

不審に思うた孫思邈は行列に泣きながら付いていきよる老婆に、いつ亡くなったつか尋ねたげな。

孫思邈が医者ちゅうこつが分かると、老婆は一人娘が難産で二晩苦しんで出産でけんで数時間前に死んでしもうたちゆうて、泣きながらどげんかして生き返らせてくれと懇願してきたげなたい。

棺の蓋ば開けさすっと、中の若か婦人はもう血の気の退いて顔色は蝋のごたったげな。脈ばとってみると、ちょこっと触れてくるじゃなかね。

孫思邈はまだ望みがあるち思うて、素早く鍼ば取り出し経穴を定めて打ったげなたい。

しばらくすると妊婦の気が動いて、顔に血の気がさし生気が蘇ってきたとげなたい。

脈が強よなってくなると、突然妊婦は産気づいてきて棺の中から「オギャア、オギャア」ちゆう産声が聞こえ、そんまま赤ん坊が生まれたとげな。


こん成り行きには、周りの者も驚き大歓声ば上げたげなたい。何と名医孫思邈は鍼一本で母子二人の命ば救ったとばい。

こげん孫思邈は名医としての誉れ高く、今でん中国では仁術ば身をもって示した医者として尊敬ば集めとるとげなたい。















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2016年07月26日

当ブログで一番読まれた記事を紹介します

当方のブログでもっとも読まれた記事とは?

「死相」とは死期が迫った顔色のことであります。

西洋医学では、ヒポクラテス顔貌(hippocratic face )瀕死顔貌ともいわれますが、それは「鼻はとがり、眼やこめかみはくぼみ、耳は冷たく、収縮し、耳たぶは突き出ている。額の皮膚は硬くてつやがなく、顔色は黄色か黒ずんでいるか、あるいは青白いく鉛色になっている」というもので、中国医学で表現される「死相」というのとものは少しニュアンスが違います。

普通は観相術といった占いの世界で使われる特殊な言葉であって、それ相応の経験がなければそうした顔に表れる変化には気付くことはできないものだとされています。

ということで、昔は易者や医者といった専門的技量をもった者が「死相」を見極めていたということになります。

今回はそうした部類の奇談であります。



戦国の名医曲直瀬道三外伝

戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物に、曲直瀬道三(まなせどうさん)という名医がいた。

幼い時に両親を亡くし姉の下で育てられたこともあり、当初は僧籍に身を置いていたようである。

漢学などの学問に秀でていただけでなく、若いころより医術の道を志すようになっていたが、幸いにも足利学校でさらに専門的な勉学を続けることができた。

当時明国から帰国したばかりの足利学校の教授田代三喜について、最新の李朱・中国医学を学びそれを完璧なまでに習得した。

道三は、「医学は身分・性別・年齢を問わぬ。誰であっても平等に治療せねばならぬ」という、師田代三喜の教えを終生守り医学の研鑽を怠らなかった。

その後、京都を中心に医療活動を始めたが、その卓抜した診断治療によって一躍名医として知られるようになった。

信長や秀吉といった当時の名だたる大名家に重用されただけでなく、格式高い宮中にまで出入りが許されるまでになった。

さらにはその名声を聞いて、曲直瀬道三のもとには入門を希望する俊才が全国から続々と集まってきた。

道三自身はそうした若い門弟を育てることにも力を注ぎ、医学を教習する啓迪塾という私塾も自ら建てるとともに、寸暇を惜しんで後進のために多くの医学書を著述した。

ここで医学を学んだ弟子の数は優に数百人にも及ぶといわれ、我が国の医学中興の祖として大きな足跡を残したことでも知られる。

下の写真は、曲直瀬道三が著した医書『察証辨治啓迪集(外題:啓迪集)』の写本・出典 東京大学附属図書館所蔵 )


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この名医曲直瀬道三には、その診断の巧みさで一度に多くの人命を救ったという逸話が残されている。

それは道三が数人の弟子を連れて諸国を遍歴していたときのことである。
中国地方の大名毛利家での病気治療を無事に終えて、京都に帰還する道中であったともいう。

道三一行がある海岸沿いの小さな漁村に差しかかったとき、一人の少年に出会った。

その少年の顔を見て、道三ははっとした。

その少年の顔色に、はっきりと死相が現れていたからである。

少年の顔色は青白くくすんでいた。
たち振る舞いには特別変わったところはなかったが、道三の目から見ればそれはまさに死期の迫った病人の(証)顔色であった。

道三は不思議に思いつつ、その少年に近づくと親しげに声をかけた。
「この当たりに宿を貸してくれる家はないかのお?」

道三一行は皆剃髪していたので旅の僧侶によく見間違えられる。
老僧然とした道三の顔をしげしげと見つめていたその少年は、微笑みながら答えた。

「それなら、おれのうちに泊まればいいよ」

少年は道三一行を自分の家に案内するという。すかさず弟子の一人が、困惑した表情で道三に近づくと耳元でささやいた。

「先生、きょうの宿は次の宿場町に泊まる手筈にいたしておりましたが」

「いや、今宵はこの子の家にどうしても泊まらなければならぬのじゃ」

道三以外は、だれもこの少年の異変に気づいてはいなかった。

道三は医学書の上だけでなく、常に実際の診療を大事にして弟子を養成していただけに、このような時も医師としての立場を寸刻も忘れなかったのである。

村中に足を踏み入れると、道三は周囲に漂う異様な気を感じとった。

どうしたことか、すれ違う村人の中には少年と同じように顔に死相が現れている者が幾人もみうけられたのである。

道三は、案内された村中の少年の家でも異様な光景を目にした。

人の良さそうなその漁師の父親は、道三一行を家の中へ快く招き入れてくれた。

道三がそれとなく少年の両親や幼い兄弟達の様子をみると、皆その顔に死相が現れていた。

このように人の顔色の変化をみて診断(望診)することは中国から渡来した医術の奥義であって、まさに名医のもっとも優れた技量を示す診断法の一つであった。

当時は、直接脈を診て病状を知る精緻な脈診さえも、そうした高度な診断法には及ばない技量であるとされていた。

道三はいよいよ不審に思って、その少年と家族全員の脈を弟子たちに診(み)させたがいずれも精気が失われようとする死脈そのものであった。

弟子たちはここで始めて道三からこの場の異変を知らされて、驚くと同時に一様に戸惑うばかりであった。

「先生これは一体いかなるわけでございましょう?」

「うむ」

何人もの者が一様に死脈というのは、異様なことで通常は有り得ないことである。

近隣に疫病が流行っている様子はない。

しかも死相、死脈が出ていながら、命いくばくもない重病人のように床に伏せっているわけでもない。

これには道三も考え込んでしまった。

道三はそのまま屋外に出ると、浜辺へとゆっくりと足を進めた。

絶え間なく浜辺にうち寄せる波を一心に見つめていたが、一瞬その道三の心に閃くものがあった。

「もはや猶予はあるまい!」

道三は、眼前の碧い海の彼方を見つめていた。

・・・・・・この場所、この土地の風水そのものに恐ろしい災禍が隠されているようだ。−−−

それは、この異変が天変地異の前触れかもしれぬという、不安とも予感ともつかぬ思いであった。

「身近に予期せぬ危機が迫ってきておる。一刻も早くこの場所を離れなさい」

道三は意を決すると漁師の家族はもとより、村中の者に近くの山へ避難するようにすすめた。

道三の弟子たちは、一斉に外へと走り出すと近隣の村人に危機を知らせて回った。

村中はたちまち騒然となった。

旅医者の狂言として嘲笑する者、怯えてそのまま座り込んでしまう者と、上へ下への大騒ぎとなった。

それでも村人の半数近くは、道三の言葉に従って足早に近くの山へ避難しはじめた。

少年とその家族も半信半疑で道三の言葉に従った。

海辺の村から退避した村人たちは、一様に不安げな面持ちで山の上から真下に見える村の様子を窺っていたが、穏やかな海面や村の眺望には何の変化もなかった。

「あれぇ、波が、波がやってくるよー!」

突然の子供の叫び声に一同は海の彼方に目をやった。

遥か彼方に水平線に黒々とした巨大な波の壁が見えた。

「あれは津波じゃ。大津波じゃ」

悲鳴に近い村人達の声があがった。




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巨大な波柱は恐ろしい早さで真っ直ぐこちらへ近づいてくる。

果たして不気味な海鳴りがしてきたかと思う間もなく、泡立つ大波が周辺の海岸に襲いかかってきた。

海岸沿いの小さな村は一瞬のうちに大波の渦に飲み込まれ一たまりもない。

波頭はさらに山に向かって這いあがりながら、轟音とともに木々を次々となぎ倒していく。

海全体が大きく膨れ上がり、ごうごうと唸りながらいまにも山上にまで襲いかかってきそうな勢いであった。

山上から、道三らは一部始終を見ていた。

津波の到来も一瞬なら、去っていくのも一瞬であった。

破壊された海岸沿いには先ほどまでの村の面影はまったくなかった。

瞬く間に大波がすべてを押し流し、抉り取るように村中の家屋を飲み込んでいった。

道三の足下で震えている少年の顔には、もはや死相はなかった。

津波から逃れた村人達の顔からも、おぞましい死相がすべて嘘のように消え去っていた。

このときの大津波は大地震によるもので、京都や近畿周辺にも甚大な被害を及ぼしたものであったという。


その後名医道三は、戦国の世を悠々と生き延びて文禄四年(一五九五)に逝去したが、八十八歳の長寿であった。















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タグ:名医伝
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2016年04月25日

中国の詩人「王維」や「唐詩選掌故」で思い出すこと

中国の詩人:「王維」と「大田南畝」

始めて漢詩というものに触れたのは、何時の頃であったろうか。

その最初に知ったのが、中国の詩人「王維」が詠んだ漢詩『鹿柴』であった。

短い漢詩であったが、これには強烈な印象が残った記憶がある。

この漢詩を読んだとき、そこから湧き上がる自然の情景が鮮烈に想い浮かんできたというわけである。


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(鹿柴:書き下し)
「空山人を見ず

但人語の響きを聞くのみ

返景深林に入り

復た照らす青苔の上 」


(意訳:)
人気のない寂しい山では人の姿が見られなくとも

ただどこからか人の声だけが響いてくる

夕日が深い林の中に差し込んできて

また青い苔の上を照らしている


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また同様に、中国の詩人杜牧が詠んだ「山行」という漢詩も思い出す。


(山行:書き下し)
遠く寒山に上れば、石径斜めなり

白雲生ずる処人家有り

車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す、楓林の晩(くれ)

霜葉は、二月の花より紅なり


(意訳:)
遠くの寒々とした山に登ると、石混じりの道が斜めに続いている

白い雲が湧き出るような高地でも人家がある

思わず車を止めて、何気なく楓の林の夕暮れを愛でている

霜で赤くなった紅葉は、二月に咲く桃の花よりもさらに紅いではないか




さらに
ここで思い出したのが、江戸時代の大田南畝の狂歌である。

狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られるし有名な短歌の本歌取りの手法を用いたものがあるが、大田南畝の狂歌というと漢詩調である。

彼の作品に『唐詩選掌故』をもじった『通詩選笑知』というのがあるのだが、ここでは格調高い『唐詩選』の原文と対比して見ると抱腹絶倒する内容となっているわけで、あえてここに紹介する。


〔漢詩原文:書き下し〕
鹿柴 裴廸
 
日夕寒山を見る

便ち獨往の客と爲る 

松林の事を知らず

但、麕かの跡有り


(意訳:)
夕方、さむざむとした山を眺めている

そこで、世を避けた独り住まいの身となった

松林の様子がどうなっているのかは知らない

ただ鹿のとおった足跡がある


〔大田南畝の狂歌:屁臭

一夕燗曝を飲む

便ち腹張の客と為る

透屁の音を知らず

但、遺矢の跡有り


(注:)
燗曝(かんざまし)

透屁(すかしべ)

遺矢(うんこ)













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タグ:王維
posted by モモちゃん at 23:29| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月09日

流浪の民とジプシー音楽の夕べ

ロシア民謡の夕べ


「二つのギター」という作者不詳のロシア民謡があるが、バンドやその編曲によってそれぞれ曲想や趣が異なってくる。

テンポも違うしずいぶんとイメージそのものが変わってくる。

今回、「二つのギター」をいくつか選んでみた。





オーソドックスなロシア民謡:「二つのギター」









演奏:ザ・ムスタングの 「二つのギター」





北欧のバンドではザ・スプートニクスのものがよく知られているが、個人的にはこのムスタングのものが好きである。





 


Two Guitars - Russian Gypsy Music








演奏と唄:ユル・ブリンナー 「二つのギター」






ブリンナーの「二つのギター」には別に古典的な曲調のものもあるが、これがお勧めである。

彼は映画俳優になる以前は、13歳からパリでジプシー音楽をギター演奏し自らも歌っていた。


















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2015年09月18日

曹操の典医華佗はなぜ殺害されてしまったのか?

お抱え医師という制度をご存知であろうか?

侍医とは古くは典薬寮に属し、天皇の脈を診、進薬を掌った医師をいう。

昭和天皇の侍医団の真剣な対応は我々の記憶に新しいが、常にその時代の最高権威の医師と医療技術が投入される体制をも意味するものである。

歴史的にみても大名や身分の高い人はこのような掛かり付けというより専属のお抱え医師団を持っていたわけである。

と、堅苦しい感じで紹介すると息苦しくなるが、庶民にはまったく関係のないことだけに何と言うこともない。

話は単純である。王室直属の専属医師団のことである。

チャングムやホジュンのテレビドラマを観ておられたら、その辺りはご存知であろうと思う。

日本の天皇家の侍医団の場合は日頃から、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、おぬる(体温)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、「おとう (大便)」と 「おじゃじゃ(尿)」を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっていた。

ここには歴史と伝統とに裏打ちされた格式そのものがあるだけに、侍医というものはそれ相応の身分が保証され権威もそれなりに高かった。

現代の皇室の医師団も同様である。


侍医ということでまず思い出すのは曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)であり、その一門である。

桃山時代より江戸時代にかけて宮廷と幕府に仕えた医家の名門である。

初代道三は天文十五年(一五四五)に将軍足利義輝の病を治療して効があり侍医となったが、さらには豊臣家、徳川家、細川家、三好修理、松永弾正、毛利元就など戦国の錚々たる武将に重んぜられた。

それだけでなく医学教育や医書の著述でも大きな功績があり、我 が国の実証医学の先駆けとなった名医であった。

曲直瀬玄朔(二代目道三)も名医の誉れ高く、正親町天皇や式部郷親王、また関白秀次の治療でも効がありその侍医となった。

文禄四年(一五九五)秀次は暴虐の振る舞いで秀吉によって自害を命ぜられたが、このとき玄朔は秀次の侍医として側に仕えていたということで気の毒にも陸奥の国へ流されてしまった。

慶長三年(一五九八)後陽成天皇が病に倒れられ、名のある医家達が治療にあたるが効能なく、ついに玄朔の罪を免じて京へ招くことになった。

玄朔が薬を献じたところたちどころに著効があり、天皇は短時日で治癒された。

このとき玄朔は天皇に灸治療を勧めたが、その先例がなくついに許可されなかったという経緯があった。


戦国の大名で、侍医集団の充実にもっとも力を入れたのが徳川家康であった。

彼は多少太り気味ではあったが、日ごろから養生に努め健康管理には殊のほか注意を払っていた。

家康自身が医術・本草学に詳しかったことは当時のいくつかの記録からも窺えるし、三河にいたころは減慶、長閑という明人医師までも召し抱えていた。

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さらに家康は、天下平定後は久志本左京や半井、曲直瀬、野間、竹田といった一流の京の医師を揃えていたし、他に旧武田家に仕えていた板坂卜斉、片山宗哲などの名だたる名医が侍医として傍近くに控えていた。

家康の場合はただ名医を側近く召し抱えるだけでなく、これらの医師に対しては常に新しい医学知識の習得に努めさせていた。

それは長崎よりいち早く中国や朝鮮の医学書を取り寄せ、自ら研究するといった家康の積極的な対応にみることができる。

たとえば朝鮮の『東医宝鑑』を入手すると直ちに、侍医らに読ませていることでも分かる。

そうした海外の医学情報にも家康はことのほか敏感であったわけである。

家康は最良の医療が受けられることを念頭に、有能な侍医(奥医師)の体制を調えようとして高禄で召し抱え、しかも子々孫々まで医家として仕えることを命じた。

ところが、当然といえば当然のことであるがこの医家の世襲、家禄を継ぐということの弊害が次第に現れてきたのである。

要するにいかに医家の名門とて、そううまく名医がたて続けに出るわけがない。

なかには医者に不向きな者や、見るからに愚鈍の子弟が目立ちはじめたのである。

事は将軍家の健康管理、医療体制の根幹に関わってくる重大事である。

こうなると幕府は家柄に関係なく、腕のよい藩医や町医からも一代限りという条件はあったものの次々に奥医師に抜擢するといった思い切った対応策を講じた。

奥医師といわれる者は二十人前後おり、六人づつ交代で江戸城に出仕し、同時に外科、眼科、鍼医が二人づつ三日ごとに出仕するという決まりであった。

毎朝この八人の医師が総掛かりで将軍を診察(脈診)するのであるが、実におかしなものであった。

通常この診察は午前中御髪番が結髪をしている最中にお脈伺いということで始まるのであるが、医師が二人一組になって左右より将軍の手を取って片方ずつ脈を拝見する。

脈診中は医師は決して顔を上げることはできず、頭を低く垂れて前傾したままへんてこりんな姿勢でおそるおそる行うのである。

このようにして四組の医師の代わる代わる脈診するのが徳川家の伝統的診察法であったが、実際のところどれほど機能したか疑わしい。


これら奥医師は大奥の御台所や側室の定期健康診断も受け持っていたし、二の丸、西の丸にいる世継ぎらを診察してまわった。

奥医師の頂点に立つのが典薬頭であるが、若年寄の支配下にあって幕府の医療行政を統括した。

これを医家の名門半井・今大路両家が世襲したのである。

この下にいる奥医師は二百俵高、御番料二百俵ぐらいの家禄で大した待遇ではなかったが、法眼・法印といった権威が与えられてい たし、アルバイト収入が莫大であった。

慶安三年(一六五〇)正月、奥医師狩野玄竹は幕府の命をうけ老中堀田正盛の急病を治療したが、これを首尾よく全治させて幕府より褒美として千両賜った。

更に堀田家からも千両が届けられ、つごう二千両が薬礼となった。
これが先例となって、これ以降奥医師の薬礼としては千両が通例となった。

千両とは莫大な金額である。

当時の1両の貨幣価値はというと、一両あれば普通の一家が1ヶ月間ゆったりと生活できたということから考えればいかに莫大な礼金であるかが分かるはずである。


このように侍医の待遇がよいのは、その責任の重大さと無縁ではなかった。

かって朝鮮の李朝王朝においては、王の眼疾の治療に失敗してしまいそのときの医師団は即刻処刑されたのだという。

まさに命懸けの職責であったのである。


魏の曹操は、頭痛や眩暈(めまい)の持病で苦しんでいたが、天下の名医として知られる華佗を典医として傍に置いていた。

華佗は巧みな外科手術による治療や内臓疾患の治療に優れ、薬物に精通した名医としても有名であった。

華佗は曹操を診察して、持病の頭痛や眩暈は鍼治療で一時的に解消できるが、それだけでは根治させることはできないと曹操に伝えた。

根治させるには「麻沸散」という麻酔薬で麻酔をかけ頭部を切開手術しなければならないと言うと、猜疑心の強い曹操は手術にかこつけて自分を殺害するものと疑ったという。

それでなくとも当時は典医といっても医者の身分は低く、華佗は士大夫としての扱いもされなかったので不満が募っていった。

華佗は典医という窮屈な状況を嫌っていたわけで、あるとき偽って故郷へ帰って曹操のもとへは戻ろうとしなかった。

このことに曹操はひどく激怒して、ついには彼を投獄すると終には殺してしまった。

周囲から華佗の命乞いがあっても曹操は「鼠一匹の命に何のことがある」といって怒りにまかせて殺害してしまうのだが、曹操の持病の頭痛や眩暈を治せるのは華佗の鍼の技量しかないことに後から気が付く。

さらにには曹操の庶子で才気煥発な曹沖が病で倒れた時、適切に治療が出来る医者がおらず夭折させてしまった事を後々まで後悔することとなる。





















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    タグ:典医
    posted by モモちゃん at 15:43| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2015年06月06日

    現代人には理解しがたい昔話の筋書き

    何やら裏があるような昔話

    いじめられていたカメを助けた「うらしまたろう」は、その助けたカメに連れられて竜宮城に招かれます。

    竜宮城には表門と裏門とがあったのですが、「うらしまたろう」はこのときどちらから入城したのかご存知でしょうか?

    そうです、「うらしまたろう」は表門から入城したのです。


    最初、「うらしまたろう」は裏門から入城しようとしたのですが、入ろうとしたら門の扉がいきなり閉じてしまったのです。

    そこで「うらしまたろう」はあらためて表門へと回ったのです。

    表門には門番がいて、「うらしまたろう」の顔を見るとにやりと笑って小さな声で一言いいました。

    「うらしまったろう?」

    そうです、「うらしまたろう」は、「裏閉まったろう?」と門番に言われてしまったのです。





    ◆DW2. 浦島太郎 (唱歌)








    浦島太郎編

     















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      タグ:浦島伝説
      posted by モモちゃん at 10:56| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

      2015年04月11日

      教科書に載せられない驚愕の世界史に注目する

      削除しておきたいキリスト教文化遺産群とは何か?(89)

      学校では教えられない九州歴史発見シリーズ
      いまさら歴史認識がどうした?

      イエズス会の隠された世界戦略の全貌とは
      大航海時代と侵略の歴史
      「宣教活動→仲介貿易→軍事行動→植民地化」という侵略の図式
      不都合な真実も教えろよ!


      東洋医学史研究会
      宇田明男




      ●大航海時代とアジア侵略の歴史

      15世後半、もしくは16世紀から18世紀にわたる奴隷貿易そのものは、ヨーロッパ、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸の三大陸にまたがる三角貿易によって、欧州に豊富な資源と莫大な利益をもたらすこととなった。

      当初よりこれに積極的に参加した国はポルトガルやスペインであり、これにオランダ、イギリス、フランスが追随していった。

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      大航海の時代に乗り出したヨーロッパ諸国は、各海域で利権を求めて競合し勢力争いが生じだすと、ついにはいわゆる洋上での激しい海戦も勃発する展開となった。

      そこでは常に異教徒の商船が犠牲になったし、ポルトガル船の船上宣教師は「全能の神の御名」により、そうした異教徒への攻撃や海賊行為を祝福する立場にあった。 

      逸早く南米に進出したポルトガル人やスペイン人らは、ブラジル地域の原住民を遊興時の射的として大量虐殺したために一気に人口は激減してしまい、現地の労働力資源が損なわれてしまう結果を招いてしまった。

      これに対してポルトガルは、この深刻な労働力不足を補填する目的でアフリカ(西海岸地域のギニアやアンゴラ)の黒人を中南米に向けて送り出す、いわゆる奴隷貿易を拡大させていったのである。

      スペイン国王もそれに追随して、1501年奴隷輸入について勅令「奴隷貿易権(アシエント)」を発布した。

      奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のガラス製品のビー球や銃と火薬、木綿、ジン(強い酒)といった工業製品を手にしてアフリカに進出すると、これらを黒人奴隷と交換して、さらにこれを南米ブラジルや西インド諸島の植民地に奴隷船で輸送しプランテーションに次々と売り飛ばしていった。

      ここで莫大な転売益を得ると、現地の産物である砂糖、香辛料、綿花、煙草、珊瑚、絹、コーヒーなどを大量に仕入れてヨーロッパ市場に持ち込み、これを高値で売り捌くという当時のビジネスモデルを完成させたというわけである。

      今日の欧州の経済的繁栄の基盤は、こうしたキリスト教圏の奴隷貿易推進によって営々と築かれたものと言っても過言ではあるまい。


      以下、イスラムやインド、東南アジア、東アジア地域を中心に、その侵略の歴史を簡略に紹介する。

      1411年、ポルトガルはイスラム勢力下にあったアフリカ北岸の商業都市セウタを戦略的に陥落させたが、ローマ教皇はこれを称賛すると共に、この土地をキリスト教騎士団の所領としてポルトガルに与えた。

      ポルトガルは、イスラム帝国オスマン=トルコが独占するインドやアジアへの新たな航路を開拓するのと同時に、アフリカ沿岸を次々と攻略していく大規模な戦略に乗り出していった。

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      1455年、教皇ニコラス五世により大勅書ロマネス・ポンティフェクスが発表され、ポルトガルに対しボジャドール岬以南のサラセン人と戦い、これを奴隷とする許可を与えた。

      これによりアフリカへの進出と征服の権利をポルトガルが独占することとなった。
      1486年、ポルトガル王室はリスボン奴隷局を設置すると共に、奴隷商人に貿易許可証を発行する。

      コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493年)に、ローマ教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対してポルトガルと同じ権利「贈与大勅書Inter Caetera」を授与したことにより、両国は「トルデシリャス」条約を締結しそれぞれの領域に排他的独占権を獲得、このとき他のヨーロッパ諸国の侵入は違法とされた。

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      さらにアフリカ南端を超えたキリスト教徒商人は、インド洋海域からアラブ商人をすべて排除するために、強大なポルトガル海軍にアラブの軍船と商船の殲滅を依頼した。

      彼らの武装艦隊は、アラブの商船に遭遇すると次々と攻撃し駆逐していった結果、それまでの貿易を独占してきていたムスリム諸国は一気に衰退し、代わりにポルトガルが瞬く間にインド洋海域の制海権と市場とを掌握してしまった。(1509年)

      インド西海岸中部のゴアは天然の良港であったが、1510年2月、ポルトガル王国のインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが1,000人のポルトガル兵を率いて来航し、この都市を一気に攻略し占領した。

      翌1511年には、イスラム勢力の貿易港だったジャワ、スマトラに進出、マラッカ王国(現マレーシア)を攻撃して全域を占領し要塞を建設、ここをアジア貿易の足掛かりとする。

      1513年、ポルトガルのジョルジェ・アルバレスは海路で中国に到達する。
      1517年には、 ポルトガル船隊はイスラム教圏のペルシャ湾のホルムズを完全に占領する。
      翌1518年、ポルトガルはセイロン島占領。


      1530年、ポルトガル領インドの首府はゴアに移されると、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王がここに駐在することとなる。

      ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれると、多くのポルトガル人をアジア地域に送り出す拠点となった。

      同時に交易や収奪したアジアの富や奴隷をポルトガル本国に移送する際の集散地としてさらに発展し、それらの重要な交易上の中継基地となった。

      1534年には、ここにローマ教会の大司教座が設置され勢力が拡大すると、ローマ教会における全アジアを管轄する中心機関としての役割を担うことになる。

      1539年、ローマ教皇パウルス3世はイエズス会の発足を正式に認可し、翌40年に教皇勅書を出してその活動を公認した。

      ポルトガル国王ジョアン3世はインドをキリスト教化する為に、「片手に剣、もう片手に十字架」を掲げて布教活動を行うローマ教会の神の軍団であるイエズス会に布教を依頼した。

      kakei2それに応えてイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、1542年にゴアに到着した。

      前述したように、この地にはスペイン・ポルトガルから追放された宗教的異端者のユダヤ人が多数逃れてきていたが、イエズス会のザビエルが直接関わった異端審問によって裕福な多くのユダヤ人がこの地で火刑に掛けられ虐殺された。

      異端審問によって処刑されれば、異端者の財産はすべて聖職者や教会に接収されるわけで、中世ヨーロッパでもこの手法で教会は経済的基盤を確立していった。

      ローマ教皇パウル3世は、敬虔な信仰を持つイエズス会のザビエルを聖使に任命し、教皇の代理としての全権を与えるとともに、布教に携わる東方植民地全域の宣教師を監督することを命じていたのである。

      1543年、ポルトガル人3人を乗せた明国船が種子島に漂着し、 1550年にはポルトガル船が平戸に初入港する。


      さらに中国沿岸部のマカオに進出すると、1557年以降は実質的植民地と変わりはない状況となった。

      当初ポルトガル人らは地元役人に違法な賄賂を毎年送って居住していたが、1572年になって明王朝政府との間で毎年500両の地代を支払う契約を交わし、正式にマカオの居住権を確保して中国との生糸取引の拠点とした。

      日本ではアジア全域を統括するフランシスコ・ザビエルが渡来した以降、イエズス会の勢力は年々拡大し続け、少年使節団を派遣した1582年当時には日本国内のキリスト教徒は15万人にも達していた。

      ポルトガル人による東南アジア地域の奴隷貿易は、日本も含めて1555年当時にはすでに売買が始まっていた。

      そのアジア最大の奴隷集散地が中国マカオであり、逸早くここに市場が設けられた。

      makao1

      一方のスペインは1565年になると、いわゆるポルトガル・スペイン間で結ばれていたサラゴサ協定(1529年)の境界線(日本)を越境してフィリピンにも侵入を開始してきた。

      スペイン本国から大砲や小銃で武装した300人の精鋭の軍隊を送り込み瞬く間にルソン島を占拠するとともに、1571年にはマゼランのフィリピン群島の発見を理由にしてフィリピンの領有を宣言した。




      その後フィリピンのマニラでは、イエズス会員アントニオ・セデーニョの指揮によって都市の要塞化がすすめられ、「イントラムロス」と呼ばれるマニラの城壁内地域が整備されるとともに、住民はキリスト教に強制的に改宗させられていった。

      ちなみに、フィリピンという名称は当時のスペイン皇太子フェリペにちなんだ島名として名付けられたものである。






      削除されなければ、この稿続く



      参考資料:引用文献
      「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著 岩波書店,1977
      「インディアスの破壊に ついての簡潔な報告」ラス・カサス著 染田 秀藤訳 岩波書店 1976
      「侵略の世界史」清水馨八郎 祥伝社 1999
      「近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で」池本幸三/布留川正博/下山晃共著 人文書院、1995
      「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」岸田秀著 新書館 2007
      「新・歴史の真実」前野徹著 講談社 2005
      「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
       1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
       2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
       3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
       4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
       5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
       6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
       7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
       8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
       9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
      10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
      11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
      12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

      「キリシタン時代の文化と諸相」 高瀬弘一郎著 八木書店 2001
      「キリシタン時代の貿易と外交」 高瀬弘一郎著 八木書店 2002
      「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
      「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993 号
      「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
      「ヨーロッパ≪普遍≫文明の世界制覇 鉄砲と十字架 」中川洋一郎著 学文社 2003
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」−教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)を もたらしたのではないのか
      「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策−ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって−55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
      「霊操」 イグナチオ・デ・ロヨラ 門脇 佳吉 岩波文庫 1995
      「原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す」丸山雍成編『日本近世の地域社会論』85-137頁所収 服部英雄著
      「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史著 基督教学 = Studium Christianitatis, 2006
      「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著
      「歴史物語アフリカ系アメリカ人」 猿谷要  朝日新聞社
      「日本切支丹宗門史 」〔著〕レオン・パジェス 訳吉田小五郎 岩波書店
      「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
      「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか



















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        2014年10月13日

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          2014年09月03日

          落伍者千々石ミゲルが棄教した理由・島原動乱前夜(41)

          不都合過ぎるキリスト教関連文化遺産とは何か(41)

          九州歴史発見シリーズ
          いまさら歴史認識がどうした?

          何故、千々石ミゲルはイエズス会を脱退し、棄教したのか!
          何故ミゲルは落伍者の烙印が押されたのか?
          人間、ミゲルの苦悩の原点とは?


          東洋医学史研究会・宇田明男



          ●何故、千々石ミゲルは棄教したのか!




          千々石ミゲル自身は、帰国後、司祭になるべく天草の修練院に身を置いていたが、それまでとは様子が変わってきている。


          体調をたびたび崩しただけでなく、修道院での学習に身が入らなくなり、次第にそこでの成績も思わしくないものになってきていた。


          この時期ミゲル自身に大きな変化が出始めていたのだ。


          migeru
          修道院でのミゲルの様子を記録した貴重な史料
          がある。


          遣欧使節を引率し4人のよき理解者だったメスキータ司祭は、1607年のイエズス会総長あての書簡の中で、ミゲルの司祭叙階が遅延されていた事実を伝えている。


          さらにその中で
          「千々石ミゲル以外この理由で脱落した日本人はいない」といい、その後のミゲルの棄教に困惑し「千々石も然るべき時期に応用倫理神学を学んでいたならば、大村のキリシタンにあれほど害を与えることはなかった」と述懐している。
           
          (注)読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」より文献史料引用


          これは帰国後もミゲルの日本人奴隷に対する思いは何ら変わることはなかったということを意味している。


          メスキータ司祭の記した文面からは、ミゲルの信仰心にイエズス会のいう「応用倫理神学」が十分に取り込まれていなかったという事実が示されているだけでなく、結果的にはミゲルはキリスト教の教義に洗脳されなかったということもここでは窺えるわけである。


          その結果ミゲルは、教会から修業成績そのものが不振であるとして司祭叙階のためのマカオへの留学生名簿からは外されてしまった。


          明らかに、ここでミゲルは聖職者としては不適格として切り捨てられたも同然であった。

          ここにきてミゲルに対して何故にそのような手厳しい処遇が取られたのであろうか。


          イエズス会の教義に立てばたとえ同胞の日本人が異教徒として奴隷の境涯に落とされようと、異端者として火刑に処せられようとそれはすべて自らの罪を償うものであって、それらは何ら同情すべきことではないと解釈されるはずのものであった。


          それこそ聖職者として、そこには何の批判も罪悪感も介在するはずもなかった。


          だから当然のこととして、奴隷は需要に応じていくらでも家畜のように売買できるわけであるし、同時にその売買で得た収益から浄財としてその仲介料さえも受け取れるのである。


          つまりそうした教会の宣教事業に心から納得がいかない以上、ミゲルはキリシタンとしてそのままそこに留まることはできなかったということになる。


          それでなくても千々石ミゲルが生まれ育った土地では、それまで熾烈な異教徒(寺社)狩りという弾圧が頻繁に行われていたし、改宗を拒む異教徒は殺戮されたり奴隷として海外に次々と売られていった。


          海外に売られていったそれらの日本人の同胞がどのような扱いを受け、どのような過酷な状況に置かれているのかを知っているのは、使節として渡欧した少年使節らであった。


          そして航海の途上で、転売されていった奴隷のその余りにも悲惨な現地での実態さえもはっきりと目にしたのである。


          そうした状況を知るにしたがって、彼らは一様に動揺せずにはおられなかった。


          ここで重要なことは、彼ら4人がこの悲惨きわまる現状をどのように捉えたかである。


          千々石ミゲルをはじめ、彼らが帰国した後もそのまま聖職者を目指してイエズス会に留まりキリシタンの戒律を守る立場にある以上、それらの事実を不用意に口外できるような状況にはなかった。


          何故ならば一旦イエズス会に入会したということは、彼らは少なくとも教会や組織に対して己の口を固く閉じたまま「屍のごとき」服従に徹しなくてはならないという厳しい制約の下に置かれていた。
          (注・perinde ac cadaver 死人のごとき従順」、教皇及び上長への服従を意味する標語)



          イエズス会内部の組織は、イエズス会総会長を頂点にして―総会長顧問―巡察師―管区長―準管区長―布教長というように、すべて軍隊式の厳格な命令系統が構築されていて、軍務に等しい服従規律を基に教皇や組織の直属の上長に対しても絶対的服従を誓わなければならなかった。


          彼らがキリスト教徒として入会し宣誓した以上、イエズス会の戒律やその服務規程に逆らった言動は一切できないのだ。


          もとより奴隷扱いされている者たちは忌まわしい異教徒であると教えられたはずであるが、彼らは同じ肌をした日本人であった。


          ミゲルは、このまま奴隷貿易の惨状には眼をつぶりすべてを黙して司祭への道を歩み続けるかどうか、自ら幾度も厳しく問うたことであろう。


          目にした真実には一切触れることなく口を閉ざたまま、イエズス会の司祭としてこの先も己自身の前だけを見て生きていけるのかと。


          ミゲルの目の前にはキリシタンとして栄誉ある司祭叙階への輝かしい道が開きつつあったのである。


          千々石ミゲル・キリシタンつまり千々石ミゲル自身がイエズスの戒律のもとに司祭を目指して努力し続けるという当初の目的だけでなく、ここではさらに、日本人異教徒の奴隷化を容認してその仲介取引にも参加する立場にも自らを置くべきか否かの選択と決断とを自ら問うたのであった。


          このときの千々石ミゲルにとって、それは究極の選択であったはずである。


          所詮戦国の世にあって駆逐すべき異教徒に対して、同胞としての罪悪感や同情心をいささかも持つ必要などはないと、幾度となく自分に言い聞かせてきたことであろう。


          キリスト教の元ではいかなる場合であろうと、教会の方針であれば躊躇うことなくすべての忌まわしい異教徒は滅ぼさなくてはならない存在でしかなかった。


          「あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。」(旧約聖書・申命記・7章16節)と憐憫の情を捨て去ることを教えられたはずである。


          さらには
          「だれも、二人の主人に仕える事は出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を崇拝し他方を軽蔑するか、あなた方は、神と富(悪魔、拝金、強欲)の両方に仕える事はできない。」『新約聖書マタイによる福音書、第6章24節・ルカによる福音書、第16章13節』と厳しい宗教的究極の選択と峻別についてさえもすでに教えられているではないか。



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          ましてやそのようなことにこだわっていたのでは、この先司教となってもまともに布教活動に邁進できるはずもなかった。


          ミゲルの成績不振や迷いは、すべてここに起因していた。


          結果的にはそのような葛藤を乗り越えられるほどに、追い詰められたミゲル自身のキリシタンとしての内なる信仰心は強靭ではなかった。


          そうであればもはや千々石ミゲルには棄教という手段しか選択の余地はなかった。


          このようにして四人の少年使節の中でただ一人、内面的苦悩を抱えたままミゲルだけが司祭への道を断つこととなった。


          それが記録にある
          「伴天連を少(すこし)うらむる子細有て寺を出る」(「伴天連記」)と無関係ではないはずである。


          ミゲル自信が抱え込んだそうした信仰に関わる試練は、彼にとっては余りににも過酷であって、そこにたとえ「うらむる」心情が生じたとしてもおかしくはなかったことであろう。


          教会にとどまる限り、ミゲルの人間としての苦渋はいつまでも続くのである。


          そして千々石ミゲルは、ついに1603年にイエズス会を脱会することを自ら決断する。


          ミゲルは教会内の重大な戒律を犯したことになる。

          襲撃される3年前のことであった。




          削除されなければこの稿続く




           
          (注:3)読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」より文献史料引用



          参考資料:
          「デ・サンデ天正遣欧使節記」E・デ・サンデ:著, 泉井 久之助:他訳, 長澤 信壽:他訳 発行:雄松堂書店
          「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
          「キリシタンの世紀」 高瀬弘一郎 岩波書店 1993
          「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
           1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
           2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
           3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
           4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
           5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
           6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
           7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
           8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
           9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
          10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
          11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
          12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)
          「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
          「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
          「GHQ焚書図書開封」西尾 幹二 (著)  徳間書店 2008
          「近代資本主義の成立と奴隷貿易」西山俊彦 カトリック社会問題研究所「福音と社会」2003年 10月31日 210号 掲載 第1回 課題のありか カトリック教会は双方に深くかかわって来たのではないのか
          −教皇文書と新大陸での実態の吟味(2)−4月30日 213号 第4回 黒人奴隷貿易が産業革命を惹き起こし、先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)をもたらしたのではないのか
















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            posted by モモちゃん at 10:02| 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

            2014年06月19日

            天草島原の大乱はいかに隠蔽されたのか(1)

            島原天草の乱は一揆ではなかった!?(1)

            九州歴史発見シリーズ
            いまさら歴史認識がどうした?

            国内最大の内乱が、西洋史観で百姓一揆にすり返られた?
            強固な宗教組織コンフラリア(傭兵部隊)が果たしたもの
            彼らはキリシタン王国建設を目指した
            貧農3万7千人が幕府軍によって虐殺された!

            東洋医学史研 究会
            宇田明男


            かって天草島原地方を訪れたとき、そして映画「魔界転生」を観たとき、それぞれに言い知れぬ感慨を覚えた。
            歴史教科書では決して書かれることのない真実と、先人たちの複雑に絡んだ思惑やその壮絶な戦闘の様相を今回シリーズ物として紹介したい。


            ●天草・島原の反乱は百姓一揆なのか?!


            天正遣欧少年使節として渡航した千々石ミゲルの死から6年後、寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原半島の天草を中心にして領民が一斉に蜂起し原城跡(長崎県南有馬町)に籠城した。
            いわゆるこれが、定説では日本史上最大の一揆とされる天草・島原の乱である。


            3万7千人規模の反乱勢に対して12万5千人もの幕府側の大軍がこの原城を取り囲み、3ヶ月以上にわたって激戦が続くこととなる。


            結果的には、この大乱の戦死者数は反乱勢側、幕府側双方合わせて4万5千人にものぼり、反乱勢側の3万7千人は投降した山田右衛門作一人を残して全滅させられた。

            反乱勢は皆殺しであった。



            地理的にも広範囲の地域から反乱勢は続々と参集して来た。

            その主力部隊は天草勢であり島原勢であった。
            このとき海で隔てられた異なる領国でありながら、天草、島原の双方の領民同士が談合して反乱を企てられたのも同じキリシタン同士であったからである。


            島原天草の乱は貧農による百姓一揆だというのが定説である。
            ここで一揆といっても近隣の数ヵ村とか郡単位の小さな規模ではない、領国を超えての大規模な決起であった。


            一揆とされるのはそれらの領国を差配する大名の過酷な年貢取立てが直接の反乱のきっかけになったということから、そのように評価されているわけである。


            連携した作戦行動が計画的に取られているのに、どうしてこれがそのまま百姓一揆だといえるのであろうか。
            百姓一揆ということであれば蜂起と同時に忽ち領主に鎮圧されてしまう部類のものであろう。
            この反乱は、どうみてもムシロ旗、竹やりの百姓一揆とは様相が異なるものである。


            とにかく勃発直後に鎮圧すべく押し寄せた田舎大名とはいえ藩兵である討伐軍を逆に蹴散らしてしまったわけだから、その戦闘能力からしてここは貧農民の一揆扱いしたのでは余りにも不都合過ぎるであろう。


            通常であれば正規軍でさえ歯が立たず、逆に追い散らされてしまうような騒乱は百姓一揆とは言い難いものである。
            戦力が拮抗してしているのであれば、少なくとも双方とも正規軍としての体裁を備えた者同士の戦でなくてはなるまい。


            そう考えると一揆という認識、もしくは歴史的評価そのものは明治以降の歪められた西洋史観そのものであって、実際には天草島原を中心にした未曾有の大乱というべきものである。


            百姓一揆という以上その主体となるのはどこまでも苛政に虐げられた貧農民であるはずであって、その実態は筵旗に竹槍をもって必死に戦う姿がそこになくてはなるまい。

            そうでなくては百姓一揆というには不都合であろう。


            であるならばこの天草・島原の反乱の規模をして、頭から一揆と決め付けてしまうこと自体どこかおかしいのではないかということになってくる。


            そもそもこの大乱が百姓一揆であるというのであれば、何故にこの一揆とやらは短時日で武力制圧できなかったのか。
            貧農といいながら、実際には一揆勢が大量の鉄砲で武装していただけでなくその操作に熟練していたのは何故なのか。


            天草四郎や反乱軍の頭目らの中心勢力は浪人であったというが、そうした武士団が先頭に立って反乱勢を指揮していたというのは一体どういうことなのか。


            しかもその戦闘が幕府側の攻撃でも容易に鎮圧できず3箇月間ものあいだ激しい攻防が続いたのであれば、もはやこれは百姓一揆の範疇には入らぬのではないのか。
            そうした不可解さと歴史認識そのものは、一体どう説明できるのであろうか。




            ●カルト集団・コンフラリア・傭兵組織が果たしたもの


            天草はかってイエズス会のルイス・デ・アルメイダ神父が布教した土地であり、元はキリシタン大名・小西行長の領地でもあったが、後に寺沢広高が入部し、次代の堅高の時代までは島原同様の圧政と熾烈なキリシタン弾圧が続いていた土地であった。


            島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で、領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封されその後は松倉重政が入部していた。


            重政も同様に厳しいキリシタン弾圧政策を行い幕府に石高を過大に申告し年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタン領民に対し残忍な拷問・処刑を繰り返していた。


            こうした領民への過酷な圧制とキリシタン弾圧が反乱のきっかけであるとされるが、それは後から付けられたレッテルであってこの反乱そのものは早くから組織的に準備され画策されていたと見るべきである。
            この計画実行された大乱の本当の原因はその背景が複雑であって、これを1つに絞り込んで断定することは難しいように思える。


            領主による圧制や厳しい宗教弾圧があったことは確かであろうが、それはこの地域だけに限られたことではなかった。
            当時の幕府のキリシタン禁令そのものは全国津々浦々に及んだもので、この地域だけが特別に厳しいものであったとはいえない。


            また同様にそうした幕府の施政そのものに最初から不満があって反発したという流れも特定できない。
            むしろ反乱勢にキリシタン信徒が多かったからといって、どこまで宗教的な理由が絡んでいたのか突き詰めるのも難しいとされる。

            何故なのか?


            ただし、反乱の規模からみてもとにかくこの地域には、組織的に連携した重装備の反乱が蜂起できる条件がすべて揃っていたということだけはいえるのではないか。


            先に紹介したペドロ・デ・ラ・クルスの1599年2月25日付書簡にあるように当初よりこの天草・島原の地はイエズス会の日本侵略の戦略的拠点として目されており、常に重点的に布教活動が成されてきていた。
            ここでは強固な宗教的組織造りがその特徴の一つであった。


            天草や島原は百年近くキリシタンの宣教活動が続けられてきた歴史的背景を持った特殊な地域であり、村々を単位にしてキリシタン同士の信仰に直結した連携組織もその間に各地域に出来上がっていった。


            それはイエズス会によって作られていた特異な組織体でコンフラリヤ(Confraria de Misericordia:信徒集団組織)といわれるものであり、反乱の際にもこれがもっとも重要な役割を果たしたものである。


            伝統的コンフラリヤはキリシタンであった旧有馬氏の家臣や小西、加藤の遺臣らにそのまま引継がれ組織化されていた秘密結社ともいうべき連携体であったのだ。

            いうなれば、これこそがカルト集団である。


            領民に対してのキリシタン教化だけでなく組織的な掟による洗脳工作によって、村落内のキリシタン信徒の連携が徐々に強化されていった。


            反乱勃発時も国境を越えて一斉蜂起するなど、瞬く間に反乱勢の規模が拡大していった経緯をみてもその隠された実態が窺える。



            この稿続く





            参考資料:
            「近代資本主義の成立と 奴隷貿易―――― A 教皇文書と新大陸での実態の吟味 カトリック教会は奴隷貿易を容認したのではないのか」 西山俊彦 2003 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 211
            「近代資本主義の成立と奴隷貿易―――― B 教皇文書と新大陸での実態の吟味(2) キリスト教化は奴隷化の方便ではなかったか」 西山 俊彦著 2004 カトリック社会問題研究所 『福音と社会』 第 212 号
            読売新聞:2004年8月7日〜9月18日号・「九州こだわり歴史考・棄教の果て」
            「歴史研究」 新人物往来社 ・特集:島原の乱の謎 第322号 1988年
            「完訳フロイス日本史」(中公文庫) ルイス フロイス (著) 松田 毅一 (翻訳) 川崎 桃太 (翻訳) 全12巻
             1 織田信長篇T「将軍義輝の最期および自由都市堺」(中公文庫,2000年1月)
             2 織田信長編U「信長とフロイス」(中公文庫,2000年2月)
             3 織田信長篇V「安土城と本能寺の変」(中公文庫,2000年3月)
             4 豊臣秀吉篇T「秀吉の天下統一と高山右近の追放」(中公文庫,2000年4月)
             5 豊臣秀吉篇U「暴君秀吉の野望」(中公文庫,2000年5月)
             6 大友宗麟篇T「ザビエルの来日と初期の布教活動」(中公文庫,2000年6月)
             7 大友宗麟篇U「宗麟の改宗と島津侵攻」(中公文庫,2000年7月)
             8 大友宗麟篇V「宗麟の死と嫡子吉統の背教」(中公文庫,2000年8月)
             9 大村純忠・有馬晴信篇T「島原・五島・天草・長崎布教の苦難」(中公文庫,2000年9月)
            10 大村純忠・有馬晴信篇U「大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗」(中公文庫,2000年10月)
            11 大村純忠・有馬晴信篇V「黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国」(中公文庫,2000年11月)
            12 大村純忠・有馬晴信篇W「キリシタン弾圧と信仰の決意」(中公文庫,2000年12月)

            「村山当安に関するヨーロッパの史料」アルバレス・タラドゥリース(著) 佐久間正(訳)
            「キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで」高瀬 弘一郎 (著)  岩波書店 1993
            「福者フランシスコ・モラーレスO.P.書簡・報告」ホセ・デルガード・ガルシーア編注、佐久間正訳キリシタン文化研究会、1972年
            「キリシタン時代の貿易と外交」 著者: 高瀬弘一郎
            「看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記」 (東洋文庫 440)姜 (著)  朴 鐘鳴 (翻訳)
            「村山等安とその末裔」(自費出版)村山トシ (著) 1993
            「 日本切支丹宗門史」レオン・パジェス著  クリセル神父校閲 吉田小五郎訳 岩波文庫 昭和13年
            「細川藩史料による天草・島原の乱」戸田敏夫(著) 新人物往来社 1988
            「イエズス会による対日軍事力行使をめぐる諸問題」 高橋裕史 2006
            「坂口安吾全集 03」筑摩書房 1999号
            「日本及び中国におけるイエズス会の布教方策 −ヴァリニャーノの「適応主義」をめぐって− 55 アジア・キリスト教・多元性」 現代キリスト教思想研究会 第3 号 2005 狹間芳樹著
            「近世日本潜伏キリシタンの信仰共同体と生活共同体」 大橋幸泰著










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